YHWH☆十字架☆ヤハウェ☆イエス・キリスト復活66 [無断転載禁止]©2ch.net
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「ヤハウェは、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、
大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗闇の中に閉じ込めておかれました。
ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、
永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされています。 しかし、これと同じように、これらの人々は、
夢に迷わされて肉を汚し、権威ある者たちを軽んじ、栄光ある者たちをそしっているのです。
御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、
ただ、「ヤハウェがおまえを戒めて下さるように」と言っただけでした。
しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な
知識にあやまられて、自らの滅亡を招いています。 彼らはわざわいです。彼らはカインの道を行き、
利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのです。
彼らは、あなたがたの愛餐に加わるのですが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしています。
彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、
自分の恥をあわにして出す海の荒波、さまよう星です。彼らには、まっくらな闇が永久に用意されています。」 アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言いました、
「見よ、ヤハウェは無数の聖徒たちを率いてこられた。 それは、すべての者にさばきを行うためであり、
また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が
ヤハウェにそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。 彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、
自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者です。
愛する者たちよ。わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。
彼らはあなたがたにこう言いました、
「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。
彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちです。 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、
最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、
わたしたちのアドニーであるイエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。 疑いをいだく人々があれば、
彼らをあわれみ、 火の中から引き出して救ってやりなさい。
また、そのほかの人たちを、おそれの心をもってあわれみなさい。しかし、肉に汚れた者に対しては、
その下着さえも忌みきらいなさい。」 「あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、
喜びのうちに立たせて下さるかた、 すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、
わたしたちのアドニーであるイエス・キリストによって、世々の初めにも、今も、
また、世々限りなく、あるように、アーメン。」 まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか? 「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから―― この福音は、
神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものです。
御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって
神の御子と定められました。これがわたしたちのアドニーであるイエス・キリストです。わたしたちは
その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと
使徒の務とを受けたのであり、あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに
属する者となったのです。ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。
わたしたちの父なる神およびヤハウェ・イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、
あなたがた一同のために、わたしの神に感謝します。」 「わたしは、祈りのたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、いつかは御旨にかなって道が開かれ、
どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っています。
このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて
仕えている神です。 わたしは、あなたがたに会うことを熱望しています。あなたがたに霊の賜物を
幾分でも分け与えて、力づけたいからです。 それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとの
お互いの信仰によって、共に励まし合うためにほかなりません。 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。
わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に
行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきました。 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、
賢い者にも無知な者にも、果すべき責任があります。そこで、わたしとしての切なる願いは、
ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのです。わたしは福音を恥としない。
それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力です。
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせます。
これは、「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
明日のイベント開催
読書が好きな奥様(IDなし)4冊目
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1480253958?v=pc 「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、
天から啓示されます。 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに
明らかにされたのです。 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、
被造物において知られていて、明らかに認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。
なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、
その無知な心は暗くなったからです。 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、
朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのです。
ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられました。
彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのです。
創造者こそ永遠に賛美されるかた、アーメン。」 「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられました。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を
不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互いにその情欲の炎を燃やし、
男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのです。
そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、
なすべからざる事をなすに任せられました。 すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、
ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、
大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっています。
彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、
それを行う者たちを是認さえしているのです。」 「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がありません。
あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。
さばくあなたも、同じことを行っているからでです。
わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っています。
ああ、このような事を行う者たちをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。
あなたは、神のさばきをのがれうると思うのですか。 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、
その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのですか。 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、
あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのです。
神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられます。 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、
光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、 怒りと激しい憤りとが加えられるのです。
悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、
善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられます。
なぜなら、神には、かたより見ることがないからです。」 「そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、
律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれるのです。 なぜなら、律法を聞く者が、
神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからです。
すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、
たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのです。
彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、
そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのです。
そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらを
さばかれるその日に、明らかにされるでしょう。」 「もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、 御旨を知り、
律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、 さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、
自ら盲人の手引き、闇におる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、
なぜ、人を教えて自分を教えないのですか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのですか。
姦淫するなと言って、自らは姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自らは神殿の物をかすめるのですか。
律法を誇りとしながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのですか。
聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されているのです」。
もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立つでしょう。
しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまうのです。」 「だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではありませんか。
かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と
割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのです。
というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が
割礼でもありません。 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による
心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来ます。」 「では、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。また割礼の益は何でしょうか。
それは、いろいろの点で数多くあります。まず第一に、神の言葉が彼らにゆだねられたことです。
すると、どうなるのですか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、
その不真実によって、神の真実は無になるでしょうか。
断じてそうではありません。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なかたとすべきです。
それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、
勝利を得るため」と書いてあるとおりです。
しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきでしょうか。
怒りを下す神は、不義であると言うのですか(これは人間的な言い方ではありますが)。
断じてそうではありません。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるのでしょうか。
しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、
神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのでしょうか。
むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」
(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっています)。
彼らが罰せられるのは当然です。
すると、どうなるのですか。わたしたちには何かまさったところがあるのでしょうか。
絶対にありません。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘しました。」 「次のように書いてあります、
「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。
彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、
彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られています。
それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためです。
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからです。
律法によっては、罪の自覚が生じるのみです。」 「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされ現されました。
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものです。
そこにはなんらの差別もありません。すなわち、すべての人は罪を犯したため、
神の栄光を受けられなくなっており、 彼らは、価なしに、神の恵みにより、
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのです。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされました。
それは神の義を示すためでした。すなわち、今までに犯された罪を、
神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、
神の義を示すためでした。こうして、神みずからが義となり、さらに、
イエスを信じる者を義とされるのです。すると、どこにわたしたちの誇があるのですか。全くありません。
なんの法則によってですか。行いの法則によってでしょうか。
そうではなく、信仰の法則によってなのです。」 「わたしたちは、こう思います。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、
信仰によるのです。それとも、神はユダヤ人だけの神なのでしょうか。
また、異邦人の神であるのではないでしょうか。確かに、異邦人の神でもあります。
まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、
また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのです。 すると、信仰のゆえに、わたしたちは
律法を無効にするのですか。断じてそうではありません。
かえって、それによって律法を確立するのです。」 ----
† ルカによる福音書11.43-46
わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、
自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。
原発は日本を不幸にするだけです。悔い改めなさい。時間がありません。
† マタイ23.13
しかし、忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。
あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。
自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。
---- ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、おはようございます。
では、イエス様と兄弟姉妹と共に神のことばのmorningにしましょう。ハレルヤ 「それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいでしょうか。
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることがでるでしょう。
しかし、神のみまえでは、できません。
なぜなら、聖書はなんと言っていますか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とあります。
いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められるのです。
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められます。
ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、 次のように言っています、
「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、 さいわいである。罪をヤハウェに認められない人は、さいわいである」。 「もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまうのです。
いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはありません。
このようなわけで、すべては信仰によります。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、
律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのです。アブラハムは、
神の前で、わたしたちすべての者の父であって、 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」
と書いてあるとおりです。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じました。
彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じました。
そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのです。
すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、
なお彼の信仰は弱りませんでした。 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって
信仰によって強められ、栄光を神に帰し、 神はその約束されたことを、また成就することができると確信しました。
だから、彼は義と認められたのです。」 「しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、 わたしたちのためでもあって、
わたしたちのアドニーであるイエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、
義と認められます。 ヤハウェは、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、
よみがえらされたのです。
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちのアドニーであるイエス・キリストにより、
神に対して平和を得ています。 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって
導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいます。 それだけではなく、患難をも喜んでいます。
なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからです。
そして、希望は失望に終ることはありません。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、
神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さいました。。
正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないでしょう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるかもしれません。
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する
愛を示されたのです。
わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのですから、なおさら、彼によって神の怒りから
救われるでしょう。 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、
和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるでしょう。 そればかりではなく、わたしたちは、
今や和解を得させて下さったわたしたちのアドニーであるイエス・キリストによって、神を喜ぶのです。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美します。ハレルヤ 。
Christian.Dinner さん、みなさん、おはようございます。
>>445
Christian.Dinner さん、よろしくお願いします。
>>385>>392-395>>398>>400>>402>>404-405>>408-409
>>414-415>>418-434>>440-442>>456
おはようございます。 イエス・キリストの御名を賛美しよう。ハレルヤ。
サラさん、おはよう、ではランチをどうぞ 「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、
こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのです。 というのは、律法以前にも
罪は世にあったのですが、律法がなければ、罪は罪として認められません。
しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、
死の支配を免れなかったのです。このアダムは、きたるべき者の型です。
しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっています。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が
死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、
さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではありませんか。 かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは
異なっています。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったのですが、
恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからです。 もし、ひとりの罪過によって、
そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを
受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではありませんか。」 「このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、
いのちを得させる義がすべての人に及ぶのです。 すなわち、ひとりの人の不従順によって、
多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされます。
律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためです。しかし、罪の増し加わったところには、
恵みもますます満ちあふれました。 それは、罪が死によって支配するに至ったように、
恵みもまた義によって支配し、わたしたちのアドニーであるイエス・キリストにより、
永遠のいのちを得させるためです。」 「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきでしょうか。
断じてそうではありません。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きていられるでしょうか。
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、
彼の死にあずかるバプテスマを受けたのです。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、
彼と共に葬られたのです。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、
わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためです。 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様に
ひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるでしょう。
わたしたちは、この事を知っています。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられました。
それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためです。
それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからです。 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、
また彼と共に生きることを信じます。 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、
死はもはや彼を支配しないことを、知っているからです。 なぜなら、キリストが死んだのは、
ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからです。
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって
神に生きている者であることを、認めなさい。 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて
その情欲に従わせることをせず、 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。
むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として
神にささげなさい。 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、
罪に支配されることはないからです。」 「それでは、どうなのですか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を
犯すべきでしょうか。断じてそうではありません。 あなたがたは知らないのですか。あなたがた自身が、
だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、
あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのです。 しかし、神は感謝しよう。あなたがたは罪の僕でしたが、
伝えられた教えの基準に心から服従して、 罪から解放され、義の僕となったのです。 わたしは人間的な
言い方をしますが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえです。あなたがたは、かつて自分の肢体を
汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、
きよくならねばならないのです。 あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者でした。
その時あなたがたは、どんな実を結んだのですか。それは、今では恥とするようなものでした。
それらのものの終極は、死です。 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、
清さに至る実を結んでいます。その終極は永遠のいのちです。 罪の支払う報酬は死です。
しかし神の賜物は、わたしたちのアドニーであるキリスト・イエスにおける永遠のいのちです。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、こんばんは。
では、イエス様と兄弟姉妹と共に神のことばのディナーにしましょう。ハレルヤ
今夜のイベント
読書が好きな奥様(IDなし)4冊目
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1480253958/l50?v=pc 「それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのですか。わたしは律法を知っている人々に語るのですが、
律法は人をその生きている期間だけ支配するものです。すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、
律法によって彼につながれています。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放されます。
ですから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれますが、もし夫が死ねば、
その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならないのです。
わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死にました。
それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、
こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのです。 というのは、わたしたちが肉にあった時には、
律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていました。
しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、
その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのです。」 「それでは、わたしたちは、なんと言いましょうか。律法は罪なのですか。断じてそうではありません。
しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」
と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったでしょう。
しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させたのです。
すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのです。 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、
戒めが来るに及んで、罪は生き返り、 わたしは死にました。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、
かえってわたしを死に導いて行くことがわかったのです。 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、
わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからです。 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、
戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものです。 では、善なるものが、わたしにとって死となったのですか。
断じてそうではありません。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざです。
すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによって
わたしを死に至らせたのです。」 「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉につける者であって、
罪の下に売られているのです。 わたしは自分のしていることが、わからない。
なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからです。
もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになります。
そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪です。
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っています。
なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからです。
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っています。
もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、
わたしの内に宿っている罪です。 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという
法則があるのを見ます。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、
わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する
罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見るのです。
わたしは、なんというみじめな人間なのでしょうか。だれが、この死のからだから、
わたしを救ってくれるのでしょうか。 わたしたちのアドニーであるイエス・キリストによって、神に感謝します。
このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の律法に仕えているのです。」 「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがありません。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの聖霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さいました。
すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのです。 これは律法の要求が、
肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためです。
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからです。肉の思いは死ですが、
霊の思いは、いのちと平安です。 なぜなら、肉の思いは神に敵するからです。すなわち、それは神の律法に従わず、
否、従い得ないのです。また、肉にある者は、神を喜ばせることができません。 しかし、神の聖霊が
あなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊にいます。
もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではありません。 もし、キリストが
あなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きています。
もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの聖霊が、あなたがたの内に宿っているなら、
キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている聖霊によって、
あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるでしょう。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美します。ハレルヤ 。
Christian.Dinner さん、みなさん、こんばんは。
>>468
Christian.Dinner さん、ありがとうございます。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、>>473サラさん、みなさん、おはようございます。
では、イエス様と兄弟姉妹と共に神のことばのmorningにしましょう。ハレルヤ 「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者ですが、肉に従って生きる
責任を肉に対して負っているのではありません。 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは
死ぬ外はないからです。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるでしょう。
すべて神の聖霊に導かれている者は、すなわち、神の子です。 あなたがたは再び恐れをいだかせる
奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けました。
その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのです。 聖霊みずから、わたしたちの霊と共に、
わたしたちが神の子であることをあかしして下さいます。 もし子であれば、相続人でもあります。
神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのです。
わたしは思います。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいます。 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、
自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 かつ、被造物自身にも、
滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからです。
実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っています。」 「それだけではなく、聖霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、
子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいます。
わたしたちは、この望みによって救われているのです。しかし、目に見える望みは望みではありません。
なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人がいるでしょうか。
もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのです。
聖霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さいます。
なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないのですが、聖霊みずから、言葉にあらわせない
切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからです。
そして、人の心を探り知るかたは、聖霊の思うところがなんであるかを知っておられます。なぜなら、聖霊は、
聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからです。 神は、神を愛する者たち、すなわち、
ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っています。
神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、
あらかじめ定めて下さいまた。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためでした。
そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、
更に栄光を与えて下さったのです。」 「それでは、これらの事について、なんと言いましょうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、
だれがわたしたちに敵対し得るでしょうか。
ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず
万物をも賜わらないことがあるでしょうか。 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのですか。
神は彼らを義とされるのです。 だれが、わたしたちを罪に定めるのですか。キリスト・イエスは、死んで、否、
よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのです。
だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのですか。患難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、
飢え、裸ですか、危難、剣ですか。
「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において
圧倒的勝利者なのです。 わたしは確信します。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、
力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちのアドニーである
キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません。」 「わたしはキリストにあって真実を語り、偽りは言いません。わたしの良心も聖霊によって、
わたしにこうあかしをしています。 すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、
わたしの心に絶えざる痛みがあるのです。 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身が
のろわれて、キリストから離されてもいとわないのです。 彼らはイスラエル人であって、子たる身分を
授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、
また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのです。
万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アーメン。
しかし、神の言葉が無効になったというわけではありません。なぜなら、イスラエルから出た者が
全部イスラエルなのではなく、 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからです。
かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。 すなわち、肉の子がそのまま
神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められます。約束の言葉はこうです。
「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。 そればかりではなく、
ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様です。
まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、 わざによらず、召したかたによっ
行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのです。
「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。」 「では、わたしたちはなんと言いましょうか。神の側に不正があるのですか。断じてそうではありません。
神はモーセに言われました、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。
ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのです。
聖書はパロにこう言っています、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、
あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。
だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのです。
そこで、あなたは言うでしょう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。
ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのですか。造られたものが造った者に向かって、
「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあるでしょうか。 陶器を造る者は、同じ土から、
一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのでしょうか。 もし、神が怒りをあらわし、
かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって
忍ばれたとすれば、 かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器に
ご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうでしょうか。」 「神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも
召されたのです。 それは、ホセアの書でも言われているとおりです、
「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」。
また、イザヤはイスラエルについて叫んでいます、
「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。
ヤハウェは、御言葉をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう」。
さらに、イザヤは預言しました、
「もし、万軍のヤハウェがわたしたちに子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、
ゴモラと同じようになったであろう」。
では、わたしたちはなんと言いましょうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得ました。
しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかったのです。 なぜでしょうか。
信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからです。
彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」
と書いてあるとおりです。」 信仰していたのに勤めていた会社が潰れました
これも神の恵みですか?ありがとうございます >>481
イエス・キリストの御名を賛美しよう。ハレルヤ。聖書にこう書いてあります。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、 ご計画に従って召された者たちと共に働いて、
万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っています。 」>>476>>477 「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らが救われることです。
わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではありません。
なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからです。
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられました。
モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。
しかし、信仰による義は、こう言っています、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言ってはならない」。
それは、キリストを引き降ろすことです。 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言ってはならない」。
それは、キリストを死人の中から引き上げることです。 では、なんと言っていますか。
「言葉はあなたの近くにあり、あなたの口にあり、心にある」。
この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉です。
すなわち、自分の口で、イエスはヤハウェ(主)であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスを
よみがえらせたと信じるなら、あなたは救われます。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して
救われるからです。 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っています。
ユダヤ人とギリシヤ人との差別はありません。同一のヤハウェが万民のヤハウェであって、彼を呼び求める
すべての人を豊かに恵んで下さるからです。 なぜなら、「ヤハウェの御名を呼び求める者は、すべて救われる」
とあるからです。」 「しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあるでしょうか。聞いたことのない者を、
どうして信じることがあるでしょうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことができるでしょうか。
つかわされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょうか。
「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりです。 しかし、すべての人が
福音に聞き従ったのではありません。イザヤは、「アドニー、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」
と言っています。 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのです。
しかしわたしは言います、彼らには聞えなかったのでしょうか。否、むしろ「その声は全地にひびきわたり、
その言葉は世界のはてにまで及んだ」のです。
なお、わたしは言います、イスラエルは知らなかったのでしょうか。まずモーセは言っています、
「わたしはあなたがたに、国民でない者に対してねたみを起させ、無知な国民に対して、怒りをいだかせるであろう」。
イザヤも大胆に言っています、
「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、わたしを尋ねない者に、自分を現した」。
そして、イスラエルについては、
「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」と言っています。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、こんばんは。
サラさん、明日のイベントはこちらです。よろしくお願いいたします。
なんか切なくなったら書き込むスレ 137
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/furin/1479187254?v=pc 明日のイベントの食事のみことばは、サラさんのお任せコースでお願いいたします。
ハレルヤ。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美します。ハレルヤ 。
Christian.Dinner さん、みなさん、こんばんは。
>>481
こんばんは。
>>485-486
Christian.Dinner さん、いつもありがとうございます。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、おはようございます。
>>487
サラさん、今日のイベントの食事の提供よろしくお願いいたします。
では、イエス様と兄弟姉妹と共に神のことばのmorningにしましょう。ハレルヤ 「そこで、わたしは問います、「神はその民を捨てたのでしょうか」。断じてそうではありません。
わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者です。 神は、あらかじめ知っておられたその民を、
捨てることはされなかったのです。聖書がエリヤについてなんと言っているでしょうか、
あなたがたは知らないのですか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
「アドニー、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊し、そして、わたしひとりが取り残されたのに、
彼らはわたしのいのちをも求めています」。 しかし、彼に対する御告げはなんであったのですか、
「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。 それと同じように、今の時にも、
恵みの選びによって残された者がいます。 しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。
そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからです。 では、どうなるのですか。
イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得ました。
そして、他の者たちはかたくなになったのです。
「神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞えない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる」と書いてあるとおりです。
ダビデもまた言っています、
「彼らの食卓は、彼らのわなとなれ、網となれ、つまずきとなれ、報復となれ。彼らの目は、くらんで見えなくなれ、
彼らの背は、いつまでも曲っておれ」。
そこで、わたしは問います、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではありません。
かえって、彼らの罪過によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためです。
しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが
全部救われたなら、どんなにかすばらしいことでしょう。」 「そこでわたしは、あなたがた異邦人に言います。わたし自身は異邦人の使徒なのですから、
わたしの任務を光栄とし、 どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っています。
もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、
死人の中から生き返ることではありませんか。 もし、麦粉の初穂が清ければ、そのかたまりも清いのです。
もし根が清ければ、その枝も清い。 しかし、もしある枝が切り去られて、
野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、
あなたはその枝に対して誇ってはならないのです。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、
根があなたをささえているからです。
すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うでしょう。
まさに、そのとおりです。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っています。
高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。」 「もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないでしょう。
神の慈愛と峻厳とを見なさい。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、
神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられます。
そうでないと、あなたも切り取られるでしょう。 しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるでしょう。
神には彼らを再びつぐ力があるからです。 なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、
自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、
元のオリブにつがれないでしょうか。
兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくありません。
一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
こうして、イスラエル人は、すべて救われるでしょう。すなわち、次のように書いてあります、
「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。
そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。」 「福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、
父祖たちのゆえに、神に愛せられる者です。 神の賜物と召しとは、変えられることがありません。
あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、
彼らも今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、
彼ら自身も今あわれみを受けるためなのです。 すなわち、神はすべての人をあわれむために、
すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのです。
ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
「だれが、ヤハウェの心を知っていたか。だれが、ヤハウェの計画にあずかったか。
また、だれが、まずヤハウェに与えて、その報いを受けるであろうか」。
万物は、神から出て、神によって成り、神に帰するのです。栄光がとこしえに神にあるように、アーメン。」 「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、
神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝です。
あなたがたは、この世と妥協してはならないのです。むしろ、心を新たにすることによって、
造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、
わきまえ知るべきです。
わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言います。
思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、
慎み深く思うべきです。 なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな
同じ働きをしてはいないように、 わたしたちも数は多いのですが、キリストにあって一つのからだであり、
また各自は互いに肢体だからです。」 「このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、
もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、 奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、
勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、
慈善をする者は快く慈善をすべきです。 愛には偽りがあってはいけません。悪は憎み退け、善には親しみ結び、
兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。
熱心で、うむことなく、霊に燃え、ヤハウェに仕え、 望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。
貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。
祝福して、のろってはいけません。 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互いに思うことをひとつにし、
高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わりなさい。自分が知者だと思いあがってはいけません。
だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。 あなたがたは、
できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、
神の怒りに任せなさい。なぜなら、「ヤハウェが言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」
と書いてあるからです。 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、
彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのです」。
悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美します。ハレルヤ 。
Christian.Dinner さん、みなさん、こんにちは。
>>490
こんにちは。
Christian.Dinner さん、引用しました。
なんか切なくなったら書き込むスレ 137
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/furin/1479187254?v=pc ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、こんばんは。
>>496
サラさん、イベントにて神の子どもの食事の提供ありがとうございます。
イエス様にあって感謝します。
では、イエス様と兄弟姉妹と共に神のことばの食事にしましょう。ハレルヤ 「すべての人は、上に立つ権威に従うべきです。なぜなら、神によらない権威はなく、
おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからです。 したがって、権威に逆らう者は、
神の定めにそむく者なのです。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになります。
いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖なのです。
あなたは権威を恐れないことを願いますか。それでは、善事を行いなさい。そうすれば、彼からほめられるでしょう。
彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのです。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。
彼はいたずらに剣を帯びているのではありません。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、
怒りをもって報いるからです。 だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきです。
あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からです。彼らは神に仕える者として、
もっぱらこの務に携わっています。 あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。
すなわち、貢を納めるべき者には貢を納め、税を納めるべき者には税を納め、
恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。」 「互いに愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはいけません。人を愛する者は、律法を全うするのです。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、
結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰するのです。
愛は隣り人に害を加えることはありません。だから、愛は律法を完成するものです。
なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。
すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきています。なぜなら今は、わたしたちの救いが、
初め信じた時よりも、もっと近づいているからです。 夜はふけ、日が近づいています。
ですから、わたしたちは、闇のわざを捨てて、光の武具を着けようではありませんか。 そして、宴楽と泥酔、
淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではありませんか。
あなたがたは、ヤハウェ・イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはいけません。」 「信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはなりません。
ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べます。
食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはいけません。
神は彼を受けいれて下さったのです。 他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者ですか。
彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、彼は立つようになります。
ヤハウェは彼を立たせることができるからです。 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、
ほかの人はどの日も同じだと考えます。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っているべきです。
日を重んじる者は、ヤハウェのために重んじ、また食べる者もヤハウェのために食べます。
神に感謝して食べるからです。食べない者もヤハウェのために食べません。そして、神に感謝します。
すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はありません。
わたしたちは、生きるのもヤハウェのために生き、死ぬのもヤハウェのために死ぬのです。
だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちはヤハウェのものなのです。
なぜなら、キリストは、死者と生者とのヤハウェとなるために、死んで生き返られたからです。
それなのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのですか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのですか。
わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのです。」 すなわち、「ヤハウェが言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、
すべての舌は、神に賛美をささげるであろう」と書いてあります。 だから、わたしたちひとりびとりは、
神に対して自分の言いひらきをすべきです。
それゆえ、今後わたしたちは、互いにさばき合うことをやめようではありませんか。むしろ、あなたがたは、
妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めなさい。
わたしは、ヤハウェ・イエスにあって知りかつ確信しています。それ自体、汚れているものは一つもありません。
ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのです。
もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではありません。
あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはいけません。キリストは彼のためにも、死なれたのです。
それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。
神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとであるからです。
こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられます。
こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではありませんか。
食物のことで、神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。
ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となります。 肉を食わず、酒を飲まず、
そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことです。 あなたの持っている信仰を、神のみまえに、
自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいです。
しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められます。すべて信仰によらないことは、罪です。」 「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはいけません。
わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきです。
キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、
わたしに降りかかった」と書いてあるとおりでした。これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの
教えのために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためです。
どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、
こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの
父なる神をあがめさせて下さるように。こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、
あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきです。 わたしは言います、
キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられました。
それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためです、
「それゆえ、わたしは、異邦人の中であなたに賛美をささげ、また、御名をほめ歌う」と書いてあるとおりです。 また、こう言っています、「異邦人よ、ヤハウェの民と共に喜べ」。
また、「すべての異邦人よ、ヤハウェをほめまつれ。もろもろの民よ、ヤハウェをほめたたえよ」。
またイザヤは言っています、「エッサイの根から芽が出て、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。
異邦人は彼に望みをおくであろう」。
どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、
あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。
さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互いに
訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じています。 しかし、わたしはあなたがたの記憶を
新たにするために、ところどころ、かなり思いきって書きました。それは、神からわたしに賜わった
恵みによって、書いたのです。 このように恵みを受けたのは、わたしが異邦人のために
キリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を勤め、こうして異邦人を、聖霊によって
きよめられた、御旨にかなうささげ物とするためです。 だから、わたしは神への奉仕については、
キリスト・イエスにあって誇りうるのです。 わたしは、異邦人を従順にするために、キリストが
わたしを用いて、言葉とわざ、 しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、
あえて何も語ろうとは思いません。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、
キリストの福音を満たしてきました。 その際、わたしの切に望んだところは、他人の土台の上に
建てることをしないで、キリストの御名がまだ唱えられていない所に福音を宣べ伝えることでした。
すなわち、「彼のことを宣べ伝えられていなかった人々が見、聞いていなかった人々が悟るであろう」
と書いてあるとおりです。 「こういうわけで、わたしはあなたがたの所に行くことを、たびたび妨げられてきました。 しかし今では、
この地方にはもはや働く余地がなく、かつイスパニヤに赴く場合、あなたがたの所に行くことを、
多年、熱望していたので、その途中あなたがたに会い、まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって
満たされたら、あなたがたに送られてそこへ行くことを、望んでいるのです。 しかし今の場合、
聖徒たちに仕えるために、わたしはエルサレムに行こうとしています。 なぜなら、マケドニヤとアカヤとの人々は、
エルサレムにいる聖徒の中の貧しい人々を援助することに賛成したからです。 たしかに、彼らは賛成しました。
しかし同時に、彼らはかの人々に負債があるのです。というのは、もし異邦人が彼らの霊の物にあずかったとすれば、
肉の物をもって彼らに仕えるのは、当然だからです。 そこでわたしは、この仕事を済ませて
彼らにこの実を手渡した後、あなたがたの所をとおって、イスパニヤに行こうと思います。
そしてあなたがたの所に行く時には、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと、信じています。
兄弟たちよ。わたしたちのアドニーであるイエス・キリストにより、かつ聖霊の愛によって、あなたがたにお願いします。
どうか、共に力をつくして、わたしのために神に祈ってほしい。 すなわち、わたしがユダヤにいる
不信の徒から救われ、そしてエルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに受けいれられるものとなるように、
また、神の御旨により、喜びをもってあなたがたの所に行き、共になぐさめ合うことができるように祈ってもらいたい。
どうか、平和の神があなたがた一同と共にいますように、アーメン。」 デカイ一本野糞をしておいて
これはヤギや羊のクソですと嘘をつく間抜けな馬鹿にはなるな 「ケンクレヤにある教会の執事、わたしたちの姉妹フィベを、あなたがたに紹介します。
どうか、聖徒たるにふさわしく、ヤハウェにあって彼女を迎え、そして、彼女があなたがたに
してもらいたいことがあれば、何事でも、助けてあげてほしい。彼女は多くの人の援助者であり、
またわたし自身の援助者でもあったのです。キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、
よろしく伝えてください。 彼らは、わたしのいのちを救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのです。
彼らに対しては、わたしだけではなく、異邦人のすべての教会も、感謝しています。 また、彼らの家の教会にも、
よろしくと伝えてください。わたしの愛するエパネトに、よろしく。
彼は、キリストにささげられたアジヤの初穂です。 あなたがたのために一方ならず労苦したマリヤに、
よろしくと言ってください。 わたしの同族であって、わたしと一緒に投獄されたことのある
アンデロニコとユニアスとにも、よろしく。彼らは使徒たちの間で評判がよく、かつ、わたしよりも先に
キリストを信じた人々です。 ヤハウェにあって愛するアムプリアトに、よろしく。
キリストにあるわたしたちの同労者ウルバノと、愛するスタキスとに、よろしく伝えてください。
キリストにあって錬達なアペレに、よろしく。アリストブロの家の人たちに、よろしく。
同族のヘロデオンに、よろしく。ナルキソの家の、ヤハウェにある人たちに、よろしく。
ヤハウェにあって労苦しているツルパナとツルポサとに、よろしく。ヤハウェにあって一方ならず労苦した
愛するペルシスに、よろしく伝えてください。 ヤハウェにあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。
彼の母は、わたしの母でもあります。」 「アスンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマスおよび彼らと一緒にいる兄弟たちに、よろしくと伝えてください。
ピロロゴとユリヤとに、またネレオとその姉妹とに、オルンパに、また彼らと一緒にいるすべての聖徒たちに、
よろしく。 きよい接吻をもって、互いにあいさつをかわしなさい。キリストのすべての教会から、
あなたがたによろしく。さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告します。あなたがたが学んだ教えにそむいて
分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかりなさい。
なぜなら、こうした人々は、わたしたちのアドニーであるキリストに仕えないで、自分の腹に仕え、
そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者たちだからです。 あなたがたの従順は、
すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいます。しかし、わたしの願うところは、
あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことです。
平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕いてくださるでしょう。
どうか、わたしたちのアドニーであるイエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
わたしの同労者テモテおよび同族のルキオ、ヤソン、ソシパテロから、あなたがたによろしくとのことです。
(この手紙を筆記したわたしテルテオも、ヤハウェにあってあなたがたにあいさつの言葉をおくります。)
わたしと全教会との家主ガイオから、あなたがたによろしくとのことです。市の会計係エラストと兄弟クワルトから、
あなたがたによろしく。
わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように、アーメン。
願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、
今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの
国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、 すなわち、唯一の
知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アーメン。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、おはようございます。
サラさん、昨日のイベントの食事の提供ありがとうございました。ハレルヤ。
では、イエス様と兄弟姉妹と共に神のことばのmorningにしましょう。 「神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの御名を至る所で
呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあって清められ、聖徒として召されたかたがたへ。
このキリストは、わたしたちのアドニー(主)であり、また彼らのアドニーであられます。
わたしたちの父なる神とヤハウェ・イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝しています。
あなたがたはキリストにあって、すべてのことに、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ、
キリストのためのあかしが、あなたがたのうちに確かなものとされ、 こうして、あなたがたは
恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちのアドニーであるイエス・キリストの現れるのを
待ち望んでいるのです。 ヤハウェもまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちのアドニーである
イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるでしょう。神は真実なかたです。
あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちのアドニー・イエス・キリストとの交わりに、
はいらせていただいたのです。」 「さて兄弟たちよ。わたしたちのアドニーなるイエス・キリストの御名によって、あなたがたに勧めます。
みな語ることを一つにし、お互いの間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、
堅く結び合っていてほしい。 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に
争いがあると聞かされています。 はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」
「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っているということです。
キリストは、いくつにも分けられたのですか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのですか。
それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのですか。 わたしは感謝しているが、
クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがありません。
それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためです。
もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがあります。しかし、そのほかには、
だれにも授けた覚えがありません。 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、
バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに
宣べ伝えるためでした。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのです。」 「十字架の言葉は、滅び行く者には愚かですが、救いにあずかるわたしたちには、神の力です。
すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてあります。
知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論者はどこにいますか。
神はこの世の知恵を、愚かにされたではありませんか。 この世は、自分の知恵によって神を認めるに
至らなかったのです。それは、神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教の愚かさによって、
信じる者を救うこととされたのです。 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求めます。
しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。このキリストは、ユダヤ人には
つまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、
神の力、神の知恵たるキリストなのです。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみなさい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、
権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
それなのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、
この世の弱い者を選び、 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者
すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのです。
それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためです。 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、
神によるのです。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられました。
それは、「誇る者はヤハウェを誇れ」と書いてあるとおりです。 「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、
すぐれた言葉や知恵を用いませんでした。 なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられた
キリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからです。
わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安でした。 そして、わたしの言葉も
わたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのです。
それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語ります。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、
この世の滅び行く支配者たちの知恵でもありません。 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての
神の知恵です。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらない先から、
あらかじめ定めておかれたものです。 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、
ひとりもいなかったのです。もし知っていたなら、栄光のヤハウェを十字架につけはしなかったでしょう。」 「しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、
神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のです。 そして、それを神は、聖霊によって
わたしたちに啓示して下さいました。聖霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるからです。
いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っているでしょうか。
それと同じように神の思いも、神の聖霊以外には、知るものはありません。
ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊です。それによって、神から
賜わった恵みを悟るためです。 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、
聖霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈します。
生れながらの人は、神の聖霊の賜物を受けいれません。それは彼には愚かなものだからです。
また、聖霊によって判断されるべきですから、彼はそれを理解することができません。
しかし、霊の人は、すべてのものを判断しますが、自分自身はだれからも判断されることはありません。
「だれがヤハウェの思いを知って、彼を教えることができようか」。
しかし、わたしたちはキリストの思いを持っているのです。 「兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、
すなわち、キリストにある幼な子に話すように話しました。 あなたがたに乳を飲ませて、
堅い食物は与えなかったのです。食べる力が、まだあなたがたになかったからです。
今になってもその力がありません。 あなたがたはまだ、肉の人だからです。あなたがたの間に、
ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではありませんか。
すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、
あなたがたは普通の人間ではないのですか。 アポロは、いったい、何者ですか。また、パウロは何者ですか。
あなたがたを信仰に導いた人にすぎないのです。しかもそれぞれ、ヤハウェから与えられた分に応じて
仕えているのです。わたしは植え、アポロは水をそそぎました。しかし成長させて下さるのは、神です。
だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りません。大事なのは、成長させて下さる神のみです。
植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るでしょう。
わたしたちは神の同労者で、あなたがたは神の畑であり、神の建物です。」 「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえました。
そして他の人がその上に家を建てるのです。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけなさい。
なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできません。
そして、この土台はイエス・キリストです。 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、
または、わらを用いて建てるならば、 それぞれの仕事は、はっきりとわかってきます。
すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、
ためすでしょう。 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けますが、
その仕事が焼けてしまえば、損失を被るでしょう。
しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のように、救われるでしょう。
あなたがたは神の神殿であって、神の聖霊が自分のうちに宿っていることを知らないのですか。
もし人が、神の神殿を破壊するなら、神はその人を滅ぼされるでしょう。なぜなら、神の神殿は聖なるものであり、
そして、あなたがたはその神殿だからです。
だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、
その人は知者になるために愚かになりなさい。 なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。
「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、 更にまた、
「ヤハウェは、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてあります。
だから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものなのです。 パウロも、アポロも、
ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものです。
そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、 ハレルヤ
明日のイベントの食事の提供先
漫画喫茶・ネットカフェでのバイト 113時間滞在
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/part/1471630627 「このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者とみなさい。
この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることです。 わたしはあなたがたにさばかれたり、
人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしません。
わたしは自ら省みて、なんらやましいことはありませんが、それで義とされているわけではないのです。
わたしをさばくかたは、ヤハウェです。 だから、ヤハウェがこられるまでは、何事についても、
先走りをしてさばいてはいけません。ヤハウェは暗い中に隠れていることを明るみに出し、
心の中で企てられていることを、あらわにされるでしょう。
その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。」 「兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせましたが、それはあなたがたが、
わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、
ほかの人を見さげて高ぶることのないためです。いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのですか。
あなたの持っているもので、もらっていないものがあるのですか。もしもらっているなら、
なぜもらっていないもののように誇るのですか。
あなたがたは、すでに満腹しているのです。すでに富み栄えているのです。わたしたちを差しおいて、
王になっています。ああ、王になっていてくれたらと思います。そうであったなら、わたしたちも、
あなたがたと共に王になれたでしょう。 わたしはこう考えます。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、
最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのです。
わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっています。
わたしたちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられています。
今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、 苦労して自分の手で働いています。
はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、 ののしられては優しい言葉をかけています。
わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされています。」 「わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児として
さとすためです。 たといあなたがたに、キリストにある養育掛が一万人あったとしても、父が多くあるのではありません。
キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのです。 そこで、あなたがたに勧めます。
わたしにならう者となりなさい。 このことのために、わたしはヤハウェにあって愛する忠実な
わたしの子テモテを、あなたがたの所につかわしました。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、
わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起させてくれるでしょう。
しかしある人々は、わたしがあなたがたの所に来ることはあるまいとみて、高ぶっているということです。
しかしヤハウェのみこころであれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って、
高ぶっている者たちの言葉ではなく、その力を見せてもらいましょう。神の国は言葉ではなく、力です。
あなたがたは、どちらを望むのですか。わたしがむちをもって、あなたがたの所に行くことですか、
それとも、愛と柔和な心とをもって行くことですか。」 「現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、
異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということです。
それなのに、なお、あなたがたは高ぶっています。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から
除かれねばならないことを思って、悲しむべきではありませんか。 しかし、わたし自身としては、
からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、
すでにさばいてしまっています。 すなわち、ヤハウェ・イエスの御名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、
わたしたちのアドニーであるイエスの権威のもとに集まって、 彼の肉が滅ぼされても、その霊が
ヤハウェのさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのです。
あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体を
ふくらませることを、知らないのですか。 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。
あなたがたは、事実パン種のない者だからです。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、
すでにほふられたのです。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、
パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではありませんか。」 「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書きましたが、 それは、この世の不品行な者、
貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではありません。
もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになります。
しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、
人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、
食事を共にしてもいけない、ということでした。 外の人たちをさばくのは、わたしのすることでしょうか。
あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではありませんか。外の人たちは、神が裁かれます。
その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。」 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹たち、サラさん、みなさん、おはようございます。
では、イエス様と共にみんなで神のことばのモーニングにしましょう。ハレルヤ 「あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、
正しくない者に訴え出るようなことをするのですか。 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、
あなたがたは知らないのですか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、
きわめて小さい事件でもさばく力がないのですか。 あなたがたは知らないのですか、わたしたちは御使いをさえ
さばく者なのです。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではありませんか。 それなのに、この世の事件が起ると、
教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのですか。 わたしがこう言うのは、あなたがたを
はずかしめるためです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、
ひとりもいないのですか。 しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのですか。
そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのです。なぜ、むしろ不義を受けないのですか。
なぜ、むしろだまされていないのですか。 しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、
しかも兄弟に対してそうしているのです。 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのですか。
まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのです。
あなたがたの中には、以前はそんな人もいました。
しかし、あなたがたは、ヤハウェ・イエス・キリストの御名によって、またわたしたちの神の霊によって、
洗われ、きよめられ、義とされたのです。」 「さて、あなたがたが書いてよこした事について答えると、男子は婦人にふれないがよい。
しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
夫は妻にその分を果し、妻も同様に夫にその分を果すべきです。妻は自分のからだを自由にすることはできないのです。
それができるのは夫です。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできません。それができるのは妻です。
互いに拒んではいけない。ただし、合意の上で祈りに専念するために、しばらく別れ、
それからまた一緒になることは、さしつかえありません。そうでないと、自制力のないのに乗じて、
サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない。 以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではありません。
わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになってほしい。
しかし、ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしています。
次に、未婚者たちと、やもめたちとに言いますが、わたしのように、ひとりでおれば、それがいちばんよいのです。
しかし、もし自制することができないなら、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚する方が、よいからです。」 「更に、結婚している者たちに命じます。命じるのは、わたしではなくヤハウェですが、妻は夫から別れてはいけない。
しかし、万一別れているなら、結婚しないでいるか、それとも夫と和解するかしなさい。
また夫も妻と離婚してはならない。 そのほかの人々に言います。
これを言うのは、ヤハウェではなく、わたしです。ある兄弟に不信者の妻があり、そして共にいることを
喜んでいる場合には、離婚してはいけない。
また、ある婦人の夫が不信者であり、そして共にいることを喜んでいる場合には、離婚してはいけない。
なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからです。
もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになりますが、実際はきよいではありませんか。
しかし、もし不信者の方が離れて行くのなら、離れるままにしておきなさい。兄弟も姉妹も、
こうした場合には、束縛されてはいないのです。
神は、あなたがたを平和に暮させるために、召されたのです。
なぜなら、妻よ、あなたが夫を救いうるかどうか、どうしてわかりますか。
また、夫よ、あなたも妻を救いうるかどうか、どうしてわかるのですか。 ただ、各自は、ヤハウェから賜わった分に応じ、
また神に召されたままの状態にしたがって、歩むべきです。 これが、すべての教会に対してわたしの命じるところです。」 「召されたとき割礼を受けていたら、その跡をなくそうとしないがよいでしょう。
また、召されたとき割礼を受けていなかったら、割礼を受けようとしないがよいのです。
割礼があってもなくても、それは問題ではありません。
大事なのは、ただ神の戒めを守ることです。 各自は、召されたままの状態にとどまっているべきです。
召されたとき奴隷であっても、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になりうるなら、
むしろ自由になりなさい。 ヤハウェにあって召された奴隷は、ヤハウェによって自由人とされた者であり、
また、召された自由人はキリストの奴隷なのです。 あなたがたは、代価を払って買いとられたのです。
人の奴隷となってはいけません。
兄弟たちよ。各自は、その召されたままの状態で、神のみまえにいるべきです」 「おとめのことについては、わたしはヤハウェの命令を受けてはいないが、ヤハウェのあわれみにより
信任を受けている者として、意見を述べましょう。 わたしはこう考えます。現在迫っている危機のゆえに、
人は現状にとどまっているがよいでしょう。 もし妻に結ばれているなら、解こうとしてはいけません。妻に結ばれていないなら、
妻を迎えようとしてはいけません。
しかし、たとい結婚しても、罪を犯すのではないのです。また、おとめが結婚しても、罪を犯すのではありません。
ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるでしょう。わたしは、あなたがたを、それからのがれさせたいのです。
兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっています。今からは妻のある者はないもののように、
泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、
世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきです。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからです。」 まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか? 「わたしはあなたがたが、思い煩わないようにしていてほしい。未婚の男子はヤハウェのことに心をくばって、
どうかしてヤハウェを喜ばせようとしますが、 結婚している男子はこの世のことに心をくばって、
どうかして妻を喜ばせようとして、その心が分れるのです。
未婚の婦人とおとめとは、ヤハウェのことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとしますが、結婚した婦人は
この世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとします。
わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであって、あなたがたを束縛するためではありません。
そうではなく、正しい生活を送って、余念なくヤハウェに奉仕させたいからです。
もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、
やむを得なければ、望みどおりにしてもよいでしょう。それは罪を犯すことではありません。ふたりは結婚しなさい。
しかし、彼が心の内で堅く決心していて、無理をしないで自分の思いを制することができ、その上で、
相手のおとめをそのままにしておこうと、心の中で決めたなら、そうしてもよいのです。
だから、相手のおとめと結婚することはさしつかえないが、結婚しない方がもっとよいのです。
妻は夫が生きている間は、その夫につながれています。
夫が死ねば、望む人と結婚してもさしつかえありませんが、それはヤハウェにある者とに限ります。
しかし、わたしの意見では、そのままでいたなら、もっと幸福です。 わたしも神の霊を受けていると思います。」 「偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっています。
しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高めるのです。 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、
その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていません。 しかし、人が神を愛するなら、
その人は神に知られているのです。 さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、
偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っています。
というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、
多くのヤハウェがあるようではありますが、 わたしたちには、父なる唯一の神のみがいます。
万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰するのです。また、唯一のヤハウェなる
イエス・キリストのみがいます。万物はこのヤハウェにより、わたしたちもこのヤハウェによっているのです。
しかし、この知識をすべての人が持っているのではありません。ある人々は、偶像についての、
これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのです。
食物は、わたしたちを神に導くものではありません。食べなくても損はないし、食べても益にはなりません。
しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。
なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、
それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないでしょうか。
するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この弱い兄弟のためにも、
キリストは死なれたのです。 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、
その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。 だから、もし食物が
わたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、
わたしは永久に、断じて肉を食べることはしません。」 「わたしは自由な者ではありませんか。使徒ではないですか。わたしたちのアドニーであるイエスを見たではありませんか。
あなたがたは、ヤハウェにあるわたしの働きの実ではありませんか。 わたしは、ほかの人に対しては
使徒でないとしても、あなたがたには使徒です。あなたがたがヤハウェにあることは、わたしの使徒職の印なのです。
わたしの批判者たちに対する弁明は、これです。 わたしたちには、飲み食いをする権利がないのですか。
わたしたちには、ほかの使徒たちやヤハウェの兄弟たちやケパのように、信者である妻を
連れて歩く権利がないのでしょうか。 それとも、わたしとバルナバとだけには、
労働をせずにいる権利がないのですか。
いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があるでしょうか。ぶどう畑を作っていて、その実を
食べない者があるでしょうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があるでしょうか。
わたしは、人間の考えでこう言うのではありません。律法もまた、そのように言っているではありませんか。
すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてあります。
神は、牛のことを心にかけておられるのでしょうか。
それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。
もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのです。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、
穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのです。」 「もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、
行き過ぎしょうか。 もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、
わたしたちはなおさらのことではありませんか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、
かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいます。 あなたがたは、
神殿仕えをしている人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の
分け前にあずかることを、知らないのですか。 それと同様に、ヤハウェは、福音を宣べ伝えている者たちが
福音によって生活すべきことを、定められたのです。
しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかったのです。また、自分がそうしてもらいたいから、
このように書くのではありません。そうされるよりは、死ぬ方がましだからです。わたしのこの誇は、
何者にも奪い去られてはならないのです」 「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはなりません。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからです。
もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいです。 進んでそれをすれば、報酬を受けるでしょう。
しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた任務なのです。
それでは、その報酬はなんでしょうか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として
持つ権利を利用しないことです。
わたしは、すべての人に対して自由ですが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の
奴隷になりました。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになったのです。ユダヤ人を得るためです。
律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになりました。
律法の下にある人を得るためです。 律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、
キリストの律法の中にあるのですが――律法のない人のようになりました。律法のない人を得るためです。
弱い人には弱い者になりました。弱い人を得るためです。すべての人に対しては、すべての人のようになりました。
なんとかして幾人かを救うためです。」 聖パウロは、元々サウロと言ってテント職人でした。
キリスト教の性に対する異常に厳しい戒律を作ったため、
その当時の西洋人の男子の心を痛めつけましたね。
19世紀の神者などは、パウロは、ホモかインポだとする者も
結構いたのです。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、 ハレルヤ
今日のイベントの食事の提供先
漫画喫茶・ネットカフェでのバイト 113時間滞在
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/part/1476170992/l50?v=pc
では、イエス様と兄弟姉妹と共にディナーにしましょう。ハレルヤ。 ヤハウェなる父である神とイエス・キリストの御名を賛美しよう、 ハレルヤ
イエス様を信じる愛する兄弟姉妹のみなさん、サラさん、こんばんは。
今日のイベントの食事の提供先
漫画喫茶・ネットカフェでのバイト 113時間滞在
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/part/1476170992/l50?v=pc
では、イエス様と兄弟姉妹と共にディナーにしましょう。ハレルヤ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています