2014年(主日A年) 3月23日 四旬節第3主日
出 17:3〜7  ロマ 5:1〜8  ヨハ 4:5〜42

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ v.8)

学問や知識と対立するものとして “信仰” を捉える考え方があって、そのような人々の間では “素直な信仰” というものが大切にされています。
しかし私たちは、福音を深く理解するという意味での知識 (エフェ 1:17-18, 3:18-19) を学ぶ (コロ 1:7) という努力をしないと、“信仰に成熟した人” になることは出来ません。
使徒パウロはこれを “神秘としての神の知恵” と呼びました(Iコリ 2:6-7)。

イエス・キリストの死が、他ならぬこの私のためであったということを信じる人だけが、また、私はキリストと共に十字架につけられたという信仰に生きることになります(ロマ 6:3-11、ガラ 2:19-20 参照)。
この知識が不足していると、あたかもキリストの十字架を必要としないような正しい人になることが、キリスト教信仰の目標であるかのような誤解が生まれます。
そのような俗信が、昔も今もキリスト教界には混じり込んでいて、正しい回心を妨げることがあります。

“信仰によって義とされた”(ロマ v.1) ということと “(来るべき) 神の (国の) 栄光に与る希望を誇る”(ロマ v.2) ことは一つであって、どちらか一方が欠けている信仰は、いわば未熟な欠陥品であります。
使徒パウロはそのような人のことを “肉の人” と呼びました(Iコリ 3:1-3)。
そしてこのような人々に対して、使徒たちが据えた福音の土台の上にしっかりと立つことを勧めています(Iコリ 3:10-11)。

“清潔な水” が人間の実生活にとってどれほど必要であっても、キリストが与えてくださる “永遠の命に至る水” こそは、もっと大切な霊的賜物であることを、私たちが深く悟る今年の四旬節でありますように。

・・・・・ 以下、本文参照。
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