2002年(主日A年) 3月10日 四旬節第4主日
サム上 16:1〜13  エフェ 5:8〜14  ヨハ 9:1〜41

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。 “ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。 本人ですか。 それとも、両親ですか。”」(ヨハ vv.1-2)

私たちがそこで生まれ、そこで育った20世紀の教会は、もしかすると 「生まれつき目の見えない」 教会だったのではないでしょうか。
人々はファリサイ派の人々と同じく 「見える」(ヨハ v.41) と言っていました。
でも私たちの多くは実際には、次のような聖書の言葉に到底耐えられなかったというのが、正直なところではないでしょうか。
「心の中でキリストを主とあがめなさい。 あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(Iペト 3:15)

20世紀の教会では、信者の数だけ多くの種類の福音理解があり、しかもそれらは使徒たちが宣教したキリストの福音とは殆ど関係のないものばかりでありました。
しかし主は、その罪の責めを20世紀の教会のあの人この人に負わせるのではなくて、正に “神の業が21世紀の私たちの教会に現れるためである” と語りかけておられるのです。
主よ、21世紀の教会を憐れんでください !
今朝の福音をそのように聞くことが出来る人は、21世紀の私たちの教会に希望を持つことが出来るに違いありません。

ヨハネ福音書はシロアムの意味を 「遣わされた者」(ヨハ v.7) と解釈しました。
そうすることによって、暗闇である者が光を見ることが出来るようになるために行くべきところを示しました。
それは使徒たちのところです。
使徒たちの宣教を通してキリストの福音を聞くなら、私たちは光の子となって、「目が見える」(ヨハ v.7) 教会になることが出来るのです。

「そして、“シロアム ・ ・ ・ 『遣わされた者』 という意味 ・ ・ ・ の池に行って洗いなさい” と言われた。」(ヨハ v.7)

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より