【隔離】GLAを憂う元会員の独り言【ちらしの裏】 [無断転載禁止]©2ch.net
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関芳郎と茶坊主どもは、全くウィズダムを
作成せずに「7つのプログラム」を進めようとしたのではないかと
私は考えている。勿論、それは個別のプログラム(歴史の整備、
研鑽の充実等)のウィズダムではなく、「7つのプログラム」の
進め方を決定するウィズダム、という意味である。
その考えが正しいと仮定して、今後何が起こるか考えてみたい。
原始GLAの時代の初代弟子の活動は、未来千年に渡って注目され
参照され続けることになるだろう。「GLA創立40周年記念事業」も、
初代弟子の活動として、語り継がれてゆくだろう。
「GLA創立40周年記念事業」は、「菩提心発掘」をメインテーマ
とし、「喜捨行」、「書写行」、「7つのプログラム」という
3つの柱から成っていた。このうち「喜捨行」と「書写行」は
滞りなく進行し終了したが、どうゆうわけか「7つのプログラム」
だけは全く何も進まなかった。
未来の人々は、「一体、なぜ、何も進まなかったのか?」と
興味深く、また不思議に思い、残された記録を精査するだろう。
すると、なんと、
「全くウィズダムを作成せずに進めようとしていた」
という驚愕の事実にぶち当たるだろう。 「ケツ舐め星人」とか「ケツ舐め論」とか
どんな宗教だよ ケツ舐め行為に疑問を持つ者は会員の選抜により退会したようです。
これが神の計らいなんですよ。 >>540
同感ですなw
彼女は親父さんの意向で
本人の意思に関係なく象徴として祀り上げられたんだと思います。
バックアップとして当時の若手講師団が任命され
邪魔な古手講師は権力によって排除されていったんでしょう。
祖師から上手にフラれ排除された講師達が、その後も祖師と法に片思いし続けた構図です。
彼等は利用価値がなくなったんでしょう。
若手達よりもずっと純粋だっただけ実に哀れですな。
まあこれは単なる邪推ですからw悪しからずw ケツ舐め関連の話題が止まりませんなw
実際には個人崇拝信者、個人崇拝信仰自体がケツ舐め行為に等しいわけw
分かるか?君達w
心の中の叫び
(先生!先生!)
これって精神的ケツ舐め行為だろ? 園頭広周、平井和正、罰天使…。これまで、GLAを誹謗中傷した
人間は何人も存在した。しかし、関芳郎と茶坊主どもほどGLAを
そして佳子先生を貶めた人間は、存在しない。
関芳郎と茶坊主どもは、GLA、佳子先生を貶めたことでは、
右に並ぶ者が全くいない、格別な存在なのだ。
例えば、誰かが「GLA会員は、高橋信次の遺骨とともに納骨できることに、
歓びや、このうえない誇りを持っている人たちだ」と著書に書いたとしよう。
そして誰かが、GLA会員に向かって、これが真実か否か質問したとしよう。
GLA会員はどうすればいいだろうか?簡単なことだ。
「その本に書いてあることは全くのウソです」と言えばいいのだ。 では、同じことが、GLAの名で、GLAホームページに掲載されたらどうだろうか?
「そのページに書いてあることは全くのウソです」と言えば、
「では、GLAはホームページに全くのウソを書くのですか?」と質問されたら、
何も答えることができないだろう。
このように、関芳郎と茶坊主どもは、「GLA」の名で、「GLAホームページを使って」
GLA、佳子先生を貶めたのだ。これは、末端のGLA会員が対処しようとして
対処しきれるものではないのだ。だから、関芳郎と茶坊主どもは、
GLA、佳子先生を貶めたことでは、右に並ぶ者が全くいない、格別な存在なのだ。
この行為によって、様々な痛みが既に生じている。
>>509-515に書いた「B群」の人々をGLAから徹底的に排除するという
結果を生み出しているのだ。
関芳郎と茶坊主どもは、自分たちの行為に対して、
どのように責任を取り、どのように償うつもりなのだろうか。 >>549
それは、責任の所在を曖昧にしておけという意味かな?
そうすると、同じような事が形を変えて何度でも起こるということだ。
関芳郎と茶坊主どもは、多くの人々を神理の道から排除した責任を取るべきだ。
責任を取るまで、何度でも追及すべきだ。
「責任を取る」とは、このような事が何故起こったのか?二度と起こらないように
するにはどうすればよいのか、明らかにすることだ。
その解答は既に何度も述べている。
一切の原因は、「千年構想」「7つのプログラム」を放置してきたことだ。
二度と起こらないようにするには、「千年構想」「7つのプログラム」を推進
することだ。関芳郎と茶坊主どもは、それを自ら述べ、実行することだ。 >>550
力強い言い切った文章、あっぱれ!
『お前が舵を取れ!』
長渕剛より >>548の続きだが、
関芳郎と茶坊主どもは、自分達の行為に対して、どのように責任を取れば
良いのか解らないかもしれないので、述べておこう。連中がGLAの
ホームページに書き込んだ奇怪な言葉は簡単に削除できることであるし、
現実に、既に削除されている。
しかし、「GLAのホームページに奇怪な言葉が書き込まれた」という事実は
未来永劫消し去ることはできない。そして、その事実によって、GLAに対して
人々が抱くマイナスイメージというものも消し去ることはできないのだ。
しかし、マイナスイメージがあるからと言って、それが直ちに、「B群」の
人々(>>509-515)をGLAから排除する結果にはつながるとは限らない。
>>509-515に述べたように、GLAを忌避するかどうかは、プラスイメージと
マイナスイメージの相対的な比較によって決まるのだ。
すなわち、大きなマイナスイメージが生じたとしても、それを上回る大きな
プラスイメージを醸成すれば、「B群」の人々を引き留めることができるのだ。 では、「大きなプラスイメージ」を醸成するにはどうすれば良いだろうか?
それは既に佳子先生が解答を示して下さっている。
非会員である「B群」の人々に対しては、「社会発信力の強化」によって
プラスイメージを醸成すればよい。会員である「B群」の人々に対しては、
「研鑽の充実」、「人生同伴態勢の充実」、「通信ネットワーク環境の整備」、
「拠点の充実」によってプラスイメージを醸成すればよいのだ。
そして、既に述べたように、GLAのホームページに奇怪な言葉が書き込まれた
背景には、千年構想を放置したために信次先生の遺骨を祀る意味が全く
理解できなかったということがあるだろう。
佳子先生が信次先生の遺骨を祀られた理由と考えられるものは、次のリンクに
既に書いている。
"http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1472427603/637-640"
千年構想を放置してきたから、このことが見いだせなかったのだ。
ならば、同じような愚行を繰り返さないためには、「千年構想」を推進するしかあるまい。 では、千年構想と7つのプログラムを推進するには、何をすれば良いのだろうか?
千年構想にしても、7つのプログラムにしても、推進するには「智慧」が必要だ。
しかし、関芳郎や茶坊主どもには智慧が無い。智慧が無いのであれば、3万人の
GLA会員に、智慧を借りればよいのだ。
関芳郎や茶坊主どもに求められていることは、在家の会員同士で智慧の交換が
できるよう、例えばネットワーク上で意見交換できるような場を整え、その
場のコーディネートを果たすことだ。関芳郎や茶坊主どもに智慧が無いと言っても、
場を整え、場のコーディネートを果たせる程度の智慧は持ち合わせているだろう。
職員が場をコーディネートすべきことは、佳子先生が元々示されたテーマからも
明らかに読み取れることだ。 GLA誌1999年11月号の記事「GLA 魂共同体千年構想の始動」には、「GLA共同体の
千年構想の青写真に、一丸となってアクセスする」(79ページ)というテーマが
示されている。「誰か一部の人がアクセスする」のではなく、「一丸となって
アクセスする」ためには、千年構想についてネットワーク上で意見交換できるような
場を職員が整え、そのコーディネートを果たさなければならないことは明らかであろう。
また、7つのプログラムについて佳子先生が元々示された「願い」は、「菩提心発掘」
であった。すなわち、7つのプログラムは、ただ遂行すれば良いわけではなく、
「菩提心発掘」を伴わなければならないのだ。
「菩提心発掘」とは、誰の菩提心を発掘することだろうか?勿論、それは
「3万人のGLA会員全員の菩提心」に相違ない。7つのプログラムの取り組みを通じて
3万人のGLA会員が菩提心発掘を果たして行くためには、ネットワーク上で7つの
プログラムの意見交換ができる場を整えなければならないことは明らかであろう。 関芳郎よ。茶坊主どもよ。
お前たちであっても、智慧ある在家の会員から智慧を借りれば、千年構想も、
7つのプログラムも、推進できるのだ。そのために、
在家の会員がネットワーク上で意見交換できる場を直ちに整えよ。
そして、その場のコーディネートを果たせ。
お前たちは、GLAのホームページに奇怪な言葉を書き込んだ。
これは、既に述べたように、過去の歴史上、GLA、佳子先生を最も貶める行為だ。
お前たちの行為によって、GLAが嘲笑され、誤解を受けているのだ。
お前たちの行為によって、多くの人々の内に、佳子先生、GLAに対する
マイナスイメージが醸成され、その人々がGLAから排除されているのだ。
お前たちの行為は、万死に値する大罪と呼ぶしかあるまい。
お前たちが犯した大罪を償うには、千年構想と7つのプログラムを
推進するしか道は無いのだ。 >>558
そのような事を言うなら、佳子先生に言うべきだな。「やる気のない
人間をつついて動かす」というのは、実に非効率なやり方だ。
関芳郎に全くやる気がないならば何もやらなくていい、とも思うのだ。
関芳郎はさっさと引退させて、後任の総合本部長(誰になるかは知らないが)に、
関芳郎の尻拭いを担ってもらったほうが効率的だと思う。
しかし、おそらく佳子先生は、「効率/非効率」だけで判断されている
わけではない。「自分の尻拭いができないまま人生を終わる」というのは、
魂の次元から眺めると「実に悲惨な人生」になるのではないかな。
だから佳子先生は「せめて自分の尻拭いができるようになった後に
引退してほしい」と願っておられるのではないかな。そうだとすると、
現状のまま関芳郎本人が引退を希望しても、佳子先生は許されないだろう。 >>558
あなたは部外者です。
"You are a fucking loser !!"
ミカエルボーイズ&ガールズ(MBG)より
MBGの人たちってどのぐらい残ってるんだろう?
今はMJB? http://oumijisanpo.web.fc2.com/bukyo/index-5.html
実を言うと、さきの『大バリニッバーナ経』において死を前にしたブッダは、自分の死後、遺骨の供養にかかずらうようなことをしてはいけない、ということをいっている。
後に少し考えてもみるが、ひとこと付け加えておく。ブッダの死後、遺体は火葬に付されている。そのうえ、あとにのこされた骨灰は分配され、それをもとに仏舎利崇拝が生ずるようになった。
遺骨の供養にかかわるなといったブッダの遺言を、弟子や信者たちが裏切り、その生前の意志をふみにじってしまったのである。
ブッダはそのことを、死の瞑想のなかですでに予感していたのではないだろうか。 http://oumijisanpo.web.fc2.com/bukyo/index-5.html
つぎに『大バリニッバーナ教』が提起する第二の問題が、ブッダの遺体の処理に関わる裏切りである。思えば、この裏切りは決定的であった。
その後の仏教の運命を決定的にしたといってもよいからである。はたしてそのことについて、ブッダ自身は期がついていたのであろうか。
この経典の最終尾にあたるところで、ブッダはほとんど遺言をのこすようなことをいっている。おそらく気になってしかたなかったのであろう。それは一体何であったのか。
ブッダの次のような言葉をみてみよう。
『アーナンダよ。お前たちは修行完成者(ブッダ)の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ』
要するに、葬式と遺骨崇拝に心をわずらわせるな、といっている。遺骨を焼いて、その後で骨を拾ったり供養の対象にする必要はないとさとしている。
なぜなら大事な事は「正しい目的」のために努力することだけだからだ……。
ぶっだの遺言は明瞭である。その一点の曇りもない言葉をアーナンダとて疑う事はなかったであろう、が、本当に心のそこから納得していたのだろうか。
というのもそのブッダの遺言は裏切られ、その簡明な言葉を裏切るようなことが弟子や信者たちによって行なわれるようになる。
その動きをアーナンダはおしとどめる事ができなかったのである。 http://oumijisanpo.web.fc2.com/bukyo/index-5.html
こうしてブッダの遺骨に対する供養が始まった。搭に納められたブッダの遺骨、すなわち仏舎利にたいする崇拝が始まった。遺骨の供養を中心とする葬儀の原型がそのとき定まったといってもよいだろう。
だが、今述べたようにブッダ自身は、自分の遺骨の供養といったことにはいっさいかかずらうな、といいのこしていた。遺骨崇拝に走ることをかたく戒めていたのである。そのブッダの意志が一顧だにされず踏みにじられてしまった。
ブッダの最後の言葉にもかかわらず、あとに残された者たちの願望が強かったということになるのだろう。仏陀にたいする尊敬の念がブッダの気持ちを押しつぶして、大きく膨らんでいったのである。
『大溌涅槃経』というテキスト自体がブッダの遺言を裏切ってしまうということは、しかしながら、その裏切りは、死にゆくブッダにたいする追慕と喪失感がそれほど強大であったという意味でも有る。
死は人々は不安と混乱の淵につきおとす。その無秩序からはいあがるために、ブッダの遺骨に執着し、それを分配して搭に納められずにはいられなかった。
ブッダの遺言に反してまでも・…・事実はそう言う事ではなかったのではなかろうか。
アーナンダの裏切りによって仏教の歴史は始まり、そして今日のわれわれもまたそのようなアーナンダの徒として、仏教という一筋の縄にすがり付いているのである。
以後、アーナンダの徒はそのような死の荘厳と遺骨の崇拝を出発点として、仏教の歴史を動かしてきているのである。いまさら一体、誰がそのような仏教の運命から脱がれることができるというのか。
われわれはアーナンダから出発するほかない。ブッダの言葉を聞き誤まったアーナンダの徒として生きていくほかない。
あえていえば仏教の伝統はそこを原点として形成されたのである。仏教はブッダ殺しによって歴史の一ページをふみだしたのである。 リンク先が必ずしも真実じゃないんだから長文コピペやめれ
2500年以上前の事なんてネットの1個のソースくらいじゃ信憑性ないわ 火葬と土葬の結合と遺骨崇拝の成立
http://s-eizen.com/page36
http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20090319/1237469639
>まず第一に、お墓があるのは、仏教国では日本だけである、ということを認識する必要がある。
>日本人は、仏教と言えば、お墓を連想するほど、お墓は仏教にとって不可欠のもの、仏教の一部だと、思い込んで、お墓のない仏教など夢想だにもしない。しかし、 麻原、大川、藤谷のもとになったカルト
だまされねぇよ 関芳郎と茶坊主どもが為すべきことは >>552-556 に書いたが、
彼らはこの通り動くだろうか?おそらく動こうとはしないだろう。
彼らのこれまでの行為を振り返ってみると、彼らに自浄能力は期待できない。
自浄能力を持っている職員は、おそらく佳子先生からストップをかけられて
いるのだろう。そして、佳子先生御自身も動かれる気配がない。
この事態は何を呼びかけているのだろうか?
私は、在家の会員が声を挙げて、「ネットワーク上で意見交換できる場」
を整えるよう、様々なルートで事務局に要求することが呼びかけられて
いると思うのだ。
そして、その場で在家の会員が主導して、千年構想と7つのプログラムを
推進してゆくことが呼びかけられているのだと思う。 GLA誌2001年6月号には2001年善友の集いの特集記事が組まれており、61ページには、
「二十一世紀に向かうGLAのヴィジョン」として、「押し上げる力の結集」
ということが挙げられている。
また、60ページには、「二十一世紀に入ったGLAがはたらきを全開するためには、
これまで以上に職員のはたらきと在家の方々の押し上げる力が車の両輪のようになって
響働してゆく必要があります。あらゆる側面で職員と在家の両輪がたくましくなり、
押し上げる力と引き上げる力がつながってエネルギーが全開してゆくように、
ぜひお世話をさせて頂きたいと願っております」とある。
在家の会員が主導して、千年構想と7つのプログラムを推進してゆくことは、
正に佳子先生が示された「押し上げる力の結集」なのだと思う。
「在家の会員が主導する」と聞いて、不安に思う人もいるかもしれない。
在家の会員の多くは、GLAの果たす具現に参与したことがなく、また、
ボーディサットヴァウィズダムも拝読していないからだ。
「在家の会員が主導しても低次元な議論しかできない」と思うのも、
自然なことかもしれない。 その場合、ボーディサットヴァウィズダムを拝読している職員が、
「引き上げる力」を発揮して、議論の次元を引き上げてゆくことが
呼びかけられているのだと思う。
それは、ボーディサットヴァウィズダムの内容をそのまま開示する
ことではない。在家の会員がボーディサットヴァウィズダムの内容に
自ら気づけるように、「ヒント、視点の導入」をすることだ。
私は以前、佳子先生が在家の会員にボーディサットヴァウィズダムを
開示されないことに疑問を持っていた。しかし、ウィズダムを開示
して頂くよりも、「ヒント、視点の導入」によって、自らウィズダムに
到達したほうが、一層実がある修行になるだろう。
在家の会員は、ボーディサットヴァウィズダムを拝読することなく、
「押し上げる力」を発揮する修行を果たすこと。職員は、ボーディ
サットヴァウィズダムを拝読した上で、「引き上げる力」を発揮する
修行を果たすこと。これによって、在家の会員からも、職員からも、
「数多の菩薩を湧出する」というヴィジョンが実現してゆくのだと思う。
なお、ここでいう「職員」とは茶坊主どものことではなく、現在、
佳子先生からストップをかけられている職員のことだ。 GLAを憂う元会員さんは2001年からストップしとるな〜
現在は2018年でっせ?
情報が古過ぎやん
今時千年構想やら7つのプログラムなんて話題にも上がらんわ
GLAは進化という名のもとに過去は振り返らんのや
覚えとき〜 世の中には沢山の組織がある。
各自が縁ある組織に執着する。
普通の世直しにこそ実践があるのでは?
GLAが拘りの対象だとそれに拘る。
創価ならば、それに拘る。
まあーそうやって今日も子供達は学校でいじめに遭い、
自殺に追い込まれている。
宇宙は無限か有限か?
毒矢の毒は何か?
観念遊戯に逃避し、
組織に執着し逃避する。 >>572
なら、最近の話をしようか。
2014年、佳子先生が信次先生の遺骨を祭祀された理由を
キミは説明できるかな?キミには、説明できないだろう。
つまり、「佳子先生が現在されていること」の意味がキミには
解らないのだ。
「佳子先生が現在されていること」の意味は、1999年に下さった
「千年構想」を真剣に検討して、初めて理解できることなのだよ。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1472427603/637-640 遺骨崇拝も千年構想も極一部の崇拝者が抱く主観による誇大妄想以外何物でもない。
部外者からは誰からも相手にされない極めて滑稽なイベントでしかない。 人類救済に救世主ごっこという観念遊戯
確かに人は真面目に間違いをおかすなw >>574
あんた何言うてんねん
わしが教えたるわ
真偽は知らん
【2018年のプロジェクト】
@日本全国に「魂幼稚園・受発色小学校・ミカエル中学校・ビッククロス高校・菩薩大学」の建設
Aアベノミクスとジェネシスプロジェクトの融合
Bβ星の通信傍受
おおまかに説明するとこんなもんや
わしの創作やないで
妄想や >>574 にさらに付け加えるなら、2014年、関芳郎らがGLAホームページに
書き込んだ奇怪な言葉も、千年構想と7つのプログラムに、大いに関係している。
http://megalodon.jp/2014-1112-0925-12/https://www.gla.or.jp:443/support/kinenkan/p7.php
>とりわけ、祖師高橋信次先生、そして、あまたの求道者たちと共に
>奉納できることは、魂の道を歩む一人ひとりにとっての歓びであり、
>このうえない誇りにほかなりません。
関芳郎らが書き込んだ奇怪な言葉を「因縁果報」で考えてみよう。
【因】
まず、「因」の側面についてだが、関芳郎は、1999年以降、「千年構想」
に関して在家の会員の智慧を全く結集しようとせず放置してきた。
それにより、GLAが今後どのような人を、どのようにして迎え入れてゆくのか、
関芳郎は在家の会員の智慧から学ぶことができなくなり、全くヴィジョンが
描けなくなってしまった。そのため、描くべきヴィジョンの解答を佳子先生が
示されても( http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1472427603/637-640 )、
解答の意味が理解できず、関芳郎は悩乱し「奇怪な思想」を抱くようになったのだ。 【縁:システム】
次に、「縁:システム」についてだが、関芳郎は、2008年以降、「7つのプログラム」
に関しても、在家の会員の智慧を全く結集しようとせず放置してきた。
それにより、特に「社会発信力の強化(社会に発信してゆくためのシステムを整える)」
について述べると、「システム」が不在のまま放置されてしまった。これは、関芳郎が
「奇怪な思想」を抱いたとき、その「奇怪な思想」がそのまま「GLAの教義、思想」として、
社会に垂れ流しにされる危険な状態を作ったということだ。
【縁:同志】
関芳郎の「縁:同志」とは、狭い範囲で考えると、関芳郎の周囲にいる職員(茶坊主ども)
のことである。「奇怪な思想」に基づく「奇怪な言葉」をGLAホームページに書き込むように
関芳郎から命じられたとき、茶坊主どもが為すべきことは何だったのか?それは、
身を呈してでも、それをストップすることであったはずだ。しかし、茶坊主どもは、
己の保身のため、へつら笑いを浮かべながら、命じられた通りの行動を取ったのだ。
【縁:原則】
この茶坊主どもの行動は、別の一面では「縁:原則」の問題でもある。GLA事務局には、
「関芳郎が黙ってケツを突き出せば、茶坊主どもが寄ってきて、ケツの穴を舐める」
という「原則」、あるいは「風土」と呼ぶべきものが、確かに醸成されているのだ。 このように、「因」と「縁(同志、原則、システム)」が見事に揃ったため、
「GLAホームページに奇怪な言葉が書き込まれる」「それによって多くの人が
佳子先生、GLAのことを誤解する」という「果報」が現れたのだ。因縁が揃っている
以上、それは避けることができない必然だったのだ。
ここで、今回の「果報」である「奇怪な言葉」自体は、既にGLAホームページから
削除された。しかし、「奇怪な言葉」を生み出した「因縁」は何も変わっていない。
ならば、その「因縁」により、今後は別の形で次々と、痛みや混乱の「果報」が
現れることも、これまた「必然」なのだ。
では、因縁を整え、果報を転換してゆくために、在家の会員は何をすべきだろうか。
私は、在家の会員にとって「事態を自らの内に引き寄せる」ことが第一に為すべきこと
ではないかと思う。GLAホームページに奇怪な言葉が書き込まれた「因縁」は
上述した通りであり、直接的には、関芳郎と茶坊主どもが生み出したものである。
在家の会員は、直接関わっていないようにも見える。 しかし、在家の会員の皆様に考えて頂きたいのだが、もし、あなたに関芳郎の立場が
与えられていたら、あなたは関芳郎と同じように行動した可能性があったのでは
ないだろうか?また、職員という立場が与えられていたら、あなたも関芳郎に媚びる
茶坊主の一人になっていた可能性はあったのではないだろうか?
ならば、関芳郎と茶坊主どものことを「自分に代わって自分の内界の闇を体現して
くれた存在」であると捉えることはできないだろうか?
また、過去20年、あなた自身が関芳郎や茶坊主どもを放置してきたことも、
「縁:同志」の一環として捉えることができるのではないか。関芳郎と茶坊主どもは、
佳子先生のご指示を無視して、在家の会員の智慧を全く結集しようとせず
千年構想と7つのプログラムを放置した。その時、在家の会員も、佳子先生の
弟子として苦言を呈する義務があったのではないのか。あなたが、その義務を
果たさなかったがために「果報」が生じた、と考えることができるのではないだろうか。
もし、「自分にも少しは原因があるかもしれない」と思うのなら、関芳郎や茶坊主ども
の醜態を自らの内に引き寄せることはできないだろうか。
つまり、関芳郎や茶坊主どもの醜態を「自らの醜態」であると受け止め、>>569-571に
書いた「行動」によって、「自らの醜態」に対峙することはできないだろうか。
それによって因縁の転換が果たされてゆくように思えるのだ。 千年構想と7つのプログラムが進捗しない背景の一つとして、これらのテーマは、
佳子先生が与えて下さる他のテーマと比較して、極端に困難であることが
挙げられるだろう。何が困難なのか細かく見てゆくと、次のようなことになるだろう。
(1)内容そのものが、他のテーマと比較して高度である。
(2)事務局のサポート態勢が全く整っていない。
(3)佳子先生が下さるヒントが非常に少ない。しかも、その中の多くは、
関芳郎らが勝手に言葉を書き換えるなどして、汚染されている。
しかし、佳子先生が下さる他の多くのテーマは全く違う。さほど難しいものではないし、
事務局のサポート態勢もしっかり整えて下さるし、多くのヒントも与えて下さる。
そして、これらのヒントは、そのまま(汚染されていないものを)頂ける。
そして、テーマを完遂できたんら、「皆さん、すばらしい。よくできました」
と褒めて下さるので、それが喜びとなり、励みになる。
なぜ、千年構想と7つのプログラムだけ、極端に困難なのだろうか?
それは、「対象としている人」が違うからだ。 GLA会員の多くは、「菩薩になること」を願いとしている。しかし、多くの
人にとってそれは何転生もかけて達成してゆく願いである。今生に残された
残り数年ないし数十年の期間に、現実に菩薩になれるのかどうか
考えてみると、今生の人生では期待できない人が大多数である。
佳子先生が与えて下さっているテーマの多くは、大多数の会員、すなわち
「今生では菩薩になることが期待できない人」を対象にしている。
しかし、千年構想と7つのプログラムは違う。これは、今生菩薩になれる可能性の
ある人に対して与えられた、「現実に菩薩になるためのテーマ」である。
では、なぜ「現実に菩薩になるためのテーマ」がその人に与えられているの
だろうか?その解答は、その人の魂の系譜にある。
その人は、何度も何度も、菩薩になることを願って転生したのに、その願いは
けっして適うことは無かったのだ。 http://copyman.syoyu.net/Date/20140106/
ここに試算がある通り、「菩薩ではない人」が菩薩になることは、まず不可能
なことであり、数万年に一度程度しか起こらない例外中の例外の出来事である。
多くの人が認識している、たかだか数千年程度の歴史の中では、「菩薩ではない人」
が菩薩になった事例は、おそらく一度も無いだろう。
菩薩になることが極めて困難であるがゆえ、菩薩を目指す人々の魂には、
転生を繰り返す毎に、深い悲しみが穿たれてきたのだ。
・どれほど願っても無理…
・どれほど努力しても無理…
・どれほど時間をかけても無理…
・どれほどの覚者に師事しても無理…
何度も、何度も、深く穿たれてきた悲しみと、それでも決して潰えることが
なかった「願い」が、その人の今生の人生を引き寄せたのだ。
「どれほどの覚者に師事しても無理」であっても、「覚者中の覚者」である
佳子先生は別格である。佳子先生が「数多の菩薩湧出のヴィジョン」を示されて
いるのだから、佳子先生に師事すれば、不可能を可能に転換できるのだ。 ただ、佳子先生に師事していれば、それだけで菩薩になれるというわけではない。
また、「今生では菩薩になることが期待できない人」のためのテーマばかりに
取り組んで、それで褒められて喜ぶような事を繰り返していて、菩薩になれる筈もない。
「今生菩薩になれる可能性のある人」が、己の一切の智慧、一切の力を尽くして、
「現実に菩薩になるためのテーマ」に取り組むことである。それ以外に、
現実に一人の菩薩を生む方法は無い。
>>532-535 に述べた通り、今生の人生で現実に菩薩になるために、これ以上は
望めない最高の環境が、今、現実に与えられている。与えられた環境以外に
必要なものがあれば、何が必要なのか自ら見出して、全てを自ら整えなければならない。
誰かがお膳立てを整えてくれるのを待っていても、誰も整えてくれないということを
知っておくべきだろう。 そもそも高橋佳子という人も一般人であり覚者でもない
まずはそれを悟れと言いたい >>852-855 に述べたように、千年構想と7つのプログラムは、
「今生菩薩になれる可能性のある人」を対象として与えられた、
「現実に菩薩になるためのテーマ」であることは間違いないと思う。
そして、現状を見るならば、鍛錬の対象者=「今生菩薩になれる可能性のある人」
が全く動いていないように見受けられる。このような場合、おそらく神は、
対象者に呼びかけられるため、厳しい形で試練を与えられるのではないかと思う。
「試練」というものを如何に受け止め如何に対応してゆくべきかは、
例えば「Calling 試練は呼びかける」等の御著書に示されている。
しかし、以下の考察にあるように、「神意・青写真にアクセスする」、
「神意・青写真を具現する」という使命を持った人に与えられる「試練」
の看取り方、受け止め方について、佳子先生の御著書には詳しいことが記載
されていない。
http://copyman.syoyu.net/Date/20140117/
http://copyman.syoyu.net/Date/20140118/ 「神意・青写真にアクセスする人」、「神意・青写真を具現する人」とは、
言葉を変えると、「菩薩クラス以上の人」とも言えるだろう。
古今東西の菩薩クラス以上の人が受けてきた試練の多くは、「神の御意志を
具現していない」ことを理由として、「神の御意志を具現すること」を
呼びかけるために、与えられているように見受けられるのだ。
その意味では、菩薩よりも低い段階の人が受ける試練とは、大きく意味合いが
異なっている部分がある。佳子先生の御著書には、はっきり言って、このような
「菩薩クラス以上の人」が受ける試練についての解説が、ごっそり抜けている
ように見受けられるのだ。
ごっそり抜けている理由は、「99%の大多数の人」にとって「菩薩クラス以上の人」
が受ける試練の解説など必要ないものであるし、そのような解説を入れてしまうと、
かえって「99%の大多数の人」にとって試練の意味が解りづらくなってしまう
からだと思う。 「今生菩薩になれる可能性のある人」が受ける試練の意味は、既に菩薩クラス
になっている人が受ける試練に近いものであり、「Calling 試練は呼びかける」等
の御著書には示されていない場合がある。そして、その試練は、多くの場合、
既に菩薩クラスになっている人と同様に、「神の御意志を具現していない」
ことを理由として、「神の御意志を具現すること」を呼びかけるために、与えられる
と思うのだ。
「神の御意志を具現すること」が呼びかけられたとき、一般的には、「神の御意志」
がどのようなものか簡単に解らないので、方向性を掴むことが難しい。
しかし、現在、「今生菩薩になれる可能性のある人」が受けている呼びかけに
ついて考えると、さほど難しいものではない。それは、佳子先生が「千年構想」
「7つのプログラム」という形で、テーマを明確に示されているからであり、
それらのテーマが放置されていることによって、様々な痛みや混乱が現実にGLAに
生じているからだ。
このGLAの現実を見るならば、「神の御意志」がどこにあるのか明白であろう。 今、厳しい形で試練を受けている人であって、「Calling 試練は呼びかける」等の
御著書をいくら拝読しても試練の意味が解らない、という人は、もしかすると、
「今生菩薩になれる可能性のある人」なのかもしれない。
然りとすれば、その人が試練を受けている理由は、「神の御意志を放置しているから」
ではないだろうか。ならば、その人が為すべきことは、神、佳子先生が与えて下さった
「現実に菩薩になるためのテーマ」に対峙して、神の御意志を具現してゆくことである。
今、その人が試練によって受けている苦しみは、「一人の菩薩を生む」ための
生みの苦しみなのだ。その人がその試練の意味を知り、試練からの呼びかけに
応えたならば、そこには一人の菩薩が誕生することが予定されているのだ。 少し、キリスト教のことを考えてみることにする。
キリスト教では、「キリストを信じる者は救われる」「キリストの磔刑によって
罪過のゆるしを受ける」ということが教義になっている。
しかし、イエスキリストは、そのような事を一言も説いていない。逆に、
罪(煩悩)というものについて、イエスキリストは、「自分自身の責任である」
ことを明確に説いている。
> もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部
> を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。(マタイ5.29)
> もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、
> 全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。(マタイ5.30)
イエスキリストが直接説いた教えを顧みず、それ以外の人間が説いた教えが
「キリスト教」と称するものの教義の中心になってしまったのだ。
なぜ、そうなってしまったのだろうか?それは、「そのほうが楽だから」だ。
イエスキリストの言葉通り、罪(煩悩)に対峙してゆくことは、なかなか大変だ。
それは「苦」であって避けたいことなのだ。それよりも、
「信じたならば救われ、イエスキリストが罪過を全部背負ってくれる」
ことにしたほうが、はるかに「楽」であり「快」なのだ。 キリスト教の歴史は、人間が如何に「快苦」に翻弄されやすい存在であるのかを
教えてくれる。「自分自身が快苦に翻弄されやすい」ことに無自覚であれば、
「快」の方向に、「楽」な方向に、際限なく、どんどん流されてゆくのだ。
過去世、キリスト教の教義が成立していった時代に生まれた人もいるだろう。
ならば、その時代、人々がイエスキリストの教えをないがしろにして、
「快」の方向に、「楽」な方向に、流れてゆく現実も見ただろう。
過去世のあなたは、その現実を見て、何をしたのか?
自分の危険を顧みず、その流れにストップをかけようとした人もいただろう。
また、何もしなかった人もいるだろう。
何もしなかった人は、なぜ、何もしなかったのだろうか?
主流派、権力者に逆らうことは、自分の身に危険が及ぶからだろうか?
それは、「苦」を避けようとしたということだろう。
ただ、黙っていれば、危険が及ばないから「楽」なのだ。
ならば、過去世のあなたも、やはり「快苦」に縛られ、「快」の方向に、
「楽」な方向に、際限なく流される人間だったのだ。 「キリストを信じる者は救われる」、「キリストの磔刑によって罪過のゆるしを受ける」
このようなキリスト教の教義が出来上がった原因は、人間が快苦に縛られ、
快苦に翻弄される存在であり、それに無自覚な存在だからだ。
それが、何百年も続いた結果、その捻じ曲がった教義に異を唱える人間は
「異端」として排除されるようになってきたのだ。
「歴史は繰り返す」というが、かつてキリスト教に起こったことと、同じことがGLAに
起こっているのではないだろうか。関芳郎や茶坊主どもは、佳子先生が提示して
下さった「千年構想」「7つのプログラム」を放置している。
それは、面倒であり、面倒は「苦」であるからだろう。
関芳郎や茶坊主どもは、「千年構想」「7つのプログラム」を放置することにより、
大きな痛みが生じているが、それを正視しようとはしない。彼らは、
「そのようなご指示は最初から無かったことにしてしまおう」、「自然消滅したこと
にしてしまおう」、「何も考えなくても良いことにしてしまおう」としているように見える。
それはなぜか?そのほうが「楽」であり「快」であるからだ。 そのような関芳郎や茶坊主どもを見て、在家の会員は、どうしているだろうか?
何もしていないのではないか?主流派、権力者に逆らうことは、自分の身に
(退会という形で)危険が及ぶからだろうか?それは、「苦」を避けようと
したということだろう。ただ、黙っていれば、危険が及ばないから「楽」なのだ。
ならば、あなたも、関芳郎や茶坊主どもと同様に、「快苦」に縛られ、
「快」の方向に、「楽」な方向に、流されているのではないか。
このように見てみると、かつてのキリスト教団と現在のGLAは、そっくり同じように
見える。しかし、違っている点もある。
佳子先生は、GLA会員に対して、止観シート、煩悩地図など、「自分自身が快苦に
翻弄されやすい」ことを明確に自覚できるメソッドを与えて下さっているのだ。
この点がかつてのキリスト教団の時とは違う。だから、「快」の方向に「楽」な
方向に、どんどん流されてゆく自分にストップをかけられる可能性があるのだ。
かつて、キリスト教団に属し、教義が捻じ曲げられてゆくのを黙って見ている
ことしかできなかった、その時代に味わった後悔を、あなたは生きなおすことが
できるだろうか?
もしできるとするならば、快苦に翻弄される自分にストップをかけることが、
その第一歩となるだろう。 今生の人生で菩薩になるべき人々、すなわち、千年構想、7つのプログラムに
先頭に立って挑戦すべき人々が、さらにこれらを放置し続けたなら何が起こるだろうか?
私は、佳子先生が早期に(例えば数年以内に)ご帰天されることになると思う。
千年構想、7つのプログラムに挑戦すべき人々が、それを放置しているのは、
明確に「やらなくてもよい」と思っているからではないだろう。
それは、快苦に翻弄されて、ただ「面倒だから」放置しているのだろう。
あるいは、「佳子先生がもう少し丁寧にご指導して下さって、激励して
下さったなら、取り組んでやらないこともない」と思っているのだろう。
そうなってしまっている原因の一つとして、「佳子先生がご存命中だから、
どうしても頼ってしまう」という面があるのではないだろうか。
ならば、もし、佳子先生がご帰天されたなら、佳子先生ばかりを頼りにして
自ら動こうとしなかった人々も目を覚ますだろう。 これは、キリスト教の歴史を振り返っても、肯定できることである。
「イエスキリストの死」は、ある意味では、当時の弟子にとって
恩寵だったのではないだろうか。
シモン・ペテロは一晩のうちに3度もイエスキリストのことを
「知らぬ」と言ったが、最後は、磔刑に処せられるために、自らローマに
向かったことを思いだす。師の死去によって、弟子が覚醒し、
それによって魂の成長が果たされるのだ。
ならば、GLAにおいても同じように考えることができるだろう。
仮に、佳子先生が早期にご帰天されるとしても、それは弟子を見捨て
られたのではない。それは、「その人々を今生の人生で菩薩にする」
という約束を果たされるための愛の行為であり、恩寵なのだ。
勿論、そうなる前に、対象となる人々が覚醒したならば、佳子先生が
早期にご帰天される必要はなくなるし、私もそうなることを願っている。 >>596-597
に書いたことだが、やはり、「佳子先生を早期に召し上げる」という
神の御意志を私は強く感じる。このままでは、その通りになるしかないだろう。
しかし、それが神の御意志であるとしても、それは最終決定ではない。
まだ間に合う。まだ時間が残されているのだ。
過去20年、関芳郎や茶坊主どものような人間に好き勝手なことをやらせたために、
千年構想も、7つのプログラムも、全く放置されるという結果を招いてしまった。
一人ひとりの会員は、その結果を「自らの因が招いたもの」として、
内に引き寄せなければならない。
関芳郎や茶坊主どものような人間を放置してしまったのは、過去20年、ただ「苦」
を遠ざけ、「快」と「楽」を求めようとした、自分自身の因が引き起こしたものでは
なかっただろうか?一人ひとりの会員が、快苦に翻弄された自分自身の過去を悔い、
佳子先生が下さったテーマに愚直に向かってゆくことを決意し、その決意を
行動に移してゆかなければならないのだ。
それが果たせないのであれば、弟子の転換を促すために、神は確実に佳子先生を
召し上げられるだろう。それ以外の方法がなくなるからだ。 「佳子先生が下さったテーマに愚直に向かってゆく」ということは、言葉を
変えれば、「関芳郎や茶坊主どもに盾突く」ということである。
それは、確かに「退会」に追い込まれる危険がある。現に、GLAを憂う元会員は、
佳子先生が下さったテーマに愚直に向かってゆこうとしたために、退会に追い込まれた。
しかし、イエスキリストは、「からだを殺しても、魂を殺すことのできない
者どもを恐れるな」と教えているではないか。関芳郎や茶坊主どもにできることは、
「退会させる」ことだけであって、彼らは「からだを殺す」ことすらできない。
そのような者を恐れる理由など、全く無いのだ。
さらに、GLAを憂う元会員が退会に追い込まれたのは、一人で動こうとしたこと
も一因であったように思える。しかし、「佳子先生が下さったテーマに愚直に
向かってゆく」ことを志す人間が100人、200人と集まったらどうなるだろうか。
関芳郎や茶坊主どもにしても、100人、200人もの会員を退会させることなど
できないだろう。ならば、関芳郎や茶坊主ども、「自分たちが変わるしかない」
と思うようになるだろう。
それによって、「佳子先生が下さったテーマに愚直に向かってゆく」という志を、
GLA全体で共有することができ、「佳子先生の早期のご帰天」というものを
阻止することができるのだ。 佳子先生には、まだまだ果たして頂かなければならないことが山積している。
千年構想に真剣に取り組んだならば、
「高橋信次先生の法の復活」( http://file.copyman.syoyu.net/GJ.pdf )、
「法華経に基づく伝道」( http://file.copyman.syoyu.net/GF.pdf )、
「(外国における)神理のローカライズ」( http://file.copyman.syoyu.net/GI.pdf )、
等が青写真として正しいことが理解できるだろう。
これらの詳細を詰めてゆくためには、佳子先生のご指導は、大きなご助力になるだろう。
そして、これらについて佳子先生のご指導を頂くためには、「高橋信次先生の法を
復活させたい」、「法華経に依拠する伝道を果たしたい」、「世界中に神理を伝えたい」
と弟子が強く願うこと、さらに言えば「一切の人を救済したい」と弟子が強く願うこと
が前提になっている。
その前提の、さらなる前提が、「千年構想、7つのプログラムにチャレンジしたい」
と弟子が願い、実行してゆくことであろう。
この「前提の前提を果たす」という段階を成就するために、佳子先生の人生を
終わらせなければならないとすると、誠に惜しいこととしか言いようがない。
そのような事態は、どうしても避けなければならないのだ。 佳子氏が今更死んでも信次氏のような伝説(全て方便)は生まれないだろうし
世界的にも日本的にも宗教的にも無名に近い人だし
健康寿命的にみても20年はないでしょうね
個人的には法の継承者はGLAを憂う元会員氏を望むよ
誰もついてこないけど >>600
>「高橋信次先生の法を復活させたい」、
後継者がそっぽを向いてるんでしょ?
>「法華経に依拠する伝道を果たしたい」、
法華経は釈迦とは直接無関係
釈迦自身の考えを法華経と結びつけるのは、かなり無理がありすぎるんだよね
>「世界中に神理を伝えたい」
>と弟子が強く願うこと、さらに言えば「一切の人を救済したい」
あまりにも烏滸がましいと思います
こういった思いあがった考え方は、カルトな宗教によく有りがちです >その前提の、さらなる前提が、「千年構想、7つのプログラムにチャレンジしたい」
>と弟子が願い、実行してゆくことであろう。
>この「前提の前提を果たす」という段階を成就するために、佳子先生の人生を
>終わらせなければならないとすると、誠に惜しいこととしか言いようがない。
>そのような事態は、どうしても避けなければならないのだ。
たとえ弟子全員が強く願って
全力で実行したとしても
>>601の意見同様な結果として終わってしまうのではないでしょうか >>597
イエス死後、弟子が奮い立ったそうだが
先代教祖の時、弟子がバラバラに散っていきましたよ。
現実を見てね 千年構想、7つのプログラムについて、
「まず、佳子先生が動いて下さるべきだ」
「佳子先生が声をかけて下さるなら、動ける」
などと考えている人がいるかもしれない。
それは、あくまでも因縁側人類は佳子先生であり、
自分は因縁側人類のまま留まるということである。
どうしても佳子先生を頼ってしまうということであれば、
「佳子先生は、弟子の成長にとって邪魔者である」ということになる。
佳子先生が邪魔者であり続けるならば、やはり佳子先生には
ご帰天して頂くしか、選択肢は無くなるだろう。
何につけても佳子先生を頼ろうとするならば、自分自身のその
想念こそが佳子先生を死に追いやることを心すべきではないか。
佳子先生のご帰天を阻止したいのであれば、佳子先生が邪魔者に
ならないようにすれば良いのだ。「佳子先生は既にご帰天された」もの
と考えて、自ら因縁側人類に転換して具現を果たすことはできないだろうか。
挑戦を果たすのは、それほど難しいことだろうか? >千年構想、7つのプログラムについて、
「まず、佳子先生が動いて下さるべきだ」
「佳子先生が声をかけて下さるなら、動ける」
などと考えている人がいるかもしれない。
…とあるけど
高橋佳子氏が独自に発案したと考える方が不自然じゃね?
こういう発案を提議するのは頭脳的に言って関芳郎氏だろ
関芳郎氏の多大な助言がないと著書作成すらも有り得ない
…って考えるけど
GLAを憂う元会員氏は軽蔑する関芳郎氏に踊らされてるに過ぎない >>607
> こういう発案を提議するのは頭脳的に言って関芳郎氏だろ
私は、関芳郎が如何に愚か者であるのか、再三述べてきたつもりなので、
このような発言を見ると戸惑う。
関芳郎の愚かさは、多くの場合、「GLAの愚かさ」という形で現れているため、
客観的に見て、それが本当に関芳郎に起因するのかどうか解らない、
ということだろうか。ならば、「客観的に見て、関芳郎に起因すること
に間違いない」と言えることを紹介しよう。
関芳郎が会員に向かって、「美談」として何度も話していたことがある。
この「美談」は、確か月刊誌だったと思うが、活字でも見た記憶がある。
どこにあったか思い出せないし探す気にもなれないが、
「関芳郎が愚か者である」という明白な証拠が欲しい人は探せばいいだろう。 その「美談」は、だいたい、次のような話だった。
信次先生がご在世中、「神理を世界に伝えるため」と称して、関芳郎は
信次先生のご著書を一冊(どのご著書か知らないが)英訳したというのだ。
関芳郎は英訳したご著書を信次先生に提出したが、信次先生から
「ありがとう。でも、時期尚早だから、それはいらない」
というような事を言われてしまったらしい。
そこまで見抜いておられた信次先生の先見の明が「美談」の内容だった。
私は、この「美談」を聞いたとき、その当時、30代後半から40歳前後
であったはずの関芳郎は、「ほう・れん・そう(報告、連絡、相談)」
という社会人の基本すらできてなかった人間であると見切った。
当時、「神理」と言えば、「信次先生の説かれた神理」しか無かったから、
「神理を世界に伝えるためには信次先生のご著書を英訳しなければならない」
と考えたこと自体は、とても自然であると思うし、変なことではないと思う。
「翻訳者として関芳郎自身が適任」と考えた理由はよく解らないが、
それは、ここでは置いておくとしよう。 「ほう・れん・そう」ができる普通の社会人ならば、実際に翻訳作業に
とりかかる前に、一言、信次先生に相談するだろう。相談した結果、
「ありがとう。でも、時期尚早だから、それはいらない」
と言われたならば、要する時間は5分もかからないだろう。
しかし、「ほう・れん・そう」ができない人間は、信次先生に一言も相談せず、
翻訳作業を始めてしまうわけだ。ご著書を一冊英訳するのにどれだけ時間が
かかったか知らないが、とにかく何週間もの膨大な時間を費やしただろう。
関芳郎は、事務局に入局する前は普通の会社員だったと聞いている。
普通、学生から社会人になったとき、「ほう・れん・そう」を叩き込まれる
と思うのだが、関芳郎がいた会社では、それが無かったのだろうか?
そのあたりの事情はよく解らないが、とにかく関芳郎は、30代後半から
40歳前後の頃、「ほう・れん・そう」すらできない人間であったという
のは事実だ。「社会人失格」というと、言い過ぎだろうか?
しかし、そうとしか思えないのだ。 お見通しであったならば翻訳作業へ取り掛かる前に
信次さんの方から中止を呼びかけて無駄な作業を取りやめさせるのが社会人としてのマナーだ
分かっていながら放置したんだぞ
それと英訳については時期尚早?
クリスチャンや神智学系から何か言われる可能性を恐れていたかもね
でもおかしいんだよ
彼は自著が英訳されて広まると予言していたんだから!
いまだにそれが成就されないのは、どうしてだか知らないけどさw 関さんを愚かと罵るなら
関さんを現在の地位に押し上げた最高責任者を非難すべきなんだよ
物の本質を見極められない外野がグダグダ管巻いても批判の為の批判でしかないよねw ん〜素人目には単に関芳郎氏は高学歴で英訳できる頭脳だけど
信次氏は適当な異言は流暢に話せるけど英語は…(滝汗
晩年に太陽系霊団とかまるで宇宙を創造したかのように語ってたけど
その後すぐ死んじゃって
世間も知らない女子大生がミカエル宣言しちゃったりと
今の路線に落ち着くまで舵を取って一番苦労したのは関芳郎氏では(号泣 GLAの後継者は信次氏も悩んでいたのは事実だわな
信次氏の晩年講演のテープなんて聞いてると
「見返りなさい、見返りなさい」→ミカエリナサイ→ミカエル
と変換されて娘の佳子だったのか!っつー流れだけど
死ぬ間際でドタバタしてたのは充分伝わったよ
こういうやり取りとかGLA公式のテープで残ってるし
オカルトや超能力とか霊能力なんかが流行していた70年代ならではなんだなきっと 佳子氏が在学中に後継者になって即自らGLAという組織を大変革しようと
したのも事実だわな
機関紙が「GLA」から「ミカエル」にいきなり変わった
今じゃお宝ものの佳子氏の幼稚な文章や直筆のイラストなんかも載せてお姫様状態だった
がしかし
ここでブレーキをかけられたのか幻の機関紙となってもうた
そのブレーキをかけて導いてきたのは関芳郎氏以外有り得ないと推察申し上げます カリスマを陰で支え
助言提起
運営ノウハウ
容姿端麗 頭脳明晰
二代に渡って信頼されてきた唯一の人物は誰か
それは秘密秘密 秘密の関ちゃん♪ 内助の功というべきか
カリスマ監督を支えてきた名ヘッドコーチ或いは助監督かな
いなくなった時になって改めてその価値が見いだされる可能性が高い
代表者の存在がなくなる以前に会への打撃は計り知れないものがあるだろう だよねー
ケーコのオリジナルは皆無だろーし
「このような御提案がありますが、先生いかがでしょうか」
なんてセッキーが執事のように言ってそー
ケーコがセッキーを邪魔者だと思ってたら
こんなに永く右腕にはしてないよねー 彼を解雇したら大変だよ
だってセッキ―を切ったかのように不満含みの内幕が暴露されたりするかもしれないんだも〜ん 昔も今もセッキー時代
予言された誇大妄想未来とは異なって
ずっと停滞したまんま〜♪ 関芳郎が、様々な愚行を犯してきたのは、議論の余地が無いほど明白な
ことだと思うのだが、それを認識できない人が存在するのも事実のようだ。
関芳郎の愚行を認識できるか否か、認識できるなら、それに対して行動を
起こせるか否かで分類すると、GLA会員は、次のA群、B群、C群の
3種類に分類できるだろう。
A群:関芳郎の愚行を認識でき、それを是正させるべく行動を起こせる人。
B群:関芳郎の愚行を認識できるが、それを放置する人。
C群:関芳郎の愚行を認識できない人。
但し、佳子先生は、A群の人々にはストップをかけておられるように見受けられる。
そのため、B群の人々の意向のまま、関芳郎の愚行が放置されているのだ。
B群の人々は、関芳郎を放置しながら、「関芳郎のような人間が、なぜ
総合本部長に任命されたのだろうか?」と疑問に思っているかもしれない。
その疑問に対する解答を知りたければ、「関芳郎が総合本部長に任命された
ことにより、自分の内界に何が起こっているか?」を注意深く観察するとよい。
それこそが解答なのだ。 B群の人々とは、関芳郎に媚び関芳郎のケツの穴を舐めるというおぞましい
行為に耽っている茶坊主どもであり、関芳郎と茶坊主どもの醜態をただ
眺めている在家の会員である。
B群の人々は、ただ快苦の闇に縛られ、己の身の安全を図ろうとして、
関芳郎をのさばらせているのだ。B群の人々は、自分の内界から闇が噴き
出しているのを自覚できるだろうか?
佳子先生は、正にその自覚を促すために、関芳郎を総合本部長に
任命されたのであろう。自らの内界から噴き出している闇は、関芳郎を
縁として噴き出してきたものであるが、それは、間違いなく、元々己の内界に
存在していた闇なのだ。関芳郎が総合本部長でなければ、その闇を自覚する
ことは困難だったのではないだろうか。
佳子先生は、その闇を看取りやすくして下さったのだ。
その理由をさらに辿ってみるならば、おそらく、その闇を
克服しない限り、菩薩になることはできないのだ。 菩薩になることを願いながら何度も転生し、その度に願いが適わず打ちのめ
された魂。それでも潰えなかった願いが、あなたをこの場に運んできたのだ。
あなたは関芳郎の愚行を認識しながら、快苦の闇の中に埋もれ、手も足も出せない。
だからこそ、今の運命がわざわざ与えられ、闇を看取りやすくして頂いているのだ。
B群の人々は、自分自身の内界から噴き出している快苦の闇を自覚できる
だろうか?その快苦の闇こそが、幾転生もの長きに渡って、あなたの願いを
阻んできた元凶なのだ。自ら、その快苦の闇を食い破り、自分の力で
脱出しなければならないのだ。
菩薩の境涯に挑戦する資格は、快苦の闇を食い破り脱出できた者だけに
与えられるのだろう。 >>623 に挙げたB群の人々は、関芳郎の愚行を知りながら、
なぜそれを放置しているのだろうか?
自分の内界をしっかりと看取って、理由を明らかにすべきだ。
内界を看取ったなら、自分自身が動かない原因に、「佳子先生」
が絡んでいることが解るだろう。例えば「佳子先生がどうにかされるだろう」、
否「されるべきだろう」などと考えているから、自分から動かないのだ。
千年構想が放置され始めてから約20年が経過した。その間、放置
されていることに対して、佳子先生は何もされなかったではないか。
ならば、これからも、何もされないのは解りきったことだ。
なぜ解り切ったことが解らなくなってしまったのだろうか?
それは、ひたすら快を求め、苦を退けようとするあなたのカルマが
そうさせているのだ。そのカルマが、「佳子先生がどうにかされる」
という幻想を生み出しているのだ。 あなたがこのまま幻想に浸り、佳子先生を頼ってしまって動けない
とするとするならば、「佳子先生」という存在は、あなたの
修行にとって、「最大の障害」、「最大の邪魔者」ということになる。
佳子先生は、あなたに対して、必ず菩薩になれるように導くことを
約束されただろう。約束されたなら、あなたには、可能な限り最高の環境
が与えられるだろう。「最高の環境」には、障害、邪魔者を
排除することも、当然含まれている。
菩薩になるための「最高の環境」を実現するにあたって、佳子先生
ご自身が「最大の障害」、「最大の邪魔者」になってしまうのであれば、
佳子先生にはご帰天頂くしか方法がなくなるのだ。
佳子先生が下さったテーマに向かおうとせず、関芳郎のような
人間を放置しておいて、「佳子先生がどうにかされる」などという
幻想に浸る……あなたのその身口意が、佳子先生を「最大の障害」、
「最大の邪魔者」にしてしまい、佳子先生を死に追いやるのだ。 GLAを憂う元会員氏のように退会した上で関芳郎氏のみを標的にしているのは稀有である。
関氏と直接関わった事実もなく、よく延々とループできるなと感心してしまう程の関氏ファンだと畏敬の念を抱いてしまう。 そもそも「菩薩」という設定もおかしな話なのに
会員を「菩薩」に導くとか
高橋佳子は「菩薩より上」設定な時点で
もうこの団体には新規の冷めた若者は入会しないでしょ
作り話でも全く魅力を感じないし
「菩薩」になるために生まれてきたとか無理があり過ぎて無理無理 大宇宙大神霊仏よ
↑
これを未だに唱えてるのは古参であり信次派だろうな
「心行」という非売品持ってる人も少ないしな
分派した信次の教えの教団はまだ唱えてそう
青年塾に行った時「神よ」と冒頭で言いながら「祈りのみち」を
皆が読み始めた時の強烈な違和感は今でも忘れない
芝居がかった佳子の語り口調も忘れない
あの空気を気持ち悪いと思えた自分を讃えたい 心行って会内部ではまだ売ってるんじゃないの?
むか〜しわけてもらったけど500円だったわ。 「菩薩の存在を信じられない」という人間に「信じよ」と言うのは無理な話だ。
しかし、あと数年すれば、否が応にも認めざるを得なくなるだろう。
快苦に縛られ己の保身のために、関芳郎のような人間を放置してきた人々。
佳子先生が下さったテーマを関芳郎とともに放置してきた人々。
煩悩の泥沼にうごめく、その人々が覚醒し動き始めるだろう。
そして、その中から次々と菩薩が誕生してくるだろう。
それは、土くれの中から湧き出してくる菩薩、「地湧の菩薩」として
法華経の中に予言されたことである。あと近年中にその予言が具現してゆくだろう。
問題は、「地湧の菩薩」の誕生のために「佳子先生の死」が条件になるかどうかだ。
対象となる人々が「佳子先生がどうにかされる」などという幻想に浸っているなら、
神は佳子先生を天上界に召し上げられることになるだろう。 >>632
心行の経文だけの薄いのは大きな講演会場では500円で販売してた
心行と細かい解説付きの厚いほうは公で販売されてなかったな
詳細を言うと装丁も皮革っぽくて表紙文字も金色と銀色のパターンがあった
会場で販売されてた500円の装丁はそれなりに安っぽい
>>633
「神対応」という言葉が普通に使用されている世の中で
自分にとって都合が良くて素晴らしい人を「神」と呼ぶんだから
神より下の菩薩になろうとする時代じゃないでしょ
もう予言とか信じるのやめたほうがいいよ
聖書の予言から始まってノストラダムスの大予言やら高橋信次の予言や
高橋佳子ミカエル天使長大菩薩女神様の真創世記黙示録の予言も的中したがことない
未来だのいつかだの数年後だの具体的な事も根拠もない事は誰でも言えるホラでしかない S行なんて名称は心経からのアレンジだろう
遊び心で真理を神理と弄くった幼い心理と同じパターンなのは明白
売れ残った経文を教祖は嘆いていたが一向に売れ行きは芳しくなく
そのままフェードアウト
そりゃそうだろ難解な経文を否定した話に賛同して集まったのが大半の信者だったのだからw
ましてやあの内容ではねw
しかもS行を作成したのはH田氏なんでしょ? >>633
>「菩薩の存在を信じられない」という人間に「信じよ」と言うのは無理な話だ。
菩薩の意味
わかってないよね君w
>しかし、あと数年すれば、否が応にも認めざるを得なくなるだろう。
それにしても下手な告知だなw
悔しければ詳しく説明してみなされw
思わせぶりな予見めいた子供騙しの法螺話は何十年も前からの伝統芸w
莫迦過ぎますw >>635
H田氏って堀田さんですか?
知らない人のために補足すると、堀田さんは三宝出版の元社長で
信次さん亡き後にGLAから分派して新たに教団作った人
詳細は「偕和會」でぐぐってくだせぃな
どの宗教にも言える事だけど退会しようが脱会しようが
何かに依存しようとする心から脱却しない限り次の心の拠り所探しで
人生終了どすぇ >どの宗教にも言える事だけど退会しようが脱会しようが
>何かに依存しようとする心から脱却しない限り次の心の拠り所探しで
>人生終了どすぇ
それ今この方がやっています。
ttps://twitter.com/kiminori_sasaki 私は、GLAが全体として成長を遂げてゆくためには、
「弟子の力を100%出し切る」ということが欠かせないと思う。
「弟子の力」というのは、勿論、「GLA会員3万人の総合力」ということ
であり、そのごく一部の人間のみ(例えば関芳郎や茶坊主どものみ)の
力がどうであろうが、関係ない。
弟子の力を100%出し切ったならば、
「GLAを憂う元会員」が公開したものよりも優れたヴィジョンを打ち出す
ことができるはずだ。
なぜなら、「GLAを憂う元会員」が持っている経験、見識は、
「GLA会員3万人」が持っている経験、見識に、絶対に勝てるわけはない
からだ。さらに、「GLAを憂う元会員」が公開したヴィジョンのうち、
「そのまま使える」と思われるものは、そのまま使ってよいわけであるし、
「これは変更する必要がある」と思われるものは、変更すればよいわけである。
すると、「最終的な出来」は、「GLAを憂う元会員」が公開した
ヴィジョンよりも劣るはずなど無いのだ。 「弟子の力を100%出し切る」というのは、言葉を変えると、
「佳子先生は既にこの世におられない」ものと受け止めて、頂いた
テーマに対して弟子が100%の責任を担うということでもある。
ただ、弟子の力を100%出し尽くしたとしても、佳子先生からすれば、
それは百点満点で40点ぐらいの点数しか付かないかもしれない。
ならば、そのとき、佳子先生は「残りの60点を取るにはどうするか」
ということをご指導下さるだろう。すると、そのご指導によって、
GLA全体に蓄積される智慧のレベルが、上がるだろう。
一方、弟子が100%の力を出し尽くしていないのにご指導を
下さっても、それはあまり身につかないと思う。それゆえに、とにかく、
「100%の力、GLA会員3万人の総合力を出す」ということが、
場全体の成長を果たしてゆくためには、最低限の条件ではないかと思うのだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています