坐禅と見性第114章信念は無いけど新年 [無断転載禁止]©2ch.net
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このスレは、南予さんが建てたスレッドである。
諸行無常、諸法無我一切皆空である。
こころコロコロ、色即是空は空即是色、である。
無我なり。無我とは、さとりである。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
人は小さく生まれ、小さく死ぬと言う。
生まれなければ、死は無い、これは大目に観ない空である。
でも細界のもまあ好い野で有る◎
一生の旅とは 出会い、そして必ずの別れである。
小さく生まれ、小さく死ぬ。大きな眼空は生命の活動である。
ビッグバーン以来の一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。
道端のタンポポのこんにちは、である。
出会えば別れるのである。
問う 「片手の人がたたく拍手の音を聞いてこい」
【前スレ】坐禅と見性第113章坐禅と見性第113章銀椀裏に雪を盛る(ぎんわんりにゆきをもる)
[無断転載禁止]©2ch.net http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1481366150/l50 >>422
> >>414
> >さとるとは、これ と それを分けないこと、同じと見る事ですね。
>
> であれば同じとは見えない事も成立するが? この世界が本当に一如なら非情と有情とがあるのは何故? お前の論だとスズメはチュンチュン鳴くよな? 一如なら石でも壁でもチュンチュン鳴かなきゃ一如にならんと思うが? 』
有情と無情、
生きているものと、無機物。
小脇に抱えているのは、重さ 三斤(さんぎん) の麻布(あさぬの)・・ >>420 素人A さん
> 昔片手色々やつた 鏡に手を写して叩いて拍手したけど、 割れんばかりの拍手はしなく、軽く叩いただけたつた。。 』
(_△_;〃 ドテッ!
鏡に写した片手のでしたか、、 >>451
>小脇に抱えているのは、重さ 三斤(さんぎん) の麻布(あさぬの)・・
それも間違ってるよ
たまたま手に取ったのが重さ三斤ってだけの話
有情非情の二種を論じるのは龍樹菩薩の論述からだよ
一元と外道は言うが、もし本当に一元が真実ならどうして非情と有情の二種があるのか?
と言う議論 >>448 名無し さん
> >>446
> パソコンのファンの唸り音が聞こえるよ
静かな部屋ですね。 >>447 名無し さん
> >>443
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい
> 言葉・名字に捉われてる、その捉われが未だにほどけないのがお前の現在、 拍手の音とそれ以外の音にどうして区別が有るのかな? その区別は何故起きてるんだ? 』
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。 >>455
まだ分かんないのか?
即今底に聞こえる音を分別しないで聞き取って言えばいいんだよ
お前は
>片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
と、片手の人・叩く拍手・音・聞くを分別して拘ってるから意味不明なんだろ
片手の人が叩く拍手は「聞こえない」とお前も言ってるじゃないか
聞こえる事と聞こえない事を分別しなかったら、その時耳は何を感じ取るかな?
幻聴じゃないぞ?実際に聞こえてる今そこの音の事だ >>455
お前が幾ら「片手の人が叩く拍手は聞こえない」と思っても
お前の耳は音を分別して聞き入れてない事実にいい加減気付こうか
「聞こえない」も耳はちゃんと聞いてるし、もちろんその他の音も逐次無分別に取り込んでるだろ
不常不断だからな >>460
私は正一位太政大臣空軍大元帥公爵ポッたん大見性成仏如来国家安全保障担当大総統補佐官である。
ポッたん閣下はふざけた野暮な質問にはお答えにならない・・・。 >442-459 Ann ちゃん
遅くまで頑張ってるね。
コソッ( ノД`)…夜道は 百鬼夜行、桑畑の広がる原っぱだよ。 >>462 Ann ちゃん
問う、とは、同時に おのれにも問う事である。
答えるとは、おのれも 同時に答える、という事である。
別ではない、同事(どうじ) である。 >>463-464
閣下は民俗学にも造詣が深いらしい・・・。
私の道は百鬼夜行ではないよ・・・・・・・・・・。
アルマゲドンだよ。
つまり終わりだ。
終わらせるんだ。
いや、終わることになっている。
それをしっかりやることだ。
それ以外ではないよ。 >>465 Ann ちゃん
> 終わりだ。 終わらせるんだ。 いや、終わることになっている。 それをしっかりやることだ。 それ以外ではないよ。 』
何が終わる、のだろうか。。 >>467 Ann ちゃん
> >>466
> 世の終わりで御座る
世とは、人間社会の事でしょうか。アンドロメダ銀河の事でしょうか。 >>468
アンドロメダ銀河など話題にしてはいない。
地球の人間社会の滅亡だ!!!!!!!!!!!!!!!!
わかってるよね? http://nhk2.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1483867915/832-
835 :日曜8時の名無しさん :2017/02/04(土) 03:11:52.47 ID:/DN9HqDP
>>832
臨済宗に何を言っても無駄だと思うよ。原始仏教を想像で作ったから初めから矛盾していてコロコロやることなすことがかわり常に臨済宗自体の先輩批判、
歴史批判、内容変更だから。出家と在家の区別もなくその概念もあったりなかったり、修行は個人と言ったり、いや集団でやると言ったり、
お釈迦様は不要と言ったり意味がわからん。
836 :日曜8時の名無しさん :2017/02/04(土) 03:23:00.64 ID:/DN9HqDP
教化別伝、不立文字は最強。インドで生まれた仏教は文字としては何も残っていない、禅宗だけが口で伝え、他の仏教は間違いだというのが禅宗です。それなのになぜか次から次へと変化し
て、他の宗派とまじりあい何が禅宗、臨済宗なの臨済宗もわかりません。
臨済宗の描写は非常に難しいので下手に大河ドラマで扱うはいけません。
鎌倉時代みたいにまだ基本形が維持されているならまだしも戦国時代の臨済宗なんて誰がわかるのでしょうかね。 >>469 Ann ちゃん
人間だけが滅亡するの? >>421
>片手の音をずっと聞きっぱなしであった私は、
>聞く前に戻る事が出来なくなっていたのだった。
要するに解ってないということですな。 >>419
>二者が有りますよね。
いいえ、ありません。 >>472 -476 名無し さん
> 解ってないと認めるのですね。 違いますなw(大爆笑) 全然違いますなw(大爆笑) 拍手じゃない、隻手ですよ? 』
解かる、と言う 理解(りげ) は、ありません。 >>416
いいえ、「隻手の音声〜」と坐禅中に 拈提するんですよ。 >>477-478 名無し さん
解かる、解からない、
あります、ありません、
そういうことが、ないところが、真理さとり ですよ。 >>415
いいえ、具体的にではなく、そのものを示さないとダメなんですよ。 >>414
近いのですが一寸ちがいますな。
銀椀裏に雪を盛るという言葉がいいんですが。 >>480-481 名無し さん
粘着っしてますが、どうなんでしょうね、、、 >>484 名無し さん
> >>414
> 近いのですが一寸ちがいますな。 銀椀裏に雪を盛るという言葉がいいんですが。
執着ですよ、それが。雪の中に椿が一輪、、です。 >>479
公案が透るということは、同時に教相(仏教学での教学)の理解でも
あるんですよ。
されたことがない方は、勿論ご存じないでしょうが。 >>486 名無し さん
> >>413
> ただ、がわからないようですな。
解かっちゃいけない、ですが。。どうでしょうねぇー、まだ、解かるのですか。。 >>485
拈提(ねんてい)といって公案に取り組むことをいいます。 >>488 名無し さん
何度も言います、わたしは ただの、無料の おはなしであって 代金を頂く者ではないのです、 >>482
いいえ、色即是空が空即是色になるんです。
つまり、差別が平等に、平等が(平等上の)差別に還るんです。
だから、解る・解らない、ある・ないをありのままに受け止められるんです。 >>490 名無し さん
あなたのは、粘着ですよね。 >>487
いいえ、一即多(他)、多(他)即一はご存知ですか?
その禅的な表現が「銀椀裏に雪を盛る」なのですが… >>492 名無し さん
> >>482
> いいえ、色即是空が空即是色になるんです。 つまり、差別が平等に、平等が(平等上の)差別に還るんです。 だから、解る・解らない、ある・ないをありのままに受け止められるんです。
になる、のではないですね。
色が空、
その空は、色 へと還るのです。
この還るが、大切ですね。 >>489
解るとか解っちゃいけないとかという次元ではないんですよねぇ。
見たままなんです。
つまり〇=〇なんですが… >>494
ごちゃまぜのうろ覚えじゃ、いけません、注意しておきます。 >>491
意味が不明です、あなたはこの板のボランティアの方ですか? >>496
見たまま、奈良、目が不自由な人は、困りますよね、どうですか。 >>493
何ですかそれw
数行見解を示したら粘着なんですか? >>597
>ごちゃまぜのうろ覚えじゃ
和して同ぜずが表現的には近いですかね。
同じながら違うというべきか。
華厳の教学的には一即多、多則一であると。 >>503
ですから、華厳とごちゃまぜですね。 お(^o^) や(^O^) す(^。^) みぃ(^-^)ノ゙ >>495
解ってませんねw
同じことを言ってるのに違うってw
相は体であり、体が相となるんですよ。
そしていま用として 何を してるんですわ。 >>499
貴方は不自由してないじゃないですかw
(畢竟禅は)自分の問題でしょ?
目が不自由なら物を触らせればいいでしょ?
まぁ、その場合触ったままってことですよ。 >>502
数行見解書いたら粘着ですか…
変わった方ですねw >>509
アリがママなら、キューリはパパ、ですが、 >>508
私も貴方も色即是空は空即是色に還ると言ってますが? >>512
変わった方とレッテルを張るあなたは、粘着マンを告白しました、ねぇ。 >>514
それは、色即是空は、即、空即是色、ですか、どうですか。 >>515
だってそうでしょ、あなた変わってますよ。
私は最初に拈提(ねんてい)の話をしたんですよ? >>516
g東大寺さんのパクリは、やめなさい、よ。 >>518
そりゃ即でしょw
じゃなきゃ分別ですよw >>517
アリがあなたのままだそうですから、そうであれば、あなたのパパは、キューリですね。 >>521
まばたきの時間差が、無く、です、ね。即。 >>520
東大寺じゃなくて、華厳経の話を当てはめると一即多、
多即一になるの意味です。
全然パクリではないですよ。
自他一如ともいいますが、「如=ごとし」で同じという意味ではありません。 (^-^)ノ~~マタネー☆’.・*.・:★’.・*.・:☆’.・*.・:★ >>523
粘着していると勝手に解釈されてもねぇ。
それじゃそのスレに書いてる意味はないでしょ? >>528
ちょっと違いますな。
「如」が現れる(=来る)のが如来、すなわち仏ですよ。 >>532
なら、粘着という意味もないんですな。
結局何なんですか? >>533
如来の来は、助辞ですね、去も助辞です。
ですから、如来は、すなわち、如。
如とは、ほとけ。 >>535
粘着でしょう、自己が見えない、見ない、のですから、目をぎょろつかせるだけです。 >>536
いいえ、下記参照ください。
>元になったサンスクリット語はतथागत(tathāgata タターガタ)であり、
>ひとまず「如 (tathā タター) 」の後に来る語を「去れる (gata ガタ) 」
>とするか「来れる (āgata アーガタ) 」とするかで如去、如来と漢訳し
>分けられる >>537
あるがままに観れば、わたしも観えますよ。 >>538
見解を示すのが粘着ですか?
だから、変わった方だと云ってるんですが… (;^_^A >>541
ん?
説明の通りですよ。
「そのようにきたるもの=如来」が「ほとけ」でしょ。
仏さまを「如来」というでしょ?
仏さまを「如」といいますか? しかし、まぁほんと、ずいぶんと変わった方ですね、あなた (;^_^A
莫妄想!
では! な何手 日だ何書いてもまあ良いか 朝日が日だるまになりでもまあ良いか
この世うに着た人が今から未来に向かうのか過去に菅つては時間は進まない
私は意味不明で妄書き進むしかない。皆それぞれまあ良いところがあるのかも
でも此処は顕正を求めるスレだし兎に角ゴメン?我々凡人は生きるのに大変な
思いや現代社会で生きるのにストレスは貯まるしここで少し一休みしてガー
ガー言い合うのがまあ良いのかも。私は何故か会話が苦手であらそうが無いので
まあ良いかでも師匠や鬼さんや名無しさんは相手にしてくれるから皆まあ良い
かまあ良い友で兎に角有難う心の一休みで茶飲み使用何か囲碁将棋みたいで
なかなか三休になれず連敗が続くと5級に落ちる不安で1敗将棋は激指に負け
続け諦めて囲碁になつたが
思う世雲丹いかないなあ 私もよく分かりませんが、即今なら、どなた様も今が真実、神示に於いては、総てが大完成であって未完成でもある?
ひふみ神示 地震の巻 第13帖
地上人が限りなきほどの想念的段階をもち、各々の世界をつくり出しているごとく、霊界にも無限の段階があり、
その各々に同一想念を持つ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある。
下級段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、その想念も上級霊界においては必ずしもそうではない。
美も醜となり、愛も憎となり、善も真もそのままにして善となり、真と現われ得ない場合がある。
其処に偉大にして、はかり知れざる弥栄の御神意がある。
と同時に、+(真善)🌀(真善美愛)🌀(歓喜)🌀(大歓喜)と現われる神秘なる弥栄があり、悪の存在、偽の必要性などが判明するのである。
故に、下級霊人との交流は、地上人にとっても霊人にとっても、極めて危険極まりないものではあるが、半面においては、極めて尊いものとなるのである。
下級霊人自身が🌀(善)なりと信じて行為することが、地上人には🌀(悪)と現われることが多いのである。
何故ならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、
極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性を持ち、他の世界を知らないからである。
そがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨(みむね)なるがごとくに独断し、
ついには、自信自らが神の代行者なりと信じるようになるからである。
所謂(いわゆる)無き地獄をつくり出すからである。 地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものを含む。
奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることをしらなければならない。
かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。
浄化し、改心し得ないものである。
また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。
脅迫や賞罰のみによっても向上し得ない。
すべて戒律的の何ものによっても、霊人も地上人も何等の向上も弥栄も歓喜もあり得ない。
半面、向上のごとくに見える面があるとも、半面において同様の退歩が必然的に起こってくる。
これは強(し)いるが為めである。
神の歓喜には強いることなく、戒律する何ものもあり得ない。
戒律あるところ必ず影生じ、暗を生み出し、カスが残るものである。
それは大神の内流によって弥栄する世界ではなく、影の世界である。
中心に座す太神のお言葉は順を経て霊人に至り、地上人に伝えられるのであるが、それはまた霊界の文字となって伝えられる。
霊界の文字は主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。
直線的なものは月の霊人が用い、曲線的な文字は太陽の霊人が使用している。
ただし、文字としてほとんど数字のみが使用されている場合もある。
数字は他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。
しかしこれは不変なものではなく、地上人に近づくに従って漸次変化し、地上人の文字に似てくるのである。
13帖は以上であります…。 ひふみ神示 春の巻 第35帖
念じつつやれ
神の為と念じつつやれば神の為めとなる
小さい行為でも霊的には大きはたらきするのじゃ
自分と云うことが強くなるから発展無いのじゃ
行き止まるのじゃ
我よしとなるのじゃ
調和が神の現われであるぞ
霊と調和せよ
肉体と調和せよ
人と調和せよ
食物、住居と調和せよ
世界と調和せよ
嬉し嬉しぞ
一生かかってもよいぞ
遅く無いのじゃ
自分の中の獣(ケダモノ)のため
直しにかからねばならん
悪い癖(くせ)直さねばならん
これが第一歩、土台じゃぞよ
よきことは人にゆずりて人をほめ
人たてるこそ人の人なる
敬愛のまこと心にまことのり
まこと行う人ぞ人なる(春立つ日、ひつく神) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています