カトリック [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
2011年(主日A年) 9月18日 年間第25主日
イザ 55:6〜9 フィリ 1:20〜24,27a マタ 20:1〜16
「主人はその一人に答えた。 “友よ、あなたに不当なことはしていない。 あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 ・・・・・ ” 」(マタ v.13)
父親から小遣いを分けてもらった子供たちが文句を言って、“お父さんはいつも末の弟には甘いんだから ・・・・・ ” と抗議する場面を想像してみましょう。
こんな不公平を体験したり、聞いたことがあるでしょう。
ところが人間は一人前の大人になって、取引や交渉などということが理解出来るようになっても、不思議なことに自分の損得に関わるような場面では、相変わらず幼児的な発想から “不公平だ” “不当だ” と言ってしまうものなのです。
この譬え話の主人が不当なことはしていないということは理解出来るのですが、それでも何となくやっぱり不公平感を感じてしまうというのが、普通の人間のありのままの姿です。
つまり人は聖書を読んでも、ただそれだけではダメで(ヤコ 1:23-24 参照)、そこからキリストの福音を聞き取って、信仰に目覚めてこそ初めて、神をほめたたえることが出来るのです。 (つづき)
神の義は、罪によって全く無益な者になっているイスラエルを、“御自身のために” 救うという、あの第二イザヤの福音(イザ 44:24-25)を、キリストは実現されました。
「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ 1:17)
それは “最後に雇われて、一時間しか働かなかった労働者” だけではなくて、“最初に雇われて、まる一日、暑い中を辛抱して働いた人たち” にとっても同じ神の恵みであることを、理解する信仰を要求します。
1999年に、ルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会によって、“義認の教理に関する共同宣言” が調印され、その5年後に日本福音ルーテル教会と日本カトリック教会の協力によって、日本語共同訳が出版されました。
そこで確認されたことは、「人間はその救いのために神の救いの恵みに全く依存する」 という一点です(本文 19)。
日本カトリック司教協議会会長の野村純一司教による推薦の辞には、特に 「まさに罪人でありながらも主に愛され義としていただいた者として ・・・・・ 」 という神学的表現が用いられています。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています