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外道の独り言 6 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2016/09/26(月) 01:22:11.02ID:ZdHv0W/M
 まず最初に断わっておきますが、「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」
というスレではありません。 このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に
関して、私が私見、疑問点等を提示いたします。まさに、「外道がぶつぶつと
独り言を書き散らしているスレ」だと思ってくれて構いません。
 勿論、それに対して異論、反論、疑義等は排除するものではありませんが、
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います。
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく、
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいですw) 「真摯なる碩学」が、私の
書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です。
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動
してください。
 昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑
なのです。

前スレ 
 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1466328423/
ログ保管庫
 http://houjugusya.web.fc2.com/link.html
0798神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/03/30(木) 09:45:01.72ID:m4/TzSB2
でおーはガチで精神病だろ。

数ヶ月前から構想を練っていたとか、地獄の修行とか、定期的な書き込みとか、俺様呼称とか異常だろ。
入退院を繰り返しているのかもな。
偏執病か?

あと、異常性癖者かもな。
オナニーとかマゾとか調教とかシコシコとか、偏執的な性癖を窺わせるな。

まぁ、精神を病んでなければ、施設に入所している知的障害者かも知れないな。
0799神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/03/30(木) 09:52:49.16ID:mrbHJUBv
なるほど。
入院を繰り返してるから、定期的に書き込めない時期があったのか。
そう考えると、でおーも哀れに思えてくるから不思議だ。
0800おじゃる!
垢版 |
2017/03/30(木) 22:37:32.81ID:X6lDbZzr

>密教は加点法。魔神や悪鬼であっても、なにかひとつでもとりえがあれば

龍樹は才能豊かな3人の友人を持っていたが
ある日互いに相談し
これからは快楽に尽くそうと決めた
彼らは(黒魔術的な?)術師から隠身の秘術を得、それを用い後宮にしばしば入り込んだ
100日あまりの間に宮廷の美人は全て犯され、妊娠する者さえ出てきた

十七清浄句
欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である

自性清浄
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して

精子と卵子が結合して
再生へ向かう迷いの中有(シパ・バルドゥ)から
母胎より誕生してこの世に生きている(輪廻肯定派)

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/81-ii-G3AUL._SL1500_.jpg
おじゃるも、アメリー・プランシャール(魔女)と一緒に焼肉食べに逝きたい!
0801神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/03/30(木) 22:40:27.19ID:5U4AdSPF
800.
それは生活の問題である。
それは宗教の問題ではない。
0802神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/03/30(木) 22:43:57.34ID:+mqcNx7a
鬼子母神も聖天も龍樹も改心して仏道を歩むことになりました。
一切の有情には如来蔵があるので改心させることが出来るというのが密教のスタンスのようです。
0803おじゃる!
垢版 |
2017/03/30(木) 23:06:16.63ID:X6lDbZzr

>一切の有情には如来蔵があるので改心させることが出来るというのが密教のスタンスのようです

レスありがとうございます m(_ _)m

http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説
無明の暗闇に覆われた世界から
解脱すれば仏だと
気づいてみればたやすいことだ

しかし
おじゃるの場合は脳みそ狂ってるので
気づくまでは、気づくことは難しい
誰もが成仏するわけではない、五性各別かも?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E8%83%9D%E8%A6%B3%E9%9F%B3
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
0804神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/03/31(金) 20:49:52.61ID:FVNF5+3c
神を虐め殺したい訳だが観測して捕まえまで待てない
早く虐待してやりたい
0805神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/03/31(金) 23:12:47.77ID:It98oqlP
古代インド人の特徴は、夢の中の体験を、目覚めているときにも体験しようと執拗に試みたところにあります。
それが、ヨーガ(瞑想)だと思われます。
ヨーガ(瞑想)に関する教典から、古代インドのバラモン教の実践者たちが、
現実の世界よりも夢(空想)の世界の内容を「より真実の世界」であると思い込んでいたことがうかがえます。

夢における知は、夢の中で拝んでいた、神の美しいすがたを対象としている。

目覚めたときの静かな心で同じ神の姿に凝念すれば、ヨーガ行者の心は安定に達する。
(「ヨーガ・スートラ」、同上)

このように、ヨーガ行者は夢の中と同じ体験を瞑想のなかに求めます。
さらに、夢の中で自由に徘徊する自己、という考えをエスカレートさせて、

ヨーガ行者は水上を歩き、蜘蛛の糸の上を歩き、光線の上を歩き、さらに虚空を自由に行くことができる。(同上)

とか、

心が身体を離れて外的に働くときは、大離身といわれるのである。
この大離身によって、ヨーガ行者は他人の身体に入る。(同上)

などともいわれます。
0806神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/03/31(金) 23:16:03.29ID:It98oqlP
夢のなかで「自己」が身体を離れてゆく現象を、目覚めているときに意図的につくりだす心理的テクニックが本来のヨーガ(瞑想=夢想)の
目的だったろうと思われますが、後には、身体を持ったまま空中を飛ぶ、いわゆる「空中浮遊」などが信じられるようになります。
いずれにしても、夢や空想を現実から区別をしようとしない独特の宗教的習慣が古代インド人の間にあったことは否定できません。

このような考え方の中で、死後、身体を離れてゆく永遠の魂(アートマン)を想定することは、何でもないことです。

つまり、アートマン(永遠の魂)の思想は、もとをたどれば、古代のインド人たちが、
身体とは別に夢の中で自由に徘徊する自己を「真実の自己」と思い込んだところから、生まれてきたものと考えられるのです。

このような歴史的背景を知ることによって、シッダータ・ゴータマが、「無我」の思想を真理として発見した自分のことを、
「ブッダ=目覚めた者」と呼んだことの歴史的な意義が明確になると思います。
ブッダの思想家としてのデビューと考えられる、いわゆる「第一説法」において、瞑想・苦行にいそしむ旧友に対して彼は
なんじらは、わたしを名をもって呼んではいけない。 また「友」と呼んでもならない。

わたしはもはや如来である、最高の「目覚めたもの」である。
(『マジマ・ニカーヤ』26)

と宣言します。すなわち、

「buddh =眠りから醒める」

という言葉を用いることによって、
彼の真理の特徴が夢想的なバラモンの思想の否定にあることを主張したのだ、と考えられます。

http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul02.html
0808宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/01(土) 15:15:21.66ID:+OXVO22a
>>805-806
パーピマン、そして皆さん。
ご無沙汰しています。

こんなものは、
何も分からないくせにアートマン否定をしたい無我を誤解した馬鹿仏教徒による解説です。
転載文ならば、ちゃんとどこからどこまでが転載なのかを『』等々で明確に区切って示すように。
後で、時間が出来しだい徹底的にこれを破壊(反論)します。
0809おじゃる!
垢版 |
2017/04/01(土) 19:28:33.20ID:5xn1JmKC
 
>心が身体を離れて外的に働くときは、大離身といわれるのである
>この大離身によって、ヨーガ行者は他人の身体に入る

ポアはチベット語であり
仏教辞典では「遷移・転移」と訳される
イェシケのチベット語辞書でも
(心が身体を離れて色蘊・肉体が)死ぬと言う意味はあっても
殺す(生けるものを殺してもよい)という意味は存在していない
  _  _  _

(無明の暗闇に覆われた世界の中で)母胎より誕生してこの世に生きている、そして
  ↓
死の瞬間、そして
  ↓
再生へ向かう迷いの中有(シパ・バルドゥ)、そして
  ↓
(無明の暗闇に覆われた)再生へ向かう(輪廻肯定派)

ある宮から → 他(の宮)への通過
  _  _  _

>眠りから醒める

前世から → 現世に醒める(誰もが成仏するわけではない五性各別)

無明の暗闇に覆われた世界の中から醒めて
 → 現れることもなく滅することもない涅槃へ(誰もが仏と成ることのできる一乗)
0810おじゃる!
垢版 |
2017/04/01(土) 20:02:08.76ID:5xn1JmKC
>>809 の続き

現れて、変化して、滅して、そして↓それゆえに

生老病死
愛別離苦 愛する者と別離すること
怨憎会苦 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦 求める物が得られないこと
五蘊盛苦 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

求不得苦
可愛い彼女とデートしたいと思うのに
実際にはデートすることができないこと

それゆえに
色受想行識の相続が滅して完全解脱して
「苦しい!」と掴もうとしている想いの相続が滅して
現れることもなく滅していくこともなく涅槃

生きとし生けるもの誰もが
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察することができますように

準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん
ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
0811神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/01(土) 23:00:50.38ID:/F1lbH/w
仏教というのはヒンドゥーつまりインド的なものの中では基本的に異端なのです。
例えば14世紀にマーダヴァが著した『全哲学綱要』という書物では、
ヒンドゥー教の立場からインドで起こった合計16の哲学説をそれぞれ解説しているのですが、
仏教はヴェーダ聖典の権威を認めない3つの異端のひとつ、という扱いを受けています。

ヒンドゥーにとって一番劣っているのは精神を認めない唯物論ですが、仏教はそれに次いで劣った思想、とされています。
それというのも結局アートマンを認めないからなのです。
一方でジャイナ教は3番目に劣った思想という位置づけです。
ヴェーダは認めないけれどもアートマンの存在を認めるジャイナ教が仏教よりはまし、とされるというのは、
ヒンドゥーにおけるアートマンの重要性を雄弁に語っていると思えます。
事実、現在に至るもジャイナ教はインドで命脈を保っているのに対し、仏教は早くに滅んでしまいましたね。
(むろんこれには、仏教がヒンドゥー教に近づいたためにインドでは価値が薄れてしまったという
5〜6世紀以降の歴史もあるのですが、ここでは重要な問題ではありません)
https://sp.okwave.jp/qa/q718920.html
0812神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/02(日) 00:08:43.68ID:T5NSzY4g
>>807(リンク先)
>さらに「無我」という概念となると全く出てこないと言って良いと思います。
>他の言葉や言い回しに含まれている(例えば不滅のもの、常住のものは何もない)
>ことはあっても何か知るものが直接「無我」であるというような言い回しは
>なかったと思います。
>仏教を通して代表的な概念である「無常」「無我」とい二つの概念は
>少なくともスッタニパータの奨励するような方法で実践するならば
>必要ないということになります。
0813神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/02(日) 00:10:01.88ID:T5NSzY4g
>>812のレス
Sn V 12、二種の観察

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるもの(Anattani)を我と思いなし(attamāniṃ)、
  <名称と形態>(名色)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。
  何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
758 安らぎ(涅槃nibbānaṃ,)は虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。
  かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

  W 10、死ぬよりも前に

861 かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。
  かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。」

    11、論争

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。
  欲求がないときには、<わがもの(mama)>という我執も存在しない。
  形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」

    15、武器を執ること

950 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、
  また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──かれは実に世の中にあっても老いることがない。
951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、
  ──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

  X 7、学生ウバシーヴァの質問

1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、
  無所有にもとづいて、その他のものを捨て、
  最上の<想いからの解脱>において解脱した人、
  ──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

※わが所有(mama=mine) 古来「我所」もしくは「我所有」と訳せられた。「わがもの」というほどの語である。
0814おじゃる!
垢版 |
2017/04/02(日) 00:59:41.91ID:JqOxZpdG
>仏教というのはヒンドゥーつまりインド的なものの中では基本的に異端なのです
http://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-upanishado/upanishado-tetujin.htm
仏教の思想的土壌  ウパニシャッド
名称と形態(現象界)の展開
6.3.2
この神(=有)は思った
生命を与える(変化することのない)アートマンによって
[現象界の]名称と形態 namarupa とをはっきりと展開しよう』と
6.3.4
[つづいて思った]
『奏して、それらのひとつひとつをして、それぞれ三重にしてやろう』と
かの神(=有)は
生命を与える(変化することのない)アートマンをもって…
[現象界の]名称と形態とをはっきりと展開した
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%9E%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%84
その当時のインドの人々にとって
(非想非非想処も超えて想受滅の)仏教を理解させるためには
その当時のインドの人々にとって、世間的な想いを一応認めて
その理解のうえで
その当時のインドの人々に仏教を理解させるというやり方がとられねばならなかった
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%82%89%E6%AA%80-281469
世界悉檀(人々の心に合わせて説く)、各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
有分心は「生命相続流」と翻訳できます
心の流れの相続を維持する主要な要因となるものです
有分心がある為に、一期の生命の中の心(の)流(れ)は、断絶する事がありません

その当時のインドの人に「我はない」といっても理解されないので
それゆえに
仮設としての
因と縁の双方の縁起に依存して
地水火風空識に依存して
いつでも変化している
生命相続流
心の流れ(心相続)
阿頼耶識、激流のごとく活動している。「暴流の如し」
https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
作者無し
それゆえに
業報に依存して
此の陰(受想行識の相続流が)滅し已らば(その次に)
前世から → 現世へ、異陰相續す(輪廻肯定派)
0815性の儀式・幸福の科学、大川隆法
垢版 |
2017/04/02(日) 01:24:43.27ID:zEhIVwx/
最重要証人を出せない教団(教祖の強姦、確定)
http://tanemura1956.blogspot.jp/2013/11/blog-post_14.html

私は以前、大川隆法氏が不倫で傷つけた女性の個人相談を受けました。
最近、さらにその被害が広がっていることを確認しました。
http://tanemura1956.blogspot.jp/2012/07/blog-post_12.html

最初はおそるおそる手をだしていたのが
意外に簡単に女性が思いのままになることに気をよくした隆はだんだんと
行動が大胆になっていきました
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/41

過去世悪用の強姦
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/37
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/36
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/35
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/34

大川の日常生活に 触れる職員はほぼ全員が女性である
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/33

【恐怖!霊障の科学】
知人のお子さんは支部エルカンターレ像の首に緑色の蛇が巻き付いていることを霊視
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/30

エル・カンターレ像に祈る人に、地獄の霊や悪魔が取り憑いてきます。
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/28
0816神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/02(日) 09:58:34.34ID:TySAFmPd
>>813
>872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。
>  欲求がないときには、<わがもの(mama)>という我執も存在しない。
>  形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」

無色界に突入すれば良いのである
0817宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/02(日) 10:10:13.01ID:fgstxbBH
まず、これからです。
(投稿規制でなかなか思う通りの投稿ができません)

>>807
『この三つの詩句の初めの部分
「一切行(形成されたもの、無為法)無常」
「一切行(形成されたもの、無為法」苦」
「一切法(事物、有為法と無為法、離行作と行)無我」
はいわゆる「法決定」といわれるものです。
---中略---
無常、苦は行(有為法)に備わる特徴であり
無我のみが法(有為法、無為法)両方に備わる性質です。
基本的に我々が観察し得るのは有為法の世界であるため
---中略---
素朴な実践としての四聖諦や八正道においては 無常や無我というのは
それほど問題になりませんでした。
しかし、法(有為法、無為法)という領域における観察、つまり
ヴィパッサナーによる実践においてはこの「三相」という考え方が重要になります。
さら言えば、「無常」と「苦」は有為法(形成されたもの、縁起するもの)
のみに存在する特徴ですが、「無我」だけは有為法だけでなく無為法
(形成されたもの、縁起するもの、でないもの、つまり涅槃)においても
特徴として残る性質です。
これは「三相」の中でも特に「無我」が特別視される所以です。』
(仏教をめぐる言葉の問題E 無常・苦・無我について)
http://lllool.hatenablog.com/entry/2016/10/12/224622
0818宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/02(日) 10:12:00.02ID:fgstxbBH
つまり、これは南方上座部の教相解説でしょう。
これらのすべては部派による変色を受けたまま継承されたものであって、
本来のゴータマの教えではありません。
真実は、以下の水野氏による指摘のある通りなのであって、
自分たちで勝手に「一切」の中に無為法を含めたのは部派による所業です。

 『原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな
い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143)
 部派仏教は「何があるか」という一切法(有為だけでなく無為をもふくめた)を客観的に詳細に考察し、原始仏教の態度とは異
なったものになった。(p151)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

>基本的に我々が観察し得るのは有為法の世界であるため(>>807同)

だから、知覚できない領域であるアートマンについては無記なのであって、
ゴータマが、「アートマンは無い」などと語ったことはないということ。
無為において明確に(その存在を/存在としてではないが)肯定して説かれたのは「涅槃」だけです。
0819宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/02(日) 10:13:50.31ID:fgstxbBH
>>814
>その当時のインドの人に「我はない」といっても理解されないので

それは違う!

ゴータマは、「アートマンは無い」などと説かれたことはないし、
当然、そういう見解にあったわけでもない。
ゴータマが示したものとは、現象界の一切は無常であるから、
当時の一般庶民が信じていた死んだ家族の永遠性(永遠なることその叶わぬ願い) の迷信についての間違い、
つまり、単なる一転生のパーソナリティー(個性/人格)に過ぎない籠池泰典がそのまま死後も永遠なることはない。
死後の霊存在も単なる籠池泰典の霊にしか過ぎないのでいずれは消滅します。
では、単なる一転生のパーソナリティー(個性/人格)ではない転生毎における主体であるところの「魂」こそが
ウパニシャッドの説く永遠不変のアートマンであるとし、
究極的な瞑想行によってその自己の魂と意識を共有する境地にまで到達してるバラモン行者らの見解は正しいのか?
けれども、これとて「アートマンではない」(非我)というのが『梵網経』で説かれたゴータマの見解でした。
転生主体の魂(ジーヴァ)とて永遠不変のアートマンではないということ。

ただし、「それらはアートマンではない」とは指摘したが、
「アートマンは無い」とは決して言わなかった。
アートマンの有無についてはあくまでも「無記」なのです。
0820神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/02(日) 10:31:31.57ID:IeP5uLTk
819.
アートマンの有無、か。
それは存在の問題である。
宗教は存在の問題ではない。
0821おじゃる!
垢版 |
2017/04/02(日) 12:51:07.09ID:JqOxZpdG
https://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
有為法の世界において
(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である、遍計所執性
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる
密集を看破するためには、色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
密集を看破した時、無我への領悟、了解が生まれる

 ☆ 変更版でつ↓
有為法の世界において
「変化しない我のがある」と掴もうとしている想いが
変化しながら生命相続流、心相続、心の働きが変化している
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

 ☆ 変更版でつ↓
「変化しない我のがある」と掴もうとしている想いを手放すために
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察するために
心の働きを馴らしていかなければなりません
http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して、そして
何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して
何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にして手放すこと
0822宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/03(月) 17:56:44.45ID:gORxW8rC
>>805
>夢における知は、夢の中で拝んでいた、神の美しいすがたを対象としている。
>目覚めたときの静かな心で同じ神の姿に凝念すれば、ヨーガ行者の心は安定に達する。
> (「ヨーガ・スートラ」、同上)

>このように、ヨーガ行者は夢の中と同じ体験を瞑想のなかに求めます。
>さらに、夢の中で自由に徘徊する自己、という考えをエスカレートさせて、
>ヨーガ行者は水上を歩き、蜘蛛の糸の上を歩き、光線の上を歩き、さらに虚空を自由に行くことができる。(同上)

>心が身体を離れて外的に働くときは、大離身といわれるのである。
>この大離身によって、ヨーガ行者は他人の身体に入る。(同上)

それから肝心のコレ!!
一体、『ヨーガ・スートラ』の第何章何節のことなの?
テキトウなことしないで明記してもらいたいね!

叩き潰すから。。。
0823神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/03(月) 22:13:29.85ID:NoS0vSqx
えっとですね
要するに世界とは別んとこに、なんか、あるかないか、それが自己の本体なんか、それとも、超越的存在なんか、そんなもんないんか
なんか?
世界があって、それに名前つけて分離させてるけど、そんなんない
それを観察してると世界から抜けるってことでしょ
抜けたとこは、なんともいいようがないやろw
アートマンと名付けてみても、涅槃とかゆってみても、確認できるなんかがあるわけじゃないんやからww
とゆー、妄想
0824神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/03(月) 22:32:01.16ID:DJ35X6BU
>>822
>一体、『ヨーガ・スートラ』の第何章何節のことなの?

リンク先にも明記はされてませんw
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul02.html


>>823
>アートマンと名付けてみても、涅槃とかゆってみても、確認できるなんかがあるわけじゃないんやからww

比丘たちよ、しかしながら、
まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が存在することから、
それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知される」と
(ウダーヤ)
0825神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/04(火) 06:58:24.00ID:JJjbj2KV
>>824
まあ覚知はされるわな
しかし、それが何なのか、となったときに、自己の本体であるアートマンだとか、涅槃だとかゆーことに意味なんかないやろ?wwww
世界が円鏡に映されてあるが、そこから出離したわけだ。
そこが在るのは、意識された智慧の光によって見出されたわけだが、それが一体全体なんなのかは、わからんはずwwww
苦しみが、そこにないのは、自己である世界であると分離させていた双方が、ただ、自動的に巻き起こっているシステムとなって、それが、まあ映っていると見え、そこから、離れるからなのだよ。
非常にオカルトぽいがw
しかし、そこには生じたものがないが、ゆえに、認識できるものもない。
隠れたものなのだ。
そして、そこに、在るとき、というのは、頭の理解が届かないから、説明は無意味なんだ。
アートマンだとか涅槃だとか、名前は、どっちでもいいのだww
それを区分しているのは、生じたものであって、その、在るは、それ以前だからなのだよ
0826神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/04(火) 07:15:49.23ID:JJjbj2KV
そこに、どないにして、到達するか、が重要なところじゃないか。
それに対する様々なアプローチが宗教とか、錬金術とか、芸術となっているわけだが、まあ、いまんとこ、あんまりうまくいってないわけだwwwww
迷ってる人の方が多いわけだからね。
だから、まあ、その在るが、わかるのなら、そこに気づくのは、何かと、なるね。
この意識や意志というものが、苦しみから逃れようとするが、その、活動自体が、つまり、その、私の意志じたいが、ないのに、あると、そー認識しとることが、問題なのだよ。
だから無我とは、そのような行為者としての、存在はなく、すべては縁によってあると。
つまり、これは、到達した時点の話をしているので、ちんぷんかんぷんになるよね。
そして、それを、他ならぬ、幻想の苦の根本である無明、つまり、私が理解しようとする。
それだと、アプローチが、違うのだよ。
その、我、つまり、逃れようとする衝動、快楽を求める自動的働き、は、問題ないが、それは、苦しみのもとであり、それは、実は、世界の内で巻き起こっていると気付かせるのだ。
これの方法は、身体と心を見ることなのだ。
この見る、もしくは、感じるのが、天空の光、つまり純粋なる意識に、つながり、それが、ないものをないと、つまり、私ではないと気付かせるのだよ。
0827神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/04(火) 07:38:08.46ID:7JIPP+Tq
覚者キタコレ!

でも
>この意識や意志というものが、苦しみから逃れようとするが、その、活動自体が、つまり、その、私の意志じたいが、ないのに、あると、そー認識しとることが、問題なのだよ。

これ以下の説明がイマイチ理解できまへんわ┐(´〜`)┌
0828神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/04(火) 08:17:48.46ID:y5sM853R
久しぶりに相手されたー喜
苦しみは、この、意志、つまり、私が快楽を得よう、苦を滅すと、活動してあると、ゆー、認識によって、現実になっている
この、私というのは、苦の根本であると、ゆーのは、つまり、私、自体が苦なのだ
だから、すべては、出来事とは無関係に、苦でしかない
しかし、この衝動は、わたしというもの、は、この形成された、世界に、ないと、知れば、単なる苦なのだ
その苦しみは、自己、そのものの、リアルな存在感なのだよ
そして、世界から、離れたとき、それは、この世界のリアリティの消失であるが、その苦は、問題がなくなるのだ
その方法が、自分自身を、見ること、つまり、自己が常に、目覚めていること、この、諸活動が、身心の働きが、観察されていることで、この観察が、自動的に、なすのだ。
わたしとは無関係に!
と、調子にのってみたww
0829宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/04(火) 13:16:32.56ID:ObD1CUFz
>>811 :
>仏教というのはヒンドゥーつまりインド的なものの中では基本的に異端なのです。
>仏教はヴェーダ聖典の権威を認めない3つの異端のひとつ、という扱いを受けています。
>事実、現在に至るもジャイナ教はインドで命脈を保っているのに対し、仏教は早くに滅んでしまいましたね。

以前にも述べたように、
インド仏教が滅んだのは(今日、極少数で細々とた信仰状態)、
「アートマンは無い」などという間違った無我論を主張し続けたことにある。
よく言われるヒンドゥー化して吸収されたというのは、こうして信奉者を失っていった仏教が採った復興手段の成れの果てのこと。
彼らは、ゴータマが説きもしない間違った無我論をブッダの真実の教説だと頑なに信じて固辞し続け、
その間違いを指摘する声にも決して耳を傾けようとはしなかった。
こうして彼らは、遂にインドのバラモンたちにも、そして、一般大衆からも「好きにさせておけ!(勝手にしろ)」と見捨てられたのです。

確かに、
仏教(継承した教団)では「(アートマンを説く)ヴェーダ聖典の権威を認めない」けれども、
しかし、実際にゴータマ・ブッダ自らがヴェーダ聖典を否定したという事実はまったく確認されない。
原始経典の中でも最も原初の形式を保持するものと定説化している『スッタニパータ』をみるならば、
ゴータマはヴェーダ聖典の否定どころか、逆に“ヴェーダの達人”として称賛されていた事実が浮き彫りとなるのです。
0830宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/04(火) 13:18:01.54ID:ObD1CUFz
ゴータマは、現代のサドゥーらに継承されるような壮絶な苦行も含め、当時のインドの宗教であり、
最高の権威とされるヴェーダ聖典の教えのすべてを実践し、そして、そのすべてを完全に修得したのです。
二人の仙人に仕えたという有名なエピソードはその一例に過ぎない。
ゴータマ自らが、解脱した完成者のことを“ヴェーダの達人”と呼んでいたのであり、
そして、人々からもゴータマは“ヴェーダの達人”として讃えられていたのです。
また中には、ゴータマを“梵(Brahma)”と呼ぶ者すらもいたが、ゴータマはそれをそのまま受けて了承している。
実際、これらのことが『スッタニパータ』から確認できる事実のすべてなのです。
もしも、ゴータマが「ヴェーダ聖典の教えは間違っています。私はそのことを自ら確認したのです。」と、
説いていたというのであれば、ゴータマの噂は当然、ヴェーダを否定した者として広まった筈です。
しかし、事実はその正反対なのでした。
後代の経典になって、いわゆる我々のよく知るような仏教的な印象のものへと編纂され、内容も大きく改変されていった。
こうして、バラモン教的な印象の記述は次第に省かれていき、バラモン的な呪力的部分も消されていった。
0831宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/04(火) 13:19:42.02ID:ObD1CUFz
 『バラモンがいった、「わたくしはヴェーダの達人であるこのような立派な方にお目にかかったのですから、実にその方に対する
(わたくしの)献供はきっと効果があるでしょう。(以前には)あなたのような方にお目にかからなかったので、他の人が献供の菓
子(のおさがり)を食べていたのです。」』(Sn.459)
 『私(マーガ)はいま梵(Brahma)に遭うことができた。あなたこそ本当に梵(Brahma)と等しい方である。』(Sn.508)
 『あなたのようなヴェーダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。梵天こそ証人としてみそなわせ。
先生!ねがわくはわたくしから受けてください。先生!ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がってください。』(Sn.479)
 『諸々の“煩悩の汚れ”の消滅のゆえに“無病(ニルヴァーナ)”の起こることを正しく知って省察して“食料を受容”し
“理法”に住するヴェーダの達人(賢者)はもはや“迷いの生存者”のうちに数えられることはない。』(Sn.749)
 『ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。
かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。』
(Sn.846)
 『メッタグーさんがたずねた、「先生!あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。あなたはヴェーダの達人、
心を修養された方だとわたくしは考えます。世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。』
(Sn.1049)
 『何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、--かれは確かにこの煩悩
の激流をわたった。かれは彼岸(ひがん)に達して、心の荒(すさ)びなく、疑惑もない。』(Sn.1059)
 『またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、
望むことがない。「かれは生と老衰とを乗り超えた」とわたくしは説く。』(Sn.1060)
0832宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/04(火) 13:21:38.68ID:ObD1CUFz
ゴータマが否定したものはヴェーダ聖典の教えそのものではなく、誤解を起こし間違った認識にあった当時のバラモン行者たちのことです。
本物の完成者が残した太古の叡智であるヴェーダを真に正しく理解し、それを証明した者など当時のインドにはすでに一人もいなかった。
それを自らが体得して見せたのが唯一、ゴータマだったということ。ただゴータマがバラモン教をそのまま認めることをしなかったのは、
すでに教えは廃れて迷信が蔓延り、生贄などの悍ましい儀式儀礼が盛んだったからです。

この構図と図式というのは、キリスト教のイエスの場合とほぼ共通するものでもある。

【ゴータマ】
 バラモン教社会の中で生まれ育ち、自らヴェーダの奥義に達して解脱し、当時のバラモンたちの間違いを指摘した。
こうして真の正しいヴェーダの達人のあるべき姿を示した。それが「仏教」と呼ばれるようになった。
【イエス】
 旧約聖書のユダヤ教社会の中で生まれ育ち、クムラン集団エッセネ派ユダヤ教徒として、
パリサイ派やサドカイ派といった当時の伝統的なユダヤ教学派の間違いを指摘し、真の正しいユダヤ教徒のあるべき姿を示した。
それが新約のキリスト教と呼ばれるようになった。
0833宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/04(火) 13:23:04.92ID:ObD1CUFz
それから、
「アートマンは無い」という意味での無我論を信奉しているのが二つのタイプの人間です。
一つは、伝統仏教の信奉者でこれは南方の上座部、北方の大乗の区別なく信じられ続けている。
そして、もう一つの人々が唯物論者たちです。彼らは、アートマンは無い。
アートマンが無ければ、当然、「魂」も「霊」も無い
(元々、彼らにはその違いも理解できないし、所詮、彼らにとっては同じようなものでしかない)といい、
仏典における神通についての記述も、それらは単なる後代の神格化に過ぎないもの見なしている。

けれども、
ゴータマはアートマンについての無記の態度を採った理由説明の中で、
『「アートマンは無い」と答えれば断滅論者と同じことになる』(SN.44 第10 経)から、
「無い」とはいわないのだとハッキリと答えている。
「断滅論」というのは、人間の死後は肉体が分解して諸元素に還元されるだけで、それ以外に残るものは何もないとする見解のことであり、
当時もこれを説く有名な思想家(六師外道)たちがいたのです。
つまり、ゴータマは唯物論を認められることは絶対になかったのです。

この伝統仏教の無我の教えの間違いを理解し、
「非我」を説く無記であると知る者は、仏教学の健全な研究者たちと私のように伝統仏教に捕らわれていないごく少数派の学徒のみです。
ゴータマは、「信仰を捨て去れ(間違った古き信仰や概念)」といったのだが、それができないのが現仏教徒たちです。
それまで信じてきたものを手放すのには強い勇気がいる。覚悟がいる・・・。
0834神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/05(水) 02:43:40.43ID:e4R/Wdiq
わたしが確実にいて、それに、向かって世界というものがあるというのが、誤りなのだよ
無我の境地とは、わたしが、いないことなのだw
非我というと、どこかに、わたしがいると、可能性を残したいのだろう
それは、苦の滅には、達さない
霊にしても魂にしてもアートマンも、あるのかもしれない
しかし、この世界は、絵本みたいなものなのだ
そこには、物語もあり、登場人物もいる、舞台もある、そして意識もあれば、肉体もあるw
もちろん、ページを見て、感じる、わたしがあるからなのだよ
そして、その、物語の中で、苦しんだり、喜んだりするのだが、それは紙の上に描かれた、本なのだよ
そして、それを読んでいる、この、わたしが、本体であるとゆーのは、スライドした、だけで、まだ、そこも絵本の中なのだwwww
そういった輪廻の主体である、わたし、が、じつは、ないのだwwww
あるのは、それらの活動を、つまり、ジョークを演じている、何らかの夢の母体
と、想像は、ふくらむw
0835神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/05(水) 15:57:31.91ID:UkxoDT07
>>419
>>399
>>そのまじないに視座を置いた仏教解釈は否定されるね。
>>釈尊はまじない信仰に否定的だったから。
>釈尊が否定したのなら、その情報自体が間違っている。
>仏陀自身途中で殺されてるし。
0836神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/05(水) 17:04:01.97ID:4R4WBSBW
ヤージュニャヴァルキヤ

人にとってすべてがアートマンそのものとなったとき、
彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。
彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。
彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。
彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。

この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか。

この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
捉えることができない。捉えられないから。
壊れることがない。壊されないから。
こだわりがない。こだわらないから。
つながれず、動揺せず、損なわれない。
ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
ー中略ー
彼らが語ったことは、<業>についてであった。
彼らが称えたことは<業>であった。
実によい行いによって人はよくなり、悪い行いによって人は悪くなるのである。

こうして、ジャーラットカーラヴァ・アールタバーガは沈黙してしまった。
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm

アートマンというのは認識の主体なので認識することができないというのが古代からのバラモンの教説。
釈迦もそれを分かっていたのでアートマンについては無記を貫いた。
そして五蘊というのは例えば観行瞑想で無常・苦・無我と観察できる認識の客体であるのでアートマンではないとした。
我がものではなく、我ではなく、我がアートマンではない五蘊への執着を離れよと説いたのである。
0837神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/05(水) 20:45:03.08ID:3G/vCGqH
416 名前:@@@ :2017/04/05(水) 15:07:46.34 ID:qLYYqHY9
>>403
>改竄されているなら、どこで誰がどうやって改竄したか?
>資料を出して、証明しなさい。

仏像の髪型がまず一番証拠。
仏陀の髪型がパンチパーマな件。
仏陀が旅に出る前と後で髪型が違う。
パンチ・パーマになっている。
仏陀は旅の途中で殺され、黒人と入れ替えられている。
僧は剃髪しなければいけなかったのに、後年の仏陀をそれを拒み、
生活も変わっている。
初期の仏陀は、慎ましい食生活だった。
が、悟った後の仏陀は、豚肉食べては女に手を出し昼寝していた。
このへんは、資料に詳しい人は知っているだろう。
0838神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/05(水) 21:52:08.40ID:e4R/Wdiq
>>837
なぜなら、悟ったからだw
0839パーピマン
垢版 |
2017/04/05(水) 22:23:40.29ID:6zZF8KVn
>>837

なんか、おかしなことが書いてあるので、該当スレ(鬼和尚スレ)
みてみたが・・・・・

@@@ は、どこにでもいるキチ外w
相手にする価値なしw    終了w
0840宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/06(木) 09:31:56.01ID:/aEtgg3M
>>834
あなたが、
アートマンを信じるかどうかはどうでもいいこと。
好きにされたらそれでいいのです。
ここで論じているのは、あくまでも仏典から読み解くゴータマ当人の教説の内容です。

>しかし、この世界は、絵本みたいなものなのだ--中略----
>と、想像は、ふくらむw

〜それをヒンドゥーでは「マーヤー」(Māyā/幻影)といっています。
その理解においては輪廻すらも無いのです。
このヒンドゥーのマーヤーは仏教の縁起/空に相当するものであり、
つまり、私の理解では構図的には以下のようになる。

【仏教】
無明に落ちている凡夫 仏教の目指す究極の境地
 諸行無常/縁起/空 ⇔ ニルヴァーナ(涅槃)
【ヒンドゥー】
無明/マーヤー    ⇔ アートマン(梵我一如)

要するに、
ニルヴァーナとアートマンは結果としては同義。
仏教の涅槃を知覚しているのがアートマンであり、
アートマンの実現とは、すなわちニルヴァーナ境に到達したことを意味するもの。
0841宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/06(木) 09:35:35.40ID:/aEtgg3M
分かる者は、
仏典に「涅槃はアートマン(梵我一如)と同じことですよ」などとは書かれてなくても、
また、ヒンドゥー聖典にいちいち、「アートマン(梵我一如)の実現は仏教の究極境地と同じですよ」
などと書かれてなくても、“それ”として理解する。
分からない者は無知か洗脳が激しいかのいずれかです。
そして、信仰による迷信を打破するのに学問は有効な手段です。

 『このように解釈することが許されるとすれば、原始仏教にも涅槃や如来はアートマンとする考え方があったことが判る。
---中略--- もしそうなら、仏教のアートマンは実はウパニシャッドが説くアートマンと同じようなものを指していたと解釈
することができるかもしれない。ウパニシャッドでもわれわれ衆生がアートマンと合一していないから輪廻を繰り返すとする
のであって、構造的には仏教と共通しているということができるからである。』
(森 章司著『死後・輪廻はあるか--「無記」「十二縁起」「無我」の再考--』)

 『この点は、仏教以前の正統バラモン教が、ウパニシャッドにおいて、梵我一如を正しく知り、それを体験することに
よって、理想が達成されるとしていたのに似ている。ウパニシャッドでは梵我一如の境を涅槃の語によって呼んではいな
いけれども、この境地は「非ず、非ず」(neti neti)と云われているように、筆舌に尽くすことの出来ない大歓喜の自由境
であるとせられているから、実際には仏教の涅槃が意味しているものと、それ程違ったものではないであろう。(p126-127)』
(水野弘元著『原始仏教』02年第16刷/平楽寺書店)

 『私は、ブッダの涅槃の境地も、バラモンの哲人たちの梵我一如の境地も全く同じものなのだ、と確信しております。
インドに於いては、仏教も外道もない、真理は一つ、真実に実在する(と彼らが確信している)世界は一つなのです。
 この点ではヴェーダーンタとかサーンキャとか、インド哲学の主要な体系も、すべて同じことなのです。彼らは皆その同
一の有を、ただしそれぞれの視位から、それぞれの制約に於いて見ているのです。ブッダも同じなのです。』
(津田真一著「密教とブッダの根本的立場」『大法輪』88年9-10月号)
0842宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2017/04/06(木) 11:35:16.43ID:/aEtgg3M
〜絶賛!!!

なんと、
この私が大勢から罵声を浴びせられながらも、
いつも主張していることと完全に同一の内容を投稿している人がいました。
これは、なかなか見られるものではない...。
いったい、誰???

どうやら、この私が続けてきた投稿は無駄ではなかったようです。---随喜

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>116 : 神も仏も名無しさん2017/04/06(木) 01:48:31.38 ID:xZeu7Buz
>ダンマパダ277 、
> 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
>これこそ人が清らかになる道である。
>
> 有名な諸行無常を仏陀が説いた句ではあるが、
> 涅槃やアートマンは形成されたものではない(行=サンカーラではない)ので無常の対象とはならない。
>
>そして一切の中にも入らない。
> 一切とは仏陀曰く
>http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html
>と六根六境の十二処であるが、アートマンは最初から十二処で認識できるものではないという設定だからである。
>
>つまり、アートマンは一切にも入らないし形成されたものでもない、なので無常とはみなされない。


>118 : 神も仏も名無しさん2017/04/06(木) 01:57:05.76 ID:xZeu7Buz
>ダンマパダ288
>sabbe savkhara dukkha ti yada pabbaya passati
>「一切の行(形成されたもの)は苦しみである(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
>これこそ人が清らかになる道である。」
>
>これも同じ。
> 涅槃やアートマンは形成されたものではないので苦ではない。
>また一切にも入らない。
>アートマンについては一切外なのは>>116に書いた通りだが、涅槃についてももしこれを一切にいれると涅槃まで苦となる。
> 実際に仏陀が説いたのは、涅槃は苦ではなく安らぎである。
>http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487443014/116-118
0843神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/06(木) 12:01:26.37ID:d7xMQxLf
聖書ってヤハウェやエホバとかいう池沼の観察日記なんだよな
黒歴史本残っちゃってお疲れ様です^_^
0844神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/06(木) 14:00:21.49ID:xZeu7Buz
結局は

>>813
>756 見よ、神々並びに世人は、非我なるもの(Anattani)を我と思いなし(attamāniṃ)、
>  <名称と形態>(名色)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
>757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。
>  何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
>758 安らぎ(涅槃nibbānaṃ,)は虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。
>  かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

虚妄ならざるものである涅槃においては、
非我なるものを我と思いなし、名称と形態に執着し、『「これこそ真実である」という(過ぎ去るが故に)虚妄なる考え』を抱く、
こういう転倒がなく、真理を悟っているということですかね。

まず第一に虚妄ならざる立ち位置からじゃないと「過ぎ去るものは虚妄なるものである」などとは言えないわけですし。
0845神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/06(木) 15:12:43.81ID:5wv/F40s
>>844
天才ですな
0846神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/04/06(木) 18:56:52.97ID:4V5ggri/
密教は、ビンドゥー教の教義を梵は仏・我は如来蔵としたり、また神様大好きなインド人に迎合するかのように
調伏という形ではあるが外教の神様を沢山取り入れたりしたりしてビンドゥーに歩み寄ったのに、
結局はインドで廃れてしまったのは、崇める対象を真理である法身仏の大日如来中心にしてしまったことにもあると思う。
インド人は神様と並んで聖者を信仰するから、灌頂を受けた聖者を崇めるような宗教にしてればよかった。

ヒマラヤ密教、チベット密教はその反省からか聖者を何人も輩出しているし、
日本でも空海は聖者であり弘法大師を拝む形でも高野山に参拝に訪れる人は多い。
0847パーピマン
垢版 |
2017/04/07(金) 00:28:54.78ID:NaEeee2Z
たまには、真面目に書いておくかww

「涅槃は、一切皆苦の一切に含まれるか?」・・・・・まずこれは、問い自体が
成立しないんだがww

この「涅槃」と言う語彙は、仏教要語の中でも、最も誤解を生みやすい語のひとつだわなw
というのも、この語彙は実に様々な意味をもち、その射程範囲が異なるからだw

仏教以前にも、この語彙は使用されていて(バラモン教などでねw)
バラモン教では「不死」と言われていたが、バラモン教自体、アートマンを是認するので
しばしば、⇒「最高点まで到達したスーパー存在」の意味合いで使用されるw
(つまり、輪廻を超越した状態・・・もしくは、そのような存在w)
(これがまさに、宝珠がいいたいものww)

もしくは、そのようなスーパー存在が住する場所 とかの意味合いかな?w

仏教でも、部派時代には、有余涅槃、無余涅槃(般涅槃)・・とかでてくるけど、
そのような分け方自体が外教(ジャイナ教)からの混入らしいw
(涅槃が「苦を滅した寂静なる心的状態」を指示する語彙であるならば、身体の有無など
本来、問題になるはずもないんだがねw このあたりは、輪廻業報思想からくる死後存続が
関わってきて、生前は身体の生理作用からくる欲求・・・・食欲や睡眠欲があるからまだ
完全ではなく、死後、「完全なる存在」へと昇華する とwww
くっだらねww 如来の死後は無記でしょうにww)
0848パーピマン
垢版 |
2017/04/07(金) 00:29:46.45ID:NaEeee2Z
では、原始仏教における涅槃とはどういうものなのか?
これは原義から明らかなように、「煩悩を吹き消したもの」「執着を滅したもの」
即ち、「寂静なる『心的状況』を指示する語彙」 なんだよなw

つまり、凡夫にとっては(無明によって)  「一切が」苦となる。
(・・・・この一切が苦である という認識自体が如来の視座で、現実に凡夫は
これは楽、これは苦と分別し、苦を厭い、楽を求めることを繰り返すw
「一切皆苦」をとことん自己に落とし込めて了解できれば、それはもう如来の視座
に近いと言えるだろうがw)

要は、「凡夫にとっては」⇒一切が苦・・・即ち、全ての存在、全ての現象、作用が苦
なわけだw (凡夫自身は、そうは感じていなくて「これは楽、あれは苦」とやってるがねw
如来の視座からすれば、愛だの、楽しいことだの、一般常識からすれば「望ましいこと」も
全て『苦』であると分かってるわけw)

では、如来から見ればこの世の一切、即ち「全ての存在、現象、作用」はどのように映るか?
それは、もう「苦」でも何でもなくて、善悪、苦楽の分別なしで、ただ、「ありのまま」
ただ、「そのようなもの」として受容されるだけ。
そこに苦は存在しない。なぜならば、如来は全ての煩悩の火を吹き消し、我執を滅し、
寂静なる境地に達しているので「苦」など生じようはずもないw

そのような如来の「心的状態」・・即ち「境地」を『涅槃』と言う語彙で表したのであって
別に超越的な存在とか、そのようなスーパーなんちゃらが住するところを涅槃と呼んだのでは
ないわけw

だからこそ、生きた生身の人間が、そのような境地に達すれば、「生前に・・・即ち生きた状態で」
『涅槃に住する』・・・・寂静なる心的状態でいられるわけw
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