YHWH☆十字架☆ヤハウェ☆イエス・キリスト復活66 [無断転載禁止]©2ch.net
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「福音のために、わたしはどんな事でもします。わたしも共に福音にあずかるためです。
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけです。
あなたがたも、賞を得るように走りなさい。 しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をします。
彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのです。
そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしません。
すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのです。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、
自分は失格者になるかも知れないからです。」 「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくありません。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、
みな海を通り、 みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けました。 また、みな同じ霊の食物を食べ、
みな同じ霊の飲み物を飲んだのです。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのですが、
この岩はキリストにほかなりません。 しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、
荒野で滅ぼされてしまったのです。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも
悪をむさぼることのないためなのです。 だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。
すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてあります。
また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはいけません。
不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もありました。 また、ある者たちがしたようにわたしたちは
ヤハウェを試みてはならない。ヤハウェを試みた者は、へびに殺されました。
また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはいけません。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされました。
これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、
世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためです、だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。 」 「あなたがたの会った試錬で、 世の常でないものはありません。神は真実です。
あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、
のがれる道も備えて下さるのです。
それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。 賢明なあなたがたに訴えます。わたしの言うことを、
自ら判断してみなさい。 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではありませんか。
わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではありませんか。
パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのです。みんなの者が一つのパンを
共にいただくからです。 肉によるイスラエルを見なさい。供え物を食べる人たちは、
祭壇にあずかるのではありませんか。 すると、なんと言ったらよいのですか。偶像にささげる供え物は、
何か意味があるのですか。また、偶像は何かほんとうにあるものなのですか。 そうではありません。
人々が供える物は、悪霊たち、すなわち、神ならぬ者に供えるのです。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間に
なることを望みません。 ヤハウェの杯と悪霊たちの杯とを、同時に飲むことはできないのです。
ヤハウェの食卓と悪霊たちの食卓とに、同時にあずかることはできません。
それとも、わたしたちはヤハウェのねたみを起そうとするのでしょうか。わたしたちは、ヤハウェよりも強いのでしょうか。」 「すべてのことは許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。
すべてのことは許されています。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではありません。
だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきです。
すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べなさい。
地とそれに満ちている物とは、ヤハウェのものだからです。 もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、
そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、いちいち良心に問うことをしないで、食べなさい。
しかし、だれかがあなたがたに、これはささげ物の肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人のために、
また良心のために、食べないがよいでしょう。 良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことです。
なぜなら、わたしの自由が、どうして他人の良心によって左右されることがあるでしょうか。
もしわたしが感謝して食べる場合、その感謝する物について、どうして人のそしりを受けるわけがあるでしょうか。
だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきです。
ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけません。
わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、
自分の益ではなく彼らの益を求めています。」 「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。
あなたがたが、何かにつけわたしを覚えていて、あなたがたに伝えたとおりに言伝えを守っているので、
わたしは満足に思います。 しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、
女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。 祈りをしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、
そのかしらをはずかしめる者です。 祈りをしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、
そのかしらをはずかしめる者です。それは、髪をそったのとまったく同じだからです。
女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがいいでしょう。髪を切ったりそったりするのが、
女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきです。 男は、神のかたちであり栄光であるから、
かしらに物をかぶるべきではありません。女は、また男の光栄です。なぜなら、男が女から出たのではなく、
女が男から出たのだからです。
また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのです。 それだから、女は、かしらに
権威のしるしをかぶるべきです。それは天使たちのためでもあります。
ただ、ヤハウェにあっては、男なしには女はないし、女なしには男はありません。
それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからです。そして、すべてのものは神から出たのです。
あなたがた自身で判断してみなさい。女がおおいをかけずに神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
自然そのものが教えているではありませんか。男に長い髪があれば彼の恥になり、
女に長い髪があれば彼女の光栄になるのです。長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからです。
しかし、だれかがそれに反対の意見を持っていても、そんな風習はわたしたちにはなく、神の諸教会にもありません。」 ところで、次のことを命じるについては、あなたがたをほめるわけにはいきません。
というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからです。
まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、
それを信じています。 たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、
分派もなければならないのです。 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、
ヤハウェの晩餐を守ることができないでいます。 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、
飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末です。 あなたがたには、飲み食いをする家がないのですか。
それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのですか。わたしはあなたがたに対して、
なんと言いましょうか。あなたがたを、ほめましょうか。この事では、ほめるわけにはいきません。
わたしは、ヤハウェから受けたことを、また、あなたがたに伝えたのです。すなわち、ヤハウェ・イエスは、
渡される夜、パンをとり、 感謝してこれをさき、そして言われました、
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯をも同じようにして言われました、
「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。 「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、ヤハウェがこられる時に至るまで、
ヤハウェの死を告げ知らせるのです。 だから、ふさわしくないままでパンを食しヤハウェの杯を飲む者は、
ヤハウェのからだと血とを犯すのです。 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきです。
ヤハウェのからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからです。
あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためです。
しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないでしょう。
しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、
ヤハウェの懲らしめを受けることなのです。 それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、
互に待ち合わせなさい。 もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べなさい。
そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしましょう。」 私はあなた方の不誠実、偽証、腐敗に怒りをもって
あの虹の雲にかかる偽りの契約を再び洪水をもって押し流す
その契約すら糞に過ぎぬことを思い知れ。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、おはようございます。
では、イエス様と兄弟姉妹と共に神のことばのmorningにしましょう。ハレルヤ 詩篇 第29篇 ダビデの歌
「神の子らよ、ヤハウェに帰せよ、栄光と力とをヤハウェに帰せよ。
み名の栄光をヤハウェに帰せよ、聖なる装いをもってヤハウェを拝め。
ヤハウェのみ声は水の上にあり、栄光の神は雷をとどろかせ、ヤハウェは大水の上におられる。
ヤハウェのみ声は力があり、ヤハウェのみ声は威厳がある。
ヤハウェのみ声は香柏を折り砕き、ヤハウェはレバノンの香柏を折り砕かれる。
ヤハウェはレバノンを子牛のように踊らせ、シリオンを若い野牛のように踊らされる。
ヤハウェのみ声は炎をひらめかす。ヤハウェのみ声は荒野を震わせ、ヤハウェはカデシの荒野を震わされる。
ヤハウェのみ声はかしの木を巻きあげ、また林を裸にする。
その宮で、すべてのものは呼ばわって言う、「栄光」と。
ヤハウェは洪水の上に座し、ヤハウェはみくらに座して、とこしえに王であらせられる。
ヤハウェはその民に力を与え、平安をもってその民を祝福されるであろう。」 詩篇 第126篇 都もうでの歌
「ヤハウェがシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようでした。
その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされました。
その時「ヤハウェは彼らのために大いなる事をなされた」と言った者が、もろもろの国民の中にあったのです。
ヤハウェはわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜びました。
アド二ー、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。
涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取ります。
種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるでしょう。」 イエス・キリストの啓示 使徒の働き 新約聖書より
「神は人をかたよりみないかたで、 神を礼拝し、また良い行ないをしている人はどの国民でも
受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者のヤハウェなるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子たちにお送り下さった御言葉をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々を
ことごとくいやしながら、巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人です。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人として
あらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。
わたしたちは、イエスが死人の中からよみがえられた後、共に飲み、食事をしました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、
人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。
預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その御名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの御言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊が下られた。」 詩篇 第1篇
「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
このような人はヤハウェのおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。
悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
それゆえ、悪しき者は裁きに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
ヤハウェは正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。」 詩篇 第148篇
「ハレルヤ。もろもろの天からヤハウェをほめたたえよ。もろもろの高き所でヤハウェをほめたたえよ。
その天使よ、みなヤハウェをほめたたえよ。その万軍よ、みなヤハウェをほめたたえよ。
日よ、月よ、ヤハウェをほめたたえよ。輝く星よ、みなヤハウェをほめたたえよ。
いと高き天よ、天の上にある水よ、ヤハウェをほめたたえよ。これらのものにヤハウェのみ名をほめたたえさせよ、
これらはヤハウェが命じられると造られたからである。ヤハウェはこれらをとこしえに堅く定め、
越えることのできないその境を定められた。
海の獣よ、すべての淵よ、地からヤハウェをほめたたえよ。
火よ、あられよ、雪よ、霜よ、み言葉を行うあらしよ、もろもろの山、すべての丘、
実を結ぶ木、すべての香柏よ、野の獣、すべての家畜、這うもの、翼ある鳥よ、
地の王たち、すべての民、君たち、地のすべてのつかさよ、若い男子、若い女子、老いた人と幼い者よ、
彼らをしてヤハウェのみ名をほめたたえさせよ。そのみ名は高く、たぐいなく、その栄光は地と天の上にあるからである。
ヤハウェはその民のために一つの角をあげられた。これはすべての聖徒のほめたたえるもの、
ヤハウェに近いイスラエルの人々のほめたたえるものである。ハレルヤ。」 神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。
わたしたちの父なる神とヤハウェ・イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの父なる神を賛美しよう。神はキリストにあって、
天上でもろもろの霊の祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえに清く傷のない者となるようにと、
天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって
神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのです。
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためです。
わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、
すなわち、罪過のゆるしを受けました。神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとを
わたしたちに賜わり、御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに
示して下さったのです。 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかなりません。それによって、
神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのです。
わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあって
あらかじめ定められ、神の民として選ばれました。 それは、早くからキリストに望みをおいている
わたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。 あなたがたもまた、キリストにあって、
真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、
約束された聖霊の証印をおされたのです。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美します。ハレルヤ 。
Christian.Dinner さん、みなさん、こんにちは。
>>537
Christian.Dinner さん、ありがとうございます。 553.
賛美する、か。
それは宗教ではない。
それは単なる発声であるよ。 サロメ★おたあ、吹田市に住む在日韓国人、女装が趣味で地獄少女ファン!あずみに嫌われている。
過去、2CHに「ウンコ煮る、猫殺すなど」絵幻ツないことを書き込んでした。
昌糞、トンスルなど、「食糞文化」を持ったのは、 世界中の民族史でも朝鮮民族だけ! あずみに嫌われた 在日韓国人 サロメ★おたあ だろw
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447 : mika2016/12/04(日) 14:23:17.12 ID:DkXiztxE
>445
在日クリスチャンでも立派な人はいます!!
日本人を助けて自分の命を捨てた青年は悪人なの?
http://www.jprime.jp/articles/-/6239 韓国朝鮮人には嘗糞(しょうふん )と言う習慣があって、嬉しいとき悲しいとき
つねにウンコちゃんで表現するんだよ。
それを知らない米国人はさぞかし驚いた事だろうし、大変な思いしただろうなw ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹のみなさん、サラさん、こんばんは。
>>553
サラさん、先週はありがとう。今週のイベントよろしくお願いいたします。
では、イエス様と共にみんなで神のことばのディナーにしましょう。ハレルヤ 詩篇 第8篇 聖歌隊の指揮者によってギテトにあわせてうたわせたダビデの歌
「ヤハウェ、われらのアドニー、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。
あなたの栄光は天の上にあり、みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。
あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。
わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、
これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。
すべての羊と牛、また野の獣、空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。
ヤハウェ、われらのアドニー、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。」 イエス・キリストの啓示 パウロがコリントの聖徒へ宛てた手紙
「兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくありません。
あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行ったことは、
あなたがたの承知しているとおりです。 そこで、あなたがたに言っておきますが、神の霊によって語る者はだれも
「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスはヤハウェである」
と言うことができません。
霊の賜物は種々ありますが、聖霊は同じです。 任務は種々ありますが、ヤハウェは同じです。
働きは種々ありますが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じです。
各自が聖霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためです。 すなわち、ある人には聖霊によって
知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ聖霊によって知識の言葉、 またほかの人には、
同じ聖霊によって信仰、またほかの人には、一つの聖霊によっていやしの賜物、 またほかの人には力あるわざ、
またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、
またほかの人には異言を解く力が、与えられています。 すべてこれらのものは、一つの同じ聖霊の働きであって、
聖霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのです。」 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、
「おまえはいらない」とも言えないのです。
そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、 からだのうちで、
他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくします。
麗しくない部分はいっそう麗しくしますが、 麗しい部分はそうする必要がありません。
神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのです。
それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわり合うためなのです。
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜びます。
あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体です。そして、神は教会の中で、
人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、
次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれました。
みんなが使徒でしょうか。みんなが預言者でしょうか。みんなが教師でしょうか。
みんなが力あるわざを行う者でしょうか。 みんながいやしの賜物を持っているのでしょうか。
みんなが異言を語るのでしょうか。みんなが異言を解くのでしょうか。」 「だが、あなたがたは、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは最もすぐれた道を
あなたがたに示しましょう。たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、
わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じです。 たといまた、わたしに預言をする力があり、
あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、
わたしは無に等しいのです。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、
もし愛がなければ、いっさいは無益です。
愛は寛容であり、愛は情深いのです。また、ねたむことをしません。愛は高ぶらず、誇らず、 不作法をしません、
自分の利益を求ず、いらだたず、恨みをいだきません。 不義を喜ばないで真理を喜びます。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えるのです。」 「愛はいつまでも絶えることがありません。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるでしょう。
なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎません。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれます。 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、
幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていました。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを
捨ててしまったのです。 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ています。
しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るでしょう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎません。
しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るでしょう。
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つです。
このうちで最も大いなるものは、愛です。
愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。 異言を語る者は、
人にむかって語るのではなく、神にむかって語ります。それはだれにもわかりません。
彼はただ、霊によって奥義を語っているだけです。 しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、
彼を励まし、慰めます。 異言を語る者は自分だけの徳を高めますが、預言をする者は教会の徳を高めます。
わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望みますが、特に預言をしてもらいたいのです。
教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっています。」 「だから、兄弟たちよ。たといわたしがあなたがたの所に行って異言を語るとしても、啓示か知識か預言か
教かを語らなければ、あなたがたに、なんの役に立つでしょうか。 また、笛や立琴のような楽器でも、
もしその音に変化がなければ、何を吹いているのか、弾いているのか、どうして知ることができましょうか。
また、もしラッパがはっきりした音を出さないなら、だれが戦闘の準備をするでしょうか。
それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるでしょうか。
それでは、空にむかって語っていることになります。 世には多種多様の言葉がありますが、
意味のないものは一つもありません。 もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、
わたしは異国人であり、語っている人も、わたしにとっては異国人です。 だから、あなたがたも、
霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励みなさい。
このようなわけですから、異言を語る者は、自分でそれを解くことができるように祈りなさい。」 「もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからです。
すると、どうしたらよいのですか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈りましょう。霊で賛美を歌うと共に、
知性でも歌いましょう。 そうでないと、もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても、初心者の席にいる者は、
あなたの感謝に対して、どうしてアーメンと言えましょうか。あなたが何を言っているのか、彼には通じないからです。
感謝するのは結構ですが、それで、ほかの人の徳を高めることにはなりません。
わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝します。 しかし教会では、
一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって
語る方が願わしいのです。
兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけません。悪事については幼な子となるのはよいのですが、
考えかたでは、おとなとなりなさい。 律法にこう書いてあります、「わたしは、異国の舌と異国のくちびるとで、
この民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けない、とヤハウェが仰せになる」。
このように、異言は信者のためではなく未信者のためのしるしですが、預言は未信者のためではなく
信者のためのしるしです。」 「もし全ての教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、
彼らはあなたがたを気違いだと言うでしょう。 しかし、全員が預言をしているところに、
不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、
その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」
と告白するに至るでしょう。
すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのでしょうか。あなたがたが一緒に集まる時、各自は賛美を歌い、
教えをなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのですが、すべては徳を高めるためにすべきです。
もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解くべきです。
もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきです。
預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味しなさい。
しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよいでしょう。
あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのですから。
かつ、預言者の霊は預言者に服従するものです。 神は無秩序の神ではなく、平和の神です。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹のみなさん、サラさん、おはようございます。
では、イエス様と共にみんなで神のことばのモーニングにしましょう。ハレルヤ 「聖徒たちのすべての教会で行われているように、 婦人たちは教会では黙っていなければならないのです。
彼らは語ることが許されていません。だから、律法も命じているように、服従すべきです。
もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねなさい。
教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことです。 それとも、神の言葉はあなたがたのところから出たのですか。
あるいは、あなたがただけにきたのですか。
もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、
ヤハウェの命令だと認めるべきです。 もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視されます。
わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。
また、異言を語ることを妨げてはいけません。
しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよいでしょう。」 「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきた
あの福音を、思い起してもらいたい。 もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの
言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのです。
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことでした。
すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死なれたこと、
そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえられたこと、ケパに現れ、次に、
十二人に現れてくださったことです。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れてくださいました。
その中にはすでに眠った者たちもいますが、大多数はいまなお生存しています。 そののち、ヤコブに現れ、
次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、
現れてくださいました。 実際わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中で
いちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者です。 しかし、神の恵みによって、
わたしは今日あるを得ています。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは
彼らの中のだれよりも多く働いてきました。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みなのです。
とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、
あなたがたは信じたのです。」 「さて、キリストは死人の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、
死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことですか。 もし死人の復活がないならば、
キリストもよみがえられなかったでしょう。 もしキリストがよみがえられなかったとしたら、
わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしいのです。
すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけです。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、
わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反する
あかしを立てたことになるからです。 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえられなかったでしょう。
もしキリストがよみがえられなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、
いまなお罪の中にいることになるでしょう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、
滅んでしまったのです。 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みを
いだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となります。
しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえられたのです。
それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならないのです。」 「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばなりません。最初はキリスト、次に、ヤハウェの来臨に際して
キリストに属する者たち、 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、
すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されます。 なぜなら、キリストはあらゆる敵を
その足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからです。 最後の敵として滅ぼされるのが、死です。
「神は万物を彼の足もとに従わせた」からです。ところが、万物を従わせたと言われる時、
万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかであす。 そして、万物が神に従う時には、
御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従われるでしょう。それは、神がすべての者にあって、
すべてとなられるためです。」 「そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのでしょうか。
もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのですか。
また、なんのために、わたしたちはいつも危険を冒しているのですか。
兄弟たちよ。わたしたちのアドニー・キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている
誇りにかけて言いますが、わたしは日々死に直面しています。
もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのでしょうか。
もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」となります。
まちがってはいけません。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」のです。
目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいるからです。
あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのです。」 しかし、ある人は言うでしょう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのですか。
どんなからだをして来るのですか」。 おろかな人だ。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではありませんか。
また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではありません。
麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎません。 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、
その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになります。 すべての肉が、同じ肉なのではなく、人の肉があり、
獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉があります。 天に属するからだもあれば、地に属するからだもあるのです。
天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っています。 太陽の栄光があり、月の栄光があり、
星の栄光があります。また、この星とあの星との間に、栄光の差があります。」 「死人のよみがえりも、また同様です。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのです。肉のからだがあるのだから、
霊のからだもあります。
聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりです。しかし最後のアダムは命を与える霊となりました。
最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのです。
第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来ます。 この土に属する人に、
土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのです。
すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるでしょう。」 「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておきます。
肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがありません。
ここで、あなたがたに神秘を告げましょう。わたしたちすべては、眠り続けるのではありません。
終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられます。
というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのです。
なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからです。
この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、
聖書に書いてある言葉が成就するのです。
「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
しかし感謝すべきことには、神はわたしたちのアドニーであるイエス・キリストによって、
わたしたちに勝利を賜わったのです。
だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで ヤハウェのわざに励みなさい。
ヤハウェにあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、 あなたがたは知っているからです。」 イエス・キリストの啓示 使徒の働き 新約聖書より
「神は人をかたよりみないかたで、 神を礼拝し、また良い行ないをしている人はどの国民でも
受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者のヤハウェなるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子たちにお送り下さった御言葉をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々を
ことごとくいやしながら、巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人です。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人として
あらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。
わたしたちは、イエスが死人の中からよみがえられた後、共に飲み、食事をしました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、
人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。
預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その御名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの御言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊が下られた。」 「聖徒たちへの献金については、わたしはガラテヤの諸教会に命じておきましたが、あなたがたもそのとおりにしなさい。
一週の初めの日ごとに、あなたがたはそれぞれ、いくらでも収入に応じて手もとにたくわえておき、
わたしが着いた時になって 初めて集めることのないようにしなさい。 わたしが到着したら、あなたがたが
選んだ人々に手紙をつけ、あなたがたの贈り物を持たせて、 エルサレムに送り出すことにしましょう。
もしわたしも行く方がよければ、一緒に行くことになるでしょう。 わたしは、マケドニヤを通過してから、
あなたがたのところに行くことになるでしょう。マケドニヤは通過するだけですが、 あなたがたの所では、
たぶん滞在するようになり、 あるいは冬を過ごすかも知れません。
そうなれば、わたしがどこへゆくにしても、あなたがたに送ってもらえるでしょう。
わたしは今、あなたがたに旅のついでに会うことは好みません。もしヤハウェのお許しがあれば、
しばらくあなたがたの所に滞在したいと望んでいます。
しかし五旬節までは、エペソに滞在するつもりです。というのは、有力な働きの門がわたしのために
大きく開かれているし、 また敵対する者も多いからです」 「もしテモテが着いたら、あなたがたの所で不安なしに過ごせるようにしてあげてほしい。
彼はわたしと同様に、ヤハウェのご用にあたっているからです。 だれも彼を軽んじてはいけない。
そして、わたしの所に来るように、どうか彼を安らかに送り出してほしい。
わたしは彼が兄弟たちと一緒に来るのを待っています。 兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒に
あなたがたの所に行くように、たびたび勧めてみました。しかし彼には、今行く意志は、全くありません。
適当な機会があれば、行くでしょう。目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい。
いっさいのことを、愛をもって行いなさい。
兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。あなたがたが知っているように、ステパナの家はアカヤの初穂であって、
彼らは身をもって聖徒に奉仕してくれました。 どうか、このような人々と、またすべて彼らと共に働き共に
労する人々とに、従ってほしい。 わたしは、ステパナとポルトナトとアカイコとがきてくれたのを喜んでいます。
彼らはあなたがたの足りない所を満たし、 わたしの心とあなたがたの心とを、安らかにしてくれました。
こうした人々は、重んじなければならないのです。アジヤの諸教会から、あなたがたによろしくとのことです。
アクラとプリスカとその家の教会から、ヤハウェにあって心からよろしくとのことです。
すべての兄弟たちから、よろしくとのことです。あなたがたも互いに、きよい接吻をもってあいさつをかわしなさい。
ここでパウロが、手ずからあいさつを記します。 もしヤハウェを愛さない者があれば、のろわれよ。
マラナ・タ(われらのアドニー、きたりませ)。ヤハウェ・イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
わたしの愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にあるように。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、 ハレルヤ
明日のイベント会場の食事のお届け先
全日本吹奏楽コンクール総合スレvol.90
http://itest.2ch.net/mint/test/read.cgi/suisou/1480058121 「神の御旨によりキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟テモテとから、コリントにある神の教会、
ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。
わたしたちの父なる神とヤハウェ・イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
ほむべきかな、わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。
神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、
神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのです。
それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、
キリストによって満ちあふれているからです。 わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと
救いとのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、
わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのです。 だから、あなたがたに対していだいている
わたしたちの望みは、動くことがありません。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、
慰めにも共にあずかっていることを知っているからです。」 「兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくないのです。
わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、 心のうちで死を覚悟し、
自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至りました。
神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さいました、また救い出して下さるでしょう。わたしたちは、
神が今後も救い出して下さることを望んでいます。 そして、あなたがたもまた祈りをもって、ともどもに、
わたしたちを助けてくれるでしょう。これは多くの人々の願いによりわたしたちに賜わった恵みについて、
多くの人が感謝をささげるようになるためです。
さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、
神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇りであって、良心のあかしするところです。
わたしたちが書いていることは、あなたがたが読んで理解できないことではありません。
それを完全に理解してくれるように、わたしは希望します。 すでにある程度わたしたちを
理解してくれているとおり、わたしたちのアドニー・イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇りであるように、
わたしたちもあなたがたの誇りなのです。この確信をもって、わたしたちはもう一度恵みを得させたいので、
まずあなたがたの所に行き、それからそちらを通ってマケドニヤにおもむき、そして再びマケドニヤから
あなたがたの所に帰り、あなたがたの見送りを受けてユダヤに行く計画を立てたのです。 この計画を立てたのは、
軽率なことであったでしょうか。それとも、自分の計画を肉の思いによって計画したため、
わたしの「しかり、しかり」が同時に「否、否」であったのでしょうか。 神の真実にかけて言いますが、
あなたがたに対するわたしの言葉は、「しかり」と同時に「否」というようなものではありません。」 「なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた
神の子キリスト・イエスは、「しかり」となると同時に「否」となったのではありません。そうではなく、
「しかり」がイエスにおいて実現されたのです。
なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからです。だから、わたしたちは、
彼によって「アーメン」と唱えて、神に栄光を帰するのです。 あなたがたと共にわたしたちを、
キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神です。 神はまた、わたしたちに証印をおし、
その保証として、わたしたちの心に聖霊を賜わったのです。
わたしは自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言いますが、わたしがコリントに行かないでいるのは、
あなたがたに対して寛大でありたいためです。 わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、
あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎません。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです」 「そこでわたしは、あなたがたの所に再び悲しみをもって行くことはすまいと、決心したのです。
もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませているその人以外に、
だれがわたしを喜ばせてくれるのですか。このような事を書いたのは、わたしが行く時、わたしを
喜ばせてくれるはずの人々から、悲しい思いをさせられたくないためです。わたし自身の喜びは
あなたがた全体の喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからです。
わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書きおくりました。
それは、あなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたに対してあふれるばかりにいだいている
わたしの愛を、知ってもらうためでした。
しかし、もしだれかが人を悲しませたとすれば、それはわたしを悲しませたのではなく、控え目に言いますが、
ある程度、あなたがた一同を悲しませたのです。 その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰で
もう十分なのですから、 あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきです。そうしないと、
その人はますます深い悲しみに沈むかも知れません。」 「そこでわたしは、あなたがたの所に再び悲しみをもって行くことはすまいと、決心したのです。
もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませているその人以外に、
だれがわたしを喜ばせてくれるのですか。このような事を書いたのは、わたしが行く時、わたしを
喜ばせてくれるはずの人々から、悲しい思いをさせられたくないためです。わたし自身の喜びは
あなたがた全体の喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからです。
わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書きおくりました。
それは、あなたがたを悲しませるためではなく、あなたがたに対してあふれるばかりにいだいている
わたしの愛を、知ってもらうためでした。
しかし、もしだれかが人を悲しませたとすれば、それはわたしを悲しませたのではなく、控え目に言いますが、
ある程度、あなたがた一同を悲しませたのです。 その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰で
もう十分なのですから、 あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきです。そうしないと、
その人はますます深い悲しみに沈むかも知れません。」 「そこでわたしは、彼に対して愛を示すように、あなたがたに勧めます。わたしが書きおくったのも、
あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかったのです。
もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるしましょう。
そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえで
ゆるしたのです。 そうするのは、サタンに欺かれることのないためです。
わたしたちは、彼の策略を知らないわけではありません。
さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのためにヤハウェの門が開かれたにもかかわらず、
兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニヤに出かけて行きました。
しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおして
キリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのです。
わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりです。
後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりです。
いったい、このような任務に、だれが耐え得ましょうか。 しかし、わたしたちは、多くの人のように
神の御言葉を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、
キリストにあって語るのです。」 作曲、演奏、プロデュースは坂本龍一。
A Flower Is Not A Flowerは二胡奏者のKenny Wen(ケニー・ウェイン)から「花であって花でないものを」と依頼されて作曲したもの。
2分25秒から劇的な展開。
Kiteはヨットの凧のこと。爽快な曲。よく晴れた青い空の海をヨットが心地いい風を凧にうけてすいすい進んでいく感じ?
【超高音質】
A Flower Is Not A Flower
http://www.5nd.com/ting/274751.html
Kite
http://www.5nd.com/ting/274764.html
岡城千歳
Grasshoppers (1979), Ryuichi Sakamoto Piano Works, Chitose Okashiro, Piano
https://www.youtube.com/watch?v=Uvw-8B60oX4
1919 - The Sheltering Sky Theme - Ryuichi Sakamoto Film Music - Chitose Okashiro, Piano
https://www.youtube.com/watch?v=Pu7o5bhZQag
"Merry Christmas Mr. Lawrence" - Ryuichi Sakamoto Film Music - Chitose Okashiro, Piano
https://www.youtube.com/watch?v=2t14hopxIC0
Tong Poo - For Four Hands, Ryuichi Sakamoto Piano Works, Chitose Okashiro & J.Y. Song, Piano
https://www.youtube.com/watch?v=FzJm32coBtI&list ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹のみなさん、サラさん、おはようございます。
では、イエス様と共にmorningにしましょう。ハレルヤ 「わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、
あなたがたにあてた、 あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのでしょうか。
わたしたちの推薦状は、あなたがたなのです。
それは、わたしたちの心にしるされていて、 すべての人に知られ、かつ読まれています。 そして、あなたがたは
自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、 墨によらず生ける神の霊によって書かれ、
石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしているのです。
こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいています。 もちろん、自分自身で
事を定める力が自分にある、と言うのではありません。
わたしたちのこうした力は、神からきています。 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのです。
それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者です。文字は人を殺し、霊は人を生かすのです。
もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、
モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、 まして霊の務は、
はるかに栄光あるものではないでしょうか。」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています