2014年(主日A年) 3月16日 四旬節第2主日

「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創 v.3)

原始教会が創世記のこのアブラハムへの約束を、イエス・キリストによって実現される救済史の完成として理解したのは、決してただの人間の知恵による再解釈ではありませんでした。
使徒たちが、このアブラハムの “子孫” とはキリストのことだと理解した (ガラ 3:16) のは、啓示によったのです(ガラ 1:12)。

現代の教会の中にはしばしば無知な論客がいて、聖書で語られている福音はその時代の状況や各自の置かれた立場によって、いくらでも再解釈出来るかのような主張をしたりしています。
“○○の福音” という名の、人間の知恵によって解釈された現代の各種の福音が、あたかも存在の権利を有しているかのように語られるのです。
彼らにとってキリスト教の、あるいは教会の主体は人間であって、神ではない !

しかし、使徒の伝承は次のように述べています。
「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」(エフェ 3:3)
新約聖書が語るキリスト理解、救済史理解、旧約聖書における約束の再解釈は、啓示によるのであって、人間の知恵による自由な再解釈とは次元が違うものなのです。

「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」(創 v.4)

聖書が伝える使徒たちの宣教した福音に、現代の信者が “そのあるがままに” 耳を傾けることこそが、四旬節の最大の “回心” であることを思って歩もうではありませんか。

「これに聞け。」(マタ 17:5)
「信仰の目が清められて、あなたの顔を仰ぎ見ることができますように。」(今朝の集会祈願)

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より