8.見せてもらおうか、ヴァッスーラ・ライデンの性能とやらを [無断転載禁止]©2ch.net
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_/'´ トt-イ ,_----っ ,!/ > 見せてもらおうか、
<. ゙t'ヽ ヾ_ _/ /,」 / ヴァッスーラ・ライデンの性能とやらを
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l テ、 ]l.l ,r= ゙.l
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フ/,ィi」i」 ヾ====== \_ \ i! / __/,.=======ヲ i ,. _ r、\
/ ゙" ヾ=====  ̄  ̄ ======" Lハ l l l トi.」 ダライ・ラマを始めとした徳の高い人物は万人の利益のために、利他を教えますな 俺は、いつも、のりピー&スシローを弄びターゲット・オンwww >>651
先日はアホのネウロと混同して失礼しました。 >>655
気にしないでいいすよー
ネウロはいい椰子だから間違えられて嫌な気分はしないしw 余裕の貴族の遊びプレイヤー・のりピーも、
俺を随分恐れているようだな笑。 ティキ、アレン、
連日書き込みは、これで終わりだが、
木曜か、金曜か、書き込む可能性がある。
んじゃな。
のりピーも改心した生活しろよ。笑。 >>658
おう、なんでいなくなるか知らんが体に気をつけてなー アルベルト・アインシュタインの名言であるが、さっき本屋に行ってきた時に見た。
「われわれが進もうとしている道が正しいかどうか、神は前もって教えてはくれない」
なぜ教えてはくれないのか。
神はおそらく失敗を必要不可欠と見ているのかも説。 >>659
てか、アレンって七つの習慣とか読んでる系? のりのコテハンがのりこんぐになってたことに今更気づいた。 私から見て善人である人が、あなたにとって悪人である場合がある。
しかし、どちらが正しいかなどはだいたいわからない。
アインシュタインも言っているが、神は、私達の選択が正しいか正しくないか、基本的には教えてくれない。
なら、その選択の結果を吟味することによって、善悪を見定めるしかないと思われる。
物の見方があり、
物の見方から行動が起こり、
そして、行動から結果がもたらされる。
自らの生み出した世界(結果)を見定めるように。 今日買った本から一部抜粋であるが、
他人や組織、環境など自分の外側が変わらないと結果も出ないと言う考え方は、「アウトサイド・イン」と呼ばれ、
自己の成長を放棄した非生産的な思考なんだ。
また一方で、
自分の内面、つまり考え・見方・人格・動機が御言葉に合っているかに気おつけ、行動を変えることで良い結果を引き寄せようとする意識は、「インサイド・アウト」と呼ばれ、
自己の成長を選択した考え方なの。 天国に行くだろうし、その器を持っている。
しかし、あなた自身の苦しみは神の御選択に任せ、あなたは自ら平和に生きようとしてほしい。 646だが、
アニメ「ワンピース」のキャラの、革命家ドラゴンが
いらぬものを排除した世界に、真の繁栄などない
って言ってたのちょっと疑ってた。 >>672
ゲド戦記か。笑
真名など教えてやるつもりはない。笑 >>673
彼はたぶん魔物にやられたんだよ。
アポクリフォス(♂)とか。笑 >>663
七つの習慣ってなに?
読んだことないお >>669
いないよ
なんでそう思った?
会社でWi-Fi繋げるも切ってもID変わるみたいだからそれを混同しとるんかな >>678
スティーブン・R・コビィーの7つの習慣。ビジネス系の本だよ。
アウトサイド・インとか、インサイド・アウトとかいう言葉もその本だった。 >>675
アッー=アレン
ホモ=アレン
凸=アレンw >>681
まぁそっち系の内容は別にその本じゃなくても別のどこかで語り尽くされとる話だし常識だからなー
>>682
このスレに?
どの内容か教えてくれたら答えるで とりあえず不思議ちゃん路線にキャラチェンジしようとしてることは何となくわかった >>691
誤算だな。笑
明らかに違うwやっぱわかんねーんだろw >>693
まあ確かに確率的には高かった90パーセント。 宇宙に手を伸ばすも検証が出来ないので、やはり説説説の辻褄合わせの手探り状態なのか。 そういえば、アインシュタインは科学と宗教の融合と言っていた。
仏教と心理学の融合なら分かるが…
アインシュタインは一体何を考えていたのだろう。たぶんおそらく願望ではない。
科学的思考をする時、たまに自分の願望を見ることがある。(ナゾであってほしい)
そのような願望を破壊して挑まなければならない場合があった。
ウォッカムのカミソリだな。 アインシュタインの言う宗教とは、ユダヤ教とかキリスト教のような迷信ではなくて・・・
物理的必然をもたらす秩序的な理、つまり統一理論を言ってるんだよね。
あらゆるすべての現象は、理によって起こる必然であるということ。
「神はサイコロをふらない」というのはそういうこと。
アインシュタインは、科学技術の転用に苦しんだ理論物理学者でもある。
そういう意味では、科学技術の倫理問題も含まれるかもしれんね。 >>698
オッカムの剃刀やでw
あと、不要だから切り取られたとしても
それは「説明のために」不要なだけで
切り取られたものが実在しないわけではない >>700
ああ、ろうしみたいな考え方なんだ。
この世の理 >>704
覚えたばかりの単語を使ってるなら意味を理解しようと調べろ >>708
いらないものを排除した先に真実があるってことじゃね。 調べてみれば
オッカムの剃刀は「俺はこう思う」という私的単語ではないから >>710
なんだ。
オッカムの剃刀って教訓というより科学領域の思考の典型なんだ。 こいつ ∩_
最高にアホ |(((ヽ
〈⊃ )
∩___∩ | |
|ノ ヽ| |
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| (_●_)ミ/
彡、 |∪| /
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(___) / まあ無神論者は、境界線を持たない自由な思考は面白い。
また、全てにおいて理知的思考をするところも時としてよい。
それが信仰的思考を嫌っているのだが。笑 思想が摩擦する苦しみだ。笑
人間はパラダイム(見方の基準となる考え方)によって世界を見ているらしいが、宗教者と無神論者はそれが全く違うので話しが合わない。笑
話しが合わないことについては経験的に知っておられるはずw
まあ、この様に思想が違う人と距離が近く、また思想が違うことが明確であることは…めんどくさい。笑 信仰は結婚と同じで、揺るぐことはほとんどない。
もしその結果を見たならば、無理を悟り、あなた方の為にも距離を置いていいだろう。 >>716
>宗教者と無神論者はそれが全く違うので話しが合わない。笑
これは完全に嘘だと思う
宗教者であろうが無神論者であろうが
その人物がまともであれば話は合うだろう ちなみに使徒ですら信仰が揺らぐのに凡夫の我々が、揺らぐことなんて殆どない、なんてこともあり得ないな >>723
ああ、それはこの2ちゃんねるにおける無神論者の方々の発言によってという枠内の話で、全てにおいてではない。 信仰はある、ない、の0/1の話ではなく
「どれだけ深いか」という話やと思うぞ
ここら辺を分かってない人は結構多いな 今日は書き込めた日w
偶然、早い目に書き込めた。
今後は2,3週間に一度ぐらいになる場合がある。
短くて5日ぐらいか。
>
宗教者であろうが無神論者であろうが
その人物がまともであれば話は合うだろう
のりピーとはまともな対話不能だが。
クリスチャンに嫌われる昆布とは昔やり取り普通にしてたなw >>729
それは喧嘩する気まんまんだからじゃね。笑 永遠の命、罪の赦し、義、律法の呪いからの解放、神の家族への養子縁組、罪の束縛からの解放、神との平和、聖霊の内在。 私とネウロの場合、まともでないのは完全にネウロですよ。
すぐにネガキャンやレッテル貼りに走りますからね。 腕時計はつけるものか。それともはめるものなのか。するものなのか。 永遠の命とは、単に生物学的な命に類するものではなく、「キリストのいのち」あるいは「御霊のいのち」とも呼ばれている。
永遠の命とは、単に死後の命、彼の世のいのちのことではなく、聖書の「信じるものは永遠の命をもちます」という様に、キリストを信じることで、既にこの世で享受することのできるいのちである。
それ故、イエスに依り頼んだ人々は「新生」し、霊の誕生をもったと言われている。
クリスチャンには、肉体の誕生日と霊の誕生日という二つの誕生日の概念をもっている。 永遠の命とは、唯一まことの神イエス・キリストを知ることであり、キリストを通して、いのちの源である神と人格的関わりを持つことである。 クリスチャンがクリスチャンらしく曲がれる邪悪な世と言われる世にあって、真っ直ぐに罪に打ち勝って生きることのできるのは、人間的な努力によるのではなく、永遠の命、キリストのいのち、御霊のいのちにえているからである。 また聖書には同じ用語が文脈によって異なった意味を持つことがあり、「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」(テモテへの第一の手紙6:12)では永遠の命が死後に与えられるものとして書かれている。 罪の赦しとは、イエス・キリストが十字架で死なれ、三日目に復活されることによって、人間に与えられたもの。
パウロはこう語った「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25) キリストを信じるものは、罪の赦しを得ることができる。
悔い改めることによって、イエスのバプテスマを受ける、つまりキリストの死と復活にあずかるものは、新たないのちを得て、「いのちにあって新しい歩みをする」(ローマ6:4)ことができる。
キリストの死につぎ合わされている者は、罪の奴隷ではなく、義の奴隷として生きる者とされる。
罪の赦しがあるからこそ、人は神の御前に新たに造りかえられ、神との揺るぎない関係を与えられる。
そしてその存在は絶えず悔い改める必要を自覚している。
罪の赦しを求める者は、罪の悲惨さを知る者であり、悔い改めることを必要とする罪を絶えず意識する者である。 また、罪の赦しを信じる者は、赦しに感謝する者であり、赦しに生きる存在である。
それ故に、赦された者は、隣人を赦す者となるのであり、
またそれが求められているのである。(「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」エペソ4:32) ならば、神イエスが死に渡され、復活される前は、罪の赦しはなかったのだろうか? 地底の死者の世界シェオル(よみ)には慰めの場所と苦しみの場所がある。
義人は慰めの場所で休みを得、悪人は苦しみの場所で責めを負うという。
イエスは十字架上で死んだあと、このシェオルに下り、復活と共にその義人たちを天に引き連れて登った。
また、悪人にも福音を聞いて悔い改めるチャンスを与え、悔い改めた者はイエスと共に天へ登った。
それは今でも同じであり、イエスを信じない者は一旦シェオルに行き、そこで二度目のチャンスが与えられる。 全体は個に優って重要であり、個は全体を担うことから重要である。
と言ってみる。 無神論者はこの宗教掲示板に必要な1キャラクターであると思い始める。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています