ローマカトリック教会20170328 [無断転載禁止]©2ch.net
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2002年(主日A年) 3月17日 四旬節第5主日
エゼ 37:12〜14 ロマ 8:8〜11 ヨハ 11:1〜45
四旬節は、主イエス・キリストの復活の勝利を祝う過越の神秘の祭儀を準備する期節です。
「キリストは人間にあがないをもたらし、神に完全な栄光を帰するわざを、主のその過越の神秘によって成就され、
ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになった。」(典礼暦年と典礼暦に関する一般原則 18)
私たちキリスト者は、神の国への復活を目標としている民です。
ですから私たちはすべての主日と祭日のミサの中で “信仰宣言” を唱え、次のように告白します。
「からだの復活、永遠のいのちを信じます。」(洗礼式の信仰宣言、使徒信条)
「死者のよみがえりと、来世の生命とを待ち望む。」(ニケア・コンスタンチノープル信条)
「イエスは言われた。 “わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。”」(ヨハ vv.25-26)
ラザロの復活の物語りは、主イエスが私たちに与えてくださっている (復活に至る) 永遠の命を、劇的な仕方で見せてくれます。
終わりの日に起こるキリストの救いの完成を、この奇跡は指し示していました。
ヨハネ福音書が書かれ、諸教会でこれが朗読されるようになった頃、恐らくこのラザロを含むヨハネ福音書の登場人物たちはみな死んでいました。
しかしそのラザロも、この福音書に耳を傾けている第二第三世代のキリスト者たちも共に神の国に復活する希望を、人々はこの奇跡物語りに励まされて確信することが出来たのです。
ですから冒頭の主イエスの言葉をはさんで、教会の信じている希望がマルタの口を通して語られています。
「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」(ヨハ v.24)
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハ v.27)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 『老クリスチャンの長文コピペ』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視して見せる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望して見せる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。プロテスタントの歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリックを変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目にはファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンをだれも注意しなかった。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2011年(主日A年) 4月10日 四旬節第5主日
エゼ 37:12〜14 ロマ 8:8〜11 ヨハ 11:1〜45
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ロマ v.11)
御子イエスが、ただ一度御自身を献げることによって永遠の贖いを成し遂げられた “いけにえ”(ヘブ 7:27, 8:12) は、父なる神の愛であったことを(ヨハ 3:16、Iヨハ 4:10)、ここで強調しておかなければなりません。
神はキリストを通して私たちを御自分と和解させてくださいました(IIコリ 5:18)。
従って、私たちの信仰と希望は神にかかっているのです(Iペト 1:21)。
私たち教会の内に宿っておられる聖霊は、“弱さのゆえに (ただ一度) 十字架につけられたが、神の力によって勝利し、生きておられる”(IIコリ 13:4) キリストの霊なのです。
ですから救われた私たちは今、神の力によってキリストと共に復活にあずかる希望を誇りとして(ロマ 5:2)、歩んでいます。
教会に与えられている希望は、私たちが現に見ている “この世のもの” に対する希望ではありません(ロマ 8:24-25)。
私たちは、信条の中で宣言する “復活と永遠の命” を、 “死なないですむ” “死なないようになる” などという意味に誤解してはなりません。
キリスト教の葬儀は、しばしば実際行われているように、“死の恐怖”(ヘブ 2:14-15) を美しく覆って隠すようなものであってはならないのです。
そのようにして、どれほど多くの人々が聖書の語る希望について、盲目にされて来たことでしょう。
教会は “ラザロの復活” という “伝えられた事件” そのものに、救いを見出したのではありませんでした。
そうではなくて、罪と死と悪魔に勝利して復活されたキリストによって、神が罪のために死んでいた私たちを新しく生まれさせ、約束してくださった終わりの日の復活の希望を誇りにしているのです。
四旬節の典礼を通して、私たち会衆の信仰の目がまっすぐに、勝利者キリストに向けられますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より _,. -‐、────- 、
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エゼ 37:12〜14 ロマ 8:8〜11 ヨハ 11:1〜45
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ロマ v.11)
御子イエスが、ただ一度御自身を献げることによって永遠の贖いを成し遂げられた “いけにえ”(ヘブ 7:27, 8:12) は、父なる神の愛であったことを(ヨハ 3:16、Iヨハ 4:10)、ここで強調しておかなければなりません。
神はキリストを通して私たちを御自分と和解させてくださいました(IIコリ 5:18)。
従って、私たちの信仰と希望は神にかかっているのです(Iペト 1:21)。
私たち教会の内に宿っておられる聖霊は、“弱さのゆえに (ただ一度) 十字架につけられたが、神の力によって勝利し、生きておられる”(IIコリ 13:4) キリストの霊なのです。
ですから救われた私たちは今、神の力によってキリストと共に復活にあずかる希望を誇りとして(ロマ 5:2)、歩んでいます。
教会に与えられている希望は、私たちが現に見ている “この世のもの” に対する希望ではありません(ロマ 8:24-25)。
私たちは、信条の中で宣言する “復活と永遠の命” を、 “死なないですむ” “死なないようになる” などという意味に誤解してはなりません。
キリスト教の葬儀は、しばしば実際行われているように、“死の恐怖”(ヘブ 2:14-15) を美しく覆って隠すようなものであってはならないのです。
そのようにして、どれほど多くの人々が聖書の語る希望について、盲目にされて来たことでしょう。
教会は “ラザロの復活” という “伝えられた事件” そのものに、救いを見出したのではありませんでした。
そうではなくて、罪と死と悪魔に勝利して復活されたキリストによって、神が罪のために死んでいた私たちを新しく生まれさせ、約束してくださった終わりの日の復活の希望を誇りにしているのです。
四旬節の典礼を通して、私たち会衆の信仰の目がまっすぐに、勝利者キリストに向けられますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>6
ルカによる福音書18・9ー14
自分を義人と信じ、他の人をさげすむ者については、こんなたとえを話された、
「二人の男が祈ろうと神殿に上った。一人はファリサイ人で一人は税吏(ぜいり)だった。
ファリサイ人のほうは立って心の中でこう祈った、
〈神よ、私は他の人のように、貪欲な人、不正な人、姦通する者ではなく、またこの税吏
のような人間でもないことを、あなたに感謝いたします。私は週に二度断食し、全所得
の十分の一をささげています〉と。
税吏は離れて立ち、目を天に向けることさえせず、胸を打ちながら、
〈ああ、神よ、罪人の私をおわれみください〉と祈った。
私は言う。この人は義とされて家に帰ったが、先の人はそうではなかった。高ぶる人は
下げられ、へりくだる人はあげられる」。 2002年(主日A年) 3月24日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マタ 27:11〜54
今日の受難の主日に、カトリック教会で三年周期で各福音書の主の受難の物語りが朗読されるとき、その朗読配分では毎年必ず同じ旧約聖書と使徒書のテキストが組み合わされていることを、私たちは感謝をもって受け止めたいと思います。
私たちの救い主は、イザヤ書の苦難の僕として侮辱されののしられて、私たちすべての人の罪のために、私たちに代わって神から見捨てられるという形で、十字架の死をとげてくださいました。
それは御自分を遣わされた父なる神への、“十字架の死に至るまでの従順” (フィリ 2:8) でありました。
総督ピラトによる裁判で、ユダヤ人たちはこぞって叫びました。
「その血の責任は、我々と子孫にある。」(マタ v.25)
この民の叫びをマタイ福音書は、それが朗読される教会の会衆一同に当てはめて理解するように求めているのです。
受難の主日のミサを共にささげている私たち一同は、主を十字架につけたその血の責任が他ならぬ私たち自身にあることを知らなければなりません。
その私たちのために私たちの救い主は、死に至るまで従順に、苦難の僕の道を歩み通されたのでした。
私たちは多くのキリスト教メディアを通して、いろいろな種類のキリスト理解やいろいろな種類の福音を聞かされています。
ある人々はそれらの中から自分の気に入るものを選んで、おのおの自分独自の宗教観に立っています。
しかし大多数のキリスト者たちは、どれを選びどれに信頼したら良いのか分らないで、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(マタ 9:36) というのが実状なのではないでしょうか。
カトリック教会のミサの聖書朗読配分は、歴史の教会がキリスト教信仰と福音理解についてどのようにこれを受け継いで来たかを、現代の私たちに教えてくれるのです。
多くのキリスト理解や多くの種類の福音があるように思われても、一・聖・公・使徒継承の教会にとっては唯一のキリスト、唯一の福音があることを、ミサの聖書朗読配分は代々の時代にわたって証しして来ました。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ,,..,,_
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人 2008年(主日A年) 3月16日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マタ 27:11〜54
「イエス再び大声で叫び、息を引き取られた。 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、 ・・・・・ 」(マタ vv.50-51)
福音書の記録を、ただの事実の記録としてだけ考えて、あたかもかつての使徒たちがこれを解釈することによって当時の教会の宣教を創り出した資料であると考えてはなりません。
このような誤解から、今の時代への新しい福音を聖書から読み出すというような試みが、しばしば繰り返されて来ました。
福音書はそれ自体、使徒たちの宣教の伝承を保存している文書なのであって、歴史的事実はこの宣教の要素としてその中に含まれているのです。
ですから私たちは、使徒たちによってキリストの福音として解釈される以前の “生 (なま) の事実” を読んでいるのではありません。
だからこそ、それらは “福音書” なのです。
聖書によれば、死とは罪の支払う報酬であり(ロマ 6:23)、神から見捨てられることです。
すべての人はやがて必ず死を迎えます。
しかし通俗的なキリスト教は、それが神から “もうお前は要らない” との判決を受けることだとは、認めようとしません。
そこで、イエスがそのような “神に見捨てられる死” を遂げられたという福音書の証言を、あれはただ詩篇22編の句を歌っただけだと説明して処理することが行われて来ました。
私たちはそのような死と葬儀の扱い方に、あまりにも慣れ切っているのではないでしょうか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 映画「インフェルノ」で首が後ろに回転して固定している人を見た。老クリスチャンよ、お前のことだ。 2011年(主日A年) 4月17日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マタ 27:11〜54
「神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」(フィリ vv.6-7) 方が、外ならぬ神御自身であったということこそが、使徒たちが伝えた福音の核心であります。
実に贖いの恵みは神の賜物であって、人の業ではありません(ロマ 3:27-28、エフェ 2:8)。
しかもこの福音は、私たち信者の間で “実を結んで成長する”(コロ 1:6) のです。
私たち救われた民は、あらゆるこの世の苦難と不信仰に耐えつつ、使徒と共に宣言することが出来ることを感謝しましょう。
「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。 人を義としてくださるのは神なのです。 だれがわたしたちを罪に定めることが出来ましょう。
死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ロマ 8:33-34)
「主なる神が助けてくださるから ・・・・・ 」(イザ v.7)
私たちはイザヤ書の “僕の歌” で、“人となられた神の子イエス” に思いを馳せます。
キリスト教の歴史においては、その早い時期から、イエスを “限りなく神に近づいた偉大な人間” として説明する人々がいました。
使徒たちの伝えた福音に無知であると、なるほどイザヤ書の “僕の歌” は十分にそのように解釈出来るのです。
聖書をその全体において読むということの大切さは、いくら強調しても強調しすぎるということはありません。
信者は、先ずその全体を “あるがままに読む” というところから出発しなければなりません。
カトリックでもプロテスタントでも、信者だけでなく教導職までもが、“聖書を読む” という単純で基本的な修練を欠いているために、現代の教会は使徒たちが伝えたキリストの福音を健全に理解することから、かなりひどく逸れてしまっているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ___|二ニー-、、;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:|;::;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:l
/rヽ三三三三三─‐-- 、;:;:;:;:;:;:;:|;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;l
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',、、ヾ三三'" ̄ ̄ `ー‐" ヾ-'" .〉′
ヽ ヽヾ三,' :::..,. -‐- 、 _,,..-‐、、,'
`ー',ミミ ::.弋ラ''ー、 i'"ィ'之フ l
/:l lミミ ::::.. 二フ´ l ヽ、.ノ ,'
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_,. -‐"i .|::::::::::::::::::',.',. \ ⌒ヽ、,ノ /ヽ,_
" l ヽ:::::::::::::::::ヽヽ. \ _,_,.、〃 /l | ___,. -、
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ヽ \`ー-、::::::ヽ ヽ  ̄フフ::::::::::::::ノ ./ ,.-''"´ / ̄,./´ ゝ_'ヲ
`ー-二'‐┴┴、__/‐'‐´二ー'".ノ / _,. く / ゝ_/ ̄|
 ̄`ー─--─‐''" ̄ / にニ'/,.、-t‐┴―'''''ヽ
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【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ここもマムシの巣になってるではないか。
羊たち(カトリック信徒)は牧場から小屋の中に非難して出てこない。
マムシが牧場から出て行くのをじっと待っている。
草をはめないんだよ。
ささやかなバスターズの皆さんが、ヘビ退治に勇気をもって出向いてきておられ
ますが。 >>15 訂正
×非難して出てこない。 ○避難して出てこない。 浜松教会って跪き台あるの?
聖体拝領は跪いて舌で?
平信徒にカリス触らせてない? マテオによる福音書 第23章1ー15節
そのとき、イエズスは群衆と弟子たちに話された、「律法学士とファリサイ人は、モーゼの教壇を
占めているから、彼らの言うことを守り行え。だが彼らの行いを真似てはならぬ。
彼らは口で言うだけで行っていない。また重荷をくくって他人の肩にのせ、
自分はそれに指を触れようともせぬ。
その行いは他人に見せるためで、経札(きょうふだ)を広くし、服の房を大きくし、宴会の上席、
会堂の上座、広場での敬礼、他人から〈ラビ〉と呼ばれることを好む。
あなたたちは〈ラビ〉と呼ばせてはならぬ。あなたたちの教師はただ一人であり、みなは兄弟である。
地上の者を〈父〉と呼んではならぬ。あなたがたの父は天にましますご一人(いちにん)だけである。
〈指導者〉とも呼ばせてはならぬ。指導者はひとりキリストだけである。あなたたちの中でいちばん
偉大な者は、みなのしもべにならねばならぬ。みずから高ぶる者は下げられ、みずからへりくだる者は
上げられる。
のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリサイ人よ。あなたたちは他人(ひと)の前に天の国を閉ざし、
自分も入らず、入ろうとする人が入るのもゆるさぬ。(のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリサイ人よ。
長い祈りをとなえて、やもめの家を食い尽くすあなたたちは、もっとも厳しい審判を受けるだろう)。
のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリサイ人よ。あなたたちは一人の改宗者をつくるために海と陸
を巡り、つくってのちそれを自分に倍するゲヘナの子にする。 マテオによる福音書 第23章16ー33節
のろわれよ、盲目の案内人よ。〈聖所を指して誓っては何にもならぬが、聖所の黄金を指して誓えば
誓いを果たさねばならぬ〉とあなたたちは言っている。愚か者、盲目の者どもよ、黄金と黄金を聖なるもの
とする聖所とどちらが尊いか。〈祭壇を指して誓っては何にもならぬが、その上の供え物を指して
誓えば誓いを果たさねばならぬ〉とも言う。盲目の者どもよ、供え物と供え物を聖なるものとする祭壇
とどちらが尊いか。祭壇を指して誓う者は、祭壇とその上のものすべて指して誓うのである。神殿を
指して誓えば、神殿とその内に住まわれるお方を指して誓っているのである。天を指して誓えば、
神の座とその上に座したもうお方を指して誓っているのである。
のろわれよ、偽善者の律法学士ファリサイ人よ。あなたたちは、はっか、ういきょう、いのんどの
十分の一を納めながら、【律法のいちばん重大な正義と慈悲と忠実を無視している。】先のをも無視すること
なく、後のをこそ行わねばならぬ。盲目の案内人よ、あなたたちはこばえをこし出して、らくだをのみこむ。
のろわれよ、偽善者の律法学士ファリサイ人よ。あなたたちは杯(さかずき)と鉢(はち)の外側を
清めるが、内側は強奪と放縦(ほうじゅう)に満ちている。盲目のファリサイ人、まず杯(さかずき)の
内側を清めよ。そうすれば外側も清くなる。
のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリサイ人よ。あなたたちは白く塗った墓のようだ。外はきれいでも
内は死人の骨とさまざまな汚れに満ちている。外は他人の目に義人のように見えても、内は偽善と不義
に満ちている。
のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリサイ人よ。あなたたちは預言者の墓を立て、義人の碑(いしぶみ)
を飾って、〈われわれがもし先祖の時代に生きていたら、預言者の血を流した人たちに加わらなかったものを〉
と言う。つまりあなたたちは預言者を殺した者の子だとみずから証明している。あなたたちは、自分の先祖
のますを満たしている。【へびよ、まむし族よ、地獄の罰を避けられると思うな。】 >あなたたちの教師はただ一人であり、みなは兄弟である。
ファッ… >>18 「兄弟」の意識が彼 (>>13) には欠落しているのではないかと思います。
コリント人への第一の手紙 1:10-31 口語訳新約聖書(1954年版)
1:1 0 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、
あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないよう
にし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。
1:11 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に
争いがあると聞かされている。
1:12 はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」
「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と
言い合っていることである。
1:13 キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために
十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、
パウロの名によってバプテスマを受けたのか。
1:14 わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたの
うちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。
1:15 それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、
だれにも言われることのないためである。
1:16 もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。
しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。
1:17 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを
授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を
用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が
無力なものになってしまわないためなのである。 >>22 の続き
1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかる
わたしたちには、神の力である。
1:19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを
むなしいものにする」と書いてある。
1:20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。
神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、
神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を
救うこととされたのである。
1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。
このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、
異邦人には愚かなものであるが、
1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、
神の知恵たるキリストなのである。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。
人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、
身分の高い者も多くはいない。
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、
強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や
軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。
キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、
義と聖とあがないとになられたのである。
1:31それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。 詩篇 第24篇 口語訳旧約聖書(1955年版)
ダビデの歌(「都上がりの歌」the "song of ascent" )
24:1 地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。
24:2 主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。
24:3 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。
24:4 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、
偽って誓わない者こそ、その人である。
24:5 このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。
24:6 これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、
み顔を求める者のやからである。〔セラ
24:7 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:8 栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。
24:9 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:10 この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。〔セラ 2002年(主日A年) 3月31日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
“使徒たちの証言” は、ヨハネの洗礼から始まって主の昇天に至るまでのものです。(使 1:21-22 参照)
復活後の主イエスが使徒たちに神の国について話し(使 1:3)、「御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと ・・・・・ 」(使 v.42) お命じになったことを、教会は聞いて来ました。
初代教会の人々と同じように、現代のキリスト者である私たちもこの使徒たちの証言によってキリストの福音を信じているのです。
21世紀へと向かって歩み始めた現代の教会は、この使徒たちの証言の計り知れない重みを再認識する必要があります。
カトリック教会は聖伝と聖書という 「互いに堅く結ばれ、・・・・・ 同一の目的に向かっている」 神の啓示の伝達を大切に考えていますが、
それらは 「主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことば」 の証言を伝えるものであることを、私たちはよく理解しなければなりません(神の啓示に関する教義憲章 9)。
第二バチカン公会議は典礼憲章で、「信者に神のことばの食卓の富を豊かに与えるために、聖書の宝庫を今まで以上に広く開かなければならない」(51) と定めました。
私たちの知る限りでは、日本のカトリック教会では未だ一般信者が聖書そのものに親しむ風潮は、あまり普及しているとは言えないと思います。
しかしこれから21世紀のカトリック教会で一般信者が聖書を学ぼうとするとき、警戒しなければならないことがあります。
それは私たちキリスト者が聖書を学ぶということは、それによって “聖書の中から新しい福音を発見したり、新しいイエス像、別なキリスト像を作り出すのではない !! ” ということです。
それは20世紀の、特にプロテスタント諸教会の現場での聖書研究が、屡々陥った過ちでありました。
21世紀の私たちの聖書の学びは、「主キリストと聖霊から使徒たちに託された神のことば」 の証言をそこから聞くものでなければなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日A年) 3月23日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、 ・・・・・ 」(コロ v.1)
洗礼の秘跡を受けて罪から贖われたという救いの恵みは、キリスト者にとって決して単に過去の出来事であるだけではなくて、今も私たちの上に日々新たに出来事となっているということを、理解しましょう。
神がキリストの死と復活によって私たちを罪から救い、御自分と和解させられたという出来事は “ただ一度、完全に成し遂げられた”(ヘブ 7:27, 9:12、Iペト 3:18) ので、今後もたびたび神が新しい贖いを繰り返すことはありません(ヘブ 10:18)。
しかもキリストの死と復活は、教会の経験の中に日々再現されるのです。
キリストの体である教会は、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられたのです(コロ 2:12)。
復活して今生きておられるキリストを “主” と告白することと、聖霊の働きを信じることとは一つなのです(ロマ 8:1-17、Iコリ 12:1-13)。
「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ v.4)
もし21世紀のキリスト者たちが、このような 「天に蓄えられている希望」(コロ 1:5)、「福音の希望」(コロ 1:23)、栄光の希望である 「秘められた計画」(コロ 1:27) を、もはや現代には通用しない初代教会の幻想であると考え
るなら、
それは洗礼が秘跡であることを否定し、復活の祭儀を無意味なただの “お祭り騒ぎ” にすることになります。
しかし、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使 20:28) は、確かに “わたしたちのただ中にあり”(ルカ 17:21)、そこでは “神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです” (ロマ 8:14)。
私たちは洗礼の秘跡によって神の教会に接ぎ木されたキリスト者として、復活の祭儀を祝います。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より コピペ老人、マルチポスト老人には、聖なる金曜も関係ない。
ガサゴソガサゴソ 悪事を企てる、聖なる金曜にヘビ毒を撒き散らす。 >>28
お前さあ、御託はいいから、はよカトリックに改宗しろ。
内なる悪魔が、それだけはやめとけ、と働きかけてるのだろ。 『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著) P324
邪悪な人間が健全性を完ぺきに装い、その破壊性が「正常」という姿を装っているとき、この種の
人間をどう扱うべきだろうか。まず、その仮面にまどわされることをやめ、彼らの見せかけに
だまされることをやめなければならない。そうした方向にわれわれが進むうえで、本書が役立つ
ことを期待したい。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/
【老クリスチャン】破邪顕正! わしが「義」じゃ!
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1489448459/
【老クリスチャン】わしが十戒じゃ!
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487807488/
【老クリスチャン】わしの出現こそ、ベネディクションであり、主の再臨である!
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1488790148/
【老クリスチャン】四旬節・見てもらいたくて断食祈祷中。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1488428410/ 2014年(主日A年) 4月20日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
「見て、信じた。 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハ vv.8-9)
“わたしたちの過越キリストは、・・・・・ ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになりました” という復活の叙唱は、
教会が空の墓のについての報告を物語る度毎に信じて来た “勝利者キリスト (Christus Victor)” への信仰を、見事に述べています。
復活の信仰は、その宣教の第一歩から、理解することではなくて信じることでありました。
なぜなら、客観的歴史として説明出来るのは、“十字架につけられて死に、葬られた” ということと、“三日目に墓は空であった” ということまでであって、そこから先は神の御業であって、この世の知恵で理解することは不可能だったからです(Iコリ 1:21)。
「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、・・・・・」(エフェ 1:20)
受肉されたイエスの死は、すでに過ぎ去った過去の出来事でありますが、復活されたキリストは 「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(黙 1:4) でありますから、それは教会にとって “現在の信仰” の事柄であります。
“イエス・キリストは主である”(フィリ 2:11) とは、この復活された現在のキリストへの信仰宣言に他なりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 日蓮大聖人が毒マムシを焼き払います
南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 ヴァスーラ、秋田のメッセージがファチマの第三の秘密であることを証言する
http://tlig.jp/blog/2017/02/19/vassulaandakita/
「1992年11月26日1私は秋田での国際マリア会議に、他の人々と一緒に招かれました。ルネ・ローランタン神父とマイケル・オーキャロル神父がおられ、
他の司祭方、それからヴィダル枢機卿もいらっしゃいました。伊藤司教は秋田のメッセージとシスター・アグネス(笹川)について私たちに伝えたいことがあり、
本当にびっくりするようなことを言われました。
伊藤司教が調査のために秋田のメッセージをローマに持って行かれた時、ラッツィンガー枢機卿とお会いされました。シスター・アグネスとそのメッセージについて話すと、
ラッツィンガー枢機卿は『それを読み、何ができるか考えるので、置いていくように』と言われました。
伊藤司教は、ラッツィンガー枢機卿は通常通り調査団を送ってよこすだろうと考えていました。枢機卿はご出現があった場所にいつも調査団を送っていたからです。
翌日、司教がラッツィンガー枢機卿のところに行くと、『私たちは調査団を送りません。専門家も必要ありません』と言って、司教を驚かせました。伊藤司教が『どうしてですか?』と聞くと、
枢機卿は『なぜなら、秋田のメッセージはファチマの第三の秘密だからです。ですから調査する必要はありません』と答えられたのです。これが枢機卿の言われたことです。
分かりますね、この話を聞いた時、私たちはもちろん『ワオ!』と言いました。それはファチマの秘密なのです。お分かりの通り、私たちはこれを他の情報源から聞いたわけではありません。
『伊藤司教がこう言っていたらしい』というような話であれば、私は信じなかったでしょう。ですが、私は伊藤司教自身の口からこれを聞いたのです。他の人々と一緒に。『調査は行われません。必要ない。これはファチマの第三の秘密とほぼ同じ言葉だからです』と」 私たちはもちろん『ワオ!』と言いました。
馬鹿かwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww バチカン大使もこう言ってるけどな。
「1人の信者の証言」ファティマ−アムステルダム−秋田
http://subetami.divinemercy.jp/worldwide/w-wprayerday/2016/08/w1998-testimony/
今はすでに天国においでの秋田のヨハネ伊藤前司教は、生前、書簡によって、教皇様に秋田での出来事を報告し、伊藤司教が司祭職上取るべき措置をヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿の判断に委ねた旨、私に知らせて下さいました。
伊藤司教ご自身にとって、秋田がファティマの続きであることは明白でした。また、ラッツィンガー枢機卿は、この2つのメッセージは本質的に同じものであると、私に個人的に確証なさいました。
伊藤司教は、秋田の出来事はアムステルダムのメッセージが真実であることを証明するものだと考えておいででした。そして彼は「共贖者、仲介者、執りなし手」という称号を確固として擁護なさいました。
仮に、アムステルダムのメッセージが本物でないならば、天は秋田で奇跡を起こさなかったでしょう。なぜなら、秋田の聖母のご像は「すべての民の御母」を模したものだからです。
アムステルダムのメッセージが真実ならば、「すべての民の御母」が「共贖者、仲介者、執りなし手」のドグマを告知するようにとの要求もまた真実であります。なぜ、この真実の告知を抑圧するのでしょうか? 神は何も言ってないわなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 2002年(主日A年) 4月7日 復活節第2主日
使 2:42〜47 Iペト 1:3〜9 ヨハ 20:19〜31
復活の主はトマスに向かって、「 ・・・・・ 見なさい。 ・・・・・ 入れなさい。 信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハ v.27) と言われました。
トマスは他の11人と共に 「主の復活の証人」(使 1:22) である使徒とされました。
それに続いてヨハネ福音書は次のように記しています。
「わたしを見たから信じたのか。 見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハ v.29)
使徒と、その使徒の宣教によって信じた人々とが、ここでは明確に区別されています。
私たちは聖書を通して使徒の時代と使徒後の時代の区別を教えられるのです。
新約聖書は 「使徒の教え」 を後の時代に伝え、それによって人々が 「イエスは神の子メシアであると信じるため ・・・・・ 、また信じてイエスの名により命を受けるため」(ヨハ v.31) に、教会が正典として受け入れた文書群なのです。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(Iペト v.8)
現代の私たちが主イエス・キリストとその救いを信じて喜びに満たされているのは、「使徒の教え」 を通して福音を聞いているからです。
「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(Iペト vv.3-4)
その確かさは 「使徒の教え」 から来るものであり、その 「使徒の教え」 の背後には復活して天に上げられ、神の右の座に着かれた主イエス・キリストが立っておられるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>40
秋田の聖母は当時の伊藤司教が公認している。
反対する連中のほうが異常であり正当性が無い。 フリーメーソンリーなのかもなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 『老クリスチャンの長文コピペ』>>42
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視して見せる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望して見せる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。プロテスタントの歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリックを変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目にはファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンをだれも注意しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2011年(主日A年) 5月1日 復活節第2主日
使 2:42〜47 Iペト 1:3〜9 ヨハ 20:19〜31
「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(ヨハ v.20)
カトリック教会は、使徒たちや聖人たちに “聖 (Sancta)” という尊称をつけて、聖ペトロ、聖パウロなどと呼んでいますが、私たちはいささかも彼らをキリスト教の開祖のようなものと考えてはなりません。
彼らは「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハ v.19) 人たちでした。
「あなたがたには世で苦難がある。 しかし、勇気を出しなさい。 わたしは既に世に勝っている」(ヨハ 16:33) というイエスの言葉を、彼らは復活の主にお会いして初めて確信したのです。
主イエスの贖罪の死と勝利の復活は、ただの理論や物語伝承ではなくて、すべて信じる人々の間で “現に働いている”(Iテサ 2:13)、“実を結んで成長している”(コロ 1:6) 福音であることを、使徒たちは復活の主にお会いして初めて理解しました。
今朝の福音書のテキストは、そのような “教会の信仰” の起源を私たちに伝えているのです。
教会はその初期の頃から、“どのようにでも聖書が解釈されることによって本来の使徒的伝統から逸れる危険” と戦って来ました。
そこで2世紀後半の教父であるイレナエウスは、この使徒的伝統が “使徒の後継者である司教” によって保たれているということを主張しました。
教会憲章 18 (聖職位階制度)、神の啓示に関する教義憲章 9 (信仰の遺産と教導職の相互関係) の背後にあるのは、このような考え方です。
私たちは使徒たちが伝えた宣教を通して主の復活を聞くのであって、自分で “見る” ことが出来るわけではありません。
ですから私たちは、聖書の他の部分で語られている使徒たちの宣教をよく学ぶことによって初めて、それらを前提にして後から成立した福音書を理解出来るし、“弟子たちは、主を見て喜んだ” 理由が分かって来ます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より またここにも老マムシが出たか。ああ気持ち悪い。
救いようがないほど押し付けがましい。 バチカン大使が「ラッツィンガー枢機卿
(後のベネディクト16世ローマ法王)から、
この2つのメッセージ(秋田とファティマ)は
本質的に同じものであると、
私に個人的に確証なさいました。」ということから、
ファティマ第三の秘密は、秋田のメッセージに間違いないな。
「1人の信者の証言」ファティマ−アムステルダム−秋田
http://subetami.divinemercy.jp/worldwide/w-wprayerday/2016/08/w1998-testimony/
今はすでに天国においでの秋田のヨハネ伊藤前司教は、生前、書簡によって、教皇様に秋田での出来事を報告し、伊藤司教が司祭職上取るべき措置をヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿の判断に委ねた旨、私に知らせて下さいました。
伊藤司教ご自身にとって、秋田がファティマの続きであることは明白でした。また、ラッツィンガー枢機卿は、この2つのメッセージは本質的に同じものであると、私に個人的に確証なさいました。
伊藤司教は、秋田の出来事はアムステルダムのメッセージが真実であることを証明するものだと考えておいででした。そして彼は「共贖者、仲介者、執りなし手」という称号を確固として擁護なさいました。
仮に、アムステルダムのメッセージが本物でないならば、天は秋田で奇跡を起こさなかったでしょう。なぜなら、秋田の聖母のご像は「すべての民の御母」を模したものだからです。
アムステルダムのメッセージが真実ならば、「すべての民の御母」が「共贖者、仲介者、執りなし手」のドグマを告知するようにとの要求もまた真実であります。なぜ、この真実の告知を抑圧するのでしょうか? 自分だけとっとと逝けばいいものを
秋田とかファティマなんてものにすがる情けない落伍者 >>50
こういうことがあるから、カトリックはすすめられない。
カトリックはやめたほうがよい。
カトリックの信徒になったら、これらを無視すると罪悪感がでてくる。 >>53
バチカンが認めた奇跡は奇跡。そうではないものは距離を置いておく。
自分で追究しなくていいので楽やで。 キリスト教じゃなくてバチカン教だったわけだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>55
ん?キレが悪いな
事実を書いてどうするwwwwwwwww サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ 2014年(主日A年) 4月27日 復活節第2主日
使 2:42〜47 Iペト 1:3〜9 ヨハ 20:19〜31
キリストの復活を教会が祝うとき、それは私たちの救いを感謝して賛美しているのであって、それは先ず第一に私たちを新しく生まれさせてくださったということであり(ヨハ 3:3-7、IIコリ 5:17)、
第二に私たちが御国を受け継ぐ保証を与えられたということです(ロマ 5:2, 8:17、エフェ 1:8-14)。
「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、」(Iペト v.3)
「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(Iペト v.4)
私個人の正直な体験から言うと、教会には 「イエス・キリストが現れるとき (来臨/Iペト v.7) を待ち望む信仰を共有していると感じることの出来る信者と、そんなことはまるで信じていない人とがいて、
後者のような人から “ご復活おめでとうございます” などと挨拶されると、ゾッとすることがあります。
キリストの復活は、そんな安っぽいものではない ! と、叫びたくなってしまいます。
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(使 v.42)
“使徒の教え” は “ことばの典礼” において、“相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること” は “感謝の典礼” において、それぞれ実現されるものです。
第二バチカン公会議後のカトリック教会は、そのような典礼を目指して刷新の努力を進めて来ました。
残念なことに、多くの小教区のミサにおいて、“交わり” という言葉がミサを指している (Iヨハ 1:3) とは、ほとんどの人が知らないでいるのです。
原始教会の共産生活などと言って、当時でさえ長続きはしなかった一つの現象を、キリスト教の理想ででもあるかのように掲げるのではなくて、私たちのミサが “真にミサになる” ことをこそ目指して行こうではありませんか。
それは信徒と教導職を含めた “信者たち皆一人一人”(使 v.44) の喫緊の課題なのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ___|二ニー-、、;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:|;::;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:l
/rヽ三三三三三─‐-- 、;:;:;:;:;:;:;:|;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;l
',i ,-三三三三三、 _,.ニ、ー-、!;: -‐二 ̄彡′
',、、ヾ三三'" ̄ ̄ `ー‐" ヾ-'" .〉′
ヽ ヽヾ三,' :::..,. -‐- 、 _,,..-‐、、,'
`ー',ミミ ::.弋ラ''ー、 i'"ィ'之フ l
/:l lミミ ::::.. 二フ´ l ヽ、.ノ ,'
,.-‐フ:::::| |,ミ l / これが
/r‐'":::::::::| |ヾ /__. l / 独善の悪臭だ
_,. -‐"i .|::::::::::::::::::',.',. \ ⌒ヽ、,ノ /ヽ,_
" l ヽ:::::::::::::::::ヽヽ. \ _,_,.、〃 /l | ___,. -、
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ヽ \`ー-、::::::ヽ ヽ  ̄フフ::::::::::::::ノ ./ ,.-''"´ / ̄,./´ ゝ_'ヲ
`ー-二'‐┴┴、__/‐'‐´二ー'".ノ / _,. く / ゝ_/ ̄|
 ̄`ー─--─‐''" ̄ / にニ'/,.、-t‐┴―'''''ヽ
/ / .(_ヽ-'__,.⊥--t-⊥,,_
/ / /  ̄ ) ノ__'-ノ
/ / ゝニ--‐、‐ |
/ /‐<_ ヽ |ヽ 自分も未信者だからヨハネ黙示録とかまともに読んだ事無いけど、
一般的には、獣の数字666は、悪魔のことを指すと言われてるけど、
実際は、ファティマの予言は、ヨハネ黙示録にも通じる話とルシアが言うように、
獣の数字666=FOX=稲荷・INRI=ヤハウェとして、
獣の数字666は、キリストの復活を意味することなんじゃないか?
秋田のメッセージで残された武器は、ロザリオと御子の残された印とは、
INRI=キリストの復活で世界を救うとかそういうことなのかもしれない。
ミロク=666は、ギリシャ語やヘブライ語でキリストや
メシアを意味する言葉だし、ヨハネ黙示録の獣の数字666は、
獣=キツネ、666は、人間を指すということから、神の子であり、
人間でもあるイエス・キリストを指していたと考えられる。
例え、ファティマの予言が最終戦争ハルマゲドンを意味していた
としても、世界の終焉後にキリストが復活し、最後の審判を
行うという、ルシアが言うようにキリストの復活という喜ばしい
ことが、ファティマ第三の予言には、含まれるということで、
辻褄が合うと云えよう。 神は自然を創造した。だから人間に何かアピールするなら自然の現象を通してアピールする。当たり前だわなwwwwwwwwwwwww
奇跡のような不自然な現象は神によるものではなくて悪魔、実際には欲ボケ人間の悪意によるものだわなwwwwwwwwwwwww 世界恐慌から第二次世界大戦へ
ttps://www.youtube.com/watch?v=3cIJjVUz32E
The damned directed by Luchino Visconti
ttps://www.youtube.com/watch?v=XtMocFKzwxY >>58 兄弟を批判するのは止めましょう。
口語訳旧約聖書(1955年版) 詩編 第34篇
ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌
34:1 わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。
34:2 わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。
34:3 わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。
34:4 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、
すべての恐れからわたしを助け出された。
34:5 主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。
34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。
34:7 主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。
34:8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
34:9 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。
34:10 若きししは乏しくなって飢えることがある。
しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。
34:11 子らよ、来てわたしに聞け、わたしは主を恐るべきことをあなたがたに教えよう。
34:12 さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。
34:13 あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。
34:14 悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。
34:15 主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。
34:16 主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。
34:17 正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、
彼らをそのすべての悩みから助け出される。
34:18 主は心の砕けた者に近く、
たましいの悔いくずおれた者を救われる。
34:19 正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。
34:20 主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。
34:21 悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。
34:22 主はそのしもべらの命をあがなわれる。
主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。 アヴェ・マリア!
「私達の生きるこの最後のときに当たって、
聖母はロザリオを唱えることに新しい効果を与えてくださいました。
たとえそれがどんなに難しくとも、
この世的なあるいは、特に霊的な問題、
私たち一人一人の個人的な生活上の問題、
家族の問題、
この世のすべての家族の問題、
修道会の問題、
民族の問題、
国家の問題などなど
私たちがこの聖なるロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。
ロザリオを唱えることによって
私たちは自分を救い、聖化し、我らの主を慰め、
多くの霊魂の救いを勝ち取るのです。」
(シスター・ルシア) >>58
サムエル記上 第2章 口語訳旧約聖書(1955年版)
2:1 ハンナは祈って言った、「わたしの心は主によって喜び、
わたしの力は主によって強められた、わたしの口は敵をあざ笑う、
あなたの救によってわたしは楽しむからである。
2:2 主のように聖なるものはない、あなたのほかには、だれもない、
われわれの神のような岩はない。
2:3 あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、
たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、
もろもろのおこないは主によって量られる。
2:4 勇士の弓は折れ、弱き者は力を帯びる。
2:5 飽き足りた者は食のために雇われ、
飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、
多くの子をもつ女は孤独となる。
2:6 主は殺し、また生かし、陰府にくだし、また上げられる。
2:7 主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くされる。
2:8 貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、
乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、
王侯と共にすわらせ、栄誉の位を継がせられる。
地の柱は主のものであって、その柱の上に、世界をすえられたからである。
2:9 主はその聖徒たちの足を守られる、
しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。
人は力をもって勝つことができないからである。
2:10 主と争うものは粉々に砕かれるであろう、
主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、
地のはてまでもさばき、王に力を与え、
油そそがれた者の力を強くされるであろう」。
「サムエル記上」日本聖書協会『新共同訳 旧約聖書』
2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/
主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を
大きく開き/御救いを喜び祝う。
2:5 食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は
再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子を
もつ女は衰える。
2:10 主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。
主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の
角を高く上げられる。 2002年(主日A年) 4月14日 復活節第3主日
使 2:14〜33 Iペト 1:17〜21 ルカ 24:13〜35
使徒というのは、「ヨハネの洗礼のときから始まって、(主イエスが) わたしたちを離れて天に上げられた日まで」(使 1:21-22) の救いの出来事の 「証人」(使 v.32) として、特別な権能をキリストから与えられた人々でありました。
聖霊が彼らにキリストの福音を教え理解させ(ヨハ 14:26, 16:13)、復活のキリストが彼らをお遣わしになりました(ヨハ 20:21)。
「神はこのイエスを復活させられたのです。 わたしたちは皆、そのことの証人です。 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。 あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」(使 vv.32-33)
この 「使徒の教え」 を、教会は聖伝と聖書という形で、今日に至るまで保持して来ました。
「聖伝と聖書とは、教会に託された神のことばの一つの聖なる委託物を形造っている。」(神の啓示に関する教義憲章 10)
時代は変わっても、私たちキリスト者の信仰はその根本において変わることはありません。
「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」(Iペト v.21)
それは 「教会の信仰」(教会に平和を願う祈り) であり、さらに 「使徒たちから伝えられた」(神の啓示に関する教義憲章 8) 信仰なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2005年(主日A年) 4月10日 復活節第3主日
使 2:22〜33 Iペト 1:17〜21 ルカ 24:13〜35
従来のカトリック教会では、ともすると一般信者は自らキリストのことばを聞き福音を理解する努力をしなくても、ただ司祭の “教え” を聞いていればそれで十分だとする傾向がありました。
ところが過去30~40年を振り返っての日本のキリスト教界では、実際には殆どの司祭も牧師も聖書研究の専門家であるよりはむしろ素人たちでした。
第二バチカン公会議の呼びかけにもかかわらず、教導職も信徒も共に、聖書を通して今も語っておられるキリストに自ら聞くという、信仰の基本ともいえる姿勢に、大いに欠けていたと言わざるを得ません。
”常に自分の教会と共に、特に典礼行為にキリストが現存しておられる” ことを強調する 「典礼憲章」 は、
“聖なる典礼の刷新、進歩、順応を推進するためには、東方と西方の典礼の様式の尊い伝統に見られる、聖書に親しむ生き生きとした心を養う必要がある” と述べています(24)。
カトリック教会は、“聖書に親しむ生き生きとした心” を含む典礼刷新への全信徒の充実した意識的・行動的参加を、第二バチカン公会議の公文書で呼びかけたのでした。
私たち信徒は、これを21世紀のキリスト者一同の課題として、真剣に受け止めなければなりません。
また、いささかでも神学の一端を学ぼうと考える人は、“聖書研究はあたかも神学の魂のようなものでなければならない” という 「神の啓示に関する教義憲章」(24) の言葉に留意する必要があります。
「イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。」(ルカ v.28)
二人の弟子はイエスを無理に引き止めて、一緒に食事の席に着きましたが、彼らがミサのいけにえのうちに現存しておられるイエスに気づくと、その姿は見えなくなりました。
使徒であれ特定の権威者であれ、イエスを自分たちのところに引き止めておくことは出来ないことを、ルカ福音書はここで語ろうとしました。
聖書を読むすべての信徒に、他ならぬ復活のイエス御自身が自ら福音を語り、救いを与えるために、今日もイエスは進み行かれます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 『老クリスチャンの長文コピペ』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視して見せる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望して見せる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。プロテスタントの歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリックを変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目にはファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンをだれも注意しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>58
詩篇 第51篇 口語訳 旧約聖書 1955 年 日本聖書協会
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデが
バテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの
51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、
わたしの罪からわたしを清めてください。
51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつも
わたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に
悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは
正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は
罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、
わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、
わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、
わたしは雪よりも白くなるでしょう。
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を
喜ばせてください。 >>72 続き
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、
わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、
正しい霊を与えてください。
51:11 わたしをみ前から捨てないでください。
あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
51:12 あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、
わたしをささえてください。
51:13 そうすればわたしは、とがを犯した者にあなたの道を教え、
罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。
51:14 神よ、わが救の神よ、血を流した罪からわたしを助け出して
ください。わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。
51:15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。
わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。
51:16 あなたはいけにえを好まれません。
たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。
51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、
あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。
51:18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、
エルサレムの城壁を築きなおしてください。
51:19 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、
全き燔祭とを喜ばれるでしょう。
その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。 >>58
詩編 51 編 『新共同訳 旧約聖書』 1987 年 日本聖書協会
51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
詩編 51 編 「聖書 原文校訂による口語訳」 2011 年
フランシスコ会聖書研究所
51:19 悔いる霊こそ、この上ない犠牲。神よ、あなたは、
へりくだった悔いる心を、さげすまれません。
(「この上ない犠牲」に注釈がありあります)。 >>70
回心への招き・回心の祈り
司祭 皆さん、神聖な祭りを祝う前に、わたしたちの犯した罪を認めましょう。
司祭 全能の神と、
会衆 兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによって、
たびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の
皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。
司祭 全能神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように。
会衆 アーメン。 >>70
聖書を読むすべての信徒に、他ならぬ復活のイエス御自身が自ら福音を語り、救いを与えるために、今日もイエスは進み行かれます。 2011年(主日A年) 5月8日 復活節第3主日
使 2:14, 22〜33 Iペト 1:17〜21 ルカ 24:13〜35
「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」(ルカ v.27)
教会の内外を問わず、どこででも真に福音が語られるときには、イエス御自身が語られるということを、私たちは真面目に考えましょう。
原始教会においては、使徒を初めとする多くの熱心な信徒によって、当時の地中海世界の隅々にまで福音が宣教されましたが、その宣教を通して人々は “共におられる復活のイエス”(マタ 28:20) から福音を聞いたのです。
使徒後の教父たちが、そしてそれに続く代々の時代の司教たちが、福音の使徒的伝承を保持する役務を現代に至るまで受け継いで来ているのは、その宣教を通してイエス御自身が今も自ら語られるからです。
いつの時代にも、熱心で真面目な信者が、主日に語られる説教に失望や不満を覚えるということがあって、しばしばそれがその時代の教会の刷新や新しい前進を生み出して来ました。
印刷術が誕生する以前の時代からすでに、熱心な人々は書物を通して過去の教師から学び、 “御自分について聖書に書かれていることを説明されるイエス” に耳を傾けて来ました。
「一緒にお泊まりください。 そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから。」(ルカ v.29)
この二人の弟子の言葉が、 “御自分について (聖書に) 書かれていることを説明されるイエス” への懇願であったということ、そして二人の目が開けたとき、この方はミサで私たちにお会いくださる “イエスだと分かった” ということに、
現代のキリスト者であるあなたは感動と共感を覚えることが出来ますか ?
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>77 聖なるミサに共に与る兄弟に対して、>>58 のような感情を持つ
時には、あなたはイエス様の教えに背いているのです。そのような
感情は、イエス様の教えの対極にあるからです。
ヨハネによる福音書 日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに
愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの
弟子であることを、皆が知るようになる。」 >>77
ルカによる福音書 第18章9ー14節
自分を義人と信じ、他の人をさげすむ者については、こんなたとえを話された、
「二人の男が祈ろうと神殿に上った。一人はファリサイ人で一人は税吏(ぜいり)だった。
ファリサイ人のほうは立って心の中でこう祈った、〈神よ、私は他の人のように、貪欲な人、不正な人、
姦通する者ではなく、またこの税吏のような人間でもないことを、あなたに感謝いたします。私は週に
二度断食し、全所得の十分の一をささげています〉と。
税吏は離れて立ち、目を天に向けることさえせず、胸を打ちながら、〈ああ、神よ、罪人の私を
おあわれみください〉と祈った。私は言う。この人は義とされて家に帰ったが、先の人はそうでは
なかった。高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられる」。 余談だが、先日、爆笑問題の田中がやってる番組でバックに不動明王の像を置いてるのを見かけた。バカかと思う。
不動明王(シヴァー)は実は一番中心になって東大震災を起こした張本人といわれている。
こいつによってそうゆう因縁でもないのに不正に障害者にされたものもいる。また古代から不正にひどい陰謀を
たくまれてきた者もいる。赤不動、青不動、黄色、白、黒とあって、家のは赤だからあるいは白だから大丈夫と
言ってるのもいるが、全部同じで百面相でごまかしただけ。ひがみの因縁がきれてない。共産党の悪化したみたい
にみんなで引きずり落としあいになってしまう、また何らかの形でからかわれるようにばっかもなる。
そんなものを拝んじゃダメだ。オーム教と同じ。さっさと何処へでも納札してすててこい!アホッ!! >>70 「祈り」
詩篇 第96篇 口語訳旧約聖書(1955年版)
96:1 新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。
96:2 主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。日ごとにその救を宣べ伝えよ。
96:3 もろもろの国の中にその栄光をあらわし、
もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。
96:4 主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、
もろもろの神にまさって恐るべき者である。
96:5 もろもろの民のすべての神はむなしい。
しかし主はもろもろの天を造られた。
96:6 誉と、威厳とはそのみ前にあり、
力と、うるわしさとはその聖所にある。
96:7 もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
96:8 そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。
96:9 聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。
96:10 もろもろの国民の中に言え、
「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。
主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
96:11 天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
96:12 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。
そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。
96:13 主は来られる、地をさばくために来られる。
主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。 >>81 続き
詩編 96 編 「聖書 原文校訂による口語訳」 2011 年 フランシスコ会聖書研究所
96:9 主を拝め 聖なる方の現れるとき、全地よ、み前におののけ。
96:10 国々の中で言え、「主は君臨される。世界は固く据えられ、揺るがない。
主は民を公平に裁かれる」。
96:13 主が、地を統べに来られるから。主は正義をもって世界を裁き、
まことをもって諸国の民を治められる。
96:9 に注釈があります。
96:10 「主は君臨される。」に注釈があります。 北朝鮮の核実験で火山噴火の恐れ?、専門家が懸念
(CNN) 北朝鮮が6回目となる核実験を実施すれば、その巨大な振動が大地を伝わり、
中国との国境にある火山の噴火活動を誘発しかねない――専門家の間でこうした懸念が
浮上していることが2日までに分かった。(CNN.co.jp)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170502-35100685-cnn-int
あらら、サロメや白頭山のこと書いたら記事が来ちゃったよ。 >>76 あなたの目の前に、死の危険がせまっている重傷者がいても、
あなたはその重傷者を無視して、聖書を読み続けるのでしょうか?
「目の前」をもっと範囲を広げいって、考えられればよい。 パンだけで生きるものでは無い。
けど、パン代もたんまり欲しいバチカン銀行。 >>85
The Institute for the Works of Religion
History
ttp://www.ior.va/content/ior/en/cos-e-lo-ior.html#page
1942 年から 1990 年までの空白の期間が長いですね 北朝鮮・白頭山に大噴火の兆し 日本に降灰で深刻な影響もw
在日サロメアイゴーw >>76 あなたもまだ不完全な自由意志を持っておられるでしょう?
ローマ人への手紙 第12章 口語訳新約聖書(1954年版)
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、
生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、
何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
12:3 わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、
むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。
12:4 なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、
12:5 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
12:6 このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、
それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、
12:7 奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、
12:8 勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、
慈善をする者は快く慈善をすべきである。 >>88 続き
12:9 愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、
12:10 兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。
12:11 熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、
12:12 望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。
12:13 貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。
12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
12:16 互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、
かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。
12:17 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。
12:18 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。
12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、
「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
12:20 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。
12:21 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。 2002年(主日A年) 4月21日 復活節第4主日
使 2:36〜41 Iペト 2:20〜25 ヨハ 10:1〜10
羊の囲いの譬え話を、ファリサイ派の人々は全く理解出来ませんでした。
それは教会だけが知っていることだったからです。
教会はその救い主である主イエス・キリストを知っています。
それを正しく見分け、正しく認識するために、「使徒の教え」(使 2:42) があるからです。
初代教会にとって、キリストの福音を宣教して改宗者を作ることと、救われた人々を主キリストの羊として育てることとは、決して同じことではありませんでした。
使徒パウロは、神が人間を救うこととされたのは “宣教 (ケリュグマ)” によってであったと言っています(Iコリ 1:21)。
そして救われた人々が羊飼いイエスについて行き、豊かに命を受けるように育て導くものが、使徒たちによる “教え (ディダケー)” でありました。
この “宣教 (ケリュグマ)” と“教え (ディダケー)” の区別は、福音書、使徒言行録、使徒の手紙、ヨハネ黙示録にも一様に用いられていて、初代教会の用語法の特徴になっています。
この使徒たちから始まった職務を、復活のキリストはその後継者である代々の司教たちに引き継がせることによって、今日に至るまで私たち教会の羊飼いであり続けておられるのです。
ですから叙階の秘跡によって聖別された司教の存在は、私たち教会にとって必須の事柄であり、それは私たちに教会の羊飼いであるキリストの主導権を思い起こさせるものなのです。
主イエス・キリストは現代の私たちの教会においても、使徒継承によって司教団にその職務を引き継がせることによって、私たちの羊飼いであり続けてくださっています。
その “使徒継承のキリスト” に立ち帰ることこそが、21世紀の私たちキリスト者に求められていることなのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>90
マテオによる福音書 第23章16ー33節
のろわれよ、盲目の案内人よ。〈聖所を指して誓っては何にもならぬが、聖所の黄金を指して誓えば
誓いを果たさねばならぬ〉とあなたたちは言っている。愚か者、盲目の者どもよ、黄金と黄金を聖なるもの
とする聖所とどちらが尊いか。〈祭壇を指して誓っては何にもならぬが、その上の供え物を指して
誓えば誓いを果たさねばならぬ〉とも言う。盲目の者どもよ、供え物と供え物を聖なるものとする祭壇
とどちらが尊いか。祭壇を指して誓う者は、祭壇とその上のものすべて指して誓うのである。神殿を
指して誓えば、神殿とその内に住まわれるお方を指して誓っているのである。天を指して誓えば、
神の座とその上に座したもうお方を指して誓っているのである。
のろわれよ、偽善者の律法学士ファリサイ人よ。あなたたちは、はっか、ういきょう、いのんどの
十分の一を納めながら、【律法のいちばん重大な正義と慈悲と忠実を無視している。】先のをも無視すること
なく、後のをこそ行わねばならぬ。盲目の案内人よ、あなたたちはこばえをこし出して、らくだをのみこむ。
のろわれよ、偽善者の律法学士ファリサイ人よ。あなたたちは杯(さかずき)と鉢(はち)の外側を
清めるが、内側は強奪と放縦(ほうじゅう)に満ちている。盲目のファリサイ人、まず杯(さかずき)の
内側を清めよ。そうすれば外側も清くなる。
のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリサイ人よ。あなたたちは白く塗った墓のようだ。外はきれいでも
内は死人の骨とさまざまな汚れに満ちている。外は他人の目に義人のように見えても、内は偽善と不義
に満ちている。
のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリサイ人よ。あなたたちは預言者の墓を立て、義人の碑(いしぶみ)
を飾って、〈われわれがもし先祖の時代に生きていたら、預言者の血を流した人たちに加わらなかったものを〉
と言う。つまりあなたたちは預言者を殺した者の子だとみずから証明している。あなたたちは、自分の先祖
のますを満たしている。【へびよ、まむし族よ、地獄の罰を避けられると思うな。】 キリスト教の神は人を呪う。「福音書」がその事実を伝えているわけだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 2008年(主日A年) 4月13日 復活節第4主日
使 2:14a,36〜41 Iペト 2:20〜25 ヨハ 10:1〜10
「はっきり言っておく。 羊の囲いにはいるのに、門を通らないで他のところを乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 門から入る者が羊飼いである。」(ヨハ vv.1-2)
あなたが信じているイエスは、門を通って来たイエスですか ? もしかすると他のところを乗り越えて来た偽物のイエスではありませんか ?
自分はキリスト者だと思って暮らしている私たちは、自分がこの質問に耐えることが出来るだろうかと考えてみる必要があります。
なぜなら私たちはこれまで、多くの “新しい解釈によるイエス物語り” に触れて来ているからです。
あの有名なルナンの “イエスの生涯” も、カトリック国フランスで19世紀最大のベストセラーになりました。
それ以来いろんなイエス像が巷に氾濫していて、人は自分の好みに合わせて “自分のイエス様” を心に描いているのです。
“門を通って来たイエス” という判断基準がいかに大切であるかを、現代のキリスト者は再認識しなければなりません。
初代教会の教父たちや、ニケアやカルケドン教会会議の時代の教父たちが生み出した諸定式も、第二バチカン公会議が生み出した “神の啓示に関する教義憲章” も、同じ一つの源泉を明確に指し示しています。
それは使徒たちの宣教です。
“使徒たちから伝えられた” のではないイエスは、偽物のイエスです。
盗人であり、強盗なのです。
「わたしは門である。 わたしを通って入る者は救われる。」(ヨハ v.9)
人はただイエス・キリストを信じる信仰によって、その死と復活に与る “新しい生まれ変わり”(ヨハ 3:3-7、コロ 3:3-4) によって救われます。
それは恵みであり、自らの力によるのではなく、神の賜物です(エフェ 2:8)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 【超悲報】「5月13日第三次世界大戦勃発。ファティマ聖母100周年で」的中予言者が重大発表! 5月15日にも地球滅亡、10月13日まで絶望続く
・ヨハネ・パウロ2世が公表した「第3の予言」
1980年、第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はドイツを訪問した際、記者団から公表されないファティマ第3の予言について初めて公式に言及した。
前任の教皇が予言の公表を控えたのは、外交的な配慮があったからだということを伝えた上で、
「ファティマ第3の予言によれば、大西洋・太平洋が火の海となって大陸に襲いかかり、一瞬のうちに何百万単位で人々が滅びる」
と発表したのだ。しかし、実際には、バチカンは予言の肝心な部分を握りつぶしての公開を選択したため、予言の全容は不明なままである。
・「秋田の聖母マリア」が伝えた「第3の予言」
実は、「ファティマ第3の予言」は日本にも伝わってきていたことは、あまり知られていない。
「秋田の聖母マリア」とは、秋田県にある在俗修道会「聖体奉仕会」において、マリア像が涙を流したりするなどの現象が起こった奇跡のことである。
そしてなんと、同会に所属するシスター笹川も、教会に降臨した聖母からメッセージを受け取っていたのだ。そのシスター笹川が、
聖母から「ファティマの祈り」を教えられたことから、
「秋田の聖母とファティマの聖母は同一人物」ではないかと推測されているのだ。
シスター笹川は、聖母からこのような終末の予言を授けられた。
「もし、人類が悔い改めないならば、御父は全人類の上に大いなる罰を下す。これまでにない大きな罰が下され、天から下る火とその災いにより人類の多くが死ぬ。善人悪人、
司祭や信者も関係なく死ぬ。生き残ったとしても、死んだ人々をうらやむような苦難が待っている……」
どうだろうか? ヨハネ・パウロ2世が公表した「ファティマ第3の予言」そして、「秋田の聖母が語った終末のメッセージ」。
両方とも、情景が似ていないだろうか?
まるで、核兵器を使用した第三次世界大戦の終末を彷彿とさせる内容である。よって、冒頭に登場したホラシオ・ヴィレガス氏が語るファティマの聖母降臨から100周年目に、
核兵器を用いた第三次世界大戦が勃発するというのとも辻褄が合うのではないだろうか。
http://tocana.jp/2017/05/post_13128_entry.html >>94 こちらの方が深刻なのでは?
The Cult of the Supreme Being
ttps://chnm.gmu.edu/revolution/d/436/
La Convention nationale, réimpression faite textuellement sur le moniteur original,
vol. 21 (Paris, 1842), 683–84 の英訳のようです。上の site については
ttps://chnm.gmu.edu/revolution/about.html 2011年(主日A年) 5月15日 復活節第4主日
使 2:14a, 36〜41 Iペト 2:20〜25 ヨハ 10:1〜10
「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、・・・・・ 」(使 v.37)
「悔い改めなさい。 ・・・・・ 罪を赦していただきなさい。」(使 v.38)
使徒たちの宣教を聞いて人々が大いに心を打たれたのは、“あなたがたこそが、イエスを十字架につけた罪人である” という事実を知ったからでした。
多くの信者の通俗的な考え方では、信仰に入るとは清い正しい人間になることのように理解されているようです。
また教会やキリスト者の使命とは、罪のない正しい世界を造ることだと思われているようです。
しかし、使徒たちはそんなことを宣教しませんでした。
この世界は罪の世で、あなたがたは神の怒りを受けるべき罪人であると語ったのです。
ですから “悔い改めなさい” とは、イエス・キリストの贖いを信じて “邪悪なこの時代から救われなさい”(使 v.40) ということでした。
そして信じて救われた人々は、“来るべき怒りからわたしたちを救ってくださる御子イエスが、天から来られるのを待ち望むようになった”(Iテサ 1:10) のです。
私たち現代のキリスト者も、洗礼によって与えられた課題をもう一度よく理解して、
「ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになった」(復活の主日の叙唱) キリストの声を、聞き分ける羊たちに成長して行こうではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
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