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カトリックの洗礼を受けたいんだけど [無断転載禁止]©2ch.net
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0001神も仏も名無しさん
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2017/03/22(水) 15:14:34.58ID:9kYs/gVF
詳しい人います?
教会行って申し込めばいいんですか?
0249神も仏も名無しさん
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2018/03/06(火) 12:43:33.05ID:xzNwj3R2
宗教で下手うっちゃってさー カネだせって追われてるのー 早急に振り込んで欲しいんだけど
0251神も仏も名無しさん
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2018/03/07(水) 01:32:28.75ID:ywSRuerr
>>248 おれもー
ここ10年くらいは毎週ミサには与るのに
教会の人とは話をしない
0257神も仏も名無しさん
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2018/03/08(木) 00:19:39.54ID:K827UAlJ
洗礼を受けた事自体は、後悔してないが、
洗礼をお願いした、くそ神父(後でマジ糞、心も童貞、未成熟野郎と分かる)と一生、信者台帳に名前を連ねなければならないと思うと、吐き気がする。洗礼をした神父ではない、別の神父に、台帳上だけでも、名前を変えてもらえないだろうか。だから、洗礼は要注意。
0259老クリスチャン
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2018/03/08(木) 12:33:45.45ID:8ajfqzZ6
2000年(主日B年) 4月2日 四旬節第4主日
代下 36:11〜23  エフェ 2:4〜10  ヨハ 3:14〜21

神はこの世から教会を救い出してこれに永遠の命を得させるために、その独り子イエス・キリストを十字架のいけにえとしてお与えになりました。

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハ vv.14-15)

「信じる者」 とは、ここでは何よりも先ず、この主イエス・キリストの御聖体に与かって罪の赦しと永遠の命をいただくために、主日のミサに集まって来ている信者たちのことを指して言っていることを、心に留めましょう。
“ミサに集まって来ている、洗礼の秘跡を受けたすべてのキリスト者は、永遠の命をいただいており、やがて神の国に復活するのだ” という確信と希望が、今朝の学びの主題であります。

既に久しい間、現代人の教会離れ、信仰離れが指摘されて来ました。
いわゆる “世俗化” という表現がその説明のように使われて来ましたが、それは要するに、“ミサに集まる人々の数が少なくなって来た”、“人々の人生観や生活上の価値判断の土台が、信仰に代わって別のものになって来た” ことを指しています。
確かにそれは20世紀の、特に20世紀後半に顕著な現象であったことは間違いありません。
しかしここで少し観点を変えて考えてみたいと思うのです。
私たちは社会学者や宗教学者としてではなくて、今朝ここにミサをささげるために集まって来ている一人一人のキリスト者として、このヨハネ福音書のことばに耳を傾けてみたいと思うのです。
0260老クリスチャン
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2018/03/08(木) 12:34:54.27ID:8ajfqzZ6
(つづき)
ヨハ vv.17-18
この福音書の朗読を聞いているあなたは、ご自分をどちらの人間だと思いますか?
もしあなたが 「信じない者」 であったら、今朝ここには来なかったはずではないでしょうか。
そうです。 「信じる者」 とは、ミサに集まって来ている会衆一同のことなのだと単純に理解する素直さを、これから21世紀に向かう教会は回復しなければいけません!

ヨハネ福音書が生み出された一世紀末の教会の会衆も、今朝ミサをささげるためにここに集まって来ている私たちも、人間としては同じような者たち ・・・・・ 、知識の点でも信心の点でもそんなに大きくは違わない ・・・・・ 普通の人々だ、と言ってよいと思います。
ヨハネ福音書はそのような当時の会衆に向かって、“あなたがたは 「信じる者」 なのですよ” という前提で語っているのです。
そして私たちも今朝ここにミサをささげるために集まって来ているのなら、“私たちも 「信じる者」 なのだ” と素直に理解して、このヨハネ福音書を読んでよいのです。

光を避けて闇へ向かう(ヨハ vv.19-20) ・・・・・ つまり “ミサに行かない”、“信仰を持とうとしない” ・・・・・ 強大な “この世” が、私たちの周りには存在しています。
そのことは事実です。
しかし、今朝ここに集まっている私たちは、ミサに参加してキリストの救いを受け、将来の神の国への復活の希望を与えられているのです。
今朝ここに集まっているみんなが、「独り子を信じる者」(ヨハ v.16)たちなのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0261カトリック教会はミサに出席は義務
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2018/03/08(木) 14:15:59.07ID:1pIWD43R
休んだら罪www


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0263神も仏も名無しさん
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2018/03/09(金) 00:10:41.00ID:CDGe0NRk
>>257
俺は、幼児洗礼で自分の意志で信者になった
訳ではないが、大人になってから信仰は
棄てました!
 教会に行っても実利はないよ!
イエス・キリストは神ではありません。
釈迦や孔子、親鸞、日蓮、イスラム教の開祖の
ムハンマドと同じ宗教家ですよ
 インチキパウロが回心した振りをして
パウロがキリスト教を乗っ取り、イエスを神格化してしまったのです!
0265老クリスチャン
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2018/03/09(金) 11:10:56.25ID:lKAI/mki
2006年(主日B年) 3月26日 四旬節第4主日
歴下 36:14〜23  エフェ 2:4〜10  ヨハ 3:14〜21

「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハ vv.14-15)

ミサにおいて司祭の手によって献げられるいけにえは、かつての十字架上のキリストのいけにえと同一のものであり、その秘跡的再現であることを、第二バチカン公会議は再確認しました(典礼憲章 7)。
そして次のように述べて、教会の絶え間ない確固たる伝承を宣言しました。
「我々の救い主は、渡されたその夜、最後の晩餐において、自分の体と血による聖体のいけにえを制定した。 それは、十字架のいけにえを主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、自分の死と復活の記念を託するためであった。
それは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証が我々に与えられる復活の祝宴である。」(同 47)
私たちは世の罪を贖う御子の奉献に、この秘跡を通して一つに結ばれます(洗礼の主日/奉納祈願)。

この活き活きとした実感は、教会が使徒継承によって受け継いで来たものであることを、私たちは今朝の福音書の日課から理解することが出来ます。
それは昔話や伝説のようなものではなくて、神が 「時が満ちて」(マコ 1:15、ガラ 4:4)歴史に決定的に介入された出来事でありました。
聖なる歴史、神の救いの歴史という意味で、これを “救済史(Heilsgeschichte)” と呼びます。
そしてすべての歴史は、キリストの再臨の日には結局は救済史に参加することになるでしょう。

私たちの教会が正常で健全であるかどうかは、“ことばの典礼” で十字架の福音が純粋に語られているかどうか、“感謝の典礼” でその福音に従って正しくキリストのいけにえが献げられているかどうか、という観点から判断されなければなりません。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0266
垢版 |
2018/03/09(金) 14:51:42.33ID:APdQQ32e
> そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、



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0267神も仏も名無しさん
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2018/03/09(金) 16:13:40.03ID:/cIy/vU+
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0268神も仏も名無しさん
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2018/03/09(金) 16:15:08.68ID:/cIy/vU+
>>1 
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0269老クリスチャン
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2018/03/10(土) 10:30:41.57ID:gfG7zQeh
2009年(主日B年) 3月22日 四旬節第4主日
歴下 36:14〜23  エフェ 2:4〜10  ヨハ 3:14〜21

「それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」(歴下 v.16)

もしこの記録を私たちが他人事のように読むなら、いったい私たちの救いに何の益があるでしょうか。
マタ 23:29-32 によれば、律法学者たちとファリサイ派の人々は、先祖たちは罪深かったが、自分たちはそうではないと考えていました。
実際、キリスト信者の多くも同様に考えているのではないでしょうか。

キリストがその血によって贖ってくださった私たちのあるがままの姿、すなわち 「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(エフェ 2:3)という厳粛な事実を、この歴下の記録から読み取ることが出来ますように。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。 このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェ 2:8)
「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」(ガラ 6:16)  アーメン。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0271神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/10(土) 18:02:23.73ID:STIRNuR4
洗礼受けるっていいよねえ。

新しく生かされるっていいよねえ。

洗礼受けなくてもいいけどねえ。
0273神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/13(火) 04:03:02.50ID:N4hSpnHs
>>1 
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0274神も仏も名無しさん
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2018/03/13(火) 21:17:49.51ID:h2UzpxSa
>>263
同意。実利なしに救いなし。
カトリックに救いなし。信じても祈ってもおまんま食えないもん。

おまんま食えるのは神父とシスター。
生涯衣食住保証。
0275神も仏も名無しさん
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2018/03/14(水) 00:12:33.44ID:0JbceF5M
>>274俺は、幼児洗礼だけど、成人して
から棄教しました!
0276老クリスチャン
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2018/03/15(木) 11:01:13.82ID:/BqSStxD
2000年(主日B年) 4月9日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34  ヘブ 5:7〜10  ヨハ 12:20〜33

ヘブ vv.7-8
私たちが馴れ親しんで来た20世紀のキリスト教は、“イエス・キリストの死と復活” や “イエス・キリストによる罪と死からの救い” というような、キリストの福音の “死に対する戦い” としての面に、理解が足りなかったと言わねばならないと思います。
「激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ ・・・・・ 」 という主イエス・キリストの歩まれた道は、ミサに集まる一般の信者たち自身の実感からは、縁遠いものだったのです。
日本だけではなくて、キリスト教を我が国に伝えてくれた西欧の世界でも同様に、「激しい叫び声を上げ ・・・・・、死から救う力のある方に祈る ・・・・・ 」 というようなことは、久しく教会の信仰からは忘れ去られて来ているのです。

私たちの身近なところでこれまで行われて来た数々の教会の葬儀のことを思い起こしてみれば、そこで人々が “死” をどのように考えて来たかが分かります。
そこでは “死は、大祭司である十字架と復活のキリストによらなければ、そこから決して救い出されることのない永遠の滅びである” ことなど、全く語られはしませんでした。
私たちの救い主イエス・キリストは、しかし、私たちを罪と死から、神の怒りと裁きから救う大祭司となるために、「激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、」 御自身を十字架のいけにえとしてささげてくださったのです。
0277老クリスチャン
垢版 |
2018/03/15(木) 11:02:21.81ID:/BqSStxD
(つづき)
エレ vv.31-32
このエレミヤが語った “新しい契約” という言葉を、新約聖書は ルカ 22:20 と Iコリ 11:25 で、主の晩餐におけるイエスの聖別の言葉の中にとり入れて伝えています。

第二バチカン公会議によって刷新された私たちのミサ典礼書では、そこに採用された四つの奉献文において、主の聖別のことばが聖書の記事からの編集によって、すべて同一であるように作られました。
「皆、これを受けて飲みなさい。 これは私の血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪の赦しとなる、新しい永遠の契約の血である。 これを私の記念として行いなさい。」

神とイスラエルとの間のかつての古い契約が破られて死んだように、救い主イエス・キリストは私たちの罪のために死んで、その血による “新しい契約” を教会に与えてくださいました。
キリストの十字架は、この世を支配していた罪と死を滅ぼして、御自分の民である教会に永遠の命を与えてくださるのです。

「信仰の神秘。 主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」(記念唱) アーメン。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0278血を飲め
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2018/03/15(木) 23:50:04.19ID:+e7hmriG
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0279カトリック教徒は血飲まなあかんのやで
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2018/03/15(木) 23:56:37.42ID:+e7hmriG
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0280老クリスチャン
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2018/03/16(金) 11:46:37.19ID:WnSPW2aI
2006年(主日B年) 4月2日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34  ヘブ 5:7〜9  ヨハ 12:20〜33

キリストの救いは、信じる者を 「死から救う」(ヘブ v.7)救いです。
“死” とは、神の怒りによって “滅ぼされる”(イザ 6:5)ことであります。
詩篇は “人を塵に返す” 神の怒りを畏れることを教えました(詩 90)。

“死” は神による創造の祝福の対極にあって、いわば神から不要品として捨てられること、“罪が支払う報酬”(ロマ 6:23)であります。
使徒パウロは 「死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」 と述べた後に、直ちに続いて 「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」 と、キリストの救いを賛美しました(ロマ 7:24-25)。

この “死から救う救い” のために、キリストは人間と同じ者になられ(フィリ 2:7)、私たちに代わって(父なる神への)従順を学ばれました(ヘブ v.8)。
キリストの受肉と死と復活は、神がその救済史の中に計画された御業であって、「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦され」(エフェ 1:7)、その完成である 「秘められた計画」 にあずかる者とされました(エフェ 3:3-6)。
0281神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/16(金) 11:47:43.40ID:WnSPW2aI
(つづき)
現代の通俗的キリスト教は、人々を “神の怒りへの恐れ” から遠ざけるような仕方で、“死” に対応して来ました。
私たちが従来見て来た葬儀はその典型であり、今日論じられている末期医療とか安楽死ないし尊厳死の問題も、すべてその方向性によっています。
“死” を怖くないもの、安らかで美しいものと思わせることによって、効果的に人々を “神の怒りへの恐れ” から遠ざけて来ました。

キリストの救いが、信じる者を 「死から救う」(ヘブ v.7)救いであることを、「来るべき怒り(終末の裁き)から私たちを救ってくださる」(Iテサ 1:10)救いであることを、再び学ぶことは教会に提供されている四旬節の恵みであると知りましょう。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0282カトリック教徒は血飲まなあかんねんでえ
垢版 |
2018/03/16(金) 18:53:22.87ID:eTTS9zsv
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0283イエスさまの血はうまいちゅーちゅー
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2018/03/16(金) 18:54:08.68ID:eTTS9zsv
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0284カトリック教会はほんもののイエスの血
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2018/03/16(金) 22:45:06.08ID:eTTS9zsv
とゆうているwww
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0285カトリック教会のミサは人肉食の儀式
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2018/03/16(金) 22:47:01.36ID:eTTS9zsv
本物やて

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0286神も仏も名無しさん
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2018/03/17(土) 05:57:12.42ID:oMQIG1vS
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0287老クリスチャン
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2018/03/17(土) 12:33:11.40ID:gMXigDdm
2009年(主日B年) 3月29日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34  ヘブ 5:7〜9  ヨハ 12:20〜33

「人の子が栄光を受けるときが来た。」(ヨハ v.23)

「栄光」 という言葉が、新約聖書ではイエス・キリストと結びついて、特に終末論的意味合いで用いられているということに注目しましょう。
受肉されたキリストは、その受難と死を経て、栄光に入るべきことを(ルカ 24:26)、早くから弟子たちに語っておられました(マコ 8:31,9:12,10:32-45)。

福音書を読む人はだれでも、受難物語りがイエスの姿を、悲惨で哀れな犠牲者ないし殉教者としてではなく、そうではなくて、勝利へと向かって進んで行く神の子・救い主として描いていることを、強く印象づけられます。
特にヨハネ福音書は、イエスの十字架の時が 「栄光を受ける時」 であることを強調しています。
しかし、人は信仰を与えられて初めて、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る」(IIコリ 4:6)ことが出来ます。

異邦人がユダヤ人と共に福音に与る者となるのは、主の十字架と復活の後でした。
ヨハ vv.20-21 にギリシア人が登場するのは、その時が今や迫っているということの象徴でありました。
0288老クリスチャン
垢版 |
2018/03/17(土) 12:34:16.82ID:gMXigDdm
(つづき)
「今こそ、この世が裁かれる時。 今、この世の支配者が追放される。」(ヨハ v.31)

神の怒りは、神が正しい裁きを行われる終わりの日に、最終的に現れるのですが(ロマ 2:5)、今や主イエスはその受難と死によって御自身がその裁き主となる決定的な時を迎えておられました(使 10:42、IIテモ 4:1)。
教会の時は、すでに決定的に、「御子を信じる者は裁かれない。 信じない者は既に裁かれている」(ヨハ 3:18)時となったのです。
ですから、主の受難と死が、私たちキリスト者にとっては決して単なる過ぎ去った昔の出来事ではあり得ないように(ガラ 3:1、ロマ 8:34)、神の裁きも、キリストによる救いも、現在の事実であり、また将来の希望なのです(ロマ 5:1-2,8:11、Iテサ 5:9)。

ローマ・ミサ典礼書の奉献文では、その第一のエピクレーシスで “御子わたしたちの主イエス・キリストの御からだと御血になりますように” と祈ります。
しかし、それと同時に私たちは、主イエスが間近に迫った御自分の死を、古きイスラエルに代わって御自分の教会との間に立てられる新しい契約の行為であると宣言されたことに、心を向けようではありませんか。

「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」(ヘブ 9:15)

今年も教会は過越の祭儀に備えながら、会衆一同で声を合わせて歌います。
「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。」 アーメン。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0289血血ちち
垢版 |
2018/03/17(土) 14:41:30.01ID:teAF4DUw
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0290「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
垢版 |
2018/03/17(土) 23:48:25.38ID:oMQIG1vS
 
   ,.r‐く: : : :   -二ニニー_‐-=__ ',
  l /l |ヽヽ、  .,,,,,,,,,,,,,、`老''ーミ l
  l /7ノ  `ヾ、_二ニ二、   ,,, ,'
___',ゝ1ィ  ,  ,' -tッ.、 `i .,.......'ミ;l、___∧,、 ____________
 ̄ ̄>-  ,'  -l ‐ _ , ' ,'γ-t=、,' ヽ  ̄'`'` ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
-┬ 'l l     ゝ- ‐.ァ '´ i, `''`:. / 
  l  ', l    ,  /(.    !ゝ、__ノノ  「わたしがキリストに倣う者であるように、 
  l  ',',    ,'   ,  ´`ー-'! c, '
  l   ',ヽ   !  'ゝ-===、  /      あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
  l   ', \    ``ーァ゛/
   l   ヽ \   `゙ ´/
   l   ヽ、 >‐---イ            
0291神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/18(日) 08:54:20.60ID:ye8+brlM
カトリックの洗礼を受けて救われましたか?

おめでとうございます。
0292神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/22(木) 07:32:31.93ID:EfrnSxaa
受洗後も
毎週ミサに出席してるかな。
0293老クリスチャン
垢版 |
2018/03/22(木) 12:09:48.75ID:jLbaZCHg
2003年(主日B年) 4月13日 受難の主日
イザ 50:4〜7  フィリ 2:6〜11  マコ 14:1〜15:47

教会の一年の中で、受難の主日から復活の主日に至るいくつかのミサは、特別に大切にされます。
それは教会の宣教の中心が 「十字架につけられたキリスト」(Iコリ 2:21)であり、キリストの福音は正に十字架の福音だからです。

福音書の中で主の受難の物語りは非常に大きな部分を占めており、使徒たちが伝えた信仰にとって十字架は中心的な事柄でありました。
それは受肉された神の子イエスの生涯全体の単なる結末ではなくて、完成そのものであったからです。
神の子イエスは十字架の死を遂げるために受肉されました。

受難の数日前、「イエスがベタニアでらい病人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけ」(マコ 14:3)ました。
主イエスは、神が御計画になったこの十字架の死への備えとして、これを受け入れられました。
「この人はできるかぎりのことをした。 つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。 はっきり言っておく。 世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マコ 14:8-9)

最後の晩餐の席で、イエスは御自分の体と血による感謝のいけにえを制定され、これを新しい契約として教会にお与えになります。
そしてゲッセマネの園で祈った後に捕えられます。
「・・・・・ しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」(マコ 14:36 )と、主イエスは祈られました。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0294血っ血っ
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2018/03/22(木) 14:45:08.08ID:RdDSlrUy
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0295カトリック教会の赤は血の色
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2018/03/22(木) 20:38:28.91ID:RdDSlrUy
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0296老クリスチャン
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2018/03/23(金) 11:23:50.26ID:nYI8rNGl
2006年(主日B年) 4月9日 受難の主日
イザ 50:4〜7  フィリ 2:6〜11  マコ 15:1〜39

“悔い改めて福音を信じる” とは、神の子イエス・キリストが 「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25)ことを信じることなのです。
受難の主日の公式祈願は、教会が使徒たちから受け継いだ福音を、ことさら強く、そして明らかに伝えています。

枝を持った会衆を祝福する祈り : 「主キリストに喜び従うわたしたちが、(キリストと)共に永遠の都(天の)エルサレムに入ることが出来ますように。」

集会祈願 : 「わたしたちが、主と共に苦しみを耐えることによって、復活の喜びを共にすることが出来ますように。」

奉納祈願 : 「わたしたちの力では得ることの出来ないこの(罪の赦しと永遠の命の)恵みを、十字架のいけにえによって豊かにいただくことが出来ますように。」

拝領祈願 : 「あなたは独り子の死によって、信じる者に(復活の)希望を与えてくださいました。 御子の復活によってわたしたちが、望みの地(神の国)に達することが出来ますように。」 アーメン。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0297カトリックは受難が大好き
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2018/03/23(金) 21:14:00.23ID:NLw2vR53
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0298カトリック教徒は鞭を持っていなければいけない
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2018/03/23(金) 21:15:32.23ID:NLw2vR53
自分で自分をビシビシするため


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0299イエスに倣って鞭でうたれて血まみれになる
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2018/03/23(金) 21:18:06.86ID:NLw2vR53
幸せ 幸せ ハレルヤ ハレルヤ


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先に皮膚をひっかくものがついた鞭やでwww
0300神も仏も名無しさん
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2018/03/23(金) 22:22:50.02ID:hS3A/8Li
そんなアホは日本にはいないよ。
0301神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/23(金) 22:38:33.78ID:tXedUA3B
>>296
『老クリスチャンの長文コピペについて』
  
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
   そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
   どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
   老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。

【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/
0302神も仏も名無しさん
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2018/03/24(土) 12:11:07.88ID:Ef3z6pQQ
 
   ,.r‐く: : : :   -二ニニー_‐-=__ ',
  l /l |ヽヽ、  .,,,,,,,,,,,,,、`老''ーミ l
  l /7ノ  `ヾ、_二ニ二、   ,,, ,'
___',ゝ1ィ  ,  ,' -tッ.、 `i .,.......'ミ;l、___∧,、 ____________
 ̄ ̄>-  ,'  -l ‐ _ , ' ,'γ-t=、,' ヽ  ̄'`'` ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
-┬ 'l l     ゝ- ‐.ァ '´ i, `''`:. / 
  l  ', l    ,  /(.    !ゝ、__ノノ  「わたしがキリストに倣う者であるように、 
  l  ',',    ,'   ,  ´`ー-'! c, '
  l   ',ヽ   !  'ゝ-===、  /      あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
  l   ', \    ``ーァ゛/
   l   ヽ \   `゙ ´/
   l   ヽ、 >‐---イ   
0303老クリスチャン
垢版 |
2018/03/24(土) 12:15:58.94ID:to1mXdrj
2009年(主日B年) 4月5日 受難の主日
イザ 50:4〜7  フィリ 2:6〜11  マコ 15:1〜39

「ピラトが再び尋問した。 “何も答えないのか。 彼らがあのようにお前を訴えているのに。” しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。」(マコ vv.4-5)

受難物語りの頂点であるイエスの逮捕から十字架上の死に至る部分で、それまでは多くを語ってきたイエスが、もはや何一つ主張も反論もせずに 「屠り場に引かれる小羊のように ・・・・・ 口を開かなかった」(イザ 53:7)という姿で、描かれていることに注目しましょう。

一見すると、この場面でいろいろな役を演じているのは人間たちだけであって、神も神の子も実際には登場していない ・・・・・ 、ただの物言わぬ人形のようなイエスが滅多打ちにされている、そんな描写が貫かれています。
「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。 それを見たら、信じてやろう」(マコ vv.31-32)という言葉が、この事件が起こった世界を見事に表現しています。
この世の知恵で見るとき、イエスの死はそのようなものでしかありませんでした(Iコリ 1:21,2:8 参照)。

しかし使徒たちは十字架の出来事を、「神はキリストによって世を御自分と和解させ」(IIコリ 5:19)、「永遠の贖いを成し遂げられた」(ヘブ 9:12)と宣教したのです。
イエスの受難と復活は神の御業であったからです。
それはイエスの生涯の中での、単なる一事件のようなものではなくて、「まさにこの時のために」(ヨハ 12:27) 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハ 1:14)のです。
0304老クリスチャン
垢版 |
2018/03/24(土) 12:17:02.85ID:to1mXdrj
(つづき)
「三時にイエスは大声で叫ばれた。 “エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。” これは、“わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか” という意味である。」(マコ v.34)
イエスはその死に際して 詩 22 の冒頭の句を口にされました。
そして、「わたしは虫けら、とても人とはいえない。 人間の屑、民の恥」(同 22:7)となって、「御自身を献げることによって」(ヘブ 7:27)、「永遠の贖いを成し遂げられ」(ヘブ 9:12)ました。

実にイエスの十字架の苦難と復活の勝利こそが、使徒たちが宣べ伝えた福音のすべてであり、神が教会に委ねられた 「和解の言葉」(IIコリ 5:19)であることを理解しましょう。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Iコリ 1:18)

このキリストの永遠の贖いは、既に成し遂げられただけではなくて、現在も教会を通して活き活きと私たちに働いています。
私たちは現在、原始教会の使徒たちや会衆と同じ救いに与っているのです。
ですから、「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり」(コロ 1:23)、今年も復活の祭儀に備えようではありませんか。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0305神も仏も名無しちん
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2018/03/24(土) 13:23:13.96ID:/YQWE7N/
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0306神も仏も名無しさん
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2018/03/24(土) 15:55:14.60ID:o9chUE+N
カトリックがいい。
秘跡が多いし、義務も多いように見えるが、
実際はゆるゆるで、
適当に信者してることができる。
0307神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/25(日) 15:29:57.87ID:RtPdc/FU
ゆるいといってもじわじわくるよ。
0309老クリスチャン
垢版 |
2018/03/29(木) 12:01:46.48ID:MCk58KaU
2000年(主日B年) 4月23日 復活の主日
使 10:34〜43  Iコリ 5:6b〜8  ヨハ 20:1〜9

今年も、主イエス・キリストの受難と復活からなる過越の聖なる三日間の典礼が、全世界の教会で厳かにささげられて、私たちは今日復活の主日を迎えました。
私たちの救い主イエス・キリストは、その過越の神秘によって御業を成就され、「御自分の死をもって私たちの死を打ち砕き、復活をもって私たちにいのちをお与えになりました」(典礼暦年の一般原 18)。
私たち教会は、この期節に特に声を大にして、歓喜に満ちて “アレルヤ” を歌います(同 22)。

ヨハネ福音書が、主の復活の朝の出来事を取り上げているこの部分で語っている証言に、耳を傾けましょう。
それは、ヨハネ福音書を生み出した一世紀末の教会が、使徒たちから受け継いだ証言であります。
そこには 「見て」 「信じた」 「まだ理解していなかった」 という三つの表現が用いられています。

今世紀初め頃の聖書学の世界では、主イエス・キリストの死人の中からの復活について、“聖書の中にはその証拠を見つけることが出来るかどうか” という議論が行われて、それは私たち教会の信仰にとっていささかも良い結果をもたらしはしませんでした。
聖書の証言として、“学問的に” 確実に言えることは、“この日の朝、墓は空であった” という事実だけだったからです。
しかしそれに続く今世紀の聖書学は、“聖書を通して語る教会のケュグマ(宣教)に耳を傾ける” ということを、私たちに教えてくれたのです。

学問の世界と現場の教会との間には、いつも50年や100年の “ズレ” というものが存在するものです。
公平に見て、ほとんどの現場の教会では、まだこのような今世紀の聖書学の成果の恩恵に浴していません。
しかし21世紀の私たち教会は、20世紀の聖書神学から良いものを学んで、実りある成長を期待することが出来るのではないかと考えます。
0310老クリスチャン
垢版 |
2018/03/29(木) 12:03:17.54ID:MCk58KaU
(つづき)
今朝のヨハネ福音書のテキストの、先ほどあげた三つの表現も、このような初代教会のケリュグマ(宣教)の一部、しかもかなり重要な一部なのです。
それは使徒たちによる主イエスの生涯と死と復活についての説明であったからです。
最初の弟子たちによるこれら一連の出来事への解釈は、彼らが自分自身で考え出したものではありませんでした。
それは復活の主が聖霊を与えて、彼らに理解させたものでした。

“主は、死者の中から復活された。”
ヨハネ福音書によれば、最初弟子たちはこの出来事を、またその重大な意義を 「まだ理解していなかった ・・・・・。」
主の復活は、彼らの証言によって証明される性質のものではなかったのです。
“主は、死者の中から復活された。”
彼らは間もなく復活のイエスにお会いして、その姿を見ることになります。
しかしこの朝、彼らはただ空の墓を、主の遺体を包んでいた亜麻布を “見た” だけでした。
そして間もなく彼らは “信じた” のです。
しばらくして復活のイエスにお会いして、“信じるようになった” のです。
これが教会のケリュグマ(宣教)なのです。

人々が “信じた” から、それで主が復活されたというのではありません。
人々が “理解した” から、それで主の復活は本当だったということになったのでもありません。
ケリュグマ(宣教)は、弟子たちや教会が考え出したものではなくて、死者の中から復活された主が聖霊を与えて弟子たちに理解させ、教会に委ねてくださったものだったのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0311さよか
垢版 |
2018/03/29(木) 17:16:39.33ID:k2TPKMo5
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0312老クリスチャン
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2018/03/30(金) 11:36:42.85ID:7HCVdPgR
2006年(主日B年) 4月16日 復活の主日
使 10:34〜43  コロ 3:1〜4  ヨハ 20:1〜9

カトリック教会が、“キリストは ・・・・・ ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちに命をお与えになった” と教えているように(典礼暦年と典礼歴に関する一般原則 18)、
私たちが洗礼の秘跡によって 「キリストと共に復活させられた」(コロ v.1)という信仰を抜きにして、“過越の神秘” を正しく理解することは出来ません。
なぜならそれは使徒たちから伝えられた福音への信仰に関わる事柄であって(ロマ 6:8)、今はまだ隠されており(コロ v.3)、将来現されること(コロ v.4)だからです。

復活節の祝いは、際立って福音的な祝いでありますから、キリストが御自分の死と復活によって成し遂げられた “贖いの福音”、“罪の赦しの福音” が正しく宣べ伝えられ、受け入れられていることが重要な前提になります。
福音、それも使徒たちから伝えられた福音の宣教が軽んじられているところでは、それは単なる “お祭り騒ぎ” になってしまって、喜びのうちに一同が 「上にあるものを求める」(コロ v.1)祝いにはなりません。
しかし従来、“他宗教にお祭りがあるように、キリスト教にもお祭りがある” というレベルで、一般には理解される傾向がありました。
0313老クリスチャン
垢版 |
2018/03/30(金) 11:37:50.94ID:7HCVdPgR
(つづき)
(イエスは死者の中から復活した後、) 「御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たち(使徒たち)にお命じになりました。」(使 v.42)

第二バチカン公会議は、教会の宣教の使命を “教会憲章” の中で明確に述べ(17)、さらにそれに続いて “教会の宣教活動に関する教令” を布告して、全世界のキリスト者に呼びかけました。
過去数世紀間のキリスト教は、どちらかと言うと “福音の宣教” ということよりも “キリスト教文化の拡張” による改宗者獲得に力点を置いて来ました。
それはしばしば宗派的、教派的拡張主義という形で現れ、特に西欧から見た外国伝道の場合には、教育や医療などと結びつきながら伝道団体によって行われる改宗者獲得運動でありました。
この傾向は日本の場合にも顕著で、今も信者の多くが “信徒使徒職” をそのように理解しています。

しかし、第二バチカン公会議が説いた宣教活動とは、使徒たちから伝えられた福音の宣教のことであって、それは個人の魂の獲得を、個人の信仰覚醒を目指すものなのです。
信徒一人一人が自らキリストの福音によって “神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰”(使 20:21)に目覚めていなくては、キリスト教拡張運動は出来ても、キリストの福音の証しをたてることは出来ません。

私たち現代のキリスト者にとって、主の復活を祝うことは、まさにこの使徒たちの証言の継承に参加することであると知りましょう。
“キリスト教文化の拡張” ではなくて、“福音の宣教” によって “信徒使徒職” の使命を果たすことは、復活のキリストから21世紀を歩み始めた私たち会衆に期待されている光栄ある課題でなくてなんでしょうか。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0314さよか
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2018/03/30(金) 18:45:56.51ID:GdnKrvE6
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0315神も仏も名無しさん
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2018/03/30(金) 20:06:52.11ID:uNLRj7C4
>>1
やめとけ。
0316神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/31(土) 04:56:22.54ID:Nn48z2Vx
>>1
やめとけ。
0317>>1 やめとけ
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2018/03/31(土) 05:17:09.69ID:MGuEFVyZ
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0318>>1 やめとけ
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2018/03/31(土) 05:18:25.58ID:MGuEFVyZ
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0319>>1 やめとけ〜〜〜
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2018/03/31(土) 05:44:05.72ID:MGuEFVyZ
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0320神も仏も名無しさん
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2018/03/31(土) 10:34:23.68ID:Nn48z2Vx
期待に胸を膨らませている今年の受洗犠牲者

1年後、教会に出入りしている変態は1割もいないだろうw
0321神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/31(土) 10:36:18.52ID:CqaA1TkL
受洗しても、その後がフリーなカトリックがうれしい。
0322神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/31(土) 10:37:24.68ID:Nn48z2Vx
ようこそ人間関係の墓場へ

せいぜい今日と明日を楽しんで。信仰生活の頂点だから

もうすでに、今もこれからも祝福されているやつは決められている

残念「!!
0323神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/31(土) 10:40:19.76ID:Nn48z2Vx
一週間もすれば忘れ去られるのが現実。受洗後の、交わりすらない小教区もある。
軽食、お茶すら出ないw

久々に教会へ行くと無視される(華麗にスルー) とんでもなく孤独感を感じるだろう 
人間関係の墓場へようこそ! w
0324老クリスチャン
垢版 |
2018/03/31(土) 10:42:55.99ID:bKHmhpLj
2009年(主日B年) 4月12日 復活の主日
使 10:34〜43  コロ 3:1〜4  ヨハ 20:1〜9

「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、 ・・・・・ 」(コロ v.1)

ですから使徒パウロは、「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ ・・・・・ てくださいます」(IIコリ 2:14)と言って、感謝しました。
実に福音は、「命から命に至らせる香り」(Iコリ 2:16)です。

「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ vv.3-4)

救いは神の業であって、これを人間が自らの努力によって理想の世界を創り出そうとする道徳主義や平和運動などと取り違えてはなりません。
それは全く完全に、神の賜物であって(エフェ 2:8)、キリスト者はその完成の日を希望しつつ、「忍耐して待ち望むのです」(ロマ 8:25)。

「生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた」(使 v.42)キリストは、信じる者に罪の赦しをお与えになる救い主です(使 v.43)。
0325老クリスチャン
垢版 |
2018/03/31(土) 10:43:59.36ID:bKHmhpLj
(つづき)
十字架の福音、罪の赦しの福音を、現代人には理解できない主題であると言って保留にするような、そんな聖書の読み方 ・・・・・ では、決して “神のことばの食卓の富に与る” (典礼憲章 51)ことは出来ません。

実際には、現代のカトリック信者の大部分がほとんど聖書を知らず、ただほんの一部を気まぐれにつまみ食いするようにしか読まないので、結果として “福音を知らないで聖書を読む” ことになっているのです。
しかし、聖書は福音の証人(使 vv.39,41)である使徒たちの宣教を伝える書物です。
これを熱心に読み、調べ、学ぶ信者になりましょう(使 17:11、IIテモ 3:15)。
そうすれば、あなたもキリストの復活の勝利に与ることが出来ます。

そのような人々のために、聖書は復活節の喜びのあいさつを送っています。
「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(Iコリ 15:57) ハレルヤ、アーメン。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0326神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/31(土) 10:45:09.85ID:Nn48z2Vx
祝福されるのは、力のある小教区の子弟または家族。

どこぞの馬骨は見て見ぬ振りされる。これがまた傍から見ていて強烈に張り詰めた空気を感じる

空気を感じるのではなくて、凍った「空気がみえる」←ここ大事ww

値踏みされた受洗者の賞味期限は1週間だから頑張って信心業に励んでくれ;¥。
0327さとりクン
垢版 |
2018/03/31(土) 10:56:19.60ID:Cg4sGDiv
ハァイ♪
さいきん悟りを開いちゃいました!(笑)
ブログやってます。
http://blog.livedoor.jp/kosokeme/
お気軽にコメントくださいねー。(´艸`*)
0328神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/31(土) 10:58:04.75ID:Nn48z2Vx
言っとくけど献金の額等きっちり管理されてるからね

教会の局に献金抜かれて横領着服されて酒の肴にされているのが現実。

個人情報の管理もめちゃくちゃ。

独特の人間関係の構築と

しかし、医者やらその奥方やらの比率のおおいこと。これには正直感心している。

どうりで浮世離れしているわけだ。まさしく降臨だわな 底辺を華麗にスルー。

貴族趣味の聖職者と親和性が高いから正義感を出すと干されるよ。覚悟してて
0329神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/31(土) 11:04:20.61ID:Nn48z2Vx
出入りが自由だからって何もしないで久々に教会に足を運んでも孤独を深めるだけだよ。

カトに何も縁故がない人はそのへんしっかり意識していないと色んな意味で奪われるものが多い

ここは実社会以上に不条理で厳しい世界だと受け入れないと、

距離を置く以前に二度と関わりたくないという方向にいってしまう。

マメなゴマすりをやることと、あまり自分語りをしないことがコツ。うまく食い込めw
0330神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/31(土) 11:14:21.91ID:Nn48z2Vx
しっかし、アメリカやヨーロッパでも時代錯誤な閉鎖性があるわけでそら誰も教会に通わなくなるわな。

すなおに、カトの巡礼とかにカネを費やしたほうがいいのかもね。

小教区の奉仕なんかに中途半端に関わるとかなりの確率で早期離脱w やめとけw

日本人は、馬鹿だから喜んで従順奴隷ドMSMプレイしてるやつが多いけど長く教会に出入りしている人間にはむしろ要注意

最初は気づかないんだなぁ これがw

みてて痛々しい奴がいっぱいいてて哀れに思うこともある。
0331神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/31(土) 11:17:35.18ID:CqaA1TkL
暇で退屈な時にミサに出ればいいよ。

教会にいって交わりをもとうなんてしないがいい。
面白みのない人間ばかりだからね。
0332神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/31(土) 11:25:47.19ID:Nn48z2Vx
群れからはぐれた純粋な子羊が、

警戒感もなしに無防備な状態で、羊の皮をかぶった狼と魔女の棲む村へ入るとどうなると思う? パクッ

もちろん看板は草食動物と肉食動物が共存する夢の世界村だけどね

現実はそんな生ぬるい世界ではないよw

グリム童話を身をもって理解することができるありがたい世界 パクッw
0333神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/31(土) 11:33:45.07ID:Nn48z2Vx
徹底した個人主義で身を固めるのも、ある一つの生き残りの作戦だわな。

ただ、それぞれの立ち位置において普段出会うことのなうような人たちとの出会いがあってとてつもなく広い世界を知ることもできる

それが信仰ではないにしても、

大切なのは長く続けていくことだとおもうよ。
0334>>1やめとけーーー
垢版 |
2018/03/31(土) 15:28:33.24ID:MGuEFVyZ
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0335神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/03/31(土) 18:39:45.98ID:Nn48z2Vx
カトリックの歴史と現状はクソ 自民党よりイカサマサイコロが振られる世界

とまぁこんなことを語りつつも呼び出し食らったのでクソきょうかいにいってくるは

おもいっきり祝福してるフリをしてやる・ ご受洗おめでとうございます ニコッw(嘘)

ようこそ、この素晴らしきクソ世界へ!(無知貧乏人の赤ん坊を見て思う本音)
0338神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/03(火) 14:17:25.55ID:CettrQDY
奉仕ねえ。
教会によって、司祭に気に入られたい人たちもいて、
奉仕することが特権階級化してるとこもあるね。
受洗したてな人は喜んでやりたがるから、今のうちにやらしておけば良い。
それにしても神父のそばで働くということで、特権化してドヤ顔する人たちもいる。
あれなんなの?そういう人たち掃除は参加しないんだけど。

うちの教会は、PTAの役員と同じくやりたがる人が少ないから、
教会委員長は元大学教員さんが長年やってる。
掃除は地区ごとの当番で回ってくる。それだけは参加。
自治会の当番と一緒。
0339神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/03(火) 17:24:29.72ID:L5+vzT3A
それが信仰やろ
幹につながろうとせず枝葉末端の枯葉が負け犬のごとく吠える
人生の縮図
いくら言っても悟らない馬鹿
0340老クリスチャン
垢版 |
2018/04/05(木) 13:22:57.62ID:iv6OBDzo
2000年(主日B年) 4月30日 復活節第2主日
使 4:32〜35  Iヨハ 5:1〜6  ヨハ 20:19〜31

教会は今年も主イエス・キリストの復活を祝って、この期節のミサをささげます。
私たちが祭壇を囲んでミサをささげるとき、復活された天のイエス・キリストが私たちの中に来てくださって、自ら御自身の肉と血を永遠のいのちの糧として、私たちに与えてくださいます。
ミサを司る司祭は、目に見えない復活のキリストの目に見える代理者として、神の民の集いを司式しているのです。

復活節第2主日には、毎年この同じヨハネ福音書のテキストが朗読されて、私たちは教会がその誕生のときからミサを守る群であったこと、そしてそのミサには復活された天のイエス・キリストが来てくださるという信仰を学んで来ました。
トマスの話は、“信じる” とは “私たちのミサの中に来てくださる復活のイエス・キリストに、私たちがお会いする” ことなのだということを、語っています。

「イエスはトマスに言われた。 “わたしを見たから信じたのか。 見ないのに信じる人は、幸いである。”」(ヨハ v.29)

目に見えないけれども信じている人々 ・・・・・ 、それがミサを守る会衆のことです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0341リプトン
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2018/04/05(木) 14:10:44.70ID:wPXNl4vf
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0342きかんしゃ
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2018/04/05(木) 14:40:08.72ID:wPXNl4vf
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0343秋茄子
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2018/04/05(木) 14:41:03.22ID:wPXNl4vf
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0344神も仏も名無しさん
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2018/04/05(木) 16:57:36.07ID:xvgJqMbx
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† 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。

(新約聖書 マタイの福音書7章13節)


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0346老クリスチャン
垢版 |
2018/04/06(金) 11:00:52.95ID:dFOOVAwp
2003年(主日B年) 4月27日 復活節第2主日
使 4:32〜35  Iヨハ 5:1〜6  ヨハ 20:19〜31

教会はその誕生のときからミサを共にささげる群れでありました。
ヨハネ福音書とヨハネの手紙が特に強調している 「互いに愛し合いなさい」 と 「わたしの掟を守るなら」 という言葉は、いずれも共にミサをささげる共同体の形成を指していると理解すべきです。

ミサは、「キリストの業を現在に移すもの」(O.クルマン)であって、それは使徒の時代にもその後の時代にも区別なく永続するものです。
キリストは 「御自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになった。」(典礼暦年と典礼暦に関する一般原則 18)
「十字架のいけにえと、ミサにおけるその秘跡的再現は、奉献のしかたを除けば同一のものである。」(ミサ典礼書の総則 前文 2)
そして聖霊はこのミサにおいて、信者に神のことばの食卓の富を豊かに与えるために(典礼憲章 51)、また私たちがキリストの御からだと御血に共に与かるために働いてくださいます。

このような教会を生み出したものは使徒たちの宣教でありました。
それは最初からイエス・キリストについての宣教であり、救いの福音でありました。
現代の教会の宣教も、イエス・キリストの出来事についての使徒たちの証言の継続であって、その宣教に欠くことの出来ない要素は、その出来事の証人としての使徒たち自身であります。
神は今も私たち現代の教会に、聖伝と聖書が伝える使徒たちの証言を通して語り続けておられます。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハ 20:31 )

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
0347THE☆飯屋
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2018/04/06(金) 11:37:08.12ID:g5U1XfL7
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0348神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/06(金) 11:41:59.50ID:ZqGvdAni
>>346
老クリはカトリックでもないのに
カトリック教会に通っている元福音派牧師
がコピペを張り付けでも
説得力がないよ
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