ローマカトリック教会20170328 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>619
まずヨハネ・パウロU世はイラク戦争に明確に反対した
http://catholic-katsura.life.coocan.jp/iraq.htm
それをふまえて「絶対平和主義ではない」という枢機卿の言も判断するべき
論旨を歪めてはならない
シーレーンが自衛権の範囲などというのも拡大解釈 そもそも原始教団が「イエスはキリストです」と自己の信仰を表現したときに歴史的に具体的要素と人間に普遍的な救済者への探求を表現する普遍的な概念とか結合せられたのです。⭐
ヨハネの福音書に典型的に見られるように当時の哲学的概念の採用してるわね😃 >>620
ローマ教皇庁の正義と平和評議会議長のタークソン枢機卿が来日した時に
日本のカトリック新聞による悪意ある質問を見事にかわしています。全文は検索したら出てくるでしょう。
これがタークソン枢機卿の公式見解ですよ。カトリック新聞と正義と平和協議会は同じ政治思想を持っています。
なぜか日本の正義と平和協議会は名称をバチカンと同じように正義と平和評議会にしない。別組織か?不思議だ。 >>622
同じ文章を見ているのに見解が違いますね。
イラク戦争直前のローマ教皇庁国務省トーラン外務局長とニコルソン駐バチカン米大使との会見は
主権国家同士の公式会見ですよ。発言の趣旨を歪めているのはあなたです。
また「航行の自由」は国際法に定められいます。シーレーン上での自衛権の行使は国際法で認められています。 カタリ派虐殺、十字軍によるイスラム虐殺、正教徒虐殺、エノラ・ゲイ神父同乗の原爆投下幇助
バチカンは立派なテロ国家だわなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>624 情報をありがとうございます。
教皇庁には、「正義と平和評議会」 (the Pontifical Council for Justice and Peace) は
すでにないようで、現在は "the Dicastery for promoting Integral Human Development"
が正義と平和を含む活動をしているようです。いくつかの Press Release も出されています。
ttp://w2.vatican.va/content/francesco/en/motu_proprio/documents
/papa-francesco-motu-proprio_20160817_humanam-progressionem.html
これは 2016 年 8/17 に出された文書です。この文書に、 2017 年 1/1 から
"the Pontifical Council for Justice and Peace" を含む 4 つの評議会が統合されるだろう
と書いてあります。 ----
† エペソ6章10-12節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
---- >>625
前後の脈絡から枢機卿の言葉の意味は
”自分たちは絶対平和主義を奉じるわけではないが、イラク侵攻は自衛権の行使ではないよ”
と解すべき
イラク戦争時のアメリカ艦船支援が国際法で自衛権の行使と認められると本気で思ってるの? 不正、格差、差別、人種差別、暴力、飢餓と戦争の原因を取り除かなければなりません。
しかし完全に取り除いたら我々の飯の種がなくなるので結果行きつく先は優性思想なのです。
実社会で口に出せばおわちゃいますので啓示しときます。
我々も所詮、弱者を食い物にしているクズなのですが、
ここで自己否定すると滅びに至るので、われわれの搾取の仕組みを妨害する勢力がすなわち悪というわけなのです。
聖書物語に執着する文法ヲタは良いカモネギ様です。ありがとう。 >>627
あれ?本当だ。バチカンの正義と平和評議会議長のタークソン枢機卿が2017年1月で退任している。
これで悪しき団体である日本の正義と平和協議会は大義名分を失った。速やかに解散しなさい。
正平協は善を良しとするが用いず悪を憎むが排除せず構成員を制御できず組織も治められない。 >>629
トーラン枢機卿は「誰だってテロリズムと戦う必要は認めるはずです」と言っています。
あなたはトーラン枢機卿の発言を歪めて解釈していますね。
イラン・イラク戦争が終結した時にアメリカとイギリスの要請により日本は海上自衛隊掃海部隊を派遣しました。
米英海軍はイラン側の海域を掃海出来なかったからイランの友好国である日本に艦艇派遣を要請しました。
明確な自衛権の行使です。日本が掃海しなかったらイランのカーグ島沖に石油タンカーが沈んでいたでしょう。
もちろんイラク戦争時の日本の海上自衛隊艦艇の派遣も同じ自衛権の行使です。 >>631 Cardinal Peter K. A. Turkson(Turkson 枢機卿)は、
"the Dicastery for Promoting Integral Human Development" (人間開発のための部署
邦訳は仮称) の president です(2017 年 6/13 の時点では)
Press Release
ttps://press.vatican.va/content/salastampa/en/bollettino/pubblico/2017/06/13/170613e.html
カトリック中央協議会 バチカンの組織
ttps://www.cbcj.catholic.jp/catholic/vatican/ 何をイラついている?
あれか?
あれが聞いてるのか? >>614
2009 年 3 月 8 日 四旬節 第 2 主日 B 年の「聖書と典礼」 の 7 page に、
「典礼における「神の名」に関する指針について」、が掲載されています。
それによると、「聖書学で神聖四文字の本来の発音が「ヤーウェ」「ヤハウェ」などである
との学説が有力となり、現代語訳聖書ではそのように表記しているものもあります。
・・・。典礼委員会訳詩編でも一部が「ヤーウェ」と記されています。」
ミサの時に、神父様からこの事についてもう少し詳しい説明があったと記憶しています。 トウがたったバーコード頭たちの見世物興行、3軍選手ののショウケース、手抜きの地方巡業 トウがたったバーコード頭予備軍たちの見世物興行、3軍選手ののショウケース、手抜きの地方巡業
こんなことしても赤字なんだよね。 2002年(主日A年) 9月8日 年間第23主日
エゼ 33:7〜9 ロマ 13:8〜10 マタ 18:15〜20
十戒は二つの部分から成っていて、前半は神への愛を、後半は人への愛を命じています。
それはいわば二つの部分から成る全体で一つの戒めであって、決して一方だけを他方から切り離して考えることは出来ません。
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ 19:18)がこの十戒の後半の要約であるなら、申 6:4-5 はその前半の要約であるということが出来ます。
「聞け、イスラエルよ。 われらの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
この十戒の関心事はただ一つ、「イスラエルの共同体」 であります。
新約聖書の教会は、これを新しいイスラエルである自らへの神のことばとして受け継いだのでした。
ですから 「互いに愛し合う」(ロマ v.8)という概念は、“主を愛すること” と “共同体としての教会” の双方から切り離して考えることの出来ないものなのです。
さらにこの用語法を正しく理解しようと思うなら、私たちは ヨハ 13:34-35 を十分に考慮しなければなりません。
「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
その関心事は先ず第一に、共にミサをささげる共同体としての教会であることを、私たちは決して忘れてはならないのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2011年(主日A年) 9月4日 年間第23主日
エゼ 33:7〜9 ロマ 13:8〜10 マタ 18:15〜20
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。 言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(マタ v.15)
マタ v.18 の言葉が、主がペトロに(マタ 16:19)、また使徒たちに(ヨハ 20:23)委ねられた鍵の役割と同じ表現なので、多くの人が軽率にも “自分にも他人を断罪する権威があるかのように” 思ってしまいます。
人間はもともと遺伝的に攻撃性を受け継いでいるものなので、“悪を征伐する” ことが好きなのです。
その昔我が国では、“天に代わりて敵を討つ” という軍歌が声を大にして歌われました。
第一回十字軍が1099年にエルサレムの征服に成功したとき、神殿の丘は凄惨な虐殺の場となり、“騎士たちは血の海の中を進軍した” とさえ言い伝えられています。
「あなたに対して」 彼らは何か悪いことをしたのですか。 あなたは相手からどんな被害を受けたのですか。 自分の意見に賛成しない者には直ちに切腹を命ずるバカ殿様とは、あなたのことではありませんか。
この(ルカ 17:3-4 の関連箇所も含めて)テキストは、ここでは Iコリ 6:1-8 で取り上げられている “日常生活にかかわる争い” の処理を考えているに過ぎません。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタ v.20)
“罪の赦し” は本質的に神の権威に属する事柄であって(マコ 2:7)、“御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた”(ヘブ 9:12)キリストが与えてくださるのです。
私たちキリスト者は洗礼を通して、このイエス・キリストとの交わりに招き入れられました(Iコリ 1:9)。 (つづき)
かつてラッツィンガー枢機卿(現教皇)は、「洗礼において、一なる教会への扉が開かれる。 ・・・・・ 教会にいるすべての者は、どこにいてもそこが我が家である」 と書きました。
私たちは、日常生活に関わる争いを処理するに際して、いつも 「キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです」(ロマ 14:15)ということを思い起こすなら、その結果は 「兄弟を得たことになる」 に違いありません。
人の子エゼキエルは、主から 「イスラエルの家の見張り」 とされました(エゼ v.7)。
私たちはエゼキエルを通して神のことばを聞くのです。
しかし間違ってはいけません。
聖書は、あなたにエゼキエルの真似をせよとは述べていないのです。
自分が神のことばを聞くのではなくて、「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタ 23:4)、そんな勇ましい論客が多いのです。
それでは、どうして “兄弟を得る” などということが出来るでしょうか。
聖書のあちこちを断片的に食い散らかして、勝手に自分が現代のエゼキエルにでもなったような気分で発言しているような人とは、“かかわりを持たないように”(テト 3:10)しましょう。
どうかあなたにとって、この “聖書の学び” が、本当にキリストの福音を聞き取るための助けとなりますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より The New American Bible, Revised Edition (NABRE) released on March 9, 2011
by United States Conference of Catholic Bishops
the footnote of Matthhew * [16:22-23] (およその意味) Peter の拒否は、ことの、認める、
Jesus の予言された受難と死を、見なされる、として、サタンの特徴を示す企て、ための、
そらす、Jesus を、から、(彼の)神 - 前もって定められた行動の仕方、そしてキリストの
十二使徒の一人 (Peter) は、呼びかけられている、で、言い方、を思い起こさせる、
Jesus が放免すること、のことを、悪魔、における、荒れ野の試みの記述
(Mt 4:10: 「去れ、サタン!」)。Peter のサタンの特徴を示す意図は、強調されている、
によって、Matthew が加えること、に対して、聖マルコの資料、のことを、神の言葉、
「あなたは、である、障害、に対して、私」。 聖書センター 雨宮慧神父様 新約聖書ギリシャ語辞典
Satanaas サタナース Satan サタン B・四旬・1
(1)(「サタン」と「サタナース」の二つの語形がある。前者はヘブライ語の音写で、不変化
であるが、後者はアラム語の音写であり、語形変化をする)文字どおりには「反対者」を意味
する。新約聖書と初期キリスト教文書では、、神と神に属するすべての者に敵対する者として
の「反対者」を表す。サタン
(v)誰かをサタンに引き渡す
▼マタ一六23
▼マコ八33
(ここでは、ペトロがイエスからサタンと呼ばれる。ペトロは、自分の主人が人間のために
苦しむという神から与えられた使命から逸れるようにと試みたが、それは、ペトロを悪魔の
一種である誘惑者、つまり、神の救いの計画を邪魔しようとする者とした。そのためにペトロ
はサタンと呼ばれるのである) >>642 "satanic" を、characteristic of Satan すなわち 「サタンの特徴を示す」に
置き換えました(妥当な置き換えかどうかはわかりませんが)。 2014年(主日A年) 9月7日 年間第23主日
エゼ 33:7〜9 ロマ 13:8〜10 マタ 18:15〜20
「二人または三人がわたしの名によって集まるところに、わたしもその中にいるのである。」(マタ v.20)
聖書というものが、“これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない”(申 13:1、黙 22:18-19)という閉じられた文書であることの意味(神の啓示に関する教義憲章 4,10 参照)を、現代の司祭も信徒も真面目に考える必要があります。
と言うのは、一般には非常に主観的で勝手な読み方がまかり通っているからです。
新約聖書は元来使徒たちの宣教を伝えるために編集されたのだということ、そして神は聖書全体を用いて今もキリストの福音を語り続けておられるということを、正しく理解しましょう。
聖書を生み出した当時の教会は、4世紀にローマ皇帝によってキリスト教が公認されるまでの間、一般社会から孤立した “閉じた共同体” でありました。
新約聖書は、そのような教会が自治責任を持っていることを強調しています(マタ v.17、Iコリ 5:12-13,6:1-6)。
主日だけ、祭や行事のある日にだけ集まって来て、普段は信者がこの世の市民として生活している現代の教会とは、背景が全く違うのです。
この違いを無視すると、聖書の中のいろいろな言葉が、本来の背景とは全然関係なく一人歩きし始めます。 (つづき)
福音書が編集された時代には、キリストの名によって集まっている二人または三人とは、たとえどんなに少数であっても信者が “共にミサをささげている” ところには ・・・ 、という意味で語られたのであって、
“どんな願い事であれ ・・・ 心を一つにして求める”(マタ v.19)という言葉を “教会を造り上げるため”(Iコリ 14:26)という本来の目的から切り離して解釈してはならないのです。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、 ・・・・・ 教会に申し出なさい。」(マタ vv.15,17)
これも多くの人が誤解しているように、教会はこの世の悪や罪を糾弾する検察官であるという意味ではありません。
実はほとんどの現代の読者が “あなたに対して” という部分を見落として読んで、そう理解しているのです。
しかも現代の教会で私たちは、信者が他人の陰口を叩くのを聞くことはあっても、実際に信者間の争いを教会が仲裁する(Iコリ 6:5)というような場面を経験することは皆無に等しいのです。
どうして、その血によって贖われ(エフェ 1:7)、キリストに結ばれてその体の部分となる者として(ロマ 12:4-5)、“兄弟を得たことになる”(マタ v.15)などと言えるでしょうか。
“互いに愛し合いなさい” という聖書の呼びかけは、ほとんどの場合各地の具体的な信者の共同体を念頭に置いて書かれました。
お互いがキリストに結ばれて一つの体を形づくっている(ロマ 12:5)、そのような “隣人”(ロマ vv.9-10)たちの間では、“互いに愛し合う” ことが “教会を造り上げる” ことと本質的に結びついているからです。
しかし、キリストの体であるという教会の共同体性から切り離して、愛を個人の私的な道徳や責任の一つのように理解するなら、それは聖書の元来の背景から切り離された別種の概念、福音とも律法とも関係のない “ただの世の知恵”(Iコリ 1:20)になってしまいます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>646-647
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>403
TBSの報道特集で大阪コリアタウンが放送されていたのだが、
インタビューを受けていた在日一世が、どう見ても戦後生まれなんだわw
戦前、戦中に朝鮮から無理やり連れて来られた年齢ではない。
在日朝鮮人の大半は戦後に自国の内戦から逃れてきた連中だよ。(朝鮮戦争)
日本のせいにすれば正当化できるとでも勘違いしてるんだろうね。 >>623
カルトとか弱小分派ほど「原始教会」「初代教会」とか連呼するけど、
秘跡はキリストの時代から在るんだよね。
秘跡を否定しているような連中に正統性など無いよ。
現代でも秘跡を継承しているのは、カトリック教会と正教会だけ。 「自分らしさ」なんてない。
どのような瞬間であれ自分です。
全ての瞬間に責任を持ちましょう。 9月18日から福音宣教省長官のフィローニ枢機卿が日本の教会を視察するために来日されます。
フィローニ枢機卿が日本の司教団にあてた書簡にはきつい言葉が書かれています。日本の司教団は叱責されなさい。 >>652
なんだよ?きつい言葉って。なんであんたに分かるのよ? >>653
フィローニ枢機卿の書簡なら東京大司教区のお知らせに全文が載っていますよ。 24時間テレビは創価学会だったね。
偽善的すぎて違和感を覚えていたけど納得だわ。
創価学会には宗教らしい聖性が感じられない。
程度の低いおまじない邪教。 >>294
「言論弾圧だ!」と騒ぐ腰抜けどもがいる。
朝日新聞や東京新聞のバカどもだ。
誰か処刑でもされたか?投獄でもされたのか?
難癖付けて大騒ぎするだけの悪質クレーマーにしか見えないね。 独裁や軍国主義に反対している偽善者どもは、
北朝鮮について何も言わない。
独裁者の恫喝に屈することがお前たちの正義なのか?
平和国家の日本を独裁呼ばわりして、本物の独裁国には沈黙か?
追記
>>657のレスは>>284宛てに訂正。 誤レスついでに桜井誠の「不敬罪」についても触れておこうか。
尊敬は強要するもんじゃない。模範的な人格者なら普通に尊敬されるものだ。
銃を向けながら「将軍様バンザイ!」と強要するのが尊敬か?
不敬罪は北朝鮮と同類だろう。 一緒に放射能を浴びるのが慈愛だろうか?w
「政府は放射線量を隠蔽している」と主張していた連中が
「福島は安全」と反対の偽証を始めやがった。
偽善者どもには一貫性が無い。
目立ちたいだけの自己顕示が動機だからだよ。
福島は危険だよ。
若い人は、子孫を残す人は、絶対に行くべきではない。
福島に行った聖職者どもは全て偽善者です。 >>552
国の法律と教会の戒律は別物だろう。
同列に論じるお前は詭弁的。
教義は堕胎、離婚、同性愛、を永遠に認めない。
人間の都合で変わるなら、それは神から来たものではなく、
人間が作り出した偶像にすぎない。
ローマ教皇、結婚は1人の男性と1人の女性の間のもの 「私たちはそれを変えられない」
http://www.christiantoday.co.jp/articles/24416/20170908/pope-marriage-is-only-between-man-and-woman.htm 北朝鮮がミサイル実験を繰り返してる今年でも
数十年以上も前の大戦を話題にして反戦してるバカどもは「過去志向」なのか?
重要なのは現在と未来だろう。
平和国家を独裁呼ばわりして、独裁国には沈黙してる臆病者だよ。 行政手続きとしての婚姻と教会の秘蹟としての婚姻を一緒くたにするから話がおかしくなるんだわな そんなこと言うけど教義を作ったのが人間だからなあwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>652-655
私も 「福音宣教省長官フェルナンド・フィローニ枢機卿からの書簡」 を読ませていただきました。
>>652 日本の司教団は叱責されなさい。
この書簡が取り上げている 「司教の父性の実行」 と、現場である小教区での 「司祭たちの中の分裂、司教への尊敬と司教との協力の欠如」 という問題は、あなたには無関係な他人事なのでしょうか。
教会憲章は、「司祭は自分の権能の行使において司教に依存している ・ ・ (すなわち)結ばれている」 と述べています(28)。
これと同様に信徒も、(その使徒職の行使において)司祭に依存しているのです(教会憲章 37 参照)。
以前に南山大学監修で出版されていた時には 「従属している」 と翻訳されていましたが、現在の改定公式訳では 「依存している」 と改められた意味が分かっていないと、今回の書簡の趣旨も理解できません。
司教と司祭の間に、そして司祭と信徒の間に、父と子としての愛、兄弟としての愛が今以上に大切にされることを、この書簡は訴えているのです。 >>665 「今回の書簡の趣旨も理解できません」
あなたは理解できているのですか?
次の箇所も大切だと思います(あなたにとってはどうでもよい箇所かもしれませんが)。
「司教様、とりわけ、自分の個人的な教えによって人々を過ちに導き、また人々を
罪と死の罠にかけて、自分が盗人となり羊を搾取する牧者の罪ほど(ヨハネ10:1参照)、
キリストの体である教会を苦しめるものはありません。」
「司祭個人の聖性は、司祭の司牧的配慮に託された人々、自己犠牲と寛大さの精神で
仕えるべき人々によって感じられるものでなければなりません。司祭の祈りの生活は内部
からその使徒職を養います。ご聖体を愛する司祭たちが大いに必要とされています。
というのは、司祭たちはご聖体から司牧的な使命のための深い目的を引き出すのです。」 >>665
> 「司教の父性の実行」
寛容なフリした偽善者どもは優しい厳しさである父性を理解しない。
福岡の司教は覚醒剤中毒の司祭を庇ったつもりが最終的には司祭が逮捕された。
聖職の務めを果たさないどころか麻薬中毒の犯罪者にまで堕ちた司祭を庇うのが慈愛だろうか。
教会はクズ司祭やダメ修道者の生活保護をする場ではない。
聖職の務めと完徳の義務を果たしていない者は叩き出すべきだろう。 ハレサクや倉田などの支持者どもはファリサイ派よりも劣るクズ連中だったよ。
少なくともファリサイ派にはロジックがあったが、ハレサク派は幼稚な感情だけ。
根拠を示して正論を言ってる者を「ファリサイ派」と呼んで貶めるのは御心に義とされない。
主キリストも父性的だよ。母性的とか勘違いしてる遠藤周作と支持者は滅びたほうがいい。
新約の厳しさを知らないのだろうか。 >>668
聖職の務めすら果たさず、覚醒剤を乱用していた司祭を教会で生活保護するのがお前の正しさなのか?
サタンは善悪が真逆の主張をする。お前はサタンに属してるんだよ。
堕胎、離婚、同性愛、これらを擁護してる連中もサタンに属している。
教義とは逆のことばかり言ってるからね。 寛容なフリした偽善者ども
・宗教改革という分裂を祝うのが寛容だと勘違いしている。
・外国人の権利を優先するのを寛容だと勘違いしている。
・「いいんだよ」と教えるわりには自らへの批判に耐えられず狭量。
・聖母や主キリストよりも他宗教との交流を重視しすぎる。
・支持しない政治家には厳しいが、聖職者の犯罪は隠蔽する。
・平和国家を独裁と呼び、本物の独裁国には擁護するような態度。
・反核と反戦を平和国家に要求し、平和を乱してる独裁国には沈黙。
・日本人の拉致被害者については触れないが、朝鮮人の人権ばかりを主張する。 >>670
まあそうイキりなさんな、別にファリサイ派なのがいかんとは言ってないよ。
律法=ロジックという理屈だと律法を放り出して「神を愛せ、隣人を愛せ」なんて
幼稚そのもの、ってことになるけど、それもひとつのイエス像だろう。 カトリック正義と平和協議会は未信者の部外者を登用していたが、
それはもう「カトリック」とは呼べないし、信仰ではなく政治団体だろう。
カトリック信仰が無い部外者に活動させるのは宗教団体として扱えない。 >>673
ロジックの意味すら知らないのか。
ファリサイ派による主キリストへの攻撃は論理性があったが、
ハレサク擁護派はまともな反論さえ出来なかった。
根拠も論理も無い連中だからね。 「自分自身あるいは自分の家族のために快適な人生を整える」
"seeks to “arrange” a life of comfort for himself or for his family"
「自分の家族」 "his family " は何を意味しているのでしょうか? 親族のことを指すの
でしょうか? そりゃまあ司祭にも親兄弟はいるし、妻子持ちの人だっている。 介護士にシバかれたおされたあげく屋上から投げ捨てられる老後の安心介護がすべて >>661
私の関わった1980年代のプロテスタント福音派の教会の母教会の牧師は、
中高生が参加しているキャンプの集会で、ノアの三人の子供のうち、
黒人の祖先はノアの裸を見たので呪われていると言っていました。
黒人が奴隷として、こき使われていた歴史を、正当化する人が
いまだにいるのです。こうした歴史を見れば、キリスト教徒が
神聖ではないことがはっきりしています。それもこれも、インチキ霊能者の
パウロが始めた宗教だからです。
私は、福音派は個人商店の薬局だと考えます。
聖書を認可したのは、厚生労働省であるカトリック教会です。
パウロのインチキは、科学的にはっきりしています。
ローマ教皇に、パウロの罪を認め、十字架のイエスに謝罪してもらいましょう。 >>670
カトリック教会の教えは何も正しくありません。
性は多様性をもったものです。100%男女に分化していない
事が科学によって証明されています。
染色体の形がXYでもない人が多数存在します。
また、いろんな性を持って生まれついた人を差別することは許されません。
人が人を愛することは、根源的な人権であり、
宗教といえども、それを阻止できません。
正しい、愛であれば、正しい、実を結ぶのです。
その愛に性差はないとはっきりしています。
パウロの罪は、同性愛を精神性攻撃し、神の罰を受けて、
同性愛に引き渡され、異常な性欲だと書いたことです。
同性愛は異常ではないのです。パウロの罪を
十字架のイエスに謝罪してください。異常な人が、死が二人を分かつまで、
お互いを助け、励まし、看病し、慈しみ合い、寄り添い、暮らしていく事は
できません。同性愛は正常です。同性愛者に人権を返してください。
カトリック教会は、パウロの罪を認め、謝罪してください。 同性愛については実質的に公式に謝罪してる。
ttp://www.afpbb.com/articles/-/3091898 教会が同性愛者を育ててるんだからなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2010/10/post-1671.php >>665
>以前に南山大学監修で出版されていた時には 「従属している」 と翻訳されていましたが、現在の改定公式訳では 「依存している」 と改められた意味が分かっていないと、
>今回の書簡の趣旨も理解できません。
もし件の第二ヴァチカン公会議教会憲章ラテン語原文そのものが改定されたのなら、御説も分かりますが、
そのまま、一言一句変わってはおりません!大事なのでもう一度云います。使徒座が発布した原文はそのままで、
邦訳を変えたものに、私はまったく意味などないと考えますがね。まあそれは人それぞれでしょうから良いでしょう。
司祭は裁治権者にして上席たる司教の目下ですよね?
教会では至極「あたりまえ」のことですのでいまさら述べるまでもないのですが、
件の箇所は、その司教監督権の範囲で司祭は司祭職たる権能とを行使できると解すべきでしょう。
もっと平たく申さば、教区司祭(以下不敬なれど敬称略)は司教に属し、司教は枢機卿または教皇に属し、その裁治権と監督権を超えない
範囲内に於いてのみ、己が役割を果たせるのですよという、聖なる教会位階の尊重と恭順を命じているのですよ。
私には件の文脈から
>父と子としての愛、兄弟としての愛
という意はぜんぜん読み解けませんけれどね、まあ人それぞれなんでしょう。 貧乏神の代理人ローマ教皇フランシスコがコロンビアを訪問中に車が急停車して負傷した。罰が当たったか? 連投スマソ >>665 >>685の続きです。
>「司祭たちの中の分裂、司教への尊敬と司教との協力の欠如」
本来あってはならないと思いますし、あまつさえ、平信徒が信徒使徒職やら、
正義となんたらの等、やたら多い運動でもって、それを扇動したり誘導したり、あるいは本意ならずも招来してしまった
事例があったのですか?
私はミッション向きじゃないし、興味もないのでよく知りませんが、そうじゃあないでしょう!!
「信者の時代」それでも平信徒に関係があると連動させ縛るのは、あまりにも自虐的で、酷な話ではないかな?
まあ人それぞれのお考えでしょうけどね。私の分まで頑張って御働き下さいな。私は生臭い諍いはまっぴら御免です。
そういうのからは一番遠いところに居たい。教会の大いなる栄えたる翼は広いからです。↓♪
ttps://www.youtube.com/watch?v=Ed-s2twsvOE 日本は宣教地とされローマ教皇庁福音宣教省の指揮下にあります。
福音宣教省長官イヴァン・ディアス枢機卿の時代に新求道共同体の件で日本の司教団がトラブルを起こしています。
岡田・池永・高見大司教と溝部司教が新求道共同体を日本から排除しようとして上司である福音宣教省を飛び越して
ローマ教皇ベネディクト16世に何度も直訴をやらかしました。当然、越権行為なので福音宣教省と対立しました。
来日する福音宣教省長官フィローニ枢機卿はこの件をよく知っておられ今回の辛辣な書簡となったわけです。 「そう思って読むとそう読める」というレベルの話でしかないね。 >>688 それに巻き込まれた信者さんがいらしたのなら、たまったものではなかったでしょうね。
酷なことを云うなら―下手なミッションをやると火傷を負う―教訓にもなったでしょうが…。
この際です。各司教閣下は、きっちり模範と責(落とし前)を果たされるのでしょう。
それを黙して、よくよく観させて頂くのがよろしいでしょうね。
―汝等、鳩の如く素直、亦蛇の如く賢かるべし― >>690
あなたは知っているでしょう?高松司教区で新求道共同体に関連して司教が告発されて裁判になった件。 >>691 知りませんし知りたいとも思いません。
そういう諍いとは一番遠いところに居たいと云っております。
まあ人それぞれでしょうから、関わりたいのであれば、好きになさったらよいとは思います。
ちなみにその新なんとかという組織にも特段興味はありません。 >>690
ご存じなかったようなので、下記のサイトをご紹介します。
当時の状況を知るための参考になさってください。
http://www.geocities.jp/hyuga1951/ あー。 まことのちんちんが忘れらんない。
華奢な草食系男子なのにあの黒々したキレッキレのカリクビとのギャップがたまんないわ
隆々しいまことのちんちんが水面で揺れる初秋のお月様に映っていてわたしの直腸が疼くの。
兄まさひこより >>682
しつこいな、おまえ
同じ主張の繰り返しじゃねーか。
聖パウロより以前に旧約聖書で厳しい戒律がある。
パウロが勝手に教義を作り出したというのは曲解にすぎない。 平和国家の日本へは反原子力で反対し、
北朝鮮の核開発には沈黙する日本司教団。
こいつらに大義も正当性も無いだろう。 パウロがユダヤ教徒、特にファリサイ派など戒律大好きな人々向けに
福音を改竄して語った、というのは聖書学的にほぼ間違いないよね? >>693 ご親切と受け取らせて頂きますが牧師先生、私は知りたくない、興味がないと申し上げて居りますよ?
私には向いてないですし、興味もありませんが、先生の推される「宣教」とやらには、
先ず相対する他者の立場や考えに耳を傾けられ、理解なさるのも必要なのではないですか?
そうでなければ、御説を教え広めるにも、難があると思いますがね。
まあそれも人それぞれ、各人各様なのでしょう。
この件は私の分まで、すべて牧師先生にお任せしますよ。どうぞご存分に御働きあれ。
けだし、人の一生は儚くも短いのです。
ttps://www.youtube.com/watch?v=-UUVckY2W2A 俺が出張している間に嫁が余所の男と腰を振っていた。
世の中そんなもん。 もちろん嫁ってのは、まことのことだけどね。
まぁ世の中そんなもん。 >>692 お久しぶりです これを読まれたら嫌な気持ちに無理にさせられたことを少しは
忘れられることができるかもしれません(文書に引用されている教皇様の説教です)
カトリック中央協議会 Catholic Bishops' Conference of Japan
教皇ベネディクト十六世の聖香油のミサ説教 2009/04/09
ttps://www.cbcj.catholic.jp/2009/04/09/5569/ 2017年に1953年のジャズを聴く こレってイケてるよね 大嫌いな日本の司教団だが、ネオカテに関しては、日本の司教団支持だった。w
しかし、ローマは、新求道共同体を承認したようですね。(伝統主義者は追い出すのにww)
ネオカテの宣教師さまも、日本にも派遣されてくるんでしょう。(どんどん?ww)
うちはカトリックだけども、これで、さっぱりとローマカトリック教会から離れる気になった。
自分にとっては、かえってよかったとおもう。
キリスト教信仰もやめたwwwww
キリスト教はあほ宗教、そのとおりです。
はいはい、地獄 地獄wwwwwww♪ ♪ >>702 訂正 これを -> 次を
>>699 これも良いです。CD "Time of the Templars Box set (Naxos)" の曲でしょうか?
YouTube の曲に伴った説明が少なくて、この CD の曲かどうかがわかりません。
もし CD の曲であるならば、
Disk 2, 5. Dirigatur, gradual in mode 7 (Liber Usualis, No 1060a)
だと思います。Naxos の CD は値段が高くなくて、助かります。 >>703 そう思われているのであればイケているのではないでしょうか? 人それぞれですから
cf. YM0 増殖 良い物もある 悪い物もある + The End of Asia (by R. Sakamoto) の途中まで
ttps://www.youtube.com/watch?v=3N4IOg3AcQw 「沈黙」つまらなかった。
オールドファン向けなのだろう。 >>702=706 お気遣いありがとうございます。大丈夫ですよ。
牧師先生のタイプは、小教区には普通にいらっしゃいますから、
いちいち嫌な気持にさせられていたら始まりませんからね。今更ですw
相手を慮り、言い方に気を付けなければなりませんが、
「イヤなものはイヤ。出来ないことは出来ない」とハッキリさせるのは、
大切だと思いまして。
寛容や従順と、盲目的従属や言いなりとは、異なるでしょうw
さて、件の曲は、ご指摘の通り、年間第二十一主日および第三十二主日の昇階唱、
‘Dirigatur oratio mea’です。相通じて下さり、嬉しく思います。
詩編 141(140) 編のテキスト、メロディーともに秀逸だと思いますね。
恥ずかしながら、我が矜持でもありますので、牧師先生にお示しさせて頂いた訳なのですが、
霊性や、眺めそのものが異なってらっしゃる様ですので、如何なものでしょうか…
まあ、そのうちお分かり頂けるでしょう^^
― 我が祈りを立ち香の如く、御身に上(のぼ)らしめまつる。
而して我が手を夕べのいヽけヽにヽえヽの如く、御身に上げまつる。 ― 9/14 十字架称賛(祝日)
カトリック中央協議会 Catholic Bishops' Conference of Japan
教皇ベネディクト十六世の2005年9月11日の「お告げの祈り」のことば 十字架と聖体
2005/09/11
ttps://www.cbcj.catholic.jp/2005/09/11/1374/
聖務日課の共同祈願 先唱句より
「主よ、十字架上でいのちをささげられたあなたの愛を悟らせてください。
兄弟と苦しみや心の痛みを分かち合い、惜しみなく自分を与えることができますように。」 朝鮮人と朝鮮新報
自分に都合の良い判決は勝訴を大々的に喧伝し、
敗訴したら「不当判決」と駄々をこねるゴミクズども。
コイツらは法治国家を理解しない。
ソクラテスは不当な判決でも受け入れた。
判決を選り好みするのは法を軽んじてるんだよ。
朝鮮新報と在日朝鮮人は幼児だね。
旧約聖書 ヨブ記
「私は神から良い物を受けてきた。ならば悪い物も受け取るべきではないか。」 2002年(主日A年) 9月15日 年間第24主日
シラ 27:30〜28:7 ロマ 14:7〜9 マタ 18:21〜35
教会共同体の一員である私たちが兄弟であるだれかの罪を赦すことについて、マタイ福音書は “主の祈り” の解説のところで次のように述べています。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタ 6:14-15)
マタ v.21 のペトロの質問に対しても、主イエスは同様の答えをされました。
しかしこれに並行する ルカ 17:3-4 にも、私たちは注目しなければなりません。
そこにはこう述べられています。 「悔い改めれば ・・・・ 」 「“悔い改めます” と言ってあなたのところに来るなら ・・・・・ 」。
赦すことと、うやむやにして忘れてしまうこととは、決して同じではないのです。
マタイ福音書の譬え話をよく注意して読むと、マタ v.31 が重要な鍵になっているのが分かります。
「仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。」(マタ v.31)
教会の仲間たちは、このような罪をうやむやにして忘れてしまってはならないのです。
教会の仲間の一人に対する罪は教会に対する罪であり、それは教会の頭である主への罪なのですから、教会は “あるいはつなぎ、あるいは解く”(マタ 18:18 ) ことを主から求められるのです。
教会がこのような重い責任を十分に理解するときにこそ、初めて逆説的に、マタ v.35 は私たちへの主の大きな恵みの語りかけとなるのではないでしょうか。
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタ v.35)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>712
おまえ有罪ね
罰は一生ボッチ
まあ今と変わらんが >>695
旧約のおきてを持ち出すのなら、月に一度は動物をほふり、
空き地であぶって、奉げ物にしなければなりません。
そんな行為をしたら、現代社会では、警察に連行されます。
イエスがこの世にもたらしたのは、立証法と、人権思想です。
イエスの十字架はこの世に、立証法と人権思想の種を蒔くための
犠牲です。
パウロの罪ははっきりしています。
宗教禁忌を決めたから罪ではなく、
同性愛者が神の罰を受けて、神から見放されているかのような
自分の思想を勝手に書いて、神の言葉だと偽ったことに
罪があるのです。
ローマ書のパウロの言葉には、人を精神性攻撃した
罪があります。この罪は永遠の地獄に裁かれるに値する
罪です。わたしはパウロが地獄に落ちていることを確信しています。
イエスは再臨されれば、カトリックと福音派の裁くでしょう。
イエスは生前、自分が罪を救うために死ぬとは言っていません。
パウロの贖罪説はインチキです。
イエスは「種」を蒔くために死ぬと言っていました。
イエスの蒔いた種は、人権思想、隣人愛、そして立証法です。
ですから、パウロの罪は十字架のイエスに対する罪です。
パウロの罪を十字架のイエスに謝罪してください。
私はローマ教皇が罪を認め十字架のイエスに謝罪して同性婚を公認するヴィジョンを
神から頂いています。最初私が言っていたら、カトリック教徒が
このスレッドで笑っていました。しかし、いまやそれは近づいているのです。 キリスト教も仏教も、次代によって、変化しているのじゃ The New American Bible, Revised Edition (NABRE) released on March 9, 2011
by United States Conference of Catholic Bishops
the footnote of Leviticus * [19:17-18] (およその意味)これらの節は、形成している、
一つの構成単位を そして、述べている、異なる態度と行いを、に対する、自分の仲間の
イスラエル人。一つの独立した節は、必要である、勧告するために、類似の態度を、
に対する、異邦人 (vv. 33-34). Cf. 25:39-46. 訓戒、の、最後、の、18 節、は、ようになった、
見られる、において、ユダヤ教とキリスト教、として、一つ、の、主要な戒律
(See Mt 22:34-40; Mk 12:28-34; Lk 10:25-28; cf. Mt 19:19; Rom 13:8-10; Gal 5:14)。
新約聖書は、熱心に説く、愛を、敵対者達に対する、同様に、(広義の)隣人達と
(Mt 5:43-48; Lk 6:27-36; cf. Prv 25:21-22). 2005年(主日A年) 9月11日 年間第24主日
シラ 27:30〜28:7 ロマ 14:7〜9 マタ 18:21〜35
旧約聖書を神の民イスラエルの聖なる文書群として読むことは、私たちキリスト者にとっての基本的前提でなければなりません。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」(申 7:6)というモーセの言葉が、全旧約聖書の背景として響いているのです。
そのような主の民の間で、人が隣人に対して憤りや怒りを抱き続けることを、シラ書は戒めました。
人間は誰でもそのような憤りや怒りの感情を生まれながらに持っていて、しかもそれを自分で制御するのに苦労しています。
しかしそれは主の民(教会)の間では信仰によって制御されなければならないのです。
なぜならそこではそのすべての民が、「キリストはその兄弟のためにも死んでくださった」(ロマ 14:15)人々だからです。
そうであればこそ尚更、それは一般的な美徳や道徳ではありませんから、キリスト者は “教会を破壊する罪” に対しては毅然とした姿勢で対処する責任を持っています。
「わたしたちは皆、(終わりの日に)神の裁きの座の前に立つのです。」(ロマ 14:10)
私たちキリスト者一人一人の口の言葉と心の思いが、主の御前に喜ばれますように(詩 19:14)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています