【隔離】GLAを憂う元会員の独り言【ちらしの裏】 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
関芳郎と茶坊主どもは、全くウィズダムを
作成せずに「7つのプログラム」を進めようとしたのではないかと
私は考えている。勿論、それは個別のプログラム(歴史の整備、
研鑽の充実等)のウィズダムではなく、「7つのプログラム」の
進め方を決定するウィズダム、という意味である。
その考えが正しいと仮定して、今後何が起こるか考えてみたい。
原始GLAの時代の初代弟子の活動は、未来千年に渡って注目され
参照され続けることになるだろう。「GLA創立40周年記念事業」も、
初代弟子の活動として、語り継がれてゆくだろう。
「GLA創立40周年記念事業」は、「菩提心発掘」をメインテーマ
とし、「喜捨行」、「書写行」、「7つのプログラム」という
3つの柱から成っていた。このうち「喜捨行」と「書写行」は
滞りなく進行し終了したが、どうゆうわけか「7つのプログラム」
だけは全く何も進まなかった。
未来の人々は、「一体、なぜ、何も進まなかったのか?」と
興味深く、また不思議に思い、残された記録を精査するだろう。
すると、なんと、
「全くウィズダムを作成せずに進めようとしていた」
という驚愕の事実にぶち当たるだろう。 死んだら終わりじゃないから
死んでから先を考えてどうこうは結局の所、
従来からある宗教と同じ非常で非常に俗っぽい考えではないだろか?
その不安と下世話な思いと微かな願いに付け込んだビジネスが遺骨崇拝であり奉納であり供養である。 GLA独自の教義って無いよねw
どれも元ネタがあるwパクってパクって寄せ集めw無能かな? 三代目は、どうする気?
やっぱり身内からだろうけど候補者とかいるの? 2014年、関芳郎は、次のような奇怪な言葉をGLAホームページに掲載した。
http://megalodon.jp/2014-1112-0925-12/https://www.gla.or.jp:443/support/kinenkan/p7.php
> 人生祈念館地階には、人生を支えた肉体への感謝を込めて、「ご遺骨」
> をお預かりする「納骨室」も設けられました。大いなる存在の光が常に注がれ、
> 見守られている中で、ご遺骨は安置されます。
> とりわけ、祖師高橋信次先生、そして、あまたの求道者たちと共に
> 奉納できることは、魂の道を歩む一人ひとりにとっての歓びであり、
> このうえない誇りにほかなりません。
この奇怪な言葉は、今日もなお、GLAそして佳子先生を貶め続けている。
この「貶め」は、一体いつまで続くのだろうか?それは、現状を放置する限り、
際限なく続くであろう。この事態が何を呼びかけているのか、明らかであろう。
既に述べたことと重複するが、改めて述べることにする。
まず、「GLA」の名によって社会発信された奇怪な言葉は、「GLA」の名
によってのみ、撤回することができる。具体的には、GLAホームページに、
「お詫びと訂正」の記事を掲載するしかあるまい。 次に、愚かな社会発信が再びされないように、システムを整えることだ。
そのためのヒントは、「コミュニティ・デザイン2001」、「社会発信力の強化」
という形で、既に佳子先生が示されている。
私は、その具体的な内容はほとんど知らないが、少なくとも
「社会発信は、社会発信の智慧の鍛錬を受けた者が担うこと」、
「社会発信の内容は、複数人の智慧を結集して合議により決定すること」、
等は含まれているだろう。この2点だけでも実現すれば、「関芳郎の軽薄さ」が
そのまま「GLAの軽薄さ」という形で社会に垂れ流しにされることは防止できる。
そして、>>268-270に書いた通り、関芳郎を問い質し、奇怪な言葉がGLAホームページ
に掲載された経緯を明白にすることだ。
関芳郎が奇怪な社会発信をした背景には、必ず佳子先生の御指示が存在するに
相違ない。そして、その御指示の中には、例えば、「信次先生の遺骨を
祀れるようになったことに、GLA会員の皆様が歓びと誇りを感じられるようにせよ」
とのお言葉が含まれていたものと考えられる。
佳子先生の御指示の内容を明白にしなければ、それを遂行してゆくことはできない。
それゆえ、関芳郎を問い質し、経緯を明白にしなければならないのだ。 私は、これまで、上述したことを「関芳郎と茶坊主どもが遂行すること」
を求めてきた。それは、彼らとて、内界を看取り、自らのカルマを掴む鍛錬を
積んできたはずであり、「自浄能力」を発揮できるはずだと考えていたからだ。
しかし、この点では、私の考えは間違っていたと認めざるを得ない。
関芳郎は、己の見栄と体面に執着し、己の見栄と体面を傷つける行動を
取ることは望まないだろう。茶坊主どもは、己の保身、快苦に対する執着
から逃れられず、関芳郎に媚び、関芳郎のケツの穴を舐め続けるだろう。
関芳郎と茶坊主どものカルマは深く、腐れ根性が魂に染みついている。
彼らに「自浄能力」なるものを求めるのは無理なのだ。
既に述べたように、GLAの事務局には、志ある職員も多く存在するが、
この問題に対しては一切動かないように、佳子先生がストップをかけられて
おられるように見受けられる。 佳子先生が志ある職員にストップをかけられている理由は、在家の会員が
覚醒してこの問題を解決してゆくことが呼びかけられているからであろう。
GLA誌2001年6月号には2001年善友の集いの特集記事が組まれており、61ページには、
「二十一世紀に向かうGLAのヴィジョン」が示されている。その中の一つに、
「共同体の変革一 ――押し上げる力の結集」というものがある。
在家の会員が覚醒するということは、2001年に予言された「押し上げる力の結集」
を具現してゆくということである。そして、押し上げる力を結集してゆくことは、
「GLAホームページに奇怪な言葉が掲載された」という問題を解決するのみならず、
未来のGLAにとって欠かすことができないものであろう。
今、在家の会員が声を上げて、次の4点を実現することが呼びかけられている。
在家の会員の皆様には、是非それを実現して頂きたい。
(1)GLAホームページに訂正記事を掲載させるよう、事務局に要求すること
(2)社会発信のシステムを整えるよう、事務局に要求すること
(3)奇怪な社会発信をした経緯を明白にするよう、事務局に要求すること
(4)経緯が明白になり、佳子先生の御指示の内容が明白になった後は、
在家の会員が率先してその内容を吟味し、遂行してゆくこと。 在家の会員が、「押し上げる力」を結集して関芳郎と茶坊主どもを
動かしてゆくこと ...... それは、関芳郎と茶坊主どもにとっても、
おぞましきカルマを超えてゆける稀有な機会であると言えよう。 2018年新年早々から「ケツ舐め」言いたかっただけやん 宗教は絶対服従社会。
教祖が白といえば白。黒といえば黒。
思考すら自由性を失墜させられ都合良き価値観を植え付けられていく。
スレ主自体が教祖のケツを舐め続けている実態に気付いていないのは滑稽の極みである。 遺骨を髪の毛や爪に置き換えてみよう。
この上ない歓びの正体がどんなものか分かる筈です。 >>501-505 に書いたことは少しおかしかったと思う。もう一度検討してみた。
GLA会員の中には、「自分は神理を世界に広めるため、伝道に尽くしたい。しかし、
GLAホームページに奇怪な言葉が書かれたことによって、伝道に支障が生じている。
なぜ、このようなことが起こっているのだろうか?」と疑問に思っている人が
いるかもしれない。
なぜ、このようなことが起こっているだろうか?
その前に、「伝道に支障が生じている」とは、具体的にどのような事なのだろうか?
GLAに縁のなかった人が佳子先生の御著書に触れたとき、その内容に共感する人が
しばしば現れる。「共感する」ということは、GLA、佳子先生に対してプラスイメージを
抱くということである。その人がGLA、佳子先生に興味を持って、インターネットで
検索したところ、GLAホームページに掲載された「奇怪な言葉」に出会ったとしよう。
その時、その人は、GLA、佳子先生にマイナスイメージを抱くことになるだろう。
ここで「プラスイメージ」と「マイナスイメージ」のどちらが大きいのか、
それは人それぞれであろう。「プラスイメージ」が大きい人を「A群」と呼び、
「マイナスイメージ」が大きい人を「B群」と呼ぶことにしよう。 A群の人の想いを言葉で表すと、例えば、次のようになるだろう。
「開祖の遺骨を使ってお金を集めようとするGLAの姿勢は理解に苦しむ。しかし、
高橋佳子先生の説かれている神理は、叡智に満ちた素晴らしいものであり、
その点を否定することはできない。釈然としない点はあるが、とりあえずGLAに
入会して神理を学んでみよう」
一方、B群の人の想いを言葉で表すと、例えば、次のようになるだろう。
「GLAの主張の中には、もっともらしいものが様々含まれている。しかし、実際に
やっている事は何だ?GLAは、遺骨に対する会員の執着心や選民意識を煽り、
遺骨ビジネスを展開しているではないか。そのような教団は信用できない」
A群の人は、「神理を理解する力」に優れ、それゆえにプラスイメージがマイナス
イメージを上回ったのだ。B群の人も、「神理を理解する力」を備えている。しかし、
それはA群の人ほど強いものではないため、プラスイメージよりもマイナスイメージ
のほうが強くなってしまったのだ。
「伝道に支障が生じている」とは、「B群の人に対して」ということであり、
A群の人に対しては、さほどの影響は無いということになる。 「B群の人に対する伝道」に支障が生じたのは、表面的には、関芳郎がGLAの
ホームページに奇怪な言葉を書き込んだためである。
しかし、関芳郎がそのような行為に及ぼうとしたとき、佳子先生がストップを
かけられなかったのも事実である。すると、「GLAのホームページ奇怪な言葉が
書き込まれたのは、佳子先生の御意向に基づくものである」と言えるだろう。
そのことは、さらに、「神の御意志による」とも言えるだろう。
過去20年以上に渡り、佳子先生はB群の人をGLAに迎え入れるため、様々な
準備を果たされたように思う。そのうちの一つは、佳子先生の御著書がより
多くの人に共感して頂けるよう、読みやすい内容になってきたということだ。
また、B群の人をGLAに招いてゆく「願い」と「志」を現在のGLA会員に醸成する
ために、1999年には「千年構想」を呼びかけて下さった。さらに、現在のGLA会員の
菩提心を発掘しつつ、B群の人を招いてゆく具体的準備を整えてゆくため、
2008年には、「7つのプログラム」の実践を呼びかけて下さった。 その結果はどうだろうか。過去20年近くの期間内に、「御著書」の面では、
確かにB群の人に共感して頂けるものが揃ってきたと思う。
しかし、「B群の人を迎え入れてゆく態勢」についてはどうだろうか?
「千年構想」は20年近く放置されてきたし、「7つのプログラム」は
10年近く放置されてきた。B群の人を迎え入れてゆく態勢は、何一つとして
整っていないのだ。つまり、「御著書」と、「GLAの態勢」との間に
大きなアンバランスが生じてしまっているのだ。
「B群の人を迎え入れてゆく態勢」が整っていない以上、B群の人を入会
させてはならないのだ。それゆえ、御著書に共感した人々のうち、A群のみを
GLAに入会させながら、B群を排除する「障壁」が必要になったのだ。
GLAホームページに掲載された「奇怪な言葉」とは、正にそのB群を排除する
「障壁」であり、その障壁は、現在のGLAにとって必要だから設けられたものなのだ。
「御著書」と、「GLAの態勢」とのアンバランスを解消してゆく目途が立たない限り、
「障壁」を撤廃することは佳子先生が許されないだろう。 「千年構想」も、「7つのプログラム」も、なぜ放置されてきたのだろうか?
「関芳郎や茶坊主どもが放置したから」というのは一つの事実であろう。
しかし、その事実を認識しながら、「関芳郎や茶坊主ども“を”放置した人間」
が存在するのではないか?
関芳郎や茶坊主に意見をすれば、彼らとの間に軋轢が生じるのは避けられない。
それは「苦」であろう。また、「千年構想」や「7つのプログラム」を進めよう
とすることも「苦」を伴う。しかし、何もせず、眺めているだけなら、「楽」
であり、「快」であるのだ。
「関芳郎や茶坊主どもを放置した人間」は、己の「苦」を避け、「快」を
追及する道を選んだのだ。その結果、千年構想も、7つのプログラムも、
20年に渡り、全く何も進まなかったのだ。
快苦に縛られて、「関芳郎や茶坊主どもを放置した人間」とは、一体誰か?
もしかすると、それは「あなた自身」ではないのか? 最初の問いかけに戻ろう。
「自分は神理を世界に広めるため、伝道に尽くしたい。しかし、GLAホームページ
に奇怪な言葉が書かれたことによって、伝道に支障が生じている。
なぜ、このようなことが起こっているのだろうか?」
このような疑問を抱く人に対して、私は次のように回答したい。
「“伝道”と“お世話”は一如であり、
お世話が可能な相手でなければ、GLAに入会させてはいけない。
あなたは、己の快苦に縛られた結果、
関芳郎や茶坊主どもを放置してきたではないか。
その結果、千年構想も、7つのプログラムも、放置されているではないか。
それは、それを必要とする人の“お世話”を放棄したということである。
“お世話”を放棄したならば、その対象者をGLAに入会させることはできない。
だから、その人々に対する伝道に支障が生じているのだ。」 GLAホームページに掲載された奇怪な言葉は、外部からB群の人々が集うことを
排除するとともに、「既にGLAに集っているB群の人々」をGLAから排除する力も
備えている。本スレを見ると、その兆候を強く感じるのだ。
> GLA【高橋佳子】の死生観
> https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512523045/
既に集ったB群の人々がGLAから去ってゆく直接的な理由は、GLAホームページに
掲載された「奇怪な言葉」であるかもしれない。しかし、その根底にある理由は、
「神理が理解できないから」である。神理が理解できないのは、彼らを神理の理解に
導ける研鑽、お世話の態勢が整っていないからだ。彼らは、神理が理解できないゆえ、
GLAの一つの汚点を見つけたら、GLAの全てが汚く見えてしまうのだ。
1980年代、GLAでは、既に集っている会員を外に弾き出す「会員の選抜」が断行された。
http://file.copyman.syoyu.net/GG.pdf
それから30年以上経た今、この悲しい歴史が、再び繰り返されようとしている。
それを押しとどめるためには、B群の人々をお世話してゆく態勢を整えるしかない。
快苦に翻弄される己自身に打ち克ち、千年構想、7つのプログラムを進めてゆくのだ。 ミニ北朝鮮だな。
狂信者諸君が、あの国の映像を見ると
とても他人事とは思えないだろうねw GLAの中で「世界に満ちる困に立ち向かってゆきます」などと誓願を立てる人がいる。
誓願するのは結構だが、具体的にどのような方法で、世界に満ちる困に立ち向かって
ゆくつもりなのだろうか?
自分で色々考えて実行しても、一時的なものに終わったり、局地的なものに
終わったりするだろう。それが全て悪いと言うつもりはないが、世界全体のことを
考えたとき、具体的な方法とは、佳子先生が示されている方法以外にはあり得ないのだ。
すなわち、千年構想のヴィジョンを描き、7つのプログラムを実践するしか無いのだ。
これらを放置しながら、「世界に満ちる困に立ち向かってゆきます」などと言うのは
「一時的な気分の高揚」に過ぎないことを自覚すべきだろう。
多くの人は、「自分のこと、家族のこと」で手いっぱいで、「世界のこと、全体のこと」
には無関心なのだ。だから、これまで、千年構想も、7つのプログラムも放置してこれたのだ。 ただ、多くの人は「伝道したい家族」、「神理を伝えたい家族」がいるのではないだろうか。
あるいは、「GLAに入会はしたけれども、神理にさっぱり関心が無い家族」がいるのでは
ないだろうか。そのような家族は、上に挙げた「B群」に属する人だろう。
ならば、その家族に神理を理解して頂き、神理に関心を持って頂くための最も早道は、
「B群の人々全員に道をつけること」であろう。すなわち、「千年構想のヴィジョンを
描き、7つのプログラムを実践する」ことなのだ。「世間のB群の人は放置しておいて、
自分の家族のB群の人だけに道を付ける」というのは、かえって難しいことなのだ。
「世界のこと、全体のこと」に無関心であったとしても、「自分の家族のこと」に
ついては無関心でいられないだろう。ならば、自分の家族のために千年構想の
ヴィジョンを描くことはできないだろうか?自分の家族のために7つのプログラム
を実践することはできないだろうか?
その実践は、とても大きな意味を持つだろう。実践をスタートするときの願いは
「自分の家族のため」であったとしても、実践の内容は、「一切の人のため」の
ものになる。その「行為=実践の内容」から入って、願いの内容を
「一切の人のため」に昇華させてゆける可能性があるのだ。
このように、自分の目的をより昇華させてゆくこと、高度化してゆくこと、言葉を
換えれば、「個の目的」を「全体の目的」に一致させてゆくことは、「悟りの九段階」
の表を見れば解るように、菩薩になってゆく上で欠かせないことではなかろうか。 7つのプログラムの中の示されている様々な普通名詞を、
固有名詞に置き換えてみるといいかもしれない。
例えば、「研鑽の充実」については、『会員お一人お一人の条件とライフ
スタイルに応じ、「魂の学」を体得できる研鑽システムを整える』という
テーマが示されている。
この、「会員お一人お一人」というのを、神理が理解できず、神理に関心
が持てない、あなたの息子の「○雄」に置き変えてみたらどうだろうか。
すなわち、「研鑽の充実」とは、『「○雄」の条件とライフスタイルに応じ、
「魂の学」を体得できる研鑽システムを整える』ものになる。まさに、
その通りであり、「○雄」のために「研鑽の充実」があるのだ。
ならば、関芳郎や茶坊主どもが何もせずに「研鑽の充実」を放置している
のを見て、あなたは黙っていられなくなるだろう。 >ならば、関芳郎や茶坊主どもが何もせずに「研鑽の充実」を放置している
> のを見て、あなたは黙っていられなくなるだろう。
直接自分で言え。
直接自分が言え。 こんにちは。
スレ主です。このスレは私が立てました。
「GLAを憂う元会員」が立てたわけではありません。
私は彼が皆の意見や指摘を無視した発言を続けている様子を見て
隔離し、彼に自由に『持論』をどうぞ!
という気持ちでこのスレを立てました。
これからも彼は『持論』を曲げずに押し通すでしょうから
彼への無駄で無意味なツッコミはやめましょう。
GLAを憂う元会員は、永遠に関芳郎氏への積年の不満や恨みを語り死を迎えるでしょう。
誰よりも関芳郎氏のケツの穴を舐める事を生きがいにしている男です。
どうか皆様、彼の『持論』のためのスレですので、スルーしてくださいね。 関先生のことより、もっと世界にはびこる闇について憂えてほしいものである。関先生は、佳子先生がいるから大丈夫でしょうに。久々の書き込みだけど、来てみると延々と続いているものだね。 >>521
GLAの会員です。
彼の持論はいまいち、わかるようなわからないような感じです。佳子先生の言葉はあれほどわかりやすいのに、彼の論は難解です。悟るということは、自分の世界をとおして相手がわかる、皆同じ心の世界ですから、必ず相手にわかるように説けるはずなのです。
わかりにくいのは、彼だって私達一般会員と同じように本当には悟っていないからです。みのほどを教えてあげてください。 (>>517-519 の続き)
既に述べたように、関芳郎と茶坊主どもは、佳子先生がご指示下さった
「千年構想」、「7つのプログラム」を放置している。そして、大多数の
会員は、関芳郎と茶坊主どもを放置している。
そのような放置プレイが20年に渡り続いた結果、>>517-519 に述べたように、
明らかに目に見える形で歪が起こり、既に多くの痛みが生じている。
これらの痛みのうち幾つかは、あなたの目前で生じている場合もあるだろう。
あなたは、この結果を見て、まだ事態を放置するのだろうか?
「誰かが動いてくれるはず」と思って傍観しているのだろうか?
ならば、あなたは「果報側人類」に違いない。
(但し、佳子先生からストップをかけられている人は例外として除く)
「果報側人類」と「因縁側人類」の区分けは、状況、条件によって異なる。
自分の家庭や職場の問題で「因縁側人類」として振る舞えたとしても、
GLAの問題に関しては、あなたは明らかな「果報側人類」である。 「果報側人類」が「因縁側人類」に転換してゆくには何をすればいいだろうか?
そのためには、なによりも「自分が果報側人類である」ことを自覚することであろう。
あなたは「佳子先生のご指導を愚直に実践してゆこうとする弟子である自分」
というセルフイメージを持っていないだろうか?そのセルフイメージは全く
の誤りである。あなたが関芳郎と茶坊主どもを放置している理由は、
「己の保身のみ」であり、それは「愚直さ」とは全く無縁のものである。
誤ったセルフイメージを持ったままでは、「因縁側人類」に転換してゆくことは
難しくなる。誤ったセルフイメージを捨てて、「自分が果報側人類である」
ことを自覚し認めることだ。そして、果報側人類としての自分が引き起こした
現実を直視すべきなのだ。
そうすれば、そこに「後悔」が生じ、「新生の願い」が生まれるであろう。
「新生の願い」を真に抱くならば、「果報側人類」から「因縁側人類」に
転換してゆける道が付いてくるだろう。 >GLA【高橋佳子】の死生観
>https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512523045/82-115
本スレでは、GLAホームページに掲載された「御魂を奉納する」、「光の柱」
などの言葉を巡って議論が起きているが、この議論も佳子先生のお言葉と
関芳郎の言葉がごっちゃ混ぜになっているから起こっているのではないだろうか。
世間では、「魂」や「心」というものの定義が曖昧で、両者の区別も
はっきりしない。しかし、佳子先生は「魂」や「心」という言葉を、かなり
厳密に区別して使っておられる。佳子先生が示された神理によれば、「魂」や
「心」というものは、建物(人生祈念館)に奉納できるはずがないのだ。
「建物に魂を奉納する」するような言い方をしているのは、関芳郎や茶坊主
どもの仕業であるとしか考えられない。このように、佳子先生が示された
神理から全く外れた主張がGLAホームページに展開され、これによって誤解が
生じているとするならば、それは正に「社会発信力の強化」を放置してきた
結果であろう。 ある会員が、どこそこ支部に「光の柱」が建つ光景を霊視で見たそうです!
とかいう実しやかなGアルアルの噂話w
失笑話でしかないアホエピソードw 「千年構想」と「7つのプログラム」について、「難しい」と思っている人は
多いかもしれない。何が「難しい」かと言うと、例えば次のようなものだろう。
・態勢作り、役割分担等のお膳立てができていない。
・内容が高度である。
・ヒントとなる情報が少ない上に難しい。
:
では、なぜこれほど難しい課題を佳子先生が与えて下さっているのだろうか?
その答えは、「全ては一人の菩薩を産み出すため」である。
佳子先生が「お膳立て」をしっかり整えられ、解りやすいヒントを多く
出して下されば、「千年構想」も「7つのプログラム」も、スムーズに進捗
するだろう。しかし、それでは菩薩を産み出すことはできないのだ。
「GLA創立40周年記念プロジェクト」のテーマは、「全ては一人の菩薩を
産み出すため」であった。すると、喜捨行も書写行も、「一人の菩薩を
産み出すため」のものであったことになる。また、GLAの様々な研鑽や行も、
「一人の菩薩を産み出すため」のものである。 しかし、喜捨行や、書写行にいくら取り組んでも、それで菩薩になれるという
わけではない。同様に、止観シートを何万枚書いたとしても、それで菩薩に
なれるというわけではない。
これは、「数学者になるためには、まず小学校レベルの四則演算を修得
しなければならない」ということと似ている。四則演算を修得しない限り、
数学者にはなれない。しかし、四則演算をいくら極めたところで、
数学者にはなれないのだ。
これに対して、「千年構想」と「7つのプログラム」は、より直接的な意味を
持っている。それは、「今生の人生で、現実に菩薩になる」ということだ。
だから難しいのだ。だから、志、愛と智慧を湧出させない限り、何も進まないのだ。 今生の人生で、「現実に菩薩になる」というテーマを逃してしまえば、
そのテーマは、来世以降に持ち越すことになる。しかし、今生与えられた
チャンスを逃してしまえば、来世以降にそのテーマを果たすことは極めて
困難であり、事実上不可能と言い切ってもいいだろう。
それは、「一人の菩薩を産み出すため」に、佳子先生が何を果たして
下さっているかを見れば明らかである。佳子先生は、少なくとも次の
三つの力を発揮して下さっていることが解る。
A.十年先、二十年先のことを見通す力
B.ぎりぎりの線を見極めたヒントを出す力
C.菩薩の力をを封じる力
では、三つの力のそれぞれについて、説明しよう。 【A】十年先、二十年先のことを見通す力
「千年構想」については約二十年、「7つのプログラム」は約十年、
何も進まず放置されている。そして、これまで述べたように、
放置されていることによって様々な弊害、痛みが生じている。
しかし、それは「取り返しがつかない」というわけではない。今からでも
取り組めば、充分に果たしてゆけることである。このことは、十年前、
二十年前に遡って眺めてみると、佳子先生は「十年先、二十年先に必要な
ことを見通され、的確に提言された」ということになる。
菩薩になれる可能性のある人が、その事に目覚め、挑戦を果たす
ようになるまで、十年、二十年という時間が必要になるのだろう。
一人の菩薩を産むためには、その期間「待つ」必要がある。
「十年先、二十年先のことを見通す力」が無ければ、それだけの期間
「待つ」ことは不可能である。つまり、それができない指導者は、
自分の手で具現するしか方法がなくなる。 【B】ぎりぎりの線を見極めたヒントを出す力
一人の菩薩を産むためには、ヒントを出して具現を果たさせる必要がある。
しかし、ヒントが難しすぎた場合には、具現を果たせない。
一方、ヒントが易し過ぎた場合は、具現はスムーズに進むが、
それでは菩薩の境地を育むことができなくなる。
一人の菩薩を産み出すために、難しすぎず、易し過ぎない、ぎりぎりの線を
見極めたヒントを出す力が無ければ、一人の菩薩を産むことは困難である。
【C】菩薩の力をを封じる力
過去世において、既に菩薩の境地を獲得している人は、GLAにとって必要な
存在である。しかし、未だ菩薩の境地を獲得していない人の中から、
一人の菩薩を産み出そうとしているとき、既に菩薩の境地を獲得している人が
手出し、口出しをすれば、それは「修行の妨害」でしかない。
「既に菩薩の境地を獲得している人」とは一体誰なのかを見極め、その力を
的確に封じることができなければ、一人の菩薩を産むことは困難である。 「今生与えられたチャンスを逃してしまえば、来世以降にそのテーマを
果たすことは極めて困難であり、事実上不可能」と言ったのは、
この「三つの力」を発揮できる人には、まず出会えないからである。
歴史上の人物の中で、この三つの力を兼ね備えた人を一人でも
知っているだろうか?一人もいないであろう。
ならば、来世に出会うことも、到底期待できないだろう。
三つの力が働かないところで菩薩になる修行をするのは、
非常に難しく、厳しいものである。
だからこそ、今生与えられた稀有なチャンスを、
絶対に逃してはならないのだ。 >>530->>535
GLAを憂う元会員氏、あなたは初めて持論を丁寧に解説してくださった。
このように「関芳郎のケツの穴を舐める茶坊主ども」という言葉を省くと
あなたは論理的な考えをちゃんと持っているかただと理解できました。
もちろん、私は退会者なのでアンチではありますが
下品な言葉を使わなければ、あなたの持論・意見に賛同されるかたも出てくると
思います。
関芳郎氏も高齢なので、高橋佳子氏を支える陰の統括本部長として
これからもあなたなりの解釈・持論を展開していってください。
そのために私はこのスレを立てました。
どうかこのスレを有意義にお使いください。
スレ主より。 >>536
なんだか意外ですね。
アンチの方が>>530-535 を理解して下さるとは、
思ってもみませんでした。
>>530-535 が理解可能であれば、この2つのレポートはどうでしょうか?
http://file.copyman.syoyu.net/GB.pdf
http://file.copyman.syoyu.net/GC.pdf
特に、この2つのレポートにある、「煩悩地図の原理」
「魂の因果律の全体像」というものは理解可能でしょうか?
もし、理解可能でしたら、話の続きをしたいと思いますが。 >>537 様
こんばんは。スレ主です。
「理解」はしておりません。
GLAを憂う元会員氏に対する「持論」への敬意とでも言いましょうか(笑)
ケツ舐め発言さえなければ、彼の「持論」のスレとして成り立つのでは、
という思いです。
真意は『GLAを憂う元会員氏もいつまでも退会した部外者がグダグダとネットの片隅で
関芳郎氏のような小物に対して同じことばっか言ってんじゃあねぇよ!」です。
乱筆乱文しんづれいしますた! >>538
> ケツ舐め発言さえなければ、彼の「持論」のスレとして成り立つのでは、
> という思いです。
残念ながら、「関芳郎のケツの穴を舐める茶坊主ども」
以上にぴったりした言葉は見つかりませんでした。
GLAの事務局はブラックボックスであり、外から中の様子を直接見る
ことはできません。しかし、ブラックボックスから時折出てくるものによって、
ブラックボックスの中の風景が見えてくることがあります。
私の目に映った「GLAの事務局」の風景は、「関芳郎が黙ってケツを
突き出せば、茶坊主どもが寄ってきて、ケツの穴を舐める」というものです。
実におぞましい風景ですが、実際にこの言葉通りのことがGLAの事務局で
起こっているようにしか見えないのです。おそらく、そのようにする
風土というか、暗黙の了解のようなものが、GLAの事務局に醸成されている
のでしょう。 >>539 様
こんばんは。スレ主です。
私の「持論」ですが、もはや高橋佳子氏もあなたの仰る「ケツ舐め星人」に
操られているのでは?と思っています。
若干19歳の女子大生が教祖になったわけですから、
関芳郎氏の力や茶坊主どもの協力なしでは現在のGLAはなかったことでしょう。
…と、まぁ再び「ケツ舐め論」になるので
これにて失礼いたします。 「ケツ舐め星人」とか「ケツ舐め論」とか
どんな宗教だよ ケツ舐め行為に疑問を持つ者は会員の選抜により退会したようです。
これが神の計らいなんですよ。 >>540
同感ですなw
彼女は親父さんの意向で
本人の意思に関係なく象徴として祀り上げられたんだと思います。
バックアップとして当時の若手講師団が任命され
邪魔な古手講師は権力によって排除されていったんでしょう。
祖師から上手にフラれ排除された講師達が、その後も祖師と法に片思いし続けた構図です。
彼等は利用価値がなくなったんでしょう。
若手達よりもずっと純粋だっただけ実に哀れですな。
まあこれは単なる邪推ですからw悪しからずw ケツ舐め関連の話題が止まりませんなw
実際には個人崇拝信者、個人崇拝信仰自体がケツ舐め行為に等しいわけw
分かるか?君達w
心の中の叫び
(先生!先生!)
これって精神的ケツ舐め行為だろ? 園頭広周、平井和正、罰天使…。これまで、GLAを誹謗中傷した
人間は何人も存在した。しかし、関芳郎と茶坊主どもほどGLAを
そして佳子先生を貶めた人間は、存在しない。
関芳郎と茶坊主どもは、GLA、佳子先生を貶めたことでは、
右に並ぶ者が全くいない、格別な存在なのだ。
例えば、誰かが「GLA会員は、高橋信次の遺骨とともに納骨できることに、
歓びや、このうえない誇りを持っている人たちだ」と著書に書いたとしよう。
そして誰かが、GLA会員に向かって、これが真実か否か質問したとしよう。
GLA会員はどうすればいいだろうか?簡単なことだ。
「その本に書いてあることは全くのウソです」と言えばいいのだ。 では、同じことが、GLAの名で、GLAホームページに掲載されたらどうだろうか?
「そのページに書いてあることは全くのウソです」と言えば、
「では、GLAはホームページに全くのウソを書くのですか?」と質問されたら、
何も答えることができないだろう。
このように、関芳郎と茶坊主どもは、「GLA」の名で、「GLAホームページを使って」
GLA、佳子先生を貶めたのだ。これは、末端のGLA会員が対処しようとして
対処しきれるものではないのだ。だから、関芳郎と茶坊主どもは、
GLA、佳子先生を貶めたことでは、右に並ぶ者が全くいない、格別な存在なのだ。
この行為によって、様々な痛みが既に生じている。
>>509-515に書いた「B群」の人々をGLAから徹底的に排除するという
結果を生み出しているのだ。
関芳郎と茶坊主どもは、自分たちの行為に対して、
どのように責任を取り、どのように償うつもりなのだろうか。 >>549
それは、責任の所在を曖昧にしておけという意味かな?
そうすると、同じような事が形を変えて何度でも起こるということだ。
関芳郎と茶坊主どもは、多くの人々を神理の道から排除した責任を取るべきだ。
責任を取るまで、何度でも追及すべきだ。
「責任を取る」とは、このような事が何故起こったのか?二度と起こらないように
するにはどうすればよいのか、明らかにすることだ。
その解答は既に何度も述べている。
一切の原因は、「千年構想」「7つのプログラム」を放置してきたことだ。
二度と起こらないようにするには、「千年構想」「7つのプログラム」を推進
することだ。関芳郎と茶坊主どもは、それを自ら述べ、実行することだ。 >>550
力強い言い切った文章、あっぱれ!
『お前が舵を取れ!』
長渕剛より >>548の続きだが、
関芳郎と茶坊主どもは、自分達の行為に対して、どのように責任を取れば
良いのか解らないかもしれないので、述べておこう。連中がGLAの
ホームページに書き込んだ奇怪な言葉は簡単に削除できることであるし、
現実に、既に削除されている。
しかし、「GLAのホームページに奇怪な言葉が書き込まれた」という事実は
未来永劫消し去ることはできない。そして、その事実によって、GLAに対して
人々が抱くマイナスイメージというものも消し去ることはできないのだ。
しかし、マイナスイメージがあるからと言って、それが直ちに、「B群」の
人々(>>509-515)をGLAから排除する結果にはつながるとは限らない。
>>509-515に述べたように、GLAを忌避するかどうかは、プラスイメージと
マイナスイメージの相対的な比較によって決まるのだ。
すなわち、大きなマイナスイメージが生じたとしても、それを上回る大きな
プラスイメージを醸成すれば、「B群」の人々を引き留めることができるのだ。 では、「大きなプラスイメージ」を醸成するにはどうすれば良いだろうか?
それは既に佳子先生が解答を示して下さっている。
非会員である「B群」の人々に対しては、「社会発信力の強化」によって
プラスイメージを醸成すればよい。会員である「B群」の人々に対しては、
「研鑽の充実」、「人生同伴態勢の充実」、「通信ネットワーク環境の整備」、
「拠点の充実」によってプラスイメージを醸成すればよいのだ。
そして、既に述べたように、GLAのホームページに奇怪な言葉が書き込まれた
背景には、千年構想を放置したために信次先生の遺骨を祀る意味が全く
理解できなかったということがあるだろう。
佳子先生が信次先生の遺骨を祀られた理由と考えられるものは、次のリンクに
既に書いている。
"http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1472427603/637-640"
千年構想を放置してきたから、このことが見いだせなかったのだ。
ならば、同じような愚行を繰り返さないためには、「千年構想」を推進するしかあるまい。 では、千年構想と7つのプログラムを推進するには、何をすれば良いのだろうか?
千年構想にしても、7つのプログラムにしても、推進するには「智慧」が必要だ。
しかし、関芳郎や茶坊主どもには智慧が無い。智慧が無いのであれば、3万人の
GLA会員に、智慧を借りればよいのだ。
関芳郎や茶坊主どもに求められていることは、在家の会員同士で智慧の交換が
できるよう、例えばネットワーク上で意見交換できるような場を整え、その
場のコーディネートを果たすことだ。関芳郎や茶坊主どもに智慧が無いと言っても、
場を整え、場のコーディネートを果たせる程度の智慧は持ち合わせているだろう。
職員が場をコーディネートすべきことは、佳子先生が元々示されたテーマからも
明らかに読み取れることだ。 GLA誌1999年11月号の記事「GLA 魂共同体千年構想の始動」には、「GLA共同体の
千年構想の青写真に、一丸となってアクセスする」(79ページ)というテーマが
示されている。「誰か一部の人がアクセスする」のではなく、「一丸となって
アクセスする」ためには、千年構想についてネットワーク上で意見交換できるような
場を職員が整え、そのコーディネートを果たさなければならないことは明らかであろう。
また、7つのプログラムについて佳子先生が元々示された「願い」は、「菩提心発掘」
であった。すなわち、7つのプログラムは、ただ遂行すれば良いわけではなく、
「菩提心発掘」を伴わなければならないのだ。
「菩提心発掘」とは、誰の菩提心を発掘することだろうか?勿論、それは
「3万人のGLA会員全員の菩提心」に相違ない。7つのプログラムの取り組みを通じて
3万人のGLA会員が菩提心発掘を果たして行くためには、ネットワーク上で7つの
プログラムの意見交換ができる場を整えなければならないことは明らかであろう。 関芳郎よ。茶坊主どもよ。
お前たちであっても、智慧ある在家の会員から智慧を借りれば、千年構想も、
7つのプログラムも、推進できるのだ。そのために、
在家の会員がネットワーク上で意見交換できる場を直ちに整えよ。
そして、その場のコーディネートを果たせ。
お前たちは、GLAのホームページに奇怪な言葉を書き込んだ。
これは、既に述べたように、過去の歴史上、GLA、佳子先生を最も貶める行為だ。
お前たちの行為によって、GLAが嘲笑され、誤解を受けているのだ。
お前たちの行為によって、多くの人々の内に、佳子先生、GLAに対する
マイナスイメージが醸成され、その人々がGLAから排除されているのだ。
お前たちの行為は、万死に値する大罪と呼ぶしかあるまい。
お前たちが犯した大罪を償うには、千年構想と7つのプログラムを
推進するしか道は無いのだ。 >>558
そのような事を言うなら、佳子先生に言うべきだな。「やる気のない
人間をつついて動かす」というのは、実に非効率なやり方だ。
関芳郎に全くやる気がないならば何もやらなくていい、とも思うのだ。
関芳郎はさっさと引退させて、後任の総合本部長(誰になるかは知らないが)に、
関芳郎の尻拭いを担ってもらったほうが効率的だと思う。
しかし、おそらく佳子先生は、「効率/非効率」だけで判断されている
わけではない。「自分の尻拭いができないまま人生を終わる」というのは、
魂の次元から眺めると「実に悲惨な人生」になるのではないかな。
だから佳子先生は「せめて自分の尻拭いができるようになった後に
引退してほしい」と願っておられるのではないかな。そうだとすると、
現状のまま関芳郎本人が引退を希望しても、佳子先生は許されないだろう。 >>558
あなたは部外者です。
"You are a fucking loser !!"
ミカエルボーイズ&ガールズ(MBG)より
MBGの人たちってどのぐらい残ってるんだろう?
今はMJB? http://oumijisanpo.web.fc2.com/bukyo/index-5.html
実を言うと、さきの『大バリニッバーナ経』において死を前にしたブッダは、自分の死後、遺骨の供養にかかずらうようなことをしてはいけない、ということをいっている。
後に少し考えてもみるが、ひとこと付け加えておく。ブッダの死後、遺体は火葬に付されている。そのうえ、あとにのこされた骨灰は分配され、それをもとに仏舎利崇拝が生ずるようになった。
遺骨の供養にかかわるなといったブッダの遺言を、弟子や信者たちが裏切り、その生前の意志をふみにじってしまったのである。
ブッダはそのことを、死の瞑想のなかですでに予感していたのではないだろうか。 http://oumijisanpo.web.fc2.com/bukyo/index-5.html
つぎに『大バリニッバーナ教』が提起する第二の問題が、ブッダの遺体の処理に関わる裏切りである。思えば、この裏切りは決定的であった。
その後の仏教の運命を決定的にしたといってもよいからである。はたしてそのことについて、ブッダ自身は期がついていたのであろうか。
この経典の最終尾にあたるところで、ブッダはほとんど遺言をのこすようなことをいっている。おそらく気になってしかたなかったのであろう。それは一体何であったのか。
ブッダの次のような言葉をみてみよう。
『アーナンダよ。お前たちは修行完成者(ブッダ)の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ』
要するに、葬式と遺骨崇拝に心をわずらわせるな、といっている。遺骨を焼いて、その後で骨を拾ったり供養の対象にする必要はないとさとしている。
なぜなら大事な事は「正しい目的」のために努力することだけだからだ……。
ぶっだの遺言は明瞭である。その一点の曇りもない言葉をアーナンダとて疑う事はなかったであろう、が、本当に心のそこから納得していたのだろうか。
というのもそのブッダの遺言は裏切られ、その簡明な言葉を裏切るようなことが弟子や信者たちによって行なわれるようになる。
その動きをアーナンダはおしとどめる事ができなかったのである。 http://oumijisanpo.web.fc2.com/bukyo/index-5.html
こうしてブッダの遺骨に対する供養が始まった。搭に納められたブッダの遺骨、すなわち仏舎利にたいする崇拝が始まった。遺骨の供養を中心とする葬儀の原型がそのとき定まったといってもよいだろう。
だが、今述べたようにブッダ自身は、自分の遺骨の供養といったことにはいっさいかかずらうな、といいのこしていた。遺骨崇拝に走ることをかたく戒めていたのである。そのブッダの意志が一顧だにされず踏みにじられてしまった。
ブッダの最後の言葉にもかかわらず、あとに残された者たちの願望が強かったということになるのだろう。仏陀にたいする尊敬の念がブッダの気持ちを押しつぶして、大きく膨らんでいったのである。
『大溌涅槃経』というテキスト自体がブッダの遺言を裏切ってしまうということは、しかしながら、その裏切りは、死にゆくブッダにたいする追慕と喪失感がそれほど強大であったという意味でも有る。
死は人々は不安と混乱の淵につきおとす。その無秩序からはいあがるために、ブッダの遺骨に執着し、それを分配して搭に納められずにはいられなかった。
ブッダの遺言に反してまでも・…・事実はそう言う事ではなかったのではなかろうか。
アーナンダの裏切りによって仏教の歴史は始まり、そして今日のわれわれもまたそのようなアーナンダの徒として、仏教という一筋の縄にすがり付いているのである。
以後、アーナンダの徒はそのような死の荘厳と遺骨の崇拝を出発点として、仏教の歴史を動かしてきているのである。いまさら一体、誰がそのような仏教の運命から脱がれることができるというのか。
われわれはアーナンダから出発するほかない。ブッダの言葉を聞き誤まったアーナンダの徒として生きていくほかない。
あえていえば仏教の伝統はそこを原点として形成されたのである。仏教はブッダ殺しによって歴史の一ページをふみだしたのである。 リンク先が必ずしも真実じゃないんだから長文コピペやめれ
2500年以上前の事なんてネットの1個のソースくらいじゃ信憑性ないわ 火葬と土葬の結合と遺骨崇拝の成立
http://s-eizen.com/page36
http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20090319/1237469639
>まず第一に、お墓があるのは、仏教国では日本だけである、ということを認識する必要がある。
>日本人は、仏教と言えば、お墓を連想するほど、お墓は仏教にとって不可欠のもの、仏教の一部だと、思い込んで、お墓のない仏教など夢想だにもしない。しかし、 麻原、大川、藤谷のもとになったカルト
だまされねぇよ 関芳郎と茶坊主どもが為すべきことは >>552-556 に書いたが、
彼らはこの通り動くだろうか?おそらく動こうとはしないだろう。
彼らのこれまでの行為を振り返ってみると、彼らに自浄能力は期待できない。
自浄能力を持っている職員は、おそらく佳子先生からストップをかけられて
いるのだろう。そして、佳子先生御自身も動かれる気配がない。
この事態は何を呼びかけているのだろうか?
私は、在家の会員が声を挙げて、「ネットワーク上で意見交換できる場」
を整えるよう、様々なルートで事務局に要求することが呼びかけられて
いると思うのだ。
そして、その場で在家の会員が主導して、千年構想と7つのプログラムを
推進してゆくことが呼びかけられているのだと思う。 GLA誌2001年6月号には2001年善友の集いの特集記事が組まれており、61ページには、
「二十一世紀に向かうGLAのヴィジョン」として、「押し上げる力の結集」
ということが挙げられている。
また、60ページには、「二十一世紀に入ったGLAがはたらきを全開するためには、
これまで以上に職員のはたらきと在家の方々の押し上げる力が車の両輪のようになって
響働してゆく必要があります。あらゆる側面で職員と在家の両輪がたくましくなり、
押し上げる力と引き上げる力がつながってエネルギーが全開してゆくように、
ぜひお世話をさせて頂きたいと願っております」とある。
在家の会員が主導して、千年構想と7つのプログラムを推進してゆくことは、
正に佳子先生が示された「押し上げる力の結集」なのだと思う。
「在家の会員が主導する」と聞いて、不安に思う人もいるかもしれない。
在家の会員の多くは、GLAの果たす具現に参与したことがなく、また、
ボーディサットヴァウィズダムも拝読していないからだ。
「在家の会員が主導しても低次元な議論しかできない」と思うのも、
自然なことかもしれない。 その場合、ボーディサットヴァウィズダムを拝読している職員が、
「引き上げる力」を発揮して、議論の次元を引き上げてゆくことが
呼びかけられているのだと思う。
それは、ボーディサットヴァウィズダムの内容をそのまま開示する
ことではない。在家の会員がボーディサットヴァウィズダムの内容に
自ら気づけるように、「ヒント、視点の導入」をすることだ。
私は以前、佳子先生が在家の会員にボーディサットヴァウィズダムを
開示されないことに疑問を持っていた。しかし、ウィズダムを開示
して頂くよりも、「ヒント、視点の導入」によって、自らウィズダムに
到達したほうが、一層実がある修行になるだろう。
在家の会員は、ボーディサットヴァウィズダムを拝読することなく、
「押し上げる力」を発揮する修行を果たすこと。職員は、ボーディ
サットヴァウィズダムを拝読した上で、「引き上げる力」を発揮する
修行を果たすこと。これによって、在家の会員からも、職員からも、
「数多の菩薩を湧出する」というヴィジョンが実現してゆくのだと思う。
なお、ここでいう「職員」とは茶坊主どものことではなく、現在、
佳子先生からストップをかけられている職員のことだ。 GLAを憂う元会員さんは2001年からストップしとるな〜
現在は2018年でっせ?
情報が古過ぎやん
今時千年構想やら7つのプログラムなんて話題にも上がらんわ
GLAは進化という名のもとに過去は振り返らんのや
覚えとき〜 世の中には沢山の組織がある。
各自が縁ある組織に執着する。
普通の世直しにこそ実践があるのでは?
GLAが拘りの対象だとそれに拘る。
創価ならば、それに拘る。
まあーそうやって今日も子供達は学校でいじめに遭い、
自殺に追い込まれている。
宇宙は無限か有限か?
毒矢の毒は何か?
観念遊戯に逃避し、
組織に執着し逃避する。 >>572
なら、最近の話をしようか。
2014年、佳子先生が信次先生の遺骨を祭祀された理由を
キミは説明できるかな?キミには、説明できないだろう。
つまり、「佳子先生が現在されていること」の意味がキミには
解らないのだ。
「佳子先生が現在されていること」の意味は、1999年に下さった
「千年構想」を真剣に検討して、初めて理解できることなのだよ。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1472427603/637-640 遺骨崇拝も千年構想も極一部の崇拝者が抱く主観による誇大妄想以外何物でもない。
部外者からは誰からも相手にされない極めて滑稽なイベントでしかない。 人類救済に救世主ごっこという観念遊戯
確かに人は真面目に間違いをおかすなw >>574
あんた何言うてんねん
わしが教えたるわ
真偽は知らん
【2018年のプロジェクト】
@日本全国に「魂幼稚園・受発色小学校・ミカエル中学校・ビッククロス高校・菩薩大学」の建設
Aアベノミクスとジェネシスプロジェクトの融合
Bβ星の通信傍受
おおまかに説明するとこんなもんや
わしの創作やないで
妄想や >>574 にさらに付け加えるなら、2014年、関芳郎らがGLAホームページに
書き込んだ奇怪な言葉も、千年構想と7つのプログラムに、大いに関係している。
http://megalodon.jp/2014-1112-0925-12/https://www.gla.or.jp:443/support/kinenkan/p7.php
>とりわけ、祖師高橋信次先生、そして、あまたの求道者たちと共に
>奉納できることは、魂の道を歩む一人ひとりにとっての歓びであり、
>このうえない誇りにほかなりません。
関芳郎らが書き込んだ奇怪な言葉を「因縁果報」で考えてみよう。
【因】
まず、「因」の側面についてだが、関芳郎は、1999年以降、「千年構想」
に関して在家の会員の智慧を全く結集しようとせず放置してきた。
それにより、GLAが今後どのような人を、どのようにして迎え入れてゆくのか、
関芳郎は在家の会員の智慧から学ぶことができなくなり、全くヴィジョンが
描けなくなってしまった。そのため、描くべきヴィジョンの解答を佳子先生が
示されても( http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1472427603/637-640 )、
解答の意味が理解できず、関芳郎は悩乱し「奇怪な思想」を抱くようになったのだ。 【縁:システム】
次に、「縁:システム」についてだが、関芳郎は、2008年以降、「7つのプログラム」
に関しても、在家の会員の智慧を全く結集しようとせず放置してきた。
それにより、特に「社会発信力の強化(社会に発信してゆくためのシステムを整える)」
について述べると、「システム」が不在のまま放置されてしまった。これは、関芳郎が
「奇怪な思想」を抱いたとき、その「奇怪な思想」がそのまま「GLAの教義、思想」として、
社会に垂れ流しにされる危険な状態を作ったということだ。
【縁:同志】
関芳郎の「縁:同志」とは、狭い範囲で考えると、関芳郎の周囲にいる職員(茶坊主ども)
のことである。「奇怪な思想」に基づく「奇怪な言葉」をGLAホームページに書き込むように
関芳郎から命じられたとき、茶坊主どもが為すべきことは何だったのか?それは、
身を呈してでも、それをストップすることであったはずだ。しかし、茶坊主どもは、
己の保身のため、へつら笑いを浮かべながら、命じられた通りの行動を取ったのだ。
【縁:原則】
この茶坊主どもの行動は、別の一面では「縁:原則」の問題でもある。GLA事務局には、
「関芳郎が黙ってケツを突き出せば、茶坊主どもが寄ってきて、ケツの穴を舐める」
という「原則」、あるいは「風土」と呼ぶべきものが、確かに醸成されているのだ。 このように、「因」と「縁(同志、原則、システム)」が見事に揃ったため、
「GLAホームページに奇怪な言葉が書き込まれる」「それによって多くの人が
佳子先生、GLAのことを誤解する」という「果報」が現れたのだ。因縁が揃っている
以上、それは避けることができない必然だったのだ。
ここで、今回の「果報」である「奇怪な言葉」自体は、既にGLAホームページから
削除された。しかし、「奇怪な言葉」を生み出した「因縁」は何も変わっていない。
ならば、その「因縁」により、今後は別の形で次々と、痛みや混乱の「果報」が
現れることも、これまた「必然」なのだ。
では、因縁を整え、果報を転換してゆくために、在家の会員は何をすべきだろうか。
私は、在家の会員にとって「事態を自らの内に引き寄せる」ことが第一に為すべきこと
ではないかと思う。GLAホームページに奇怪な言葉が書き込まれた「因縁」は
上述した通りであり、直接的には、関芳郎と茶坊主どもが生み出したものである。
在家の会員は、直接関わっていないようにも見える。 しかし、在家の会員の皆様に考えて頂きたいのだが、もし、あなたに関芳郎の立場が
与えられていたら、あなたは関芳郎と同じように行動した可能性があったのでは
ないだろうか?また、職員という立場が与えられていたら、あなたも関芳郎に媚びる
茶坊主の一人になっていた可能性はあったのではないだろうか?
ならば、関芳郎と茶坊主どものことを「自分に代わって自分の内界の闇を体現して
くれた存在」であると捉えることはできないだろうか?
また、過去20年、あなた自身が関芳郎や茶坊主どもを放置してきたことも、
「縁:同志」の一環として捉えることができるのではないか。関芳郎と茶坊主どもは、
佳子先生のご指示を無視して、在家の会員の智慧を全く結集しようとせず
千年構想と7つのプログラムを放置した。その時、在家の会員も、佳子先生の
弟子として苦言を呈する義務があったのではないのか。あなたが、その義務を
果たさなかったがために「果報」が生じた、と考えることができるのではないだろうか。
もし、「自分にも少しは原因があるかもしれない」と思うのなら、関芳郎や茶坊主ども
の醜態を自らの内に引き寄せることはできないだろうか。
つまり、関芳郎や茶坊主どもの醜態を「自らの醜態」であると受け止め、>>569-571に
書いた「行動」によって、「自らの醜態」に対峙することはできないだろうか。
それによって因縁の転換が果たされてゆくように思えるのだ。 千年構想と7つのプログラムが進捗しない背景の一つとして、これらのテーマは、
佳子先生が与えて下さる他のテーマと比較して、極端に困難であることが
挙げられるだろう。何が困難なのか細かく見てゆくと、次のようなことになるだろう。
(1)内容そのものが、他のテーマと比較して高度である。
(2)事務局のサポート態勢が全く整っていない。
(3)佳子先生が下さるヒントが非常に少ない。しかも、その中の多くは、
関芳郎らが勝手に言葉を書き換えるなどして、汚染されている。
しかし、佳子先生が下さる他の多くのテーマは全く違う。さほど難しいものではないし、
事務局のサポート態勢もしっかり整えて下さるし、多くのヒントも与えて下さる。
そして、これらのヒントは、そのまま(汚染されていないものを)頂ける。
そして、テーマを完遂できたんら、「皆さん、すばらしい。よくできました」
と褒めて下さるので、それが喜びとなり、励みになる。
なぜ、千年構想と7つのプログラムだけ、極端に困難なのだろうか?
それは、「対象としている人」が違うからだ。 GLA会員の多くは、「菩薩になること」を願いとしている。しかし、多くの
人にとってそれは何転生もかけて達成してゆく願いである。今生に残された
残り数年ないし数十年の期間に、現実に菩薩になれるのかどうか
考えてみると、今生の人生では期待できない人が大多数である。
佳子先生が与えて下さっているテーマの多くは、大多数の会員、すなわち
「今生では菩薩になることが期待できない人」を対象にしている。
しかし、千年構想と7つのプログラムは違う。これは、今生菩薩になれる可能性の
ある人に対して与えられた、「現実に菩薩になるためのテーマ」である。
では、なぜ「現実に菩薩になるためのテーマ」がその人に与えられているの
だろうか?その解答は、その人の魂の系譜にある。
その人は、何度も何度も、菩薩になることを願って転生したのに、その願いは
けっして適うことは無かったのだ。 http://copyman.syoyu.net/Date/20140106/
ここに試算がある通り、「菩薩ではない人」が菩薩になることは、まず不可能
なことであり、数万年に一度程度しか起こらない例外中の例外の出来事である。
多くの人が認識している、たかだか数千年程度の歴史の中では、「菩薩ではない人」
が菩薩になった事例は、おそらく一度も無いだろう。
菩薩になることが極めて困難であるがゆえ、菩薩を目指す人々の魂には、
転生を繰り返す毎に、深い悲しみが穿たれてきたのだ。
・どれほど願っても無理…
・どれほど努力しても無理…
・どれほど時間をかけても無理…
・どれほどの覚者に師事しても無理…
何度も、何度も、深く穿たれてきた悲しみと、それでも決して潰えることが
なかった「願い」が、その人の今生の人生を引き寄せたのだ。
「どれほどの覚者に師事しても無理」であっても、「覚者中の覚者」である
佳子先生は別格である。佳子先生が「数多の菩薩湧出のヴィジョン」を示されて
いるのだから、佳子先生に師事すれば、不可能を可能に転換できるのだ。 ただ、佳子先生に師事していれば、それだけで菩薩になれるというわけではない。
また、「今生では菩薩になることが期待できない人」のためのテーマばかりに
取り組んで、それで褒められて喜ぶような事を繰り返していて、菩薩になれる筈もない。
「今生菩薩になれる可能性のある人」が、己の一切の智慧、一切の力を尽くして、
「現実に菩薩になるためのテーマ」に取り組むことである。それ以外に、
現実に一人の菩薩を生む方法は無い。
>>532-535 に述べた通り、今生の人生で現実に菩薩になるために、これ以上は
望めない最高の環境が、今、現実に与えられている。与えられた環境以外に
必要なものがあれば、何が必要なのか自ら見出して、全てを自ら整えなければならない。
誰かがお膳立てを整えてくれるのを待っていても、誰も整えてくれないということを
知っておくべきだろう。 そもそも高橋佳子という人も一般人であり覚者でもない
まずはそれを悟れと言いたい >>852-855 に述べたように、千年構想と7つのプログラムは、
「今生菩薩になれる可能性のある人」を対象として与えられた、
「現実に菩薩になるためのテーマ」であることは間違いないと思う。
そして、現状を見るならば、鍛錬の対象者=「今生菩薩になれる可能性のある人」
が全く動いていないように見受けられる。このような場合、おそらく神は、
対象者に呼びかけられるため、厳しい形で試練を与えられるのではないかと思う。
「試練」というものを如何に受け止め如何に対応してゆくべきかは、
例えば「Calling 試練は呼びかける」等の御著書に示されている。
しかし、以下の考察にあるように、「神意・青写真にアクセスする」、
「神意・青写真を具現する」という使命を持った人に与えられる「試練」
の看取り方、受け止め方について、佳子先生の御著書には詳しいことが記載
されていない。
http://copyman.syoyu.net/Date/20140117/
http://copyman.syoyu.net/Date/20140118/ 「神意・青写真にアクセスする人」、「神意・青写真を具現する人」とは、
言葉を変えると、「菩薩クラス以上の人」とも言えるだろう。
古今東西の菩薩クラス以上の人が受けてきた試練の多くは、「神の御意志を
具現していない」ことを理由として、「神の御意志を具現すること」を
呼びかけるために、与えられているように見受けられるのだ。
その意味では、菩薩よりも低い段階の人が受ける試練とは、大きく意味合いが
異なっている部分がある。佳子先生の御著書には、はっきり言って、このような
「菩薩クラス以上の人」が受ける試練についての解説が、ごっそり抜けている
ように見受けられるのだ。
ごっそり抜けている理由は、「99%の大多数の人」にとって「菩薩クラス以上の人」
が受ける試練の解説など必要ないものであるし、そのような解説を入れてしまうと、
かえって「99%の大多数の人」にとって試練の意味が解りづらくなってしまう
からだと思う。 「今生菩薩になれる可能性のある人」が受ける試練の意味は、既に菩薩クラス
になっている人が受ける試練に近いものであり、「Calling 試練は呼びかける」等
の御著書には示されていない場合がある。そして、その試練は、多くの場合、
既に菩薩クラスになっている人と同様に、「神の御意志を具現していない」
ことを理由として、「神の御意志を具現すること」を呼びかけるために、与えられる
と思うのだ。
「神の御意志を具現すること」が呼びかけられたとき、一般的には、「神の御意志」
がどのようなものか簡単に解らないので、方向性を掴むことが難しい。
しかし、現在、「今生菩薩になれる可能性のある人」が受けている呼びかけに
ついて考えると、さほど難しいものではない。それは、佳子先生が「千年構想」
「7つのプログラム」という形で、テーマを明確に示されているからであり、
それらのテーマが放置されていることによって、様々な痛みや混乱が現実にGLAに
生じているからだ。
このGLAの現実を見るならば、「神の御意志」がどこにあるのか明白であろう。 今、厳しい形で試練を受けている人であって、「Calling 試練は呼びかける」等の
御著書をいくら拝読しても試練の意味が解らない、という人は、もしかすると、
「今生菩薩になれる可能性のある人」なのかもしれない。
然りとすれば、その人が試練を受けている理由は、「神の御意志を放置しているから」
ではないだろうか。ならば、その人が為すべきことは、神、佳子先生が与えて下さった
「現実に菩薩になるためのテーマ」に対峙して、神の御意志を具現してゆくことである。
今、その人が試練によって受けている苦しみは、「一人の菩薩を生む」ための
生みの苦しみなのだ。その人がその試練の意味を知り、試練からの呼びかけに
応えたならば、そこには一人の菩薩が誕生することが予定されているのだ。 少し、キリスト教のことを考えてみることにする。
キリスト教では、「キリストを信じる者は救われる」「キリストの磔刑によって
罪過のゆるしを受ける」ということが教義になっている。
しかし、イエスキリストは、そのような事を一言も説いていない。逆に、
罪(煩悩)というものについて、イエスキリストは、「自分自身の責任である」
ことを明確に説いている。
> もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部
> を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。(マタイ5.29)
> もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、
> 全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。(マタイ5.30)
イエスキリストが直接説いた教えを顧みず、それ以外の人間が説いた教えが
「キリスト教」と称するものの教義の中心になってしまったのだ。
なぜ、そうなってしまったのだろうか?それは、「そのほうが楽だから」だ。
イエスキリストの言葉通り、罪(煩悩)に対峙してゆくことは、なかなか大変だ。
それは「苦」であって避けたいことなのだ。それよりも、
「信じたならば救われ、イエスキリストが罪過を全部背負ってくれる」
ことにしたほうが、はるかに「楽」であり「快」なのだ。 キリスト教の歴史は、人間が如何に「快苦」に翻弄されやすい存在であるのかを
教えてくれる。「自分自身が快苦に翻弄されやすい」ことに無自覚であれば、
「快」の方向に、「楽」な方向に、際限なく、どんどん流されてゆくのだ。
過去世、キリスト教の教義が成立していった時代に生まれた人もいるだろう。
ならば、その時代、人々がイエスキリストの教えをないがしろにして、
「快」の方向に、「楽」な方向に、流れてゆく現実も見ただろう。
過去世のあなたは、その現実を見て、何をしたのか?
自分の危険を顧みず、その流れにストップをかけようとした人もいただろう。
また、何もしなかった人もいるだろう。
何もしなかった人は、なぜ、何もしなかったのだろうか?
主流派、権力者に逆らうことは、自分の身に危険が及ぶからだろうか?
それは、「苦」を避けようとしたということだろう。
ただ、黙っていれば、危険が及ばないから「楽」なのだ。
ならば、過去世のあなたも、やはり「快苦」に縛られ、「快」の方向に、
「楽」な方向に、際限なく流される人間だったのだ。 「キリストを信じる者は救われる」、「キリストの磔刑によって罪過のゆるしを受ける」
このようなキリスト教の教義が出来上がった原因は、人間が快苦に縛られ、
快苦に翻弄される存在であり、それに無自覚な存在だからだ。
それが、何百年も続いた結果、その捻じ曲がった教義に異を唱える人間は
「異端」として排除されるようになってきたのだ。
「歴史は繰り返す」というが、かつてキリスト教に起こったことと、同じことがGLAに
起こっているのではないだろうか。関芳郎や茶坊主どもは、佳子先生が提示して
下さった「千年構想」「7つのプログラム」を放置している。
それは、面倒であり、面倒は「苦」であるからだろう。
関芳郎や茶坊主どもは、「千年構想」「7つのプログラム」を放置することにより、
大きな痛みが生じているが、それを正視しようとはしない。彼らは、
「そのようなご指示は最初から無かったことにしてしまおう」、「自然消滅したこと
にしてしまおう」、「何も考えなくても良いことにしてしまおう」としているように見える。
それはなぜか?そのほうが「楽」であり「快」であるからだ。 そのような関芳郎や茶坊主どもを見て、在家の会員は、どうしているだろうか?
何もしていないのではないか?主流派、権力者に逆らうことは、自分の身に
(退会という形で)危険が及ぶからだろうか?それは、「苦」を避けようと
したということだろう。ただ、黙っていれば、危険が及ばないから「楽」なのだ。
ならば、あなたも、関芳郎や茶坊主どもと同様に、「快苦」に縛られ、
「快」の方向に、「楽」な方向に、流されているのではないか。
このように見てみると、かつてのキリスト教団と現在のGLAは、そっくり同じように
見える。しかし、違っている点もある。
佳子先生は、GLA会員に対して、止観シート、煩悩地図など、「自分自身が快苦に
翻弄されやすい」ことを明確に自覚できるメソッドを与えて下さっているのだ。
この点がかつてのキリスト教団の時とは違う。だから、「快」の方向に「楽」な
方向に、どんどん流されてゆく自分にストップをかけられる可能性があるのだ。
かつて、キリスト教団に属し、教義が捻じ曲げられてゆくのを黙って見ている
ことしかできなかった、その時代に味わった後悔を、あなたは生きなおすことが
できるだろうか?
もしできるとするならば、快苦に翻弄される自分にストップをかけることが、
その第一歩となるだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています