日本もキリスト教を盛んにしようよ。 [無断転載禁止]©2ch.net
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2006年(主日B年) 1月29日 年間第4主日
申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
「決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」(Iコリ v.35)
使徒たちとその後継者によって指導されて、初代教会は 「基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」(使 9:31)ので、
使徒パウロも 「あなたがたは、 ・・・・・ 伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり」(ロマ 6:17)と書いています。
しかしその “教え” が信者を束縛する戒律や規則として理解されるようになったのは、後の時代になってからのことです。
使徒たちが伝えたキリストの福音は、罪の赦しの出来事の福音、私たちを来るべき怒りから救うためにキリストが再び天から来られる待望の福音でありますから、
「人が義とされるのは律法(戒律や規則)の行いによるのではなく、信仰による」(ロマ 3:28)と教えられています。
ここで結婚している男女と、そうでない独身者が話題とされているのは、決して優劣や清い清くないの問題ではなくて、“ひたすら主に仕える” という目的のためであることを理解しましょう。
そしてこの “目的”は、聖書を通して今も語り続けている使徒たちの宣教に耳を傾けることなしには、決して正しく捉えることが出来ません。
現代日本における結婚年令の高齢化や独身男女の増加現象が、聖書やキリストの福音と何の関係もないことは、言うまでもありません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2012年(主日B年) 1月29日 年間第4主日
申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった ・・・・・ 」(マコ v.22)
「・・・・・ 権威ある新しい教えだ。」(マコ v.27)
イエス・キリストは、律法がユダヤ教において果たしていた役割に代わって、「権威ある新しい教え」 として登場されました。
太古の創造の日に輝き出た光(創 1:3)は、今やキリストの御顔に輝いて(IIコリ 4:6)、永遠の命と神の国への復活を約束する救いの福音の宣教となって現れました。
ミサの “ことばの典礼” で聖書が朗読され、司祭(または司教)が説教するとき、それが会衆にキリストの福音を伝えるものであることによって、権威を持つことになります。
“キリストは自身のことばのうちに現存している。 聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語るのである。”(典礼憲章 7)
そして説教者の務めはただ一つ、神の子イエス・キリストの福音(マコ 1:1)を公式に宣べることであります。
決して律法学者のように聖書の記述を延々と法的に解釈すること(マコ 10:2,12:14)でも、あるいは魔術を使って人々の心を奪うこと(使 8:9-11)でもありません。
「・・・・・ この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(マコ v.27)
原始教会の使徒たちは、主から悪霊を追い出す権能を与えられていました(マコ 3:15)。
現代においても福音が正しく語られるところでは、悪霊が退けられます。
しかしそれは説教者の魔術によってではなくて、みことばを通して働かれる神御自身の御業なのです(マコ 6:13)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>420
> 「・・・・・ この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(マコ v.27)
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\___/ 2012年(主日B年) 1月29日 年間第4主日
申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。 あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」(申 v.15)
主イエス・キリストは、この約束の完成者として遣わされました(使 3:22-26)。
彼は律法学者のような “律法の法的解釈者” ではなくて、“律法の完成者”(マタ 5:17、ロマ 10:4/フランシスコ会訳 訳注参照)として、
信じるすべての者に義をもたらす 「新しい教え」(διδαχὴ καινὴ マコ 1:27)である福音を携えて来られました。
正しく “神のことばによって教えられ、主のからだの食卓において養われる”(典礼憲章 48)ところに、カトリック教会は存在します。
そして、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。 これは主の霊の働きによることです。」(IIコリ 3:18)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2000年(主日B年) 2月6日 年間第5主日
ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
初めに、私たちはヨブ記から、その嘆きの言葉を聞きました。
「わたしの一生は機の梭よりも早く、望みもないままに過ぎ去る。 忘れないでください、わたしの命は風にすぎないことを。」(ヨブ vv.6-7)
私たちは普段は殆ど全く忘れている “人間の悲惨” というものに、聖書を通してふと気付かされる ・・・・・ 、ということがあります。
今朝私たちは、そんな経験をしているのではないでしょうか。
今日の主日のミサで、この ヨブ 7:1-7 は、私たちの受けた救いがどんなに大きく、イエス・キリストの福音なしには人間はどんなに悲惨であるかを、教えてくれるのです。
私たちの聞かされている福音は神の国の福音です。
私たちはイエス・キリストの救いに与かって、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じて歩んでいるのです。
「わたしの命は風にすぎない ・・・・・ 」(ヨブ 7:7)、そのような人々のところに、救い主イエス・キリストは来られました。
私たちは勿論のこと、福音書に登場するすべての人々も、みんなイエス・キリストの救いなしには “滅び行く命” でしかなかったことを忘れてはなりません。 (つづき)
マコ vv.29-31
主イエスと共に、神の国の福音が力をもって働き始めていました。
福音書の中には非常に多くの奇跡物語りが語られていますが、それらは “主イエス・キリストと共に、神の国が力をもって働き始めた” ことを、私たちに教えてくれます。
マコ vv.32-34
イエスの弟子たちの目撃証言に由来すると思われるこのような報告を聞いて、私たちは神の国の福音の力に驚かされます。
マコ vv.35-39
当然のことながら、町の人たちも弟子たちも、イエスがこのような悪霊払いや病気のいやしをもっともっと続けてくれることを期待しました。
ところがそれに対してイエスは、「わたしは宣教する。 そのためにわたしは出て来た ・・・・・ 」 と答えられたことを、福音書は語っているのです。
悪霊払いや病気のいやしを止めるというのではありません。
しかし、宣教こそが第一の目的なのだと主イエスは語られたのです。
宣教 ・・・・・ 、言うまでもなくそれは “神の国の福音の宣教” です。 ____
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. └─────────────────――┘ カチ 2009年(主日B年) 2月8日 年間第5主日
ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。 それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(Iコリ v.23)
使徒パウロはその手紙の中で、200回以上も 「キリスト・イエスに結ばれている」 という言葉を使っています。
恐らくこの言葉は、「洗礼を受けてキリストに結ばれた」(ガラ 3:27)から生まれたものと考えられます。
福音にあずかるとは、洗礼を受けてキリストの共同体の一員となることであって、この教会こそが神の国を受け継ぐ 「キリストと共同の相続人」(ロマ 8:17)だからです。
彼が使徒として召されたとき、天上のイエスは 「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(使 9:16)と言われました。
やがて彼は、「わたしは使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」 と言いながらも、
「わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました」 と、感謝の言葉を述べるに至ったのでした(Iコリ 15:9-10)。
私たち教会は、これらの使徒たちを通して今も福音を聞き、救われた民の共同体である 「キリストの体を造り上げてゆき」 ます(エフェ 4:12)。
実に教会の宣教は、現代においても、使徒たちの宣教の継続であって、それは、イエス・キリストが開始された神の国がその再臨によって完成する日まで、続いて行くのです。
ですから、この教会の宣教と共にいてくださる主(マタ 28:20)が私たちを励まして、使徒パウロと同じ心にしてくださいますように。
「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」(Iコリ v.16)
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 知恵袋より引用
キリスト教徒の皆様にお伺いします。
以下にご紹介する動画の内容について、どう思われますか?
Ken Peters 患難を見たパート@
https://m.youtube.co.../watch?v=JF5w_RPdqz0
Ken Peters 患難を見たパートA
https://m.youtube.co.../watch?v=b3QahaVjS48
Ken Peters 患難を見たパートB
https://m.youtube.co.../watch?v=GLHJCE-4yeg
キリスト教でも宗派によって、聖書を字句通りに読む方、それとは異なった解釈や読み方をする方の両タイプが存在すると思います。
どちらの方からも、ご意見を伺いたいと思います。
この動画はたまたまYouTubeで見つけました。各パートが約20分程度です。
きちんとしたスーツ姿の紳士が聴衆相手に講義する映像のみですが、内容的に一気に見ることができました。 2012年(主日B年) 2月5日 年間第5主日
ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。 しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。」(Iコリ vv.16-17)
これは、使徒たちやその後継者である代々の司教、それに従属する司祭たちだけのことだと、多くの人が考えて来ました。
中世に始まる “聖職位階にある者とは教養ある人、平信徒とは教養なき人々” という考え方が、ルネッサンス以降の平信徒の台頭によって突き崩されて来たにもかかわらず、それでも今なお多くの無自覚な人々の心を支配しています。
その大きな原因の一つが、信者にせよ司祭にせよ、自ら聖書を学ぶことへの怠慢にあることは確かです。
教会憲章が、“・・・・・ 神の民について言われたすべてのことは、信徒、修道者、聖職者に平等に向けられている”(30)と述べているように、使徒パウロもここで自らの自慢話をしているのではなくて、信徒一同の啓蒙のために語りました。
ですから Iコリ 9:24 の 「あなたがた」 も、Iコリ 9:25-26 の 「わたしたち」 も、コリントの教会の信者一同を心に描いて言っているのです。
福音宣教は、信者の信仰による自発的な行為でありつつ、してもしなくても良いという意味で自由なのではなくて、ちょうど奴隷の務めのように主から委ねられたものなのです。
しかしその前提は、先ず自らが “確かに福音にあずかっている” ということであって、そのことをうやむやにして “他人に宣教する” などということは出来はしません(Iコリ 9:27)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2000年(主日B年) 2月13日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
今朝の初めの朗読に用いられたテキストは、いわゆるJ資料に属するエデンの園の物語りの一部です。
“女はなぜ苦しんで子を産むのか ・・・・・ 、男は生活の糧を得る仕事でなぜこんなにも困難と闘わねばならないのか ・・・・・ 。”
そのような人間の現実の姿を、その起源であるエデンの園の出来事に遡って説明するという形で、これらの物語りは語っています。
そのような語り方を用いて、人間が陥っている “神の前での深い罪の事実” を説き明かしている ・・・・・ 、それがこのJ資料の “原因譚物語り” の深遠な意味なのです。
男と女が結婚して、二人の間に子供が生まれるということは、本来は神の祝福でありました。
神は御自分の姿にかたどって人を創造し、これに 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」 と言われたと、創 1:28 には記されています。
同じように、人が労働によって生活の糧を得ることも、それは本来、神の祝福を刈り取ることでありました(創 2:15)。
それなのに現実の世の中では、女は苦しんで子を産み、人は多くの困難や労苦なしには生活の糧を得ることが出来ないのです。
このような日常生活の中の多くの苦しみや労苦、病気や困難の数々に、聖書は “神の前での人間の罪の姿” を見ているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2003年(主日B年) 2月16日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
キリストの福音によって、この世から罪が減少したり、罪の世の悲惨が無くなったりしたのではありません。
主イエスが与えてくださったのは、この世の平和ではありませんでした(ヨハ 14:27)。
このことについて、ヘブライ人への手紙は次のように述べています。
「“すべてのものを彼に従わせられた” と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。 しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」(ヘブ 2:8)
聖書が語るキリストの福音は、イエスのいやししの行為による社会の改善ではなくて、罪による悲惨の現実の中からの人々の救いの到来を証言しています。
ですから使徒パウロは福音を宣べ伝えて次のように語りました。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリ 3:20)
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリ 1:6)
このような訳で、私たちキリスト者はこの世に倣うのではなくて、「すべてを神の栄光を現すために」(Iコリ v.31)すべきです。
信者一人一人の自覚的な信仰と、救いの体験が生き生きしていた原始教会と使徒たちの証言に倣うことは、21世紀の教会の目標です。
実に聖書を通して語られる神のことばは、「わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩 119:105)なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 悔い改めよ
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人 2006年(主日B年) 2月12日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、“御心ならば、わたしを清くすることがおできになります” と言った。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、“よろしい。 清くなれ” と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マコ vv.40-42)
「御心ならば」 とは、文章の上では “もしあなたがそうしようと思えば ・・・、あなたにはそれがお出来になる” という意味です。
しかし、イエスは御自分の方からわざわざこの人のところに来られたのだという理解が、この物語りの背後にあるように思われます。
イエスの宣教には、病人や悪霊に取りつかれた人たちのいやしが伴いました。
それは 「神がご一緒だったから」(使 10:38)と説明されています。
福音の宣教によって救いに入れられた多くの人たちと並んで、イエスの奇跡や癒しだけを重視した人々がいたのも当然です。
しかしそれは福音の適切な理解から離れているということを、この物語りは主張しました(ルカ 4:23-30 参照)。
イエスは福音を宣教するために、その福音によって人々が救われるために(Iコリ 15:2)、御自分の方からわざわざ来てくださることを証言したのです。
このイエスの “御心” を理解することは、初代教会以来の信仰訓練の課題でありました。
現代の教会は再びそのことを思い起こさなければなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
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l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「わたしがキリストに倣う者であるように、
l ',', ,' , ´`ー-'! c, '
l ',ヽ ! 'ゝ-===、 / あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
l ', \ ``ーァ゛/
l ヽ \ `゙ ´/
l ヽ、 >‐---イ 老クリスチャン 2003年(主日B年) 3月9日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
平和は戦争を禁止あるいは放棄すれば保てるものだと考えている人は、歴史を知らない夢想家です。
ノアの契約の物語りに、人間が不要な争いを抑制すれば実現する本来の世界の姿を思い描く人は、単なる空想家に過ぎません。
この世界には戦争があり、飢饉があり、抑圧があり、貧困があり、不安があります。
しかしイスラエルは、「あなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める」(創 v.15)神を信じました。
自らの救いの御業によって、これを実現される神を信じました。
この神の救いの実現に至る歴史を、“救済史(Heilsgeschichte)” と呼びます。
新約聖書はこの救済史の枠の中で、受肉された神の子イエス・キリストの十字架と復活に至る生涯全体を理解しているのです。
福音書における主の洗礼も、主の荒れ野でのサタンからの誘惑の出来事も、実にこの救済史の一環として理解されており、ノアの契約の物語りはこの救済史の目標の神話的表現であるということが出来ます。 (つづき)
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。 正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。 あなたがたを神のもとへ導くためです。 キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」(Iペト v.18)
教会は四旬節を、特別に神の救済史における御子イエス・キリストの御業に注目する時として守ります。
洗礼志願者も会衆と共に、「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」(ヘブ 9:12 )キリストに向かって目を上げます。
この Iペト vv.18-22 は古代教会の洗礼式の式文の一つであって、私たちの罪を身代わりに負い、私たちへのサタンの攻撃を自ら引受けてくださった十字架と復活のキリストが告白されています。
私たちが共にミサをささげるとき、祭壇でお会いする方はこの復活のキリストであり、私たちは皆洗礼によってこのキリストの救いを受けました。
それは私たちが 「罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」(Iペト 2:24)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2009年(主日B年) 3月1日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」(マコ v.15)
“神の国” とは、神の支配あるいは神が王であることを意味していて、決して地図上のある国のことではありません。
新約聖書が語っている神の国という用語には、永い歴史的背景があるのですが、直接にはユダヤ教におけるメシア信仰とその黙示文学が関係しています。
それは神が御自分の民を救い、これに敵対する民を裁かれる世の終わりの時、すなわち主の日の到来を待望する信仰であって、ルカ 2:25 に 「イスラエルの慰められるのを待ち望み」 と書かれているものです(ルカ 1:54-55,68-70,2:38 参照)。
洗礼者ヨハネが 「エリヤの霊と力で主に先立って」(ルカ 1:17)現れ、差し迫った神の怒りを語った時、ユダヤ全土から多くの人々が彼のもとに来て、罪を告白し、洗礼を受けました。
ヨハネは 「悔い改めよ。 天の国は近づいた」 と叫びました。
主の日は異邦人に対してだけではなく、ユダヤ人とその宗教的指導者にとっての裁きの日であるという、古くからの預言者たちの主張が再び語られたのです(マタ 3:5-12)。 (つづき)
ヨハネが捕らえられた後(マコ v.14)、イエスはその同じ言葉で自ら語り始めます。
イエスにとってヨハネの登場は時が満ちたしるしであり(マタ 11:13)、イエスの公生涯は神の国の到来を告げ知らせるものであったと、福音書は述べています(ルカ 16:16)。
「神の国は近づいた」 ということ、それ故に 「悔い改めて福音を信じなさい」 という聖書の使信を、代々の教会は聞き続けて来ました。
イエスの宣教と奇跡は、今や神の支配が開始されたことのしるしでありました(マタ 12:28)。
しかし、それが最終的に 「力にあふれて現れる」(マタ 9:1)のは、なお将来なのです。
この、「神の国が力にあふれて現れる」 ために、イエスは自分が僕なるメシアとして苦難を受けねばならないことを、繰り返し弟子たちに語られました(マコ 8:31,9:31,10:33-34)。
確かにキリストは十字架につけられて死に、葬られ、復活して “死に打ち勝ち、信じる者に神の国を開かれた”(典礼聖歌 367:7)のです。
福音を信じるということは、私たちにとっての現在の課題であり、日ごとに新しい神からの呼びかけなのです。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ロマ 10:9)と書かれている通りです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>447-448
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ > 「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」
来る来る詐欺
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人 2012年(主日B年) 2月26日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」(Iペト v.21)
イエス・キリストの死者の中からの復活は、使徒的教会にとってその存立のまさに源泉であって(エフェ 1:19-23、フィリ 2:10-11)、私たちの教会はこの終末的な希望によって立っているのです。
カトリック教会では成人の洗礼のために、“入門式” に始まる求道期と “洗礼志願式” から始まる洗礼準備期が定められていて、入信の過程における教育の諸段階が用意されています。
また幼児洗礼によって初めから教会に受け入れられた人々のためにも、その後年令に応じて “洗礼後の求道期” が必須であり、そのために “カテケージス” が行われます(カトリック教会のカテキズム 1231)。
しかし、そこで問題なのは、そのような教育を行う司祭、修道者、また信徒の奉仕者たちが、教会が使徒継承によって受け継いで来た福音を、また洗礼の意味を、自らよく理解し、正しく教えて来ただろうかということです。
「(私たちは)洗礼によって、キリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロ 2:12)
四旬節には、すでに信者である人々にも洗礼の恵みをもう一度初心に帰って学び直し、これまでの不信仰と無知を悔いる “償いのわざ” が求められています(典礼暦年の一般原則 27)。
過越の祭儀に備える私たち一同を、“主よ、あわれみたまえ。 キリストよ、あわれみたまえ。”
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 715:老クリスチャン 2018/02/16(金) 11:12:14.41 ID:47uYWnDB
2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8015 Iペト 3:18022 マコ 1:12015
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1285440009/715
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人 > ●連続殺人犯を預言者として崇める奇痴害キリスト教●
>
> <列王記下>
> エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上っていくと、町から小さな子供たちが出て来て彼を嘲り、「禿げ頭、上って行け。禿げ頭、上って行け」と言った。(2:23)
> エリシャは振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。(2:24)
>
> 要するに「やーいハゲ頭ww」ってからかった子供に逆上して起こした連続殺人事件である。
> ブレイビク、禹範坤に次ぐ世界第三位の連続殺人犯である。
> エリシャは反左翼テロの色彩が強いブレイビクよりも、自らの不遇にファビョって殺しまくった禹範坤に近いDQNである。
> キリスト教はこういうDQN連続殺人鬼を「預言者」として崇め奉っているのである。 ____
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人 2003年(主日B年) 3月16日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
主の変容の出来事によって、三人の弟子は主の復活の日の栄光とその来臨の輝きを、いわば将来の教会の先取りとして体験することを許されました。
主イエスが 「自分を無にして、 ・・・・・ 人間の姿で」(フィリ 2:7)歩まれたときにも、彼は神であり、栄光は彼のものであったことを弟子たちが理解したのは、その復活の後になってからであったと、この物語りは証言しています。
「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(マコ v.10)
四旬節は、主の受難と復活からなる過越の祭儀に備えるための期節であります。
この期節に、信者はすでに受けた洗礼の記念と償いの業を通して、また洗礼志願者はその準備教育によって、主イエス・キリストの復活の栄光と将来の来臨の日の輝きに目を向けます。
教会はこの栄光と輝きに照らされてこそ、キリストの福音を本当に理解し、神の国を待望する信仰に生きることが出来るのだということを、この期節の各主日の聖書朗読配分は私たちに教えてくれます。 (つづき)
実は今朝の福音書の日課は、8月6日の主の変容の祝日と同じもので、16世紀の宗教改革によって誕生したプロテスタントの中のルター派の教会では、これを四旬節の始まる四週間前の主日で用いるように変更しています。
カトリック教会ではその後いつ頃からか、この主の変容の祝日の福音書の日課を四旬節第2主日にも朗読するように変更したようです。
恐らくその延長線上で理解すべきだと思われるのですが、第二バチカン公会議後の典礼刷新によって、カトリック教会では四旬節第3主日以降の各主日の聖書朗読配分が全面的に見直されました。
私たちはこの新しい主日の朗読配分によって、主の復活と来臨の栄光の輝きに照らされたキリストの福音理解と神の国を待望する信仰を、この四旬節に学んで行きます。
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。 “これはわたしの愛する子。 これに聞け。”」(マコ 9:7)
弟子たちはここで、律法と預言者の書(旧約聖書)に書かれている救済史の実現者イエス(ルカ 24:44)に「聞け」 との天からの声を聞きました。
使徒たちが理解したように私たちも主イエス・キリストを理解し、使徒たちが伝えたように私たちもキリストの福音を学ぶことは、21世紀の教会にとっての最重要な課題なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 ◆キリスト教の歴史は迫害と殺戮の歴史◆
キリスト教の残虐性はいったい何に由来するのか。
それはカトリックにもプロテスタントにも共通している。
その主たるものは下記のごとくである。
? 十字軍によるユダヤ教徒・イスラム教徒の犠牲者は何百万にも及ぶ。
? カタリ派迫害ではカトリック教徒も含めて約百万人が殺された。
? 異端審問、魔女裁判は13世紀〜17世紀まで行われ同性愛者は拷問された。
? ヨーロッパではキリスト教徒同士で宗教戦争が行われた。
? スペイン人が新大陸で先住民1千万人以上を殺した。ホロコースト
? 英人が北米でインディアン1千万人を殺し尽くした。ホロコースト
? 英人がオーストラリアで先住民をほぼ殺し尽くした。ホロコースト
? 英人がアフリカで黒人を奴隷として拉致し酷使した。
? スペイン人・ポルトガル人が日本で奴隷売買をして、秀吉を激怒させた。
? キリシタンが寺社放火、僧侶神官虐殺を行った。宗教弾圧 2006年(主日B年) 3月12日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
教会では昔から信者の教育のために、“教え” が作られ用いられて来ました。
私たちが知っているものには、かつての “公教要理” とその流れを汲む “カトリック要理” があり、近年では “カトリック教会のカテキズム” と “カトリック教会の教え” があります。
先ずこれらの書物が、使徒継承に基づいている非常に素晴らしい内容をもって構成されており、現代の教会の有益な財産であることを指摘しておきましょう。
かつては、洗礼志願者は “公教要理” の主要な部分を暗記することが要求された時代がありました。
しかし今日、カトリック教会の現役の信者の大部分にとっては、それらの書物はいわば “読まれざる名著” のようになり、旧新約聖書と共に、“誰でも知っているけれども、誰も読んだことがない書物” になっています。
それは一般の信者だけではなくて、教導職にも当てはまる現象です。
このため “福音” や “キリスト教信仰”というものへの理解が曖昧になり、教会全体が実際に主の小羊の世話をする(ヨハ 21:15-17)能力に欠けて来ています。 (つづき)
教会の現役の信者の大部分は、教会の教えに違反した落ちこぼれの信者たちや、カトリックではない他のキリスト教会で洗礼を受けた信者たちを、
「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方」(ロマ v.32)に 「選ばれた者たち」(ロマ v.33)として、受け入れようとはしていません。
現実にカトリックの小教区で、司祭も含めて大部分の信者の心にあるキリスト教の “規範” らしきものが、本来の使徒継承から、聖伝と聖書から、いつの間にか乖離してしまっているのです。
しかし、全世界のすべての洗礼を受けて義とされた小羊たちのために、天上のキリストが今朝この使徒の叫びを聞かせて、目を注いでくださっていることに感謝しましょう。
「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。 人を義としてくださるのは神なのです。
だれがわたしたちを罪に定めることが出来ましょう。 死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ロマ vv.33-34)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2012年(主日B年) 3月4日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」(創 v.8)
私たちが旧約聖書の中でこの物語りを読むとき、今語っているのはアブラハムという伝説の族長ではなくて神の民イスラエルであり、その神は伝説の中の族長の神ではなくて神の民イスラエルの “主なるヤーウェ” であり、
そしてさらにそれは、私たちの主イエス・キリストの父なる神であるという厳粛な事実に、目を開かねばなりません。
神が最も耐え難く矛盾しているように見える体験を与えられるのを、イスラエルはその歴史の中で繰り返し味わって来ました。
そこで “神はイスラエルの信仰を試しておられるのだ” と、この物語りは言っているように読めるのです。
神御自身が、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」(ヘブ 11:18)と言われた約束を否定しているように見える状況の中で、この 創 v.8 の言葉は発せられるているのです。
この神の隠れた救済意志が、後になって明らかになるという創世記の神学を、私たちはヨセフ物語りの結末の部分で聞かされます。
「・・・・・ 神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創 50:20) (つづき)
近代人の、“神は結局は何事でも我々の都合の良いようにしてくれる筈だ” という、ご都合主義的宗教理解が、聖書の浅薄な読み方から生じたことに気づくことは、私たちにとって非常に大切なことです。
創 v.8 は、“待てば海路の日和あり” という楽天主義の言葉でもないし、「万事が益となるように」 という ロマ 8:28 の言葉もそのようなご都合主義とは全く無関係なのです。
「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ロマ v.34)
私たちが聖書を学び、福音を正しく聞いて信じるのに必要なものは、救済史の神、秘められた計画を実現される神へのひたすらな信頼と信仰、そして愛です。
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された。」(Iコリ 2:9)
「神の約束は、ことごとくこの方(イエス・キリスト)において “然り” となったのです。」(IIコリ 1:20)
私たちは今日の主日のミサの朗読配分を通して、この神の御業の証言を確かに聞いているのです。
どうか洗礼の秘跡によって救いに入れられた人々が、「目に見えるものによらず、信仰によって歩む」(IIコリ 5:7)ことを学んで、神からいただいた救いの恵みと御国の希望を感謝する四旬節となりますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2000年(主日B年) 3月26日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
私たちの主イエス・キリストは人々の手によって十字架にかけて殺され、葬られ、三日目に死人の中から復活して、私たちすべての者の救い主となられた方です。
私たちはこの救い主イエス・キリストの贖いの血によって救われ、ミサをささげる民の中に加えられて、罪の赦しに与かっています。
さらに私たちは、神の国への復活の希望を抱いて、この復活の主の再臨を待望しつつ歩んでいます。
今年も四旬節のミサを守っている教会は、特にこの期節に、主イエス・キリストの受難と復活からなる大いなる救いの御業に心を向けるのです。
主イエスが地上を歩まれた当時のエルサレム神殿は、ヘロデの神殿と呼ばれ、たいへん大規模で美しい建物でありました。
既に46年も建築工事が継続していて未だ完成していなかったことから、その壮大さを十分に想像することが出来るでしょう。
「この神殿を壊して、三日で建て直す」 などということは、とうてい考えてみることも出来ない不可能事でありました。
だからこそ、ヨハネによる福音書は、これを主イエスの受難と復活の出来事の重大さを示すために対比させているのだと思います。
「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(ヨハ v.21)は、“それほど重大な、人間の知恵や能力ではとうてい不可能なことを、神は御自分の教会を贖い取るために行われた” というふうに読まねばなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
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2003年(主日B年) 3月23日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
イエス・キリストの救いは、私たちが先祖伝来のむなしい生活から贖われた(Iペト 1:18) “新しい出エジプト” であり、教会はキリストの十字架によって “新しく創造されたイスラエル”(ガラ 6:15-16)であります。
そのような理解に基づいて、教会は古くから旧約聖書の十戒を大切にして来ました。
ですからキリストの福音にしたがって適切な再解釈が行われて、信者の養成のためにこれが用いられて来たということが出来ます。
私たちはこの十戒の冒頭を、次のように再解釈します。
“イエス・キリストは私たちの主なる神、私たちを罪と死の世界から贖い出して神の国を受け継ぐ民としてくださった。 だから私たちには他に神があってはならない” と。
安息日に関する戒めは、教会がミサをささげるために集まる主日の理解に援用されて来ました。
十戒を単なる優れた道徳の教えのように考える人々が、昔から絶えませんでした。
しかし教会が主日のミサでこの十戒を朗読するとき、それはキリスト教会に対して語られる神のことばを聞くためであることは、言うまでもありません。
そうであるなら、私たちは旧約のイスラエルの民を教会の会衆に読み替え、エジプトからの脱出の出来事をキリストの死と復活による救いに置き替えて、この十戒に耳を傾けるのです。
出 vv.12以下 の戒めが、そのような新しいキリストの福音の光に照らして再解釈されなければなりません。
「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」 というヨハネ福音書の言葉が、私たちの心から覆いを除いてくれます(IIコリ 3:14-16)。
四旬節の恵みが、ミサをささげる会衆の上にありますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
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゙ ゙ヽ /':: "::::/::::::::: : 2012年(主日B年) 3月11日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(ヨハv.21)
教会はキリストの体であって、聖霊が宿ってくださる神殿であること、そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、そして信者一人一人もこの神殿の生きた石として用いられて、「キリストの体を造り上げていく」(エフェ 4:12)という話を、
現代のカトリックの子らはどの程度実感をもって理解しているでしょうか。
カトリック教会における秘跡の実効性は、この教会に基礎をおいているのです。
典礼憲章は “キリストの神秘体である教会” という表題の下で、「神の子は、 ・・・・・ 御自分の死と復活によって死を克服し、それによって人間を贖い、
・・・・・ 自分の霊を与えることによって、諸国民から呼び集めた自分の兄弟たちを、自分の体として神秘的に構成したのである」(7)と説明しています。 (つづき)
共観福音書では受難物語りの中に置かれている “神殿から商人を追い出す” 話が、ヨハネ福音書ではイエスの宣教の冒頭部分に移されたのは、
今や教会を通して 「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時」(ヨハ 4:23-24)が始まったことを、明言するためでありました。
そして同時に、その時代の教会の実態がすでに、ともすると 「商売の家」(ヨハ v.16)、つまり個人的で主観的な満足を第一に考える私的結社になる危険性を持っていたことに、警告を発しているようにも読めるのです。
ヨハ vv.23-25 はもしかすると、“あなたの信仰は本物ですか?” という当時の信者一人一人への鋭い問いかけを暗示している可能性があります。
いずれにしてもヨハネ福音書は vv.18-22 で、イエス御自身の復活と、その結果としてのキリストの体である教会の誕生という二つの事柄を、福音宣教の基本的前提として再確認しているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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2000年(主日B年) 4月2日 四旬節第4主日
代下 36:11〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
エフェ vv.4-6
私たちはミサの中でイエス・キリストの御聖体に与かるために、先ず悔い改めと信仰によって洗礼の秘跡を受けました。
典礼憲章の14項は、すべての信者のミサへの参加について述べて、「キリストを信ずる民は、 ・・・・・ 洗礼によってこれに対する権利と義務を持っている」 と言っています。
「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」(エフェ v.5)とは、このすべての信者が受けた洗礼の秘跡のことであり、
それに続く 「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェ v.6)はミサ、特にその中の感謝の典礼のことを指しています。
ここで説明しておかねばならないことは、“地上の教会が主日ごとに守っているミサ、特にその中の感謝の典礼” は、将来の “神の国での天上の礼拝” のいわば先取りのようなもの、あるいはその保証(エフェ 1:14 参照)なのだということです。
地上の教会で私たちがささげているミサは、“天上の礼拝と結びついているのだ” ということを、エフェ v.6 は言っているのです(典礼憲章 8 参照)。
私たちはこのことを忘れてはなりません。 (つづき)
ミサを司式する司祭は、「キリストの代理者としていけにえをささげ、神の民の集いを司会する」 と説明されていますが(ミサ典礼書の総則 4)、そのキリストとは “天上のキリスト” のことで、
復活して今は父の右におられるキリストが、私たちのミサに臨んでくださるのです。
やがて終りの完成の日には、私たちは神の国に復活して、天上のミサに参加する民となるのです。
歴下の朗読と、それに続く今朝の答唱詩編(典 28)は、このように神の国を待望しつつミサを守る私たちを励ましてくれます。
特に答唱詩編で歌われた 詩 137 は、神の国の別称である “天のエルサレム” での将来の礼拝を待望する信仰の歌として、古くから教会で愛唱されて来ました。
「信じない者」 ではなくて、「御子を信じる者」 である私たち会衆は、この “天のエルサレムを待望する歌” を歌って、復活祭儀に向かって今年の四旬節も備えて行きます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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2009年(主日B年) 3月22日 四旬節第4主日
歴下 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
「御子を信じる者は裁かれない。 信じない者は既に裁かれている。 神の独り子の名を信じていないからである。 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。 それが、もう裁きになっている。」(ヨハ vv.18-19)
肉となってこの世に宿られた “神のことば”(ヨハ 1:14)なるキリストは、死者の中から復活して天に昇り、栄光を受けられました。
しかし、それは主とその栄光がこの世を去ったということではありませんでした。
今やキリストは弁護者なる聖霊として戻ってこられ(ヨハ 14:18)、信じる人々と一緒に住んでくださる(ヨハ 14:23)。
キリストは宣教する教会の “福音のことば” として、共におられます。
ですから 「光が世に来た」 とは、歴史の教会にとって常に現在の事柄であって、従ってキリストの福音を信じているか否かにより、“神のことば” の剣によって裁かれるというのも(黙 19:11-16)、すでに現在の事柄なのです。
主イエスが不法の者たちを御自分の口から吐く息で殺すという表現が、再臨の日の裁きとして描かれていますが(IIテサ 2:8)、その起源は イザ 11:4 にあり、それが 黙 1:16,2:12,16,19:15,21 では “神のことばの剣” になっているのです。 (つづき)
神のことばなるキリストが、救いであると同時に裁きでもあるという、ヨハネ福音書および黙示録の語るメッセージを深く聞くことが、現代の教会に求められています。
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハ v.14)
この人の子が上げられるという言葉で、ヨハネはキリストの福音を表現しました。
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25)
「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ロマ 8:34)
この十字架の福音を、教会は聖伝と聖書によって、現代に至るまで守り受け継いで来ました。
それはすべての人に対して公にされていて、“聞く耳のある者” (マコ 4:9)は聞くことが出来ます。
ですからカトリック教会では神の啓示に関する教義憲章が、「教会の教えも、キリスト信者の信仰そのものも、聖書によって養われ、規定される」(21)、「聖書を知らないことは、キリストを知らないことである」(25)と明確に宣言しています。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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> 「御子を信じる者は裁かれない。
>信じない者は既に裁かれている。 神の独り子の名を信じていないからである。
>光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。
>それが、もう裁きになっている。」(ヨハ vv.18-19)
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l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「わたしがキリストに倣う者であるように、
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l ',ヽ ! 'ゝ-===、 / あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
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l ヽ、 >‐---イ 老クリスチャン 2012年(主日B年) 3月18日 四旬節第4主日
歴 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、−−− あなたがたの救われたのは恵みによるのです。」(エフェ v.5)
キリスト教関係の雑誌や新聞の数々の記事を読んでいて、私がいつも不満に思うのは、このキリストの贖いと罪の赦しという福音の核心が語られることが非常に稀だということです。
その昔西行法師が伊勢神宮に参ったときの有名な歌に、“なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる” というのがあります。
そのように現代の教会は、“神様が いつもニコニコしているキリスト教 なにごとの おはしますかは 知る人ぞなし” という状態なのです。
しかしカトリック教会は、世を聖とされる神の働きにすべての信者が豊かにあずかれるように、第二バチカン公会議を経て典礼の刷新を進めて来ました。
ですから私たちが現在のミサ典礼書について学ぶとき、「この刷新によって、典礼文と儀式が示す聖なることがらが、明白に表現された」 ことと、
「キリストを信じる民が、聖なることがらを ・・・・・ 理解し、 ・・・・・ 意識的、行動的にこれに参加」 するよう求められていることを、尊重しなければなりません(典礼憲章 21,33)。
私が自分のインターネットサイトに、★典礼について★ という題で書いている中から、以下の文章を紹介しておきましょう。
|| 多くの教会で、オリエンス宗教研究所発行の 「ともにささげるミサ」 が使われていますが、誤解してな
|| らないのは、これはみんなが自分たち独自のミサを工夫したり作り出すための資料ではないというこ
|| とです。 決して独自の解釈や工夫を加えてはなりません。 そうではなくてこれは、「ローマ・ミサ典礼
|| 書の総則」 に沿って実際にミサがささげられるための要約書、ないしガイドブックなのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2000年(主日B年) 4月9日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜10 ヨハ 12:20〜33
救われてミサをささげる民となった私たち教会にとって、イエス・キリストの十字架の死とそして復活は、最も重要であるだけではなくて、最も深く私たち自身の救いに関わっています。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハ v.24)
この節はイエス・キリストの死と復活を指していて、それによって神の教会が生み出されて来たということを語っています。
しかしこの節は、ここではその “前後関係の中で” 語られていることに意味があるのです。
祭りのときに ・・・・・ 、ギリシア人たちがイエスのもとへ来ました。
一世紀末の教会は、その大部分が異邦人たちの集まりでした。
“ギリシア人” という呼び名は、ギリシア語を話す異邦人全体を表しています。
イエス・キリストの死によって、そのような異邦人が罪から贖われて教会に集められ、ミサをささげる民となったのでした。
そのような、ミサをささげる会衆である異邦人たちに向かって、続く ヨハ vv.25-26 が語りかけていることを理解しましょう。
私たちの救いは、主イエス・キリストの死と復活に深く関わっています。
イエス・キリストを信じて洗礼の秘跡を受け、ミサをささげる民となった私たちは、主の死に結びつき、主の復活にも結びつくのです。
イエス・キリストの救いは、私たちを死から救って、御自身の復活に与からせ、永遠の命に至らせてくださる救いなのです。
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人 2006年(主日B年) 4月2日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
「何人かのギリシア人が ・・・・・ 。 彼らは ・・・・・ “お願いです。 イエスにお目にかかりたいのです” と頼んだ。」(ヨハ vv.20-21)
初代教会の宣教は当初のユダヤ人から間もなく異邦人世界へと向けられ、ギリシア人を始めとする多くの異邦人がイエス・キリストの救いを受けて、交わりに加えられて行きました。
民族宗教としてのユダヤ教から世界宗教としてのキリスト教へと、初代教会を導いた決定的要因は、イエス・キリストの死と復活による“罪の赦しと永遠の命の福音” でありました。
キリストの死と復活に結ばれる洗礼の秘跡(ロマ 6:3-4)によって、異邦人がユダヤ人と共に神の国を受け継ぐ者、同じ約束にあずかる者となる(エフェ 3:6)ことが出来る時代が始まったのでした。
ヨハネ福音書はこの出来事、キリストの死と復活という決定的な出来事に、私たちが注目するように導きます。
「人の子が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハ vv.23-24)
「今こそ、この世が裁かれる時。 今、この世の支配者が追放される。」(ヨハ v.31)
イエス・キリストの死を、単なる偉人伝や、私たちのための高度な道徳の手本のように考えてはなりません。
それは、神がその独り子を “罪を償う供え物”(ロマ 3:25)として、“時が満ちて”(ガラ 4:4)歴史の中でお与えになった事件でありました。
ですから私たちも、決して単なる入信の儀式としてではなくて、“キリストと共に葬られ、その死に与る”(ロマ 6:4)ために洗礼を受けたことを理解しましょう。
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人 2012年(主日B年) 3月25日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブ v.8)
この 「従順」 とは、私たち罪人に代わっての従順であって、御子は 「過ちと罪のために死んでいた」(エフェ 2:1)私たちの間に受肉して(ヨハ 1:14、ガラ 4:4-5)、
私たちに代わって 「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ」(ヘブ v.7)てくださったのです。
それが、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」(IIコリ 5:18)と宣べ伝えられている福音の内容であって、このような使徒たちの宣教こそが “ともにささげるミサ” を現代においても意味のあるものにします。
人が救いを得るためには、ミサに出席することと並行して、使徒たちによる福音証言を自らしっかりと聖書から学ぶ必要があるということなのです。 (つづき)
私たちのミサで、エレミヤの預言は実現しました。
しかし私たちは、今朝の第二朗読で語られている神のことばを理解しているでしょうか。
感謝の典礼の奉献文で、“これはあなたがたのために渡される、わたしのからだ”、“これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血” と司祭が唱えるとき、
それはあなたにとっての信仰の実感となっているでしょうか。
私たちは使徒たちから伝えられた福音をしっかりと学んで、“小さい者も大きい者も神を知る”(エレ v.34)ことが必須の時代に生かされていることを、心から感謝出来るようになりましょう。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 ・・・・・ わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです。」(ガラ 2:19-20)
四旬節を通して教会は今、過越の神秘の祭儀に備えて歩んでいます。
良い備えが出来て、今年も復活の祭儀で会衆一同が、ミサの閉祭のあいさつに心からの “アレルヤ” を加えることが出来ますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
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