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外道の独り言 6 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 01:22:11.02ID:ZdHv0W/M
 まず最初に断わっておきますが、「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」
というスレではありません。 このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に
関して、私が私見、疑問点等を提示いたします。まさに、「外道がぶつぶつと
独り言を書き散らしているスレ」だと思ってくれて構いません。
 勿論、それに対して異論、反論、疑義等は排除するものではありませんが、
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います。
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく、
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいですw) 「真摯なる碩学」が、私の
書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です。
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動
してください。
 昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑
なのです。

前スレ 
 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1466328423/
ログ保管庫
 http://houjugusya.web.fc2.com/link.html
0002宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/26(月) 01:24:35.55ID:ZdHv0W/M
この私の投稿で、
スレを大きく消費したので立てさせてもらいました。
宜しくどうぞ!!
0003宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/26(月) 01:25:22.16ID:ZdHv0W/M
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1466328423/809
>>前スレ809
我々のようなレベルには理解を超えたものであり、
当然、どのような説明も正しいものにはならないけれども、
それでも敢えて云わせてもらうと...

真我には個性があります(と、いわれている)。
それが梵(ブラフマン)=ロゴス(神)との決定的な違いです。
ヒンドゥーにおいても歴史上、ブラフマンとアートマンは完全なる同一か否かの議論がありましたが、
いわば、大海から汲み取ったコップの海水が個々の真我であり、
そのコップの違いによって個々の個性があるみたいなものでしょう。
つまり、全く同じ大きさや形のコップというものはなくて、海水はそのコップに応じます。
それを個性と言い換えることができる。

真我は当然、思考します。
しかしながら、低我に基く脳内思考とは異なり、
そこには低級性質がない。
また、“他者の救済という二元的意識ではなくて、
すべてを一なるものとしての感覚からくる必然的な意識からくるものです。
自分との分離の無い感覚と意識状態です。
その辺が我々には到底、言葉では理解できない部分といえるでしょう。

>「覚者方」という言葉が出てきたりもする如く、

神智学によれば、
この惑星から輩出して覚者となった方で現在もそのまま留まっているのは六十数名(その内の一部は肉体を保持する)いるという。
その他の方々は、更に高位の天体であるシリウスへと向かったといわれています。
(この六十数名の覚者方の中には、仏教界から輩出した存在も含まれます)

>―実は、その時点で、既にそれは個別的存在であり、縁起の輪転の中へ落ちてしまっているわけだが・・・―、
> 如何にして、何十億というヒトの低我へと分配され得るだろうか?

真我は無始の初めから完全(相対的に見て)でありますが、
個々の経験を獲得するために自ら低我を生じさせているのです。
低我は真我によって反映されています。
真我は物質を体験するために自ら魂を反映し、
魂の繰り返し転生の中で各低我パーソナリティを形成します。
それが何故なのかは? 神秘中の神秘といわざる得ません。
いうなれば、それはロゴスの御意志としか言いようがない。
0004宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/26(月) 01:29:22.12ID:ZdHv0W/M
これまで私は、
ここを含めた仏教関連スレにおいて、

仏教徒による無我の理解の間違い
(ゴータマは「アートマンは無い」などとは決して説かない)を明らかにし、
ゴータマはアートマン(真我)については無記の姿勢であり、
輪廻主体である魂に相当するものとして縁起する「識」を説いたことを示した。
そして、無我の誤解からくるバラモン・ヒンドゥーに対する間違った偏見を指摘し、
ヒンドゥーの素晴らしい教えについても提示してきた。
ギーターからは、道の歩みを援ける指針となる見事な聖句も紹介した。
同じく、輪廻主体に対する間違った理解からくる輪廻の転生否定についても正し、
そして、ゴータマが如何に多くの明確な輪廻転生の教えを説いていたかを述べてきた。
また、これらについては神智学を学ぶことで理解をより容易にできるけれども、
無知によって、知らない者たちによる風評(悪評)からの影響を受けた誤解と偏見についても、
その実際の真実について明らかにしてきた。

ということで、
殆ど必要なことのすべてを遣り尽くしたものと思う。
しかし、如何に正しいものについて詳しく多くを語ろうとも、
所詮は、それを認めたくない相手の自由意志というものがあって、
それについては相手の好きにしてもらう他はないのだということです

ということで、
本当にそろそろ自分のブログサイトを立ち上げて、
2Chの常住状態から脱すべき時期がきたように思います。

最後にもう少しだけ言いたいことがあるので、
人間の転生(生まれ変わり)の問題について“紐のアホ自論”と(紐スレにて)対論したいと思う。
数日後〜いっぷく休憩の後にゆっくり始めたいと思います。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1466481002/l50
0005カラスの唄垢版2016/09/26(月) 02:59:28.06ID:0k3CUoQ4
>>4
ブログもいいけど、やるならFBがいいと思いますよ。仏教系のコミュニティー
もあるし、自分でコミュニティー立ち上げる事もできるし、
タイムラインはブログのように使えるし、個人間でメッセージのやり取りもできるし、
ノート機能使えば、自説など論文のように残せるし。相手選べば、
2chより遥かに有意義な意見交換が出来るでしょう。
0006神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 04:15:25.69ID:hqD5ROim
「ブッタの教え図解D」三界に対応する神々(仏教における天の神々)
http://boaoi.net/buddhas-teachings/a-5/
仏教では、瞑想の境地を三界(欲界・色界・無色界)に分けて表現されて、
バラモン教の影響を受けて、その三界に対応した神様が配置されました。
バラモン教での最高神ブラフマー(梵天)は、仏教では色界の一番下と位置づけが低めの設定です。

四天王「持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)」は東南西北を守護する神々とされています。
その上位に三十三天の代表、帝釈天(インドラ神またはサッカとも)が欲界の地上を意味する「地居天じごてん」に位置づけられています。

原始仏典(長部15 大縁方便経、長部18 闍尼沙経、長部27 起源経)などで書かれています。
0007神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 04:16:19.15ID:hqD5ROim
(VI.1.4)【バカ梵天】 (第一章) サンユッタ・ニカーヤII
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52238942.html


【梵天バカへの説法】
お釈迦さまは、神霊に対しても説法しました。
神々の師と言われる所以です。
お釈迦さまの説く法は、創造神をも凌ぐスケールであったのです。
http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/?m&;no=680


【梵天請経】
『梵天請経』[1](ぼんてんしょうきょう、巴: Brahmanimantanika-sutta, ブラフマニマンタニカ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第49経。『梵天招待経』(ぼんてんしょうたいきょう)[2]とも。
類似の伝統漢訳経典としては、『中阿含経』(大正蔵26)の第78経「梵天請仏経」がある。
釈迦が、梵天や悪魔パーピマンを相手に、仏法を説いていく。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E5%A4%A9%E8%AB%8B%E7%B5%8C
0008神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 04:29:47.03ID:fpBi4gIj
549:パーピマン:2016/09/25(日) 23:00:23.37 ID:xnvcCSoO
よろしくお願いします

【板名】 心と宗教
【板URL】 http://rio2016.2ch.net/psy/
【タイトル】 外道の独り言 6
【名前(省略可)】 パーピマン
【メール欄(省略可)】
【本文】

まず最初に断わっておきますが、「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」
というスレではありません。 このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に
関して、私が私見、疑問点等を提示いたします。まさに、「外道がぶつぶつと
独り言を書き散らしているスレ」だと思ってくれて構いません。
 勿論、それに対して異論、反論、疑義等は排除するものではありませんが、
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います。
上げ ておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく、
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいですw) 「真摯なる碩学」が、私の
書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です。
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動
してください。
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変
迷惑なのです。
0009神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 04:59:10.39ID:kGLi3i68
仏教経典の中に、神だとか天が登場するのは
他宗教に対する配慮でしょうね。
仏教が排他的になったら、仏教じゃなくなる。
0010神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 11:40:09.40ID:V91w7JFS
弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、
『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、
まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」
「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマ・ニカーヤ 22)


Sn「無明(むみょう)が頭であると知れ。
明知が信仰と念(おも)いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」
http://www6.plala.or.jp/famil/08071006/dai411wa.html


雑阿含経 分別
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7050602.html
「比丘たちよ、縁起とは何であろうか。
比丘たちよ、無明(むみょう)によって行(ぎょう)がある。行によって識(しき)がある。識によって名色(みょうしき)がある。
〜略〜
比丘たちよ、かくのごとくにして、無明によりて行がある。・・・これがこのすべての苦の集積のよりてなるところである。
また、無明をあますところなく滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は滅する。
・・・これがこのすべての苦の集積のよりて滅するところである」

雑阿含経 因縁相応 37識
http://blogs.yahoo.co.jp/jihi002/62997505.html
然るに、比丘達よ、其の繋縛するものを、是はいけないぞと観て居ると、その人には、識は現われて来ない。
識が無いから名色も無い。



以上により釈迦の教えは非我だけではなく無我も説いており、
また識(識別作用)は名色(五蘊)の縁というだけで一切の有情の基体ではない。
無明が滅すれば行が滅し、行が滅すれば識も滅するのである。
0011カラスの唄垢版2016/09/26(月) 13:02:05.61ID:GgJYgmFK
前スレ >>809
ヨーガとは、心の動きを止滅させることである。 そのとき、観る者は自己の本性に安住する。
その他のときには、(観る者は)心の動きと同一化する。 無知(無明)とは、無常を常、不浄を浄、
苦を楽、自己ならざるものを自己とみなすものである。我想とは、いわば見る者の力と、
見る器官【身心】の力との同一視である。観る者と観られる者との結びつきこそが、除去すべき
苦の原因である。〜ヨーガスートラ

まぁ観る者も観られる者も二つで一つ。問題は無知なるがゆえ、観る者(真我)が観られる者を自己だと
混同して、自我を生じさせて迷いの生存を繰り返していることだな。だが本体は「一」であり沈黙の中に
本当の自己を知っている。彼は我々生きとし生けるもの全てを愛している。なぜなら我々は彼自身でもあるから。
この真理を悟ればなぜゴータマが四無量心の慈悲の心を説いたのか、イエスがなぜ好き嫌いの
枠を超えた慈愛の精神を説いたのかを理解する。エゴイズムを滅ぼすその道は分裂した我々を再び
「一」なる真我へと統合するだろう。この世界が造られたのはわけがあってな。それは収穫の為なんだよ。
我々は無意味に分裂してこの世にいるわけではない。

さて、よく誤解されていることだが、ブラフマン=真我は恒常不変で、縁起によらず単独で成立して
いるわけではない。ブラフマンはこの現象世界の本体ともいえ、この現象世界を造り出した創造神ともいえるが、
ブラフマン自身も生じたものなんだ。ウパニシャッドではブラフマンとは呼吸であり「言」だとも書いてある。
僕はその意味をよく理解している。呼吸にしろ「言」にしろ、元からあるわけじゃなく、生じたものであるとは
子供でもわかる理屈だろ。問題はブラフマンでさえ創造物であり、ブラフマンは「言」であるなら、だれが
その言を発したという事だな。僕はゴータマがあるなしの明言を避けたものの本質をよく理解している。
ゴータマが悟りを開いた瞑想とはあくまでヨーガな。智慧ある者がヨーガスートラを読めば無我思想を正しく
理解しないで一番大事なものまで無きものにしてしまった近代仏教徒に成就者は出ないし、
救いもないという事も理解できるだろう。
0012カラスの唄垢版2016/09/26(月) 13:25:20.53ID:GgJYgmFK
私は善人であり悪人。私は叡智溢れる賢人であり、無知で下劣な愚者。
私は富豪であり、貧困にあえぐ貧者。私は裁き、裁かれる者。皆私を愛するといいながら
なぜ私に背くのか。私を愛する者よ。私は貴方を愛し、貴方を裁く。私に優しく聴きなさい。そして
私から厳しく学びなさい。王は天と地。右の者、左の者の中央に位置する。
私は最初にして、最後の者。私はたった独り存在するものであり私を裁く者は誰もいない。

>>7
まぁ真理を認識し、それを語るゴータマのエゴも、何も知らない凡夫のエゴも真我が
分裂したものに過ぎないんだけどね。光があるから闇を認識し、有があるから無も認識できる。
これら二つは一つ。光が無ければそこには何も残らない。

ゴータマの無我思想を正しく理解しないで、ブラフマン=真我を語れず、仏とはなにかも知らず、
仏と真我の関係も知らないで、安息日しか語っていないただの滅びの教えなのに、なにか自分達の教えは
特別なものだと勘違いしている一部の近代末法仏教徒は観ていて滑稽だよ。
0013パーピマン垢版2016/09/26(月) 15:08:10.20ID:Ay/uiQW0
「カァ〜〜〜〜、カァ〜〜〜〜〜」

wwwwwwwwww
0014神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 15:59:20.80ID:lonCJ13q
光とか闇とか
頭が沸いとるとしか思えん
0015神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 16:11:53.55ID:TCeWhMiA
ほんと、このスレはギブスといいカラスといいオナニー自己陶酔排泄する馬鹿が増殖気味だなw
0016カラスの唄垢版2016/09/26(月) 16:31:32.62ID:GgJYgmFK
>>14
どうやら豚に真珠を投げてしまったようだ。
伝承ではゴータマは七日の法悦の後、明けの明星を観て悟ったとされる。
僕はこの意味をよく理解している。そういや親鸞さんだか密教系だかの日本仏教の開祖さんも
明けの明星の事を語ってたそうじゃないか。当時はまだ鏡法の時代だったんだろう。
大日如来だとか言ってる宗派の方が無我思想を正しく理解せず、無我、無我しか言わない
南伝由来の上座部や禅宗よりましなんだろう。

光は重要だぞ。まぁ闇の中を歩いている末法仏教徒には関係ない話だな。安息日しか語れず、
その安息日すら正しく理解しない半知半解末法仏教で悟ったつもりでいるのは誠に滑稽だよ。
0017神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 16:39:57.51ID:TCeWhMiA
しこしこ、かあああwwwww
0018神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 16:51:35.25ID:lonCJ13q
なんか臭いな
生ゴミの臭いがする
0019神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 16:53:02.61ID:TCeWhMiA
かあかあ、の俺様臭凄いぞオナニー臭がきついw自己陶酔自慢て気持ち悪いw
0020神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 16:59:51.97ID:lonCJ13q
カラスは生ゴミ食って生きてるからな

こないだバスを待ってたら、空から魚の頭が降ってきてさ
飛んでたカラスが、空からうっかり落としたらしい
ごみ溜めを漁ってゲットした朝飯だったんだろうな
並んでた人間がバスに乗り込んで、ひとけがなくなったと同時にどこからか飛んできて、
魚の頭を食い散らかしてたわ
迷惑な話だわ
0021神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 17:03:31.50ID:TCeWhMiA
かあかあ、オナニーの特徴は、自己陶酔で自己完結して、俺様凄いだろう、で果てるw
実にきもいw
0023神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 17:05:07.60ID:IBvZpY9K
ポイントはそこじゃねーよwww  >>http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1466328423/799


君らはいつも、縁起の支配下にあるのは低我であり、
真我はその領域外であるという。


さて・・
縁起の領域外は、如何にして縁起の領域へ干渉し得るのだろうか?
干渉し得るということは、即ち、縁起しているということに他ならないわけでね・・・。
0024神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 17:07:37.42ID:TCeWhMiA
>>22


ばかもんw一応、バービーはそれなりに評価してんだぞw一応w
0025神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 17:08:42.14ID:TCeWhMiA
>縁起の領域外は

カラスといい勝負してんぞw
0026神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 20:17:48.84ID:jrdZhoR8
>>23

干渉はない。鑑賞や観照という文字なら合う。
映画を見ている人が映画の内容を変えられないのと同じ。
0027神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 20:24:09.54ID:IBvZpY9K
>>26
は?

見る・見える(映像として視覚野に刺激が入る)ということは眼根色境眼識の和合の上にしか成立しないわけだが?
六感以外に感受の方法があるなら別だがw

たとえば、コウモリや或いは鯨やイルカもそうかもしれんが、
彼らは「音を見ている」とは言い得るかもしれない。
が、それでも、(―いかなる入出力方式であったとしても―)、
そこには、相互の干渉があり、タイムラグがあり、不可逆的な変化の方向性があるわけさ。
0028神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 20:42:09.21ID:IBvZpY9K
現在通説として受け入れられている仏教を否定するなら、
六感以外の感受と干渉を提示する必要があるわけさ。
0029神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 21:01:14.21ID:t/pzERWA
 
>映画を見ている人が映画の内容を変えられない

仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中で

その人それぞれの
我癡・我見・我慢・我愛の煩悩は
智慧ではなく
如実知見ではなく
正見ではなく
正しく観察することができなくて
障害があることから「有覆無記(うぶくむき)」という

無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して
例えば
その人それぞれの
我愛が
妄想して映画を内容を変えている(有覆無記)(煩悩が随伴する「汚れた意(マナス)」)
0030カラスの唄垢版2016/09/26(月) 21:41:04.11ID:uq4IBoGB
>>23
あれだけ説明してやっても君は何もわかってないな。真我も生じたもの
だから何かと縁起しているわけだ。さて、真我を生じさせた縁起の元となるのとは?
たった一つ真我もなければ単独で成立しうる自性の性質をもつ概念があんだろ。でもそれは
有るといえるものなのか?無いと言い切れるものかという話。真我は
それに縁起して生起しているので、それは真我に影響を与えることができる。
また我々の自我は真我に縁起して成っているので、真我は我々の自我に
影響を与える事ができうる。また、それに縁起して成った真我はそれがないと
生起しなかったが、それは真我なくとも概念として成立しうる。
息子は父を必要とするが、父は息子を必要としない。今まで実体そのものだと
思われていた自性の性質を持つアートマンの正体を知ったら、あっと驚きさ。
真我=ブラフマンを正しく理解したら当時のバラモン教徒のように、
常見外道とはならないし仏教の無我思想にも反しないと知る。むしろ常見でもない
断見でもない永遠の輪を理解するだろう。いずれにせよ真我を語れない宗教はなんの
救いも無ければ価値もないガラクタだな。今更真我を認めればヒンドゥーの
教えの方が自分達末法仏教より価値があったと知り、末法仏教の執着を
捨てられない者はそれを認めずいつまでも末法仏教の教えに執着したまま真理を掴む
事もなく滅んでいくだけだろう。真我を語れない宗教は皿しかない中身の無い食事と一緒。
無知とは怖いもので、「それ」の事をよく知りもしないで、それではじまり、
それで終わる教えは死で完結するだけ。それが末法仏教徒の姿だろう。
意味はわかる人だけわかればいい。
0031カラスの唄垢版2016/09/26(月) 22:00:16.61ID:uq4IBoGB
前も書いたが、自性の性質を持つアートマンとは漢字で表すと頭に何も着かないただの「我」な。
自我はもちろんのこと、生起した縁起物である真我=ブラフマンにも自性はないので、そこのところお間違えのないように。
ヨーガスートラを読めば真我と自性はちゃんと分けて書かれている。自在神ともね。

ただ、真我は、自性の性質を持つアートマンに似せて造られたものなんだ。
0033神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 22:08:54.04ID:t/pzERWA
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
ヒンドゥー教では
世俗的な我意識のみを否定してニラートマン(無我)といい
純粋な実体としての真我を否定しない

ウパニシャッド
「アートマン」はウパニシャッド哲学で力説され
「ブラフマン」との同一がいわれた(梵我一如)

我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
サーンキヤ
永遠に変化することのないプルシャ
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく

(無為法から → (仮設としての)有為法が現れ滅して変化していく感じ?)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
自性清浄
パーリ増支部に
「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」とある(いわゆる心性本浄説)
光り輝いている(光浄、清浄)とは白紙のような状態と解される
自性として本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている
そこで、悟りによって外来の諸煩悩を離れた状態は「離垢清浄」と説明される
0034カラスの唄垢版2016/09/26(月) 22:11:05.05ID:uq4IBoGB
>>22
それはいくら正しい事を語っても、僕の言葉に君らに対する愛がないからだろう。

早く滅びろよ。
0035カラスの唄垢版2016/09/26(月) 22:15:28.11ID:uq4IBoGB
キリスト教徒はゴータマが涅槃静寂と呼んだ安息日を全く理解せず
復活の本当の意味も理解せず、喩えをそのまま受け取り
ファンタジーの世界に希望を託す。仏教徒は涅槃静寂だけでブラフマン(真我=キリスト)がどっかにいっている。
ヒンドゥーは真我を語っても涅槃静寂を語らず、自性のない真我をアートマンと誤謬して常見外道となる
0037パーピマン垢版2016/09/26(月) 22:37:32.26ID:Ay/uiQW0
「カァ〜〜〜、カァ〜〜〜」

wwwwwwwwwwwww
0038カラスの唄垢版2016/09/26(月) 22:49:41.65ID:uq4IBoGB
とは言っても、真我=キリストを語るキリスト教や、ヒンドゥーの方が
一部の末法仏教より価値はあるわな。少なくとも真我=キリストを語る
キリスト教やヒンドゥー教は、末法仏教と違い、命の教えだからね。
0040神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 23:08:08.19ID:50KK4Rqw
>>33
>自性清浄
>パーリ増支部に
>「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」とある(いわゆる心性本浄説)
>光り輝いている(光浄、清浄)とは白紙のような状態と解される
>自性として本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている
>そこで、悟りによって外来の諸煩悩を離れた状態は「離垢清浄」と説明される

光り輝く心こそが真我
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/a6/7a1e2fddee54ab95232b91b8ce38ac47.png
0042神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 23:23:49.93ID:kGLi3i68
大乗仏教の「空」思想も、パーリ経典にありますし
密教的な教えもパーリ経典にあります。
きっとお釈迦様は、相手によって縦横無尽に方便されたんでしょう。
0043神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 23:30:44.66ID:50KK4Rqw
この如来蔵思想を明確に打ち出している中期密教経典として、『般若理趣経』がある。
第十二段「有情加持の法門」では、
「一切の有情は如来蔵なり。普賢菩薩の一切の我なるを以っての故に。」と、
一切有情を加持する般若理趣を説く。
第十二段は、外金剛部の者々であっても、衆生はすべて如来蔵を宿すという如来蔵思想を明確にしている。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/251313/211184/60164064

如来蔵というのは仏様の蔵に自分が包まれているという関係です。
自分が仏様の中に蔵されている、自分が仏様の大宇宙の中にしまわれている如来蔵という考え方ですが、これだけではありません。
一方で自分の中に仏様を包み込んでいるという、両方の関係があります。
大宇宙の中に自分が包まれていると同時に、大宇宙を自分の中に持っているのです。
これが如来蔵、仏性ということです。
自分に仏性があるから、一切有情が仏様になれるのです。
ただ気づかないだけのことです。
これが普賢菩薩の一切の我、「一切の衆生を救いとろう」という我です。

>>41
そのパーリ経典の自性清浄客塵煩悩もルーツはバラモン教かもしれませんね!?
0044神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 23:37:09.37ID:IBvZpY9K
>>31
>ただ、真我は、自性の性質を持つアートマンに似せて造られたものなんだ

  >真我は、 >造られたもの

ほうw

>>30
>真我も生じたもの >何かと縁起している

ほほうw
>>30
>真我を生じさせた縁起の元となるのとは?
>たった一つ真我もなければ単独で成立しうる自性の性質をもつ概念があ る
ほうw すべての始まり(≒縁起の始まり)があるんだ。 ふ〜ん・・。

>それは、有るといえるものなのか?無いと言い切れるものか
どっちやねんw

>真我はそれに縁起して生起しているので、それは真我に影響を与えることができる
「それ」って何?w  つか、影響受けまくりやんw


>息子は父を・・・・
解読する価値すらない絵空事を、よくもまあドヤ顔で書けるもんだw

何かよくわからんけど、何かあるんだ!  とか、んな言い種、お釈迦さんに失礼だと思わんのかね・・・・。
他の外道の師達とお釈迦さんが決定的に違うところは、
そんなあやふやなことを言わなかったところだよ。
0045神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 23:37:37.69ID:t/pzERWA
 
もろもろの煩悩を手放しする方法は?↓

http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正
思い手放し
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど,この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです。実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう

http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%81%97%E3%82%80%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
「想う!」と掴もうとしている想いも手放し
「想わない!」と掴もうとしている想いも手放し
非想非非想も超えて
「想いを手放す」という想いも手放し、そして

http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅)
決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による想滅定が生起するのである
0046神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 23:38:50.86ID:IBvZpY9K
宝珠も、 ≪「真我」もまた、因により縁により生じたもの≫ と考えてるんかね?
0047神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 23:44:40.32ID:kGLi3i68
>>43
お釈迦様は、相手によって方便を使い分けられたということじゃないですかね。
例えば、パーリ経典の中の密教的な記述に
お釈迦様がある弟子に「君は女のことだけ考えなさい」と言われたというのがあり
その弟子はその通りに実践し、悟ったといいますし

ある弟子が子供の頃から、仏陀の名を口癖のように唱えてたことにより
悪から自らを守ることができたという記述もあります。
これは真言(マントラ)の考え方の根拠になっているように思います。
仏教の基本は、パーリ経典に説かれていますが
大乗や密教の一部も説かれていることは否めません。
0048神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 23:57:22.78ID:50KK4Rqw
>>47
上は神通力で天界に連れられて天女を見せられたナンダ?
下は誰でしょうね?

釈尊の天才的な対機説法で色々な教えができたというのはありますね。
0049神も仏も名無しさん垢版2016/09/26(月) 23:58:08.18ID:kGLi3i68
ただし、注意しないといけないのは
経典には、お釈迦様が相手によって使い分けられた方便と
すべての人に共通する教え(仏法)を説かれている記述があることを
経典を学ぶ私たちがしっかりと理解しないといけません。
たとえ、経典のある部分に「君は女のことだけ考えなさい」とあるからといって
私たちがその通り実践しては必ずしも正しいわけではありません。
あくまでも、その教えはある特定の弟子に説かれた方便であって
仏教の基本的なダルマではないのです。
0050神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 00:05:47.88ID:vbd8JZZR
>>48
そうですね。
下は、片山一良さんの「ダンマパダを読む」という著書で紹介されていました。
その弟子は子供のとき遊びながらも、「仏陀に帰依します」と唱えていたそうです。
それによって、あらゆる災難から逃れたそうです。
0051神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 00:27:25.39ID:xigaX+QL
 
>「仏陀に帰依します」と唱えて、あらゆる災難から逃れたそうです

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E4%BE%9D
帰依
私はブッダ(仏)に帰依いたします
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E8%83%9D%E8%A6%B3%E9%9F%B3
准胝観音

準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん

準提尊とその功徳がある(曼荼羅の)聖衆を、心を鎮めて一心に、毎日(常々)念じたならば
あらゆる災難や大事故に遇ったとしても、その人は大難を逃れることができる
何故なら準提尊の誓願に「人天を救う」というのがあり、天神と人間は仏と同等の福を受け
この如意宝珠にも等しい仏を本尊とすれば、必ずや仏の覚りの無上正等覚を得るからである

オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E7%A4%BC%E7%9C%9F%E8%A8%80
普礼真言
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ

http://☆mat☆ome.naver.jp/odai/2141839213021020701
自力(我の力)で往生などしようとしないで
(無明の暗闇に覆われた世界すべて)一切を阿弥陀仏にお任せしていきましょう  m(_ _)m
0052神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 01:33:49.93ID:wXEQ9W0Q
何故インドの仏教がそのほとんどが無我を説いていた部派仏教から
真我と同じような如来蔵や仏性を説く大乗仏教に取って代わられ
その後更にヒンドゥー教化した密教となり
最後はイスラムの進行で滅び教えのみがヒンドゥー教仏教学派として残ってる程度になったのかを
考察してみるのも一興

結局インド人にとっては無我と言われても落ち着かないのではないか?
永遠、常住な何かを必要としているし、
また我が何処にも見つからないから我はない、無我だと言われても紐のようにおかしいと思うのだろう
0053宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/27(火) 02:05:32.81ID:xf/a/SxR
>>5
情報とアドバイスに感謝します。

今のところは、コミュニケーションを採るのが目的ではないです。
仲間を集めたり、共鳴し合える者どうしの交流のためではなく、
どちらかというと、ただの一方通行の情報発信です。
また、過去に一度、無料コミュニティーサイトを利用して終了したという嫌な体験があるので、
一応、低額有料を希望しています。
また、携帯利用者は中心視しないつもりです。
0054宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/27(火) 02:06:16.85ID:xf/a/SxR
>>6
そんなものは仏教徒が勝手にバラモン教からパクってきて導入し
(調伏したなどという嘘八百によって)、勝手デタラメの言いたい放題の話でしかないから、
そんなものに何の真実性も価値もない。

ブラフマンとは最高原理のことであって、
ブラフマンの意志の一つ如何ではブッダすらも瞬時で消滅するから。
そもそもブラフマンというのは人格神などではない。
ビシュヌ・シヴァと並ぶ主神の三柱の一つとしてのブラフマーを人格神として描いたのは、
後代のヒンドゥーによる大衆化と民間信仰レベルの創作なのであって、
また尚且つ、勝手に天部の一つのレベルにしてしまったのは仏教側の勝手都合に過ぎない。
そんな話を信じてるようじゃ、お話にならない...。
0055宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/27(火) 02:07:13.34ID:xf/a/SxR
>>7
けれども、
私は親切だから、最後にもう一度だけ投稿しておきます。

仏典に登場する悪魔、特に修行の妨げとなる悟りの妨害をする悪しき存在については、
これは良い子の信者さんたちは、悪魔が本当にブッダの目前に姿を現して
あれこれと語りかけた出来事だと信じてるのでしょうが、しかし、それは間違いですから。
それは修行中の心の葛藤を表現したものであり、つまりはすべてが自分自身の心のことでしかない。
そのことについては、ゴータマ自らが悪魔(マーラー)の本当の正体について明かしているので疑いようのないものです。
悪魔とは五蘊の作用、すなわち自分自身の心の誘惑(悪しき作用)を意味します。

 『「大徳よ、悪魔、悪魔と仰せられますが、大徳よ、いったい、なにを悪魔と仰せられるのでございますか」
「ラーダよ、色(肉体)は悪魔である。受(感覚)は悪魔である。想(表象)は悪魔である。行(意志)は悪魔
である。識(意識)は悪魔である。
 ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、
想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。厭い離れることによって、貪を離れることができる。
貧を離れることによって、解脱する。」』(相応部経典23-11/羅陀相応魔)
0056宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/27(火) 02:07:54.12ID:xf/a/SxR
これは、つまり宗教文学的な表現なのだということ。
梵天もまた然り、それは自分の心の中の良い判断のことをいっている。
自分の中の悪い心を悪魔の誘惑と呼び、そして、成道後に「そのまま入滅してもいいのではないか?
もう、そのまま法を説かずにいようか」という想いに対して、
「どうか法(真理の教え)をお説き下さい」と嘆願する梵天の登場という表現にした。
その方が信仰者に対し、明らかに大衆受けする物語となるでしょうから! 
悪魔の誘惑と、そして、バラモンの最高神からの嘆願ということで
バラモン・ヒンドゥーの神と神々のすべてを仏教の下位へと位置付けることになるのだから。
しかし、真実のところは法を説くことを決意するという我々にとっての有難い方向性への想いと決断が、
ただ単に、梵天勧請という話にされて信者受けを狙ったに過ぎず、
本当に、梵天なる神が突然、「やぁ〜ゴータマさん。お元気〜!!!」などといって現れたわけではないから。

参考としては、増谷文雄氏の阿含経典解説を学習するといいと思います。
まっ、知恵によって迷信から卒業するか、
単なる信者として過ごすかは自分自身で決めることです。
0057宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/27(火) 02:08:30.92ID:xf/a/SxR
>>10
>(マッジマ・ニカーヤ 22)

捉えられないものに根拠をおくことをしないという、
つまり、ゴータマ独自の経験主義に拠るバラモンとは異なる手法を選択肢に過ぎません。

>無明が滅すれば行が滅し、行が滅すれば識も滅するのである。

そりゃそうでしょう!
「識」は元々、アートマン(恒常)ではないから。
解脱に至る最終段階では、それすらアートマンではないものとして捨てられねばならないのだから。
0058宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/27(火) 02:09:35.25ID:xf/a/SxR
>>23
>さて・・
>縁起の領域外は、如何にして縁起の領域へ干渉し得るのだろうか?
>干渉し得るということは、即ち、縁起しているということに他ならないわけでね・・・。

我々は実際上において、
真我の存在を全く知覚できないのだから、
そういう意味においてはまったく干渉されていないことになる。

>>46 :
>宝珠も、≪「真我」もまた、因により縁により生じたもの≫ と考えてるんかね?

まず、この私はサーンキャ哲学は重視していないし、
サーンキャ哲学の定義で真我を呼称していません。
サーンキャ哲学というのは元々は重視されてない別理論なのでしたが、
その中に利用しやすい部分があるので便宜上、ヨーガ理論の中へ方便的に取り込まれました。
何故なら、ヨーガにはそのような体系的な理論はなかったから。正直、本来からして不要といってもいい...。

で、この私の場合は、
「真我」と「アートマン」という二つで語って真我を魂レベルに扱っているのではなくて、
「魂」(縁起する存在であり、肉体とアートマンを繋ぐ媒体)と「アートマン」として話しており、
そして、「真我」とはアートマンの意そのものとして使っています。
現代ヒンドゥーをみるならば、すべてそのようにして統一されていることが瞭然です。

従って、
魂は縁起しており、永遠恒常ではなく、
解脱してニルヴァーナに到達するまでの間の繋ぎ的な存在です。
ただし、濃密物質次元ではないので肉体崩壊後も消滅せずに転生します。
「真我(アートマン)」は、永久不滅の恒常存在であって無始の初めから在るものです。
よって、“因により縁により生じたもの”という言い方はできません。
まっ、すべてはブラフマン、ロゴス(神)のご意志に拠るものという言い方しかできません。
0059宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/27(火) 02:14:28.31ID:xf/a/SxR
>>52
インド仏教が、
無我の教えを頑なに保持することでインドの民衆に見放されたのは確かではないかと思っています。

尚、南方仏教の奉じる無我の理解は、
部派時代に誤解したまま二千年間も継承されたものです。
http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm
0060パーピマン ◆hVgvvzQ7pw 垢版2016/09/27(火) 02:49:09.12ID:niBIjPAR
しかし、まあ、なんというかww

宝珠は良く言えば、「ブレない」

悪く言えば、「進歩がない」 wwwwwwwwww
0061神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 10:47:59.27ID:TvkileoG
>>55
>ゴータマ自らが悪魔(マーラー)の本当の正体について明かしているので疑いようのないものです。
>悪魔とは五蘊の作用、すなわち自分自身の心の誘惑(悪しき作用)を意味します。

同じ悪魔でもパーピマンはどうなの?
0062神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 10:50:00.87ID:7qXWXBG/
無我とゆーのは、わたしのものとか、わたしの思い通りとかが無いってだけですよww
アートマンとかブラフマンをわたしのものとか、わたしの思い通りとか対象物として勘違いするから、そーゆったんでしょ。
意識が世界と呼応しているんだから、縁起してますよね。
この真我とか対象物とかは、自分の思いを離れたところにあって、涅槃はそれらに触れないところでしょうね。
つまり、一言で言えば、知らねーと
知らんとゆーとこ、が、仏教で、ヒンドゥーさんは、イロイロイメージ化される。
このイロイロがぶっ飛んでるので、まあ、理解の範囲は超えてるけれどもw
わたしの消失した混然一体の世界と無我を同一に見るわけですね。
だから無為は真我の視点から見るとかになってくるわけですのよ。
真我の視点てなんですか?ww
視点は我が介入することで出るのであって、真我に視点などありませんww
真我と世界との関係性は縁起してますが、これは色即是空とは違います。
自己が消えるには、真我とかゆーイメージを持ちこむのは下手なやり方になる。
ゆってることは一緒でも、、、
とか空想三昧は楽しくて仕方がないので、やめたくないもんです
0063神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 10:53:02.37ID:TvkileoG
梵天招待経(ブラフマニマンタニカ・スッタ)

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、ウッカッタの町の、
スバガ林にある、サーラ樹に止まられていた。
そのとき、梵天のバカに、邪なる見解が生じた。

“この世界は、常住であり、無常ではない。
生じず、老いず、死なず、滅せず、変らない。
不壊にして不滅であり、唯一にして絶対である”

この様子を、神通により見とめた、仏陀は、
あたかも、力の強い者が、腕を曲げるように、
梵天界に現れて、大梵天に対して、こう言った。

「この世界は、無常であり、常住ではない。
大梵天よ、邪なる見解を、抱いてはならない。
バカよ、悪しき無明の闇に、陥ってはならない。」

そのとき、第六天である、悪魔パーピマンは、
独りの梵衆天に取り付いて、このように言った。

「比丘よ、大梵天に、逆らってはならない。
大梵天に従うなら、善趣に生まれ変るだろう。
創造主に逆らうなら、悪趣に生まれ変るだろう。」

すると、仏陀は、パーピマンに向かって言った。

「私が見抜けないとでも、思っているのか。
悪魔よ、私は、汝のことを、良く知っている。
第六天よ、汝は、私のことを、何も見とめない。」
0064カラスの唄垢版2016/09/27(火) 14:19:42.35ID:RnVo39Dt
>>44
>他の外道の師達とお釈迦さんが決定的に違うところは、
>そんなあやふやなことを言わなかったところだよ。

アホか。ゴータマほどのらりくらりと肝心な事は対機説法やら方便やら無記やらで
はっきり答えなかった師はいなかったろうが。おかげで今の仏教徒の混乱と邪見がある。
末法思想は予言めいたものではなく、初めからそのようになるように意図的に
仏典は書かれ、仏教は広められたんだよ。理由は、詭弁ばっかり達者で、元の教えを
どんどん自分達好みに改変してしまう唯物論的趣向の強い東洋の悪人達に新しい宗教観を
生み出すツールを与え、彼等をヴェーダから切り離し、ヴェーダの教えをを守る為。
ただし巧妙に唯物論的な解釈の邪見を生むように仏典は書かれているが、内容自体に
間違いではなく、見込みのある東洋にもいる救われる人の為に読む人が読めば
邪見することなく、真理の知恵。ヴェーダの正しい知識の得る教科書になるように
うまく仏典は書かれている。仏典にも邪見する者もいるが読む人が読めば、
邪見することもなく正しく理解すると。それはあえて仏典はそのように意図的に書かれて
いるからそのような記述を忍ばせたんだよ。

しかしまぁこれだけわかりやすく書いても「それ」について悟れないわけだ。息子と父の
たとえ話の意味も理解できないようだし、君には智慧の恵みがないようだね。
そういや前に直球ストレートに「それ」について書いてあげたんだが、それでもちんぷんかんぷん
な事を言う人がいてあきれたものだ。智慧の恵みのないものはキリスト教的にいうと
聖霊の恵みの無い人だ。気の毒に思うよ。
0066カラスの唄垢版2016/09/27(火) 14:35:19.30ID:RnVo39Dt
不思議に思うのだが、>>44のように、世の中智慧の欠片もない人が
以外に多いもので、聖典を読んでも文言の通りにしか受け取れない人が結構多い。
たとえば、グノーシス系の文章だが、こういう一文がある。

『イエスは言われた。”人間に食べられる獅子は幸いである。そうすれば獅子は
人間になる。しかし、獅子に喰われる人間は禍いである。そうすれば、人間は獅子になる』
〜トマス

この文章を観て僕なんかはピンときて、これはなにか隠された意味があるなと思い、興味を
引く。普通は皆もそう受け取るだろうと思うのだが、意外と文言のままでしか受け取らずに、
人間が獅子になる?そんなアホな。ゲラゲラ。って人が多い。こう言う智慧の欠片もない
人達はキリスト教的にいうと聖霊の恵みのない人たちなので、まことに気の毒に思う。
キリスト教徒にも多いだろ。新約聖書に書かれている譬えの意味を全く読み解けず
文言のまま受け取って迷信を信じている人が。因みに僕は上のトマスの一文の意味をよく理解している。
0067神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 15:07:10.09ID:jB7MP8wm
あなたの作文は、マジでつまらないです。
クソすぎて、生きてる価値がぜんぜんないと思います。
とにかく、アナクサさんを連れて来てほしいです。
そのあと、好きなだけ高いところにのぼって、あとは重力に任せて自由落下してほしいです。
どうかよろしくお願いします。
0068パーピマン垢版2016/09/27(火) 15:08:19.32ID:niBIjPAR
>この文章を観て僕なんかはピンときて、これはなにか隠された意味があるなと思い、興味を
>引く。

ゲラゲラ。ゲラゲラ。ゲラゲラ。ゲラゲラ。ゲラゲラ。ゲラゲラ。
0069神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 15:10:33.92ID:TvkileoG
>>64
>>44
>他の外道の師達とお釈迦さんが決定的に違うところは、
>そんなあやふやなことを言わなかったところだよ。

これは沙門果経の話じゃないのかな?
父殺しをしてしまいメランコリーでいた阿闍世王が悩みを解決してもらおうと、当時の沙門の代表の六師外道に会って相談するも満足を得る答えがもらえなかった。
そこで最後に仏陀に会ったら沙門の果報について誰よりもハッキリと答えたので阿闍世王は仏陀に帰依したという経典だけど。
仏典だけに仏陀に都合よく書かれている可能性はあるけど、阿闍世王が仏陀に帰依していたのは事実ではあるらしい。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E9%96%80%E6%9E%9C%E7%B5%8C
0070カラスの唄垢版2016/09/27(火) 15:12:07.14ID:RnVo39Dt
真我=ブラフマンは魂ではありませんよ。僕は一度もそういう意味で
真我について語った覚えはない。むしろ我々の魂は真我が生み出したもの。
ゴータマも偉そうにブラフマンを貶していたが、そんなゴータマのエゴもブラフマンの
一部であり、ブラフマンが生み出したもの。ブラフマン本体が肉体と人格を持って
ゴータマと、くっちゃべるはずもなく、ゴータマがバカ梵天と揶揄して話してる相手は、
ブラフマンを自性の性質を持つ永遠不滅のアートマンだと誤謬してブラフマンに始まり
ブラフマンで完結する当時のバラモン教の指導者達の事で間違いない。
常見外道のそんな彼等をゴータマはバカ梵天と揶揄し、仏典ではそう書かれたのでしょう。
一切法無我。ゴータマは一切(現象世界)には自性の性質を持つアートマンはないと言い切った。
その通りでしょう。では一切外については?そこのところは、あるなしの明言を避けた。
無いとはいいきっていない。あくまであるなしの明言を避けた。そこのところをお間違えのないように。
実際「それ」はそのような性質なのだからそのようなスタンスでも間違いじゃない。
まぁそこのところは直球ストレートになぜそうなのかを教えてあげれば済む話で、実際に
阿羅漢となった当時のゴータマの直弟子たちには直球ストレートに語っていたと
思うが、おえて東洋にバッタものの宗教を広める為にあえて邪見を生むようにはぐらかす
ように仏典では書かれたのだろう。その罠に見事嵌っているのが今の末法仏教徒の
姿ってわけさ。
0071カラスの唄垢版2016/09/27(火) 15:38:11.32ID:RnVo39Dt
ブラフマン=真我を、自性の性質を持つ恒常不変、永遠不滅のアートマンだとみる
誤謬は、現代のヒンドゥー、ヨーガ系の人もやっている。でもそれらの誤謬は大した問題ではない。
むしろブラフマン=真我をまるごと否定し、無きものにする末法仏教徒の誤謬の方が深刻だ。
滅びるしかないからね。ま、せいぜい、いずれ迎える死について、完全に自分は無に帰すことを想像しながら
人生を過ごしていけばいいだろう。
0072パーピマン ◆hVgvvzQ7pw 垢版2016/09/27(火) 15:52:08.96ID:niBIjPAR
縁起に干渉を受けない「恒常不変の何か」を受容するのであれば、
バラモン(ヒンドゥー)教で行けばよい だけのことw

釈迦は、「んなもん、ねえ」という立ち位置に立ったからこそ、袂を分かち
仏教が誕生したのに、アホはそこが全く理解できないw

「恒常不変、永遠不滅 の何か」の拒否が、仏教のスタート地点であること
を理解したら?w

仏法は縁起にて候ww
0073カラスの唄垢版2016/09/27(火) 16:14:42.59ID:RnVo39Dt
>>72
だからいつアートマンについてゴータマがそんなものはねぇと言い切ったんだよ。
無いのなら無いとはっきりと言い切れば済む話だが、そうじゃなくあくまで
一切外については無記だろうが。で、いつゴータマはヴェーダを否定したわけ?
むしろスッタニパータではヴェーダの達人と呼ばれても否定していないぞ。
ゴータマはヴェーダを否定したんじゃなく、ヴェーダを正しく教えるヴェーダの
優れた教師とみるのが正見というものだ。

どうしてもヴェーダの流れを汲む他宗教と仏教を別にしたいのはお前のエゴイズム
の成せる業だな。まぁエゴイズムは我々を一つにしないものだ。
邪見を生む最大の因となるのがこのエゴイズムであると。仏典に書いてる通りである。

早く滅びろよ。それがお前の望みだろう。
0074パーピマン ◆hVgvvzQ7pw 垢版2016/09/27(火) 16:22:32.49ID:niBIjPAR
>>73 wwwwwwwwww

釈迦は、経験主義者なのw

⇒「知りえないことは語らない」ww
極めて合理的スタンスねw

Aさんが、「月にウサギは住んでいない」と言ったことがないからといって
Aさんが、「月にウサギが住んでる」ことを支持してることにはならないのww

アホは、ホントにここが分からないwww
0075神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 16:24:19.25ID:hTj4bbh1
パラモンよ。戒めに安住している人は法の湖である。
濁りなく、常に立派な人々から立派な人々に向って賞賛されている。
そこで水浴した、知識に精通している人々、
肢体がまつわられることのない人々は、彼岸に渡る。
真実と法と自制と清浄行、―
これは中道に依るものであり、ブラフマンを体得することである。
バラモンよ。善にして真直ぐな人々を敬え。
その人を、わたしは法に従っている人であると説く。
【「ブッダ 悪魔との対話(サンユタッタ・ニカーヤU)」第7篇第一章第九節17】
http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/?mode=m&;no=596


136 生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。
  行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。
137 わたしは次にこの実例を示すが、これによってわが説示を知れ。
  チャンダーラ族の子で犬殺しのマータンガという人は、世に知られた令名の高い人であった。
138 かれマータンガはまことに得がたい最上の名誉を得た。多くの王族やバラモンたちはかれのところに来て奉仕した。
139 かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、情欲を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。
  (賤しい)生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行なっているのが見られる。
140 ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行っているのが見られる。
141 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。(身分の高い)生れも、
  かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。
【スッタニパータ 第一蛇の章 7、賎しい人】
http://76263383.at.webry.info/201605/article_23.html


現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、ブラフマンとなったアートマンによって住する。
【ディーガ・ニカーヤ】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11118955161
0076カラスの唄垢版2016/09/27(火) 16:54:00.78ID:1MQ5DqjD
>>74
君の言い分だと、ゴータマはヴェーダというか、宗教上最大のテーマである
アートマンについて、何もわからず、答えを持っていなかったとなるな。
仏陀という称号が聞いて呆れる。これじゃ宗教者じゃなく、
単なる哲学者だ。哲学レベルだと、ゴータマと同レベルかむしろゴータマより
優れた哲学者がいるんじゃないのか。つまらん男だ。勿論僕はそうは思っていない。
0077神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 17:47:52.31ID:AY+ysvLH
涅槃は縁起とは無関係、形成されたものでもない。
一言で言えば無為である。
0078神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 19:15:01.48ID:xuNeQSRo
グノーシス系の文章は隠された意味を読むが、
仏典の文章は言葉通りに読む、とw  >>66  馬鹿じゃね?w


仏典も隠された意味を読んでみたらどうだ? ん?



┐(´ー‘)┌
0079神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 19:35:29.34ID:vbd8JZZR
カラスの唄は、私が宗教板を初めて見た約12年くらい前からいて
よく仏教議論スレで、阿呆陀羅経という人と議論していた。
そのときもこんな調子で子供の口喧嘩みたいにやっていた。
関わるだけ無駄でしょう。
スルーするか、論理的にぐうの音も出ないくらいに論破するか。
それ以外だと時間の無駄でしかないでしょうね。
0080神も仏も名無しさん垢版2016/09/27(火) 20:25:01.32ID:agEB7Z7U
なんの文句があるんですか。真理を得たのに。

文句出るってことは違うって自らが証明してるようなもんじゃないですか。
0081パーピマン垢版2016/09/27(火) 22:42:18.66ID:niBIjPAR
>>76
>君の言い分だと、ゴータマはヴェーダというか、宗教上最大のテーマである
> アートマンについて、何もわからず、答えを持っていなかったとなるな。

は?? 「んなもんは、確認できん。 よって、んなもんについて語るのは
アホですよ」  という立派な答えをもってるがなww

>これじゃ宗教者じゃなく、
>単なる哲学者だ。

wwwwwwwwww そうだよ。 まさに卓越した「哲学者」であり、思想家だw
おまえ、もしかして、宗教家は哲学者や思想家よりも偉いとか思ってんのか?ww

釈迦のすごいところは、苦の除去に際して、「無我」という視座を持ち込んだことだよ。
バラモン的世界観が支配的な
当時としては画期的なパラダイムシフトを行ったとこだよww

空中を飛び回ったり、川を一瞬で渡ったり、龍と戦ったり したことじゃねえんだよww
0082宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/28(水) 01:37:27.54ID:013qT0+/
>>61
魔羅(マーラ)、パーピマン、ナムチ...その違いについて。
それはあなたの課題とすべきです。
あなたが調べて、その結果を皆さんに発表されてはどう?

>>63
あなたは、
ゴータマこそが「ブラフマン」と呼ばれていた方であったことを知らないのか?
そして、ブラフマンは人格神に非ず、まして天部などということは在り得ないから。

 『「私(マーガ)はいま梵(Brahma)に遭うことができた。あなたこそ本当に梵(Brahma)と等しい方である。」(Sn.508)
 ここで注意すべきことは、マーガがブッダに対して、ブラフマンに遭えたとか、ブラフマンに等しい 方であるとか言っているの
に、ブッダは何の反応も示されずにその呼称・表現をそのまま受けておられることである。なぜなら、もしブッダがウパニシャッド
のブラフマンを否定されたのであれば自分自身をブラフマンと呼称されることを拒絶され、正しい呼称を教えられたに相違ないから
である。考えるにブッダはブラフマンの存在を認め、したがってアートマンの存在をも同時に認めておられたのではないか。前の例
証のように、ブッダはブラフマンになった人であるから、他の人からブラフマンに等しい方、ブラフマン!と呼称されても当然だと
思っておられたのではないか。かくてブッダの自己とはまさにブラフマン即アートマンのアートマンであったと考えられる。ただこ
れらの2・3例でもって即断することは危険であるが、『スッタニパータ』でこのような表現が伝えられていることは、初期の段階で
は、注目すべき点だといえる。』
(田上太秀著『ブッダの自我と無我について』p46)
http://ci.nii.ac.jp/els/110007018898.pdf?id=ART0008940949&;type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1474991880&cp=
0083パーピマン ◆hVgvvzQ7pw 垢版2016/09/28(水) 02:21:03.34ID:wS8+jpBq
>>82wwwwwwwwwwwwww

しかし、なんという手前勝手な解釈ww

マーガは、バラモンなのw バラモンにとって、最高のものはブラフマンw
だから、それを釈迦に対しての「最高の賞賛の表現」として用いたのw

釈迦はそんなことは百も承知なわけw
そこで、「いえいえ、私はブラフマンなどではありませんよ」なんていうかよ?ww

相手が(最高だと思ってる)賞賛の表現は、下手なチャチャなど入れずに
黙って聞いておくのが大人の対応ww

そのくらいわかれよww
0084宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/28(水) 03:33:20.11ID:013qT0+/
>>83
確かにその通りです。

けれども、
「あなたの私に対する称賛の気持ちは分かるけれども、
しかし、ブラフマンとかアートマンというのは存在しないのだから、
そのような呼称は正しくない」(という南方仏教の間違った伝承見解)とは、決して言わないのか?

ここが、
バラモン教とは異なる仏教における肝心要の違いの筈なんでしょ!
そのことをバラモンたちに教えていくのではなかったのか??
ならば、こここそ重要な教えの機会の筈ですが???

ホントに本当ですか???
0085神も仏も名無しさん垢版2016/09/28(水) 03:38:18.76ID:xCvqQOvl
宗教は奴隷術で教義教典は奴隷化するための飴だ
偉人話も人をひきつける為の漫画のキャラクターみたいなもの
0086神も仏も名無しさん垢版2016/09/28(水) 04:25:38.99ID:bOaPwoPP
 
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0087パーピマン垢版2016/09/28(水) 07:44:19.63ID:wS8+jpBq
>>84
>しかし、ブラフマンとかアートマンというのは存在しないのだから、
>そのような呼称は正しくない」(という南方仏教の間違った伝承見解)とは、決して言わないのか?

まあ、言わんだろうなw
スッタ二パータをみればわかるように、釈迦の基本スタンスは、「論争するな」だよw
これは、くどいほど繰り返し述べられている。

バラモンが、「最高の賞賛の表現」として用いている表現を一々、揚げ足取りのように
指摘して、「それは違いますよ」なんて言わんわw

それは、素晴らしい行いをした人を キリスト教徒が賞賛して
「貴方の行為は、まさに聖人にも劣りません。 父なる神もきっと祝福されることでしょう。」
と言ったことに対して、
「い〜〜〜え、人間に聖人も一般人も区別はありません。全て平等です。そして、
父なる神 などという絶対神も存在しません。」・・・・なんて言うかよ?ww
そういう返答をすることは、まさに「相手の信仰を侮辱する失礼な行為でしょ」?ww

釈迦はマーガに対して、(この世で)施しを受けるに相応しい人物・・・即ち「覚者」について
詳細に説明してるのw それで十分w

一々、他教の崇拝対象取り出して「それは違う」なんて、言うかよ?w

まあ、釈迦が言及するとしたら、マーガが
「ブラフマンとは、恒常不変、永遠不滅 の存在でよろしいのでしょうか?」 と直接的に
問うたときくらいだろう?w

それでも、おそらく釈迦は「わたしはそうは説かない」 って言うくらいだろうw
0088神も仏も名無しさん垢版2016/09/28(水) 11:38:31.70ID:xR+wGvM6
インドは、宗教大国です。
現在でも、
悟りを得るための聖なる科学であるヴェーダが信じられ、
出家修行をする行者がたくさんいます。

バラモン教やヒンドゥー教とも呼ばれますが、
昔から、リシと言われる悟りを得た聖者がたくさん出ている地域です。

クリシュナ(イエスの過去世)、
シルバナンダ(アレキサンダー大王の過去世)、
ヴィシュヌ(大日如来の過去世)、

といった宗教者の教えが編纂され、ヴェーダとして奉じられています。

ヴェーダには、
ブラフマン(神)との一体の境地(ニルバーナ)が説かれています。

仏教とバラモン教の違いを強調する学者が多いのですが、
お釈迦さまは、ヴェーダの達人であり、聖者の中の聖者でありました。

宗教の根は同じだというのが真実なのです。
http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/blog-entry-114.html
0089カラスの唄垢版2016/09/28(水) 11:59:00.90ID:qVpRq80i
>>81
詭弁乙。俺はゴータマはアートマンについてあるなしも含め、それについて明確な答えを
持っていたのか否かを論点にしているのに、そんなものわかかというのが答えだと返ってくる。
こういうのを詭弁っていうんだよ。まぁ君の論旨だと早い話、結局宗教上の最大のテーマで
あるアートマンについて何もわかっていないことになるのでゴータマは宗教上ではなにも悟っていない
凡夫となるわけだ。仏陀の称号を外してくれないかね。

宗教的な真理はある。その証明は他人が出来る類ではなく、自分自身が確認するしjかない。
君が確認できないから皆がそうだと言い切る君はつくづくおめでたい。宗教とは字のごとく
我々はどこから来てどこに帰るべき存在なのか、我々の本当の住まい示す教え。我々は
本当は何者なのか。死という生命の根源的な苦に対する救いの教え。その教えに導く宗教者は、
どうせ死んで終わりの思考上のお遊びに過ぎない哲学者の能書きより価値あるものだと
いうことは、子供でも分かる理屈だぞ。君はそんなことも分からないんだな。残念ながら本物の
宗教家は現代にいる気配がないし、少なくとも末法仏教界には皆無なのは間違いない。

自性の性質のあるアートマンの概念は間違いなく存在する。なぜならお前は必ず死ぬからだ。必ずな。
ゴータマはそれの正体を見抜いた。意味は分かる人だけわかればいい。詭弁ばっかり吐く嘘吐き悪人の
君は早く滅びればいいよ。きっと君は、望み通りの結末を得るだろう。
0090カラスの唄垢版2016/09/28(水) 12:13:56.32ID:qVpRq80i
>>88
無我思想を正しく理解もせず無我無我言うてる末法仏教よりヒンドゥーの方が
はるかに正教に近いですね。まぁ仏教自体がここのバーピマンのように詭弁ばっかり
達者で元の教えをどんどん自分のエゴが満足するように改変してしまう、詭弁を好む悪人達から
ヴェーダを切り離し、ヴェーダを守る為に成立させられたようなものだから、目的には
叶っているのでしょう。一つ言っておきたいのが、巧妙に仏典では邪見を生み出すように
書かれているが、ゴータマの教え自体は間違いない。ブラフマンを恒常不変、永遠不滅のアートマン
とみるのは間違いだ。キリスト教のイエスの復活物語も譬えでね。イエスは土曜日に葬られた。
安息日の絡む本当の復活とは今のキリスト教徒の考えてるようなものじゃない。
イエスの教えは不二一元のヴェータンダ。神との一体化を果たしたイエスは
ヨーガの成就者の一人で間違いない。ヒンドゥーの真我思想と仏教の涅槃。そして
キリスト教の復活思想を正しく理解しこれらヴェーダの流れを汲む教えを矛盾なく統合すれば、正教は
示されるでしょう。まぁそれがグノーシスになるわけですがね。ここの唯物末法仏教徒には
関係ない話ですがね。
0091カラスの唄垢版2016/09/28(水) 12:19:32.31ID:qVpRq80i
>>87
詭弁乙。お前は本当に詭弁ばっかりだな。
まともな感性がある人なら、宝珠氏の見解の方が自然で無理がなく、
お前の見解はどうみても不自然で無理があると感じるだろうよ。
まぁエゴによって得意の詭弁で曲解しては、無理にでも自分好みの
解釈をして邪見を生み出すお前は、いかにして邪見は生まれるかのいいサンプルだよ。

早く滅びろよ。
0092カラスの唄垢版2016/09/28(水) 12:21:47.98ID:qVpRq80i
ここのバーピマンの詭弁を聞いてると、原発村の御用学者の詭弁を聞いてるようだな。
きっと同じような人種なんだろう。邪悪だ。
0093神も仏も名無しさん垢版2016/09/28(水) 12:24:30.99ID:1v0H+I6L
自性がないから死ぬ。
永遠不滅のアートマンなら死なない。

永遠不滅のアートマンなどどこを探してもないのは、はっきりしていること。
あなたは死なない人を見たことがあるか?
0094カラスの唄垢版2016/09/28(水) 12:34:33.97ID:qVpRq80i
>>93
な、この人を見ても智慧がないだろ。こういう人はトマスの福音のように、
「明らかに」宗教上の譬えで書かれた文章を読んでも譬えですら気付かずに、文言のままでしか
解釈できないのだろう。

僕は豚に真珠は投げない。

悪いけど、僕は君らの教師になるつもりはないのであしからず。
0095神も仏も名無しさん垢版2016/09/28(水) 12:37:24.64ID:1v0H+I6L
もし知恵があるなら、自性があるから必ず死ぬなんて、とんちんかんなことは言わない。
0096カラスの唄垢版2016/09/28(水) 12:40:47.35ID:qVpRq80i
>>95
┐(´ー‘)┌ 

ま、がんばれよ。落ち。
0097パーピマン垢版2016/09/28(水) 14:24:07.50ID:wS8+jpBq
 また、「詭弁鳥」 が鳴いてるw

「きべん〜〜、きべん〜〜」

wwwwwwwwwwww
0098神も仏も名無しさん垢版2016/09/28(水) 16:07:50.65ID:/BV+B3wH
かあかあは、自己陶酔の悟り、いや佐鳥かw得ているかもな。
かあかあの自己陶酔オナニーに反するものは悟っていない、お前の教師にならない、とか
自己陶酔オナニーで今日もはてましたw
0100宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/29(木) 02:22:28.42ID:Y4vpa3gk
>>87
もしも、
“ブラフマン=アートマンなる恒常不滅な存在はどこにもない”
という見解がバラモン教との決定的な違いであり、これこそが仏教独自の縁起の法である。
これが唯一なる真理(法ダンマ)なのだ。
〜というのが、ゴータマの持つ熱き想いであったのならば、
実際、その場を見ることができないので本当のところは分かりませんけれど、
私は、ブラフマンと呼称して自分のことを称賛しているバラモンに対し、
ただ静かにそのまま黙すだけというのは想定し難いような気がします。

元々、周囲からの称賛にはまったく関心がないゴータマです。
「そのお気持ちはとても嬉しいことなのですが...」と、相手の好意に対してちゃんと礼を示してから、
「私はブラフマンなどではありませんよ(何故ならば〜)」といって話をされたのではないか? と。
よって、そのままお受けしているという姿勢は、
元々、ゴータマは梵我一如そのものに対しては否定などしておらず、その意を了解していたのではないか? ということ。
つまり、自らはアートマンを説き示す手法は採らなかったが、
非我(それらはアートマンではない)の姿勢のその奥にあった本当の真意としては、
“真実のアートマンを見だした完成の境地(梵我一如)”があることについてはご存じだったことを示すものではないか、と。

ただし、
パーピマンの見解についてはあり得ることとして
可能性としては、私も了解しておくこととします。
0101宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/29(木) 02:24:03.31ID:Y4vpa3gk
>>88
云わんとする事柄(趣旨)には賛同するけれども...

>クリシュナ(イエスの過去世)、
>シルバナンダ(アレキサンダー大王の過去世)、
>ヴィシュヌ(大日如来の過去世)、

どうもこういうところが、
いったい何処からのチャネリング情報なのか...まったくのデタラメ。
大日如来というのは人格神的な表現を用いてるだけで、
ブラフマン、ヤハウェ(主)、ロゴス...と、殆ど同様の意味合いです。
そういう意味においては、ヴィシュヌでも変わりありません。
しかし、大日如来の過去世などという発言は在り得ないので辞めた方がいい。

そして、
参考までに神智学の観点から述べると、クリシュナはイエスの過去世ではありません。
イエスを通して働かれた存在であるキリストの過去の媒体(イエス以前、イエス同様にオーバーシャドウした別人格)です。
その方(キリスト)の個人名をマイトレーヤという。
つまり、ブッダが予言されて今も待望されている方です。

 『到るところに、法の衰退と無法の出現があるときはいつでも、わたしはわたし自身を顕す。正しき者たち
の救済のために、悪事を働くような者たちの撲滅のために、神の法のしっかりとした確立のために、わたしは、
時代から時代へと、出現する。』(バガヴァッド・ギータ第4章7-8節)
http://houjugusya.web.fc2.com/world5.htm
0102神も仏も名無しさん垢版2016/09/29(木) 03:22:57.46ID:ZpPs3bYa
帝釈所問経(サッカパンハ・スッタンタ)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%87%88%E6%89%80%E5%95%8F%E7%B5%8C

第三章

このように聞いて、帝釈天(サッカ)は、感謝して応えた。

「世尊よ、まさに、その通りで御座います。
尊師の回答を聞いて、私の疑念は消えました。
私の胸に刺さった、疑の矢は抜き取られました。」

「その昔、神々と修羅の戦争がありました。
その戦争に於いて、我々は修羅に勝ちました。
世尊よ、今の喜びは、その時の喜びと同じです。」

「しかし、決定的に、異なる所があります。
戦争に撃ち勝つ喜びは、欲に塗れる欲ですが、
疑念に打ち克った喜びは、欲を越える欲でした。」

「世尊よ、神々が、梵天を尊敬するように、
我々は、世尊を、尊敬して、帰依し奉ります。
あなたは、この三界を通して、最も尊い方です。

かの尊師、応供である、仏陀に帰依し奉ります。
かの尊師、応供である、仏陀に帰依し奉ります。
かの尊師、応供である、仏陀に帰依し奉ります。」

それから、帝釈天は、パンチャシカに、言った。

「パンチャシカよ、良くぞ、助けてくれた。
汝の掛け渡しにより、私は仏陀に巡り会えた。
私の掛け渡しによって、汝を彼女に引き会そう。」

このとき、帝釈天には、真理の眼が生じた。
そして、神々の王(帝釈天)が、世の無常を悟ったため、
他の八万の神々に、真理の芽が生じたのである。
0103神も仏も名無しさん垢版2016/09/29(木) 03:43:58.56ID:YaGIPgjy
いくら想像しても推測しても、
俗世間でしてることしてる限り真理をみることはない。

まぁ真理を本当の意味で知りたくないのなら話しは別ですが(笑)
0104神も仏も名無しさん垢版2016/09/29(木) 05:32:07.67ID:QJOpWk28
>>103
真理ってなんですかね?
本当のことみたいな意味ですか?
0105神も仏も名無しさん垢版2016/09/29(木) 07:48:11.48ID:YaGIPgjy
>>104
だから決して普段通りに、今まで通りに生きてても気づきえないほど
微妙なことなんでしょう。
人に聞いて分かることでもないんでしょう。

ありきたりなこと言えばこれといいきることのできるものはこの世にはないって言われてますよね。
諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 ですよね。

俗世間の人はまぼろしを見て生きてるようなもんだとか言われてますよね。
自分で知る以外、道はないですよ。
0106神も仏も名無しさん垢版2016/09/29(木) 09:08:49.52ID:X4i37X21
パーーーピーマンの発言はひどいねwww >>68.>>81.>>97
 
こいつは軽蔑に値するw
0107パーピマン ◆hVgvvzQ7pw 垢版2016/09/29(木) 09:18:54.60ID:vTUtjZ5k
「霊魂があああ」

「精霊がああああ」

「龍神がああああああ」

wwwwwwwww

変な宗教に嵌ると、頭やられちゃうんだねw

いやだなあw     気持ち悪いなあw   龍神に食われちゃえばいいのになあwww
0108神も仏も名無しさん垢版2016/09/29(木) 09:46:45.21ID:goAC3rY4
パーリ中部ヴァッチャ三明経(テーヴッジャヴァッチャ・スッタ)

第二章

ヴァッチャは、仏陀に対し、このように尋ねた。

「ゴータマよ、仏陀の、在家の信者の中で、
在家の束縛を切らず、涅槃に赴く者が居るか。」
「在家に居て、涅槃に赴く者は、一人も居ない。」

「ゴータマよ、仏陀の、在家の信者の中で、
在家の束縛を切らず、天界に赴く者が居るか。」
「在家に居て、天界に赴く者は、五百を越える。」

「ゴータマよ、異教の、外道の信者の中で、
外道の束縛を切らず、涅槃に赴く者が居るか。」
「外道に居て、涅槃に赴く者は、一人も居ない。」

「ゴータマよ、異教の、外道の信者の中で、
外道の束縛を切らず、天界に赴く者が居るか。」
「外道に居て、天界に赴く者は、一人だけ居た。」

「ゴータマよ、それでは、その異教の法は、
天界に至るまでは、正しいと言えるのですか。」
「ヴァッチャよ、その法は、天界までは正しい。」

これを聞いた、ヴァッチャは、歓喜し実践した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

さて、このヴァッチャとゴータマの問答の中で、異教の外道とはどの教えのことを言うのだろうか?
六師外道の終えは異教の外道であろう。

問題となるのはバラモン教である。
実はバラモン教の神々の中で天界に達したのは梵天ただ一人で、帝釈天他は欲界の神である。
しかも梵天は色界では最下位の神、つまり色界にようやく辿り着けたという存在となっている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E7%95%8C

このことが象徴しているように、外道に居て天界に赴いたただ一人の者はバラモン教徒だったのかもしれない。
バラモン教では解脱成仏して涅槃に赴くことはできないが、天界までは至れるということなのではないか?
0110宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/29(木) 19:13:11.62ID:Y4vpa3gk
>>100
追記:

ゴータマが、
論争を意図的に避ける方であったというのは確かなことでしょうけれど、
しかし、このような場合には論争どころか、寧ろ対話する絶好のタイミングであったといえると思います。
ゴータマのことをブラフマンと呼ぶということは、その方はゴータマに最高の尊敬を示しているということです。
そのような想いの人が、突然、掌を返したように憤慨し始めるとは思えません。
相手に間違いを示して教えてあげるタイミングとしては、まったく申し分ないでしょう。
相手はゴータマに、これ以上ないくらい最も心を開いている状態なのですから。
でなければ、数々のバラモンとの対話と説法の経文がありますが、
とてもじゃないが、相手の間違いを諭すような教えは話せないということになってしまいます。

まっ、私の率直な感覚ですけれど・・・。


>>101
このリンクのサイト主というのは、
どうやら『幸福の科学』に入信してる仏教僧侶ということらしい・・・。

ということは、
このチャネリング的な情報元は大川先生からということなのか?
とすると、なんと東大出でありながら大日如来の過去世、云々...
などと、こんな残念なことしかいえない方なのですね。
0111宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/09/29(木) 19:26:17.02ID:Y4vpa3gk
>>108
ウーーム。こんなんじゃ〜
南方仏教の上座部はもうダメダメですね・・・。

つまり、上座部はとても大切なものを失った...。
神(主)の存在を知らず、そして、間違った無我の理解を固執し続けてきた。
部派時代以降〜二千年もの永き年月に渡って継承してきたその致命的な欠陥によって、
生ける一切智者(如来)をサンガからは輩出できなくなった(のではないか?)...。

そのような意味では、
寧ろヒンドゥー化したともいわれる大乗側の方こそが、
最も大切なものを守り、そして、信仰し続けてきたともいえる...。
大乗の説く、「仏性」や「如来蔵」の概念と教えはあまりにも尊いものです。
0112釈尊は引き籠り、慧能は夜逃げした。垢版2016/09/29(木) 20:41:04.71ID:KqzUCrem
悟り体験を知っている人が悟り体験を知らない人に
いくらそれを諭してみた所で
意味は分から無いでしょう

意味の分から無い人を相手に
意味の分から無い事を語るのは
きっと正語から外れていると思う

それに真面目な人間は
悟り体験によって聊かの世界の理を知った所で
それを「神」などといういい加減な憶測を
招きかねない言い表し方は避けるだろう
0113神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 01:10:43.51ID:n3NsNv0c
私はヒンドゥー教のことはあまり詳しくはない、と前置きした上で…

梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)というのはたぶん宇宙の真理に言葉(名称)をつけたもの…

仏教の諸行無常、諸法無我(諸法非我)、諸法空相、諸法実相、無相、第一義諦、法性、法身、法界、etc…
これらも指しているものは梵と同じく宇宙の真理だと思う。

真我というのがアートマンではなく梵だったら真我も同じく宇宙の真理を指しているのだと思う。
要は密教でいう大日如来が真我=梵ということで、本当はこれらは真理なので言葉はないんだけど、
便宜上付けた名称が梵、真我、諸行無常、諸法無我(諸法非我)、諸法空相、諸法実相、無相、第一義諦、法性、法身、法界、大日如来、
そして仏性や如来蔵などなのではなかな、と。

だから、般若心経の色即是空空即是色とバラモン教の梵我一如やヒンドゥー教の不二一元論は同じことを説いていると思う。
我の有無は私的にはそんなに大事なことだとは思わない(ここが仏教とバラモン教を分ける大事な個所とする人が圧倒的みたいですが)。
我=エゴとすれば過分な我は捨てたほうがいい場合が多いだろうし、
我が儘(身勝手)の我も過分な我として捨てた方がいい場合が多いのでしょうけど…。


<知恵袋>
アートマン思想について分かりやすく教えて下さい。また、真我と無我は対義的な意味ですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1220202117
0114神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 07:07:47.03ID:Ccpo10Cx
ブラフマンとかアートマンて、要するに世界と自己のことやね
それが一つなんで、フニなんね
どこで一つかとゆーと意識ね
つまり意識が真我なんだよね
それに対して色即是空は、空なんよね
意識ですらないんよ
五蘊とかのなきところなわけで、それをヒンドゥーではアートマンとか真我とかゆってるんだけど、そこが大問題
とゆーか、ズレる
つまりその、大宇宙と自己の同一のなかで、苦しんでるんだよね
なぜなら、そこは、まだ知らねーとゆー境地ではないんだね
離れちゃってるのさ
色即是空空即是色になると、ここで、こーあるところに、収まる。
離れないのさ
0115神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 09:44:56.64ID:rSsy9Bxi
色即是空空即是色
は本来は六波羅蜜を実践して最後の般若波羅蜜で
般若波羅蜜多(智慧の完全なる完全)に達した人が正見するものなんだよね
その般若波羅蜜多の方法がギャーテイギャーテイのマントラ瞑想なわけで

無我も同じ
「諸法無我であることを明らかな智慧を持って観ると人は苦しみから〜」或いは
「無常なるものは苦であり苦であるものは無我であると観る」と観るということが必要なんであって
これが観れない人は悟れてないのさ
言葉ではいくらでも五蘊は空であるとか
色は無常でおり無常であるものは苦であり苦なるものは無我であるとか理解できたとしてもね

宇宙を支配する法則と個人を支配する法則が同じ
というのは当たり前ですぐに理解できる
と簡単に言っちゃうのと同じようにね
0116神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 09:53:52.46ID:XBNPbmhw
 
自分で体験しもしないことを、あーだこーだ言っても無意味だよ
 
つべこべ言う前に自分で体験してからにしよう
 
0117神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 09:57:30.25ID:jpOhAfpe
新生しろよ
0118神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 10:05:50.15ID:XBNPbmhw
悟りは屁理屈じゃないんだね
 
だから宗教書をいくら読んでもわからない。
 
神と出会い、自分と出会わなければ、
 
決して真実を語れない。 
0120神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 11:25:53.92ID:XBNPbmhw
>>119
在家が悟れない根拠は何だろう? 
経典にそう書いてあるからでは、理由にならないと思う。
(中村元訳『ブッダのことば』Sn.267の註を参照)
0121神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 11:32:51.07ID:2Js/gTgB
水の中で水は見えず
0122神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 11:39:10.44ID:XBNPbmhw
>宇宙を支配する法則と個人を支配する法則が同じ
 
これがヒンドゥー教の根本的誤りだね。
ブラフマンを想定しなければ、ただの唯物論と何も変わりない。
プルシャは見てるだけだから存在しないのと同じ。
0123神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 11:47:35.24ID:2Js/gTgB
出家あっての悟り
0124神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 11:59:37.43ID:XBNPbmhw
悟りが目的で、出家は手段、それも誤った手段なんだね。
世間の中で苦労するのが正道だと思う。
出家は逃げであり、悟りを遠ざけてしまうことになる。
今の坊さんは全員、悟ってないと見ていいだろう。
 
釈尊は別に出家してないね。
人里離れた場所で、ひとり修行に励んだだけじゃないかな。
当時は教団などなかったのだから。
もっともこの話には、在家、出家の定義が必要だね。
0125神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:00:10.24ID:2Js/gTgB
意味から入れよ
0126神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:07:29.67ID:6E/grAby
>>120
中村元のような何の体験もないく頭で整理するだけの一学者の注釈は参考意見程度にとどめておくこと
間違ってもそれを根拠にしてはならない

また仏典では初めて在家で涅槃に入り阿羅漢果を得たのはサヤという長者の息子であるが
阿羅漢になった後は再び欲にまみれた在家で暮らすのは無理と釈迦に言われて出家している

在家であり続けることととニルヴァーナに居ることは両立しないのだよ
仏典によればね
0127神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:10:27.04ID:6E/grAby
>>124
出家を志した時から父や養母や妻から思いとどまるように懇願されてるだろ
0128神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:14:05.05ID:2Js/gTgB
意味から入れよ(形ではなく)。
0129神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:19:51.50ID:XBNPbmhw
>>126
わたしは在家で悟り、そのまま在家の生活を続けている。
幸い運に恵まれ、働かなくても生活できるけどね。
 
今の日本では、インドと違って乞食が法律で禁止されている。
経済的に、出家と言ったら寺に居るしかない。
しかし、寺はある意味温室であり、悟りを遠ざける場所だと思う。
0130神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:28:12.21ID:jpOhAfpe
瑞巌寺
0131神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:30:52.58ID:jpOhAfpe
在家の悟りなどない。呼称を変えなさい。
0132神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:31:12.95ID:6E/grAby
>>129
そうですか、嘘つきには用はありません
それでは!
0133神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:33:52.20ID:XBNPbmhw
悟った者は、世間にいるといいように利用されるね。
だからニルヴァーナと両立しないのだろう。
でも不思議なことに、親切にしてくれる人が必ず現われる。
 
そして、ほんの少しだけ先のことが見えるようになる。
あるいはたまたま物事がいい方向に動いてくれるようになる。
そんな偶然の積み重ねで生きていられるのかもしれない。
0134神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:35:15.26ID:jpOhAfpe
慈覚大師、自覚の大師
0135神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:43:59.75ID:jpOhAfpe
十字架あっての復活
0136神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:46:28.60ID:jpOhAfpe
同様に 悟りだけを求めるような都合のよい者、道理を知らぬ者がいかに多いことか。
0137神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 12:54:05.34ID:2Js/gTgB
かの家康公も晩年に威光のみを求めるという愚行をおかしたのだが。
0138神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 13:02:05.04ID:2Js/gTgB
出家あっての悟り
0139カラスの唄垢版2016/09/30(金) 14:43:23.01ID:p2GShLe5
ブラフマンと涅槃セットで悟りなのにブラフマンを省いて涅槃しか語れない
半知半解の末法仏教がブラフマンをテーマにするヒンドゥーを見下すなんて観ていて
滑稽だな。闇は光があるから認識でき、無は有があるから認識でき、死は生が
あるから認識できる。ブラフマンを省いたらそこには何も残らんぞ。ブラフマンを省いた
教えは、死んだら終わりの只の唯物論。ゴータマは生老病死という生命の根源的な苦の滅
の教えを広めた。ところが末法仏教徒達は中間の場所の意味も知らずに
死で完結する教えを説いて回っている。これだと苦で完結することになる。
末法仏教の教えを忠実に守れば完全に滅びることが出来るだろう。
今の生が終われば自分は完全に無に帰す事になるだろう。完全にな。
キリスト教では完全に滅びるこの死の事を第二の死と呼んでな。この事を
真に恐れなさいと説く。全てを失ってからでは何もかも手遅れだ。まぁ自分が完全に
消滅する事を想像してみればいい。元気な内は意味も分からず中道だ空だと
哲学的な悟りに過ぎない能書き垂れても、実際に死を目の前にすると、そこに何の救いも無いことに
気付くだろう。残るのは絶望のみ。仏教自体東洋の悪人からヴェーダを切り離し、
ヴェーダの教えを改変されることなく守り、救いの見込みどころか、救われる人々の
足を悪意で躓かせ、真の教えに唾を吐きかけ、どんどん自分達好みに改変してしまうような
悪人達は正教が示される次の時代を迎えるにあたり、その前にゲヘナの火に
焼かれて完全に滅んでしまえばいいだろう。一部の末法仏教徒達は、完全な滅びを
目指しているようなのでそれでいいのだろう。早く滅びろよ。
教えを
0140カラスの唄垢版2016/09/30(金) 15:44:38.68ID:p2GShLe5
末法仏教徒にも見込みのある人はいる。末法仏教の教えだと、
なぜゴータマがしつこいくらいに説いた道徳的な教えが必要なのか
合理的に矛盾なく説明できないが、なぜかその教えにピンとくるものがあり
本能的に道徳は大切なものだ。それを守れない自分に罪悪感を感じるような
人は光に属する者だ。少しでも聞く耳があるならば、君らは一旦
末法仏教の教えを捨て、ヴェーダ起源の他の宗派の教えも学んだ
方がいいだろう。君らが目指すは涅槃で完結する教えではなく、真我だよ。
ブラフマンを正しく理解すれば無我思想の仏法ともなんら矛盾することはないし、
なぜゴータマ等の本物の宗教家達は口を酸っぱくするほどに道徳を説くのか理解する。
ゴータマ自身は別にヴェーダもブラフマンも否定していない。寧ろヴェーダの達人、
本物のブラフマンと呼ばれてそれを了としている。ただ現代にも通じる当時の
涅槃を知らず、ブラフマンで始まりブラフマンで終わる、
ブラフマンを自性の性質を持つアートマンだと教えるバラモン教の教えを批判しただけなんだ。
だがそれらの誤謬は大したことはない。深刻なのは無我思想を正しく理解せず
他宗派と差別化を図り、自分達の教えの方が優れているんだというエゴイズムうからブラフマンを
無きものにしてしまった末法仏教の方だろ。ブラフマンを省けば死しか残らない。
まぁ、道徳をはなから否定し、それどころか本能的に忌み嫌い、善悪など本当はないのだ。
そんなものに囚われるから人は苦しむのだ。自由奔放に生きよ。これが涅槃静寂。などと邪見の
見本のような教えを愛する悪人は救いようが無いので早く滅びればいいだろう。
末法仏教はそんな君らの為に用意されているんだからね。

道徳の完成こそが我々を真理に導く。八正道も突き詰めればその道である。
獣はエゴイズムのまま生きる。そこに善悪の道徳心などない。彼等はエゴイズムの
奴隷である。このエゴイズムに逆らって生きる道を選択できるのが言葉で思考できる
人間だけである。エゴイズムに忠実な道徳心の無い者は獣と変わらない。人間の姿をしていても、
そう言う人達の事をキリスト教ではゴイムと呼ぶ。
0141神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 15:46:41.94ID:jpOhAfpe
頑張れよ
0142神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 17:36:21.97ID:XBNPbmhw
在家であっても悟ることができる
 
なぜなら、欲望を【根こそぎ】にするのに、ややこしい仏教の教学など
いっさい不要だからだ。欲望がなぜダメなのかが洞察できれば、
その気づきだけで欲望を一瞬に【根こそぎ】にできる。
 
釈尊は36歳で成道している。欲望や煩悩を根性で制御したのではない。
欲望や煩悩を一瞬のうちに消滅させたのだ。
でもそこに至るまでが大変だった。ちなみに釈尊は家庭内孤児だった。
0143神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 17:59:17.79ID:XBNPbmhw
真のアルハット(阿羅漢)は出家を望まない
 
欲望や煩悩に勝った、勝利者アルハットはもはや死にたいとは願わない。
神(聖霊)に出会い、自分(霊魂)に出会うことで、
神が何を望んでいるのかを知るからだ。
 
われわれ人間は、この地上に舞い降りた神の戦士なのである。
出家して、おとなしく死を待つばかりの泥人形じゃない。
死を賭して世の不正と戦おうじゃないか。
 
宇宙を生命で溢れさせること、それが神の意志であり、
それが神の道徳だwww
0144神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 18:00:32.11ID:EUcWYNW/
十字架あっての復活
0145神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 18:22:05.04ID:XBNPbmhw
わたしはいろいろな神秘体験をしている。
しかしなぜか、イエスの姿も声も、見てもないし聞いてもない。
イエスも釈尊もムハンマドも、神秘体験には無関係だ。
 
こういった人たちは人間であって、神ではないと言うことだろう。
人間を神にするような宗教は全部インチキなんだと思うよ。
0146神も仏も名無しさん垢版2016/09/30(金) 18:23:07.83ID:UYhGv/M7
145シコシコラブ
0147カラスの唄垢版2016/09/30(金) 21:57:32.81ID:43naHVh8
龍神かなんか知らんけど、2chの宗教板はメンヘラのある板と同一にあるので、メンヘラが大量に流れ込んでいるけど、
精神に病を持つ者は宗教に救いを求めるんじゃなく、精神の病をまず治す
ことに専念した方がいいよ。他人の心を傷つける者は自分自身の心を傷つけている。
当然その報いは受ける。真我を正しく理解すると、業報はなぜ生じるかも
理解する。真理は健全な精神にしか宿らない。残念ながら日本では患者を
薬付けにして薬無しでは生きられない中毒患者にして
患者をリピーター客にして儲けることしか頭に無いようだけどね。やってる事が、
道徳心の欠ける、いかにもゴイムらしい。どの道宗教に救いを求めても
病状はさらに悪化するだけだし、羊の皮を被った自称宗教家に食い物にされるだけだよ。
0149宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/10/01(土) 03:07:46.47ID:azK5I+PT
>>109
これも>>88同様...
この六つの存在についてそれぞれ分かってるのか?
もしも、本当にちゃんと分かってたのなら、普通はこういう書き方はしない筈なんだけれど・・・。
この中では精々、「大日如来=ロゴス」くらいしか使えない。
また、「ナザレ」についてもその意味を分かってるのか?
ただ単に、イスラエルの地名としてならば10点位しか上げられないなぁ。

>>113
とてもいい意見だったと思います。

>宇宙の真理に言葉(名称)をつけたもの…

ただし、
単なる真理法則のことを指すのではなくて、
そこには「意志」というものを見なければならないと思います。
明確で大いなる意志の元にこれらの法則は作用してる、と。

>>114
では、私が簡潔に述べておきます。

縁起空の及ばない境地がニルヴァーナであり、
そのニルヴァーナにあることを覚知している
(つまり、自覚している)意識がアートマン(真我)ということ。
そして、無常なる縁起空の世界には実在といえるものは何一つない。
そのことをヒンドゥーでは、マーヤー(幻影)といっている。
「アートマン(真我)」 こそが“唯一なる実在”と呼ばれている。
0150神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 03:25:27.42ID:Nx3m+KSu
イエスも釈尊もムハンマドも道の象徴
 
0151神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 04:09:37.96ID:2edsLHyU
>>147
>>149
メンヘラが宗教版に大量に流れ込んでくる、とありますが
入信者にメンヘラの方も多くいたりとかはありませんか?

メンヘラの特徴・・・



メールやLINEなどの返信が無いと催促したり、
何度も連続で送信したりと、
相手の都合や時間などを気にせずに催促したりキレだしたりする。

相手からの返事が無いと嫌われたと思い自傷行為をする者も多い。
手首を切った写真を相手に送りつけたりもする。

恋人の時間を独占したがり、1日中べったりしていないと気がすまない。
相手のスケジュールなどを完全に把握していないと気がすまなく、
異常な嫉妬心があり、
恋人が異性と話しをするだけでキレだしたり思い余って自傷行為をしたり、
場所や時間や人の多さなど問わずに大声で泣き出したりする。

異常に依存度が高く、携帯電話やSNSなどに依存している。
恋人が出来ると恋人に異常に依存して、
恋人がかまってくれないと嫌われたと思い自傷行為をしてしまう。

ちょっとしたことで『死にたい。』
と口に出して自傷行為をほのめかす言動をとってしまう。

最後にメンヘラは感染します。

メンヘラの恋人や友人がいる人は感染には十分に注意して下さい。
気付いた時にはあなたも立派なメンヘラになってるってことも良くあることです。
0152神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 04:23:06.60ID:2edsLHyU
https://welq.jp/6486

メンへラとは”心が病んでいるような人”の事で、
よく2ちゃんねるのメンタルヘルス版(心の健康についての専門的な情報交換をする場所)
にいるような人たちの事を言います。

彼らは他の人よりもちょっと個性的で、
周りの人から見ると「この人ちょっと変わっている。病んでる?」と思われがちなのが特徴です。
基本的に自己中心的な彼らは「他の人から愛されたい、自分の存在を認められたい!」という気持ちが人一倍強く、
相手からの反応が満足いくものでなければ極度に落ち込み
「ここで死んでやる!」など脅迫じみた事などを言って周りの人を悩ます所があるようです。

彼らのこのような行動は、心が病んでいるように見えるので、
精神病患者と同じに思われる事もあるのですが、
メンへラの人たちは精神病患者とは少し違います。

精神病患者とは、
先天的遺伝であったり社会生活の中で積み重なったストレスなどが原因で発症します。
精神病を引き起こす原因は、ほとんどの場合は”脳内物質の不均衡”が原因です。

一方メンへラは、どちらかというと”パーソナリティ障害”に近くその人の人格に少し問題があると考えられ、
一概に病人扱いしても良いのかどうか議論されています。
人格は人それぞれ違うのは当たり前です。
人よりもちょっとユニークで変わっているだけで「この人病気だ、治療した方が良い。」
なんて決めつけるのは難しいですよね。

ただ、このようなメンへラの人たちは他の人たちよりも
心に病みの部分を持っている事が多く、結果的に社会適応が難しくなり、
精神病のような症状を発症する可能性は高いそうです。

このレベルまで行くとただの”ちょっと病んでる人”ではなく”
正真正銘の精神病患者で治療も必要”と見なされるそうです。
0153神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 04:46:53.77ID:2edsLHyU
宗教版なのですが、メンヘラが大量にいるのではないかという
ご指摘に、なるほどそうなんだしかし、なんとかならないものかと
一年弱の宗教版体験で感じているところです。

もうめちゃくちゃだなとおもうこともしばしばでしたし、
個性の違いとか意見の違いとかそういうことではない。

それと、宗教入信者でそういう方がいるのですが、
自分は救われているが、教会で告白していない者は救われていないとか
何がしたいのかさっぱりだったり。。。

宗教版が長い方々とお見受けいたします。
仏教のスレでスレ主さんがしっかりされているのか、
意見を述べることが出来る方がおられるとわかり、書かせていただきました。
0154神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 09:11:01.33ID:CI/eF7SH
>>149
それは素晴らしい!
その自覚しているアートマンは意識なのだよw
ニルヴァーナを自覚しているのも、ブラフマンを自覚しているのも意識なのだよね
わかるかいな
そして、そこでヒンドゥーさんは、このニルヴァーナのほうに存在をきていしているのでありまふよ
なきにしもあらず
ないのよね
ないの
0155神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 09:16:32.42ID:CI/eF7SH
意識の側からすれば、ないとゆーことがあるわけだねw
言葉にすると変だけどさ
なきとゆーのは、ほんまにないのよね
だから空に色即是空だしょ
機体を認めるか認めないかの違い
まあ真我の立ち位置なんてないのさ
いつも真我だからねww
0156神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 09:27:59.94ID:b/U1isuo
>>149
>そして、無常なる縁起空の世界には実在といえるものは何一つない。
>そのことをヒンドゥーでは、マーヤー(幻影)といっている。
 
腹を切ったら鮮血が噴き出すが、これは現実なのか幻影なのか?
幻影だと言って放置したら、じきに死んでしまうよね。
0157パーピマン垢版2016/10/01(土) 09:53:31.08ID:n4wjtzsV
なるほど、 メンへラになると

「龍神くん とお話するようになってしまう」 わけですねw

いやだなあw  気持ち悪いなあw  龍神に食われちゃえばいいのになあwww
0158神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 10:20:07.99ID:b/U1isuo
神ブラフマンからこの宇宙が展開する。
この正体不明な神が存在しなければ、ヒンドゥー教は唯物論でしかない。
 
サーンキャ哲学は、プラクリティ(物質原理)を設定する。
ここから宇宙が展開するわけだからブラフマンと同じ意味合いなのだが、
サーンキャ哲学は無神論であり、唯物論なんだね。
順序的には、サーンキャ哲学がヒンドゥー教思想に影響を与えている。
 
ところで、ブラフマンは聖書の創造神と似たような位置づけにある。
従ってここでも、正体不明な創造神が存在しなければ、
聖書に基づく宗教はすべて唯物論になる。別の言い方をすれば、
ヒンドゥー教も聖書に基づく宗教も、唯物論ときわめて相性がいい。
0159パーピマン ◆hVgvvzQ7pw 垢版2016/10/01(土) 10:23:31.20ID:n4wjtzsV
え〜〜〜〜とですねw   ID:b/U1isuo  が、

そのメンへラくんですので、このスレの良い子は、触らないように
してくださいねw

(キチ外の妄想でスレ消費されたのでは、たまらんwww)
0160神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 10:38:59.08ID:b/U1isuo
パーーーピーマンは哲板に行け。
哲板で唯物弁証法をやれ。
悪いことは言わない、その方が早く悟れる。
 
宗教板に粘着していても、精神を病むだけだぞw
0161カラスの唄垢版2016/10/01(土) 10:40:01.76ID:vAebNOTd
>>152
メンヘラの解説どうもです。メンヘラと精神病とは少し違う
ということですが、宗教板にはメンヘラ板から精神病患者の方も随分と
出張ってきているのは確かです。メンヘラの解説をざっと
みましたが、彼等のメンヘラたる原因は恋愛相手などの執着が最たるもののようですね。
仏教ではこの世のものへの執着から離れよと説くのですが、なぜそれがよくないのか?
大まかにいうと、それらの執着がこの世への未練となり、再び生老病死を繰り返す
苦しみでしかない、迷いの生存へと業報輪廻転生する因となるからです。
だがもっと重要なのは、それらの執着はエゴイズムを生み、エゴイズムは私と貴方を
分かつ、エゴ(自我)を生み出し、エゴは繰り返し我々を殺していると僕は説きましょう。
この私と貴方を分かつエゴを再び造り出さない事が本来唯一絶対の神に似せて
造られた本来は一である本当の自己を取り戻す道となるのです。
一を認識した者は仏教徒達が涅槃と呼ぶ安息日を知る事になるでしょう。
有があるから無を認識できるのですよ。末法仏教徒はそこのところが全く理解できていない。
さて、メンヘラについてですが、異性についての執着心が強いうえ、強大なエゴイズム
を生起させ、自己中心的な振る舞いで回りを振り回していると、そういう事のようですね。
そのエゴイズムは己のエゴを増大させ、自己中な性格を形成し、回りを振り回す。
自己中な性格がさらに進むと、愛するの己のエゴだけとなり、周りがどうなろうと
自分さえ良ければいいと周りの人間を平気で踏みつけ他人の心を傷つける。前にも述べましたが、
「一」を理解すれば他人にしたことしなかった事は自分自身にしたことしなかった事につながり
当然その報いを受けることを知るでしょう。これが業報と呼ばれるものです。他人の心を
傷つける者は自分自身の心を傷つけている。その報いの一つが精神に病を持つ結果となるのです。
うつ病患者などの精神病患者に接するお医者さんなどは気付いてる方がいると思うのですが、
彼等の多くは自己中わがままで、決して良いとはいえない性格の持ち主です。
だからと言って彼等につらく当たってはなりません。なぜならそんな彼等も自分自身なのですから。
彼等に対する行いは当然三世に渡ってでも自分自身に返ってきます。業報とはそういう事です。
0162パーピマン ◆hVgvvzQ7pw 垢版2016/10/01(土) 10:47:14.53ID:n4wjtzsV
wwwwwwwwww

以下は、メンへラ「龍神体験くん」 の他スレでの書き込みですww

>2016/09/30(金) 02:04:57.90 ID:XBNPbmhw

>わたしは30歳で、宗教書をまったく読まずに悟りました。
>フロイト著作集と唯物弁証法だけです。
> 今思えば、唯物主義者だったので、宗教書をまったく読まなかったのが
>幸いしたようです。わたしの目から見れば、仏典も聖書もコーランも、
>あらゆる宗教書に完全なものを見出しません。
>それらはまったくの間違いではないので、逆にひどく始末が悪いです。
 
> 信仰をやめよ、と言った釈尊のつらい気持ちがよくわかります。

>2016/09/30(金) 02:23:40.30 ID:XBNPbmhw

>わたしの話がなかなか通じないのは、
>みなさんが何らかの信仰を持ち、それに影響されているからです。
>わたしから見ると、みなさんの信仰がまず第一のハードル、
>その次がみなさんの理性ということになります。
> 二重のハードルがあるのです。
>それを思えば、自分のことでもないし、何もしたくなくなります。
> 自分が悟るのもやっとだったのに・・・
 
>バカだなあ、こうすれば悟れるのにと思うばかりです。
>でも、真理は無くならないので心配はしません。
>あなたたちが悟れなくても、
>いずれまた、誰かがきっと悟ることでしょう。

ね? 気持ち悪いでしょ?ww   こういう人と絡んでスレ消費するのは止めてねww
0163カラスの唄垢版2016/10/01(土) 11:01:44.57ID:vAebNOTd
>>153
因みに外道の独り言シリーズのスレ主は、バーピマンという極悪人です。
まぁ2chの管理人が変わって以前より2chも随分とましになったものです。
前の管理人時は炎上商法的な手法で、とにかくスレを荒らして盛り上げれば
2chの繁栄に繋がると考えていたようで、悪質なプロ固定と呼ばれる
職業書き込み人がいて、とにかく真面目に書いてる人などをターゲットに不愉快な
レスを付けては炎上させていたので、まともな話し合いなどできる状態ではなく、
ここ宗教板でも悪質なプロ固定がいて、酷かったものです。そのプロ固定は
どうも草加系の人だったようで、主にキリスト教スレをターゲットに巧妙に
荒らしていて、メンヘラの板にも出張しては巧妙に主にキリスト教スレに誘導して
滅茶苦茶にしていました。もちろん彼等の悪意に晒されたまだ未熟な修行途中の者は
怒りで心を汚す結果になるわけです。彼等プロ固定はそんな事ばかりして
報酬を得ていたのです。でも面白いことにね、悪意のない者の心を汚しまくって報酬を
得ていた有名プロ固定や善意で語る者を茶化して侮辱して回るっていた人は
押しなべて深刻な鬱病になっていたりしたんだ。彼等が侮辱していた相手が善意で真理を
語っていたなら、彼等の報いはいかほどのものか業報を知る者ならよく理解するでしょう。
同じく、邪見を愛し、真理を語る者の口を封じ、元の教えを捻じ曲げ、邪見を広める者の報いは
いかほどのものか。彼等の心は頑なにされ、決して真理を悟ることは許されないでしょう。
彼等が受け取る報酬は滅びです。
0164神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 11:02:37.21ID:b/U1isuo
パーーーピーマンは、なんてひどいことをするヤツだw
 
それもアルハットに対してwww
0165パーピマン ◆hVgvvzQ7pw 垢版2016/10/01(土) 11:09:18.58ID:n4wjtzsV
「詭弁鳥」 こと、 「アホからす」 の新しい鳴き声発見ww

・・・・・・・・

「エゴ、エゴ、エゴ、・・・・エゴイズム〜〜〜〜〜〜!!!!」

wwwwwwwwwwwww
0166カラスの唄垢版2016/10/01(土) 11:27:57.02ID:vAebNOTd
>>153
さて、口先だけの信仰告白だけで救われるという、信仰義認説を愛するキリスト教徒ですが、
イエスは私達の罪の身代わりになって死んでくださった。だからイエスを信じると口先だけの信仰告白
をすれば自分は救われると誠に都合のいい信仰をしている彼等が愛しているのは、イエスではなく、
己れのエゴです。もちろんそこに救いはありません。真理の知恵を得るとエゴを愛する者に
救いは無いと知り、この世のものへの執着で一番捨てなければならないのは私と貴方を分かつ
己のエゴだと知るでしょう。ところが自分大好きの彼等は真逆の道を行っています。だから彼等は
真理を語る者を忌み嫌うのです。真正な教えはエゴにとっては聞きたくない話ですからね。
エゴは外界に神がいるように我々を騙す。なぜなら我々が本当の自分自身を知られると自分の居場所が
無くなるからだ。そしてエゴは外界にサタンがいるかのように我々を騙す。なぜならエゴは自分自身の
正体がバレたら都合が悪いからだ。自分大好き、今のエゴのまま彼等の信じtる天国とやらで
彼等と永遠に生きるのは、そこは天国じゃなく、地獄ですよ(苦笑)
彼等のようにイエスは自分の罪の身代わりになって死んでくれた。だから口先だけの信仰告白でもう自分は
救われている。だから後は何やってもOK。なんてエゴが泣いて喜ぶ信仰をゴイムの信仰と呼ぶんですよ。
はっきり言う。今の時代に真理を語るキリストが再臨しても彼等は聞く耳を持たないし、迫害するだろう。
そして真理を語るキリストの再臨と称されるマイトレイヤーも彼等に真理を説こうとは思わないだろう。
聞く耳の無い者は、救いようが無いのです。
0167カラスの唄垢版2016/10/01(土) 11:52:23.39ID:vAebNOTd
正直集まりの悪い2chなどどうでもいいのだが、僕はある人との約束を守らなければならない。
だが僕が今生で完全なる認識を得るのは大変難しいという事は僕自身が一番よく知っている。
愛する父よ。もしも望むなら、僕の願いを叶え給え。

>>155
彼と真我は夢と熟睡の関係に似ている。
熟睡時の無は夢を観るときに有となるがそれは幻影である。
それを夢だと認識しているものはそこの登場人物や森羅万象も自分の心が
造り出した幻影だと知るが、登場人物になりきっているときはそこが
夢だと知る由もなし、そこが現実だと錯覚している。彼等は夢を観ている
主体を認識しないと彼が再び深い眠りの無の境地になると消滅してしまう。
そして彼は再び意識を持ち夢を観るだろう。この輪は永遠だ。永遠の命はそこにある。

熟睡時の無は目覚めることが出来るから認識できる。目覚めることが出来なければ
そこを認識する術もない。それを死と呼ぶ。末法仏教徒はそんな認識する術を失った
単なる滅びを、俺達の悟りはお前達より凄いと勘違いしているだけ。愚かにも程がある。
滅尽定で完結する教えは単なる滅びの教え。ゴータマはあくまで七日の法悦の後、
明けの明星を観て全てを悟ったんだよ。
0168宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/10/01(土) 13:08:16.68ID:azK5I+PT
>>154-155 :
あなたの理解は一切について。
涅槃とアートマンは共に一切外。
縁起空を超越した領域です。

もっと勉強して下さい。
0169宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/10/01(土) 13:10:46.57ID:azK5I+PT
それと、
「幻影」というのはアートマン(高我)の視点からの話です。
我々のレベルではその視点は持つことができない。
何故になら、意識の焦点が単なる低級我へと置かれているから、
その限りにおいて (意識の焦点が低我にある限り) は、
当人にとっては肉体も濃密物質もすべてが現実における実在なのです。
つまり、意識の焦点が何処にあるかですべてが変わのだということ。
そんなことすらも理解できない輩が、
「すべてが幻影ならば切腹してもいいのか?」
といった馬鹿げたことをいうのです。

無知過ぎる...。
0170宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/10/01(土) 13:12:43.60ID:azK5I+PT
お知らせ:
ログ保管庫兼のリンクサイトを更新しました。
 http://houjugusya.web.fc2.com/link.html

資料1.
 「本来の無我説」に石飛道子氏の一文を追加し、
また、資料2.として、
 新たに「仏教の涅槃とバラモンの梵我一如は同一の境地」をリンクアップしました。
0171神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 16:13:48.69ID:b/U1isuo
>>169 
>意識の焦点が何処にあるかですべてが変わのだということ。
 
低我にとっての「実在」は→高我にとっての「幻影」であり、
低我にとっての「幻影」は→高我にとっての「実在」ということですね。
 
低我は高我のことを知らないけれど、
高我の方は、低我の現実を「幻影」だと認識してるのですね。
人間には正反対の認識が同時に存在することにびっくり。

いったいどこの誰が、人間の中にある高我を発見したのですか。
誰かが発見したから高我を議論できるわけですよね。
それと、低我と高我の認識が転倒している合理的な理由は何ですか。
つまり低我の現実を「幻影」にしてしまうメリットのことです。 
0172神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 16:31:05.46ID:507WbtfW
滅尽定は在家修行者にはまず無理な状態であり、出家修行者でも難しく、滅尽定に到達できる人はまれである。
滅尽定は阿羅漢(アラカン)しか達することができないといわれる。
さらに阿羅漢(アラカン)になってしまうと、普通人の生活はできなくなるという。

ー略ー

根源的な煩悩である五上分結を断滅していれば、色界の第四禅からニルヴァーナへと入れるのである。
ここにも仏教とヨーガなどの解脱との違いの一つがある。
ヨーガなどでの高い禅定の境地においても、色界、無色界に対する執着をまだ克服していない。
色界、無色界に対する執着まで捨て去って、はじめてニルヴァーナへと入れるのである。
インド哲学(ヴェダーンタ哲学、ヨーガ哲学など)の体系が、一つの哲学体系として完成したのは、ブッダが生存していた頃より、かなり後のことである。
しかしながら、その原型はブッダの時代から、ウパニシャッド哲学のような形で存在している。
ヨーガの解脱と仏教の解脱にはこのように違いが認められる。
http://meditationultimate.web.fc2.com/meisou/metuzinn.html
0173神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 16:49:18.87ID:b/U1isuo
わたしは在家のまま滅尽定を体験している。
在家と言っても、その頃は無職でやっと生活している状態だった。
その後も在家を通しているが、自己主張しないから周囲に利用され、
しばしば生死の淵に立たされてきた。でも不思議なんだよね。
追い詰められて死を覚悟するたびに、突然道が開ける。
というわけで、どうしても出家する必要性はないように思う。
0174宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/10/01(土) 17:22:47.46ID:azK5I+PT
>>171
>低我は高我のことを知らないけれど、
>高我の方は、低我の現実を「幻影」だと認識してるのですね。

はい、その通りです。

>いったいどこの誰が、人間の中にある高我を発見したのですか。
>誰かが発見したから高我を議論できるわけですよね。

古代のリシ(聖賢)たちです。
真我(高我)を実現した方によってです。
仏教では、過去仏と呼ばれます。

>それと、低我と高我の認識が転倒している合理的な理由は何ですか。

まだ低いところにいる登山者には、決して山頂からの眺めを知ることはできません。
その眺め(山頂から望む全貌)を知っているのは、山頂を登り切った経験者だけです。
登頂達成者からの説明は、それがいくら詳しくてもまだいる低き段階の者は勝手に創造することしかできない。
けれども、登頂達成者にはそれらの多くの説明はもはやまったく無用の長物と化します。

>つまり低我の現実を「幻影」にしてしまうメリットのことです。

それが、達成者によって示されたものだからです。そして、例外なく共通してします。
我々というのは低我しか知らない。しかし、彼ら実現者はその両者を経験済みであり、
従って、双方を比較して正しく判断することができます。
山頂からの眺めと山頂までのすべての道程を知っているのは、それを達成した者にしかできないのです。
0175宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/10/01(土) 17:54:12.76ID:azK5I+PT
>>172
仏教の説く滅尽定と思われるサマーディの状態はヒンドゥーにおいても示されています。
しかも古代の逸話などではなくて、この近代においても幾人にもです。

ヒンドゥーのサマーディは、
有種三昧のサビタルカ・サマーディ、サビカーラ・サマーディ、ニルビタルカ・サマーディ、
ニルビカーラ・サマーディを経て、更に、無種三昧のニルビジャ・サマーディ、
そして、究極のニルビカルパ・サマーディがあります。

さすがにこのレベルの話までになってくると、
到底、我々のような者にはその違いなどといった判断は困難となってきます。
私は、確かにゴータマ当時のバラモン社会には完成者はいなかったし、
その正しい教えもとっくの昔に薄らいでいたのだろうとは見ていますが、
けれども、究極においてはバラモンの古代のリシたちの教えとゴータマの説く境地には違いはないと見ています。
詳しく調べれば調べるほどその違いはなくなっていきます。
仏教者側の方にこそ多くの誤解が起こっていると。

ここに示した著名な研究者たちと同様に。
http://houjugusya.web.fc2.com/nirvana-brahmAtmaikyam.htm
0176メンへラ「龍神体験くん」垢版2016/10/01(土) 17:59:35.17ID:VduR7mle
173 : 神も仏も名無しさん2016/10/01(土) 16:49:18.87 ID:b/U1isuo

わたしは在家のまま滅尽定を体験している。



これを体験すると、全部自演に見えて、
空虚にチワワ犬のように吠え踊りますw
お気の毒に・・・・ギブスちゃんw
0177宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/10/01(土) 18:01:03.44ID:azK5I+PT
>>174
訂正:
 ×「勝手に創造すること」
 ○「勝手に想像すること」
0178神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 18:05:34.75ID:b/U1isuo
宝珠さんのことは高く評価してますよ。だいたいはあってます。
ただ、わたしと食い違うのは神智学ではないかと思います。
わたしはそれを否定し、宝珠さんはそれを信じている。
 
リシ(聖仙)は人間だから人間も、アートマン(真我、高我など)を
認識できるわけです。低我→高我への成長がそこにあるわけです。
ということは、低我の存在意義も必ずあるはずなのです。
 
この意義は、人間存在の全体がわからないと見えて来ないと思う。
つまり、低我の現実は「幻影」ではないということです。
むしろ逆、低我の現実こそが神や宇宙の目的なのではないかと。
 
かりに神が存在するなら・・・実際存在するのですが、
無駄なことは何一つやらないと思います。
シャンカラの「不二一元論」は根本的に間違っています。
0179神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 18:06:44.36ID:VduR7mle
チワワ犬ギブスちゃん、境界例的共同戦線模索w
バービー大変だぞおおおおおwwww
0180神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 18:14:41.99ID:b/U1isuo
オナニー大王は下品だなあwww
 
まだ生理中なのかなw
0181神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 18:15:58.76ID:VduR7mle
チワワ犬ギブスちゃんの鳴き声w
「オナニー、オナニー」
「自演、自演」
「竜神、竜神」
0182神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 18:16:59.78ID:VduR7mle
カラスとチワワ犬ギブスちゃんの2大基地外がそろったかw
0183神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 18:25:20.12ID:b/U1isuo
>>181-182 
ギプスの空襲で、 
オナニー大王が相当なダメージを受けたことはわかったw
作戦大成功www
0184宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/10/01(土) 18:25:21.65ID:azK5I+PT
>>178
スレ主に叱られるのでこれだけです。

>低我→高我への成長がそこにあるわけです。
>ということは、低我の存在意義も必ずあるはずなのです。
>低我の現実こそが神や宇宙の目的なのではないかと。
>かりに神が存在するなら・・・実際存在するのですが、
>無駄なことは何一つやらないと思います。

すべてに同意します。

>ただ、わたしと食い違うのは神智学ではないかと思います。
>わたしはそれを否定し、宝珠さんはそれを信じている。

それはあなたが知らないからです(神智学を)。

いやむしろ、
その指摘に対して私が同意してる内容そのものを明確に説き示しているのが神智学です。
だから、私はヒンドゥー教徒ではなく神智学徒を自認するのです。

神智学は、分かってない者と風評を真に受けている者によって軽視されていますが、
専門家の間からの評価には高いものがあります。

つい先日も世界的なに禅者の鈴木大拙氏が神智学の支部長であったことを伝えていますが、
中村元氏もブラヴァツキーの著書『シークレット ドクトリン 』を高く評価し、推奨の言葉を捧げています。
また、現ダライラマ14世もアメリカ神智学協会の主催するプログラムに協力されたりしています。
その神智学協会の高い理念はユネスコの精神的母胎の元となりました。

『[帯の文章]
 シークレット・ドクトリンとは、あらゆる宗教や古代思想の源である「秘められた叡智」(秘教)の体系を指す。
本書は1888年に出版されて以来、アインシュタインやカンディンスキー、イエーツやモンテッソリなど20世紀
を代表する西洋の思想家や科学者、芸術家たちに多大な影響を与えてきた。
 H・P・ブラヴァツキーは、アジアの人々に自分たちの宗教的、文化的伝統の尊さを自覚させ、アジアの精神
的復興に大きく貢献した。(東大名誉教授 中村元)』
http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&;products_id=11258
0185神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 18:30:25.00ID:VduR7mle
>>184


メンヘラチワワ犬ギブスちゃんw空虚に勝利の吠え狂いw
良かったでちゅねええwww
0186神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 18:33:05.18ID:VduR7mle
きゃわわいいチワワ犬ギブスちゃん、当然、俺様の玩具で居続けてくれんでしょ?
今後も踊り狂わせてあげるから、期待に応えてね、アンアンと吠えてねw
0187宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/10/01(土) 18:38:50.64ID:azK5I+PT
>>178 :
>宝珠さんのことは高く評価してますよ。

追記:
 良い評価を下さる方は少ないです。
 御礼を述べておきます-ありがとうございます。
0188神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 18:40:05.19ID:VduR7mle
バービーwwww
チワワ犬ギブスの境界例作戦が成功しつつあるwwww


竜神チワワ犬の勢力拡大やあああああwwwwww
0189神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 18:51:23.83ID:CI/eF7SH
だからさ高我って意識のことでしょうw
で、低我は、その内容物で、まあ、対象物のことを、そーゆーんでしょう。
一切は五蘊だとしたら、その外には何もありませんのに、そこを超越したところを、低我がきていしているのでありまふよ
涅槃やアートマンは確かに一切ガイだけれども、そんなものは無いのではないかとね
意識の内容物である、それらは、必ず低我の体験の記憶からくるからなのですよ
高我の光が低我に届いたら、それは、低我の側がへんかしているのです
0190神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 18:52:58.32ID:b/U1isuo
>>188
君はほんとに軽薄で、下品そのものだねえwww
 
パーーーピーマンも見捨てたw
0191神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 18:55:41.99ID:VduR7mle
空虚に吠えてますねえwきゃわいいwチワワ犬ギブスちゃんw
もっと吠えるのよw
0192神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 22:28:21.48ID:poQ183fN
「こころ」という実体が何かあるのではなく、私たちが「生きている」という実感を「からだ」という物体を介在させて理解する働きそのものが、
「こころ」であると覚えておきましょう。
仏教では、「認識すること(働き)は心である」としていますが、認識といっても、明確な知識という意味ではなく、感知すること、感じること、
意識的にしろ無意識的にしろ感覚いっさいはこころの働きであるということです。
物体と生命体を区別できる働きすべてが「こころ」です。

私たちは「こころ」という言葉が、魂、霊魂、真我、仏心、仏性、梵我、宇宙意識、唯一神、如来心などの
宗数的な概念につながっていることをよく知っています。
からだが滅びても魂は滅びない、つまり霊魂不滅のような概念のあることも理解しています。
こころという無数で、複雑で、無限の存在を、宗数的に、思想的に、哲学的に、心理学的に研究されてきたことは当然すぎるほど当然のことで、
それらの研究が私たち人間を不幸から幸福へと導くための人間の英知の結集であることを考えれば、こうした概念の生まれることも十分納得されるものです。
ただ、問題はこうした概念が残念ながら、考える、想像する、推測する、推定するという論理の範疇を越えていない、
つまりはこれらの概念を証拠立てるものが何一つないという事実です。
ですから大切なことは概念は概念として、《「こころ」は永遠不滅の実体である》ということなどを鵜呑みにしないことです。
http://www.j-theravada.net/howa/howa12.html
0193神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 22:31:39.59ID:poQ183fN
パーリ長部布藻g樓経

第五章

「尊師よ、アートマンにより、心が生じて、
世界を観じるときに、世界を感じるのですか。
アートマンが無ければ、心は生じないのですか。」

「アートマンを、どのように捉えてますか。」
「尊師よ、物なるもの、欲界の我と捉えます。」
「遍行者よ、滅想受定(滅尽定)は、欲界を越えています。」

「アートマンを、どのように捉えてますか。」
「尊師よ、形あるもの、色界の我と捉えます。」
「遍行者よ、滅想受定は、色界を越えています。」

「アートマンを、どのように捉えてますか。」
「尊師よ、意なるもの、法界の我と捉えます。」
「遍行者よ、滅想受定は、無色界を越えてます。」

「尊師よ、アートマン、即ち、真実の自我、
つまり、真我なるものは、存在するのですか。
それとも、真我なるものは、存在しないですか。」

「行者よ、有るとも言え、無いとも言える。
無我を観じられないと、真我を感じられない。
これは、確めるべきであり、語るべきではない。」

「行者よ、語ることが出来る、四つの真理、
実際に確めることが出来る、四つの諦がある。
それでは、この四つの諦とは、如何なるものか。

第一は、全ては苦しみであること、苦諦である。
第二は、苦しみは必ず生じること、集諦である。
第三は、苦しみは必ず滅すること、滅諦である。
第四は、苦を越える道があること、道諦である。」

心から感動して、ポッタパーダは、こう言った。

「ああ、これは、とても、妙なる教えです。
さながら、暗闇の中で、灯火を掲げるように、
仏陀は、私の見えない目に、見せてくれました。」

「仏陀よ、これより、この命が尽きるまで、
私は、心から、仏と法と僧に帰依し奉ります。
三宝の帰依者として、どうか受け容れて下さい。」
0194神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 22:32:15.79ID:poQ183fN
第六章

その数日後、象使いの子である、チッタは、
仏陀の止まる、アナータピンディカ園を訪れ、
恭しく挨拶すると、仏陀に対して、こう尋ねた。

「有るとも言えて、無いとも言えるような、
真我なるものを、どうして説くのでしょうか。
尊師よ、解かない法が、良いのではないですか。」

「チッタよ、その問いに、答えるためには、
この頼み事に、応えてもらわないとならない。
さあ、ここまで、最高の美女を連れて来なさい。」

「尊師よ、その美女の名前を教えて下さい。」
「チッタよ、名は知らないが、最高の美女だ。」
「では、無理です、誰が最高か確められません。」

「チッタよ、まさしく、これと同じである。
名が付けられるのは、命を確めるためであり、
実に、概念を説くのは、概念を解くためである。」

「真我を説くのは、真我を解くためであり、
真我に囚われて、真我を論じるためではない。
越えるべきものに、囚われるのは、転倒である。」

心から感動して、チッタは、このように言った。

「ああ、これは、とても、妙なる教えです。
さながら、暗闇の中で、灯火を掲げるように、
仏陀は、私の見えない目に、見せてくれました。」

「仏陀よ、これより、この命が尽きるまで、
私は、心から、仏と法と僧に帰依し奉ります。
三宝の帰依者として、どうか受け容れて下さい。」

こうして、象使いのチッタは、出家を果した。
そして、戒律を受けて励み、阿羅漢に到達した。
0195神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 22:52:40.35ID:GpWLKznX
>>173
そういう、 ≪「肩書」或いは「社会的立場」としての『出家』が、涅槃(或いは悟り)の条件だ≫
というのでなく、
「”世俗的”価値観、基準、制限、環境・状況」の中で行じることは、
「そこを離れた、捉われ・縛られない、干渉されない環境・状況」で行じるより困難だ、
(―というより、世俗の価値観に捉われ、依存し、それを基準とすること自体が顛倒であり、
 寂静からは程遠い、という明確な図式であるわけだが―)
という話。
「出家」「在家」という言い方を使用する際には(使用する以上は)、
どうしても「僧侶(≒比丘)か一般人か」という区分になりがちだけど。


つまり、在家でも―一般人でも―、非世俗的生き方が可能なら、涅槃を見ることは可能だろうし、
出家でも―僧侶(≒比丘)でも―、世俗の価値観で生きていたなら、永遠に悟りからは程遠い、と。
0196神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 23:02:08.08ID:poQ183fN
パーリ長部
布藻g樓経

「ポッタパーダよ、修行完成者(如来)はこの世に現れています。
尊敬さるべき人(阿羅漢)であり、全きさとりを開いた人(等正覚)であり、明知と行いとを具えた人(明行足)であり、幸せな人(善逝)であり、
世間を知った人(世間解)であり、人間を訓練する人(調御丈夫)であり、無上の人(無上士)であり、神々と人間の師(天人師)であり、
ブッダ(仏陀)であり、尊師(世尊)なのです。
その修行完成者は、神々の世界、悪魔の世界、梵天り世界をふくめて、このすべての世界を知り道の人・バラモン、神々と人間をふくめて、
生きとし生けるものをみずから知り、また目の当たりにさとって、(他にたいして)解き明かすのです。
修行完成者は、はじめもよく、なかごろもよく、終わりもよい真理り理法を、その意味と字句を明らかにしながら解き示し、
まったく完全で清浄な清らかな修行を明らかにするのです。
資産家やその息子、あるいはその他のいかなる身分に生まれたものでも、この真理り理法を聞き、聞いて修行完成者に対する信仰を得ます。
その信仰を得た者はこう深く考えるのです。

『家庭の生活は煩わしいもの、ほこりにまみれた道である。
それに対し、出家修行者の生活は自由な大空のようだ。
家庭生活を営むものには、完全そのものの、まったく清らかな真珠貝の輝きのような清らかな修行を行うことは困難である。
いまこそ髪と髯を剃り、黄色の衣をまとい、家を出て、家なきものとして出家しよう』と。
0197神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 23:02:55.75ID:poQ183fN
そして、ある日、多い少ないに関わらず財産を捨て、また多い少ないにかかわらず親族を捨て、髪と髯を剃り、黄色の衣をまとい、
家を出て、家なきものとして出家します。

このように出家者となり、戒律規定(パーティモッカ)の防護によって自己を制御し、正しい行いと正しい托鉢の場とをたもち、
ごくわずかな罪にさえ恐れの念をいだき、戒律の項目(シッカーパダ)を正しく受け入れて、学び、正しい身体の行為と口の行為を身につけ、
清らかな生活をおくります。
戒めを正しく守り、感覚器官の門を守り、気を落ち着け(正念)、正しく自覚して(正知)、満足しています」
0198神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 23:24:22.91ID:GpWLKznX
釈尊在世時は、
「生まれによってバラモンたるのでなく、行為によってバラモンたる 云々 」と言われたりしたわけだが、
現代ならさしずめ、
「肩書、立場によって出家なのでなく、実際の節制や志、内面の想いによって出家と呼ばれる 云々 」
などと言われるだろうか・・w
0199神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 23:52:28.87ID:dZLWEn7R
第二小なる章 十四、ダンミカ
Sn393 次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。
このように実行する人は善い<教えを聞く人>(仏弟子)である。
純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人(在家者)がこれを達成するのは実に容易ではない。
Sn394 生きものを(みずから)殺してはならぬ。
また(他人をして)殺さしめてはならぬ。
 ・・・・・。
Sn403 ウポーサタを行なった<ものごとの解った人>は次に、きよく澄んだ心で喜びながら、翌朝早く食物と飲物とを適宜テキギに修行僧の集いにわかち与えよ。
Sn404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。
つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。」

→要するに在家は正しい生活を送っていれば死後天界に転生する

六、老 い
Sn804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずせして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
Sn805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。
この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。

→自己を救済するには出家するしかない
0200神も仏も名無しさん垢版2016/10/01(土) 23:53:31.01ID:dZLWEn7R
>>196-197
これを語ってるのも釈迦である
0201神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 06:56:17.79ID:fknwH+ev
>>161
丁寧なお返事を下さり、ありがとうございます。

自分と他者、自分と環境を説明するのに、密接度は恋愛に限ったことでは
ないのでしょうけれど、分かり易い典型の症例を
見て取れることから、この解説でも恋愛が用いられているのでしょうね。

恋愛は盲目だの意味は、おそらく恋愛対象が、その人の業を内包しているということまで
気付かずに熱にうかされることにあるのでしょう。

冷静になってきたら、その対象の爆弾を自分が抱えなければならなくなり
恋愛後のトラブルもそのような事なのでしょうね。

対象がメンヘラ悪化型精神病の方だと知らないと、一方的に抱えることになり
何とかしてあげたいといった気持ちが、逆にアダとなり泥沼に巻き込まれ
辛さに打ちのめされますよね。
離れるにしてもご自分の愛の能力の不足を誠実な方なら責めてみたりとか。

一方メンヘラ悪化型は、自己ちゅう最大なので深刻ぶっても、その内実は
好き勝手しているだけなのです。

ですから、私は最近思うのですが、
悪化型から責め立てられるような愛の要求は、愛を取り違えた
肉レベルの欲望ですから、そのトリックに気付いて、
「すみませんが、私には愛が(あなたの肉欲に合わせるようなと言う意味)
ありません」と
きっぱり、剣のように打ち立てなければならないと思っています。

>だからと言って彼等につらく当たってはなりません。なぜならそんな彼等も自分自身なのですから。
>彼等に対する行いは当然三世に渡ってでも自分自身に返ってきます。業報とはそういう事です。

ええ、つらく当たるでなく、次元を変えて見渡せるようにという
事ですね。
0202神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 07:13:35.67ID:fknwH+ev
>>163
>彼等プロ固定はそんな事ばかりして
>報酬を得ていたのです。でも面白いことにね、悪意のない者の心を汚しまくって報酬を
>得ていた有名プロ固定や善意で語る者を茶化して侮辱して回るっていた人は
>押しなべて深刻な鬱病になっていたりしたんだ。彼等が侮辱していた相手が善意で真理を
>語っていたなら、彼等の報いはいかほどのものか業報を知る者ならよく理解するでしょう。
>同じく、邪見を愛し、真理を語る者の口を封じ、元の教えを捻じ曲げ、邪見を広める者の報いは
>いかほどのものか。彼等の心は頑なにされ、決して真理を悟ることは許されないでしょう。
>彼等が受け取る報酬は滅びです。

プロ固定というのも時々出るので、最近はじめて知ったのですが、
もうそのような職業はなくなったとしても、
金銭収入がある職業としてではなく、その職業につく性質を持つ者までが
同時にいなくなったという事ではないと思うのです。

ですから、職業はなくなってもそういう性質を持つ者は
いると思いますし、そういう者に誘惑される者もいまだ
少なからずあるでしょうね。
0203神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 07:22:34.78ID:fknwH+ev
>>166
>ところが自分大好きの彼等は真逆の道を行っています。だから彼等は
>真理を語る者を忌み嫌うのです。真正な教えはエゴにとっては聞きたくない話ですからね。
>エゴは外界に神がいるように我々を騙す。なぜなら我々が本当の自分自身を知られると自分の居場所が
>無くなるからだ。そしてエゴは外界にサタンがいるかのように我々を騙す。
>なぜならエゴは自分自身の
>正体がバレたら都合が悪いからだ。自分大好き、今のエゴのまま彼等の信じtる天国とやらで
>彼等と永遠に生きるのは、そこは天国じゃなく、地獄ですよ(苦笑)

>彼等のようにイエスは自分の罪の身代わりになって死んでくれた。だから口先だけの信仰告白でもう自分は
>救われている。だから後は何やってもOK。なんてエゴが泣いて喜ぶ信仰をゴイムの信仰と呼ぶんですよ。

>はっきり言う。今の時代に真理を語るキリストが再臨しても彼等は聞く耳を持たないし、迫害するだろう。
>そして真理を語るキリストの再臨と称されるマイトレイヤーも彼等に真理を説こうとは思わないだろう。
>聞く耳の無い者は、救いようが無いのです。
0204神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 13:04:54.54ID:7MbEA0qc
出家の話
 
今の日本の仏教は、無や空を説く大乗経典をベースにしています。
しかし、無や空など絶対に体験できるわけがないから、
日本の寺に出家しても絶対に悟れません。
かりに出家しても、大乗経典を学び、それに洗脳されて帰るだけです。
そんなことに人生を費やしたら大バカ者です。
寺のバカ息子なら別だけど、大乗仏教では出家などありえません。
日本ではすでに、出家という制度が実質崩壊しているのです。
0205神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 13:11:09.64ID:7MbEA0qc
阿羅漢(アルハット)と出家
 
阿羅漢はすでに悟っているので出家する必要がありません。
もはや修行不要の無学の位です。
在家でいるもよし、気が向いたら出家するもよし。
0207神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 13:48:14.49ID:7MbEA0qc
法華経に登場する末法思想ーーー大乗僧の陰謀、大ウソ
 
今は正像末の最後、末法の時代だから悟りを開くことはできない。
ただ法華経を信じ、題目する以外に救われないと説く。
釈尊を神格化して信者を洗脳し、大乗僧が天国地獄のカギを握る。
 
次のブッダはマイトレーヤ(弥勒菩薩)で、56億7千万年後に
この地上に出現するらしい。しかしこれも大乗僧の大ウソ。
釈尊の後にイエスもムハンマドも登場している。
それに悟りは、大乗僧が語るほど、不可能な出来事ではない。
0208神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 17:11:28.30ID:oMiyyEAX
>>207
>次のブッダはマイトレーヤ(弥勒菩薩)で、56億7千万年後に
>この地上に出現するらしい。しかしこれも大乗僧の大ウソ。
>釈尊の後にイエスもムハンマドも登場している。

よく気づきましたね。
救世主マイトレーヤの出現は「ディーガ・ニカーヤ第六経『転輪聖王修行経』」でゴータマが保証していますが、いつ降臨するかについては諸説あり、
56億7千万年後など途方もない数字になったのは期限後、つまり大乗仏教の時代になってからです。

実は貴方が言われる通りイエスやムハンマド、そしてインドのシャンカラなどはマイトレーヤの顕現であり、
また未来においてもキリスト、イマム・マーディ、メシア(ユダヤ教)、ヴィシュヌの化身カルキ神といった名前でマイトレーヤは救世主として再臨されます。
http://houjugusya.web.fc2.com/world5.htm
0209神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 17:13:04.52ID:oMiyyEAX
>>208
期限後→紀元後
0210神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 20:59:16.76ID:rRMaTdMz
>>204
馬鹿か?

出家が成立するかしないかは、大乗とその他と関係ねーよw


スリランカ(だったと思うが)で実際に起きている事象として、
≪比丘が、(国会)議員等、政治家になる(その職に就く)≫ことの是非や、
或いは慈善事業、各種奉仕や発展成長のための様々な社会活動・市民活動への比丘の参画だったり、
世俗の生活、世俗の基準に準拠することの是非の問題なの。
それは、大乗小乗上座部チベット日本台湾どこだろうと変わらんの。
0211神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 21:03:17.73ID:rRMaTdMz
>>205

はあ?

阿羅漢になった後の話じゃねーよw

阿羅漢になるために、『世俗に浸かったまま』でよいか、
『世俗を離れる』方が(≒世俗と大きく距離をとった方が)良いか、
という問題なんだよ。


馬鹿なの?  >>205
0212神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 21:18:29.90ID:yXUXnlW/
完全に悟りを開いた人同士は、「あの人は悟っている」と、
お互いに簡単に分かるものです。
0214パーピマン垢版2016/10/02(日) 21:50:55.77ID:LH882eqd
次からは、テンプレに、「悟った人、書き込み禁止」 って入れとくか?www

このままじゃあ、「なんちゃって覚者」ホイホイ スレになってしまうわwww
0215宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/10/02(日) 21:58:31.56ID:tntL3B4e
>>208
情報の紹介については感謝します。
が、しかし正確なものである必要があります。

イスラム教の元となったムハンマドはマイトレーヤの顕現ではなくて、
かってマイトレーヤの顕現であった弟子、イエス覚者のオーバーシャドウ(弟子の肉体を同時使用する方法)による顕現です。
ヒンドゥー世界では、クリシュナとシャンカラが過去のマイトレーヤの顕現であったことが知られています。
尚、勘違いする人がいるのでいっておきますが、
これらの顕現を受けた弟子である覚者方はマイトレーヤの過去世ではありません。

この神智学がもたらす情報を超えた万教帰一的な教え、
つまり、世界の宗教間の争いを終結し、世界平和へと導く教えは他にはないでしょう。
0216神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 22:28:00.31ID:rRMaTdMz
法華経編纂者たちも、同じ想いだったと思うよw  >>215


改めて思う・感じるのは、
法華経のムーブメントと神智学のムーブメント(→志向性)って、同種どころか同一じゃね? と。

で、もし神智学サイドが法華経系のスタンスや草創の理念に反発が生じるなら、
それは、同族嫌悪じゃねーかな? とw
0217神も仏も名無しさん垢版2016/10/02(日) 22:32:22.35ID:rRMaTdMz
法華経の世界観と神智学の世界観
――成長の階梯やヒエラルキー、或いは萬教帰一的な統合宗教、
   或いは目覚めた人たちが慈悲心をもって導いてくれている、
   或いは、これまでの情報は、方便か誤伝であり、真の教えはコレコレである!という宣言とか――
は、そっくりなわけで・・・。
0218宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/10/03(月) 01:15:25.26ID:PwFOCzn1
>>216-217
法華経というのは、あくまでもフィクションです。
そして、ゴータマが語ってなどいない異なることを勝手に語らせたりと、
とにかく意図的な歪曲が大きくなされています。
けれども、対する神智学の情報にはそのような歪曲の操作はありません。
つまり、過去の覚者方が語ってないことを勝手に語らせたりはしません。
あとは確かに、この神智学でなければ決して知ることのできない特異な情報は多くて、
それを初めて見た部外者がただのファンタジー扱いにすることは、確かに十分あり得ることです。
0219カラスの唄垢版2016/10/03(月) 09:22:00.84ID:YSWzBS58
『イエスは言われた。この天は過ぎ去るであろう。そして、その上のものも
過ぎ去るであろう。そして、死者たちは生きない。そして生きている者たちは
死なないであろう。きょう、あなたがは死んだものを食し、それらを生かす。
しかし、あなたがたが光の中にいるとき、あなたがたは何をするであろうか。
あなたがたがひとつであった日に、あなたがたはふたつになった。しかし、
あなたがたがふたつになったとき、あなたがたは何をするであろうか』〜トマス

聞いた話だと、同じ瞑想でも、北伝仏教は光を観ると悟りは近いとなるが、南伝仏教はそんなもの
観ても妄想だから気にせず捨てなさいと教えるそうだね。これってとんでもない話でね、
その光と一つになる事が君ら末法仏教徒の大好きな光と相を成す闇を認識できるんであって、
光が無ければ何にも無くなり、闇を認識する術すら失う。これ単なる滅びで、さすが末法仏教
は、悪人達を始末する為に成立さ出せられたものだと思うわけだよ。そういや大乗系でも、
禅宗は南伝テーラワーダと同じく光を忌み嫌うようだな。流石邪見の王様だけの事はある。
テーラーワーダのところは、一神教や、ヒンドゥー教などに押されてなんとか自分とこの
アイデンティティーを保つため、無我思想を盾に一番大事なものを無きものにしてそれらメジャーな宗教と
差別化を図り道を踏み外したんだろう。結果は衰退の一歩をたどるだけ。他宗派と一つになる事を
嫌いエゴイズムのもたらした結果が衰退の一途をたどる。自業自得だわな。
宗教では光は重要なテーマだ。キリスト教でも光がことさら出てくるだろう。仏教でも、大乗系仏教系では
明けの明星だの、大日如来だのと出てくるだろう。この世界は何にできてると思う?
真正な教えに唾を吐きかける君ら悪人は、闇を目指して滅んでいけばいいと思うよ。
0220カラスの唄垢版2016/10/03(月) 09:35:45.97ID:YSWzBS58
もう一つ不思議な事がある。邪見の王様である禅宗はどうでもいいが
それはテーラワーダ教えや原始仏典には聖音オームがものの見事に抜けていること。
大日如来を唄う宗派だとオンの字やら早く言うと聖音オームの名残が教えに残っているだろう。
ところが禅宗やらテーラワーダに至ってはものの見事に省かれているわけだ。聖音オームは重要だぞ。
肉眼で見る目の前に広がる物質世界は錯覚に過ぎない。喉から発生する聖音オームの音の
振動は脳髄を伝わり、サードアイと呼ばれる松果体を震わせる。その波動は
波形幾何学により三角錐を上下に合わせた神聖幾何学模様を生み出す。この幾何学模様は
物質世界のベースとなる。この幾何学模様を二次元で表したものがダビデの星である。この話は
マントラ、ヤントラに通じる話だ。テーラーワーダと禅宗等の末法仏教は大変レベルが低いと
言わざるを得ないだろうね。ゴータマはあの時代の人だ。彼は瞑想の時、
間違いなく聖音オームを唱えていたはずだよ。
0221カラスの唄垢版2016/10/03(月) 09:55:51.73ID:YSWzBS58
アイシュタインが娘に当てた手紙。
http://ameblo.jp/unityinstitute/entry-12049168865.html
因みにここのスレ主はアイシュタインは唯物論者だと決めつけていたが、アイシュタインが
娘に残した手紙を読めば彼は間違いなく神と呼ばれる存在を信じていたし、彼がなぜ光にこだわって
いたのかを理解するだろう。なぜなら愛とは光だという表現は、真理の知恵無くしては表現し得ない
ものだし、真理の知恵とは神と呼ばれるものの証であるからだ。唯一絶対の神に似せて造られた
人とは本来は「一」である。名のある人であるならば本能的にそれを知っている。故に道徳心を
重んじ、至高の存在を本能的に信じる。だが二元性の賜物でしかない獣は目に見えるもの、
五感で感じる世界しか信じないし、私と貴方を分かつエゴイズムを愛し、本能的に道徳を忌み嫌う。
身体は一つのものを相対化させる認識させるもの。だがそれは錯覚に過ぎない。
イエスは言われた。この世を見い出した者は身体を見い出した。だが、身体を見い出した者は
この世は相応しくない。話を戻そう。アイシュタインはとある結社に属していたという。
彼は間違いなく何者かに真理の知恵のレクチャーを受けていたと思うよ。だから彼はあれだけ
光にこだわっていたんだよ。
0222パーピマン ◆hVgvvzQ7pw 垢版2016/10/03(月) 10:32:57.83ID:/Ez0CPxg
>因みにここのスレ主はアイシュタインは唯物論者だと決めつけていたが、アイシュタインが
>娘に残した手紙を読めば彼は間違いなく神と呼ばれる存在を信じていたし、・・・・・

どっわっはっはっはっはっは〜〜〜〜〜

十八番の「勝って読み」か????

お前の得意のフレーズ・・・・「素直に読めば」

父親が、娘に「愛のある人間になってほしい」と言ってるだけwww
父親なら、誰でも娘に対してもつ感情ww

「超常的存在」 の肯定など欠片もないわwww

(ちなみに、アインシュタインについては、かつてアホ在家が
トンでも論を展開した時、論証ずみw)
0223神も仏も名無しさん垢版2016/10/03(月) 10:41:05.15ID:y0orhUv/
パーリ長部経典 第24経「パーティカ・スッタ」
http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/eseo/eseo_13.html

第二章

仏陀が、マッラ国のアヌピヤーに止まると、
リッチャヴィ族の、スナカッタが遣って来た。
彼は、仏陀の傍らに坐ると、このように言った。

「これから、還俗しようと、考えています。
もはや、ここに、止まるつもりはありません。
何もしてくれなかった、あなたに非があります。」

「スナカッタよ、私の何が悪いと言うのか。」
「あなたは、起源を説いてくれませんでした。
それゆえ、私は還俗を考えざる得ませんでした。」

「起源を説こうとも、起源を説くまいとも、
苦悩を滅尽できることに、変わりは無い筈だ。」
「そうです、しかし、説いてくれませんでした。」

「スナカッタよ、梵天による創造説がある。
長い期間の後、欲界と梵天界が破壊されると、
生きとし生ける者は、極光浄天に生まれ変わる。」

「彼らは形だけを持つ、色界の神々であり、
歓喜を食べ物として、長い間、そこに止まる。
しかし、その中で独り、徳が尽きる神が現れる。」

「徳が尽きた神は、光音天から落ちて行き、
誰も生まれていない、梵天界に生まれ変わる。
彼は、他の者が生まれて来ないか、願い続ける。」

「そして、次に、梵天に落ちる神が現れる。
最初の梵天よりも、光音天に長く居たために、
彼の徳は、最初の梵天より、少なくなっている。」

「こうして、二番目に生まれた梵天を見て、
最初の梵天は、私は彼の創造をしたと考える。
二番目の梵天は、私は彼に創造されたと考える。」

「こうして、大梵天と梵衆天の差が生じる。
光音天に於いて、身分の違いが無かったのに、
梵天界に於いては、身分の違いが生まれるのだ。」

「私は、世界の起源について、知っている。
知っているばかりか、それ以上を知っている。
それでいて、なお、それに言及することはない。」
0224カラスの唄垢版2016/10/03(月) 10:50:36.76ID:YSWzBS58
>>222
普通に読めばゴータマは業報輪廻転生を説いてるし、普通の感覚だと愛は光だとは発想はできないわけだ。
エゴイズムに基づいて自分の気にいるように勝手読みしてるのはどうみてもお前の方だろ。
お前はつくづく気の毒な人だと思うよ。早く滅びろよ。それが君ら唯物末法仏教信奉者の望みだろ。
0225神も仏も名無しさん垢版2016/10/03(月) 10:51:54.36ID:y0orhUv/
色界に住む天人は、食欲と淫欲を断じ、男女の区別がなく、「光明」を食とするという。
しかし情欲と色欲はある。
色界の諸天は、世間の禅定ならびに上品の十善を修してこの報を感じるという。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E7%95%8C
0226パーピマン ◆hVgvvzQ7pw 垢版2016/10/03(月) 10:58:27.12ID:/Ez0CPxg
名前:神も仏も名無しさん :2010/07/19(月) 00:06:37 ID:e9umm1fn
アインシュタイン、宗教は「子供じみた迷信」 ユダヤ教の選民思想も否定

【5月16日 AFP】神への信仰は「子どもじみた迷信」、ユダヤ人は「選ばれし民」ではない――
ドイツ生まれのユダヤ人理論物理学者
アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)が宗教観をこのように表現した手紙が15日、
ロンドン(London)で競売にかけられた。

 古書類競売業者ブルームズベリー(Bloomsbury)が13日明らかにしたところによると、
アインシュタインの手紙は1954年のもの。

「神という言葉はわたしにとって言葉以上のものでなく、人間の弱さが作り出したものにすぎない。
聖書は、高潔だが原始的な言い伝えをまとめたもので、やはり子どもじみている」
「どんなに素晴らしい解釈が登場しようと、この考えは変わらない」などと述べている。

 また、ユダヤ人が神に選ばれた民だという思想についても、
「わたしにとってユダヤ教は、ほかの宗教と同じく子供じみた迷信の権化だ」
「ユダヤ人であることを光栄に思っているし、強い親近感を抱いていているが、
わたしにとってはほかの民族と変わらない」と述べ、否定している。

 ブルームズベリー関係者は、アインシュタインは手紙の中で自らの宗教観を
「遠回しに言うことなく明確に語っている」と評価する。

 英ガーディアン(Guardian)紙によると、この手紙は1954年1月3日に哲学者のエリック・グートキンド(Eric Gutkind)
あてにドイツ語で書かれたもので、50年以上も個人コレクションとして所有されていたという。
0227パーピマン ◆hVgvvzQ7pw 垢版2016/10/03(月) 10:59:16.79ID:/Ez0CPxg
>>224

「普通に」読めよwwwwwwwwwwwwwwwwww
0228カラスの唄垢版2016/10/03(月) 11:16:18.97ID:YSWzBS58
>>223
そこに残るは、有無二辺の離れた基点のゼロしか残らないんだよ。仏教はね、主に東洋に生息する
見込みのない魂を次の時代に向けて救われる人々の足を引っ張らないように始末し、ヴェーダの教えを
改変されることなく守るように成立させられたようなものなので、このような文言が仕込まれている。
アートマンについてはゴータマは無いとはいっていない。あくまで有るとも無いとも言えないと言っているだけだ。
仏教の教えはそこを最高の境地としているが、光が無ければそこには何も残らんぞ。滅びる事が
最高の境地だとするなら単なる唯物論に過ぎない。至高の存在である彼は存在そのものであると同時に
死神でもあるからね。しかしヒンドゥーに言わせるとゴータマは世を惑わすビシュヌの化身とはよく言ったものだな。
0229カラスの唄垢版2016/10/03(月) 11:33:31.03ID:YSWzBS58
>>226
そこは迷信に過ぎないモーゼ五書をベースにした一神教を批判したものだろ。
本当のユダヤ人とは神から選ばれた救われる人々の事。そこに民族の壁は無い。
が、民族によっては明確に多い少ないの差はある。だが自分がゴイムの比率の多い民族に
生まれたからと悲観することはない。次はどの民族に生まれるや知れず、人は業に従い生まれ変わると知るなら
むしろ今の自分の生まれた民族に執着し、それどこらおかその執着ゆえ他民族と憎み合うのはいかに
愚かである事を知るだろう。言っとくが選別の日は近いぞ。グノーシスでは旧約の神の
事をデミウルゴスと称して馬鹿にするんだよ。デミウルゴスの別名を無知という。ヴェーダは元々
アーリア人のもの。本来救われるべき者が多くいる彼等はわけ合って旧約の神とセットになった一神教という
迷信に囚われて不義の今の時代には無知に置かれている。まぁゴイムの見本のようなお前には
関係のない話だな。
0230カラスの唄垢版2016/10/03(月) 11:51:48.72ID:YSWzBS58
ユダヤ人と言っても二種類いてな。イエスを殺した中東土着のアラブ系ユダヤ人と、
中世の時代当時の政治的な理由でユダヤ教に改宗した青い瞳をした元々はハザール人と呼ばれる
アシュケナージな。彼等はイエスを殺した民族とは縁も所縁もない白人である。もちろん
アイシュタインもこのアシュケナージである。イエスは種がはっきりしないだろ。ナザレのイエスというように
イエスの頭にはナザレという冠が付くだろう。一説によるとナザレ人とはアーリア人だというものがある。
イエスの教えを説く新約聖書はなぜかヘブライ語ではなくアーリア人の言語であるギリシャ語で書かれた。
原始仏典もアーリア人の言語で書かれているし、ヴェーダ自身アーリア人のものだ。ここにメッセージを感じる。
どうもこの星に住む我々に救いのマスタープランを引いた者は、言語によって我々を分けた節がある。
この話は、旧約のバベルの塔にも通じる話だ。旧約聖書は真理の知恵とマスタープランをベースにした
創作物語。それを読み解けず文言のまま信じるなら迷信となる。
0231神も仏も名無しさん垢版2016/10/03(月) 18:14:33.22ID:A4BDp6dr
カラス氏のレスは読むだけで疲れるね。なかなか全部読めない。
長文だし、ユニークな用語や論理が次々に展開するから全く反応できない。
それが狙いなんだろうが、ワンレスワンテーマにできないものか。
 
セブンのボケはずいぶん進行したね。気の毒だが自業自得だと思う。
もう手遅れだから、ジタバタしないように。
それからスレタイだけど「凡夫の独り言」なんかどうだろう。
0232神も仏も名無しさん垢版2016/10/03(月) 18:57:36.19ID:A0a2Bk/5
>>宝珠

>>229が、御都合主義な読み以外の何に見えるんだ?(怒
0233神も仏も名無しさん垢版2016/10/03(月) 18:58:44.17ID:A0a2Bk/5
>>231
てめえは、んとに進歩がねーなw

君の脳内禅宗は聞き飽きたよw
0234神も仏も名無しさん垢版2016/10/04(火) 09:58:48.48ID:l+zPpxkI
廃寺一歩手前まで追い込まれている田舎の貧乏寺は聖天や三面大黒天、稲荷神を祀って住職自らが厚く敬い信仰すれば良いのだと思う。

不動明王も良いかもしれない

★不動明王は凄い! 大金運★ [無断転載禁止]©2ch.net・
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1465375488/
0235神も仏も名無しさん垢版2016/10/05(水) 07:23:50.63ID:zWhnluDf
345 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] :2016/09/06(火) 15:37:31.57 ID:960MXA5l
仏教教学的にいうと、悟りにも四段階、より詳しくは四向四果の
八段階があって、段階に応じてなくなる欲も違ってくるようです。

四向四果の聖者たちうち、預流向から一来果までの悟りの段階
においてはまだ欲界を対象とする欲は残っているそうですが、
不還果から阿羅漢果に至った聖者は、もう欲界を対象とする欲
は残っていないと言われています。

そのため、この境地にいたっても出家せずに在家のままでいると、
一週間ぐらいで死んでしまうそうです。
0236神も仏も名無しさん垢版2016/10/05(水) 09:25:02.31ID:0u2JDdE2
「在家」ってパーリSktで言うと何?
0237神も仏も名無しさん垢版2016/10/05(水) 09:56:27.62ID:SUDJMva0
自分の手足に飽きる人はいない。
本来の自己を知っていれば、本来の自己に飽きることもない。
 
本来の自己に飽きるのは、それを知らない人たちである。
0238神も仏も名無しさん垢版2016/10/05(水) 10:15:42.88ID:SUDJMva0
阿羅漢は、釈尊のように、世間を平然と生きて長生きをする。
 
人間はいづれ死ぬが、死ぬために生まれてきたわけではない。
この地上で生きるために生まれて来たのだ。
阿羅漢が阿羅漢である由縁は、生きる目的を知ることと、
中道という生き方を知ることにある。
 
四向四果という仏教教学は、悟れなかった僧侶たちの戯言でしかない。
それは悟れなかった自分への慰めから生じる妄想である。
人生には、悟ることができたか、できなかったかの区別しか存在しない。
0240神も仏も名無しさん垢版2016/10/05(水) 23:30:04.65ID:0u2JDdE2
>>239
持ってない人はどうすんの? 図書館行けってことかw



つか、中村さんは意訳多いからなぁ・・・
0241神も仏も名無しさん垢版2016/10/05(水) 23:43:25.61ID:noiKa5hB
http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ
「ブッダのことば」岩波文庫 中村元
376
「智慧ゆたかなゴータマ(ブッダ)さま
わたしはあなたにお尋ねしますが
教えを聞く人は、家から出て出家する人であろうと
また在家の信者であろうと、どのように行うのが善いのですか?

393
在家の者の行うつとめを汝らに語ろう
このように実行する人し善い<教えを聞く人>(仏弟子)である
純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人(在家者)がこれを達成するのは実に容易ではない
394
生きものを(みずから)殺してはならぬ
また(他人をして)殺さしめてはならぬ
また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ
世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、すべての生きものに対する暴力を抑えて
395
次に教えを聞く人は、与えられていないものは
何ものであっても、またどこにあっても、知ってこれを取ることを避けよ
また(他人をして)取らせることなく、(他人が)取りさるのを認めるな
なんでも与えられていないものを取ってはならぬ
0242神も仏も名無しさん垢版2016/10/05(水) 23:55:40.54ID:noiKa5hB
 
註376

教えを聞く人

   ↓

ある時期から在俗信者は「仕える人」と呼ばれるようになった
0243釈尊は引き籠り、慧能は夜逃げした。垢版2016/10/07(金) 01:44:11.50ID:x1uHXyCh
今更だけど
性奴隷づくりの為に脳科学の研究者に
人が頻繁にさらわれて居るような時代に
愛とか言っている事自体がかなり世間ずれしているよね
0244神も仏も名無しさん垢版2016/10/08(土) 17:40:10.31ID:isKjJclf
そのようなことを求めるのは愛を欲しているからなのですよw
愛しか動機はないのです
しかし、どのようにしても真の愛は、自己の内にあるので宗教のほうが、楽なのですね
0246神も仏も名無しさん垢版2016/10/08(土) 23:32:58.71ID:4/w1A7DD
14. DhammikasuttaM
EvaM me sutaM
ekaM samayaM bhagavA sAvatthiyaM viharati jetavane anAthapiNDikassa ArAme.
Atha kho dhammiko upAsako pancahi upAsakasatehi saddhiM yena bhagavA tenupasaNkami;
upasaNkamitvA bhagavantaM abhivAdetvA ekamantaM nisIdi.
EkamantaM nisinno kho dhammiko upAsako bhagavantaM gAthAhi ajjhabhAsi ?
378.(376)
PucchAmi taM gotama bhUripaJJa, kathaMkaro sAvako sAdhu hoti;
Yo vA agArA anagArameti, agArino vA panupAsakAse.
395.(393)
GahaTThavattaM pana vo vadAmi, yathAkaro sAvako sadhu hoti;
Na hesa labbhA sapariggahena, phassetuM yo kevalo bhikkhudhammo.
0247パーピマン垢版2016/10/09(日) 00:05:54.58ID:X//xLaqH
ん????

ダンミカの章? なんで?
0249パーピマン垢版2016/10/09(日) 01:04:11.11ID:X//xLaqH
ああw そういうことねw
0250神も仏も名無しさん垢版2016/10/09(日) 09:07:12.54ID:AB46fkQh
サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/
0251宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/10/10(月) 16:55:56.34ID:+7Qn35JV
深夜未明、1時間番組として放送された『萬福寺音舞台』を観た。
黄檗禅の起床〜朝の修行の様子にとても感銘を受けました。
そして、中国舞踊家ヤン・ウーが披露した「孔雀の精霊」の演舞が見事で美しかった。
人の一生と生死を体現する象徴しての孔雀は、最後に死して月に帰り精霊となったことを表現した舞踊で、
彼女はこの「孔雀の精霊」をもう十二年間も演じてきたという。

寺院で開催されるこれらのイベントやコンサートは素晴らしくて、とても魅了されます。
世界人類は言語によって分断されているけれども、
音楽と舞踊はその言語の違いを超えて世界中の人々にメッセージを伝えることができる。
0252神も仏も名無しさん垢版2016/10/11(火) 11:17:00.16ID:4edJHwX4
http://himasoku.com/archives/51973290.html

1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/10/10(月) 10:06:46.20 ID:lj3CDnQg01010.net
68日間断食で少女死亡=過失致死の疑い、家族訴追―インド
時事通信 10月10日 4時34分

 【ニューデリーAFP=時事】インド南部ハイデラバードで4日、68日間の断食を行ったジャイナ教徒の少女(13)が断食終了の2日後、心臓まひで死亡した。

 断食を強要した過失致死容疑で家族が訴追された。警察が9日、明らかにした。

 家族によると、少女は68日間一切食べ物を食べず、1日2回お湯を飲むことだけが許された。
少女が断食を完遂した際には盛大な祝祭が行われ、多くの政治家らも集まり、参加者は記念撮影に励んだ。
葬儀にも600人以上が参列し、少女を「子供の聖人」とたたえ、死を祝福した。

 地元メディアによれば、宗教指導者が家族に対し、傾いた家業を立て直すために少女に断食させるよう助言していた。
少女の祖父は「孫の信念で行ったことで、誰も強要していない。去年は34日間、一昨年は8日間断食した」と反論している。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161010-00000013-jij-asia
0253パーピマン垢版2016/10/11(火) 23:12:04.12ID:1MNOxJ7x
いかんねえ。

> 地元メディアによれば、宗教指導者が家族に対し、傾いた家業を立て直すために少女に断食させるよう助言していた。

宗教を世俗の利益とリンクさせようとすると、ろくなことが起こらん。
まさに家族がクソ。
0254神も仏も名無しさん垢版2016/10/14(金) 03:18:40.28ID:Ged8qcf+
【大いなる言葉たち】

「科学を真剣に追及する人は誰でも人間の意志よりも優れている『ある意志』がはっきりと
宇宙の法則を示していると確信するようになる」  

- アルベルト・アインシュタイン -
(1963年フィリス・ライトという学生に
科学者は祈るのか?と聞かれた時の回答)
0255パーピマン垢版2016/10/14(金) 09:35:44.35ID:kXM3qWdQ
>>254wwwwwwwwwwwww

それは、アインシュタインがよく言ってた「自然法則」に対する畏敬の念の
表明だよw

彼は、科学者として、常に自然に対して畏敬の念を表明してきた。
それは「スピノザの神」という表現で表した時もあるが、決して背後にある
「超越的な干渉者、創造者」を許容するものではなかったw

(しかし、なんでアホ宗教者ってのは、「アインシュタインは有神論者だった」
と言いたがるのかねえ?ww そんなに権威が欲しいのかね?
それは、裏返せば、自分の信仰に自信がない ことの現れなんだがw
事実を事実として見て、「アインシュタインは否定するかもしれないが、しかし、
私は信じる」・・・・と言い切れば良いものをww)
0256パーピマン垢版2016/10/18(火) 08:58:12.12ID:InbfWu/Y
あげ
0257神も仏も名無しさん垢版2016/10/22(土) 07:47:59.40ID:e1iGRKM7
age
0259パーピマン垢版2016/10/24(月) 21:58:10.93ID:TJ8A1j9i
何の意図でリンク張ったのか知らんが、アインシュタインは、神など
信じていないでしょ?ww

彼は、あくまでも「自然法則の神秘について畏敬の念を表明しているだけ」ww
0260神も仏も名無しさん垢版2016/10/25(火) 06:02:26.83ID:ri5cfk2S
その神秘の力を神とか創造主とか仮定してるわけでしょうな
0261パーピマン垢版2016/10/25(火) 08:49:01.70ID:WgMMm+PL
>>260 wwwwwwww

少なくとも、アインシュタインはしてねえよw
彼は、一般的概念に相当する「神」だの「創造主」だのは、「幼稚な概念」
として排斥しているww
0262神も仏も名無しさん垢版2016/10/25(火) 10:06:29.15ID:VsVNoy5s
ある日のこと、仏陀は、ウッカッタの町の、
スバガ林にある、サーラ樹に止まられていた。
そのとき、梵天のバカに、邪なる見解が生じた。

“この世界は、常住であり、無常ではない。
生じず、老いず、死なず、滅せず、変らない。
不壊にして不滅であり、唯一にして絶対である”

この様子を、神通により見とめた、仏陀は、
あたかも、力の強い者が、腕を曲げるように、
梵天界に現れて、大梵天に対して、こう言った。

「この世界は、無常であり、常住ではない。
大梵天よ、邪なる見解を、抱いてはならない。
バカよ、悪しき無明の闇に、陥ってはならない。」

そのとき、第六天である、悪魔パーピマンは、
独りの梵衆天に取り付いて、このように言った。

「比丘よ、大梵天に、逆らってはならない。
大梵天に従うなら、善趣に生まれ変るだろう。
創造主に逆らうなら、悪趣に生まれ変るだろう。」

すると、仏陀は、パーピマンに向かって言った。

「私が見抜けないとでも、思っているのか。
悪魔よ、私は、汝のことを、良く知っている。
第六天よ、汝は、私のことを、何も見とめない。」



この梵天のバカと同じく無明のうちにとらわれたのが他ならぬアインシュタインである。
彼はこの宇宙は無始無終で不変であるという「静止宇宙モデル」を打ち出したが、これは彼の無神論に基づく説でもあった。
聖書の宇宙創造の神話を明確に否定したのである。
後にハップルが銀河の観測によりドップラー効果で遠くの銀河ほど赤みがかって見えることに気づき、「膨張宇宙説」を発表、
ハップルの研究内容を確認し、自らの説が間違っていたことを認めたアインシュタインは「生涯で最大の不覚だ」と語ったと言われている。

インドの創造主は宇宙は常住であるといい、ユダヤ人無神論者で創造主を認めなかったアインシュタインも宇宙は常住であるとした。
どちらも悪しき無明の闇に陥っていたのである。
0264神も仏も名無しさん垢版2016/10/28(金) 10:33:30.63ID:FKyVdTFX
「結局、仏教は他の勢力によって滅ぼされたのではない。仏教はインドの風土に合うことなく自然死していったのだ」
「ジャイナ教は賢明にもこの点でヒンズー教に妥協した。インド哲学の主流である有の哲学の立場をとり、
インドの現状を認めカースト制度を認めた。賢明にもインドの伝統的、支配的な風潮と妥協した」

  ジャワハルラール・ネルー(インド初代首相)「インドの発見」より
0265神も仏も名無しさん垢版2016/10/28(金) 23:36:57.97ID:xMxYG6on
真実は一つです。 

幻しか見えない者には到底理解できないでしょう。
0266神も仏も名無しさん垢版2016/10/28(金) 23:51:09.69ID:ml8FOSyj
一切は幻に過ぎない、ってのが縁起の骨子じゃなかったのか?w  >>265

一切諸法は縁起性なるゆえに(≒幻しかないのに)、そこに実体や永遠を見ることが顛倒妄想だとお釈迦さんは言ってた筈だが・・・


幻しか見えないどころか、幻しかないわけでねw
0268神も仏も名無しさん垢版2016/10/30(日) 12:18:36.95ID:AD+Sx0XI
age
0269神も仏も名無しさん垢版2016/11/02(水) 02:20:11.63ID:SePaVUu7
age
0270神も仏も名無しさん垢版2016/11/04(金) 22:26:39.96ID:A+ICmMSa
age
0271パーピマン垢版2016/11/05(土) 11:10:40.11ID:+bYhmsg3
南直裁のブログ読むと、ホントこいつ禅坊主らしくないww
10月20日のやつねw

かれは、「死」「死者」「死体」「遺体」・・など、それぞれの語彙に異なる
意味づけをして、独自の死生観を語るが・・・

まあ、曹洞宗の坊さんとしても特異な存在だなw
しかし、その語るところは趣旨明晰で、単に観念論に流されることなく
世俗的価値体系も見据えて、実にしっかりしたものですなw
(まあ、10個に一つは全く賛同できないのもあるがww)

こういう仏教者は貴重だよw  特に現在の日本においてはねw

・・・・・すぐに、「悟り」とは・・・、「本当の自分」とは・・・
と語りだす、「なんちゃって覚者」さんは、もう一度、南に弟子入りすれば
いいのにw 10月30日のかれみたいにww
0272童天垢版2016/11/05(土) 11:16:33.12ID:06JNLEyD
パーピマンさん、初めまして!
良い天気で嬉しいです。なんちゃって、で済ませられるならお笑いとして、
立派に成立しますよ(笑)
では!今日は坐禅会と祖母の家に行かないと!
0273パーピマン垢版2016/11/05(土) 11:49:19.76ID:+bYhmsg3
wwwwwww

なんか、やたらとポジティブな奴がww

のりが勇太とかいうのと似ているなw 別コテか?w
0275 ◆Ozyaruuowd4U 垢版2016/11/06(日) 06:47:18.29ID:NDj9hL1P
 
童天さん初めまして、[ おじゃる ] でつ
「(たとえば「すべて無である!」という机先生のような
  なんちゃって覚者タソも)立派に成立しますよ(笑)」ということかしらん?

おじゃるの場合は
仮設としての
地水火風空識に依存して現れ変化している
仮の現れが「ある!」と掴もうとしている − 有相唯識派でつ m(_ _)m

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派
中観自立派
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう

誰かが(無明に依存して妄想して)分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています
これこそ「火自体の側にあるところの、火を火たらしめている本質的な要素」であり、すなわち火の自相なのです

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット ニンマ派
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である
実体をもって(自立して、「自性がある!」として)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
(たぶん↓中観帰謬派?)
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常(「変化しないもの」ではない)という理に自らの心を馴らしていかなければなりません
0276 ◆Ozyaruuowd4U 垢版2016/11/06(日) 07:30:23.57ID:NDj9hL1P
>>275 (有相唯識派)の続き

内山興正氏も、曹洞宗の坊さんとしては特異な存在かも?

基本的には?
「すべて無である!」という禅宗系と
仮の現れとして「ある!」とする有相唯識派は、対立関係のような気がするけど?
(禅宗系?のセブン先生と、後期大乗密教の縁起一代先生に聞いてみないと、わからないけど…)

http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
内山興正 曹洞宗

死者の霊魂や死後の世界は本当に存在するものか?
(ある老医師が「死後の霊魂はあるかないか」についてアンケートを送ってきた話の続き)
こんな算術に対しては,はっきり「霊魂はある」「いま貴方がたたかっている相手がそれなのだ」といわねばなりません
こんな先生にもし亡霊など全くないことが科学的であり,仏法の「諸法無我」は現代の科学と一致するなどといえばとんだことになります
「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいますから
その点,仏教では昔からのインド人の信仰であった輪廻転生説を受け入れ,そのまま説いているわけですが
もしこの「諸法無我」を客観的真理のコトバとするならば,この輪廻転生を荷う主体がなくなり,因果歴然の教えも無意味となってしまいます
それが有部の『倶舎論』などでは無我とはいわず,破我といい,そして業感縁起を説きます
さらに無著・世親の唯識系統では阿頼耶識説を説くことにより,いまいうような霊魂についてばかりではなく
われわれ日常行為における因果関係についても,まったく詳細巧妙に説明する心理学を展開しています
そういうつもりで唯識教学(有相唯識派とか・無相唯識派とか)
などを勉強すると,われわれの実際修業における日常生活の心構えにも大いに役立つと思います
(『いのち楽しむ 』-3死者の霊魂や死後の世界は本当に存在するものか?(p17-)より)
0277童天垢版2016/11/06(日) 08:27:46.84ID:FTs75lNn
文が長くて読めないぬ…今日はピクニック!
握り飯とお茶持って、風が吹く方へ進んでいけば、良いベンチの一つはあるでしょ。
良い天気だ!
0278童天垢版2016/11/06(日) 08:32:18.30ID:FTs75lNn
僕が2chにあまり書き込まない頃から、おじゃるさんの事は知ってました。
マハシゴエンカパオ?ていうスレで見たかな?
よろしくお願いしますね。
0279 ◆Ozyaruuowd4U 垢版2016/11/06(日) 08:33:06.95ID:NDj9hL1P
>坐禅会
http://www.myoshinji.or.jp/faq/faq_04.html
曹洞宗は黙照禅(もくしょうぜん)と言われ
「人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない」
と言う立場から、ひたすら黙々と坐禅する只管打坐(しかんたざ)を説きます

たとえば↑この大乗1.0は意味が、わかりにくいけど

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の停止は
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである

(中論も大乗1.0だと思うけど、それでも)この↑テーラワーダ2.0のような説明の方が、わかりやすいかも?

第十八章 自己と実在物の考察
行為〔カルマ〕と苦悩(煩悩)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの(戯論)に由来するのである
作り出されたものは空性によって消滅する

http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智(智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
1119
つねによく気をつけ、「自我は、あるはずだ!」と固執する見解をうち破って
世界すべて一切を「空性である(「変化しないもの」ではない)」と観察せよ

この↑テーラワーダ2.0のような説明の方が、わかりやすい(実践したことないけど…) m(_ _)m
0280童天垢版2016/11/06(日) 08:39:37.34ID:FTs75lNn
ふわぁー眠い。寝不足だ。
文字が目に入らないです…もう修行はいいや。
テーラワーダより大乗経典の方が読んでて楽しかった。内容覚えてないけど。
0281 ◆Ozyaruuowd4U 垢版2016/11/06(日) 09:03:53.55ID:NDj9hL1P
 
>文が長くて読めないぬ

ちなみに
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-13592-1/
〈仏教3.0〉を哲学する
藤田一照 / 永井均 / 山下良道著
発行日:2016年9月

↑この本の永井均氏(日本大学教授。存在論・倫理学・哲学など)も長文で、そして意味も、わかりにくい

podcast法話は毎週聞いてるので山下良道氏と藤田一照のところは、わかるような気がするけど

http://www.onedhamma.com/?p=5136
15/05/24 仏教思想のゼロポイント 魚川祐司氏と山下良道氏(と藤田一照氏)の対話

↑テーラワーダ2.0(あるいは仏教3.0でも良いと思うけど)の勉強の一環として面白いでつ m(_ _)m
0282童天垢版2016/11/06(日) 09:07:37.11ID:FTs75lNn
おじゃるさん、ごめんなさい。気を遣わせてしまいましたか…?
多分そこら辺の本は、全部読んだかと。全部忘れたんですけども。
どんな内容だったかな…あかん思い出せない
0283神も仏も名無しさん垢版2016/11/06(日) 09:10:29.78ID:FTs75lNn
内山興正師の本も、ダライラマの中論入門も、多分仏教本は大方全般読んだかと。
シャーンティデーヴァの入菩提行論とかも読んだかと。
でもスッカリ思い出せなくて…中論って何だったけ?アビダルマって何だったかな?
お腹減ったから、飯食べてこようっと!後ほど
0284 ◆Ozyaruuowd4U 垢版2016/11/06(日) 09:18:26.11ID:NDj9hL1P
 
>多分そこら辺の本は、全部読んだかと

つい最近のものだけど?
〈仏教3.0〉を哲学する
2016年9月

↑もう読んだのかしらん?

↑この本の永井均氏(哲学とか)の意味が、わかりにくいので読むのに苦労する おじゃる m(_ _)m
0285童天垢版2016/11/06(日) 09:21:34.77ID:FTs75lNn
山下良道さんて日本仏教を1に設定してるじゃん。
そこが話にならないんだよなぁ〜

藤田一照さんは好き。只管打坐への道って本は楽しかった。
半分まで読んで売ったけど^^;
0286童天垢版2016/11/06(日) 09:24:20.12ID:FTs75lNn
一番大事にしてた本は「参禅入門」でした。ずっと助けられた。
これよんでクリシュナムルティの本が読めなくなったんだなぁ…
0287童天垢版2016/11/06(日) 09:28:33.12ID:FTs75lNn
もうちょっとで外出でつ。
腹減った…
0288童天垢版2016/11/06(日) 09:33:44.02ID:FTs75lNn
(本を読了した事がないなんて言えない…)
買うだけ買ってポイッと売ってる。
最初は水野こうげんさんの「仏教要語の本(忘れた)」を読んで必死に覚えようとした。
臨済録 山田無文 と 夢中問答集を読んだら(読了したとは言ってない)
本はあまり買わなくなったな〜
0289 ◆Ozyaruuowd4U 垢版2016/11/06(日) 10:38:53.82ID:NDj9hL1P
2ちゃんねるの鯖が落ちる場合もあるので
おじゃるは↓ここに居る場合もあります

今一人で飲んでる人一緒に飲も♪Part.1
http://super2ch.net/test/read.cgi/nakayoshi/1427305881/?s2
(super2chの鯖が落ちる場合もあるけど…)
ちなみに、おじゃるは内臓の働きが悪いのでアルコール類は飲めないでつ

↓本家2ちゃんねる
お前らがLinuxを見限ってWindowsに戻ってきた理由
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/win/1380132522/363
ID:O3hWmHU/

↑ここに書き込みしてる場合もあるかも

 ☆ それでは色々と、ご教示していただき、ありがとうございました ☆

准胝観音
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん
ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
0291pa-pimann垢版2016/11/08(火) 22:03:34.91ID:aan71mqI
聖典、経典 などは、てにをは などの助詞一語、あるいは、
訳語にどのような語彙を選択するかによって、全く異なる意味合いに
なってしまう場合も多いしなw

どうしても訳者の思想が反映して、
バイアスがかかってしまうw

・・・・難しいねw
0292神も仏も名無しさん垢版2016/11/09(水) 06:29:25.26ID:JD90mu/L
>>271
分別くさいね
なんちゃって覚者こそ、ほんものww
厳しいのがいいってことはないのさよ?
悟りとは、これ以上ないとゆーことで、本当の自分とは自分のことなのであーるww
なんちゃって笑
0293神も仏も名無しさん垢版2016/11/09(水) 06:35:16.74ID:JD90mu/L
>>291
仏典はだいたいおんなじこと書いてあるやんw
執着するなでしょ笑
0294神も仏も名無しさん垢版2016/11/13(日) 23:36:27.81ID:uD3SzJj6
age
0295(私訳)垢版2016/11/14(月) 00:23:21.37ID:M2BF99HM
AN.T
5、『求輝品』
49. 比丘たちよ、この、清らかに輝く「心」というものがあり、
それはまさに、些末な煩悩によって染まっている、と。 
(これが、心清浄を求めるに際して知るべき九つ目である。)
50. 比丘たちよ、この、清らかに輝く「心」というものがあり、
それはまさに、些末な煩悩から脱し得るものである、と。
(これが、 ―― 十箇目である。)

6、『仙衣品』
51. 比丘たちよ、この、清らかに輝く「心」というものがあり、
それはまさに、些末な煩悩によって染められたものである。
教えに与っていない者(凡夫)は、このことを、そのようなものと知らないので、
「凡夫には心が制御されるということがない」と、言われるのである。
これが第一偈。
52. 比丘たちよ、この、清らかに輝く「心」というものがあり、
それはまさに、些末な煩悩から脱し得るものである。
教えに与る者(聖聞の弟子)は、このことを、そのようなものと知っているので、
「聖なる弟子には、心の制御がある」と、言われるのである。
これが第二偈。


ポイントは、
前後の文脈も併せ、「心を整え、煩悩に影響されないようにして」、
そのようにして、むしろ、「善なること・正しきことによって修める・制御する(≒染める)」ことが
要求されている点。 確かに、白い布を汚れ(煩悩)から守ることも重要だが、それだけではだめで、
そこに、正しき心業を上書きする必要がある点で、最終的な無垢なる善・完全な自我とは程遠いと言えそう。
0296神も仏も名無しさん垢版2016/11/14(月) 04:49:55.39ID:x1jB3hYg
>正しき心業を上書きする

たとえば(八正道の正見とかで)洗脳するみたいな?

ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院 パオ・セヤドー
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/30/093308
生滅随観智まで修行した時
未来において
阿羅漢果と般涅槃を証悟する状況を見る事ができます
たとえば
20歳の時に阿羅漢果(有余涅槃?)を証悟する事によって、すべての煩悩が滅尽し
60歳で般涅槃(無余涅槃?)する時、すべての名色が滅尽するのを見る事ができるでしょう

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
五蘊は生起するや否や、即刻壊滅します
それらは無常です
これは刹那生滅です
(それゆえに、変化しないものではない)
(「変化しない」という意味の「我」ではない)

無明・渇愛・取・行及び業というこの五種類の因が
阿羅漢道智によって余す所なく滅尽する時
五蘊もまた般涅槃の時に、余すところなく滅尽します
因縁滅を了知する智慧を、因縁滅智と言います
0297神も仏も名無しさん垢版2016/11/14(月) 05:19:10.65ID:x1jB3hYg
テーラガーター<和訳>(和訳;正田大観)
2
その名のままに、その姓のままに、法(真理)の住者たるままに
確固たる信心のままに、休むことなく励む、智慧ある者たちが、世に住した
3
彼らは、そこかしこに不滅の境地を観て、あるいは体得して
自らが為し遂げたことをあるがままに観察しながら、この義(意味)を語った
  _  _  _

無明の暗闇に覆われた世界の中での
「自分の自我が不滅である!」という意味ではなくて

たとえば
智慧を以て
智慧の世界を知覚して
智慧の世界に住んで
智慧の世界から観察して、そして

滅智に触れて
(たとえば「自分の自我は不滅である!」と掴もうとしている想いとかが)
滅して、そして
現れることもなく滅することもなく
涅槃(不滅)

↑こんな感じかしらん?
0298神も仏も名無しさん垢版2016/11/17(木) 00:56:05.18ID:sfIjBBgv
age
0299神も仏も名無しさん垢版2016/11/18(金) 07:35:20.46ID:ovyd63Qj
297.296.
心理学をやっている場合ではないよ。
宗教とは何か、を理解していない。
宗教問題を区別できないバカが多い。
0300パーピマン垢版2016/11/18(金) 22:32:00.54ID:Zpn3+kwz
先日、各宗派の坊さんたちが、「死というものをどのように捉えてるか?」
・・・・について各見解を述べている著作を読んだんだが・・

まあ、各人、それぞれの宗派的な方向性があり面白かったんだがw
総論は、「死ぬのはいつも他人ばかり」 なんだよなw

誰も死を体験していない。
(まあ、だからこそ、その捉え方が多様で面白いわけだがw)

ただね、全ての人が、その「解らない死」というものを、分かったような視点
では説いてなかったのはさすがだねw
(その辺が、2ちゃんのアホ宗教者と違うww)

分からないものは、分からないものとして、それとどう向き合うか?
そこを外すと、オカルト馬鹿になったり、なんちゃって覚者になるww
0303神も仏も名無しさん垢版2016/11/23(水) 00:11:14.03ID:P1SOWNEO
ま、>>302を言ってしまうと、
小学校の先生や、トップアスリートのコーチや野球等チームの監督にしても、
必ずしも結果を出せた人物ではなかったりするし、
(特に野球で)「名選手必ずしも名監督ならず」とか言われたりしちゃうんだけれどw
0304パーピマン垢版2016/11/23(水) 01:14:33.04ID:6OfU9UAb
>>303
不世出の天才が、必ずしも後進の指導に長けているわけでもないし、
二流だった選手が名コーチになったりもする。

逆に、生涯200本の本塁打しか打てなかった選手に、王選手の打撃がわかるか?
という疑問も当然あるw

俺としては、「そりゃわからんでしょうw しかし、そこへたどり着く道筋は
示してあげられるだろう。過去の名選手たちの見解や、合理的なスポーツ科学の
理論を元にね。」

・・・・・最もいかんのは、自分自身が超一流選手だと錯覚して、自己の独善的な理論で
指導するバカw

>(特に野球で)「名選手必ずしも名監督ならず」とか言われたりしちゃうんだけれどw

天才にはわからんのだよw 何の苦労もなく自分はできちゃったからw
凡夫の方法論がw 「どうやって上達するのが適切か?」 と悩むのは凡夫の特権w

楽しまなくちゃww
0305神も仏も名無しさん垢版2016/11/23(水) 01:23:26.93ID:P1SOWNEO
方法論(≒現実的方策)に目を奪われると部派になり、
精神論(≒理念)に傾倒すると大乗かw


仏教ってのは、つくづく難儀やな・・・
0306宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/11/23(水) 19:05:19.71ID:1lnXKYOI
バランスの問題ですよ。

完成された覚者にならなければ利他の救済(自己の救済に対していう)は一切行わない、
などという完成者がいるのか? というと、そんな完成者がいるわけがない。
利他の救済と実践抜きで完成に至るなどということができよう筈がないです。

つまり、完成しなければ利他の救済の実践をしないという見解は間違ったものであるし、
完成者でなくても、今の自分にできる範囲での利他の実践は十分に可能。
ゴータマの説かれた教えがそもそもそうだったように、
利他の実践を自己の向上のための修行と位置づけて理解するのが本来の大乗理念でしょう。
そして、“仏の慈悲”という精神性が
自己内から自然と発露してくるのが完成者(覚者)というものです。

ただ仏教史上、
自己の救済のみに専念するような伝統グループがいた(らしい)ということ。
0307因縁果 ◆d........o 垢版2016/11/23(水) 19:14:30.52ID:Sd/ohqm/
ん?
利他の救済の実践?
違うな・・^^

無分別なんだよな・・^^
他人から見て利他の救済の実践してると見えるだけ^^

つまり・・
本人は利他の救済の実践を意識していない^^
利他の分別がないだけである^^

となる^^
0308因縁果 ◆d........o 垢版2016/11/23(水) 19:20:45.81ID:Sd/ohqm/
利他の救済の実践がゴータマの説かれた教えだとすると・・

それは偽者であると^^

こうなる^^
0309因縁果 ◆d........o 垢版2016/11/23(水) 19:22:45.29ID:Sd/ohqm/
つまり・・^^

「おまいらが悪い」とこうなる^^

自然の摂理である^^
0310宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/11/23(水) 19:32:23.57ID:1lnXKYOI
それは如来の意識においては、
自己と他者という分別(分離感覚)というものはない、
ということを意味しているということ。

素直じゃないな...
屁理屈は止めたほうがいい。
0311因縁果 ◆d........o 垢版2016/11/23(水) 19:33:43.65ID:Sd/ohqm/
1・空無辺処
2・識無辺処
3・無所有処
4・非想非非想処
5・滅尽定

ん?

5・滅尽定 までいくことが利他の救済の実践になるのかな^^

う〜〜ん^^

難解である^^
0312因縁果 ◆d........o 垢版2016/11/23(水) 19:35:00.15ID:Sd/ohqm/
究極に言えば「利他の救済の実践」は煩悩であると^^

こうなるんだが^^
0313因縁果 ◆d........o 垢版2016/11/23(水) 19:35:58.06ID:Sd/ohqm/
とりあえず止めとく^^

「生滅を滅し終わって、寂滅をもって楽となす」
0314因縁果 ◆d........o 垢版2016/11/23(水) 19:48:49.37ID:Sd/ohqm/
すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、
智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。

「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが
我ではない(諸法無我)と観察し、これを智慧によって理解すると、
清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。

だいたいこれ仏教^^

この智慧 とは無分別智のことかもしれない^^
0315神も仏も名無しさん垢版2016/11/23(水) 23:48:29.94ID:etBXJ2Gt
目の前で自分の母親と自分の子供が溺れているが、
一人しか救えない、どちらを救うか?
0317宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/11/24(木) 00:08:18.16ID:kLPiVb4W
>>315
私だったら、たぶん...。

自分が援けられる側を。
つまり、自分の近くにいる側から援けると思う。
自分に最も近くにいる人をそのまま見殺しにすることはできない。
まず自分の近くの人から援け、次に遠くの人も助けられるかどうかはやってみなければ分からない。
0319因縁果 ◆d........o 垢版2016/11/24(木) 03:05:00.94ID:gff9MaZd
「それから最後は無縁の慈悲です。
これを出離の縁のない者に対する慈悲というように解される
ときがあるようですけれども、それは、仏教の教義としては
まちがいで、対象のない慈悲ということです。
対象がないということはすでにおわかりのように、空性ということ、
空という事実においてはたらく慈悲が無縁の慈悲なのです。」

対象のない慈悲・・空性における慈悲なんだよな^^

すなわち慈悲は対象を持たな無分別智であると・・
0320因縁果 ◆d........o 垢版2016/11/24(木) 03:07:43.59ID:gff9MaZd
「無縁の慈悲を行える者には、自我を立てて、他人という対象をたてないで、
慈悲を行う。「私があなたを救う」ということではない。
結局、エゴイズム、二元観を自己が超えていかない限り救いはない。
指導者は救えない。比較がないから、エリート主義も差別もない、
「俺が救う」という観念がないから、傲慢もない。」


こうゆうことなんだよな^^

てなことで^^
0321因縁果 ◆d........o 垢版2016/11/24(木) 03:15:13.99ID:gff9MaZd
1・空無辺処
2・識無辺処
3・無所有処
4・非想非非想処
5・滅尽定

そうなると・・

これらから対象のない慈悲・・空性における慈悲が・・

う〜〜ん^^

慈悲の概念はすでにないか・・^^

そうゆうものなんだよな^^
0322神も仏も名無しさん垢版2016/11/24(木) 06:14:59.04ID:a8lkA81W
>>316 >>317
何かの講演会での出来事だそうで、いろいろな観点から
何方を救うべきか侃侃諤諤する学者に対し、
「そんな事していたら両方とも溺れてしまいますわい」
と仰ったそうです。

利他の救済とはそういうものかとおもうのですが。
0323神も仏も名無しさん垢版2016/11/24(木) 08:06:47.54ID:FvEwW08i
322.
それは生活の問題であるよ。
それは宗教の問題ではない。
宗教とは何か、を理解していない。
0324バービーちゃまへ伝言垢版2016/11/24(木) 11:25:47.93ID:aLd0gATI
因縁果 はほっとけば、独り言でスレを埋め潰す、ノスタルジア・タイプなので早期弾圧処置を・・・。
0326神も仏も名無しさん垢版2016/11/24(木) 12:31:25.21ID:v2TiEQkM
>>322
だからw
誰が出した問題だかしらんが、
たとえ『世俗の論理に於いても』、未来ある子供を助ける選択しかありえないわけ。
妻と子供であったとき、或いは兄弟、或いは双子であったときなど、
その時初めて、公案として成立すんだよ。
激しい対立、激しい葛藤が、(或いは矛盾が)生じる条件設定でなきゃ意味ねーよ。


何にも解ってない奴が問題作成したとしか思えんわ。(嘆


参:http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1462958382/591以下
0327神も仏も名無しさん垢版2016/11/24(木) 14:13:20.12ID:a8lkA81W
母だの子だの分別している、壁打ち土左衛門。
0328パーピマン垢版2016/11/26(土) 10:46:26.27ID:RG0pchQT
E・マッハのスタンスというのは、極めて仏教的視座と親和性が高いと思うなw

・・・・・と、ある本を読んでいてふと思ったw
0329パーピマン垢版2016/11/26(土) 10:53:52.53ID:RG0pchQT
公案 というのは、少なくとも、「世俗的思考、常識で解答が得られない」
問いであることが必須要件でしょうw

だから、母親と子供では、その選択制において対称となりえないから不可w
論理的思考の解決法を完全に拒否してこその公案でしょう?
0330神も仏も名無しさん垢版2016/11/26(土) 11:35:45.85ID:Xr1W2RYU
あれは「利他の救済」について私見を述べる為の伏線で、
無理会話として投げたんじゃないだけどなぁ。
何で公案に結びつけちゃうのか・・・

「利他の救済」に親しい公案といえば「趙州の石橋 」
に「驢を渡し馬を渡す」というのを想起しますが、
この見解はただしいでょうか?

教えてください、縁の下の力持ちのかた。
0331神も仏も名無しさん垢版2016/11/27(日) 15:25:47.63ID:Tmblyt2t
>>330
>何で公案に結びつけちゃうのか・・・


(別人かも知らんけど)

>>322 >そんな事していたら両方とも溺れて  >利他の救済とはそういうもの
コレ↑が、
>>317(及び>>316)に対しての、『公案的視座からの批評(嘆息)』でなくて何であろうか?とw

この角度から評が出ること自体、既に、―まるで試験の模範解答との比較の如く!―、
公案的読み方の立ち位置であるのは明白だと見受けられるけど?
0332神も仏も名無しさん垢版2016/11/27(日) 20:11:11.77ID:f5uknnZT
>>331
わかりました。
何処かの禅会では、自分で公案を創り自ら錬るそうですが、
貴殿がそう観ておるのであれば、小生は異存ありません。
まぁ所詮は公案的視座なので、畳の上の水練という事で
ご容赦下さい。
0333神も仏も名無しさん垢版2016/11/29(火) 09:54:38.73ID:f9t0verG
ばーびーちゃまが。公案ネタ出すから、
妄想患者机が湧いてきたじゃないかw
公案ネタなんて2chじゃ一害あって百利なしだw

だから、俺は公案ネタを載せる馬鹿共を弾圧してきたのだがww
0334神も仏も名無しさん垢版2016/11/29(火) 11:43:20.56ID:RrV4L9t1
随分と香ばしい奴だなw
2ch初心者かwww
0335神も仏も名無しさん垢版2016/11/29(火) 18:40:32.02ID:IUG4RUCG
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1348383310/
272 神も仏も名無しさん ▼ 2016/11/29(火) 18:27:37.05 ID:XqimJaly [1回目]
>> 270
イスラム教は、砂漠の不毛な場所の、特別な宗教ではない。
それはムハンマドがそうであったように、コーランがそうであるように、
ギブアンドテイクの商人の宗教だった。
相手の利益を掠め取るのがイスラム教の本質なのかもしれない。
それはキリスト教のような暴力的な略奪ではないが、
より狡猾な略奪だと言えないだろうか。
 
イスラム教の背後には、「コーランか剣か」が常に控えている。
0337チラ裏垢版2016/11/29(火) 23:40:08.50ID:IUG4RUCG
NHKでリオパラリンピックの裏方の番組してたけど、
1点グッと来て1点なるほどと思った。
一つは、モーリシャスの水泳コーチ。
自国選手は二人だけ。「メダルは?」の問いに、
「とんでもない!(笑)(→おこがましい)」。参加して経験ができれば(積めれば)いい、と。
それが、謙遜とか卑下でなく、あまりに素直な言葉過ぎて不覚にもウルっと来たw
もう一つは、ブラジルの片足アーチェリー選手。
試合前、「成功した(≒勝った・入賞した)姿を誰に見せたいか?」という問いに、
その以前に、家族を含めたこれまでの境遇の映像を散々流していたから、
(おそらく視聴者全員そうだったかもしれんが)、「家族」「兄弟」「母親」という回答が予期されたところへ、

 『「自分」「自分自身」に見せたい』

と。 目から鱗というか、ガツンと殴られた感じというか・・。
それは、不安に怯える、未熟な自分に、かもしれないし
過去の、あきらめの中にいた自分かもしれないし、今現在あきらめかけている自分かもしれない。
勿論、テレビのこっち側の勝手な想像だけれども。

いずれにしろ、
大乗運動に動いた人たち(或いは鎌倉新仏教ムーブメントもそうだったかもしれないが)の思いは、
(通常競技から、いや、それだけでなく日常の様々な場面から)零れ落ちる人へ
視線を投げるようなところから始まっていたかもしれない。
生来或いは事故等で欠けた要素を有する者(→規定の信仰や修行のレベルに届き難い者)に門戸を開くムーブメントだったのかも、と・・。
0338パーピマン垢版2016/11/30(水) 09:44:53.40ID:Z9TGpWAu
>大乗運動に動いた人たち(或いは鎌倉新仏教ムーブメントもそうだったかもしれないが)の思いは、
>(通常競技から、いや、それだけでなく日常の様々な場面から)零れ落ちる人へ
>視線を投げるようなところから始まっていたかもしれない。
> 生来或いは事故等で欠けた要素を有する者(→規定の信仰や修行のレベルに届き難い者)に門戸を開くムーブメントだったのかも、と・・。

だいぶ、大乗に好意的な視座だが、オレもそれは十分あったと思うねw
(親鸞などは、まさにそうだしw)

だが、そこからさらに調子にのったバカが、「小乗は利他がないから下等」とか
やりだすんだよなw

それに対して上座部なんかがすぐに反応して、「大乗は似非仏教」とwww

全くどうしようもない低レベルのケンカwww
0339神も仏も名無しさん垢版2016/12/02(金) 21:16:17.86ID:UKXgdf7W
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1348383310/278

仏教は、足を切ったり何だしない代わりに、
ベッドのサイズに合う人だけが横になれる宗教かも?

で、サイズのバリエーションを増やそうとしたのが大乗運動であり、鎌倉新仏教かも?




さて・・
規格の継承(厳守)とニーズへの適応、両立不可の二者択一か否か?
0340パーピマン垢版2016/12/03(土) 07:37:55.04ID:jM3H6Bbo
>>339 
まず、宗教について考えるとき、最もありがちで、そして、やっかいなのが
「自分とこのみを尊しとして、他を排斥する攻撃性の強いもの」
・・・・・これが宗教の持つ最大の欠点だが、各宗教について濃淡はあるなあ。

イスラム原理主義が一番ひどいかな?w
仏教でいうと日蓮かww

仏教は本来、「来たい人は来てみたら? 貴方の抱える苦の除去が出来るかもよ?」
っていうスタンスで、決して「信じなければ地獄いき」なんてものではなかったw

その方法論も、「対機説法」が基本で、各個人に最もあったやり方で、その人の
苦を消去するのが原則w

各個人が仏教と接するやり方も、一通りに限定してしまうと、どうしても
それが出来ない人も出てくる。

それに対して、多くのバリエーションを提供してくれたのが大乗で、そこが
大乗の最大のメリットなんだが、・・・・

そのうち、バカが「自分とこの宗派以外は地獄いき」と言い出すww

・・・・・もう少し、釈迦のもってた柔軟性を理解しろとww
0341神も仏も名無しさん垢版2016/12/03(土) 13:55:35.11ID:8zg81Ji7
大乗仏教は欠陥はあるものの一神教やヒンドウー教よりは全然マシな教えです。
(アルボムッレ・スマナサーラ)
0342パーピマン垢版2016/12/03(土) 23:27:30.83ID:jM3H6Bbo
>大乗仏教は欠陥はあるものの一神教やヒンドウー教よりは全然マシな教えです。
>(アルボムッレ・スマナサーラ)

漠然としすぎてるなあw

具体的にどういうところが、どういう風に「まし」なのか述べないと
単なる個人の好悪の話に過ぎなくなるがw
0343パーピマン垢版2016/12/04(日) 05:09:30.11ID:bqwg4Amz
昨日、読んだ記事に「墓じまい」ってのがあった。

ある檀家寺にあった墓を終了して、他に移す。散骨なんかも含めてね。
驚いたのは、そういうのを専門にやってくれる業者がいるらしい。

これからは、そういうのが多くなるのかなあ?
寺との付き合いを煩わしいと感じる若い世代も多いそうだし。

しかし、そこに出てきた話・・・・・戒名代金、百万ww
院号なんかねえ?w  しかし、百万は高いなあw

確か、談志は自分でつけてたなあw タダだww
0344おじゃる垢版2016/12/04(日) 14:36:34.29ID:coerWSqL
 
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50887911.html
スマナサーラ長老

「リンゴは果物である」というのは正しい
「果物はリンゴである」というのは間違いなのです

リンゴは空性であるけど
「空性はリンゴである」というのは間違いなのです

色(物質とか)は空性であるけど
「空性は色(物質とか)である」というのは間違いなのです
  _  _  _

智慧を以て観察して
仮設としての
地水火風空識に依存して
空性に依存して
色(物質とか)が、現れ滅して変化して逝く
それゆえに
無明の暗闇に覆われた世界の中においては
空即是色?
0345123垢版2016/12/04(日) 14:42:39.52ID:M/0dE3Qh
344.
色、物質が空性に依存して、現れ滅して変化していく、か。
それは存在の問題である。
それは物理学の問題である。
宗教とは何か、を理解していない。
宗教問題を分離できないバカが多い。
0346宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/04(日) 16:17:42.98ID:Ux9bd+DE
>>344
これは例によって、
いつもの通りスマさんの浅はかな誤解による間違いです。

元々、色即是空での「色」と
空即是色での「色」とは同一の意味合いではないからです。
最初の色は単純に物質を示す狭義の意味ですが、
後者における色というのはもっと広義的なものであり、
「空」(空性)に対応するものとしての有為的な一切における物質界の現象すべてです。
ですから、何も間違ってなどはいません。
ということで、これを理解してないのがスマさん。

そして尚且つ、一切外としての涅槃は空ではない。
涅槃に住する如来も空ではない。
涅槃も如来も空とするのは大間違い。
このことを理解してないのが平均的な仏教者。
0347宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/04(日) 18:37:31.33ID:Ux9bd+DE
>>341
スマさんの大乗批判は、
大乗について無知な自分を露呈してるだけ。
ヒンドゥーについては更に何も分かってない。お話にならない。
多神教というのも本当は、
“唯一者”の働きと性質の顕れを示したものに過ぎない。
そのことを一神教徒は理解できない。
0348神も仏も名無しさん垢版2016/12/04(日) 22:07:28.67ID:r3PQTwj0
2.そのときバカ梵天に、このような悪い偏見が起こった。−−−「これは常住である。これは
 永遠である。これは常恒である。これは純一である。これは不滅の性のものである。これは
 生ぜず、老いず、死なず、滅びず、生起しない。これよりも以上に他の出離はあり得ない」
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52238942.html

一神教やヒンドゥー教が無明のうちにとらわれているのは、全ては無常であり常住なものなどないのに
「神様は永遠不滅に存在する」とか「永遠の天国」とか「不滅の真我」とか頭の中での空想したものを実体として、
この世はそれによって創り出されたもとか、その幻影に過ぎないとか、観察によっても検証不能なものをあたかも真理のように扱うからです。
しかしそれは悪い偏見なのです。

大乗仏教の経典「般若心経」では「一切皆空」という教えが説かれています。
「一切は空である。故に全てはない」というのですね。
しかし「一切皆空」の思想はブッダの考えとはズレています。真理ではありません。
そうではなくて、お釈迦様は「諸行無常」と仰ったのです。
0349おじゃる垢版2016/12/04(日) 22:50:14.55ID:coerWSqL
 
「スマさんの浅はかな誤解」という話は、とりあえず仏壇(神棚)の上に置いといて

http://www.myoshinji.or.jp/faq/faq_04.html
曹洞宗? 臨済宗?
「人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない」と言う立場?

↑この大乗1.0の説明よりも
  _  _  _

↓このテーラワーダ2.0の説明の方が、わかりやすい(実践したことないけど…)

ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院 パオ・セヤドー
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2016/11/19/145926
正定
初禅
第二
第三
第四
空無辺
識無辺
無所有
非想非非想
涅槃を目標とし…
0350おじゃる垢版2016/12/04(日) 23:24:05.24ID:coerWSqL
>多神教というのも本当は、“唯一者”の働きと性質の顕れを示したもの

大日如来みたいな感じ?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5
大日如来
(永遠不滅の真理そのもの)」という如来の一尊
大日如来は、無限宇宙に周遍する点では超越者だが、万物と共に在る点では内在者である

後期密教を大幅に取り入れたチベット仏教でも
大日如来は金剛界五仏(五智如来)の中心として尊崇される
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
パーリ増支部に
「比丘たちよ、この心は光り輝いている(法界体性智?)
  ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」
とある(いわゆる心性本浄説)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%99%BA
法界体性智(大日如来の智)
  _  _  _

真言宗、阿闍梨さまの↑縁起一代先生の専門分野かしらん?

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
0351123垢版2016/12/05(月) 00:15:13.40ID:XyIRXlvV
346.
涅槃も如来も空とするのは大間違い、か。
それは空の極限である。
それは空の完成形態である。
このことを理解していないのが宝珠である。
0352宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/05(月) 00:55:45.24ID:tEUFj8Lp
>>351
一切の作られたものが名色であり、縁起空なの。
“涅槃はそうではない”と繰り返し明言した経こそが『ウダーナ』。
空ではないものがある。それが即ちニルヴァーナ涅槃であると。
ゴータマは明らかにしなかったが(無記)、その意識状態を自覚しているのがアートマンに他ならない。
であるから涅槃は空に非ず、そして、涅槃に到達した如来とて同様、空では在り得ない。
無常なる世界に価値は無いと見なすのが仏教。
ならば、その目指すものは常住にして永遠なる境地であるのは当然のこと。
ニルヴァーナ涅槃こそが、不死にして甘露。
諸行無常を知的に理解するだけなら、本を読めばそれで済むこと。
0353神も仏も名無しさん垢版2016/12/05(月) 00:57:00.29ID:Jha4bL8L
大智度論釋初品中三十七品義第三十一 より

何を以っての故に、三界の世間は、皆和合より生じ、和合の生なれば、自性有ること無く、
自性無きが故に是れを、則ち空と為し、空なるが故に取るべからず、取るべからざる相は、是れ涅槃なり。
是を以っての故に説かく、『菩薩摩訶薩は、不住の法もて、般若波羅蜜中に住し、不生の故に応に四念処を具足すべし』、と。

復た次ぎに、声聞、辟支仏の法中には、『世間は、即ち是れ涅槃なり』と説かず。
何を以っての故に、智慧の諸法に深く入らざるが故なり。
菩薩中に説かく、『世間は、即ち是れ涅槃なり』とは、智慧の諸法に深く入るが故なり。

仏の須菩提に、
『色は、即ち是れ空なり。空は、即ち是れ色なり。受想行識は、即ち是れ空なり。空は、即ち是れ受想行識なり』、
と告げたもうが如く、空は、即ち是れ涅槃なり。
涅槃は、即ち是れ空なり。

中論中にも、亦た説かく、
涅槃は世間と異ならず、世間は涅槃と異ならず、
涅槃際、世間際は一際にして異有る無きが故なり。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

龍樹が書いたとされる大智度論では空とは涅槃のことであり、
龍樹菩薩がそうなのだから大乗仏教においては無分別・平等の世界である空こそが涅槃の別名であるとされていると言えるだろう。
だから悟りの目から見れば現世涅槃であり、涅槃と世間は異ならないということになる。

「一切は空である。故に全てはない」のではない。
空という涅槃の世界は無分別なので無相であり、自性のあるもの(恒常の実体)はないというのが正しい。

般若心経に出てくる是諸法空相とか是故空中の空を涅槃に置き換えれば、もともと般若心経は般若波羅蜜による般若波羅蜜多(智慧による彼岸への到達)の視点から説いている経典でもあり、
勝義の世界を説いている経典なのである。
彼岸に到達したら十二支縁起や四諦などの筏は捨ててもよい。
「無無明亦 無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道」とはそのことである。
0354宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/05(月) 01:01:56.75ID:tEUFj8Lp
>>350
>>多神教というのも本当は、“唯一者”の働きと性質の顕れを示したもの
>大日如来みたいな感じ?

はい。
すべての諸仏は大日如来の化身でしかないのです。
ただし、大日如来などというものはただの象徴に過ぎませんけれど。
0355宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/05(月) 01:16:57.04ID:tEUFj8Lp
>>353 :
>空という涅槃の世界は

いえ違います。
涅槃は空ではありません。

生成/形成されたものが有為である一切皆空。
対して、生成/形成されないものがあり、それが無為である涅槃なのです。
それは生起せず、縁起しないから空では在り得ない。
この二つはまったく異なることから、有為からの出離においてそれとして知覚できるのです。
もしも、同じならば出離を知覚しません。

もしも、涅槃も空ならば、
一切皆苦/一切行苦からは免れていず、涅槃は苦の滅ではないことになる。


ウダーナ
8:1 (因縁略)。
『比丘たちよ、このような境地(Ayatana)があります(atthi)。---中略---
依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、
所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。
これがすなわち苦の終わり(anto dukkhassa)です』

8:3 (因縁略)。
『比丘たちよ、
生まれもしないもの(ajAta)、生成もしないもの(abhUta)、
作られもしないもの(akata)、形成されもしないもの(asaNkhata)がある(atthi)。
 比丘たちよ、もし、
生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがなければ、
この世において(idha)、
生まれるもの(jAta)、生成するもの(bhUta)、
作られるもの(kata)、形成されるもの(saNkhata)の出離(nissaraNa)は知られないであろう。
 しかし、比丘たちよ、
生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがあるから、
生まれるもの、生成するもの、作られるもの、形成されるものの出離が知られる(paJJAyati)。』
0356宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/05(月) 01:54:31.66ID:tEUFj8Lp
>>346追記:
『般若心経は間違い? 』
 アルボムッレ・スマナサーラ(著)
 <本書は2007年8月に刊行された「宝島社新書 般若心経は間違い?」を改訂し、
 文庫化したものです。>

スマさんがそんな書籍を日本で発刊する遥か以前から、
「空即是色」の意味については確定しており、
スマさんのような的外れな批判は無意味ですから。

 『体験を示したものは同一用語でも、低い立場や高い立場に使用されているから、同一単語であっても場合によっては、
その概念内容に雲泥の相違があることがある。たとえば般若心経の色即是空、空即是色などがそれである。まず空の意味に
も種々のものがあってこれを正しく把握することが必要であり、次に色即是空の色と空即是色の色とは、同一文字ではあっ
ても、そこに表現されている色は、第一の場合には通俗的な色であるが、第二の場合には空を理解体得した高い悟りの境地
から見られた色であって、両者は決して同視されてはならない。そこには心境の進みによる次元の相違が現れているから、
このような立体的な表現は三段論法による形式論理の対象となり得ないことが知られるであろう。』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊p3-4)1972年5月初版発刊
0357宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/05(月) 02:55:50.85ID:tEUFj8Lp
>>348
ブラフマンという創造神は、
最高にして究極の非人格性の宇宙的根本原理ですから、
「やぁ、ゴータマさ〜ん♪今日はお元気?」などといって語りかけてくるなどということは絶対にないから。
そういうものはただの人格神であって、つまり、人によって勝手に創作された概念に過ぎません。
仏典の梵天勧請などというものは、五蘊の悪しき精神作用を悪魔とゴータマが呼称したのと同様にして、
自分の中の良き意識を象徴したものにしか過ぎません。つまり、ブッダレベルにおける自己の精神葛藤の文学表現です。
これにバラモンの究極最高神を当て嵌めてやることで、
仏教こそが最高であると位置付けできる絶対的な神格化を図れるアイテムとなるからです。
元々、ブラフマンという究極の非人格性の主神を、勝手に「梵天」などとただの諸天の一つに過ぎないものにする手法が悪質。
以降〜、梵天についての悪質な扱いはすべて後代の仏教徒による創作デタラメです。

確かに、
仏教では唯一神なる概念は説かなかったけれども、
如来が出現するしないに関わらず、無始の初めより作用している大宇宙の真理としての「法」を認めている。
「説一切有部」がこれを実在視したことはよく知られているけれども、着眼点そのものは非常に優れていた。

>大乗仏教の経典「般若心経」では「一切皆空」という教えが説かれています。
> 「一切は空である。故に全てはない」というのですね。
>しかし「一切皆空」の思想はブッダの考えとはズレています。真理ではありません。
>そうではなくて、お釈迦様は「諸行無常」と仰ったのです。

確かに、
ゴータマは大乗のような空そのものは説かれなかったけれども、
しかし、その意味をよくよく解するならば、何も問題視されるような欠陥とはならない。
「諸行無常」であるから実体視しないということであり、実体のない現象を空と呼ぶだけことです。
更に言えば、恒常不滅のものだけが真実の実在であるとする見解が古代インドからの思想です。
であるから、現象界の縁起している様はヒンドゥーのマーヤー(幻影)と同じものです。
ただし、マーヤーは唯一神による業ワザのことであり、仏教ではそうは説かない。
0358123垢版2016/12/05(月) 10:51:52.46ID:LGJ6STYx
357.
実体のない現象、が空か。
実体がないと現象は発生しない。
それが科学の見解である。
だからして実体のない現象は存在しないことになる。
そこに仏教理論の誤りがある。
それを信じるのは迷信である。
0359神も仏も名無しさん垢版2016/12/05(月) 14:23:51.88ID:oUcA6d5s
空にはあらゆるものが満ちている。
+1が1000あって−1が1000あってもそれは 0 だから。
0360神も仏も名無しさん垢版2016/12/05(月) 15:31:26.79ID:CWLwTpH0
何も落ちてないから空。
>+1が1000あって−1が1000あってもそれは 0

このプロセスも空にしないとな〜w
0362神も仏も名無しさん垢版2016/12/05(月) 15:42:17.41ID:oUcA6d5s
>>360
おっと、ゴミだらけですぞ (^^)
0363神も仏も名無しさん垢版2016/12/05(月) 15:47:36.37ID:CWLwTpH0
>>362
さて、旅に出るか、じゃあの
0364神も仏も名無しさん垢版2016/12/05(月) 15:56:52.48ID:oUcA6d5s
>>363
オレもだ。
0365宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/05(月) 20:10:38.99ID:tEUFj8Lp
>>358
仏教でいう実体無き「空」というのは、
何もない「無」ということではないのであって、
それ自身で固定的に存在しているものは何もない(無自性)という意味です。
仏教的には、ある物質を一つの存在として語る際には、
それは仮説(けせつ)されたものと見なしているのです。

実は科学上においても、
すべての物質と現象についての説明というのは単なる仮設(かせつ)にしか過ぎないことを認めています。
仮説の上に、更にまた何重もの仮説を覆い被せているのが科学です。

あなたは唯物論者であるからそういうことを言うのだろうと思いますが、
物質とて実際上、これは人間の精神によって認知されて初めてその存在が確定するのです。
そのことは、量子論における“シュレーディンガーの猫”のパラドックスの話に似たものであり、
在りと在らゆる物質というのは、
人間の精神によって認識された時に初めてその存在を一つの物質として「確定」する。
であるから、物質を物質として確定しているのは、実際は人間の「精神」なのです。

ともあれ、
古代インドからの伝統というものは、
永久不滅の恒常なるものしか実在とは見なされません。
かくして、バラモン・ヒンドゥーでは「我」を説き、
仏教は「非我」(「我」は無いという意味での「無我」ではない/それらは「我」に非ず)を説いた。
その姿勢は「無記」(我の実在性については何も語らなかった)というものでした。
0366宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/05(月) 22:50:24.18ID:tEUFj8Lp
>>365
訂正:
 ×仮説(けせつ)→○仮設(けせつ)
 ×仮設(かせつ)→○仮説(かせつ)
0367123垢版2016/12/05(月) 23:43:33.96ID:SZENxGm0
365.
物質を物質として確定しているのは、人間の精神、である、か。
その確定の作業が宗教であり、科学である。
だからして、物質、色は空として、存在しているのではない。
だからして、色即空、空即色、として存在しているのではない。
だからして、その存在論は誤りであることになる。
実体がない現象というものは、人間精神が確定したものである。
だからして、それが正しいか否かは、仮設、仮説であることになる。
0368宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/05(月) 23:58:48.84ID:tEUFj8Lp
>>367
サンジャヤにも成れないウナギ論法か...
まっ、頑張って!!
0369123垢版2016/12/06(火) 00:01:57.11ID:wMyaBYDj
368.
宝珠は単なる迷信の徒であるよ。
なんでか。
他人の説を信じているからである。
0370宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/06(火) 00:14:24.58ID:sBl4mu1R
>>369
ただ盲目に信じるのではなくて、
論理的かつ矛盾がないが故に、
その道理を理解して自身の内に受け入れている。
0371123垢版2016/12/06(火) 00:26:15.91ID:wMyaBYDj
370.
それは科学の問題である。
宗教は他人の説を、受け入れる、ということはない。
だからして、科学をやっているのか、宗教をやっているのか、
その区別を理解していないことになる。
0372神も仏も名無しさん垢版2016/12/06(火) 00:26:28.51ID:9l+IGOf/
>>365
>古代インドからの伝統というものは、
>永久不滅の恒常なるものしか実在とは見なされません。
>かくして、バラモン・ヒンドゥーでは「我」を説き、
>仏教は「非我」(「我」は無いという意味での「無我」ではない/それらは「我」に非ず)を説いた。
>その姿勢は「無記」(我の実在性については何も語らなかった)というものでした。

原始仏教の「諸行無常」の法則は、固定的、常住の自我を否定します。
ここから、「全てのものごとは他とつながりがあり、他と無関係に存在しているもの(即ち「我」)はない」という、
相互依存の関係を示す「諸法無我」の法則が発展してきました。
仏教においては我は仮設されたものを除いては存在しません。
諸行無常の法則からの当然の帰結です。

あらゆる法は無我なり、と
智慧をもって観るときに
かれは苦を厭い離れる
これ清浄にいたる道なり
http://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201005/article_20.html
0373123垢版2016/12/06(火) 06:46:40.36ID:EoU68twR
372.
諸行無常の法則、か。
それは人間が発見して確定させたものである。
それは存在の論理である。存在論である。
それは科学の問題である。
それは宗教の問題ではない。
その両者の区別が出来ないバカが多い。
0374神も仏も名無しさん垢版2016/12/06(火) 12:10:21.43ID:HFOV6YJw
>>373
  _, ,_
(+・д・) パコーン
  ⊂☆彡))'д‘).・;'

区別するから問題が生じるの!
0375神も仏も名無しさん垢版2016/12/06(火) 12:21:24.34ID:/pjo/YA2
仏教は宗教ではない 〜お釈迦様が教えた完成された科学〜 仏教は宗教ではない
http://dromaster.com/archives/2801
0376おじゃる垢版2016/12/06(火) 13:14:45.40ID:HZs9zp5d
 
↓区別(無明に依存して妄想して、そして、分別している?)

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派
中観帰謬派の場合は
仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
妄想して、そして
分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに
汝の言う「誰も気づいていない山火事」も
いま我らによって(妄想して、そして)分別されている
それゆえに
(仮設としての
  因と縁の双方の縁起に依存して変化してる世界の中においては
  火自体の側にある固有の要素も変化しないものではない
  自相(自性)ではない
  空性(変化していること)に依存している仮の現れ)
0377神も仏も名無しさん垢版2016/12/06(火) 13:30:22.38ID:HFOV6YJw
スマ長老曰く「生まれたことに、意味はない。」ね。
問題はこの「ない」、これの意味。

  _, ,_
(+・д・) パコーン
  ⊂☆彡))'д‘).・;'
生まれた事に意味付けするな!
「「生まれたことに、意味はない。」」

ないとはそういう事と観た!
0378神も仏も名無しさん垢版2016/12/06(火) 13:43:28.03ID:HFOV6YJw
>>377
自己レス御免
a「生まれたことに、意味はない。」
b「生まれたことに、意味付けするな!、「生まれたことに、意味はない。」」
0379宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/06(火) 23:53:53.17ID:Q7mhZLeK
>>372
>常住の自我を否定します。
>(即ち「我」)はない」という、
>我は仮設されたものを除いては存在しません。
>諸行無常の法則からの当然の帰結です。

「無我」とは、
「我(アートマン)は存在しない」という意味であると見なしているのならば、
それは大間違いです。

あなたがどんな仏教書で学んできたのか?
或いは、何処かいずれかの伝統寺院や僧侶から教わったものなのかは知りませんが...。
それはとっくに時代遅れというものです。
ゴータマは決して、「“アートマンは無い”という意味での無我などは説かない」が、
近代仏教学が明らかにしたものであり、もはや今日における定説なのですから。
無我を「アートマンはない」などとしまったのは部派時代における変色なのです。
それから、「諸行無常」というのは一切についてであり、仏教における「一切」とは限定意なのです。
あくまでも現象界という限定された領域についての法則に過ぎません。
従って、涅槃やアートマンを諸行無常で語ることはできません。
以下に、正しい知識を掲載しておきます。
0380宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/06(火) 23:55:27.11ID:Q7mhZLeK
 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。これは、「主語+述語」
の文の、述語に置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我 ではない)」ということで、「無我」は「我がない」
という意味ではありません。「我ではない」という意味 です。
 ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。『ブッ
ダ論理学』の【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざ
るものであることは、述べることができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出
てきます。
 ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな) これは、経典
を作りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入ってくるということです。』
(石飛道子ヴェブサイト『マニカナ掲示板過去ログ2739.』)

 『原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな
い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143)
 無為法(asamskrta-dharma)とは不生不滅の永遠の存在とされているものである。無為の語は原始経典にも涅槃の同義語としてし
ばしば出ている。(p145)
 『諸行とは生滅変化する一切の現象法を指し、有為と同義である。すべての現象は一瞬の停止もなく、無常にして生滅変化する
というのが諸行無常である。この諸法は諸行と同じく、現象としての一切法ということになる。---略---』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
0381神も仏も名無しさん垢版2016/12/07(水) 00:50:24.60ID:SB1lryNh
だが、「ある」とも言ってないし、「これだ」とも言っていない。
状況証拠も弱い。 法曹用語になぞらえれば「推定無我」。
0382神も仏も名無しさん垢版2016/12/07(水) 06:44:52.79ID:cQFJPxcq
私っていう思いが苦しみの原因なんでしょ。
私がいなければ、所有もないから笑
楽になるのが涅槃
アートマンは一切消失したところへイメージをもってくと、そこにあるとも言えてしまうから、そんなものはないわけでしょうね
まあ、あるともないとも言わないのは正解じゃないですか
一切外ってどこにありますかいなw
でてきた瞬間にもう一切内
識を離れたところには、なにを言うこともできないはずなのに、そこに、我の本体があって、それは神と同根だとか、真の私はそれだとか、言えば、その言葉が認識を促す
それは、あるかないか、言えない。
消失したところ?
な、感じの理解段階ですが、仏教プロの方、これは違いますかね
0383123垢版2016/12/07(水) 08:52:12.93ID:h+vJIJS2
380.379.
現象を説明したもの、か。諸行無常。
それは存在の世界である。
その存在の世界を否定するのが宗教である。
その方便として方法としてアートマンとかを想定することになる。
存在の否定の第一条件は自己、自分の否定である。
そのための方法論が問題となる。
0384神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 00:37:36.51ID:OH5bbQKj
ブッダの教え自体が矛盾をはらんでいるのではないか?

比丘たちよ、色(しき)は無常である。
無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。
無我なるものは、わが所有 (もの)にあらず、わが我( が)にあらず、またわが本体にもあらず。
まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
「雑阿含経1-9」

この後に受想行識の一つ一つについても無常であり、苦であり、無我である。
無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。
まことに、かくのごとく、正しく智慧をもって観るが良い、
とブッダは説いているのだが、、、

その正しい智慧とは無常ではなく、苦ではなく、無我ではないのか?
観る(観察)のは無常であり、苦であり、無我なのではないか?
第一、観ている本人が無常であり、苦であり、無我なのだからその観も苦であり、無我であろう。
そんな教えに価値はあるのか?

などなど、無我の教えだけでもちょっと考えるとおかしな点があるぞ。
0385宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/08(木) 01:10:36.19ID:ETKBfmyO
>>381
>「推定無我」。

これも非常に宜しくないです。

“「あれも違うこれも違う...」では、結局はただ言わないだけで、
やっぱり、本当は「無い」ということに違いない”などという勝手な結論付けから、
無我を「アートマンは存在しない」意としたアビダンマの犯した間違いと同じことですから。

仏教的にはあくまでも「無記」なのです。
「在る」とも「無い」ともいわない。仏教は形而上についての存在論を説きません。
ただ、「それらはアートマンではない」(非我)といい、
アートマンではない違うものについての指摘はしていますが、「無い」という意味での「無我」は説いていません。
だから、正しくは「非我」と呼ばれるべきものなのです。

ゴータマがアートマンを「在る」と言わなかったのは、バラモンの常住論者たちと同じ扱いを受けてしまうからです。
当時のバラモンの達人の中には、自己の魂との合一を果たした凄い聖者たちがいました。
しかし、彼らは輪廻主体である魂を恒常の永久不滅のアートマンだと誤認していたのです。
仏教は形而上学の論争に陥らないとはいえ、これも勘違いしている人は仏教を唯物論にしてしまいます。
仏教では明確に、「識」が輪廻主体であることを教えています。いわばこれが「魂」(アートマンではない)に該当するものです。
また、人間の死後に残存している心霊存在についても説かれています。

いくらでも話すことはできますが、取りあえずここまで。

以下に、参考文献からの一部を掲載しておきます。
ネットに上げたのは、たぶん私だけかもしれない貴重なものです。
0386宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/08(木) 01:14:37.78ID:ETKBfmyO
>>384
そこから解脱するのが完成者であるブッダであり如来。
0387宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/08(木) 01:17:07.72ID:ETKBfmyO
 『自分の思うままにならないから、自分の我ならざるものである。自分の我でないものであるというならわがものではな
い。これはわれではない。つまり自分の体とか精神作用とか、あるいは自分が持っているもの、財産とかあるいは名誉とか
地位とか、そういうものもわれではない。これはアートマン(a^tman)ではない。アートマンとはインドのことばで自分の
ことを指します。--中略--
 古い漢訳の聖典を見ると「非我」という訳のほうが多いのです。もとのことばでいうと、パーリ語なら「アナッター」
(anatta^)となりますが、それが名詞ですと「非我」「我ならざるもの」ということになります。それから形容詞として使
いますと「我を持たないもの」というわけです。仏教は無我を説くといいますが、なにも自己がないとか、アートマンがな
いとか、そういうことを説くのではないのです。』
(中村 元著『原始仏典U/人生の指針-こころを読む2』東京書籍刊p122)
0388宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/08(木) 01:18:51.16ID:ETKBfmyO
 『「非我なるものを我と見てはならない」という最初期仏教の教えからすれば、我すなわちアートマンの存在を否定するも
のでないことは明らかである。むしろ、積極的に、凡人のとらわれている自我観をすてて、真実の自己(アートマン)を実
現すべきであると教えている。---中略---「自己に帰依する」の自己とは、法すなわち真理の教えに順い、それを体得した
自己である。つまり「自己を知る者」こそ、法の体現者であり、真実の自己の実現者であるとされたのである。
 --中略--
 第一の理由は、原始仏教から部派仏教になると、無我の考え方が変容したことである。すでに前項で見たように、原始仏
教における無我説は、決してアートマンが存在しないとは説いておらず、むしろ実体として固執する種々のアートマン論の
過誤を指摘して、論理的実践的な意味における本来の自己あるいは真実の自我の探求を教えた。その後、アビダンマ教学の
盛んな部派の時代に進むと、積極的にアートマンは存在しないと主張することとなり、本書の編纂された時代は、こうした
考え方が支配的であった。したがって、仏教の無我説は時代の変遷とともに、その解釈が大いに変わった。無我即無霊魂と
いう考え方もその所産である。ナーガセーナ長老もアビダンマ教学の説く無我説の立場から、無我とは無住普遍の実体のな
いことであり、個人にとっては実体としての人格的個体の存在しないことであり、更に無霊魂である、と明言している。
0389宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/08(木) 01:19:32.14ID:ETKBfmyO
 ブッダの時代にあっては、決して霊魂の有無を論じなかったし、仮に論じたとしても、それは宗教的実践に何ら役立たな
い形而上学的論議として斥けられていたものである。保守伝統教学をもって特色とする部派のアビタンマに至って、ブッダ
の説いた真の意味の無我説がゆがめられたのには、それ相当のわけがあった筈である。つまり、人間性の探求と真実の自己
の実現という、生き生きしたブッダの無我観が、部派仏教になると、アビダンマ教学の得意とした精神現象の分析と、およ
びバラモン教神学の有我論との対決という観点から、“我を立てない”無我論へと移っていったのである。シナでは、アナー
トマンを無我と非我との二つに訳したが、今日、一般に誤って無我を“我がない”ととるならば、むしろ、“我でない”とい
う意味の非我の訳語のほうが、最初期仏教のアナートマンの原義にふさわしい。』
(『東洋思想5/早島鏡正著「無我思想の系譜」』東京大学出版会刊p75-95)
0390パーピマン垢版2016/12/08(木) 01:42:19.61ID:VW8cE1rE
wwwwwwwwwwwwwwwww

というような、バカな学者がいるから、いつまでたっても
「仏教は真の自己を実現するためのものだあああ」という、お花畑スピと
同視されてしまうww

ちなみに、このスレの初心者に言ってっておくが、宝珠は
仏教徒ではなく、「真我論」を主張する神智学信者ww

仏教とは無関係です。

っていうか、この無我、真我論は 以前のアートマンスレで既に検証決着ずみw
お前が納得できないからといって蒸し返すんじゃねえよw >宝珠
0391パーピマン垢版2016/12/08(木) 01:46:47.16ID:VW8cE1rE
ちなみに、仏教学者の中にも、この真我論を主張するアホが結構いるんだが
そいつらは、大抵、印哲出身w

中村元の系譜が多いと思うw
(ただ、奈良康明氏はその傾向が薄いと思うが、どうなんだろう?w)
0392パーピマン垢版2016/12/08(木) 01:52:02.77ID:VW8cE1rE
wwwwwwwwwwwwwww

って、この 早島鏡正 の著作、読んだ記憶がないんでググってみたらw
やっぱり中村の弟子じゃねえかwwwwww

さらに真宗系列とw

そりゃあ、無我に反発するわwww
0393宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/08(木) 02:01:57.92ID:ETKBfmyO
>>390
>このスレの初心者に言ってっておくが、宝珠は
>仏教徒ではなく、「真我論」を主張する神智学信者ww
>仏教とは無関係です。

あっはは!!
何もそんなに騒がなくても、
この私は自分からちゃんとコテハンにて“清々堂々と名乗っています”
けれど(笑)

>っていうか、この無我、真我論は 以前のアートマンスレで既に検証決着ずみw
>お前が納得できないからといって蒸し返すんじゃねえよw >宝珠

いえいえ。
この私が議論で負けたことなど一度もない筈ですが?
自分たちの敗因を、この私の神智学云々...などのせいにしないようにね!!
まっ、逃げ口上があって良かったということだね。
0394宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/08(木) 02:11:41.98ID:ETKBfmyO
>>391
このサイト管理人の持論展開は除外しますが、
奈良先生は↓だ、そうですよ。

【ところで、以前、私は、我が国を代表する仏教学者の一人である奈良康明博士に直接面会を求めてお会いする機会があった。
そのときに、奈良先生は、アートマンに関する私の問いに対して、次のように答えられたのを、今でもよく覚えている。
『釈尊は「霊魂の不滅説」は説いてはいないのです。しかし、それを否定もしていないのです。』と。】
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/folder/1839735.html?m=lc

これならば正しい。
何も問題ないね!
0395パーピマン垢版2016/12/08(木) 02:35:50.77ID:VW8cE1rE
>>394 wwwwwwwwwwwww

だから、それはもう検証済でしょ?
散々、やったよな?

釈迦は、アートマンの存在は否定しなかった・・・・・その通りw
そして、肯定もしなかった・・・・わかる?w

もし、肯定なら、それに元ずいた理論構築をし、また、自己の教義にも
取り入れたでしょう? 少なくとも少しは言及したでしょう?
しかし、それは全くなかったよな?

もし、自己の言うアートマンが、当時のバラモン(ヒンドゥー)と違う
アートマンなら、それを弟子たちに解説しただろう?
「真の自己とは、こういうものだ。くれぐれも、バラモンの説くアートマンと
混同してはいけない」  と。

しかし、そんなことは全くなかったよな?

では、なぜきちんと「アートマンなどない」と否定しなかったのか?w
その理由は明白w  最古層文献に繰り返し述べられているのは、「論争するな!」ww

もし、「アートマンなどない」と説いたら、たちまち、当時のライバルであるバラモンと
論争勃発だよw
だから、「一つ一つ対象をあげて」・・・・「これは我ではない。これも我ではない。・・・・・
見よ、我と言えるものなど一つも確認できないでしょ?」・・という言い方になったんだよw

そもそも、仏教の目的は「苦の滅」・・・・それも対処療法的な除去ではなく
⇒「苦を感じる主体、即ち『我』などない。そんなものは無明が引き起こす錯覚ですよ。」
と、苦を感じる主体である「我」そのものを否定することで苦を滅すると言う論理構築さw

「真我」があったら、いつまでたっても苦を感受する主体が残り、滅苦など理論破たんだよw
(なんで、こんな仏教の初歩がわからんアホばかりなんだよw)
0396宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/08(木) 04:00:17.39ID:ETKBfmyO
TV対談の内容だからか、ちょっと曖昧な語り口ですけれど、
つまり、「釈尊はアートマンを無いと言ったんではない」。
そして、「これが私だ。私のものだという我執を無くせという意味の無我を説いた」
といっています。

これならばOKですね!!
日本を代表するトップレベルがデタラメじゃ〜困る。

 『奈良:  確かに「無我」という言葉は、「我(われ)が無い」という。「我」というのは、少し教学的には、人間の本質みたいな、
ちょうど霊魂に当たるようなものをよく考えるんですね。人間すべては無我だから、そうした永遠に続く実体はないよ、と、こう
取られるんですが、実は釈尊が、「無我」という言葉を説かれました時には、意味合いが違うんですね。そういう「我」というの
を、インドの言葉で「アートマン」と言うんですが、釈尊がそれを説かれた時には、そういう霊魂的な人間の実体が有るか無いか。
いや、それは無いんだ、と言ったんじゃなくって、「どんなものも、これが自分のものですよ。自分ですよ、と掴まえて、永久に
勿論続けていくことなんかできないんですよ」と。ですから命にしても、それから若さにしても、財産、子ども、何でもそうなん
ですけども、私どもはややもすると、「これは私の財産です。私の家族です」と握りしめちゃう。永遠に続かないと悩むんですが、
どんなものも、「これが私ですよ。私のものですよ」というふうに握りしめることは、もともとできないものなんだ。その意味で
どんなものも、「私ではない。私のものではない」。私とか私のものを「我」という言葉で代表するならば、どんなものも我ではな
いと知るのが、人間の智慧なんだと。だから、どんなものも、「これが私だ。私のものだ」と、我執をはるな、という意味で、釈尊
は「無我」というのを説いているんですね。ですから先ほどお話がありました、「我がない」というのは、少し後代に出てきた解釈
で、それはそれで正しいんですけれども、釈尊はそういう理論を言ったんじゃなくって、どんなものも、「これが私≠ニか、
私のものだ≠ニいう我執を無くしなさい」と言う意味で無我を説いておられるんですね。』
(原始仏典をよむ@自己もまた自己のものならず)
---りンク掲載はエラーにて中止

>>395
また、後で...
0397神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 05:56:37.56ID:o9Fz5xo4
肉体と精神の仮和合が我であるが、それは我がものではないと釈迦が説いたらしい。
ということは、私は私のものではないってことが、無我なんじゃないかな
私は肉体と精神としてあるけれども、それは私のものではない。
なかなか難しい言葉ですな苦笑
0398おじゃる垢版2016/12/08(木) 06:20:42.70ID:pf8nRrzW
 
宝珠殿は↓ウパニシャッド?

http://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-upanishado/upanishado-tetujin.htm
仏教の思想的土壌 ウパニシャッド
名称と形態(現象界)の展開
6.3.2
この神(=有)は思った
『さあ、わたくしは生命を与えるアートマンによって、これらの三つの神(火と水と食物)の中に入って
  [現象界の]名称と形態namarupaとをはっきりと展開しよう』と
6.3.4
かの神(=有)は、生命を与えるアートマンをもって、それらの三つの神(火、水、食物)の中に入って
  [現象界の]名称と形態とをはっきりと展開した」

http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ
756
神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし
<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている
872
名称と形態とに依って感官による接触が起る
((変化しないものは)存在しないにも関わらず
  (変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である。遍計所執性)
諸々の所有欲は欲求を縁として起る
( … 掴もうとしている想いを手放して、そして … )
欲求がないときには、<わがもの>という我執も存在しない
形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない
0399パーピマン垢版2016/12/08(木) 08:55:45.27ID:VW8cE1rE
>>396

まさに、その通りw
苦の因である「我執」を除去するために、「我」というものなどないんですよ
と説いた。 ・・・今、貴方は苦しいと感じている。しかし、その感じている「貴方自身」
は、単なる五蘊の仮和合であって「貴方といえる」ものなどないでしょう?
だから、貴方が「感じていると思っている苦」自体もないんですよ・・・・

こういうもっていきかたが、仏教の方法論で、バラモンと一線を画するもの・・
ここに真我など持ち込んで、苦を感じる基体を設定したら、我執の除去も
あったもんじゃねえww
0400神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 09:10:14.77ID:19K/UzvG
>>386
五蘊は無常であり、無常であるものは苦であり、苦であるものは無我(非我)である。
無我なるものはわが所有ではなく、わが我ではなく、わが本体にあらず、このように正しき智慧を持って観じるのが良いのである。
(阿含経の無我の要点)

正しき智慧を持って観じるって、観じるのは五蘊で観じるのではないの?

五蘊で観じるのならその観は無常であり、無常であるから苦であり、苦であるから無我である。
つまり、
「無我なるものはわが所有ではなく、わが我ではなく、わが本体にあらず」という観察自体が無常であり、無常であるから苦であり、苦であるから無我である。
無我であるから、その観察はわが所有ではなく、わが我ではなく、わが本体でもない。

これでどうやって解脱するのよ?

正しき智慧も同様ね。

ブッダが言ってるのは、「あるクレタ人がすべてのクレタ人は嘘つきであるといった」というのと同じく、循環論法だぞ。
そんな教え自体が苦(思い通りにならず、虚しく、価値がないもの)だわ。
0401おじゃる垢版2016/12/08(木) 12:24:48.18ID:pf8nRrzW
>貴方が「感じていると思っている苦」自体もない
>智慧を持って観じるって、観じるのは五蘊で観じるのではないの?
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
苦の滅に向かう道は八つの正しい道

初禅〜四禅の次第定
空処次第定、識処次第定、無所有処次第定、非想非非想処次第定
滅受想次第定

如実に知るとは何を知るのか?
色(肉体・物質)の集と滅、受の集と滅、想の集と滅、識の集と滅(を知るの)である

身を観察することである
『この身は、地界、水界、火界、風界(に依存して変化している仮)の現れである』ということを知るのである

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%B5
『般若経』や龍樹・中観派によって
(無明に依存して思惟している)
分別的な知恵(ジュニャーナ、若那、智)を超えた
(無明に依存している思惟ではない)
無分別の智慧(プラジュニャー、般若、慧)が釈迦の悟りの境地として賞揚され、普及された

http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明智(無明に依存している思惟ではない・智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
0402神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 12:32:17.93ID:16jeICDM
バクテリアや虫には自我意識がない(反射作用な生き物?)だろうが、
実は人間もちょっと複雑なだけで似た様なものじゃないの?
心というのは生存に好都合なので脳が作った幻想というじゃん。
その複雑な反射作用?を我と思ってるだけのような気もする。
0403神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 13:11:58.19ID:L5KVpIVi
>>401
その「知る」という行為、認識するとか気づくとかいう言葉にも置き換えられるのだろうけど、
知ったり(認識したり、気づいたり)するのは五蘊の働きによるもの。

しかし、五蘊は無常であり苦であり無我なのであるから、「知る」もそして「知ったもの」もまた無常であり苦であり無我であるので、
わが所有にあらずわが我にあらずわが本体にあらず、となるだろう。
となるとその「知る」には絶対的な価値はあるのだろうか?
0404神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 13:51:03.93ID:16jeICDM
>>403
横レスごめんです。
五蘊というのはなんというか、意味付けや価値付け、形容詞付けをする作用で、
唯単純にありのままに見る作用ではないかなと。
なんというか、見えたものに意味付けや価値付け、形容詞付けする作用を五蘊と
呼んでるのでは?

木を見て、「楓」とか「美しい」とか「枝を折ろう」とか、「」の作用が五蘊?
0405神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 13:59:46.76ID:16jeICDM
正しき智慧とは、ただの木に対し「美しい」とか「楓」とか「枝を折ろう」とか
想念している自分に気付く事かな、と。
0406パーピマン垢版2016/12/08(木) 14:46:33.31ID:VW8cE1rE
wwwwwwwwwww

仏教っていうのは、「絶対的にすばらしいもの」なんて立てないよw

Aさんにとっては、それは(仏教は)必要不可欠なものかもしれないが
Bさんにとっては、全く不必要かもしれないw

仏教に価値を見出すとすれば、それはあくまでも個々人の話w

キリスト教などの一神教みたいに絶対神への信仰などを前提としないのw
0407おじゃる垢版2016/12/08(木) 17:30:35.11ID:pf8nRrzW
>(智慧の世界から観察して)知ること・気づくこと
>無常であり、苦であり、無我である

実践したことないので↓本当なのか?わからないけど、とりあえず

http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.pdf
初心者には普通アーナパーナ・サティ(呼吸への気付き)を教えます
ほとんどの瞑想者がその方法で(苦集滅道の土台として?)うまく進むからです

(「知ること・気づくこと」も含めて)すべて一切は(変化しないものではない)無常である

(智慧の世界から観察して)呼吸という瞑想対象に(仮設としての)心の働きを保つべきである
  _  _  _

初心者には、仮設としての
仮の現れの元になる?地水火風空識のようなものがある?
「とりあえず仮の、自相(自性)あり」とする?中観自立派とか
「認識(の働き)は対象の形相を有している」とする有相唯識派とかの段階から始めて

そして、最終的には
(無明の暗闇に覆われた世界の中の、すべて一切も、そして)
阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)

煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)の
二種の障害を根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、(世間一般的な)思考を超越し
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智)

↑みたいな感じ? m(_ _)m
0408神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 17:34:38.76ID:gykO6vLi
>>404
木という「色」を自己の「色」の中の眼という感覚器官で見るのが「受」、楓と認識するのが「想」、
形成力(「行」)が働いて、「枝を折ろう」と思うのが「織」。
人によっては色受想行織の当て嵌めは異なるかもしれないが、そのような心と体の働きが五蘊。
五蘊以外で「これは価値がある」だとか「これは真理である」と決めるものがあるのかどうかは知らないが、五蘊が無我(非我)であるのは『ブッダの教えの中』では確定。

>>405
その気づきは五蘊によるものではないのか?
五蘊によるものだとしたらそれは無常であり、苦であり、無我であるから、
その気づきはわが所有ではなく、我ではなく、わが本体でもない、ということになる。

>>406
>仏教っていうのは、「絶対的にすばらしいもの」なんて立てないよw

ではブッダの教えも真理や法ではないということでOK?
ブッダが自分で真理と言ってる四聖諦も実は真理ではない、でOKですね?
0409神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 17:35:49.89ID:gykO6vLi
>>408
織→×
識→◯
0410神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 17:37:17.08ID:gykO6vLi
>>407
>阿頼耶識が変化を起こす(転識得智)
>これがすなわち、汚れを離れた領域であり、(世間一般的な)思考を超越し
>それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智)

これだとヒンドゥー教と大差がなくなる。
0411おじゃる垢版2016/12/08(木) 18:35:38.64ID:pf8nRrzW
 
>「四聖諦(苦集滅道)も実は真理ではない!」でOKですね?

「仏教に依存して、オウム真理教が現れたので、(仏教も含めて)宗教すべてが極悪専用の邪教である!」
と頑張ってる隠居先生にとっては
「四聖諦(苦集滅道)も邪教である!」ということかも

それゆえに
>Aさんにとっては、それは(仏教とか宗教とか)必要不可欠なものかもしれないが
>Bさんにとっては、全く不必要かもしれない
ということかも
  _  _  _

>これだとヒンドゥー教と大差がなくなる

(バラモン(ヒンドゥー)とかの技法を?引き継いで?取り入れて?そして?)
瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を得て教理にまとめて
とりあえず心(識)の働きは、仮に(仮の現れとして)存在すると考え
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも
生み出していると考え(唯識無境)
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)
0412おじゃる垢版2016/12/08(木) 19:05:25.79ID:pf8nRrzW
 
極悪専用 → 極悪非道(←まちがい m(_ _)m)

怪しいサイトかもしれないけど↓とりあえず

http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta3.html
釈尊が
「これよりもう一つ上にとりあえず禅定の一区切りがあり
  それ(世間一般的のもの)を超えて、悟りに向かうことができます」と

(智慧の世界?→)滅尽定は悟りの体験?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%B5
(無明に依存している思惟ではない)
無分別の智慧(プラジュニャー、般若、慧)が釈迦の悟りの境地として

http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明智(無明に依存している思惟ではない・智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
0413パーピマン垢版2016/12/08(木) 21:58:50.47ID:VW8cE1rE
>>408
>>仏教っていうのは、「絶対的にすばらしいもの」なんて立てないよw

>ではブッダの教えも真理や法ではないということでOK?
>ブッダが自分で真理と言ってる四聖諦も実は真理ではない、でOKですね?

wwwwwwwwwwwwwwww

このスレに書き込みするなら、せめて仏教の初歩位、勉強してからにしろよw
0414神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 22:14:50.80ID:m0eCtdQp
>>408
>ではブッダの教えも真理や法ではないということでOK?
>ブッダが自分で真理と言ってる四聖諦も実は真理ではない、で


なんでそうなるw

仏法に於いては(―少なくとも釈尊に於いては―)
「涅槃を基準として、(それを希求する価値観に於いて)、その上で、素晴らしい(…最上、anuttara)」
と言えるのであって、そうでない人にとっては違う、というだけでしょう。
当時は、もしかしたら、―というか、おそらく釈尊自ら、≪これのみが安楽である≫と信じていたろうが―
他の生き方はデメリットの多いものと見做されていたかもしれない。
(釈迦国の身内を多く勧誘したのも、国の行く末との兼合いもあったのだろうけれど)

そうは言いながらも、パセーナディ王に対しては、
(彼自身の機根や志向性が、仏法と合致しなかった可能性があったとしても)
≪出家を勧めていない≫わけで・・・。

プックサーティの逸話にしても、多くのバラモンの聞法のその後にしても、
その教えが最上であるのは事実真実真理としても、
絶対(それ以外に幸がない)とは言わなかった、ということかと。
だから、六方礼経や、或いは在俗信者というポジションが許容され得るのであろうし・・・。

だから、仏法は
(その始原より今に至るまで一貫して)
ダブルスタンダードであろう、と・・。
0415パーピマン垢版2016/12/08(木) 22:23:17.55ID:VW8cE1rE
セブンは親切だなあw

オレは解説する気にもならんわw

仏教は、二諦を立てる・・・・

「これこそが真理。これに従わない奴は、あるいは、これを信仰しない奴はアウト」
としないことこそが、まさに仏教の良いところなのにw
0416神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 23:11:55.81ID:16jeICDM
>>408
>その気づきは五蘊によるものではないのか?
なんと言うか、五蘊以前と言うべきか?
純粋体験とか、観照者とか父母未生以前の自己と言う奴。
0417神も仏も名無しさん垢版2016/12/08(木) 23:47:09.41ID:CANDsmW6
>>415
二諦というのは真俗の諦め、つまり真理ということだろうけど、
その真理はどちらにせよ絶対的なものではなく相対的、あるいは無常であり苦であり無我である(笑)真理ということでOKすね?
縁起の理法も相対的あるいは無我の真理ということで。
それとも『絶対的真理』だけど押し付けや信仰は強制しなかっただけすか?


>>416
純粋体験は純粋であっても結局は無常であり苦であり無我である。
また、自己=アートマンはないとパーピマンが>>395で解説しているが。
0418パーピマン垢版2016/12/09(金) 00:06:53.88ID:sZbY5zVd
>その真理はどちらにせよ絶対的なものではなく相対的、あるいは無常であり苦であり無我である(笑)真理ということでOKすね?

wwwwwwwwwwwwwwwww

だから、まず仏教の初歩をお勉強して来いってww

オレはセブンほど親切ではないんで、仏教全く知らん奴にいちから
解説するような面倒はしたくないのwww
0419神も仏も名無しさん垢版2016/12/09(金) 00:40:22.81ID:1Nkg7NOB
>>418
そうですか、こちらも逃げ腰のパーピマンに聞いたのが間違いだったわ(最初からパーピマンの逃げ腰を知ってれば聞かなかったんだけどな)。
ま、期待外れだったのは確かだがこちらが勝手に期待したというのも確かだし、だからもう二度と来ないし、他のスレで君を見ても何も聞かない。
面倒しなくて良いので安心をし!(笑)
0420パーピマン垢版2016/12/09(金) 00:48:37.58ID:sZbY5zVd
>>419 wwwwwwwwwwwwwwww

ぜひそうしてくれw

オレは、「仏教初心者です。わからないところがあるので教えてください。」
という礼儀をわきまえた者には

「自分で分かる範囲のことでしたらお答えいたします。」・・・・とやるがねw

何もわかってないくせに調子こいたバカは相手にしないのwww
0421神も仏も名無しさん垢版2016/12/09(金) 10:07:24.70ID:K54JIupZ
>>417
>純粋体験は純粋であっても結局は無常であり苦であり無我である。
>また、自己=アートマンはないとパーピマンが>>395で解説しているが。

2行目は勿論O.Kですよ。問題は1行目ですな。

例えると、血を洗い流すのに血では洗い流せない様に、五蘊で五蘊を観察
することは無限ループするよね?

つまり、五蘊を離れて五蘊を観察(=正しき智慧)すれば良いわけ。

その方法でお釈迦様は苦労(苦行)したって事ですよね。
0422神も仏も名無しさん垢版2016/12/09(金) 10:22:18.94ID:K54JIupZ
(421続き)

そうした試行錯誤の末、まぁ、お悟りを開かれたって事だけど。
省察すると、そこに至る(五蘊を離れた観察)には戒・定・慧の方法が
ベストと確信し、他者に説いた、と。

まぁ、本当に五蘊を離れて観察できるの?ってなるけどねw

・・・出来ます。(ここに至る過程で道を誤ると宗教奴隷やカルトにw)
0423神も仏も名無しさん垢版2016/12/09(金) 10:57:07.50ID:K54JIupZ
(423続き)
まぁ、「出来ます!」と言わないと仏教そのものが、ねw

深い禅定により五蘊が止滅(?)した状態を何らかの機縁により覚知
したって事かな?

まぁ、「思考に引きずり舞わされてる自分に気づけば」それでいいって
事に過ぎないんだけどねw
0424宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 04:30:32.91ID:NBxZREjv
>>391 :
>そいつらは、大抵、印哲出身w

いやいや、まったく逆でしょう!!
インド哲学大いに結構。古代インド思想を知らずして、正しく仏教を知ることができよう筈がないのです。
当時の古代インドの状況と宗教思想が前提となって、仏教というのは誕生しているからです。

>中村元の系譜が多いと思うw

系譜?という言い方はどうなのか?は、分からないけれども、
中村 元氏を尊敬し、その影響を受けない仏教学者がどこにいるというのか?


>>395
>もし、自己の言うアートマンが、当時のバラモン(ヒンドゥー)と違う
>アートマンなら、それを弟子たちに解説しただろう?
>「真の自己とは、こういうものだ。くれぐれも、バラモンの説くアートマンと
>混同してはいけない」  と。
>しかし、そんなことは全くなかったよな?

それは、ちょっと意味合いが違うと思います。
ゴータマは、「(聖典成立以前の)ウパニシャッドの教えにみるアートマンと
私(ゴータマ)の説くアートマンとは異なるものだ。ウパニシャッドの説くアートマンは実在し無い。
だから、それらとは混同しないように」などとは言っていない。
ゴータマが説いたものとは、
「本来の清浄なる自己(つまり真実の自己)を求めよ!」という意味での“自己の探究”でした。
それが、確かにウパニシャッドの意味合いとは異なるゴータマの語ったアートマンというものです。
ただし、ウパニシャッドのアートマンには、恒常にして永久不滅の超越的な形而上存在としての意味に加えて、
そのゴータマの説く真実にして本来の清浄なる自己(本性)という意味をも含んでいるということ。
それがウパニシャッドのアートマンです。

以下に提示する文献の一文を読めば、
ゴータマの説く真実の自己としてのアートマンと部派から生じた
誤ったアートマン観についての発生経緯を知ることができます。
0425宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 04:54:37.50ID:NBxZREjv
 『また、無我について、S.N. 756には「神と並びに世人とは非我なるものを我と思い名称と形態とに執着している〈anattam
attamanam __ niviwwha/ namar[pasmin.〉」といい、自己の身体・家族・財産・地位など自分にとって大切だからと、自己そ
のものでないものを“わがもの”と、それに我執をもつ、そのような我はないというのが無我の意味である。このように、古
い経典ではatmanの無をいうのではない。いな、逆に“自己を求めよ”“自己を大切にせよ”等という経典にさへ出会うので
ある。
 《Vinaya, Mahavagga 1.13》には、“アートマンをアートマンとみて、それを追及し真実の自己を見いだせ”“婦女を尋ね求
めることより、自己を尋ね求めよ〈attanam gaveseti.〉”等と説いている。
 また、Theragatha 587には「自己の利益を識別すべし」〈vijaneyyasaka/atta/.〉S.N. I. p.14 _ tasma hi pazfito paso,
sampassa/ attha/ attano, yansovicine dhamma/.〔この故に、賢老は自己の利をみて、正しく法を思慮せよ。〕Dhamma_pada
157 atmanは愛しきもの〈piya〉である。
0426宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 04:55:29.55ID:NBxZREjv
 A.N. II p.21- されば、自己を愛し〈attakama〉偉大なるものを希求する人は諸佛の教えに帰依し正法を尊重すべし。等と
説かれていて、atmanという言葉は必ずしも否定の対象となっていないのである。以上のように、古い経典ではatmanやatta
と言われた我の否定ではなく、atmanでないものをatmanの如くみることを斥ける意味で無我を説き、atmanをatmanとして正
しくみ、“真実の自己をたずねよ”といっているのである。非我なるものを我とみてはならないというのである。この意味で、
佛陀の教えは必ずしもインド的なものから全く別であったといってはならないであろう。ところが、やがて此の“アートマン
でないもの”ということが“アートマンを有しない”という形容詞として用いられ、我の存在の否定の意味をもつようになり、
これが、部派佛教の考え方となったのである。我を常一主宰と規定して、そのような何者かがあるとするのが、輪廻転生を説く
バラモン教のおしえであり、其にたいしてそのような我はないというのが釈尊の教えであると考えたのである。このように、古
い経典に用いられた「我」の理解がどうして解釈の違いをおこすことになったのであろうか。恐らく、かの『ミリンダ王問経』
に見られるような、ギリシャ的な思想の影響をうけて形成された説一切有部の教学の性格によるのであろう。』
(武邑尚邦著『東西思潮と仏教思想』)
0427宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 04:56:34.24ID:NBxZREjv
 『むしろ、積極的に、凡人のとらわれている自我観をすてて、真実の自己(アートマン)を実現すべきであると教えている。
ブッダが、遊びにふけって婦女を追い求めている青年にたいして、自己(アートマン)を尋ね求めることを勧めた話は、有名
である(Vin.Maha^vaggaT,13.p.23)。
 つまり、日常生活において悪業煩悩をつくってばかりいる自己を反省するとともに、そうした自己を真実の自己にまで高め
ていく理想実現が期待されていた。「自我を捨てた者」(『スッタニパータ』790)とか「自己の離欲を求める」(『ダンマパダ』
343)、「自己のけがれを去る」(同、388)といったことばが、非常に多いのは、とらわれの自己を、いかにしてとらわれぬ自己
とするかの実践的主体的な探求に他ならない。それ故に、自己を調御し、自己に気をつけ、自己を修め、自己のつとめを果たす
ということが仏典の古層において強調されている。その場合、自己とは形而上学的な意味の実体としてのアートマンではなく、
あくまでも実践に即したものであったから、心と同じに使われていた。心を調御し修養し防護し、心を直くし、心の安定・清
浄・寂静をうることが、くりかえし説かれていた。 
 こうして、自己を克服し、自己を修養することは、自己を護り愛することでもあった。『テーラ・ガーター』と『テーリー・
ガーター』において、仏弟子たちは最高目的たるさとりの獲得を指して、己利こりすなわち自己の利益と呼んでいる。己利に
向かって精励する仏弟子たちは、自己を愛するがゆえに、自己を守り(『ダンマパダ』157)、自己をさまたげ傷つける悪徳の捨
離に専心した。また自己を愛しむことは、同時に他人をも愛しむことと異なるものではなかったから、自他の差別をこえること
が大切であるとされた。
 自我の実現は、心清浄の道を歩むことによってである。『ダンマパダ』の詩句を見よう。
0428宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 04:58:13.02ID:NBxZREjv
 人は自己みずから悪事をなして、自身で汚れる。人は自己みずから悪事をなさずして、
  自身で清浄となる。人それぞれに清浄となり不浄となる。人は他の者を清浄にしない。
  (『ダンマパダ』165)。
 すべての悪事をなさず、善事を実行し、自身の心を清浄にすること、これがめざめた人
  たちの教えである。(『ダンマパダ』183)。
 自己こそ自己の主である。一体、他の誰が主であろうか?自己がよく調御されたならば、
  かれは得難い主を得る。(『ダンマパダ』160)。
 自己こそ自己の主であり、自己こそ自己の依り所である。それ故に、商人が良馬を制御
  するように、自己を制御するがよい。(『ダンマパダ』380)。

 ブッダは「わたしは自己に帰依した」(D.U,p.120 G)といわれた。仏弟子もみずから策励して「そなたは、自己の良い州を作
れ。なぜならば、そなたには、他の依り所がないからである」(『テーラ・ガーター』412)と述べている。このようにして、ブッダ
は形而上学的な立場から自己を把えることに沈黙して、宗教的実践の道行きにおいて、自己を探求した。だから、「自帰依、法帰依、
自州、法州」ということばが、広く散文の経蔵において使われるようになった。「自己に帰依する」の自己とは、法すなわち真理の
教えに順い、それを体得した自己である。つまり「自己を知る者」こそ、法の体現者であり、真実の自己の実現者であるとされた
のである。』
(『東洋思想5/早島鏡正著「無我思想の系譜」』東京大学出版会刊p75-95)

そして、大乗「仏性」の根拠ともいえる以下へと繋がっていく...。

 。『パーリ増支部に
「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている」とある(いわゆる心性本
浄説) 光り輝いている(光浄、清浄)とは白紙のような状態と解される。自性として本来清浄ではあるが、現実には汚れているとい
う意味が含められている。そこで、悟りによって外来の諸煩悩を離れた状態は「離垢清浄」と説明される。』
(Wiki)
0429宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 05:00:21.27ID:NBxZREjv
>>395
>では、なぜきちんと「アートマンなどない」と否定しなかったのか?w
>その理由は明白w  最古層文献に繰り返し述べられているのは、「論争するな!」ww
>もし、「アートマンなどない」と説いたら、たちまち、当時のライバルであるバラモンと
>論争勃発だよw

実際、ゴータマは自ら(無記とした)その理由を明確に述べています。
それは純粋に自分の教えが誤解されて伝わることを避けたいが為なのでした。

 『ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。
 「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはないの
ですか(natthAttA)」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。
 その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答えたら、
常住論者(sassatavAda)に同じることになる。ないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えられ、そして
阿難に反問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)という智が生じる
のに順じるだろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、今はない(ahu vA
me nUna pubbe attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。』
(SN.44 第10 経)
0430宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 05:02:23.86ID:NBxZREjv
ここでいう常住論者というのはパーリ『梵網経』に説かれるバラモンたちのことです。
あれを読めば、彼らが驚異的な境地と能力を達成していることがよく分かります。
彼らは自己の魂(輪廻主体)との合一融合に成功しているのだということが明白です。
それで彼らは、その超常的な体験と能力とによってウパニシャッドのアートマンに
自分たちが到達したものと勘違いを起こしている状態なのです。
それをゴータマが見て、「それはアートマンではない」と、彼らの誤認を指摘している経なのです。
もしも、ゴータマが「アートマンはある」といってしまったら、この誤認してるバラモン行者たちと同一認識されてしまうことになる。
これだけは何としても避けたいことでした。
だからといって、もしも「アートマンは無い」などといってしまったら、
パーピマンのような断滅論者、つまりただの唯物論者ということになってしまう。
これでは話になりません。
仏教は決してパーピマンたちが勘違いしてるような唯物論などではないからです。
ゴータマは唯物論については、それは邪見であるとして最もしてはいけない見解として厳しく戒めているのです。
0431宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 05:04:11.78ID:NBxZREjv
>>395
>そもそも、仏教の目的は「苦の滅」・・・・それも対処療法的な除去ではなく
>⇒「苦を感じる主体、即ち『我』などない。そんなものは無明が引き起こす錯覚ですよ。」
>と、苦を感じる主体である「我」そのものを否定することで苦を滅すると言う論理構築さw

これも少し違います。
“我(アートマン)ではないもの我(アートマン)と見なしてはならない”。
「自己ではないものを自己である、自己のものである」と勘違いしてることから人間の苦は生じる。
それがゴータマの教えです。
よって、真実の自己であるところのアートマンをアートマンであるとして正しく見ることができるならば、
人は根源的に苦を滅することができ、そして、二度と生ずることもなくなるのです。

>「真我」があったら、いつまでたっても苦を感受する主体が残り、滅苦など理論破たんだよw
> (なんで、こんな仏教の初歩がわからんアホばかりなんだよw)

パーピマン、あなたはインド思想をまったく理解していません。
真我(アートマン)が苦を感受するわけがないのです。
真我の本質とは、絶対的な“至福アーナンダ”の状態そのものであるという基本常識すらも知らない。
古代インド(思想)を知らずして、仏教の基本がわかる筈がないです。
0432宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 05:06:05.31ID:NBxZREjv
当時のバラモンたちはアートマンの実現に成功していなかった。
これを実現し、自ら体現してみせたのがゴータマであり、
パラモンの伝統に拠らずしてその方法を確立し、それを指導したものが仏教と仏道なのです。
ただし、誤解されることを避けたいがためにあくまでバラモンの伝統からは逸脱したものであり、
それ(ウパニシャッドのようなアートマン教示)を説きませんでした。

 『このように解釈することが許されるとすれば、原始仏教にも涅槃や如来はアートマンとする考え方があったことが判る。そうすれ
ば、原始仏教がアートマンが存在すると説かなかったのは、原始仏教の教えが凡夫を主題として、仏の境地を説くことがなかったまで
の話ということになる。
 もしそうなら、仏教のアートマンは実はウパニシャッドが説くアートマンと同じようなものを指していたと解釈することができるか
もしれない。ウパニシャッドでもわれわれ衆生がアートマンと合一していないから輪廻を繰り返すとするのであって、構造的には仏教
と共通しているということができるからである。』
(森 章司著『死後・輪廻はあるか--「無記」「十二縁起」「無我」の再考--』)
0433宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 05:07:22.11ID:NBxZREjv
 『この点は、仏教以前の正統バラモン教が、ウパニシャッドにおいて、梵我一如を正しく知り、それを体験することによって、理想
が達成されるとしていたのに似ている。ウパニシャッドでは梵我一如の境を涅槃の語によって呼んではいないけれども、この境地は
「非ず、非ず」(neti neti)と云われているように、筆舌に尽くすことの出来ない大歓喜の自由境であるとせられているから、実際に
は仏教の涅槃が意味しているものと、それ程違ったものではないであろう。(p126-127)』
(水野弘元著『原始仏教』02年第16刷/平楽寺書店)

 『私は、ブッダの涅槃の境地も、バラモンの哲人たちの梵我一如の境地も全く同じものなのだ、と確信しております。インドに於
いては、仏教も外道もない、真理は一つ、真実に実在する(と彼らが確信している)世界は一つなのです。
 この点ではヴェーダーンタとかサーンキャとか、インド哲学の主要な体系も、すべて同じことなのです。彼らは皆その同一の有を、
ただしそれぞれの視位から、それぞれの制約に於いて見ているのです。ブッダも同じなのです。』
(津田真一著「密教とブッダの根本的立場」『大法輪』88年9-10月号)
0434宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 05:08:53.98ID:NBxZREjv
>>400
>これでどうやって解脱するのよ?
>ブッダが言ってるのは、「あるクレタ人がすべてのクレタ人は嘘つきであるといった」というのと同じく、循環論法だぞ。
>そんな教え自体が苦(思い通りにならず、虚しく、価値がないもの)だわ。

とても良い視点だと思います。

では「無我」、つまり「我ではない」「我の無い」領域というのは実は限定意であり、
「諸法無我」「を超越した領域があって、そこには「我」「があれば問題は解決するとは思いませんか?
諸法には我は無いが、諸法外には我が在るのならば、何も矛盾は生じない。

実は、仏教正しく解するならばそのことが十分にあり得るのですが、
しかし、平均的な自称仏教徒らの殆どがそのことを知りません。

 『「それ(五蘊)は私の我ではない」と言っているのみであるから、五蘊以外に「我」があると考えれば、問題は別になろう。
このように考えられた我は、いわゆる「離蘊の我」であるが、この教説には、この離蘊の我については、何も言っていない。
その理由は、離蘊の我は認識できないものだからである(注)。
(注)離蘊の我については、ヤマカ比丘と舎利弗との問答が理解に資するであろう。「如来は死後に断滅して、何も残らない」
と主張したヤマカに対して、舎利弗が、「五蘊の中に如来があるか」「五蘊を離れて如来があるか」等と質問して、その邪見を捨
てしめたのである。SN.vol.V,pp. 109-12. 南伝大蔵経、第14巻、174-78頁。『雑阿含』巻5、大正2、30下-31下。いまは細
説を略するが、その趣意は、認識されないものについて、その有無はいえないということである。したがって離蘊の我がないと、
積極的に否定することは勿論できないことである。』
(『東洋思想5/平川 彰著「初期仏教の倫理」』東京大学出版会刊p51-62) 

通常では認識できないアートマン(離蘊の我)も、修行完成者(如来)には認識可能なのです。
“諸法無我”から解脱したのがブッダです。それが諸法無我を本当に体得したということになる。
0435宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 05:11:03.53ID:NBxZREjv
>>402
>バクテリアや虫には自我意識がない(反射作用な生き物?)だろうが、
>実は人間もちょっと複雑なだけで似た様なものじゃないの?

誰ら教えられることもなく、
生まれた人間の一番最初に目覚めるものが、「私」という感覚意識なのです。
それが自我意識というものであり、「第一人称」というものなの。
この第一人称の「私」という自覚が生じてから、この自分ではない者としての第二人称を認識します。
それが母という存在です。

天才シャンカラは、
誰に教わることなく自然と目覚めるこの「私」という自我意識の自覚する現象を以て、
それは“アートマンが在る証拠”であるといいました。
0436神も仏も名無しさん垢版2016/12/10(土) 05:39:06.47ID:ubXF1lWh
そうすると生まれる前のアートマンはどこにあったんですかね?
0437宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 06:14:10.01ID:NBxZREjv
>>436
場所という概念がない。
ヒンドゥー的には、元々、“最初からただそこに在った”
という言い方になるでしょうか?

神智学的には、
物質界にはまず個体・液体・気体の三界の上位にエーテル界の4つの亜層があるといっています(間もなく存
在が確認されるという)。そして、アストラル界層の7亜層、メンタル界層の7亜層(コーザル界含む)があり、更に、ここから上
位は純粋に霊的な界となりますが、ブッディ界層、アートマ界層、アヌパーダカ界層、アーディ界層(ロゴス界)として分類しています。
ウパニシャッドのアートマンは、アヌパーダカ界層(モナド界)ということになるでしょう。
単に、あくまでも意識の次元レベルの区分けにしか過ぎませんが...。

仏教では、そんなことを考えたところで何になる?
そんな暇があったら修行に専念しなさい、となる。
0438神も仏も名無しさん垢版2016/12/10(土) 06:56:24.89ID:ubXF1lWh
それらの階層、そして最初からただそこにあった自己は、空であるってのが釈迦でしょうw
諸法無我ですからね
しかし、ここでその、諸法は、この現世のものに限定されるというのが、主張の肝ですね
しかし対象化されるものはすべて空であると、見ろと言ってます
見ろということは、ああ、感ぜよかw
それは対象化されないところに涅槃があるということなのですよ
その涅槃とアートマンは同一です
しかし、それを言うと問題があるわけです
そこが認識に昇るからです
だから釈迦がバラモンの教えの本当のところを説いたというのは本当ですが、アートマンがあるというのは、今でも、永遠に、不味いのです
消失したところなわけですからね
つまり、現世にしろ、まあ、あの世の生活が仮にあったにせよ、その自己の存在そのものが苦になるというパーピマンという悪魔の指摘は鋭いわけですよ
しかし宝珠さんは、その消失したところの実在性を指摘していて、それも誤りではないので、いつまでたっても、堂々めぐり
とか、勝手に妄想するワシwwwww
0439パーピマン垢版2016/12/10(土) 08:38:11.01ID:3zvqqb6o
>>424 wwwwwww
>いやいや、まったく逆でしょう!!
>インド哲学大いに結構。古代インド思想を知らずして、正しく仏教を知ることができよう筈がないのです。
> 当時の古代インドの状況と宗教思想が前提となって、仏教というのは誕生しているからです。

だからあw
そのインド哲学、・・・・当時のバラモンの考えの否定から誕生したのが仏教なのw
それをバラモン的思考そのままで、仏教を解釈するから、
「仏教はアートマンを支持していた」なんて寝ぼけた説に行き着くのw
0440神も仏も名無しさん垢版2016/12/10(土) 08:50:14.38ID:EEfEPwnG
頭の中で分けて見てるだけですよ。
其が元で様々な齟齬をきたしてるだけです。
0441パーピマン垢版2016/12/10(土) 09:01:46.87ID:3zvqqb6o
>ゴータマは、「(聖典成立以前の)ウパニシャッドの教えにみるアートマンと
>私(ゴータマ)の説くアートマンとは異なるものだ。ウパニシャッドの説くアートマンは実在し無い。
>だから、それらとは混同しないように」などとは言っていない。

wwwwwwwwww
言うわけないだろw  そもそも釈迦はアートマンなどあるとは思ってねえんだからw

>ゴータマが説いたものとは、
>「本来の清浄なる自己(つまり真実の自己)を求めよ!」という意味での“自己の探究”でした。
>それが、確かにウパニシャッドの意味合いとは異なるゴータマの語ったアートマンというものです。
>ただし、ウパニシャッドのアートマンには、恒常にして永久不滅の超越的な形而上存在としての意味に加えて、
>そのゴータマの説く真実にして本来の清浄なる自己(本性)という意味をも含んでいるということ。
>それがウパニシャッドのアートマンです。

wwwwwwwwwwwwwww
あのなあ、以下に出てくる「自己」もそうだが・・・・
この「清浄なる自己」ってのは、(今現在、この世界にあると誤謬している)
一般的会話の中に言及する自己のことww

バカが最もよくやることだがw
釈迦もね、相手と会話するときは、きちんとその対話相手に基体を認めてるのw つまり、
Aさんという人が前提として、Aさんに話しかけてるのw
Bさんに話してるのではなく、Aさんに話してるの。 そこでは、きちんと「個別属性」を
有するそれぞれの「基体」を前提としてるわけw
そうでないと話ができないでしょ?

「無我だからAさんも、Bさんもない」・・・なんて言い出したら話もできんわw
そもそも、「仏道を歩む」という言い回し自体が、「仏道を歩む基体」が存在することが
前提なのw  そこで、「我などない。よって仏道を歩むものなどない。」と言ってしまえば、
何も始まらないww

水野も言ってただろ? 「倫理主体としての自己は、仏教は認めていた」 とw
当たり前だろwww
それがなけりゃ、諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教 もないわなww

だから、釈迦も当然、清浄なる自己 を説くわけw
バカは、それを短絡的に「釈迦は自己即ち真我を認めていたあああ」 なんてやりだすんだよww
0442パーピマン垢版2016/12/10(土) 09:07:50.07ID:3zvqqb6o
んでな、w

行き着くとこまで行ってしまえば、その「自己」・・・・方便上あることにしていた
自己も、単なる五蘊の集積で、無明により勝手にあると思い込んでいただけ
のもので、ホントは「我」などないんですよw
それがわかりますよw  ってのが仏教だよw

バラモン⇒真我を見出す
仏教⇒我などないと了解する

・・・・・全く別もんwww
0443神も仏も名無しさん垢版2016/12/10(土) 09:08:32.13ID:LoJqxAGn
 
 
覚者気取りを頭から否定する連中も同じ穴のムジナw
 
むしろ覚者気取りより低能だwww
 
0444神も仏も名無しさん垢版2016/12/10(土) 09:18:06.28ID:ubXF1lWh
>>442
いや、それは、宝珠さんとそんなに違ってないですよ
ただ、その我がない向こうに真我をおいてるんですよ
それは間違ってない
でも、それが、ある!
というのなら間違いなんです
0445神も仏も名無しさん垢版2016/12/10(土) 09:26:34.41ID:LoJqxAGn
 
 
相手を批判する時は、相手の土俵に上がって、
 
相手の矛盾を指摘しないと無意味だw
 
最近、これがわからないバカが増えて来たw
 
0446パーピマン垢版2016/12/10(土) 10:23:48.90ID:3zvqqb6o
>系譜?という言い方はどうなのか?は、分からないけれども、
>中村 元氏を尊敬し、その影響を受けない仏教学者がどこにいるというのか?

wwwwwwwwww俺がここで「系譜」といったのは、

中村の説を無批判に受け入れ、バラモン教の視点で「仏教はアートマンを説いてた」
主張するアホ学者たちのことww

お前が引用した 森 章司 もその一人w
(その論文も読んでるが、今まで読んだ論文の中で最もくだらないものの
一つだったなww)

あとひどいのは、 宮元啓一 とかかな?www
0447神も仏も名無しさん垢版2016/12/10(土) 11:00:41.21ID:LoJqxAGn
 
覚者気取りと
 
同じ穴のムジナたちのくだらんスレwww
 
0448パーピマン垢版2016/12/10(土) 11:02:51.33ID:3zvqqb6o
>>447 wwwwwwwwww

そう、くだらんスレなんだw

だから、もう書き込まないでねw
新しくスレ立てするの大変なんだよ、最近はw
0449神も仏も名無しさん垢版2016/12/10(土) 11:53:41.01ID:LoJqxAGn
>>448
お前が一番覚者気取りなんじゃないw
0450パーピマン垢版2016/12/10(土) 12:08:47.33ID:3zvqqb6o
>>449
はいはい、そうだねw

わかったから消えてねww
0451宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 14:06:16.47ID:NBxZREjv
>>439
>だからあw
>そのインド哲学、・・・・当時のバラモンの考えの否定から誕生したのが仏教なのw
>それをバラモン的思考そのままで、仏教を解釈するから、
>「仏教はアートマンを支持していた」なんて寝ぼけた説に行き着くのw

ゴータマがバラモン教に反発的だった大きな理由というのは、
バラモン伝統における差別支配のカースト制度と、そして実は、
もう一つの大きなウエイトとしての、バラモン司祭によって執り行われるヴェーダ祭祀の“生贄”なのです。
ただし、これをあまり露骨に批判展開を行うと反政の危険人物として捕らわれの身となるので、
具体的な内容発言を控えているのです。
これらも含めて、ゴータマはヴェーダの宗教をそのまま良しとはしなかったのです。
参考として、ヴェーダ聖典に説く悍ましく恐ろしい生贄についての論文から一部を紹介します。

尚、「SB」=白ヤジュルヴェーダSatapatha Brahmarpaの略です。
聖典原語の引用部分はコピーが旨くいかなかったので省きます。
0452宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/10(土) 14:08:27.03ID:NBxZREjv
 『SBには動物を殺し捧げる順番の説明があり、それによれば一番最初に殺される動物は人間である。
 先ず人を捧げる。人は諸動物のうちで第一のものなので。次に馬を。馬は人の後に続くので。次に牛を。牛は馬に続くので。
次に羊を。羊は牛に続くので。次にヤギを。ヤギは羊に続くので。そのようにそれらを順序通り優れたもの順に捧げる。
 また、同じ白ヤジュルヴェーダに属すKSS の以下のような記述は注目すべきである。
(14) 囲いの中で人を同意させること(殺し)が(行われる) 8。(17)人はヴァイシャかクシャトリヤ。(18)首に草の葉
を当てて頭部を取り除く。』
(ソーマ祭の動物供犠における殺生行為と解釈について)

因みに、今でも誤解されている“北枕は不吉”の謂れともなった、
本来のゴータマ涅槃入り(肉体死)の際の“頭を北向きに”という自らの指示というのは、
当時のバラモン祭祀における生贄動物というのは頭が南に向けてなされていたことから、
この置き方とは逆方位にしたかったからである、と私は見なしています。

バラモン教は間違い           ---だから仏教は現れた。
バラモン/アートマン(我)を説く-「有我」 ---仏教/アートマンなどはない-「無我」
バラモン/転生(生まれ変わり)を説く    ---無我(輪廻主体が無い)だから転生しない、できない。
                      輪廻転生はバラモン思想なのであり、仏教にも混入してしまった。
                      或いは、これを方便利用しただけ。

〜などといったパーピマンのような、
昔から巷に広められた仏教理解などといものは全部間違ったものです。
これは、また後でやります。
0455おじゃる垢版2016/12/12(月) 10:38:13.46ID:wl7EcYxH
http://www.onedhamma.com/?p=5136
15/05/24 仏教思想のゼロポイント
魚川祐司氏 山下良道氏 藤田一照氏
http://www.onedhamma.com/?p=5771
16/12/11 インドで開かれた 新しい地平
山下良道氏
珍しく、テーラワーダ2.0(パオ・セヤドー・メソッド)の説明をしているので、今回のpodcast法話も良いでつ

仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
我所・我とかは、地水火風空識に依存している、仮の現れなので、それゆえに
1026
無明が頭であると知れ
明智(智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
1119
(智慧を以て)つねによく気をつけ
自我に固執する見解をうち破って
世界すべて一切を「(無明に依存している?)空性なり!」と観察せよ
(無明に依存している、空性から解脱して → あおぞらの世界に逝ってみよう?)

インド人、参加者からの質問
「(たぶん英語で?)あおぞらの世界ってのは、阿頼耶識のことでつか?」
山下良道氏からの答え
「(たぶん英語で?)あおぞらの世界ってのは、無為法の世界なので、阿頼耶識ではないでつ!」
0456神も仏も名無しさん垢版2016/12/14(水) 09:31:07.07ID:7r9+/Kfz
nāgita #antifa @naagita2010-07-04 03:02:36
.@stogyo パパンチャを弄んでる奴らはみんな病気!というスタンスと思います。
もうちょっと引いて話す場合は、
「大乗仏教は元々の仏教を素材に俗人がごちゃごちゃ考えて作った宗教なので、欠陥だらけだけど、他よりは遥かにましな作品ではある」
というようなことは仰っていたような。

@stogyo 2010-07-04 03:09:07
@naagita なるほど.言い方はキツイですが,でもそういうスタンスって基本的にはいいものだと私は思います :-) 
でもスマナサーラさんの『般若心経』の理解はちょっとまずいところがあった気がします(うろ覚えです).
たぶん註釈とか読んでらっしゃらないのだろうなという気がしました.

nāgita #antifa @naagita 2010-07-04 03:16:21
@stogyo 長老の『般若心経』解釈の「ちょっとまずいところ」、もし思い出したらお手すきの時に教えてください。
長老にもお伝えしておきます。


般若心経・空・無我
http://togetter.com/li/33555
0457宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/16(金) 02:35:45.42ID:Q7aEceO9
>>455
>仮設としての
>無明の暗闇に覆われた世界の中において
>我所・我とかは、地水火風空識に依存している、仮の現れなので、それゆえに

確かに、「我所」はその通りです。
しかしながら、この「我」がウパニシャッドの究極のアートマンだというならば間違いです。
インド的には、すべての「自己」がアートマン/アッタン呼ばわりなので宜しくない。
これが、「自我」「エゴ」(egoisticもしくはegoism的意味合い)としての「我」(アートマン)ならば問題ありませんが、
パーリ聖典といえども、所詮は部派所蔵のものであり、幾分着色されていて完全なものじゃないです。
現存する南方仏教(テーラワーダ)も部派の生き残りに過ぎない。
究極のアートマンは仮設ではなく、五大/六大にも五蘊にも依存していない。

>無為法の世界なので、阿頼耶識ではない

アートマンは、パーリ聖典においては説かれなかったが、
意味的にはニルヴァーナ同様の無為法。
ただし、魂に相当する輪廻主体の阿頼耶識は有為法です。

元々、仏教における一切法は「有為法」のことであり、
この中には無為は含まれなかった。
一切法の中へ勝手に無為法も含めたのは部派仏教による所行です。
これにより誤認が生じて、「涅槃も空」「如来も空」などという馬鹿げた言い方をするようになったのです。

 『原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな
い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
0458宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/16(金) 02:47:36.62ID:Q7aEceO9
(師走の追い込みにて投稿が鈍っています)

残念ながら、
パーリ聖典は部派の着色を受けており、
原始経典であっても漢訳は大乗の着色を受けている。
ゴータマの真実の姿(当時の教説そのもの)を完全に知ることは現存する経典からは不可能...。
つまり、結論としてはテーラワーダであれ、大乗であれ、
その中から“良かれという部分”だけを学び、実践する以外ない。
0459おじゃる垢版2016/12/16(金) 13:45:35.27ID:zcuh3/M5
 
http://www5e.biglobe.ne.jp/~ym7m4ovz/churon.htm
(9)「我(アートマン)の考察」第18章(全11頌)

仮設としての
空性に依存している
我は
無明の暗闇に覆われた世界の中で
現れ滅して変化している

我(アートマン)とは
インドの諸哲学・宗教において考えられている不変に相続する自我意識であり
人間の個人存在を決定するものとされている
インドでは我が肉体の束縛を離れることを目指したり
我と梵(ブラーフマン:宇宙全体の大我・梵我)とが一体となることを目指したりする修道が実践されている
それらに対して
釈尊は無我を説いた
無我を説くことは仏教の根本であり、我の有を説いたら仏教ではない
それが我は五蘊(色受想行識)が仮和合しているものであるとの教説である
テーラワーダとか後期大乗密教とかでは地水火風空識という
仮設としての
自性を有する複数の法に分解されるものは実有ではないとされる
我の仮和合は、色受想行識に分解される

仏教は輪回を説く。この場合
輪回する主体は誰であるのか?無我ならば誰も輪回しないではないか?
犢子部はフドガラ(補特伽羅)であり
唯識派は阿頼耶識(変化しないものではない)であると主張した
0460123垢版2016/12/16(金) 13:52:35.98ID:MwL5jrAf
仏教は輪回を説く。その主体は誰か。無我ならば、。
それは存在の問題である。
宗教は存在の問題ではないよ。
0461神も仏も名無しさん垢版2016/12/16(金) 14:32:49.65ID:Z8a9a1XN
今の心の状態ね。
0462神も仏も名無しさん垢版2016/12/16(金) 14:35:34.12ID:Z8a9a1XN
閻魔様は自分の心の投影。
0463おじゃる垢版2016/12/16(金) 14:41:24.39ID:zcuh3/M5
変化することのないものなら
過去から → 現在へと、相続していくこともできないと思うけど↓とりあえず
> インドの諸哲学・宗教において考えられている不変に相続する自我意識

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
有分心は「生命相続流」と翻訳できます
心の流れの相続を維持する主要な要因となるものです

(仮設としての)
有分心があるので
心の流れは、断絶する事がありません
たとえば、有分心は
熟睡して夢も見てないような時でも
継続的に(現れ、滅して、変化して)生起しているのです

過去の学者で
有分心を「無意識」とか「下意識」とかに訳しました

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
(仮設としての)
我癡・我見・我慢・我愛とかが
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けているので

それゆえに
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説
『(無明の暗闇に覆われた世界から)解脱すれば仏だ!』ということに、気づくまでは、気づくことは難しい
0464神も仏も名無しさん垢版2016/12/16(金) 18:43:28.90ID:+pXl44Fr
問題は、
今現在、

 釈尊の何を伝え得ているか?(何を伝え得ていないのか?)

なわけでね・・

それは、宗派や地域とは全く無関係に、
理と体と行(≒用)とを伝承し得ているかどうか? なわけで・・。
相が、千差万別、異なることも不可避なわけで・・・。

http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1480937497/
0465神も仏も名無しさん垢版2016/12/17(土) 00:02:34.06ID:TY7aKc5X
仏教以外にも「瞑想」する宗教はあります。
バラモン教とヒンドゥー教の瞑想文化は、心理学的な立場でみると、それほど進んだものとはいえません。
ヒンドゥー教のヨーガ文化はとてもよく知られています。
その瞑想は「真我」と「個我」という二つの概念に基づいています。
真我とは「絶対的な魂」または「絶対的な神」という存在です。
個我は「個人の魂」のことです。
これらは本来二つに分かれたものではなく同一であり、個我が汚れているので二つであると誤解しているのだ、
というのが基本的な教えです。
そしてヨーガによって真我と個我を一体にするのだというのです。
しかし実践する人は真我の存在を信仰しなければいけません。
自分の魂があると信仰しなければならないのです。
「魂は実在する」証拠は何一つないのに、ただ信じるしかないのです。
これは心理学的なアプローチではありません。

もし真我も個我も、実在しない、単なる人間の希望的概念であるならば、それも幻覚・妄想概念に過ぎないのです。
ヨーガによって真我一如感が経験されたとしても、それももう一つの幻覚に突入したことになるのです。
「本来の魂を経験する」という立場は、仏教的にみると固定概念にしがみつくことです。
仏教はありのままの現象を観察して、魂論は成立できるか否かを調べることを推薦します。
(ブッダの集中力 アルボッムレ・スマナサーラ)
0466宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/17(土) 04:22:41.45ID:vteI+CKE
>>459
アートマンは恒常にして不変、永久不滅の唯一なる実在です。
それ以外のすべてが非実在なのです。
我々は非実在である自己を自己と見なし、自己のもの見なしている。
その間違った幻影から目覚めて、真実の自己に目覚めることが本物の悟りです。
それが真我の実現であるところのニルヴァーナです。
これはすべての現象界の性質を超越したものであるから涅槃同様にして無為なのです。

>我(アートマン)とは
>インドの諸哲学・宗教において---中略---
>我の仮和合は、色受想行識に分解される

これら説明のすべては「一切」(一切法/一切諸法)に限定されたものであり、
部派が勝手に無為法を一切の中に含めたからこういう馬鹿げた論理が形成されたのです。
本来のゴータマの教えではない。

>仏教は輪回を説く。この場合
>輪回する主体は誰であるのか?無我ならば誰も輪回しないではないか?
>犢子部はフドガラ(補特伽羅)であり
>唯識派は阿頼耶識(変化しないものではない)であると主張した

そうではなく、
「無我」(非我)だからこそ輪廻するのです。アートマンは輪廻しないから。
だから、「名色は識とともに互いに縁って生起する」(ディーガ・ニカーヤ 15)と
五蘊の一部である「識」こそが輪廻主体であるとゴータマは明言してるのです。
しかし、だからといって誤ってこれをアートマンであると誤認してはならないとも戒めている。
「識」(後の阿頼耶識)は表層意識も含めすべて仮和合の自己でしかない。
ということで、“無我だから輪廻主体はない”などとい馬鹿げた論理は問題外。
0467宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/17(土) 04:35:20.37ID:vteI+CKE
 『「識に縁って名色がある」と、このようにすでに説いた。どのように識に縁って名色があるかというこのことは、アーナンダよ、この
ような観点からも知らなければならない。
 アーナンダよ、もし識が母胎に入らないとすれば、いったい名色は母胎において凝固するであろうか。
Vin~n~a^nam va hi a^nanda ma^tu kucchiṃ na okkamissatha, api nu kho na^maru^paṃ ma^tukucchismiṃ samucchissatha^ ti
 尊師よ、そうではありません。
 アーナンダよ、もし識が母胎に入ってから消失するとすれば、いったい名色はそのようなものとして現起するであろうか。
 尊師よ、そうではありません。
 アーナンダよ、もし識が男児あるいは女児にせよ幼児の時に断たれるとすれば、いったい名色は増大し、成長し、発達するであろうか。
 尊師よ、そうではありません。
 それゆえここでは、アーナンダよ、これが名色の原因であり、これが縁由であり、これが起因であり、これが縁なのであり、それがす
なわち識である。22. Nāmaru^pa-paccaya^ vin~n~a^ṇaṃ「名色に縁って識がある」と、このようにすでに説いた。どのように名色に縁って識
があるかというこのことは、アーナンダよ、このような観点からも知らなければならない。
 アーナンダよ、もし識が名色のもとに依り処をうることがないとすれば、いったい未来に生老死苦の生起の存在が知られるであろうか。
 尊師よ、そうではありません。
 それゆえここでは、アーナンダよ、これが識の原因であり、これが縁由であり、これが起因であり、これが縁なのであり、それがすな
わち名色である。
 アーナンダよ、この限りにおいて、あるいは生まれ、あるいは老い、あるいは死に、あるいは逝去し、あるいは生処に達するのであり、
この限りにおいて言葉の通路があり、この限りにおいて語義解釈の通路があり、この限りにおいて定立の通路があり、この限りにおいて
慧の領域があり、この限りにおいて流転を繰り返し、この況位を表すことになる。それはすなわち、名色は識とともに互いに縁って生起
するのである。(ディーガ・ニカーヤ 15, Maha^nida^nasuttanta /PTS vol.2, pp.55-71)』
0468宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/17(土) 04:36:57.98ID:vteI+CKE
>>465
何も知らない人がそういうことをいうのです。

>しかし実践する人は真我の存在を信仰しなければいけません。
>自分の魂があると信仰しなければならないのです。
>「魂は実在する」証拠は何一つないのに、ただ信じるしかないのです。
>これは心理学的なアプローチではありません。

実は必ずしもそのような信仰は必要ない。
なぜなら、これは科学的なメソッドによるプロセスなので、
決められた通りに実践を続ければ、必ず一定の結果を得ることができるのです。
だからこれは科学であり、“聖なる科学”と呼ばれています。
0469神も仏も名無しさん垢版2016/12/17(土) 08:47:23.34ID:JiFzesIu
もっと簡単にさらっと、ねぇ。( ´∀`)
0470宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/17(土) 11:24:41.66ID:vteI+CKE
霊魂観を明確にすべき 21世紀の仏教を語る
2016年12月16日 16時10分

 『真言宗智山派の智山教化センターは9日、東京都港区の総本山智積院別院真福寺で愛宕薬師フォーラムを開いた。
慶応義塾大非常勤講師の正木晃氏が「再興!日本仏教―21世紀の社会に仏教はどう応えていくか―」と題して講演し、
仏教者が霊魂観を明確にして死後について語ることが必要だと語った。
 正木氏は、1930年代に仏教学者の宇井伯寿が「無我説とは霊魂の否定」と主張したことに触れ、近代の仏教学にお
いて「釈尊は霊魂の存在を認めていない」という学説が主流になったと指摘。以降、仏教界は霊魂や死後の世界につ
いての立場を曖昧にしているとして、「僧侶一人一人が霊魂観を明確に答えられることが求められている」と述べた。
 2007年に在宅緩和ケアを利用して患者の看取りを行った遺族を対象にしたアンケートで、約5割の患者が臨終の際
に、「他人には見えない人の存在や風景について語った」ことを紹介し、日本人には“お迎えが来る”といった死後の
世界観があることを示唆した。(詳細は2016年12月16日号をご覧ください。中外日報購読申し込み)』
http://www.chugainippoh.co.jp/religion/news/20161216-003.html


“人間、死んだらそれでお終い”などという
ゴータマの教えに反した「断滅論」(断見)を支持するような僧侶が、
葬儀(死者の法要)を営む資格などはない。
もし仮に、葬儀は生きている側の為に営まれるという眉唾の言い訳をするのならば、
その寺院では、死者に対する供養などとい言い方は一切止めにしてもらいたい。
でないと、その行為は詐欺に該当する。
0471パーピマン垢版2016/12/17(土) 11:48:00.38ID:Q02F7RqX
>ゴータマの教えに反した「断滅論」(断見)を支持するような僧侶が、
>葬儀(死者の法要)を営む資格などはない。

wwwwwwwwwwwww
⇒「ゴータマの教えに反した「常住論」(常見)を支持するような僧侶が、
葬儀(死者の法要)を営む資格などはない。

まあ、葬儀に関しては、釈迦は自分の弟子たちに対して、
・・・・「 お前らは葬儀に関わるな。そういうことは在家の信仰篤き者たちが
行う。」 と言ってるんだがw

(ただ、大迦葉はそれを無視したがw)
0472パーピマン垢版2016/12/17(土) 12:37:21.92ID:Q02F7RqX
>>464 それでは、それに関連して昔の書き込みをww

@「・・・・は、仏教的にどうなのか?・・・・は、仏教といえるのか?」
これは常に問題となるところであって、しばしば、討論において「それは仏教ではない」という
非難が対論相手になされる。そもそも、仏教とは何なのか?これも、突き詰めていけば
かなり複雑な問題をはらむが、ここでは単純に、「釈迦の教説、教え、」ということにしよう。

では、「ある対象を仏教的にどう評価するのか?・・・即ち、それは本当に釈迦の説いた教え
    なのか?」・・・・それを判断する基準を何に求めたらよいであろうか?

言うまでもなく、それは伝承、経典、論書などが、その際の参考資料となるでしょう。
それらを一切無視して、「俺がそう考えるから」を唯一の根拠に自己の見解を語るなら、それは
もう単なる「オレ様仏教」であり、反面教師としての価値しか有さないでしょう。
(これは自燈明を勘違いした、ちょっと仏教をかじった者によく見られる傾向ですねw)

では、自己の体験、自己の到達した(と思い込んでる)境地を根拠に語る者はどうでしょう?
このタイプも仏教関連スレでは非常によく見かけます。
そして殆んど全てと言っても過言ではなく、「勘違いバカ」です。
(まあ、このような掲示板で、「己が悟ったことを前提に語りだすこと」が如何に愚かな行為であるかも
理解できないアホたちですw)
0473パーピマン垢版2016/12/17(土) 12:38:07.13ID:Q02F7RqX
Aそれでは、判断を師匠に委ねる、師匠の見解をその判断基準とする・・・・これはどうでしょうか?
これは確かに有力な方法論ですが、それには大前提があります。
そう、「その師匠が本物の聖者、覚者である」なら、その言質、指導に従って道を歩んでいけば良いでしょう。
しかし、もしその師匠が「なんちゃって覚者さん」なら? これはもう見るも無残な結果となることでしょう。
(釈迦が自燈明、法灯明を言ったのも、その危険性に留意せよ  ということでしょう)
オウムがそのいい例ですねw 麻原を本物の最終解脱者と信じてついていった弟子たちの現状は、皆さんも
ご存じのとおりです。

昨今、「本物の覚者さん」というのは、どれほどいるのでしょうか?
わたしは知りませんが、もしいたとしてもその数は限りなく少ないことでしょう。さらに、凡夫である私たちが
「この人は本物の覚者である」と正確に識別できるものでしょうか?
・・・・・以上を考慮すると、師匠を選定し、その指導に従うという方向も、かなりの困難を伴うように
思われます。(ちなみに、道元もその師、 如浄禅師  に出会うまではかなりの紆余曲折を経ています。)

結局のところ、
「釈迦の教えとは何だったのか?」・・・・これに一歩でも近づく方法論としては、残された資料の吟味・・
これしかないように思われます。(行については、今は触れません。あくまでも、ある教説について、
その是非を他者とすり合わせる際の根拠についての話です。個人としての確認作業である行は、それを
語るに相応しい人にお任せします。w)
0474パーピマン垢版2016/12/17(土) 12:39:09.74ID:Q02F7RqX
Bですが、ここで更なる問題が持ち上がります。
→「経典に書かれていることは、全て本当のことなの?  経典の記述は全て本当にあったことを基にして
  書かれたものなの?」・・・・・この問いに「イエス」と答える人は殆どいないと思います。

仏教徒、研究者、ほとんど全ての者が、「経典には、比喩、誇張、方便、神格化などのノイズが含まれる」
ことに同意することでしょう。
もし、経典の記述が全て本当にあったことを基に書かれているとするならば、ジャータカに出てくるウサギのように
「2500年前のウサギは、現在よりも知能が発達していて言語機能も有し、人間と会話していた。」・・・・
これも事実として認知しなければならなくなります。
さすがによほど信仰心の篤い仏教徒でも、「釈迦在世当時のウサギは、話ができた」  とは考えないでしょう?w
即ちこれは、ある教え、この場合は「自己犠牲の尊さ、及び、布施の重要性」をより分かりやすく、そして印象的に
説くためのキャラ設定、舞台装置なわけです。

仏の三十三相の話に出てくる「舌が伸びる話」、あるいは、誕生譚に出てくる「天上天下唯我独尊」も
釈迦の偉大さを表すための神格化の一種であり、「本当に舌が伸びたんだ」と信じている仏教徒は、ほとんど
いないでしょうw
0475神も仏も名無しさん垢版2016/12/17(土) 12:41:28.17ID:OiBpQ4Wq
どうやら見えていなかったようである。遅鈍な奴である。
0476パーピマン垢版2016/12/17(土) 12:43:24.57ID:Q02F7RqX
Cところがですねw  六神通となると話は変わります。
神秘主義的仏教徒や万教帰一を目指すオカルト系異教徒は、これを強く支持します。
(あれほど、スシーマ経で繰り返し否定されてるのにも関わらず、六神通は本当にある・・・・と主張するのですw)
彼らは、「しゃべるウサギ」は否定するのに、「空中を自由に飛び回る(神足通)」は、肯定するわけです。
はて??  その違いは何なんでしょうか?

彼ら(及び我々が)、「しゃべるウサギ」を否定する根拠は、過去から現在まで、そのようなウサギは発見されていない・・
という経験則に基づくものです。さらに、生物学上、ウサギは会話を可能にする言語機能も知能も有していない。
・・・ということですね。

では、神足通はどうでしょうか?
これも、過去から現在まで、空中を自由に飛び回る人間は発見されていません。勿論、解剖学上、人間にそのような機能は
確認されていませんし、物理学上もありえません。
しかし、ウサギはNG,空を飛ぶのはOK・・・・どういうことでしょうか?

・・・・思うに、これは肯定論者の願望が強く投射されている結果でしょう。
つまり、「ウサギが話すことは望まないが、空は飛びたい」・・・こういうことなのでは?w
0477パーピマン垢版2016/12/17(土) 12:44:17.71ID:Q02F7RqX
Dでは、何故このようなノイズが混入するのでしょうか? それには様々な理由が考えられます。
最大の原因は何といっても釈迦の金口の資料が文章記録として残されなかった・・ということでしょう。
100年もの間、口伝オンリーできたなら、そりゃあ、その間、伝承者にとって好ましくないものの削除、
あるいは付加などは容易であったことでしょう。(それがたとえ、韻文の形式であっても)
(それでもなお、時系列上最も近似している最古層文献に最大の信頼性をおくことは尤もな判断だと思われますが)

後代の経典編集者たる仏弟子たちは、なぜノイズの混入を招いてしまったのでしょうか?
T 他教との競合の結果・・・・即ち、自己の宗教の開祖が、何ら超常的能力を有していないとしたら、他宗教の
  開祖と比して都合が悪い。(釈迦の神格化)
U 純粋な自己の宗教の開祖へのスーパーマン願望・・・・「うちの宗教の開祖は、こんなにすごいんだ。」
  まあ、一種のファン心理ですねw
V 信者獲得、及び、信者維持のためのご褒美的もの・・・・「がんばって解脱したら、こんなにすごい能力が
  身に付くよ。」 (六神通)

・・・・・・・・・実際には、一般大衆やパトロンたる王族などの願望、要求、 あるいは、時代時代の政治、経済的事情
など、様々な要因が複雑に絡み合って、変質していったのでしょう。
(勿論、この変質していった現在の仏教諸宗派を「仏教」としていいのか?どうかは、また別問題です。
大乗非仏説に代表されるように、現在の、特に日本の仏教が批判にさらされてるのは、ご存じのとおりです。)
0478パーピマン垢版2016/12/17(土) 12:48:03.08ID:Q02F7RqX
E釈迦は一体、何を説こうとしたのか? それを知るためには、出来るだけノイズを除去していく必要があります。
その前に、釈迦とは一体、どの様な人物であったのか?・・・・を把握しておくことは大切でしょう。
勿論、2500年前の、それも確実と言える資料が殆ど残されていない者の人物像を正確に描いて行くことなど不可能ですが、
各人がそれぞれ、「釈迦とはこういう人だったろう」というイメージをもっていることと思います。
以下は、その一つですが、まず、

T 極めて世俗的物欲というものが希薄だったひと。・・・これは、殆どの人が同意されるのではないかと思います。
  王子という恵まれた境遇(実際は、一地方の一領主程度だったと思われますが)を、それこそ、食いかけのまんじゅうを
  道端に捨ててしまうほどの気安さで放り投げてしまうほど、世俗的裕福さというものに価値を認めなかったのでしょうw

U 何かに対して疑問を感じたとき、その対処法よりもまず、その問題の本質を問う傾向がある・・・・四門出遊の際、(まあ、
  この話自体も創作という意見もありますがw) 治世者タイプの人なら、まず、老人、病人に対してどのような救済策が
  可能かを考え、死は避けられないこととはいえ、どのようにすれば現在より長寿が可能かを模索し、それを行者と相談する
  ・・・・こんなかんじですか?w  しかし、釈迦はそのような現実的な対処法には関心なく、その問題が抱える根源的本質
  の方に目を向ける。

V これは、Uとはまさに対照的特性なんだが、 毒矢の喩えにもあるように、「極めて現実的な、そして実際的な対処法」も
  重視する。 これは仏教が必然的に内包する矛盾・・・即ち、出家と在家の価値体系の齟齬を、釈迦がきちんと理解していて
  そのどちらの行き方も是としたことからくる結論でしょう。(仏教は二諦を立てる)
0479パーピマン垢版2016/12/17(土) 12:53:10.70ID:Q02F7RqX
F
W 内省的な人物・・・これは中村元氏の描写だが、まさにそうでしょう。
           人間には、「まず、やってみる。そして、その過程で得たものを次に繋げていく。」という「行動派」の
           ひともいますが、釈迦は正反対の人でしょう。行動を起こす前にまず、考える。 じっくりと考えた末の自己の
  結論に信頼をよせる。 

X しかし、内省的な人物がとかく陥りやすい「観念論的思考への執着」というのも、はっきりと否とした。
  即ち、「自分で確認できること」のみを是とする、極めて「体験主義的傾向」を有する。 
      
・・・・このように見ていくと、釈迦という人物は一言でいってしまうと、「大変バランスのとれた人物」
「極めて現実的な人物で、『人間の心が抱える諸問題の解決』に関心を特化させていった人物」
と言えると思いますが?

このように、釈迦という人物像の輪郭を描いて、それに照らして釈迦の教説の真意を各仏典から拾って
いくしかないでしょう?
後は、各人が釈迦の教えをどのように捉えていくか?・・・・各人の資質の問題ですなw

・・・・・まあ、釈迦にオカルト的スーパーマンを投影して、仏典のそのような記述のみを真実であるとし、
「スーパー仏陀」を作り上げるのも個人の自由でしょうw
(現にそういうのも多いですしw)
0480宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/17(土) 13:20:24.45ID:vteI+CKE
>>471
>「ゴータマの教えに反した「常住論」(常見)

常住論というのは
一切行/諸行無常における現象界において恒常なるものを説く誤った見解のことをいう。
しかしながら、
ウパニシャッドの説くアートマンは一切法を超越した一切外のものであるから、「常見」にはまったく抵触しない。
ゴータマの説かれた一切法とは、すべて限定意のものであることを知る必要がある。
この基本的な前提を知らない者があまりにも多い。
これが部派のアビダンマによって生じた弊害なのです。
テーラワーダの理解もすべて間違っている。

 『ところで仏教で一切法とは存在するすべてのものを指すのであるが、原始仏教時代に関するかぎり、それは生滅変化す
る現象の法に限られていた。一切法を五蘊・十二処・十八界などとした場合、それらはすべて時間と空間の中にあってわれ
われに認識され得る現象界だけを意味した。(p112)
 現象のことを仏教では有為(samskrta,sankhata 造作されたもの)とか行(samska^ra sankha^ra 諸行無常の行)とかいう。
われわれはこの現象界の中で生滅変化し、苦しみ悩み、喜び楽しみ、迷い悟るなどの生活をしている。われわれにとっての
世界は現象界のみである。この意味における一切の現象界を仏教では一切とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのは
この現象界に限られる。(p127)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

アートマンというものは元々からして、この一切外。
涅槃も同様にして「無為」であり、一切に含まれることがない。

あなた方は皆、
部派影響下の中にあってそのことを知らず、
それらを勝手に肯定したり、批判してるだけ。
0481宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/17(土) 13:23:16.99ID:vteI+CKE
>>476 :
(あれほど、スシーマ経で繰り返し否定されてるのにも関わらず、六神通は本当にある・・・・と主張するのですw)
彼らは、「しゃべるウサギ」は否定するのに、「空中を自由に飛び回る(神足通)」は、肯定するわけです。

これについても以前、私からは明快に解答済です。

ゴータマのこの対機説法というのは、
“神通獲得を目的とする者には真実(神通獲得に繋がる真実)は教えない”ということ。
このスシーマなる人物がどんな意図で近づいてきているかをみれば、そのことは瞭然でしょう。
対して、真摯に解脱と悟りを求めて修行する者には、
六神通についての詳細な教えとのその方法とが随所において多岐に渡って説かれます。

どう、分かりましたか?
しっかりと経文の文章の意味やその意図を読み取って欲しいものです。
0482神も仏も名無しさん垢版2016/12/17(土) 13:27:30.71ID:WVRwVRjp
>>780
言語の迷路に落っこちた者は、

迷路の中ではそれを自覚出来ず、

結局そのまま一生を終える。
0483ジャンキー大山垢版2016/12/17(土) 13:43:02.15ID:JiFzesIu
如何にして言語の迷路から脱するのか?

ちょろいなw
言語になりゃいいw
0484神も仏も名無しさん垢版2016/12/17(土) 13:53:14.83ID:TY7aKc5X
スッタニパータ

204
この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。

1086 
(ブッダが答えた)、
「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪(むさぼ)りを除き去ることが、
不滅へのニルヴァーナの境地である。
1087
このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩(わずら)いを離れた人々は、
常に安らぎに帰(き)している。世間の執著を乗り超えているのである」と。


不滅なるニルヴァーナの境地
不滅へのニルヴァーナの境地
常に安らぎに帰している

というのは一見常住論に思えるが、ニルヴァーナは一切外だから常住でいいということなのかな?
0485神も仏も名無しさん垢版2016/12/17(土) 13:54:17.64ID:TY7aKc5X
スマナサーラ長老のニルヴァーナの解釈はどうだったかなあ…
0486ジャンキー大山垢版2016/12/17(土) 14:07:36.86ID:JiFzesIu
不滅という言葉に執われるな!
識別すること自体妄想と仰ってこざる。
つまり、なにもない、不生なのだ!
不生だから不滅なのだ!
常見も断見も離れてるのだ!
0487神も仏も名無しさん垢版2016/12/17(土) 14:10:08.70ID:JiFzesIu
識別が生じないから不生。
不生だから不滅。
0488123垢版2016/12/17(土) 20:32:02.49ID:SSKVVaaM
487.486.
識別が生じないから不生、か。よって不滅、か。
それはバカになっていろ、ということになる。
そのバカになるのが仏教かいな。
それは単なる心理学である。
0489ジャンキー大山垢版2016/12/17(土) 20:56:52.26ID:JiFzesIu
>>488
いや、不生不滅ならバカという識別さえないのだ!
なってろ!ではない、なる前なのだ!

さぁ、それは何者だ?
0490神も仏も名無しさん垢版2016/12/17(土) 21:47:44.16ID:1nX5gUbM
        ,,,--─===─ヽ/へ
      /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
     iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
    iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
   iiiiiiiiiiiiiiiiii/             \iiiiiiiゞ
   iiiiiiiiiiii/                \iiヽ
  iiiiiiiiiiiiiii《    ━━━'/  ヽ━━━ ヽミヽ    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ...iiiiiiiiii彡/      __,.::  :: __  ヽiiiii|  <最終解脱者の私だ!
 ..iiiiiiiiiiiii》|             :::      |iiiii|    \_________
 iiiiiiiiiiiiiiii|,                     |iii|
..iiiiiiiiiiiiiiiiii,         ( ● ● )      .|iiii|
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii       》━━━━《       |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ     》 / ̄ ̄\ 《     |iiiiiiii|
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0491123垢版2016/12/18(日) 08:47:43.38ID:Icry9gpR
489.
不生不滅になる前、か。
それは何者か。
その何者が発展して不生不滅となるのかや。
その不生不滅が発展して何者となるのか。
その因果関係が問題である。
止まった思考には限界がある。
0492神も仏も名無しさん垢版2016/12/18(日) 09:04:20.40ID:qsyw+cwX
>>491
不生でいればヨロシ。
でも思考は川の上でまりをつくが如し。
0494神も仏も名無しさん垢版2016/12/18(日) 22:52:39.09ID:XRgM597Z
他人の経験を嘲笑う者が自分の思考を疑いもしないことがいかにジョークになってるか気づきもしない。
絶対的な地平に立ってみれば同じことなのに。
本当に愚かですね。
0495神も仏も名無しさん垢版2016/12/19(月) 20:34:47.18ID:sL0LZE8D
> 止まった思考には …

仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
因と縁の双方の縁起に依存して変化している世界の中において

たとえば(表面的な)第六意識が
仮に
「(一時的に?)止まった思考」であるかのように思っても
阿頼耶識(根源的な識)は激流のごとく活動している。暴流の如し!

たとえば
一時的にでも?
止まった思考とか?
(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である、遍計所執性

123タソも
仏教の経典・論書・(初心者向けの?)解説書とか読んで勉強した方が良いんジャマイカ?

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
有分心
生命相続流
(現れ、滅して、変化して)生起しているのです
0497神も仏も名無しさん垢版2016/12/21(水) 00:18:52.22ID:ZHQsF261
識別を止滅させたところが涅槃。
大乗仏教では上記涅槃を空という。
識別を止滅させ無分別だから空を言葉で表すのは本当は無理。
それを知ってた維摩は空を説明するのに沈黙を使った。維摩の沈黙と呼ばれる。

その空を敢えて説明すれば、分別なく平等で大調和の世界、と言えるのかもしれない。
これが大乗仏教での涅槃である(仏国土はまた別)。
初期仏教の涅槃「一切の煩悩を断ち尽くした状態」に止まってない点に注意。
0498123垢版2016/12/21(水) 07:49:02.42ID:zWM8HpnC
497.
識別を止滅させたところが涅槃、か。
それは単なる心理学である。
よってして、識別を止滅させたところ、は涅槃ではない。
心理学をやっている場合ではないよ。
その区別が理解できないバカが多い。
0499123垢版2016/12/21(水) 10:06:38.92ID:zWM8HpnC
495.
おじゃる君は心理学と宗教との区別を理解できないバカである。
0501神も仏も名無しさん垢版2016/12/22(木) 01:10:27.79ID:DiZjQvWh
松本史郎氏は徹底した無我説、無基体説に基づいており、仏性、如来蔵はもとより解脱や涅槃も仏教ではないと否定しています。
0502神も仏も名無しさん垢版2016/12/22(木) 02:36:15.08ID:3jwsUZDE
乱暴だなぁ・・・w  >>501

解脱や涅槃(という「事柄」)は、袴谷松本路線でも踏まえられてる(→踏まえざるを得ない)部分と思うけど?w

涅槃及び解脱を否定するなら、
菩提樹下以降の釈尊の歩みを、どう評価するのか?

そして、
意味合いとしては、自身、 「涅槃に住して45年の遊行に在った」 というのが、
遺言のプロローグである筈なだがな・・
0503神も仏も名無しさん垢版2016/12/22(木) 03:04:25.44ID:DiZjQvWh
又、松本はオリジナル釈尊に依拠していない、その必要をいわない。釈尊の説から導き出される十二支縁起説こそが仏教という。

では、縁起とは何か。ここで次に宇井伯寿の解釈を批判する。
宇井は「世界の相依」と解釈する。
それを批判し松本は、縁起とは十二支縁起説を説く、という。釈尊そのものが説いたものでもない、ともいう。
https://takanetosyo.jimdo.com/2011/11/05/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E6%9C%97%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E8%80%83%E5%AF%9F/

涅槃についても松本史朗氏は、「火が吹き消された状態」という意味だとされているが、
「覆いをとりさる」という意味であり、解脱と同じ意味だという。
自分の中に光り輝くものがあり、心の磨いて汚れを取り除くという考えはきわめてわかりやすい。
しかし無我説に立つならば、解き放たれるべき我、清浄な光り輝く我などない。

ということで、松本史朗氏は、

つまり、“縁起”は仏教であるが、“涅槃”も“解脱”も仏教ではない。
と、またまた激しいことを言っている。

仏教でも我(アートマン、本質、自性)が実在するという考えを取り入れ、如来蔵、仏性、アラヤ識などと呼び、
梵(ブラフマン)に当たるものを真如、法身、法界、一如などとして立てるようになった。
ということで、松本史朗氏は『縁起と空』の冒頭で、

如来蔵思想は仏教ではない。
とまず断言している。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/12c2a22ae6567df92065b7237c13b89c
0504おじゃる垢版2016/12/22(木) 08:13:14.16ID:+x1OLNXF
http://fallibilism.web.fc2.com/001.html
松本史朗氏
如来蔵思想は仏教ではない

その背後にはインド土着思想であるヒンドゥー教というものがあると見ている
仏教の開祖である釈尊は「縁起」を説いた、つまり、“仏教”とは縁起説である
というのが筆者(松本史朗氏)の理解であるが、この縁起説とは
ヒンドゥー教の「アートマン」(我)〔霊魂〕の思想を根底から否定したものなのである
“仏教”としての縁起説からは、「無我・無常」の説が導出され、これが仏教の旗印ともなる
 − これに対して −
「我・常」ということを積極的に主張するのが、如来蔵思想であり
『涅槃経』には
「仏陀とは、我(アートマン)を意味する。その我は永遠不変の実在である」
と明記されているのである
如来蔵思想の「我の思想」、「有の思想」が
仏教の縁起説・無我説と全く逆の立場であることは明らかであり
この意味で筆者(松本史朗氏)は、“如来蔵思想は仏教(縁起説)ではない”と論じるのである
  _  _  _

↓松本史朗氏の場合は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83
掴もうとしている想いを手放して(滅して?)、そして
現れることもなく・滅することもなく
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%B5
分別超えた無分別の
智慧(般若, 慧)が釈迦の悟り …

↑という意味を理解してない?のかもしれない  m(_ _)m
0505おじゃる垢版2016/12/22(木) 08:22:39.44ID:+x1OLNXF
 
分別を超えた無分別の
智慧(般若, 慧)の世界から観察して

『(松本史朗氏の)如来蔵思想は仏教(縁起説)ではない!』

と掴もうとしている想いを手放して(滅して?)いくこと  m(_ _)m
0506123垢版2016/12/22(木) 08:30:49.40ID:5fZTFZ5H
505.
分別を超えた無分別、か。
想いを手放して、滅する、か。
それは心理学である。
それは宗教ではないよ。
それではバカになれよと奨励していることになる。
0507おじゃる垢版2016/12/22(木) 11:07:35.59ID:+x1OLNXF
曹洞宗 内山興正
http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
「思いを手放しにする」とはどういうことか
われわれの思いは
いつも「何か」を思うわけですけれど,この「何かを思う」ということは
思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです。実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
…さらに無著・世親の唯識系統では阿頼耶識説を説くことにより
…われわれ日常行為における因果関係についても
まったく詳細巧妙に説明する
(心の動き・心の働きとかの)心理学を展開しています
そういうつもりで唯識教学などを勉強すると
われわれの実際修業における日常生活の心構えにも大いに役立つと思います
  _  _  _

(脳みそクルクルパーの)123タソも
年末年始には護摩の参拝に逝ってみよう

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ  m(_ _)m
0508123垢版2016/12/22(木) 11:19:15.11ID:5fZTFZ5H
507.
唯識なんてものは心理学である。
日常生活の心構え、か。
それは生活の知恵の問題である。
それは宗教ではない。
それは生活の問題であるよ。
0509ジャンキー大山垢版2016/12/22(木) 11:35:09.57ID:IegI/E8p
ゴミの持ち込みは禁止ですよ〜

    >十十十十<
 Π | n n |
 ||∩亅 じ じ L∩
 H∪> ≡≡≡≡ <∪
 || (〈口 ̄ ̄口〉)
(⌒O \\_口_//
 |\\_>――イ
(⌒二/┼┼┼//
 Π /|土土//  _
 H  ̄ヒニニ2_|コ
 冊 /┼┼┼∠_|コ
_ノ|L|土土/   ̄
フ//| \\_
イ// / />
 ̄  ヒ∠>
0511おじゃる垢版2016/12/22(木) 13:47:47.84ID:+x1OLNXF
(脳みそクルクルパーの)123タソには↓わからないかもしれないけど

仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
因と縁の双方の縁起に依存して変化している世界の中において

此縁性(しえんしょう)
無明に依存して
たとえば『苦しい!』と掴もうとしている想いが現れる
(現れ滅して変化している。心の動き・心の働き、仮の現れ)

http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空經
業報有るも而かも作者(我所も・我も)無し
(我所も・我も、ないので、それゆえに)此の陰滅し已らば異陰相續す
此れ有るが故に彼れ有り。此れ起るが故に彼れ起る
無明に縁りて行 → 行に縁りて識(が、仮設として、仮に現れ、そして)

此れ無きが故に彼れ無く、此れ滅するが故に彼れ滅す
無明滅するが故に行滅し → 行滅するが故に識滅す

「苦しい!」と掴もうとしている想いを手放して(そして、滅して)いく
(変化している)心の動き・心の働き

http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
(それゆえに最終的には苦集滅道から → 無苦集滅道(涅槃)へ)

神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ  m(_ _)m
0512123垢版2016/12/22(木) 15:25:48.52ID:5fZTFZ5H
511.
おじゃるバカは、いつまで心理学をやっているのかや。
心の動き、心の働き、をやっている場合ではないよ。
宗教とは何か、を理解していない。
なんでか。
宗教問題とは何か、を分離して理解できないからである。
0513ジャンキー大山垢版2016/12/22(木) 17:03:32.66ID:IegI/E8p
>>512
宗教問題などないし知らない。
0514123垢版2016/12/22(木) 18:41:50.18ID:Rh8HOE6b
513.
バカ丸出しである。
0515宝珠@神智学徒 ◆cPNLwLxWRE 垢版2016/12/23(金) 03:28:14.66ID:MAmQJ6nv
>>472-479
@-Bは同意するけれど、
C以降〜については意義あり。

パーピマンはつまり、
勝手に己の未熟な自己認識であるところの唯物論へと仏教を持っていこうとしてるだけ。
西洋の学者たちがアホな合理主義により、
宗教の神秘部分はすべて単なる神格化と迷信であるとして排除しようとする単純な態度とまったく同じ。
何故なら、彼らは“超常現象というのは絶対に在り得ない”ものだと結論づけているから。
答えは最初から出てるということで、その色眼鏡で宗教を見て判断していくわけ・・・。
けれども、こういった唯物論は誤った最も低き見解だと戒めているのがゴータマの教えなのです。

唯物主義者というものは、自己体験するまでは絶対に認めないので、
理論によっては見解を変えるということはまずない。そういう意味では何を言っても無理。
もちろん、自分が勝手に信じないのはご自由なんだけど、
しかしながら、仏教は唯物論ではないという事実は捻じ曲げられては困るから。
そこはあまりにも重要なので、また時間が取れしだい再開します。

今は、妻とのクリスマスと
年末に向けての注連縄や祭壇の手入れなどで忙しいので...。
暫しの間、休戦します。
0516宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/23(金) 04:19:46.74ID:MAmQJ6nv
>>515
訂正:
 ×意義
 ○異議
0517神も仏も名無しさん垢版2016/12/23(金) 09:22:10.65ID:+5WZ23fy
前にも言いましたが、自分だけの体験を信じ込むのも自分だけの考え方を信じ込むのも同じことです。

落ち葉落ちて落葉の如し。
今この字を読んで字の如しです。
万人に共通じゃなきゃ意味無いでしょ。
だから以心伝心というんでしょう。
0518神も仏も名無しさん垢版2016/12/23(金) 09:37:51.36ID:7TLLl96N
何を信じて何を信じないかはその人の自由。

結果、救われるも滅びるも、全ては自業自得。
0519神も仏も名無しさん垢版2016/12/23(金) 18:57:42.52ID:+5WZ23fy
そんな話ししてません。
真実は信じる信じないに全く関係ないんです。
0521神も仏も名無しさん垢版2016/12/23(金) 22:24:49.46ID:m+5Hs8wu
>>517
>万人に共通じゃなきゃ意味無いでしょ。

無我なんて言ってるのは仏教だけで世界中の他の宗教では我、霊魂の存在を信じている。
仏教徒を除いて万人に共通しているのは有我論の方。
仏教はその意味では意味が無い。
有我論のインドでも当然廃れてしまった。
0522神も仏も名無しさん垢版2016/12/24(土) 00:17:48.70ID:0cB+A05E
決まりがないということが決まってるでしょうね。

だから仏の教えは唯一無二なんです。
その他の宗教は必ず何かを立てる。
それがいかんとも言ってませんけどね。

まぁ縁が無ければどうしようもありませんな。

本当にお困りの人だけ必死になればええんじゃないですかねー。
0523垢版2016/12/24(土) 05:38:39.45ID:LUhIHyN/
ぱーぴまんへ、
いろいろあったが、おもしろかったです。
わたし、2chやめます。
あなたの教説は、本当にためになりました。
あらためて、お礼申し上げます。
0524パーピマン垢版2016/12/24(土) 16:44:42.81ID:wGkWx850
>>496 wwwwww

なんていうかねえw 前から、南泉斬猫は嫌いなんだよなw
それが仏行かどうかはいいから、とにかくヌコさん殺すなとww

まあ、この辺りはアングリマーラ とも絡むしw

>>523 おや? 引退ですか?w それはお疲れさんw
最後だそうなんで、一言いうとw

「お前さんは、傍から見ると実に危なっかしいw 簡単にオレオレ詐欺に 引っかかりそうw 
もう少しは他人を見る目を養った方がいいよw でないといつかリアルで痛い目見るぞww」

・・・・・・まァ、余計なお世話だと思うがww
0525パーピマン垢版2016/12/24(土) 16:49:07.78ID:wGkWx850
最近は、ダライラマの対談本・・・あとは佐々木閑 か?ww

佐々木閑の著作は、どれも同じようなんだよなw
(まあ、結構すきだがw・・・・彼は律が専門何だろうw)

これからの予定は、奈良さんのインド・東南アジア仏教史 かな?
0526パーピマン垢版2016/12/24(土) 16:53:51.80ID:wGkWx850
・・・・・

ダライラマ氏についての感想

色々、評価はあるけど、やはり当代随一の「宗教家」であると思いますなw
これは世界を飛び回った経験が大きいと思うw
各国の最先端で活躍する人々と触れ合うことによって得た視座は貴重なんでしょうw
チベットに籠っていたらこうはならなかったと思うけどw
0527神も仏も名無しさん垢版2016/12/24(土) 21:16:19.63ID:oCSgahBn
>>524
URL論文では、猫は無関係だがな・・w

問題(ポイント)は、そこじゃない、と。

猫を斬ろうが可愛がろうが、
禅宗は、(―既に六祖から?!―)野狐を生むことが運命づけられていたのではないか?

とw
0528神も仏も名無しさん垢版2016/12/24(土) 23:04:18.01ID:LUhIHyN/
パーピマン返事ありがとう。
おれ、なんか、狐かタヌキに化かされているような感じがするんだよな!
0529パーピマン垢版2016/12/25(日) 04:19:44.19ID:7Ae9cHHw
>>528

おしいw

キツネやたぬきじゃなくて、正解はイタチでしたww
0530パーピマン垢版2016/12/25(日) 04:24:59.48ID:7Ae9cHHw
>禅宗は、(―既に六祖から?!―)野狐を生むことが運命づけられていたのではないか?

そりゃそうでしょ?w

そして、それを決定づけたのが馬祖だと思うがねw オレはww
0531ハジ垢版2016/12/25(日) 04:34:11.09ID:Ympw6A3n
>>530
おい!
パーピマンよ
悪魔よ
オレはおまえとの命の話をしとるのだ、
なにが神秘だ!!!!
ええか?
お前は朽ち果てる

俺もな爆笑

お前のお勉強はアホ
0532神も仏も名無しさん垢版2016/12/25(日) 07:33:33.41ID:MEl/uagl
 
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4634430703/ref=cm_cr_dp_see_all_btm/353-9581550-3638037?ie=UTF8&;reviewerType=all_reviews&showViewpoints=1&sortBy=recent
仏教史 1 インド・東南アジア(世界宗教史叢書 7)1980/1 奈良康明

この書籍は↑読んだことないけど
  _  _  _

この書籍は↓おすすめでつ

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4333024293/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&;reviewerType=all_reviews&showViewpoints=1&sortBy=recent
仏教出現の背景(新アジア仏教史01 インドT)2010/4/27 奈良康明 下田正弘

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4333024374/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&;reviewerType=all_reviews&showViewpoints=1&sortBy=recent
須弥山の仏教世界(新アジア仏教史09 チベット)2010/4/27 沖本克己 福田洋一
0533パーピマン垢版2016/12/25(日) 10:02:24.91ID:7Ae9cHHw
wwwwww

二番目のは、次に読む予定w

三番目のは予定なしww
0534神も仏も名無しさん垢版2016/12/25(日) 13:42:22.91ID:MEl/uagl
 
たとえば
隠居先生のように
チベット密教(仏教?)があったから
「オウム真理教のような邪教集団が現れたのだ!」

とチベットを批判する人もいるかもしれないけど↓とりあえず

https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4062066890/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&;reviewerType=all_reviews&showViewpoints=1&sortBy=recent
チベットの生と死の書 1995/10/18 ソギャル・リンポチェ

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書籍ではなくてDVDでつ
NHKスペシャル チベット死者の書 DVD
ダライ・ラマ 単独インタビュー(1993年2月ダラムサラにて)
チベット仏教の叡智を語る 瞑想・死・輪廻転生・日本人へのメッセージ
0535ジャンキー大山垢版2016/12/26(月) 12:01:19.69ID:VjTYzveO
南泉斬猫ですか…

猫に限らず、我々は他の生き物の命を頂いて体を養ってますからねぇ。

二義に墜ちて説明すれば、趙州禅師が草鞋を頭に頂いて
去っていたのも頷けますわ。
0536神も仏も名無しさん垢版2016/12/26(月) 18:40:17.31ID:V8/mFSpI
>>535
そのために(→二義に墜ちることを戒めるために)
猫を切り捨てるとしても、

 『その是非を』 『どの基準で問うか?』

なわけよw


例1、陶芸家が、気に入らない作品を割り捨てる。
   もしそれを、格安品として市場に出せば、どれだけの人にメリットが出るだろうか?

例2、医薬品の開発に於いて、どれだけの動物が実験台になっているか。
   南泉は猫一匹だが、医薬品の研究者は、何百匹とネズミ等を『弄んで』いるわけだが?

南泉が猫を斬るのは良くないが、医薬品や化粧品開発の爲に、
或いは、医学進歩の爲に動物を実験道具とすることは良いというなら、
その線引き基準を発言して貰おうかw  >>535
0537ジャンキー大山垢版2016/12/26(月) 19:28:56.90ID:jKxWeIRj
>>536
パーピマンさん、かな?

ごめん、趣旨がわからん。
一義では「ぎゃあぁぁぁっつ!」で基準を付けようがない。
二義は人の物差しによって変わるし。
0539ジャンキー大山垢版2016/12/26(月) 21:16:14.96ID:VjTYzveO
>>538
>脊髄反射
ワロタw
俺もだ。
0540神も仏も名無しさん垢版2016/12/26(月) 21:42:22.44ID:Dx0MsRo1
1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」”
0541神も仏も名無しさん垢版2016/12/27(火) 01:15:25.63ID:PX83c6x1
弘法大師は師である恵果和尚が亡くなった時、碑文を書いて恵果の徳を讃えた。

貧を済(すく)うに財を以てし、愚を導くに法をもってす。
財を積まざるをもって心とし、法を慳(お)しまざるをもって性とす。
故に若しくは尊、若しくは卑、虚(むな)しく往(ゆ)いて実(み)ちて帰る。

師匠の恵果は「貧しい者が来たらまず財を与えよ。愚かな者が来たらまず法を与えよ」と仰った。
それまでの仏教では僧侶は財を持ってはいけない、無所有でいなくてはならないだったのに、貧しい者が来たら僧侶の方から財を与えよと書いてあるわけだが、
これは仏教における所有に対する概念の百八十度の転換である。
「飢えた者を見たらパンを施し、それから法を説き、愚かな者を見たら法を以って導け」、
しかし僧侶は無所有でいなくてはならないと律で決まっていたので、「飢えた者が来たらこれに施せ」という恵果の教えは困るわけである。
本来してはいけないことを説いている。
ところが、その後に「財を積まざるをもって心とし」とある。
では、飢えた者が来たら財を施すために、お金を所有して良いかというとそうではない。
財にとらわれてお金を一生懸命搔き集める心を持ってはいけない、しかし入ってきた財物はそのまま置いておいて、
飢えた者が来たらそれを施しなさいというのである。
これが今までの仏教の考え方と百八十度の転換である。
0542神も仏も名無しさん垢版2016/12/27(火) 01:28:33.44ID:Mzv5T+PZ
 
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/439313592X/ref=cm_cr_dp_see_all_btm/353-4216226-3943010?ie=UTF8&;reviewerType=all_reviews&showViewpoints=1&sortBy=recent
〈仏教3.0〉を哲学する 2016/9/20 山下良道 藤田一照 永井均(哲学)

253ページ参照

山下良道(曹洞宗1.0 → テーラワーダ2.0 → 3.0?)
「…私がいて、机(とか物質とか)が客観的に実在するなんていう世界観は、嘘(夢、幻の如く『空性』)なんです」

藤田一照(曹洞宗1.0 → 曹洞宗3.0?)
「(無明に依存して、仮の現れとして)作られたものと言ってもいいと思います。仮設、仮に設けられたもの」
「(無明の暗闇の世界の中で、世俗の)みんなが一斉にそうやって、みんなが合意して
  (無明に依存している、世俗の)みんなと違うこと言うとプレッシャーがかかる」
「(無明に依存して、仮の現れとしての)作り物(夢、幻の如く『空性』)であると
  (知覚して、智慧の世界に住むことができたのなら)死も恐れなくてすむでしょう」

http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
(それゆえに、苦集滅道から → 無苦集滅道へ)
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
0543神も仏も名無しさん垢版2016/12/27(火) 02:04:33.84ID:Mzv5T+PZ
 
>飢えた者が来たらそれを施しなさいと

(たとえばテーラワーダとかの場合は)
世俗一般の在家の人が
テーラワーダの僧侶に、お布施する
という感じかもしれないけど↓とりあえず

http://www.j-theravada.net/3-jihi.html
(智慧の世界から観察して)
慈悲の冥想
生きとし生けるものが幸せでありますように

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/121352
(テーラワーダの)パオ・セヤドー
慧解脱を証したいと思う修行者は、必ず四界分別観を修行して
地・水・火・風、四大の相を … 照見しなければなりません
全身が透明でかつ、非常に強い光を発散しているのを観る必要があります
四大を観じ続け … 小粒子を見る事ができます
  _  _  _

このような(苦集滅道とかの)導きも↑お布施をする、それ以上の功徳があるのかも

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ  m(_ _)m
0544神も仏も名無しさん垢版2016/12/27(火) 21:47:11.91ID:eyskosXB
【ギリシアの有の哲学対仏教の無の哲学】

紀元前2世紀に現在のインド西北部を支配したギリシア人のミリンダ王は、
仏僧のナーガセーナとの問答を通じて仏教に帰依し、出家したと『ミリンダ王の問い』は伝える。
この書は、西洋の有の哲学に対する仏教の無の哲学の優位を示すものとして有名であるが、
ナーガセーナの無の哲学は、当時のギリシア哲学を論破するような水準のものではなかった。
ミリンダ王は出家しなかったし、本当に理解したかどうかも不明である。
それにもかかわらず、ミリンダ王や彼の後継者たちが仏教を保護したのは、
被支配民の間で仏教の信仰が広がることが、彼らの統治にとって有利であったからと考えられる。
仏教は、王朝の保護を受けることで、大衆宗教としては逆に衰退することになる。

以下
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2012/milindapanha/
0546パーピマン垢版2016/12/28(水) 10:49:04.00ID:MpspTyCo
>>545 哲板にそんなスレあったんだw

秘蔵宝鑰かあw・・・・あれマジで面白くないんだよなw
(もう少し、空海を突っ込んで学べば面白くなるのかもしれんがw)
0547神も仏も名無しさん垢版2016/12/28(水) 10:50:20.29ID:HtOLT2X1
パーピマンとハジの殴り合い漫才見たいから定期的にハジ煽っとくわw頑張ってやw
0548神も仏も名無しさん垢版2016/12/28(水) 18:15:44.56ID:F9pu5nHP
>>544
面白いね、その記事書いた人の考え方

存在するのは車ではなく、車の構成部分だけであるという議論を徹底すると、その構成部分もまた存在せず、存在するのはその部分だけであるという無限後退に陥る。
後に、説一切有部は、物質(色)は極微(ごくみ; Sanskrit: parama-a?u)という最小単位から成り立っているとする教義[6] を展開したが、
ナーガセーナもそうした原子論的な物質観を持っていたようだ。
もしも私たちが「車」と呼んでいる物が極微のたんなる集合体にすぎないとするならば、なぜ私たちは「車」という観念を有するのか。
ナーガセーナは、諸々の部分に縁って「車」という名称が起きるという仏教的な縁起(Pali:paticcasamupp?da; Sanskrit: Prat?tyasamutp?da)の教義に基づく説明をしている。
仏教で謂う所の縁起は、西洋哲学における原因結果関係よりも意味が広く、かつ曖昧なのだが、ここでは唯物論的因果関係で認識が説明されていると解釈できる。
すなわち、存在するのは、車ではなく、それを構成する物質的な部分にすぎず、「車」という観念は、物質が私たちの感覚作用や認識作用を刺激することで生まれる仮象ということである。
このように、説一切有部には原子論的な唯物論の傾向がある。


↑残念ながら、多くの人が仏教を理解・解明しようとして誤って陥ってしまう穴に嵌ってると言わざるを得ないでしょう

この人の様なモノの考えのままだと
山川草木一切衆生悉有仏性とか草木国土悉皆成仏と言う時
山や川や一切の衆生、草木や国土などに仏性が有ったり、それらが成仏すると考えてしまうんでしょう
これって多くの人が陥っている誤りなんですけどね

つまり、車の有無やナーガセーナの有無に拘り陥ってしまい核心部分を見落としてしまっている訳です
これって西洋哲学に染まり切った人なんかが抜け出せない沼でもあって
西哲な人には名色がどうしても理解できないみたいなんですな
どうしても主観者・観察者を勘定に入れなきゃ考えられない
対象として考えようとしてるその名色こそ、自己の事を言っているのにです
灯台下暗し的な
0549神も仏も名無しさん垢版2016/12/28(水) 20:07:47.08ID:B6zTEvIW
>名色
http://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-upanishado/upanishado-tetujin.htm
仏教の思想的土壌 ウパニシャッド
名称と形態(現象界)の展開
6.3.4 … かの神(=有)は、生命を与えるアートマンをもって …
[現象界の]名称と形態 namarupa をはっきりと展開した

http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ 872
(無明の暗闇に覆われた世界の中で)
名称と形態とに依って感官による接触が起る
諸々の所有欲は欲求を縁として起る

(智慧を以て
  無明の暗闇に覆われた世界を手放して(解脱して)
  智慧の世界から観察して
  非想非非想も超えて)
欲求がないときには、<わがもの>という我執も存在しない
形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない
  _  _  _

>主観者・観察者
(智慧の世界から観察して)
煩悩障(自己に対する執着)・所知障(外界のものに対する執着)の
二種の障害を(手放して)根絶することによって
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智)
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、(非想非非想も超えて)
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智)
0550神も仏も名無しさん垢版2016/12/28(水) 20:47:34.62ID:B6zTEvIW
テーラワーダ 2.0 パオ・セヤドー
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.question.pdf
… 心と心所を合わせて名といいます
… 受蘊、想蘊、行蘊と識蘊になります
この四つのグループは名蘊です
色(物質)は色蘊です
心、心所と色(物質)を合わせて名色といいます …

密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる
密集を看破できないのであれば、霊魂の概念は消失する事はありません

密集を看破するためには、色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
我々が密集を看破した時、(無常であり、そして)無我への領悟、了解が生まれる
  _  _  _

たとえば
仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けているので

それゆえに
「落武者を見たのだから幽霊(霊魂)は存在する!」と
掴もうとしている想いが現れ滅して変化している

生きとし生けるものが幸せでありますように
すこしでも早く成仏いたしますように
オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ  m(_ _)m
0552神も仏も名無しさん垢版2016/12/29(木) 06:20:14.59ID:qd3rigM1
>(たとえば、所知障(外界のものに対する執着)とかの?)
>対象として考えようとしてるその名色こそ、自己の事を言っているのにです
>灯台下暗し的な

仮設としての
種子は
阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある
前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある
この種子は
前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される
これが思考(思惟?)であり、外界認識であるとされる(種子生現行)

阿頼耶識縁起↑的な?

http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-walk/cat29/post-99.html
…護摩の思想は
インドから中国を経て空海に及ぶ頃にはこの火の行事が高度に思想化され
火を真理とし、薪を煩悩とし、真理をもって煩悩を焼くという思想に至った…

それゆえに、年末年始も、護摩を参拝しに逝こう
光り輝くものから → 夢、幻の如く、空性なるものを観察する

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ  m(_ _)m
0553パーピマン垢版2016/12/31(土) 09:48:43.88ID:UFKH5FAL
今年も一年が終わりますなw

・・・・・・
それでは、皆さん、よいお年をw
0554宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2016/12/31(土) 11:21:04.70ID:kasl8DTb
元旦は実家の仏前にて勤行。
初詣の寺社は、
実家の地域神社に菩提寺の不動尊、
そして、地元の地域神社と成田山別院の予定。

今年もお世話になりました。
それでは皆さまに
良い年が訪れますことを祈念して、合掌。
0555神も仏も名無しさん垢版2016/12/31(土) 13:05:42.54ID:Exsn8rHa
初詣は不動関係の神社、仏閣は絶対行ってはいけません!こいつは嫉妬とひがみ
でできているので、みんなつぶしあい、引きづり落としあいになりダメにされます。
からかわれてバカにされるめにひどくあいます。
わかりやすく言うとオーム真理教と同じです。いくなら月読関係の神社などにしましょう。
0556神も仏も名無しさん垢版2016/12/31(土) 13:41:51.50ID:lNnX0p4d
たとえば、四柱推命(しちゅうすいめい)とかの
1年の始まりは、立春(2月4日ごろ)ということであるらしいけど、とりあえず

仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
地水火風空識に依存して
色受想行識の仮和合に依存して
我癡・我見・我慢・我愛(渇愛)に依存して
貪・瞋・癡(とん・じん・ち)に依存して

2016年から → 2017年へ
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空經
作者無し(変化しないものではない)
それゆえに
仮設としての
業報に依存して
此の陰滅し已らば異陰相續す

此れ有るが故に彼れ有り。此れ起るが故に彼れ起る
無明に縁りて行、行に縁りて識

たとえば、生老病死とかの、「苦しい!」と掴もうとしている想いが
激流のごとく活動している。暴流の如く相続していく

「苦しい!」を相続してる人もいるかもしれないけど
「あけましておめでとう!」で良いのかしらん?  m(_ _)m
0557神も仏も名無しさん垢版2016/12/31(土) 14:05:43.84ID:lNnX0p4d
 
月読関係の神社?

月読命(ツクヨミ)伊勢神宮・月読神社
月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある
ツクヨミは、月の神とされている
しかし、その神格については文献によって相違がある
ツクヨミは太陽を象徴する天照大神と対になって誕生する

https://www.izumo-kankou.gr.jp/img/01spot/special01/sp01_ph10.jpg
https://www.izumo-kankou.gr.jp/676

巫女さん萌え〜↑という感じでつね?

「そうだっ!出雲大社にも逝ってみようっ!」

「そうだっ!陰陽寮(京都?)にも逝ってみようっ!」  m(_ _)m
0560神も仏も名無しさん垢版2017/01/03(火) 00:53:27.18ID:8HU4aDRv
般若心経に「色即是空」と同様に、五蘊もまた「空」であるとある。
空はプラバースワラ=光輝くものの漢訳で、古代エジプト・グノーシス派の神々「プレロマ(充満)」という
概念に近い。
エネルギーに満ちた実在をイメージするといい。
0561神も仏も名無しさん垢版2017/01/03(火) 12:53:40.82ID:rCmsFRwe
色即是空 テーラワーダ2.0から
空即是色 3.0へ?↓
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図(じゅうぎゅうず)

八 ☆ 色即是空
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智(いつでも光り輝いている、法界体性智)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
無明の暗闇に覆われた世界すべて一切を『(夢、幻の如く)空性なり』と観察せよ

九 ☆ 空即是色
いつでも光り輝いている、法界体性智の世界から → 思惟している世界を観察していく

阿頼耶識(無覆無記)

その人にとって
善悪の判断をする前の段階の
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)を
その辺りに漂わせておくようにして
その感覚に注意を向けて共に過ごして
そして、自然に
消えていくのを見届けます

『柳は緑?花は紅?』 ← これの意味がわからないでつ  m(_ _)m
0562神も仏も名無しさん垢版2017/01/03(火) 13:43:50.89ID:rCmsFRwe
 
> プレロマ(充満)

仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
地水火風空識に依存して
現れ、変化して、滅して

作者無し
それゆえに
業報有る
此の陰滅し已らば
異陰相續している世界の中においても

法界体性智も満ちている  m(_ _)m

http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
https://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97/
0563神も仏も名無しさん垢版2017/01/03(火) 23:12:44.33ID:mQ++Ifk6
0088 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/04/05 20:57:00
>>84,>>85
他は知らないけど念仏と真言に関しては日蓮自身が既にこちらの負けでいいよと既に 宣言していますが?
ソース:清澄寺大衆中(建治2年正月11日)
のなかで
「一国を挙げて仏法が邪悪になっちまってるから梵天・帝釈天の命令で他国が責めてきてるわけよ。
だからね、わしの言うこと聞かなきゃ有能な軍人どれだけ いても国守るの無理なわけよ。
もしもそうでなかったら真言とか念仏信じちゃって構わんぜよ。」(趣意)
といっています。
日蓮を用いなくても蒙古は撃退できました。
従って、日蓮自身がそれでいいと言っているので対念仏、対真言は、「日蓮の負け」 で日蓮在世中に決着済みです。
 従ってこのスレで残る話題は禅天魔と律国賊だけです。

清澄寺大衆中
http://www.miura-lotus.com/gosho183.htm
>日蓮を用いないのであれば、将門(まさかど)・純友(すみとも)・貞任(さだとう)・利仁(としひと)・田村(たむら)の様な将軍が百千万人居ても叶わない。
>これが本当でなければ、真言と念仏等の僻見を信じなさいと云って弘めてきた。
0564神も仏も名無しさん垢版2017/01/03(火) 23:21:42.65ID:mQ++Ifk6
つまり日蓮が言うには帝釈天や梵天は正法である法華経と法華経に帰依する日蓮の守護神なんだよ
鎌倉時代の日本人は真言や念仏といった邪教を信じ正法をスルーしてたので仏罰として帝釈天や梵天が蒙古王に命じて日本を攻めにきたのさ(元寇)
幕府が日蓮を認めて蒙古調伏祈祷の依頼をしたので帝釈天や梵天も罰を与えるのをやめて神風吹かせて蒙古軍は撤退したわけだが

柴又帝釈天が日蓮宗のお寺であるのはそういう経緯があったから
0565神も仏も名無しさん垢版2017/01/04(水) 11:06:24.38ID:9KNQrPsS
>>561
>『柳は緑?花は紅?』 ← これの意味がわからないでつ  m(_ _)m

本当に見たまんまが見えてるか?って事。
柳を見たら緑色に見えて、(紅い)花を見たら赤色に見えた。
各々個別にはそれ相応の理由や意味(緑や紅)もあるだろうけど、
緑色の柳が見えた事や紅い花が見えた事に理由や意味を求めるのは
それらが見えた後の話なのであって、見えるそれ自体には意味も理由も無い。
それ故に「?」が付いてる。
緑色と識別された柳は、柳が緑色していると理解されてから識別されてる。
識別される寸前は、柳も緑色も命名されておらず、各自見たままを見ている筈。
命名された後が世俗諦であり、命名以前を勝義諦となる。
0566神も仏も名無しさん垢版2017/01/05(木) 14:25:34.71ID:R6U+cVJF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
光り輝いている世界から → 煩悩している世界を観察していく
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E8%B6%B3
智慧の世界から → 思惟している世界を観察していく

> 命名された後が世俗諦であり↓命名以前を勝義諦となる

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
勝義の世界から → 世俗している世界を観察していく?
9.
この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう
10.
現象的真実の中に存する根拠なしに究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに解脱(涅槃)は達成され得ない

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
縁起したものを離れ、そして
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが「苦しい!」と掴もうとしている想いの終わりである

http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図(じゅうぎゅうず)
八 ☆ 色即是空
九 ☆ 空即是色
いつでも光り輝いている、法界体性智の世界から → 思惟している世界を観察していく

大円鏡智(勝義)の世界から → 阿頼耶識(無覆無記)の世界を観察していく?  m(_ _)m
0567神も仏も名無しさん垢版2017/01/06(金) 08:38:05.38ID:/ydFbRLS
全然違いますね。
その通りあればその通りあるってことです。それしかないんです。
0568パーピマン垢版2017/01/06(金) 11:42:32.69ID:xx3Ha/1Q
>各位

本年もよろしくお願いいたしますw
0569神も仏も名無しさん垢版2017/01/06(金) 11:45:01.69ID:EXLiePGB
よろしくお願いしますだってよwまことも大分老けたもんだな
0570神も仏も名無しさん垢版2017/01/06(金) 13:18:56.10ID:0/hQK/ut
本年もよろしくお願いいたします  m(_ _)m

> 全然違いますね … その通りあるってことです

たとえば
ごく普通の一般的な世俗世界の衆生は
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている。無明薫習

仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており
苦集滅道のさとりに達するための修行の障害がある。有覆無記
『その通りある』ってことを、正しく観ることができない
  _  _  _

『その通りある』ってことを、正しく観察するためには

智慧の世界から → 思惟している世界を観察していく

いつでも光り輝いている世界から観察していく↓

われわれが身心のいっさいについて無常(であり、そして無我である)の事実を知り
自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは
人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである

この正見は
正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定によって実現される
0571神も仏も名無しさん垢版2017/01/06(金) 13:35:03.88ID:/ydFbRLS
ですからたとえば柳ならその通り見えるわけでしょ。
見てるとき見てるなんてありませんよ。
世俗とか勝義とかいってますけど、
世俗諦とはその勝義を示す方便に過ぎませんよ。
色々概念を抱えすぎて分からなくなってるんじゃありませんか。
ただ見てごらん。そうとしかないでしょ。
自分ということも概念も何にもついてないはずですよ。
犬がワン!となけばワン!しか無いんです。
0572神も仏も名無しさん垢版2017/01/06(金) 13:39:59.48ID:EXLiePGB
良い事いうなぁ。ジャンキー大山のお世話してやれ。
0573神も仏も名無しさん垢版2017/01/06(金) 13:54:13.33ID:0/hQK/ut
ごく一般的な世俗の人は
無始からの(輪廻を繰り返して)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている。無明薫習↓それゆえに

チベット ゲルク派
中観自立派
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう

中観帰謬派
仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
妄想して、そして
分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに
汝の言う「誰も気づいていない山火事」も
いま我らによって(無明に依存して、そして妄想して)分別されている
それゆえに
仮設としての、世界の中において
『変化しない!』というような自相を、世俗の次元において否定します
  _  _  _

チベット ニンマ派
これまで私たちは
( ☆ 無明に依存しているので ☆ )
この世が苦そのものであると理解できずにいました
すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
( ☆ 智慧の世界から観察して ☆ )
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており
それゆえ常に変化しています
私たちは無常(であり、そして無我である)という理に自らの心を馴らしていかなければなりません
0574神も仏も名無しさん垢版2017/01/06(金) 14:59:47.99ID:0/hQK/ut
 
> 自分ということも概念も何にもついてないはずです

仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である
阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている

他に対して
自らこそが特別な存在として妄信している

「我所もある・我もある」と
掴もうとしている想いが
現れ・変化して・滅している

地水火風空識に依存して …  m(_ _)m
0575ジャンキー大山垢版2017/01/06(金) 15:26:31.75ID:EXLiePGB
おい、パーピマン、もう終いか?
全く悟りも煩悩も中途半端な奴だな?
一つお前を点検してやる。

500円渡すから1000円の和菓子を買って2000円
お釣り持って来いや?
0577神も仏も名無しさん垢版2017/01/06(金) 18:51:48.57ID:9BbHDM7O
0824 神も仏も名無しさん 2017/01/06 15:48:05
な?人のレスをコピペして喜んでるのが
「自称禅定力2ちゃんねるナンバーワン」のでおー様でつ(笑)

0825 神も仏も名無しさん 2017/01/06 18:48:45
ふーん、やっぱりでおーなのか。
コンドームにラーメンのゲロを吐いた様な奴だな。
ID:9BbHDM7O
0578神も仏も名無しさん垢版2017/01/06(金) 22:49:34.29ID:D2ZGcHlS
本当に真理を求めるならいつまでも考えても分からないことにこだわらないで一旦置いて真実に眼を向けてごらん。
目前にいつでも転がってますよ。
どういう意味なのか、もっと深いところに何か隠されてるんじゃないかとか探るんじゃなくてね。
目の前のことだけでいてごらん。必ず真理に目覚めるから。

本当に真実を悟りたいなら。
0579神も仏も名無しさん垢版2017/01/06(金) 23:08:13.05ID:XJoDeMDd
諸法実相

真実不虚
0581神も仏も名無しさん垢版2017/01/07(土) 06:16:01.53ID:WDwemUeZ
http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=113
あるがままのすがたを見ることなのですが
無明の暗闇に覆われている
ごく一般的な
私達には
なかなか見えないのです

これを本当に見ることができるのは
智慧(明智)をそなえたみ仏であるといわれます

無明の暗闇に覆われている
ごく一般的な
私達は
本当の相(すがた)を見ないで
いつも『(我癡・我見・我慢・我愛)我欲』という色めがねをかけてものを見
(無明に依存して、妄想して、そして)目先の分別で区別したり
比較したりして
喜怒哀楽のとりこになり
目を曇らせてものを見ています
http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ
653
智慧の世界から観察して
無明の世界から解脱して、そして
賢者は
仮設としての
 ☆ 渇愛(タンハー)を手放して、そして ☆
あるがままに見る
かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している
0582神も仏も名無しさん垢版2017/01/07(土) 06:54:32.56ID:WDwemUeZ
> 必ず真理に目覚める

http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説

仮設としての
無明の世界から
解脱して

智慧の世界から観察して

変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

しかし
誰もが成仏するわけではないので(五性各別)、それゆえに
『解脱すれば仏だ!』ということに、気づくまでは、気づくことは難しい

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
大乗1.0の説明よりも
テーラワーダ2.0のような説明の方が、わかりやすい

中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察

無明の停止は
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである

(中論も大乗だと思うけど、それでも)↑このテーラワーダ2.0のような説明の方が、わかりやすい

テーラワーダ2.0の止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)実践したことないけども …  m(_ _)m
0583神も仏も名無しさん垢版2017/01/07(土) 08:42:29.19ID:5uIqbExL
諸法実相についてこのように、あなたは学ぶべきです。
『見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。
おじゃるさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。
おじゃるさん、まさに、あなたにとって、
見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、
おじゃるさん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。
おじゃるさん、あなたが、それとともにいないことから、おじゃるさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。
おじゃるさん、あなたが、そこにいないことから、おじゃるさん、それですから、あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。
これこそは、苦しみの終極“おわり”です。
0584神も仏も名無しさん垢版2017/01/07(土) 08:47:02.86ID:U2rAB/2D
        _,. -‐''": : : : :``' ‐ .、._
      ,.‐'´::: : : : : : : : : : : : : : : : :`‐.、
    ./:::: : : : : : : : : : : : : ,,r==、 : : : : :\
   ,i:::: : : : : : : : : : : : : : : : ii● l: : : : : : : ヽ
  ./::::: : : : :,,r==、 : : : : : : : :゙'‐='": : : : : : : : : i、
 ,i::::: : : : : :ii ,●l: : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : :l
 |:::: : : : : : :゙'‐='": : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : : |
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0585神も仏も名無しさん垢版2017/01/07(土) 10:53:54.75ID:/WC08CIs
この道に於いて誰もが陥る勘違いが”分かろう”とすることです。
真実は理解することじゃないんです。そうすることがいけないというんじゃないです。
それもまた真実の全容です。そういう学問も成立してますし、その道に行きたければそうすればいい。
ただ真の意味で真実を知ることはありません。理解しようとすればいきなり間違うんです。
考えで追究すればどんどん深みにはまっていきます。
真実不疑に達するには理解することでも理解しないことでもない。

頭が静まらないと真実が見えてこないということくらいは理解する必要はあります。
こちらが騒がしいと分からなくなるんです。
0586神も仏も名無しさん垢版2017/01/07(土) 13:10:43.41ID:WDwemUeZ
> 識られたものにおいては、識られたもののみが有る

此縁性(しえんしょう)
仮設としての
無明が有れば、苦が有り
無明が滅すれば、苦が滅す
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2016/10/09/095248
テーラワーダ2.0的な? パオ・セヤドー

 … 観智(智慧の世界から観察すること)が生起しない時
 … (仮設としての)無明は生起する

 … 無明と貪愛(渇愛)によって
 … (あるがままに見ることができなくて)執着が起こる
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において

作者無し
縁起に依存して
現れ・変化して・滅して

無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して

業報有る
此の陰滅し已らば異陰相續す

無明に縁りて行 → 行に縁りて識、に依存して

『苦しい!』と掴もうとしている想いが、現れ・変化して・滅していく?
0587神も仏も名無しさん垢版2017/01/07(土) 13:32:19.42ID:WDwemUeZ
> この道に於いて誰もが陥る勘違いが”分かろう”とすることです
> 真実は理解することじゃないんです

なぜ?無明に依存して↓妄想して、理解しようとして、分かろうとする
心の動き・心の働き↓が現れるのか?
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
テーラワーダ2.0的な? パオ・セヤドー
仮設としての
有分心
生命相続流
心の流れの相続を維持する主要な要因となるものです
有分心があるので
一期の生命の中の心(の)流(れ)は、断絶する事がありません

熟睡して夢を見ない時、何らの心路過程も生起していませんが
有分心だけが、継続的に非常に多く生起しているのです

過去の学者で、有分心を「無意識」とか「下意識」とかに訳しました
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛(渇愛)が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けているので

それゆえに
『(無明に依存して)いつでも妄想している!』ということなのでつ  m(_ _)m
0588神も仏も名無しさん垢版2017/01/07(土) 14:53:26.18ID:WDwemUeZ
『人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない!』と言う
大乗1.0と

苦集滅道で → 涅槃(滅してから、そして → 不生不滅)と導いていく
テーラワーダ2.0は
相性が悪い感じがする

それでも↓とりあえず
http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
曹洞宗 内山興正
( ↓「仮設としての」という意味で)
「霊魂はある」「いま貴方がたたかっている相手がそれなのだ」といわねばなりません
もし亡霊など全くないことが科学的であり,
仏法の「諸法無我」は現代の科学と一致するなどといえばとんだことになります
「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいます

仏教では昔からのインド人の信仰であった輪廻転生説を受け入れ
そのまま説いているわけですが
もしこの「諸法無我」を客観的真理のコトバとするならば
この輪廻転生を荷う主体がなくなり,因果歴然の教えも無意味となってしまいます

唯識系統では阿頼耶識説を説くことにより,いまいうような霊魂についてばかりではなく
われわれ日常行為における因果関係についても
まったく詳細巧妙に説明する
心理学(心の動き・心の働きとか)を展開しています
そういうつもりで唯識教学などを勉強すると
われわれの実際修業における日常生活の心構えにも大いに役立つと思います
  _  _  _

南伝の上座部と
唯識の心の働きの分析とかは相性が良いところもあるかも?  m(_ _)m
0589神も仏も名無しさん垢版2017/01/07(土) 15:22:30.33ID:DvoAHTj+
線香の煙も体に悪い
http://kenkounews.rotala-wallichii.com/pollutants_from_incense-smoke/

知ってた?お線香の煙がタバコよりも有害だと判明したことを
http://irairakaisyou.com/byouki/okou/

線香はなるべく合成香料ゼロでかつ煙が少ないものを選び、また読経の最中にはあげないほうが良いみたいね。
しかし、こういう有毒なものを仏様にあげて良いものだろうか、と。
0590神も仏も名無しさん垢版2017/01/08(日) 00:43:37.47ID:jb1NfDAl
仏の成就せる所は、第一の希有なる難解の法にして、唯、仏と仏のみ、乃ち能く諸法の実相を究め尽くせばなり。
謂(い)う所は、諸法の是の如き相と、是の如き性、是の如き体、是の如き力、是の如き作、是の如き因、
是の如き縁、是の如き果、是の如き報、是の如き本末究竟等なり。

何故、諸法実相ーあるがままに観るーのは仏でないとできないのか?
外界の現実を曇りのないまなこで、あるがままに観ることができれば、大抵のマイナス思考は発生しないでしょう。
それこそ苦の消滅です。
ただし、それは肉体をもつ人間にはほとんど不可能なことです。
感じた瞬間に、その刺激に対して善悪、快不快、損得、危険安全で判断してしまいます。
この刺激(色)→感受(受)→瞬間的判断(想)の流れは猛スピードでスタートしますので、現時点ではあるがままの現実を曇りのないまなこであるがままに観ることはできません。
では、そのまなこを覆う曇りとはいうと、それは潜在意識なのです。
生前のカルマが今世に影響しているのかどうかは知りませんが、生まれてからの経験の蓄積は潜在意識の奥に入り込んでいます。
唯識でいうところの阿頼耶識に蓄積されるのです。
阿頼耶識は普段は認識できない領域です。
認識できない上に超高速で発動するのですから、この段階で感じ方をどうこうしようというのは無理なのです。
ですから、仏と仏とを除いて

>見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、

>識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、

はこの段階では無理なのです。
出来るとすると、見られたものにおいて、善悪、快不快、損得、危険安全を判断したが、
それは自己の阿頼耶識が起こした判断であるという気づきを毎回起こすこと、
そして阿頼耶識による瞬間的判断(想)を受けてもそのことに気づき、「見られたもの、聞かれたもの、思われたもの、識られたものは、私と一緒にはいない」
と意志を固め意識することで、阿頼耶識は上書きされていくのです。
万が一ネガティヴな阿頼耶識が全て上書きされたら苦しみの終わりですが、全て上書きされなくても気づきによりマイナス思考を大幅に減らすことは可能です。
0591神も仏も名無しさん垢版2017/01/08(日) 01:12:01.97ID:g9QjrOV/
>>590
外界の現実なるものがあって、それを観る自分、と見てるよね、君。
で、観る自分と言う観察者のようなものが、何かすると仏になるとか思ってるよね。
つまり、仏は別にあったり、何かすると自分が仏になったり。
これね、こういうモノの見方=見解を持つことを仏見って言うんだよ。
で、自分があって、外界があって、と自分と外界とを分けて観る。
自分は取り敢えず観察者と見てるので、それ以外の外界なるを別の法とみる。
これね、法見って言うんだよ。

で、仏見と法見とを合わせて持って捨てられない人の事をね、一闡提って言うんだよ。
一闡提は悟れないし成仏できないし、仏教を理解すらできないんだよ。
仏教にとっての最悪の敵が一闡提って訳。
所謂小乗では一闡提は成道出来なかったそうだよ。
大乗だとその一闡提すら打ち破って成仏も可能となっている。

なんでだろねw
調べてみると良いよ。
0592神も仏も名無しさん垢版2017/01/08(日) 01:33:20.42ID:jb1NfDAl
>>591
あなたは如来であり仏です。
どうぞ衆生を導いてくださいな。
0593神も仏も名無しさん垢版2017/01/08(日) 01:55:54.93ID:YNjHGn5S
>>592
>>590の君のスレを観察して脊髄反射的に物知り顔でレスした>>591が仏や如来のはずがないだろww
自分で書いてる仏見と法見の塊だよ一闡提だなww

この人は参禅会に参加した程度で覚者気取りしてる俗人

こう書くと「はい、私は俗人です」と認めてくれるのが取り柄

したり顔で仏道を説くのは得意だが己の仏道を完成する気はなく参禅で完成しているとしている増上慢

道元が好きらしいが「正法眼蔵の出家功徳」は方便なので別に出家する必要はないし
出家しなくても仏道は極められると道元を真っ向から否定する調子者

全身麻酔は一切外と自分で言っておいて後から言ってないと言い訳するからやはり俗人

こう書くと「一体誰のことを言ってるのでしょう」としらばっくれる不妄語戒の破戒者
0595神も仏も名無しさん垢版2017/01/08(日) 07:40:43.96ID:Du2+K5Pe
一闡提(いちせんだい)
仏法を信じず誹謗する者
(無明 → 我癡・我見・我慢・我愛に依存して)
欲求する人

我所(がしょ)
自らの所有あるいは所属
身体ないし心が他に対して特別な存在であると妄信している
我の所有の略
自身を我といい、自身以外の万物を我所有という

阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)
種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある
さらに、前五識に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある
この種子は前五識から意識・末那識を通過して
阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される
これが(無明に依存している)思考であり、外界認識であるとされる

末那識(まなしき)
我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており
(『いつでも光り輝いている!』ということに気づくことができなくて)
障害があることから「有覆無記」という

阿頼耶識(あらやしき)
さとりに達するための修行の障害(「覆」)がないという意味で
「無覆無記」という
0596神も仏も名無しさん垢版2017/01/08(日) 08:09:20.08ID:Du2+K5Pe
道元禅師の出家功徳も大乗だと思うけど
それでも
テーラワーダ2.0のような
智慧と無明の説明は↓わかりやすいかも  m(_ _)m
http://www.dogen-shobogenzo.com/syukkekudoku1.html
出家功徳 現代語訳

智慧の世界から観察して
静かに林間に坐して、安らかに自らの諸悪を滅ぼし
恬淡とした一つの心を得ている、この楽は 天上の楽に勝る

無明に依存して
人は財産や地位、快適な生活を求めるが
これらの楽しみは安穏ではない
なぜなら、利益を求める心には際限がないからである

智慧の世界から観察して
智慧の眼によって、すべての物事が真実であることを明らかに知り
仏の様々な教えの中に、皆等しく 身も心も投げ入れている
解脱の智慧の心は安らかで、この世に及ぶものはない
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論
世俗諦・勝義諦
この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう
現象的真実の中に存する根拠なしに、究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに、解脱(涅槃)は達成され得ない
0597神も仏も名無しさん垢版2017/01/08(日) 09:29:40.39ID:2VQ0lCBi
>>591さん、見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。
訊かれてもないのにいちいちレスするのではありません。
それができればそのときあなたは、
外にはいない。つまり、誰かのレスにとらわれない。
内にもいない。つまり自分や誰かの見解に固執したり、誰かに自己同一化を図ることで自我強化したりしない。
外にも、内にもいないあなたは、どちらにもなく解脱している。
それは一切の苦しみの終極である。
0601神も仏も名無しさん垢版2017/01/10(火) 13:31:40.38ID:xhtfy9Ct
おじゃる君へ。
宗教は、全存在と対決したときに出る答えである。
0602おじゃる〜!垢版2017/01/10(火) 13:43:33.16ID:GIw5GSYC
 
> おじゃる君へ。宗教は、全存在と対決したときに出る答えである

今から仕事に出かけなければならないので時間がないので

また後で  m(_ _)m
0603神も仏も名無しさん垢版2017/01/12(木) 01:30:32.29ID:enTXqqR6
だからこうあることしかないんでしょう。
ちゃんと分かるようになってる。
その時そうだと分かってる人なんか一人もいません。
分け目なんてないんでしょう。
後になって人があれはそういうことだ、これはこういうことだって頭のなかで描いてるだけじゃん。
これ読んでると同時に読んでるなんてありませんよ。
どうして考えてばかりで実際に学ぼうとしないの。
実際が真実じゃん。誰でもそうのはずですよ。
0604神も仏も名無しさん垢版2017/01/12(木) 09:20:48.36ID:k/J5cqtl
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
仮設としての
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な動きによる行為・言葉の働きによる行為・心の働きによる行為を行う(カルマを積む)
渇愛が生じて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れている

無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている。無明薫習に依存して
他に対して、自らこそが特別な存在として妄信している
我(が)、渇愛(タンハー)に依存して

☆ 『実際に学ぼうとしないの?』と掴もうとしている想いが現れている

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
密集の概念がある時、霊魂(我はある)の概念が生まれる
密集を看破するためには
☆ 智慧の世界から観察して
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
密集を看破した時、(無常であり、そして)無我への領悟、了解が生まれる
0605神も仏も名無しさん垢版2017/01/12(木) 10:07:12.95ID:k/J5cqtl
☆ 智慧の世界から観察して
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図

七 忘牛存人
「想う!」と掴もうとしている想いも手放し
「想わない!」と掴もうとしている想いも手放し
非想非非想も超えて
無明を超えて
妄想、分別も手放して
宇宙と一体化した

八 人牛倶忘
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
世界すべて一切を
夢幻のごとく、地水火風空識に依存している『空性である』と観察せよ
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり

縁起したものを離れ

ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが「苦しい!」と掴もうとしている想いの終わりである

ここまでが↑テーラワーダ2.0  m(_ _)m
0606神も仏も名無しさん垢版2017/01/12(木) 12:08:21.12ID:eOcFO0o+
>これ読んでると同時に読んでるなんてありませんよ。

これだね。
0607神も仏も名無しさん垢版2017/01/12(木) 23:51:31.16ID:UjDzIkpC
新スレが建ちましたぁ〜♪

坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1483429081/
0608神も仏も名無しさん垢版2017/01/13(金) 04:10:11.80ID:qvJiZixv
だから学ぶってことは頭ですることではないんですよ。
なのに誰もが考えることで学べると思ってる。
殊更ですが別に考えることがダメとか仏教学がダメとは言ってないですよ。
人間社会にあってはそれは必要なことなんだけど、この道に於いては必要ありません。
0609神も仏も名無しさん垢版2017/01/13(金) 13:03:35.91ID:17SBnuuc
>この道に於いては

智慧の世界から観察して
http://www.myoshinji.or.jp/faq/faq_04.html
大乗1.0
曹洞宗・臨済宗
いつでも光り輝いている、それゆえに
「人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
テーラワーダ2.0
無明の暗闇に覆われた世界の中において
苦集滅道
苦を滅する道がある
  _  _  _

>頭ですることではないんです
>誰もが考えることで学べると思ってる

智慧の世界から観察して
http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
テーラワーダ2.0
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智(いつでも光り輝いている。智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
0610神も仏も名無しさん垢版2017/01/13(金) 13:44:44.64ID:KCK+A9Zh
目が見えず耳が聴こえず口が聞けない奴に仏法を説いてくれぇ〜
説けない様なら仏法台無し、釈迦は詐欺師だぁ〜

さて、どうするんだぁ?
0611神も仏も名無しさん垢版2017/01/13(金) 14:26:44.83ID:Z5mIOfkG
この字が読めるなら眼と頭の方は大丈夫ですね。
あとはご自身で確認できるでしょう。
0612神も仏も名無しさん垢版2017/01/13(金) 14:46:45.28ID:KCK+A9Zh
>>611
(-人-) ・・・雲門!
0613神も仏も名無しさん垢版2017/01/13(金) 16:23:05.24ID:2XD7HtGY
>>611
>>610は目が見え耳が聞こえるから文字を知ることができ610の文書を打てたんだろう
だから目が見えず耳が聴こえず口が聞けない奴というのは>>610のことではないよ
>>610の周りにそういう奴がいるのだがその人に仏法を説いてくれと言ってるんだよ
0615神も仏も名無しさん垢版2017/01/13(金) 19:30:07.14ID:KCK+A9Zh
>>613
すまん、あなた以外誰もいないんです。
0616神も仏も名無しさん垢版2017/01/14(土) 00:16:27.94ID:8I298LrS
>>610
まずその不幸な障害者は生まれつきの障害者で言葉というものを知らないのか?
それともヘレンケラーのように幼少期に言葉を覚えたがその後目と耳と口が利かなくなったのか?
どちらか?

次にどんな仏法を説いて欲しいと望んでいるのか?

その二つが分からないとどんな仏法をどんなやり方で説けばいいのか判らない。
0617神も仏も名無しさん垢版2017/01/18(水) 03:54:34.73ID:CC23eGJB
age
0618神も仏も名無しさん垢版2017/01/18(水) 08:59:11.28ID:6jjfefCH
自身の問題と観るか、無常説法と観るか、そのままに受け止めるか。
まさに答えは質問の中にあるだね。
0620神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 07:55:27.07ID:+Gln2tbj
因みに、仏教では食べ物を四つに観る。

段食、触食、思食、識食。
段食は実際の食料の事、触食は触れる事で心が育まれるスキンシップなんかの事、
思食は希望や願望などの事、識食は生きようとする意識の事。
この四つ、どれ一つが欠けても人は生きて行けない。
また、どれ一つでも足りなくなれば人は狂いが生じだす。
しかしまた人とは、そう言う狂いが生じだす様を安易に受け入れない仕組みを持っている。
それ故に、狂いそうだと前兆の兆しを周りに出す。
もし、慈悲の心があるのなら、きっとその前兆は見過ごさないのだろう。
その時には、食を施させて頂けば良いのだ。
財施は法施と不可分なのだから。
0621神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 11:35:46.96ID:d9mixMDx
>>619
ん?
それが求めてないとは書いてないけど。
0622神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 12:09:01.98ID:auzT+06W
>>621
禅問答してるのか?
0623神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 12:13:45.65ID:d9mixMDx
>>622
お好きな様に。
0624神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 12:14:33.16ID:aWCj/0N8
>>622
関わらない方がいいよ
0625神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 12:32:11.04ID:auzT+06W
>>624
そのようだな
自己満足極まりない人みたいだし。
0626神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 12:45:36.16ID:d9mixMDx
>>625
ありがたく。
0627神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 17:49:03.07ID:FHm9oVwl
>>621
求められたなら説けばええがな。
ひょっとして法施は言葉だけだと思ってないか?
そうじゃないから四食を説明してやったんだが。
わからんならそれまでの話。
0628神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 19:07:41.45ID:bjrChV9o
>>627
ご苦労様です。
0629神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 19:41:02.34ID:CzEVJcey
 
無明の暗闇に覆われた世界の中で
地水火風空識に依存して

http://puchishugyou.blogspot.jp/2009/10/blog-post_23.html
四食
1.段食
食べ物
2.触食
身体で触れることで心身の働きを養うもの
3.思食
希望や夢があるから困難な状況でも耐えることができる
4.識食
生きようとする意識・力が、生きていることを支えています
0630神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 20:02:28.75ID:6mgpN7Xo
大日如来は、三界のすべてのものの主であり、そのすべての福を集める一切三界主如来の姿となられ、
すべての如来がすべての人々に灌頂(めぐみ)する真実なる智慧の理趣(みち)を説かれた。
これは灌頂の智慧をみきわめる「四種の施行」である。

@ まず、自ら智慧の水をすべてのものに灌ぐものとなり、これによって真理を悟って成仏する。
最上の宝を他人にも自分にも施し、三界のすべての心に願うところとなり、三界の法王の境地に到る。
(灌頂施)

A また、あらゆる人々に義利(よきもの)を施し、世の生活に不如意なものを取り除く。そうすれば、この世の一切の願いは満ち足らされるであろう。
(義利施)

B 次に、如来の法(おしえ)を人々に施すことにより、一切のものが法性(普遍の真理)を獲得することであろう。
(法施)

C 最後に、生(いのち)の資(もと)となる種々様々なものを施す。
この行ないによって、世のすべての飢えたるものは、ことごとく苦しみから救われ、身口意(しんくい)も安らかで楽しいものとなるであろう。
(資生施)
http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/c5aa3ca59b6221974318358dac9b3705
0631神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 20:18:14.43ID:CzEVJcey
 
> 水をすべてのものに灌ぐもの

いつでも光り輝いている
智慧の世界から観察して、そして

https://kotobank.jp/word/%E6%9C%88%E8%BC%AA%E8%A6%B3-45106
月輪観
自己の心を満月輪のようであると観じる
この月輪は自己の菩提心そのものを示すもので
その月輪が円明無垢で光明が全法界に周遍する
と観じる

https://kotobank.jp/word/%E7%81%91%E6%B0%B4-75997
しゃすい(灑水・洒水)
《水を注ぐ意》密教で、加持した香水を注いで
煩悩・垢穢を除く、きよめの儀礼。また、その香水

http://tobifudo.jp/newmon/butugu/shasui.html
灑水は、身をはじめとして、道場や
いろいろな物を清めるときに使われます
散杖さんじょうあるいは灑水杖と呼ばれる木の棒で
器から少し灑水用の香水を取り
注ぐように撒いたり、散布するように撒きます
0632神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 20:32:31.51ID:6mgpN7Xo
>>631
よく勉強してますね。
>>618はまず灌頂の布施を心掛けましょうね。それが答え。
0633神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 20:46:06.32ID:bjrChV9o
勉強になる、感謝!
0634神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 21:13:58.80ID:6mgpN7Xo
>>633
どういたしまして。
宇宙に偏在するあらゆるものは宇宙の一部として掛け替えのない価値があり、掛け替えのない価値をもってお互いに施しをしています(平等性智)。

あなた自身の価値、宝にまずあなた自身が気づきましょう。
そうすると平等性智により相手の精神的・物質的価値を見出して宝を与えて能力を引き出すことが出来ます(灌頂の布施)。

その宝こそが如来蔵なのですが、あなたも相手も清浄(不二)であるので等しく如来蔵を有しています。
もっと言えば宇宙そのものが清浄であり如来の蔵なのですが。
如来蔵があるので仏法に目覚めるのは可能、せんだいはいない、
では障害者或いは自ら目を閉じ耳を塞ぎ口を閉ざしている者がどうやって仏法に目覚めるのか、そこで灌頂の布施なのです。

あなたの宝に気づいて下さい、そして不二である相手の宝にも気づいて下さい。
そうしてお互い施しあいをする、その時点で既に仏道を歩んでいます。
0635神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 21:41:13.05ID:CzEVJcey
 
> よく勉強してbワすね

理論体系とかは↓まったく、わからないけど

http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec44.html
風水で見た都市のあり方 国土交通省
… 江戸というのも風水で造設されたまちなのです
天海僧正が …
江戸のまちに流れてくる「龍脈」から吹き上げてくるよい「気」を集めて
それを循環させるために甲州街道、東海道をつくりました

(アニメとかの)
http://pics.dmm.com/mono/movie/n_620tdv21334ra/n_620tdv21334rapl.jpg
ぬらりひょんの孫 千年魔京

陰陽師とか
呪術とか
巫女とか
魔術とか
魔女(ウィッチ)とかにも興味があります  m(_ _)m
0636神も仏も名無しさん垢版2017/01/19(木) 23:23:12.35ID:FHm9oVwl
>>634
>では障害者或いは自ら目を閉じ耳を塞ぎ口を閉ざしている者がどうやって仏法に目覚めるのか、そこで灌頂の布施なのです。

結局肝心な所を分かってねえんだよな。
だからダメなんだよ。
あんた如来蔵の意味も分かってねえ様だし。

>せんだいはいない

なら目覚めるべき仏法も無いって事だよ。
0637神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 00:04:00.02ID:0f/koomQ
>>632
残念、>>618は禅の公案の話で、出したのは私なんですわ。
ここで答え云々はいいませんが。
0638神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 00:26:43.23ID:1D3Nt6x2
>>636
すべての存在は、如来になれる種を持っていると説きます。この如来になれる種のことを「如来蔵(にょらいぞう)」といいます。
これは、禅などで説く「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」と同じ意味です。どんな生き物にも、仏性(如来蔵)がある、という意味です。
それはなぜかといえば、一切の存在は如来と平等であり、すべてのものが普賢菩薩の性を持っているからです。
本意的に、一切の存在は清浄であり、その身と口と心での行いは如来と何なら変わることはないから、何ものも如来蔵を有するのです。

何ものも如来蔵を有するが故にせんだいは認められませんが、その蔵を開くのが仏法です。

>>637
禅の公案の話でも構いませんよ。
灌頂施は公案の答えではないのでしょうが、>>618の三つの見解全ての答えです。
まずは全てのものに価値を見出して下さい。
0639神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 00:29:59.35ID:+AqMZZQA
638.
宗教は存在の問題ではないよ。
0640神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 00:36:35.39ID:1D3Nt6x2
>>639
その通りですね。
0641神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 01:41:38.73ID:VtBztUAt
>>638
>禅などで説く「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」と同じ意味です。

違うよ。
山川草木に仏性があると観るのが間違いなんだよ。
分かんないならちゃんと仏門に入った方が良いよ。
0642神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 01:48:12.59ID:VtBztUAt
仏性とは自我の事な。
自我はダークサイドの名称みたいなもん。
これがライトサイドからだと仏性って訳。

つまりだ、山川草木と見てるのは自我が分別して山川草木と認めてるわけ。
その事実に気付けたなら、それが悪人正機であり、なるほど悉有仏性なわけ。
0643神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 02:09:09.45ID:1D3Nt6x2
>>642
>つまりだ、山川草木と見てるのは自我が分別して山川草木と認めてるわけ。
>その事実に気付けたなら、それが悪人正機であり、なるほど悉有仏性なわけ。

>>638
>これは、禅などで説く「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」と同じ意味です。どんな生き物にも、仏性(如来蔵)がある、という意味です。
>それはなぜかといえば、一切の存在は如来と平等であり、すべてのものが普賢菩薩の性を持っているからです。
>本意的に、一切の存在は清浄であり、その身と口と心での行いは如来と何なら変わることはないから、何ものも如来蔵を有するのです。

使っている用語は違っていても同じことを書いていますね。
ちなみに清浄とは自他の区別をせず、自分と他人と大自然、大宇宙が一体となっているという前提に立つことを清浄と表します。
0644神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 02:27:58.68ID:0f/koomQ
>>638
見出そうとしたら(分別したら)価値がなくなる!
というのが、まぁ、禅宗の見方ですかね。
本来価値があるんですから。

また、禅宗は自他一如の視点でその公案を見ます(基本的に)
その不自由な方は一体誰なのか?と参究します。

まぁ、行き着く先は同じでしょうがね ^ ^
0645神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 02:29:31.34ID:VtBztUAt
>>643
>使っている用語は違っていても同じことを書いていますね。

同じに見えるならそりゃあんた間違ってるって事だよ。
つまり、

>どんな生き物にも、仏性(如来蔵)がある、という意味です。

と二元を観ちゃってる。
仏法は無我なのに二元に観ちゃダメでしょ。
そのままじゃアドヴァイタにも劣る見解に陥っちゃってんだよ。
0646神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 03:03:04.89ID:1D3Nt6x2
>>645
>>638
>それはなぜかといえば、一切の存在は如来と平等であり、すべてのものが普賢菩薩の性を持っているからです。
>本意的に、一切の存在は清浄であり、その身と口と心での行いは如来と何なら変わることはないから、何ものも如来蔵を有するのです。

一切の存在は清浄であり如来と平等であるが故の如来蔵です。
それは一元ではないのですか?
如来と他の存在を分別する方が二元ではないですか?
0647神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 03:05:45.35ID:1D3Nt6x2
>>644
>また、禅宗は自他一如の視点でその公案を見ます(基本的に)
>その不自由な方は一体誰なのか?と参究します。
>まぁ、行き着く先は同じでしょうがね ^ ^

はい、金剛乗と同じ場所に行き着くと思います(^.^)
0648神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 03:14:33.10ID:VtBztUAt
>>646
>一切の存在は清浄であり如来と平等であるが故の如来蔵です。

一切って何?
ここ肝心だよ。
世界があって自分が居て、って考えに捉われてるといつまでも分かんないんじゃないかな。
俯瞰して言ってるつもりなんだろうけど、それがそもそも妄想なんだから。
0650神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 05:24:00.17ID:A8csU11z
> 金剛乗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
チベット仏教
根本説一切有部の厳格な戒律に基づく出家制度から
大乗顕教の諸哲学や
金剛乗の密教までをも広く包含する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99
インドの後期大乗仏教の教学(顕教)と後期密教とを継承したチベット仏教においても
大乗を波羅蜜乗(顕教)と真言乗(密教)とに分けるという形で顕密の教えが説かれている
密教の他の用語としては
金剛乗(ヴァジュラヤーナ)、真言乗(マントラヤーナ)などとも称される
https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%89%9B%E4%B9%97-67189
大乗よりもすぐれたという意味の
金剛乗(バジュラヤーナ)という呼称が用いられることがあるが
チベット密教ではタントラ仏教がそのように自称する

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット ニンマ派
(無明の暗闇に覆われた世界の中で)
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
(いつでも光り輝いている、智慧の世界から観察して)
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常(であり、変化している)という理に自らの心を馴らしていかなければなりません
0651神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 06:22:54.34ID:A8csU11z
止(シャマタ禅定)観(ヴィパシヤナ智慧)とかの実践したことないけど、とりあえず
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
八 人牛倶忘
(止(シャマタ禅定)観(ヴィパシヤナ智慧)とかの?)
修行の頂点に達した
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本

迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり
縁起したものを離れ
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが『苦しい!』と掴もうとしている想いの終わりである
↑ここまでがテーラワーダの色即是空 → そして滅して → 涅槃へ?

↓ここからが大乗の色即是空 → 空即是色?
十牛図 本来持っている仏性
九 返本還源
さらに無の世界を超えると
元の世界、すなわち菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている
そこでは、ただ川が流れ、花が咲き、鳥が鳴き、雨が降り、風が吹き、生死があり、そして人の営みがあった
0652神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 07:37:18.80ID:hYuxCltA
651.
最後に観照で終わりとなるのか、否かの問題である。
0653神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 09:59:51.47ID:1D3Nt6x2
>>648
一切
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html

ま、これも釈尊時代には存在を知られてなかった細菌やらウイルスやら、
ま、これらはものを発酵させたり病気を引き起こしたりすれば六根六処を反応させるものですが、その原因までは細菌やウイルスとは分からず存在も知られてなかった。
また天王星や海王星も認識されてなかったし、銀河やブラックホールなども六根六処には触れなかったことでしょう。
ですから、一切についても無常と解釈することも出来ますが、もっと簡単に一切とは大日如来のことだということが出来るでしょう。

大日如来
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5
0654神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 11:09:03.70ID:A8csU11z
 
一切

無明の暗闇に覆われた(有為法の)世界の中の − 全部?すべて?残らず?

無為法も、有為法も、ふくめて − 全部?すべて?残らず?

https://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97/

無明の暗闇に覆われた(有為法の)世界の中の
一切諸法 − 地水火風空識に依存している仮の現れ

(この有為法の世界の中にも)
法界体性智(大日如来の智)も満ちている

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論 第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察

世俗諦・勝義諦
この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう

現象的真実の中に存する根拠なしに、究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに、解脱(涅槃)は達成され得ない
0655神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 12:53:07.48ID:A8csU11z
> 観照で終わりとなるのか

たとえば、テーラワーダとかの場合は
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
非想非非想処も超えて → 想受滅(滅尽定)においては
諸根(眼耳など)の働きはあるが、心作用のうち受、想、行が滅している

http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経  ポッタパーダ経(心作用の消滅)

決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による想滅定が生起するのである

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
(中論は、テーラワーダではなくて、大乗だけど、とりあえず)
 ☆ 第十八章 自己と実在物の考察
行為〔カルマ〕と苦悩(煩悩)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの(戯論)に由来するのである
作り出されたものは空性によって消滅する

 ☆ 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の停止(滅して、そして → 涅槃)は
止(シャマタ禅定)と観(ヴィパシヤナ智慧)を通して生じるのである
0656神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 12:58:18.80ID:0f/koomQ
質問です。
お釈迦様は覚者ですか?
0657神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 13:08:48.14ID:uH4l76Uf
質問です。 お釈迦様は覚者ですか?

もし、お釈迦様が事故や病気等で記憶を失ったら
どうなるのでしょうか?
0658神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 13:18:32.83ID:uH4l76Uf
質問です。 お釈迦様は覚者ですか?

もし、お釈迦様が事故や病気等で記憶を失ったら
どうなるのでしょうか?
0659神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 13:46:37.66ID:A8csU11z
 
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し、
よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである

自らを灯明とし、自らをより処として、法を灯明とし、法をより処として

として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように『自灯明法灯明』の教えを説いた。

> お釈迦様が事故や病気等で記憶を失ったらどうなるのでしょうか?

記憶を失う前に
無余涅槃の直前の有余涅槃として
無余涅槃の世界から観察して
受想行が滅しているので
その後に記憶を失っても
掴もうとしている想いが現れることはないんジャマイカ?
(大乗だけではなくて、テーラワーダの教学も勉強して下さいませ m(_ _)m )

釈迦は、鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった
サーラの林に横たわり、そこで入滅

ブッダン・サラナン・ガッチャーミ

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ  m(_ _)m
0660神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 14:42:54.54ID:uH4l76Uf
>>659
実は実話があってw
まぁ、ある有名な坊さんだけど、歳をめされて晩年は
痴呆でピヨピヨになっちゃってね。
仏教どころじゃなかったとか。

振り返って自分の問題として捉えた場合、まぁ、
来ぬ未来は憂えませんが、どんなもんかな、と。
0661神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 14:44:27.30ID:uH4l76Uf
まぁ、痴呆は痴呆のままに仏の命を生きている、のかな。
0662神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 14:48:50.98ID:uH4l76Uf
目が見えず、耳が聞こえず、口がきけずの話を先にしたけど、
痴呆の方に一体仏教をどう話すか。
0663神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 14:53:50.67ID:uH4l76Uf
連投ごめん。
そうしたギリギリの状況での仏教はどうなんだろうね。
0664神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 15:35:58.47ID:CKzwgPqP
>>653
そんなんだからダメなんじゃね?
そう言う見解は一闡提だよ。
愚かな人は、いくら教えても中々理解できず
だからと言って捨て置くのも可哀そうだから
理解できなくても可能な方法が編み出されたんだよ。
それが御すがり信仰。
大日然り、阿弥陀然り。
この両者への信仰には、全部を投げ打って一心不乱と言う条件がある。
釈迦の言う一切を取るなら上記は狂気の沙汰となるんだよ。
経文にもそう書いてあるだろ。
0665神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 21:26:06.85ID:1GK/PuoQ
https://youtu.be/zNLzXK7E-QQ


光明真言
(クリヤーライト・マントラ/Clear light Mantra)
             
 
となえたてまつる光明真言は 大日普門の万徳を二十三字に集めたり 
おのれを空しゅうして 一心にとなえたてまつれば みほとけの光明に 照らされて 
三妄(まよい)の霧おのずからはれ 浄心の玉 明らかにして 真如の月 まどかならん

 おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん   ×3

(大日とは、普遍的な象徴の太陽(セントラル・サン=内的太陽)を讃えることであり、
 その光の明るさは覚りの智慧に喩えられ、その功徳(メリット)が
 光明真言(クリヤーライト・マントラ)のサンスクリット語文字の23字に畳み込まれています。

 だから心に邪心がなく、一生懸命唱えれば、過去・現在・未来の妄想が晴れ、
 自身の意識体である丸い球体が、内的世界のヴィジョンの中に空の月のように明らかに現れます)

  * 外的世界と内的世界は一体なのです。As above So below.(上にあるものの如く、下も然り)

オン(帰命)アボキャ(不空)ベイロシャノウ(ビルシャナ・遍照)マカボダラ(大印)
マニ(摩尼宝珠)ハンドマ(パドマ・紅蓮華)ジンバラ(焔光・光明)ハラバリタヤ(展転)ウン(フーン)

  * オーン 不空遍照尊よ。大印を有する尊よ。摩尼と蓮華の光明をさし伸べたまえ。
  * フーン  チベットではこれを短く「オン マニ ペメ フーン」と唱えています。
0666神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 22:45:34.22ID:A8csU11z
>ある有名な坊さんだけど、歳をめされて晩年は痴呆でピヨピヨになっちゃって

日本の坊さんならたぶん大乗だと思うけど
大乗で
「人は本来清浄な心を元々持っているのであるから
  (テーラワーダの止(シャマタ禅定)観(ヴィパシヤナ智慧)のような)悟りを求める必要はない」
と言う立場なら
仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛(無明)そのままで
涅槃(ニルヴァーナ)の世界を知覚することなく

痴呆でピヨピヨになっちゃってるかもしれない

一応↓テーラワーダの場合は
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
密集を看破するために、色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません

http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)

 ☆ 智慧の世界から観察して

世界すべて一切の法(ダンマ)は
我所でもない
我でもない
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
世界すべて一切を夢幻の如く『空性である』と観察せよ
0667神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 23:36:31.95ID:1D3Nt6x2
>>654
よく勉強されていますね。
「何を以っての故に一切の法は自性清浄がなるが故に、般若波羅蜜多も清浄なり」
現象世界に存在するありとあらゆるもの(一切の法)は元々自性として清浄(自他の対立を離れている)ので、
般若波羅蜜多(般若波羅蜜が完成した向こう岸)においては全てが清浄であるということを知るわけです。

「一切の有情は如来蔵なり、普賢菩薩の一切の我なるを以っての故に(大円鏡智)」
「一切の有情は金剛蔵なり、金剛蔵の灌頂(価値に気づく施し)を以っての故に(平等性智)」
「一切の有情は妙法蔵なり、能く一切の語言を転ずる(真実を伝える言葉で語っている)が故に(妙観察智)」
「一切の有情は羯磨蔵なり、能く所作を作す性と相応する(仏の表れとして現象社会で活動している)が故に(成所作智)」

・金剛蔵は価値を認識する心の作用(平等性智)
・妙法蔵は真実を伝える言葉の作用(妙観察智)
・羯磨蔵は身体の三蜜の働きの作用(成所作智)
・心も言葉も身体も仏様と同じものを持っているので、私達の中に如来が包まれているし、私達は如来に包まれている(大円鏡智)

この四智に大日如来の智慧である法界体性智を加えて五智となりますが、
法界体性智とは義平等・法平等・一切業平等・金剛平等の四種の平等による一切法の自性平等を指し、
最初に書いた通り、五智は清浄でありますので現象世界にも悟りの世界にもあまねく行き渡っています。

般若波羅蜜多は無量・無辺であるので一切如来は無量・無辺であり、
また一切法は一性(絶対の同一性)・究竟(究極)であるので般若波羅蜜多は一性・究竟である、
つまり現象世界に存在する有情無情にかかわらずありとあらゆるものは五智を具えています。

>>664
経典には「無戯論」、つまりものを差別して対立的に見る、分別を持ってものを見ることをするな、
自他を対立させて自分が一番偉いのだとする分別の考え方をなくすように書いてあります。

>>665
>外的世界と内的世界は一体なのです。As above So below.(上にあるものの如く、下も然り)
大円境智とはこのことですね。
0668神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 23:41:57.12ID:6uDmJj0X
仏教は、智慧(…理(理性))の教えだからね・・
(事象の本質を)観察し、あるがままを見、受容し、煩悩(・・・欲(本能))を抑制(消去)することで
『安心』を得る教えだからね・・・。

理(・・・慧)による統制なしに仏教がありうるのかどうかは、
重要な議題だと思うよ。

大乗的に、『余分な(打算的で利己的な)分別がない』という見方をすれば、
(痴呆を含め)あらゆる精神疾患は、悟りと同義であろう。
(というか、宗旨として、そのように見なければならないだろう。 また、世俗の倫理、人道からの批判も避けられる。)
或いは智慧また、
チュッラパンタカの如く、少ない知性(理性)でも(→本能のままに従っても)、
論語的謂いで「欲するに従って範を超えなきが如き行動・生き方となるなら、
それもまた悟りであろう。

それらは、学び、倣い・習い、習性として身に付いた後でしかありえないことかもしれないけれど。
0669神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 23:44:29.13ID:1R2Krh5C
>>666
ん?
タイ仏教とは交換留学とかもしてるようだけどね。
上座のアラハンでも痴呆になりゃやっぱりピヨピヨじゃないかな?
どんなもんかね。
0670神も仏も名無しさん垢版2017/01/20(金) 23:53:08.93ID:1R2Krh5C
まぁ、自分の親がピヨピヨになったらどうよ?
仏ほっとけ!っていうのもなんかねぇ。

念仏や題目勧めるかw
0671神も仏も名無しさん垢版2017/01/21(土) 00:09:30.61ID:Jvc5NSMB
>>657>>660
【空海】重々帝網なるを即身と名づく
http://temple-web.net/column/154/

痴呆症になられた方も仏の命を生きております。
帝釈天の網を輝かせる宝石です。
あなたと変わるところはありません、自分を慈しむように痴呆症の方も慈しんで下さい。
0672神も仏も名無しさん垢版2017/01/21(土) 10:22:16.37ID:Dis+IHjJ
>上座のアラハンでも痴呆になりゃやっぱりピヨピヨじゃないかな?

たとえば
智慧の世界から観察して
四向四果の
阿羅漢果の世界を知覚した後で
痴呆になった場合と

預流果の世界を知覚することもなく
痴呆になった場合とでは
違うと思う

たとえば自分(ID:A8csU11z)の場合は
坊さんではなくて、オカルト好きな一般世俗のものだけど

密集を看破するために、色聚(微細な粒子)を識別する
四界分別観という観察の実践もしたことがないので

預流果の世界を知覚することもなく
(もうすでに)痴呆でピヨピヨになってる
ということなのでつ

準提尊とその功徳がある(曼荼羅の)聖衆を、心を鎮めて一心に、毎日(常々)念じたならば
あらゆる災難や大事故に遇ったとしても、その人は大難を逃れることができる
何故なら準提尊の誓願に「人天を救う」というのがあり、天神と人間は仏と同等の福を受け
この如意宝珠にも等しい仏を本尊とすれば、必ずや仏の覚りの無上正等覚を得るからである

ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ  m(_ _)m
0674神も仏も名無しさん垢版2017/01/24(火) 21:36:21.21ID:JmQ3aCxd
age
0675神も仏も名無しさん垢版2017/01/27(金) 14:36:34.32ID:GH9jsm9k
age
0676神も仏も名無しさん垢版2017/01/27(金) 19:00:42.43ID:r6E2f3Vn
そういえば痴人を雇って雪で共に井戸を埋めるて話しあったなぁ。
理屈抜きでこのリアルを生きてるからね。
そこですよ。
0677神も仏も名無しさん垢版2017/01/27(金) 19:56:55.66ID:BOf1AUDn
>>676
それ、痴聖人ですわw
ただの痴人じゃ(^_^;)

ともあれ、何か一句ありますか?
0678神も仏も名無しさん垢版2017/01/27(金) 22:08:27.85ID:UjM79xZu
文言は雇って埋めさせてる形になるけど、
その意味は、(ほぼ全ての禅者の受け止め方は)、
自分で掘って自分で埋める、だけどね。

雇おうが、自分だろうが、
「せっかく掘った穴を、そのまま埋める」
という馬鹿馬鹿しい行為を、
自ら進んで行う(埋めることに意味があるかの如く、せっせと埋める)
ところに風流があるわけでね・・

「擔雪軒」って軒号も実際あるしなw




>>677 >何か一句

埋まったと
 思った穴に
  嵌まり込み
0679神も仏も名無しさん垢版2017/01/27(金) 22:50:04.97ID:cF9xlRmi

賽の河原は
親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる
そのような子供たちが賽の河原で
親の供養のために積み石による塔を完成させると供養になると言うが

完成する前に鬼が来て塔を破壊し
再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある

女性の渡河
10世紀中頃の日本の俗信として
「女は死後、初めて性交をした相手に手を引かれて三途の川を渡る」というものがあった


いつか結ばれる男と女は、足首を見えない赤い糸で結ばれているとされる

死が、ふたりを分かつ、その時まで、愛し慈しみ…

生きとし生けるものが幸せでありますように  m(_ _)m
0680神も仏も名無しさん垢版2017/01/27(金) 23:19:50.84ID:BOf1AUDn
>>678
「シジフォスの労働」、「シーシュポスの岩」というのがありました。
0681神も仏も名無しさん垢版2017/01/27(金) 23:28:42.97ID:r6E2f3Vn
一句とかそんなしゃれたことは思い付かないけど、
腹へったら飯を食う。疲れたら寝る。
これだけですわ。
0682神も仏も名無しさん垢版2017/01/27(金) 23:29:29.75ID:BOf1AUDn
混沌に穴を開けちゃいけんのですな。
全てはその場で完結してるって。
0683神も仏も名無しさん垢版2017/01/28(土) 00:27:09.99ID:Qm3itA4M
>>682
解ってんのか解ってないのか知らんけどw

擔雪ってのは、

  理解されない、受容されない、効果がない、聞く耳を持ってもらえない、嘲笑される、
  気付いてもらえない、

そのようなこと(→説法)を、それでもやり続ける(→四弘誓願)ってところに
味わいがあるわけで・・
0684神も仏も名無しさん垢版2017/01/28(土) 06:36:07.00ID:dSdnrmyv
 
たとえば
テーラワーダとかの場合は → 苦集滅道

大乗とかの場合は → 無苦集滅道
『人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない』
と言う立場は
理解するのは難しいけど

それでも
そのようなこと(→説法)を、それでもやり続ける(→四弘誓願)?

智慧の世界から観察して↓そして

四弘誓願
衆生無辺誓願度  地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願
煩悩無量誓願断  煩悩は無量だが、すべて断つという誓願
法門無尽誓願智  法門は無尽だが、すべて知るという誓願
仏道無上誓願成  仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願

生きとし生けるものが幸せでありますように

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ  m(_ _)m
0685神も仏も名無しさん垢版2017/01/28(土) 09:57:02.93ID:NUQhSMlJ
>>683
あれ?
レスしたよねw
0686神も仏も名無しさん垢版2017/01/28(土) 10:03:11.70ID:v5LPNqRQ
どうだろう。世間に於いては効率を求めることは重要とする向きも多いだろうが、この道に於いてはそんなことは重要でもなんでもない。

一見、無駄に思えるようなことでも
本当に究まり切った姿がそこにあるんじゃないでしょうか。
0687神も仏も名無しさん垢版2017/01/28(土) 10:06:37.05ID:NUQhSMlJ
>>686
如是w
0688神も仏も名無しさん垢版2017/01/28(土) 14:56:09.99ID:rlCv/pFI
>>684
>大乗とかの場合は → 無苦集滅道
>『人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない』

無苦集滅道は六波羅蜜の実践特に般若波羅蜜の完成により彼岸に至ることが前提ですので、
悟りを求める必要がないわけではないですね。
浄土真宗でも浄土に往生して悟りを開くことを目標としています。
0689神も仏も名無しさん垢版2017/01/28(土) 19:58:28.08ID:dSdnrmyv
> 六波羅蜜の実践特に般若波羅蜜の完成により彼岸に至ることが前提です

ご教示ありがとうございます  m(_ _)m

☆ 布施波羅蜜
檀那は、分け与えること
財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である
☆ 持戒波羅蜜
尸羅は、戒律を守ること
在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す
☆ 忍辱波羅蜜
羼提は、耐え忍ぶこと
☆ 精進波羅蜜
毘梨耶は、努力すること
☆ 禅定波羅蜜
禅那は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること
☆ 智慧波羅蜜
般若は、諸法に通達する智と断惑証理する慧
前五波羅蜜は
この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに
般若波羅蜜による調御によって成就される
0690神も仏も名無しさん垢版2017/01/28(土) 20:24:24.30ID:dSdnrmyv

智慧の世界から観察して、そして

禅定波羅蜜
特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること
の続きでつ

スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明智(いつでも光り輝いている智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
頭(無明)を裂け落とさせるものである

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/02/122410
パオ・セヤドー
安般念とは正念を保持して呼吸の気息を観察する
気息を知っている - 慧
気息を憶念している - 念
一心に気息に専注している - 定
気息を明らかに知るために努力する - 精進
安般念がジャーナを引き起こせるという確信を持っている - 信
0691神も仏も名無しさん垢版2017/01/29(日) 05:43:41.24ID:n50XXCKG
安般念だの禅定だのって言っても、結局は擔雪填古井なんだよ
井戸を雪で埋めるときは井戸を雪で埋めるに成り切る
そこに合理性を考え挟むそれこそが煩悩の現れ
思った通りにならない事こそが非合理の極みなのであり
それに捉われてる正當恁麼時に、井戸を雪で埋める事に専念したら
合理非合理も居場所がなくなる
0692神も仏も名無しさん垢版2017/01/29(日) 06:20:32.65ID:SGHpClYB
>安般念だの禅定だのって言っても、結局は擔雪填古井なんだよ

十牛図
返本還源
無の世界を超えて、そして、童子は元の世界、すなわち菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
童子は計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている
そこでは、ただ川が流れ、花が咲き、鳥が鳴き、雨が降り、風が吹き、生死があり、そして人の営みがあった
柳は緑、花は紅
http://rinnou.net/cont_04/zengo/110101.html
悟りの高峰(安住の地)に留まる事なく、迷いの娑婆世界に帰って来て
仲間の人と連れだって雪を擔うて井戸を填めている、雪をいくら井戸に投げ込んでも雪はとけてしまいます
雪で井戸を填める事は出来ません。とんでもない愚行だと嘲笑されるのがおちです。しかし
愚行だけれども、無駄だけれども、黙々と雪を運んで井戸を填める努力をするのです

仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
地水火風空識に依存している
色受想行識の仮和合は
夢幻の如く空性であると観察して
「無」だとわかっていても
それが人間本来の「心」から発するものであれば黙々と実行する消息をこの語から学ぶべきです

↑こんな感じ?

オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ  m(_ _)m
0693神も仏も名無しさん垢版2017/01/29(日) 07:11:03.67ID:n50XXCKG
>>692
その書き込みを一生懸命打ち込んでたその瞬間こそ雪で井戸を埋めるのと同じだよ
0694神も仏も名無しさん垢版2017/01/29(日) 12:37:03.19ID:SGHpClYB
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して

仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
地水火風空識に依存している
色受想行識の仮和合は
夢幻の如く空性であると観察して
「無」だとわかっていても
それが人間本来の「心」から発するものであれば黙々と実行していく

それゆえに
>その書き込みを一生懸命打ち込んでたその瞬間こそ雪で井戸を埋めるのと同じだよ?

スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
苦集滅道によって
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない

掴もうとしている想いを手放し
滅して、そして、不生不滅

最終的には
無為法
無苦集滅道?

神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
0695神も仏も名無しさん垢版2017/01/29(日) 14:26:23.64ID:SGHpClYB

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論 第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察

世俗諦・勝義諦

この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう

現象的真実の中に存する根拠なしに、究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに、解脱(涅槃)は達成され得ない

中論も大乗だと思うけど↑このテーラワーダのような説明が、わかりやすい

テーラワーダのような説明がなくて
いきなり 『 不生不滅 』 というのは理解するのは難しい  m(_ _)m
0696神も仏も名無しさん垢版2017/01/30(月) 02:33:14.00ID:yHIoVRfb
結局分からないんですよ人に何を言われても。
だからこういうことかなとおぼしきもので自分を納得させようとするんだけども心の底から腑に落ちない。
だから他の人間にこうだよね?こういうことだよね?て聞いてまわるようなことばっかりする。
或いは真理はこうだよと決めつけて他人になんでわかんないんだとやる。
俺はこんなことも知ってるぞとやる。
自分自身でやらないと死ぬまでそうするでしょうね。
0697神も仏も名無しさん垢版2017/01/30(月) 07:00:12.95ID:JBmptjP2
いつでも光り輝いている智慧の世界
を知覚することもなく
に住むこともなく

仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中で
地水火風空識に依存して

我癡・我見・我慢・我愛に依存して
貪・瞋・癡に依存して

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
パオ・セヤドー
密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる
密集を看破できないのであれば、霊魂の概念は消失する事はありません

それゆえに
> 結局分からない
> 心の底から腑に落ちない
> 他の人間にこうだよね?て聞いてまわる
> 死ぬまでそうする

ご教示ありがとうございます

密集を看破した時、(無常であり、変化している)無我への領悟、了解が生まれる

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ  m(_ _)m
0698神も仏も名無しさん垢版2017/01/30(月) 13:10:00.43ID:JBmptjP2
> 結局分からない
> 心の底から腑に落ちない
> 他の人間にこうだよね?て聞いてまわる
> 死ぬまでそうする

無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
掴もうとしている想いに依存して、そして

http://reigaku.jugem.jp/?eid=424
瑜伽師地論
人が死ぬときに
我愛と戯論と善業悪業により、中有を形成する
その中有が次に生まれるべき処を求めて
母胎に入り
精子と卵子が結合する時
中有は滅して同時に生有が生じ
阿頼耶識がこれに結合して、胎児を形成し、出生に至る

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/08/004820
パオ・セヤドー
解脱とは、煩悩または生死輪廻から離脱する事を言います
仏陀に成る事を証悟する時、彼は彼の般涅槃の後、生死輪廻から離脱する事になります
阿羅漢果を証悟したなら、般涅槃の後、生死輪廻から離脱する事ができます
(密集を看破できないのであれば、輪廻から解脱することができない!)
0699神も仏も名無しさん垢版2017/01/31(火) 09:08:22.06ID:zrE0vQZn
だからそういう頭にあることばっかり追いかけてるといつまでたっても腑に落ちないですよ。
分かりたいんでしょう、理解したいんでしょう。
しかしそれが障害になるんですよ。
0700神も仏も名無しさん垢版2017/01/31(火) 13:08:48.71ID:MI5x5u6J
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明智(いつでも光り輝いている智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである

無明に依存して
> そういう頭にあることばっかり追いかけてるといつまでたっても腑に落ちない
> それが障害になる

無明の暗闇に覆われた世界の中は
夢幻の如く空性なので
仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩
障害がある『有覆無記』

ということなんでつね?
ご教示ありがとうございます

ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ m(_ _)m
0701神も仏も名無しさん垢版2017/01/31(火) 14:23:24.71ID:zrE0vQZn
本当にご自分でこれでいいと納得できればそれでいいんです。
どうなんですか。それでいいんですか。
もう一切何も問題ありませんか。
0702神も仏も名無しさん垢版2017/02/01(水) 00:57:47.36ID:fN7bmYVX
たとえばここで「あ」とある。
それ以外に見えないよね。

誰か「う」に見える人いますか?
もし見えたら眼か頭がおかしいですね(笑) 病院に行った方がいいです。

こういうこと言うとすぐに頭の中でどういうことなのかと検索が始まるでしょ。
それで自分にとって合致する概念にあてはめたり、いや全然間違ってるよとなったりする。
これもう迷いですよね。 本当の意味で真実を知ってたらそういうことしませんよね。
素直に認めることから始めるんです。 その素直さでもって修行するんです。
自分自身の問題なんです。 他人なんて関係ありません。 

頭の中の知識は一旦、心の倉庫にしまっときゃいいんです。
今すぐ実際にやってみたらいいんですよ。
ここはどうなってますか。今どうしたか。
今しか学べないんです。 自分のいるところ、ここでしか学べないんです。
本当に真実が知りたくないってんなら生憎ですけどね(笑)
0703神も仏も名無しさん垢版2017/02/01(水) 04:17:52.11ID:86Ew3+AK
> 素直さでもって修行する

我癡 − 無明ともいう。万の事物の理にくらき心の働き

人我見 − 恒常・不変の自我(人我)が実在すると考えて執着する心の働き

法我見 − 個人の構成要素および外界のあらゆるものに実体(自性、自相)を認める誤った心の働き

我慢 − 自分を高く見て他人を軽視する心の働き
  他に対して自らこそが特別な存在として妄信している心の働き

我愛 − (精神的なもの霊的なもの?も含めて、色々な)物を必要以上に求める心の働き

渇愛(タンハー)
『これは、ビクらよ、苦しみが現れてくる過程についての聖なる真理です。
  苦は、渇愛から生じます。渇愛は、再成(輪廻)し続け、喜びと愛着をともない、
  いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち、
  五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています。』(初転法輪経)

「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という生命の根元的な欲望
  _  _  _

無明を手放しするための方法は?

苦集滅道?それとも
無苦集滅道?
0704神も仏も名無しさん垢版2017/02/01(水) 04:50:42.54ID:86Ew3+AK
輪廻否定派の人のことは一旦、仏壇(神棚)の上に置いといて

輪廻肯定派の人(ID:86Ew3+AK)の場合は
我愛と戯論と善悪業に依存して
輪廻を繰り返す

バラモン教
『ヴェーダ』を聖典とし …
そこでは人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く
輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める

真俗二諦
その当時のインドの人々にとって仏教を理解させるためには
その当時のインドの人々にとって世間的な考えを認めて
さらにその理解のうえで
仏教を
その当時のインドの人々に理解させるというやり方がとられねばならなかった

仏教の世界観は
仏教誕生の地である
ネパールの世界観である
(その当時の人々に理解させるために)
輪廻からの解脱の考えに基づいている

それゆえに
仮設としての
(無明の暗闇に覆われた世界)輪廻からの解脱へ
0705神も仏も名無しさん垢版2017/02/01(水) 11:30:57.69ID:5iFBZ7Ci
だからそれ、自分の知ってることに当て嵌めてるだけでしょ。
こういうことなんじゃないかな、
あーそれはこういうことだね、とか。
それ全部頭のなかでしてることですよ。

「あ」

いきなりこうじゃないですか。
何も差し挟む余地の無いくらいに。
「いま」
ここに大安心がないなら何か違うことしてるか物凄いこと想像してるんじゃないですか。
0706神も仏も名無しさん垢版2017/02/01(水) 22:17:47.66ID:86Ew3+AK
 
無明の暗闇に覆われた世界の中に住んでるので
執着してるので

安心に気づくことができない

ということなのじゃ
0707ハジ垢版2017/02/02(木) 06:20:55.71ID:V/dsSUgW
>>702
あ、が、あであるのが真理と?
そりゃそうやなwwwwwww
0708神も仏も名無しさん垢版2017/02/02(木) 08:17:32.98ID:2tBcvBVR
まぁ分からんでしょうね(笑)

こうやって文章読んでると自分以外の別の人が書いたものを自分が読んでるて、どうしても思えちゃうもんね。
実際に自分以外の誰がか書いたんだって思うもんね。

そんなことありませんよ。
全部自分の様子です。
0709神も仏も名無しさん垢版2017/02/02(木) 12:09:08.54ID:n2lI22hl
無明の暗闇に覆われた世界の中で
渇愛(タンハー)に依存して

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
中観自立派 ← ID:86Ew3+AK
誰かが(妄想して、そして)分別しようがしまいが、火には、熱さや燃焼作用という属性が具わっています

中観帰謬派 ← ID:2tBcvBVR
いま我らによって(妄想して、そして)分別されている
無明の暗闇に覆われた世界を手放してから、そして
そのような自相を、世俗の次元でも否定します

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
中観自立派 ← ID:86Ew3+AK
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです

中観帰謬派 ← ID:2tBcvBVR
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常(であり、苦であり、無我である)という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
有相唯識派 ← ID:86Ew3+AK
(妄想して、分別して、そして)認識は対象の形相を有していると考えています
0710神も仏も名無しさん垢版2017/02/02(木) 12:33:50.31ID:n2lI22hl
> 全部自分の様子です

『仮設としての』という意味で
種子は
阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある
前五識に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある
前五識から意識・末那識を通過して
阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される
これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行)
このサイクルを阿頼耶識縁起と言う

仮設としての
(自分の)種子が
第八意識 → 第七意識 → 第六意識 → 前五識 → 外界
外界 → 前五識 → 第六意識 → 第七意識 → 第八意識

阿頼耶識縁起している

ということでつね?ご教示ありがとうございます

準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し
この如意珠に遇はば、定んで無等等(いつでも光り輝いている智慧)を得る

オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ  m(_ _)m
0711神も仏も名無しさん垢版2017/02/02(木) 14:45:40.41ID:2tBcvBVR
違いますけどあなたがそれで一切の問題解決したというならそれでいいんじゃないですか。
0712神も仏も名無しさん垢版2017/02/02(木) 17:26:56.87ID:V/dsSUgW
>>708
よく聞く話でじまんでふか?w
0714神も仏も名無しさん垢版2017/02/02(木) 18:56:58.43ID:/TTmk1Jq
おじゃる氏も「今、ここ」のマインドフルネスの番組を色々と見ているのに敢えて>>702のレスに的外れ的レスで応答してるのは素直じゃないなあw
ま、何となくそういうトボけたレスをしたくなるのは分かるけどね、上から目線で覚者気取りしている人に対してはねw
0716神も仏も名無しさん垢版2017/02/02(木) 21:22:22.24ID:qFYLxUsi
>>715さん、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。
『見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。
>>715さん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。
>>715さん、まさに、あなたにとって、
見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、
>>715さん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。
>>715さん、あなたが、それとともにいないことから、>>715さん、それですから、あなたは、そこにいないのです。
>>715さん、あなたが、そこにいないことから、>>715さん、それですから、あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。
これこそは、苦しみの終極“おわり”です。
残念がることはありません。
0717ハジ垢版2017/02/03(金) 05:33:30.77ID:qzLZVhhb
>>713
まあわからんでしょうね笑
自分の様子と思っている、そこが、渦巻く季節の流れなのです
自分の様子と思うでしょう
こういう文字を見ても縁に触れて、こう、わたしに現れているとね
どうしても思ってしまいますワイナリー

違いますよ
ぜんぶ、なんにもありません爆笑

自慢になりますかね
だれにとっても、このとおりなのですよ
0719神も仏も名無しさん垢版2017/02/03(金) 10:15:21.27ID:uRy9o+wj
人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。 この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。  無上甚深微妙法  百千万劫難遭遇   我今見聞得受持   願解如来真実義

佛説 摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無
所得故菩提薩捶依般若波羅蜜多故心無罫礙無罫礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三貌三菩提故知般若波羅蜜
多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶        般若心経
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

み仏に抱かれて 君逝きぬ西の岸 懐かしき俤も 消えはてし悲しさよ み仏に抱かれて 君逝きぬ慈悲の国 み救いを身にかけて 示します畏さよ
み仏に抱かれて 君逝きぬ花の里 尽きせざる楽しみに 笑みたもう嬉しさよ   み仏に抱かれて 君逝きぬ珠の家 美しきみ仏と 成りましし尊さよ

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
0720神も仏も名無しさん垢版2017/02/03(金) 14:03:23.56ID:iLGqPiI3
綿絶野外
一把茅底煮野菜根於折脚鐺内雖喫過日
専一究明己事底
日日相見老僧是報恩底人也
敢誰軽忽
0721神も仏も名無しさん垢版2017/02/04(土) 05:09:22.79ID:XT8erCQa
何も無いわけじゃない。
あるんです。あることに気付いてないだけです。
そして本当は無いものをあると認めてしまってるんですよ。
仏縁が無いときなんてない。
誰かだけが特別だあり得ないです。
0722神も仏も名無しさん垢版2017/02/05(日) 16:04:08.24ID:PVveEAs5
age
0723神も仏も名無しさん垢版2017/02/05(日) 23:27:32.64ID:DAQ8dBeg
スレ乱立させてる奴がいるから、早々に落ちるかもしれんage
0725神も仏も名無しさん垢版2017/02/06(月) 04:13:13.37ID:jhPbDEms
 
> 「今、ここ」のマインドフルネスの番組を色々と見ている

いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して、そして
過去への想いを手放し
未来への想いも手放し、そして
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%97%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B9%26%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%94%E3%83%BC
アクセプタンス&コミットメント・セラピー
今この瞬間に留まり,価値づけられた行動へと向けて前に進む
http://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
マインドフルネス
「今の瞬間」の現実を幅広く捉えるようにしていきます…
…何か雑念が出てきたことに気づいても
その辺りに漂わせておくようにして
自然に、消えていくのを見届けます
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
…まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/B001IB7076/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&;reviewerType=all_reviews&showViewpoints=1&sortBy=recent
[DVD] NHKスペシャル チベット死者の書
<映像特典>《Disc2》
ダライ・ラマ 単独インタビュー(1993年2月ダラムサラにて)
チベット仏教の叡智を語る 瞑想・死・輪廻転生・日本人へのメッセージ
0726神も仏も名無しさん垢版2017/02/06(月) 10:14:26.33ID:jhPbDEms
> 「今、ここ」
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説
無明の暗闇に覆われた世界の中から
解脱して
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
無明の暗闇に覆われた世界すべて一切を『空性である』と観察して
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

しかし
誰もが成仏するわけではないので(五性各別)
それゆえに
無明の暗闇に覆われた世界の中から
『解脱してみたら仏だ』ということに
気づくまでは、気づくことは難しい

無明に依存しているときに
過去への想いを手放しするのは難しい
未来への想いも手放しするのは難しい
「今、ここ」を知覚して住むことも難しい
0727神も仏も名無しさん垢版2017/02/07(火) 00:33:42.07ID:vqpvwAkz
ほしゅあげ
0728神も仏も名無しさん垢版2017/02/09(木) 01:20:20.15ID:OTNNFWyK
今、(再放送だが)
NHK教育 達人×達人(上橋菜穂子(作家)×齊藤慶輔(獣医師))を見たとこだが、
ラスト間際の上橋の台詞を記録しておく。

 「人は、(自分の所属する、育った、学んだ、身に付いた)文化を離れることができない。
 人は≪私≫を離れることができない」

と・・。




改めて、お釈迦さんに礼拝したくなった・・・・
0729神も仏も名無しさん垢版2017/02/09(木) 06:17:37.89ID:h4oNtDi2
たとえば机先生のような『なんちゃって覚者タソ』とかは
『人は本来清浄な心を元々持っているのであるから
  苦集滅道とか
  止(シャマタ禅定)観(ヴィパシヤナ智慧)とか
  いつでも光り輝いている智慧の世界から観察していくとか
  の方法とかは必要はない
  (悟りを求める必要はない)』とか勘違いしてる人が多いような気がする

臨済宗とか曹洞宗とかは人気がある?けど
テーラワーダの系統とか(唯識の系統とか)は叩かれている?ような気がする

とりあえず
自分(ID:jhPbDEms)の場合は
> (『可愛い女性とデートしたい!』とか)を離れることができない
> ≪我!とか(『落武者の霊を見た!』とか)≫を離れることができない

(変化することのない自分は)存在しないにも関わらず、
(変化することのない自分が)有ると思う虚妄の執著である遍計所執性なのでつ

> 改めて、お釈迦さんに礼拝したくなった…

生きとし生けるものが幸せでありますように

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ  m(_ _)m
0730神も仏も名無しさん垢版2017/02/09(木) 10:46:40.89ID:LCjiKv0p
でおー、語る。

「余談だが、聖胎長養なんていう禅用語に全く関心を示さなかった俺様wだがw
俺的修行は12月から、今年の遅くても6月ぐらいを終了の目安にしているんだが、
、こういう用語に該当するんだろうなあ・・・と修行の日々で思えてきたなw」
0731神も仏も名無しさん垢版2017/02/09(木) 11:47:10.55ID:h4oNtDi2
禅宗とか興味ないけど↓とりあえず

ウィキペディア参照↓

聖胎長養(しょうたいちょうよう)
菩薩道の長い修行において仏の果報を得ること、身体を愛護することをいう
特に禅宗においては「悟後の修行」を意味し、一般にはこれを指すことが多い

菩薩道
聖胎とは、仏の種子(譬喩的に仏となりうるたねを宿す)をいう
大乗仏教の菩薩道を歩む修行の階梯を示す菩薩五十二位の中の十住・十行・十廻向を指し
ここまでは凡夫の位であり、この上の十地が聖者の位、妙覚において仏と等しくなる
聖胎長養とは、修行して仏となる果報を得ること
または仏道を全うするために自分の身体を愛護して長く養うこと

悟後の修行
禅宗においては、見性を得た身心をさらに長く養い、悟りを育てる悟後の修行を「聖胎長養」という
修行が済み、ある境地を得たといっても
それを真に無碍自在に活用できるようになるがために、容易に世に出ずに、さらに心境を錬ること
人は一度悟ったとしても、慢心しているとすぐ迷妄に陥るからとする


禅宗の系統は
『人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない』
とかいってたような気がするけど…?
0732神も仏も名無しさん垢版2017/02/11(土) 23:46:48.73ID:06kDh0Jd
age
0733神も仏も名無しさん垢版2017/02/13(月) 04:48:07.26ID:BW9aWucg
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して、そして
十牛図
八 人牛倶忘
ついに童子は修行の頂点に達した
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界、そして
九 返本還源
さらに無の世界を超えると、童子は元の世界、すなわち菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
童子は計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/1/23_1_172/_pdf
道元禅における生死観
(一)生死のほかに仏、涅槃を求め欣う。即ち、仏、涅槃を対象化して求める
(二)仏のありさまをとどめる。即ち、生死現象に対して欣厭の分別心を起す
(三)心をもてはかる。即ち、生死の実体を観ようとせずに、分別心をもつて生死を推しはかる
(四)ことばをもていう。即ち、生死や仏を学道せずに、いたずらにこれを概念化したり、定義づけたりする
(五)心におもい、うれうる。即ち、現実の生死を逃避し、迷いわずらう
以上、自己をはこんで生死を修証しようとするのはかえつて生死の実体から遠ざかる、という
むしろ
「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、
  仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、
  ちからをもいれず、こころをも、つひやさずして、生死をはなれ仏となる」
と、発心修証をもはなれた自然のいとなみ、生死観を示している
http://www.onedhamma.com/?p=5830
17/02/12 「仏教3.0」から読み解く「正法眼蔵生死巻」 Podcast 法話
1.0の場合は 生死の世界も、涅槃の世界も、同じである?
2.0の場合は 生死の世界から → 涅槃の世界へ
3.0の場合は いつでも光り輝いている智慧の世界から観察していく?
0734神も仏も名無しさん垢版2017/02/13(月) 08:36:56.92ID:BW9aWucg
チベット ニンマ派
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
(世界すべて一切は変化している)
無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません、そして↓

長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅)
決して意思しないように、また意思活動をしないようにしてはどうであろうか?
決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
順々の正知による想滅定が生起して、そして↓

八 人牛倶忘
ついに童子は修行の頂点に達した
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界↓

チベットに伝わる心の訓練法(ロジョン)と現代
不滅・不生 … (無為法)によって仏陀が形容されている

第二十五章 ニルヴァーナ(涅槃)の考察
(『輪廻している有為法の世界から解脱して→涅槃に逝く』という分別も手放して、そして)
19 涅槃と輪廻にある存在との間には、わずかな違いすら存在しない


これだけの段階的な説明があって、やっと
『涅槃を対象化して求めて掴もうとしている想いが、生死の実体(涅槃)から遠ざかる』
という大乗1.0の意味が、わかる場合もあるかも?
0735神も仏も名無しさん垢版2017/02/13(月) 13:34:35.39ID:BW9aWucg
無明の暗闇に覆われている世界の中で
無明に依存して、そして
渇愛(タンハー)に依存して

我所がある・我もある、と妄想して分別して
掴もうとしている想いが、生死の実体(涅槃)から遠ざかる

これを対処するために
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット ニンマ派
中観自立派
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
中観帰謬派
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

スッタニパータ
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
苦集滅道に縁りて
無明に縁りて行 → 行に縁りて識 → 『苦しい!』と掴もうとしている想いが現れてくる
無明滅するが故に行滅し → 行滅するが故に識滅す → 『苦しい!』と掴もうとしている想いが滅して、そして
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
204
この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不滅なるニルヴァーナの境地に達した
0736神も仏も名無しさん垢版2017/02/13(月) 15:29:32.91ID:BW9aWucg
http://www.onedhamma.com/?p=5830
17/02/12 「仏教3.0」から読み解く「正法眼蔵生死巻」

↑この Podcast 法話によれば
『テーラワーダ2.0を理解して、その上で3.0へ』ということであるらしい

たとえば、2ちゃんねる掲示板に書き込みしている人とかは
(禅宗の系統は人気がある?けど)
テーラワーダとか(唯識とか)を勉強している人は少ない?ような感じがするので
『3.0の いつでも光り輝いている智慧の世界から観察していく』
というのを理解するのも難しいのかもしれない?

『仮設としての』という意味で
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
パオ・セヤドー
密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる
密集を看破できないのであれば、霊魂の概念は消失する事はありません
密集を看破するためには、色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
密集を看破した時、(すべて一切は無常で変化している)無我への領悟、了解が生まれる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている
この深層的な自我心を滅することによって
(滅して、そして → 現れてくることもなく滅していくこともない)無我行を実践することができる
0738神も仏も名無しさん垢版2017/02/16(木) 10:21:04.26ID:OZcJKyEc
age
0739神も仏も名無しさん垢版2017/02/17(金) 22:37:38.32ID:Aev5nKus
age
0740パーピマン垢版2017/02/18(土) 10:14:48.49ID:376mVBli
水野弘元の「仏教要語の基礎知識」を改めて読んでみると・・・・・

やはり、名著だと思うねえw
決して初心者向けの本ではないけど、一度は読んでおかないといけない本でしょw

水野氏は、(その論文も含めて)賛同しかねる見解もあるけど、やはり
すごい学者さんだねえww

・・・・・・・なんか、最近、なんちゃって覚者とオカルト馬鹿、それに
ちょっとかじった「大乗非仏説」で日本仏教批判を繰り返す自称仏教徒w
後は、法華サイコ〜〜を繰り返す、創価バカww

・・・・・こんなのしかいなくなっちゃったなw
0741パーピマン垢版2017/02/18(土) 10:57:15.46ID:376mVBli
現在、世間では「幸福の科学」関連のニュースが騒がしいがw

いつも思うのは、なんであんな詐欺師集団にひっかっかるバカが何万人も
いるんだろうか?w

霊、死後の世界・・等の神秘関連の事象を信じたくなるのは、まだ理解できる。
神の存在を信じるのもいいだろう。(ただし信仰の範疇でだが)

けど、あれはないだろう?
霊言???? wwwwwwwwww

あれを信じられる精神のしくみが理解不能ww

あれにひっかっかるバカが何万人もいるということは、日本は平和なんだなあと
思う、今日この頃ww
0742パーピマン垢版2017/02/18(土) 11:07:07.24ID:376mVBli
・・・・・・・・・・ちなみに、

オレは、恐山のいたこは、是認するスタンスw
勿論、現象として死者が実際に話しかける・・なんて、これっぽっちも
信じてはいないが、あれはそういうのとは違った意味合いをもつと思うからw

いたこに、頼みに来るじいちゃんや、ばあちゃんも、どれほど信じてるか
わからんがw、 彼らにとってはそれが本当かどうか?ということは
あまり問題ではないんでしょう。

要は、何ていうか難しいが、自分にとって大切な人の「死」というものを
自分の中で昇華するというか・・・・

個々にとって、色んな意味合いがあるんでしょう。
よってOKなんだw  オレの中ではw
0743 ◆Ozyaruuowd4U 垢版2017/02/18(土) 16:10:20.05ID:/M+Pr7QN
>オカルト馬鹿

自分の場合は、仏教板の中では
(今あるやつではなくて)かつての仏教議論スレと
ここの外道の独り言
紐タソの仏教の「すべて無である!」は間違えだ、ぐらいしか見てないけど

オカルト系統の人は
前世は一在家どのと
宝珠どのと
自分(おじゃる)位の少数派のような気がする m(_ _)m

むしろ、机先生のような
「今ここにある肉体(色蘊)もすべて無である!」
たとえば、魂が輪廻を繰り返しているという「想い(受想行識蘊)もすべて無である!」
という、無と、空性の違いを、理解していない
なんちゃって覚者タソの方が多いような気がする

ちなみに空の場合は
仮設としての
業報有るも而かも作者無し、此の陰滅し已らば異陰相續す
無明に縁りて行 → 行に縁りて識
 → 「苦しい!」と掴もうとする仮設としての想いが現れる
無明の暗闇に覆われた世界の中においては
無ではなくて
夢、幻の如く、変化している『空性である!』と観察していく
みたいな感じ?
0744神も仏も名無しさん垢版2017/02/18(土) 16:26:35.44ID:wWyH0x9l
743.
いつまで心理学をやっているのかや。
空性である、と観察する暇があれば、心理学者になれるよ。
それは科学の問題である。それは存在論である。
それは宗教の問題ではない。
0745 ◆Ozyaruuowd4U 垢版2017/02/18(土) 16:35:05.13ID:/M+Pr7QN
ちなみに、机先生のような覚者タソとかは
「人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない!」
と勘違いしてるけど

智慧の世界から観察して
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅)
決して意思しないように、また意思活動をしないようにしてはどうであろうか?と
決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想 も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による想滅定が生起するのである

この滅の世界においては
「すべて無である!」という想いも、「悟りを求める必要はない!」という想いも
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
(すべて滅して、そして)
「不生であり不滅であり」によって仏陀が形容されている
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
(この世俗の世界においては)
密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる
密集を看破するためには、色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
密集を看破した時、無我への領悟、了解が生まれる
0746神も仏も名無しさん垢版2017/02/18(土) 16:42:35.48ID:wWyH0x9l
745.
心理学をやっている場合ではない。
想い、がどうなるか、と観察して議論することは失格である。
想い、が滅するか否かは科学の問題である。
それは宗教の問題ではない。
0747 ◆Ozyaruuowd4U 垢版2017/02/18(土) 17:02:53.60ID:/M+Pr7QN
>空性である、と観察する暇があれば、心理学者になれる

http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
ゲシェ・チェカワ 『七事の心の訓練法』
諸法は夢・幻の如しと訓練しなさい
道の本体は阿頼耶の自性に置くことです
瞑想のセッションの間は(自らが、夢・幻を作り出している)幻術師である。としてありなさい

息を吐く時に自分の幸せを白い光の形で衆生に与え
息を吸う時には衆生の苦しみを黒い煙の形で受け取る

そして、その苦しみの黒い煙を
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-walk/cat29/post-99.html
護摩の火の行事が高度に思想化され、そして
火を真理とし、薪を煩悩とし、真理をもって煩悩を焼く
真理の火をもって、苦しみの黒い煙を、焼き尽くしていく

なぜ?苦しみの黒い煙を、焼き尽くしていくことができるのか?その理由は?
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
世界すべて一切を『空性である!』と観察せよ

その答えは
世界すべて一切は、夢・幻の如く、変化している『空性である!』からで おじゃる!
0748神も仏も名無しさん垢版2017/02/18(土) 17:14:48.44ID:wWyH0x9l
747.
空性であるか。
そんな観察をしているのはバカである。
スッタニバータに感激しているのはバカである。
空性であるか否かは科学の問題である。
それは宗教の問題ではない。
宗教でないところに入り込んで、理解したと喜んでいるのはバカ丸出しである。
0749神も仏も名無しさん垢版2017/02/20(月) 21:35:51.60ID:PGpA20eR
age
0750神も仏も名無しさん垢版2017/02/21(火) 15:46:08.45ID:OR0ZRySV
アートマンとは個の主体です。
主体とは、観察者であって観察される対象ではありません。
観察されたとしたら、それは主体ではなく客体です。
よって、アートマンを認識することは、通常の方法では不可能だと分かります。

試しに自分を観察して、自分の主体を探してみてください。
果たして見つけることができるでしょうか?
自分を観察している、その観察者こそがアートマンです。
その観察者をとらえたとしても、とらえた瞬間にそれは客体になっていますから、それはアートマンではありません。
アートマンは常に観察している側です。

仏教以前のヴェーダの宗教では、アートマンを感得することが解脱への道だと考えられていました。
しかし、修行者たちは、主体を観ることのできない事実に直面し、その困難さに気づきました。
ヴェーダの聖仙(リシ)たちは、あらゆるものを悉く「これはアートマンではない(非ず、非ず)」と否定することによって、最終的にアートマンを得るのだと説きました。
そのことをヨーガを通して実践しましたが、そのことに目覚めた者はいませんでした。

仏教でも、「これはアートマンではない」という見方を中心にして行を行じます。
アートマンを観るのだという意識さえも捨てて、ひたすらに、自分のものを否定し、自分を否定し、自分の主体を否定しました。
そのことを、「アナートマン」といいます。アートマン"ātman"に否定語の"an-"をつけて"anātman"と言いました。
意味は、「自分の主体の否定」です。これを中国で「無我」と訳したために、中国ではその後の仏教理解に混乱が生じました。
無我という言葉によって、我を完全否定していると受けとめるようになったのです。
アートマンの完全否定、存在否定として受け取ったために、無に執着するようになりました。
アートマンが有るという執着から離れるためにアナートマンを説いたのに、アートマンが無いということに執着することは仏陀の教えとは異なります。
仏陀は、非有非無の中道を説いています。
「有に執着しない。無に執着しない」という根本思想から離れれば、それは仏教思想から離れてしまいます。
無我とは、アートマンの有無に執着しないことです。


インド人は、個の存在そのものよりも、個を個として成らしめるものを観察しました。
水を水として成らしめるものは何か? 火を火として成らしめるものは何か? 私を私として成らしめるものは何か? ということを究めようとしました。
成らしめるものをアートマンと呼んでいます。

仏教では、個を個として成らしめるものは因縁に依ると説きました。
アートマンは個の原理とも呼ばれるように、他を必要とせずに有るものですが、仏教ではそのことを否定して、すべてのものは因縁に依って仮に有ると説きました。
非有非無と因縁の法は、仏教の重要な根本思想です。多くの修行者は、アートマンを絶対的なものと考えていましたが、仏教では因縁という相対的なものだと教え、それをダルマ(法)と呼ぶようになっています。
すべてのダルマは空です。固定した何かが個や宇宙の主体ではありません。
0753神も仏も名無しさん垢版2017/02/22(水) 09:03:33.52ID:JWf3oUv2
age
0754神も仏も名無しさん垢版2017/02/23(木) 02:20:12.62ID:9Y60pH3k
>>745
>「人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない!」

ルーツは部派仏教時代の大衆部の「心性本浄論」、人間の心は鏡のように浄らかなものであると説いた。
すると、人間の心が本来浄らかであるならば、人間は悪徳を積むはずがなく、修行する必要もないのではないかという疑問をぶつけられた。
その疑問に対して大衆部の比丘達は「客塵煩悩論」を打ち出し、凡夫が煩悩に苦しむのは鏡の前に塵が積もり、鏡本来の浄らかさが覆われているような状態であって、
修行して煩悩を除く必要があり、そうすることによって人間が本来もっている鏡のような浄らかな心が出せるとし、煩悩を自分の本質と見ないようにした。

どの道、菩提心や修行は必要である。

「心性本浄論」「客塵煩悩論」は「自性清浄論」や「諸法実相論」に裏付けられ「仏性論」として展開されるが、
「一切衆生悉有仏性」の世界を見事な詩偈で読んだ「白隠禅師坐禅和讃」
http://shofukuji.net/5hakuin.htm
においても禅定によって迷える衆生が本来の仏に立ち返ることができ、生死即涅槃となることを読んでおり、
そう言った悟りの条件として禅定の行を挙げている。
0755バービーちゃまへ、でおー垢版2017/02/23(木) 09:28:01.79ID:lqbi3d0I
バービーちゃま、元気であるか?

ま、最近香ばしいなんちゃって覚者様が現れたぞ、
気にいったら、弄ってくれたまえW
0756神も仏も名無しさん垢版2017/02/23(木) 09:29:51.47ID:lqbi3d0I
68 : ジャンキー大山 2017/01/06(金) 05:51:16.64 ID:wfppEgVn

一度でも良いから自殺する位苦しんで座り抜いて来いや?
解って大歓喜を味わってみろや?
涙が止まらなかったぞ?
笑いが止まらなかったぞ?

悟りを舐めてるわ、マジで。

華厳経の世界をリアルで体験して来いや?
一念三千の世界をリアルで体感して来いや?

何の苦労もなしに何が悟っただ、ただの異常心理か嘘だろ?
0757神も仏も名無しさん垢版2017/02/24(金) 22:02:49.61ID:RGWP9BZd
age
0758神も仏も名無しさん垢版2017/02/26(日) 09:13:29.31ID:hSoZ/sxC
>>756
苦労自慢?

苦労して悟れるなら、

苦労せんぞ。
0759神も仏も名無しさん垢版2017/02/26(日) 12:47:12.40ID:1PnVpaFg
age
0760神も仏も名無しさん垢版2017/02/26(日) 13:10:08.30ID:1PnVpaFg
age
0761鬼和尚垢版2017/02/27(月) 11:28:18.23ID:G7y2oj/N
>>758

>苦労して悟れるなら、

>苦労せんぞ。

間違った日本語を使うではないのじゃ
0762鬼和尚垢版2017/02/27(月) 11:31:11.41ID:mT4sak2j
>>758

おまえさんの言うとおりじゃ
悟りは苦労して悟るものではないのじゃ
時々、修行自慢をする者がいるのじゃが
まだまだ初心者なのじゃ
0763神も仏も名無しさん垢版2017/02/27(月) 14:53:18.17ID:IlCScsW+
>苦労して悟るものではないのじゃ

いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して

『悟りを求める!』という想いも手放して

『想う!』という想いも手放して
『想わない!』という想いも手放して
非想非非想も超えて

『想いを手放す!』という想いも手放して、そして
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典  第9経  ポッタパーダ経(心作用の消滅)
決して意思しないように、また意思活動をしないようにしてはどうであろうか?
決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による想滅定が生起して、そして
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E5%8F%AA%E7%AE%A1%E6%89%93%E5%9D%90/m0u/
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐、そして

http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
十牛図
八  人牛倶忘 ☆ 智慧の世界から観察して色即是空
ついに童子は修行の頂点に達した
ただ「空(くう)」となり、円が描かれているだけの無の世界

九  返本還源 ☆ 智慧の世界から仮和合五蘊の世界を観察していく空即是色
さらに無の世界を超えると、童子は元の世界、すなわち菩提心を起こし修行する以前の世界に戻ってきた
童子は計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている
0764神も仏も名無しさん垢版2017/02/27(月) 16:07:29.44ID:IlCScsW+
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/23/065209
…散乱心の強い修行者には、安般念を
四界分別観は、智慧が鋭利な人に適します
慈心観は怒りの心が強い人向けです
不浄観は貪欲の心が強い人に適します

…ほとんどの修行者は、安般念または四界分別観のどちらかから始めても、成功します
というのも、彼らは過去生において、かつてこの二種類の修行か、またはその内の一種類を修行しているからです

四界分別観は確実に、深くて安定した定力を育成する事ができます

四界分別観を修行する時、先に四界の12種類の特徴
すなわち、硬さ、粗さ、重さ、柔らかさ、滑らかさ、軽さ、流動性、粘着性、熱さ、冷たさ、支持性、推進性を観察します
この12種類の特徴に習熟したならば、それらを地・水・火・風の四組に分けます
  _  _  _


机先生のような『なんちゃって覚者タソ!』と相性が悪い
『輪廻(前世)もない!』
『心の働きもない!(観察する必要もない!)』

『いつでも光り輝いている智慧の世界から観察する必要もない!』
『人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない!』
と言う立場で
余念を交えず、ただひたすら黙々と坐禅する只管打坐

机先生の場合は『只管打坐も必要ない!』?

(涅槃の世界に?)帰命したてまつる
オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ  m(_ _)m
0765神も仏も名無しさん垢版2017/02/28(火) 11:37:23.26ID:YuFxLkxV
age
0766鬼和尚垢版2017/02/28(火) 11:57:09.42ID:AIINYR0O
結局、何を反論したいのじゃ
0767神も仏も名無しさん垢版2017/02/28(火) 21:41:17.39ID:YuFxLkxV
age
0768鬼和尚垢版2017/03/01(水) 15:04:05.30ID:sur0PSPH
結局、何を反論したいのじゃ
0769神も仏も名無しさん垢版2017/03/01(水) 23:52:13.82ID:7mB9ygaL
☆彡
>結局、何を反論したいのじゃ

(たとえばテーラワーダとか?)
苦集滅道を理解することの出来ない
机先生のような『なんちゃって覚者タソ!』とかは
『逝って良し!』と言いたいのじゃ〜っ!
0770神も仏も名無しさん垢版2017/03/02(木) 21:19:36.63ID:jVkkAflx
age
0771バービーちゃまへ、最近のなんちゃって覚者様w垢版2017/03/03(金) 09:11:33.04ID:nnCYt9T7
84 :

神も仏も名無しさん

2017/03/01(水) 15:46:13.32 ID:XaHZIcLu

前にも話したよね?
仏教関係の研究機関に勤めていたこともあるってさ。
0772ハジ垢版2017/03/04(土) 10:07:55.39ID:B2ND4mOq
観察してると意識が上空にあるよね?
そこが光だよ
そして、その光はねえ
こころなんだよwwwwwww
OKざますか?
その光と胸が連結して、体を包むのだ!
うん、
まあ、独り言、ごめんww
0773神も仏も名無しさん垢版2017/03/08(水) 10:24:02.81ID:1MNOxJ7x
age
0774神も仏も名無しさん垢版2017/03/11(土) 01:21:55.20ID:SmG06kln
age
0775神も仏も名無しさん垢版2017/03/13(月) 09:36:13.82ID:LuhJ4RxR
age
0779神も仏も名無しさん垢版2017/03/17(金) 00:57:16.55ID:IypYGXg4
age
0781神も仏も名無しさん垢版2017/03/18(土) 16:56:21.86ID:yltjo052
age
0783神も仏も名無しさん垢版2017/03/20(月) 15:26:40.04ID:F+g9UApB
age
0786神も仏も名無しさん垢版2017/03/22(水) 00:17:06.60ID:V5DwNBVg
age
0787神も仏も名無しさん垢版2017/03/23(木) 04:18:29.62ID:OHSmnJTj
余談ですが、不動明王(オーム教のシヴァやイルミナティも同じ)弁償はとっても、おまいりすべきじゃありません。何万年と裏でだましやってきた
悪事がばれて上の神仏界で毒殺抹消対象になっています。ちゃんと過去生から精進,徳を積んできた人が不正に障害者に
されたり変な因縁をつけられたりしています。一見その場が助けられたように見えてももともとそうなる運命じゃなかった人が
あらかじめ不正に罪を背負わされ、苦境にたたされるようにされ、表からはそれを少しぬいて、大難を小難にしてもらったと
錯覚させれてるだけです。例えどんなに物事一所懸命やっても決して成就することはなく(または、病的怠惰をかけらえできないし)
要するにアフリカの難民みたくみんな引きずり落としあって永久にダメにされます。「バックトゥザフューチャー2」
のビフがもっと悪化したようなものです。テレビも何も知らず映してることがあるが大きな間違いです。
釈迦、空海、キリストなどもこれに便乗していたので今後おまいりしてはいけません。
不動はおまいりすべきじゃありません。その障害を持っていながらも何とか社会に貢献しようと、
新しい物を考え出しても、どんなにセキュリティーアップしても裏切られ取られるようにされ、なかったことにされます。
0788神も仏も名無しさん垢版2017/03/25(土) 15:21:46.44ID:FfyUww7C
age
0789神も仏も名無しさん垢版2017/03/26(日) 14:03:04.09ID:ceg/eRPl
波旬
はじゅん

サンスクリット語のパーピーヤスppyas、パーリ語のパーピマントppimantの音写で、悪意(パーパ)ある者の意。
仏典には、仏や仏弟子を悩ます悪魔、魔王として登場し、しばしば魔波旬(マーラ・パーピマントmra-ppimant)とよばれる。
魔(マーラmra)は殺す者の意。
個人心理的には安定(悟り)に対する不安定(煩悩(ぼんのう))の、
集団心理的には新勢力(仏教)に対する旧勢力(バラモン教)の象徴と考えられる。[片山一良]
0790パーピマン垢版2017/03/26(日) 15:41:42.53ID:TBb1ia2D
あらw

コテの由来を詳しくw
0791パーピマン垢版2017/03/26(日) 15:46:38.75ID:TBb1ia2D
最近は、佐々木閑の著作ばっかり読んでたなw

次は、奈良さんの「仏教史 T」(インド、東南アジア)の予定。
(これ、ちょっと古いんだよなw 1979年だからw)
0792パーピマン垢版2017/03/26(日) 17:12:35.11ID:TBb1ia2D
ミャンマーの仏教徒さんたち、何とかならんかね?

・・・・・・・・・なんか、仏教のビンラディンなんて呼ばれるのも出てきてるしw

世界規模で見たとき、ムスリムが脅威に映るのは十分わかるが・・・
延髄反射的に迫害に走るのは、どうにも仏教的でないでしょ?

うまくいけば、ムスリムと他教との模範的なモデルケース構築のチャンスにも
なるのでは?w・・・・と思ってるのだがw
0795神も仏も名無しさん垢版2017/03/28(火) 09:06:16.80ID:Fmw/d2L6
age
0796神も仏も名無しさん垢版2017/03/28(火) 11:12:58.76ID:9YC5W3PW
 天部の神々は他にもいろいろあるが、あとは省略することにする。
 なお、曼荼羅に描かれた神々のうちには、善神ばかりではなく魔神や悪鬼、夜叉のたぐいまでが含まれている。その理由はすでに述べたように、
密教は加点法でものを考えるからである。魔神や悪鬼であっても、なにかひとつでもとりえがあれば、仏の世界の一員と認めようというのが
密教の考え方である。鬼子母神や聖天はそのような神であった。実際、このような暴悪なる神の方が改心した後は力強い神さまになるものである。
悪を悪だからといって簡単に否定してしまうのはあまり得策ではない。悪をうまく善に転化させようとするのが密教の立場だ。この考え方は
実生活においても役に立つのではなかとうか。少なくとも私はこのような密教の考え方に大賛成である。
(「仏教 人間の救い」ひろさちや)
0798神も仏も名無しさん垢版2017/03/30(木) 09:45:01.72ID:m4/TzSB2
でおーはガチで精神病だろ。

数ヶ月前から構想を練っていたとか、地獄の修行とか、定期的な書き込みとか、俺様呼称とか異常だろ。
入退院を繰り返しているのかもな。
偏執病か?

あと、異常性癖者かもな。
オナニーとかマゾとか調教とかシコシコとか、偏執的な性癖を窺わせるな。

まぁ、精神を病んでなければ、施設に入所している知的障害者かも知れないな。
0799神も仏も名無しさん垢版2017/03/30(木) 09:52:49.16ID:mrbHJUBv
なるほど。
入院を繰り返してるから、定期的に書き込めない時期があったのか。
そう考えると、でおーも哀れに思えてくるから不思議だ。
0800おじゃる!垢版2017/03/30(木) 22:37:32.81ID:X6lDbZzr

>密教は加点法。魔神や悪鬼であっても、なにかひとつでもとりえがあれば

龍樹は才能豊かな3人の友人を持っていたが
ある日互いに相談し
これからは快楽に尽くそうと決めた
彼らは(黒魔術的な?)術師から隠身の秘術を得、それを用い後宮にしばしば入り込んだ
100日あまりの間に宮廷の美人は全て犯され、妊娠する者さえ出てきた

十七清浄句
欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である

自性清浄
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して

精子と卵子が結合して
再生へ向かう迷いの中有(シパ・バルドゥ)から
母胎より誕生してこの世に生きている(輪廻肯定派)

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/81-ii-G3AUL._SL1500_.jpg
おじゃるも、アメリー・プランシャール(魔女)と一緒に焼肉食べに逝きたい!
0801神も仏も名無しさん垢版2017/03/30(木) 22:40:27.19ID:5U4AdSPF
800.
それは生活の問題である。
それは宗教の問題ではない。
0802神も仏も名無しさん垢版2017/03/30(木) 22:43:57.34ID:+mqcNx7a
鬼子母神も聖天も龍樹も改心して仏道を歩むことになりました。
一切の有情には如来蔵があるので改心させることが出来るというのが密教のスタンスのようです。
0803おじゃる!垢版2017/03/30(木) 23:06:16.63ID:X6lDbZzr

>一切の有情には如来蔵があるので改心させることが出来るというのが密教のスタンスのようです

レスありがとうございます m(_ _)m

http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説
無明の暗闇に覆われた世界から
解脱すれば仏だと
気づいてみればたやすいことだ

しかし
おじゃるの場合は脳みそ狂ってるので
気づくまでは、気づくことは難しい
誰もが成仏するわけではない、五性各別かも?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E8%83%9D%E8%A6%B3%E9%9F%B3
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
0804神も仏も名無しさん垢版2017/03/31(金) 20:49:52.61ID:FVNF5+3c
神を虐め殺したい訳だが観測して捕まえまで待てない
早く虐待してやりたい
0805神も仏も名無しさん垢版2017/03/31(金) 23:12:47.77ID:It98oqlP
古代インド人の特徴は、夢の中の体験を、目覚めているときにも体験しようと執拗に試みたところにあります。
それが、ヨーガ(瞑想)だと思われます。
ヨーガ(瞑想)に関する教典から、古代インドのバラモン教の実践者たちが、
現実の世界よりも夢(空想)の世界の内容を「より真実の世界」であると思い込んでいたことがうかがえます。

夢における知は、夢の中で拝んでいた、神の美しいすがたを対象としている。

目覚めたときの静かな心で同じ神の姿に凝念すれば、ヨーガ行者の心は安定に達する。
(「ヨーガ・スートラ」、同上)

このように、ヨーガ行者は夢の中と同じ体験を瞑想のなかに求めます。
さらに、夢の中で自由に徘徊する自己、という考えをエスカレートさせて、

ヨーガ行者は水上を歩き、蜘蛛の糸の上を歩き、光線の上を歩き、さらに虚空を自由に行くことができる。(同上)

とか、

心が身体を離れて外的に働くときは、大離身といわれるのである。
この大離身によって、ヨーガ行者は他人の身体に入る。(同上)

などともいわれます。
0806神も仏も名無しさん垢版2017/03/31(金) 23:16:03.29ID:It98oqlP
夢のなかで「自己」が身体を離れてゆく現象を、目覚めているときに意図的につくりだす心理的テクニックが本来のヨーガ(瞑想=夢想)の
目的だったろうと思われますが、後には、身体を持ったまま空中を飛ぶ、いわゆる「空中浮遊」などが信じられるようになります。
いずれにしても、夢や空想を現実から区別をしようとしない独特の宗教的習慣が古代インド人の間にあったことは否定できません。

このような考え方の中で、死後、身体を離れてゆく永遠の魂(アートマン)を想定することは、何でもないことです。

つまり、アートマン(永遠の魂)の思想は、もとをたどれば、古代のインド人たちが、
身体とは別に夢の中で自由に徘徊する自己を「真実の自己」と思い込んだところから、生まれてきたものと考えられるのです。

このような歴史的背景を知ることによって、シッダータ・ゴータマが、「無我」の思想を真理として発見した自分のことを、
「ブッダ=目覚めた者」と呼んだことの歴史的な意義が明確になると思います。
ブッダの思想家としてのデビューと考えられる、いわゆる「第一説法」において、瞑想・苦行にいそしむ旧友に対して彼は
なんじらは、わたしを名をもって呼んではいけない。 また「友」と呼んでもならない。

わたしはもはや如来である、最高の「目覚めたもの」である。
(『マジマ・ニカーヤ』26)

と宣言します。すなわち、

「buddh =眠りから醒める」

という言葉を用いることによって、
彼の真理の特徴が夢想的なバラモンの思想の否定にあることを主張したのだ、と考えられます。

http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul02.html
0808宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/01(土) 15:15:21.66ID:+OXVO22a
>>805-806
パーピマン、そして皆さん。
ご無沙汰しています。

こんなものは、
何も分からないくせにアートマン否定をしたい無我を誤解した馬鹿仏教徒による解説です。
転載文ならば、ちゃんとどこからどこまでが転載なのかを『』等々で明確に区切って示すように。
後で、時間が出来しだい徹底的にこれを破壊(反論)します。
0809おじゃる!垢版2017/04/01(土) 19:28:33.20ID:5xn1JmKC
 
>心が身体を離れて外的に働くときは、大離身といわれるのである
>この大離身によって、ヨーガ行者は他人の身体に入る

ポアはチベット語であり
仏教辞典では「遷移・転移」と訳される
イェシケのチベット語辞書でも
(心が身体を離れて色蘊・肉体が)死ぬと言う意味はあっても
殺す(生けるものを殺してもよい)という意味は存在していない
  _  _  _

(無明の暗闇に覆われた世界の中で)母胎より誕生してこの世に生きている、そして
  ↓
死の瞬間、そして
  ↓
再生へ向かう迷いの中有(シパ・バルドゥ)、そして
  ↓
(無明の暗闇に覆われた)再生へ向かう(輪廻肯定派)

ある宮から → 他(の宮)への通過
  _  _  _

>眠りから醒める

前世から → 現世に醒める(誰もが成仏するわけではない五性各別)

無明の暗闇に覆われた世界の中から醒めて
 → 現れることもなく滅することもない涅槃へ(誰もが仏と成ることのできる一乗)
0810おじゃる!垢版2017/04/01(土) 20:02:08.76ID:5xn1JmKC
>>809 の続き

現れて、変化して、滅して、そして↓それゆえに

生老病死
愛別離苦 愛する者と別離すること
怨憎会苦 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦 求める物が得られないこと
五蘊盛苦 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

求不得苦
可愛い彼女とデートしたいと思うのに
実際にはデートすることができないこと

それゆえに
色受想行識の相続が滅して完全解脱して
「苦しい!」と掴もうとしている想いの相続が滅して
現れることもなく滅していくこともなく涅槃

生きとし生けるもの誰もが
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察することができますように

準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん
ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
0811神も仏も名無しさん垢版2017/04/01(土) 23:00:50.38ID:/F1lbH/w
仏教というのはヒンドゥーつまりインド的なものの中では基本的に異端なのです。
例えば14世紀にマーダヴァが著した『全哲学綱要』という書物では、
ヒンドゥー教の立場からインドで起こった合計16の哲学説をそれぞれ解説しているのですが、
仏教はヴェーダ聖典の権威を認めない3つの異端のひとつ、という扱いを受けています。

ヒンドゥーにとって一番劣っているのは精神を認めない唯物論ですが、仏教はそれに次いで劣った思想、とされています。
それというのも結局アートマンを認めないからなのです。
一方でジャイナ教は3番目に劣った思想という位置づけです。
ヴェーダは認めないけれどもアートマンの存在を認めるジャイナ教が仏教よりはまし、とされるというのは、
ヒンドゥーにおけるアートマンの重要性を雄弁に語っていると思えます。
事実、現在に至るもジャイナ教はインドで命脈を保っているのに対し、仏教は早くに滅んでしまいましたね。
(むろんこれには、仏教がヒンドゥー教に近づいたためにインドでは価値が薄れてしまったという
5〜6世紀以降の歴史もあるのですが、ここでは重要な問題ではありません)
https://sp.okwave.jp/qa/q718920.html
0812神も仏も名無しさん垢版2017/04/02(日) 00:08:43.68ID:T5NSzY4g
>>807(リンク先)
>さらに「無我」という概念となると全く出てこないと言って良いと思います。
>他の言葉や言い回しに含まれている(例えば不滅のもの、常住のものは何もない)
>ことはあっても何か知るものが直接「無我」であるというような言い回しは
>なかったと思います。
>仏教を通して代表的な概念である「無常」「無我」とい二つの概念は
>少なくともスッタニパータの奨励するような方法で実践するならば
>必要ないということになります。
0813神も仏も名無しさん垢版2017/04/02(日) 00:10:01.88ID:T5NSzY4g
>>812のレス
Sn V 12、二種の観察

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるもの(Anattani)を我と思いなし(attamāniṃ)、
  <名称と形態>(名色)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。
  何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
758 安らぎ(涅槃nibbānaṃ,)は虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。
  かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

  W 10、死ぬよりも前に

861 かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。
  かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。」

    11、論争

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。
  欲求がないときには、<わがもの(mama)>という我執も存在しない。
  形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」

    15、武器を執ること

950 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、
  また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──かれは実に世の中にあっても老いることがない。
951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、
  ──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

  X 7、学生ウバシーヴァの質問

1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、
  無所有にもとづいて、その他のものを捨て、
  最上の<想いからの解脱>において解脱した人、
  ──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

※わが所有(mama=mine) 古来「我所」もしくは「我所有」と訳せられた。「わがもの」というほどの語である。
0814おじゃる!垢版2017/04/02(日) 00:59:41.91ID:JqOxZpdG
>仏教というのはヒンドゥーつまりインド的なものの中では基本的に異端なのです
http://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-upanishado/upanishado-tetujin.htm
仏教の思想的土壌  ウパニシャッド
名称と形態(現象界)の展開
6.3.2
この神(=有)は思った
生命を与える(変化することのない)アートマンによって
[現象界の]名称と形態 namarupa とをはっきりと展開しよう』と
6.3.4
[つづいて思った]
『奏して、それらのひとつひとつをして、それぞれ三重にしてやろう』と
かの神(=有)は
生命を与える(変化することのない)アートマンをもって…
[現象界の]名称と形態とをはっきりと展開した
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%9E%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%84
その当時のインドの人々にとって
(非想非非想処も超えて想受滅の)仏教を理解させるためには
その当時のインドの人々にとって、世間的な想いを一応認めて
その理解のうえで
その当時のインドの人々に仏教を理解させるというやり方がとられねばならなかった
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%82%89%E6%AA%80-281469
世界悉檀(人々の心に合わせて説く)、各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
有分心は「生命相続流」と翻訳できます
心の流れの相続を維持する主要な要因となるものです
有分心がある為に、一期の生命の中の心(の)流(れ)は、断絶する事がありません

その当時のインドの人に「我はない」といっても理解されないので
それゆえに
仮設としての
因と縁の双方の縁起に依存して
地水火風空識に依存して
いつでも変化している
生命相続流
心の流れ(心相続)
阿頼耶識、激流のごとく活動している。「暴流の如し」
https://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
作者無し
それゆえに
業報に依存して
此の陰(受想行識の相続流が)滅し已らば(その次に)
前世から → 現世へ、異陰相續す(輪廻肯定派)
0815性の儀式・幸福の科学、大川隆法垢版2017/04/02(日) 01:24:43.27ID:zEhIVwx/
最重要証人を出せない教団(教祖の強姦、確定)
http://tanemura1956.blogspot.jp/2013/11/blog-post_14.html

私は以前、大川隆法氏が不倫で傷つけた女性の個人相談を受けました。
最近、さらにその被害が広がっていることを確認しました。
http://tanemura1956.blogspot.jp/2012/07/blog-post_12.html

最初はおそるおそる手をだしていたのが
意外に簡単に女性が思いのままになることに気をよくした隆はだんだんと
行動が大胆になっていきました
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/41

過去世悪用の強姦
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/37
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/36
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/35
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/34

大川の日常生活に 触れる職員はほぼ全員が女性である
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/33

【恐怖!霊障の科学】
知人のお子さんは支部エルカンターレ像の首に緑色の蛇が巻き付いていることを霊視
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/30

エル・カンターレ像に祈る人に、地獄の霊や悪魔が取り憑いてきます。
http://6261.teacup.com/amamin/bbs/28
0816神も仏も名無しさん垢版2017/04/02(日) 09:58:34.34ID:TySAFmPd
>>813
>872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。
>  欲求がないときには、<わがもの(mama)>という我執も存在しない。
>  形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」

無色界に突入すれば良いのである
0817宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/02(日) 10:10:13.01ID:fgstxbBH
まず、これからです。
(投稿規制でなかなか思う通りの投稿ができません)

>>807
『この三つの詩句の初めの部分
「一切行(形成されたもの、無為法)無常」
「一切行(形成されたもの、無為法」苦」
「一切法(事物、有為法と無為法、離行作と行)無我」
はいわゆる「法決定」といわれるものです。
---中略---
無常、苦は行(有為法)に備わる特徴であり
無我のみが法(有為法、無為法)両方に備わる性質です。
基本的に我々が観察し得るのは有為法の世界であるため
---中略---
素朴な実践としての四聖諦や八正道においては 無常や無我というのは
それほど問題になりませんでした。
しかし、法(有為法、無為法)という領域における観察、つまり
ヴィパッサナーによる実践においてはこの「三相」という考え方が重要になります。
さら言えば、「無常」と「苦」は有為法(形成されたもの、縁起するもの)
のみに存在する特徴ですが、「無我」だけは有為法だけでなく無為法
(形成されたもの、縁起するもの、でないもの、つまり涅槃)においても
特徴として残る性質です。
これは「三相」の中でも特に「無我」が特別視される所以です。』
(仏教をめぐる言葉の問題E 無常・苦・無我について)
http://lllool.hatenablog.com/entry/2016/10/12/224622
0818宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/02(日) 10:12:00.02ID:fgstxbBH
つまり、これは南方上座部の教相解説でしょう。
これらのすべては部派による変色を受けたまま継承されたものであって、
本来のゴータマの教えではありません。
真実は、以下の水野氏による指摘のある通りなのであって、
自分たちで勝手に「一切」の中に無為法を含めたのは部派による所業です。

 『原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな
い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143)
 部派仏教は「何があるか」という一切法(有為だけでなく無為をもふくめた)を客観的に詳細に考察し、原始仏教の態度とは異
なったものになった。(p151)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

>基本的に我々が観察し得るのは有為法の世界であるため(>>807同)

だから、知覚できない領域であるアートマンについては無記なのであって、
ゴータマが、「アートマンは無い」などと語ったことはないということ。
無為において明確に(その存在を/存在としてではないが)肯定して説かれたのは「涅槃」だけです。
0819宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/02(日) 10:13:50.31ID:fgstxbBH
>>814
>その当時のインドの人に「我はない」といっても理解されないので

それは違う!

ゴータマは、「アートマンは無い」などと説かれたことはないし、
当然、そういう見解にあったわけでもない。
ゴータマが示したものとは、現象界の一切は無常であるから、
当時の一般庶民が信じていた死んだ家族の永遠性(永遠なることその叶わぬ願い) の迷信についての間違い、
つまり、単なる一転生のパーソナリティー(個性/人格)に過ぎない籠池泰典がそのまま死後も永遠なることはない。
死後の霊存在も単なる籠池泰典の霊にしか過ぎないのでいずれは消滅します。
では、単なる一転生のパーソナリティー(個性/人格)ではない転生毎における主体であるところの「魂」こそが
ウパニシャッドの説く永遠不変のアートマンであるとし、
究極的な瞑想行によってその自己の魂と意識を共有する境地にまで到達してるバラモン行者らの見解は正しいのか?
けれども、これとて「アートマンではない」(非我)というのが『梵網経』で説かれたゴータマの見解でした。
転生主体の魂(ジーヴァ)とて永遠不変のアートマンではないということ。

ただし、「それらはアートマンではない」とは指摘したが、
「アートマンは無い」とは決して言わなかった。
アートマンの有無についてはあくまでも「無記」なのです。
0820神も仏も名無しさん垢版2017/04/02(日) 10:31:31.57ID:IeP5uLTk
819.
アートマンの有無、か。
それは存在の問題である。
宗教は存在の問題ではない。
0821おじゃる!垢版2017/04/02(日) 12:51:07.09ID:JqOxZpdG
https://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
有為法の世界において
(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である、遍計所執性
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる
密集を看破するためには、色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
密集を看破した時、無我への領悟、了解が生まれる

 ☆ 変更版でつ↓
有為法の世界において
「変化しない我のがある」と掴もうとしている想いが
変化しながら生命相続流、心相続、心の働きが変化している
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

 ☆ 変更版でつ↓
「変化しない我のがある」と掴もうとしている想いを手放すために
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察するために
心の働きを馴らしていかなければなりません
http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して、そして
何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
いつでも光り輝いている智慧の世界から観察して
何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にして手放すこと
0822宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/03(月) 17:56:44.45ID:gORxW8rC
>>805
>夢における知は、夢の中で拝んでいた、神の美しいすがたを対象としている。
>目覚めたときの静かな心で同じ神の姿に凝念すれば、ヨーガ行者の心は安定に達する。
> (「ヨーガ・スートラ」、同上)

>このように、ヨーガ行者は夢の中と同じ体験を瞑想のなかに求めます。
>さらに、夢の中で自由に徘徊する自己、という考えをエスカレートさせて、
>ヨーガ行者は水上を歩き、蜘蛛の糸の上を歩き、光線の上を歩き、さらに虚空を自由に行くことができる。(同上)

>心が身体を離れて外的に働くときは、大離身といわれるのである。
>この大離身によって、ヨーガ行者は他人の身体に入る。(同上)

それから肝心のコレ!!
一体、『ヨーガ・スートラ』の第何章何節のことなの?
テキトウなことしないで明記してもらいたいね!

叩き潰すから。。。
0823神も仏も名無しさん垢版2017/04/03(月) 22:13:29.85ID:NoS0vSqx
えっとですね
要するに世界とは別んとこに、なんか、あるかないか、それが自己の本体なんか、それとも、超越的存在なんか、そんなもんないんか
なんか?
世界があって、それに名前つけて分離させてるけど、そんなんない
それを観察してると世界から抜けるってことでしょ
抜けたとこは、なんともいいようがないやろw
アートマンと名付けてみても、涅槃とかゆってみても、確認できるなんかがあるわけじゃないんやからww
とゆー、妄想
0824神も仏も名無しさん垢版2017/04/03(月) 22:32:01.16ID:DJ35X6BU
>>822
>一体、『ヨーガ・スートラ』の第何章何節のことなの?

リンク先にも明記はされてませんw
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul02.html


>>823
>アートマンと名付けてみても、涅槃とかゆってみても、確認できるなんかがあるわけじゃないんやからww

比丘たちよ、しかしながら、
まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が存在することから、
それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知される」と
(ウダーヤ)
0825神も仏も名無しさん垢版2017/04/04(火) 06:58:24.00ID:JJjbj2KV
>>824
まあ覚知はされるわな
しかし、それが何なのか、となったときに、自己の本体であるアートマンだとか、涅槃だとかゆーことに意味なんかないやろ?wwww
世界が円鏡に映されてあるが、そこから出離したわけだ。
そこが在るのは、意識された智慧の光によって見出されたわけだが、それが一体全体なんなのかは、わからんはずwwww
苦しみが、そこにないのは、自己である世界であると分離させていた双方が、ただ、自動的に巻き起こっているシステムとなって、それが、まあ映っていると見え、そこから、離れるからなのだよ。
非常にオカルトぽいがw
しかし、そこには生じたものがないが、ゆえに、認識できるものもない。
隠れたものなのだ。
そして、そこに、在るとき、というのは、頭の理解が届かないから、説明は無意味なんだ。
アートマンだとか涅槃だとか、名前は、どっちでもいいのだww
それを区分しているのは、生じたものであって、その、在るは、それ以前だからなのだよ
0826神も仏も名無しさん垢版2017/04/04(火) 07:15:49.23ID:JJjbj2KV
そこに、どないにして、到達するか、が重要なところじゃないか。
それに対する様々なアプローチが宗教とか、錬金術とか、芸術となっているわけだが、まあ、いまんとこ、あんまりうまくいってないわけだwwwww
迷ってる人の方が多いわけだからね。
だから、まあ、その在るが、わかるのなら、そこに気づくのは、何かと、なるね。
この意識や意志というものが、苦しみから逃れようとするが、その、活動自体が、つまり、その、私の意志じたいが、ないのに、あると、そー認識しとることが、問題なのだよ。
だから無我とは、そのような行為者としての、存在はなく、すべては縁によってあると。
つまり、これは、到達した時点の話をしているので、ちんぷんかんぷんになるよね。
そして、それを、他ならぬ、幻想の苦の根本である無明、つまり、私が理解しようとする。
それだと、アプローチが、違うのだよ。
その、我、つまり、逃れようとする衝動、快楽を求める自動的働き、は、問題ないが、それは、苦しみのもとであり、それは、実は、世界の内で巻き起こっていると気付かせるのだ。
これの方法は、身体と心を見ることなのだ。
この見る、もしくは、感じるのが、天空の光、つまり純粋なる意識に、つながり、それが、ないものをないと、つまり、私ではないと気付かせるのだよ。
0827神も仏も名無しさん垢版2017/04/04(火) 07:38:08.46ID:7JIPP+Tq
覚者キタコレ!

でも
>この意識や意志というものが、苦しみから逃れようとするが、その、活動自体が、つまり、その、私の意志じたいが、ないのに、あると、そー認識しとることが、問題なのだよ。

これ以下の説明がイマイチ理解できまへんわ┐(´〜`)┌
0828神も仏も名無しさん垢版2017/04/04(火) 08:17:48.46ID:y5sM853R
久しぶりに相手されたー喜
苦しみは、この、意志、つまり、私が快楽を得よう、苦を滅すと、活動してあると、ゆー、認識によって、現実になっている
この、私というのは、苦の根本であると、ゆーのは、つまり、私、自体が苦なのだ
だから、すべては、出来事とは無関係に、苦でしかない
しかし、この衝動は、わたしというもの、は、この形成された、世界に、ないと、知れば、単なる苦なのだ
その苦しみは、自己、そのものの、リアルな存在感なのだよ
そして、世界から、離れたとき、それは、この世界のリアリティの消失であるが、その苦は、問題がなくなるのだ
その方法が、自分自身を、見ること、つまり、自己が常に、目覚めていること、この、諸活動が、身心の働きが、観察されていることで、この観察が、自動的に、なすのだ。
わたしとは無関係に!
と、調子にのってみたww
0829宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/04(火) 13:16:32.56ID:ObD1CUFz
>>811 :
>仏教というのはヒンドゥーつまりインド的なものの中では基本的に異端なのです。
>仏教はヴェーダ聖典の権威を認めない3つの異端のひとつ、という扱いを受けています。
>事実、現在に至るもジャイナ教はインドで命脈を保っているのに対し、仏教は早くに滅んでしまいましたね。

以前にも述べたように、
インド仏教が滅んだのは(今日、極少数で細々とた信仰状態)、
「アートマンは無い」などという間違った無我論を主張し続けたことにある。
よく言われるヒンドゥー化して吸収されたというのは、こうして信奉者を失っていった仏教が採った復興手段の成れの果てのこと。
彼らは、ゴータマが説きもしない間違った無我論をブッダの真実の教説だと頑なに信じて固辞し続け、
その間違いを指摘する声にも決して耳を傾けようとはしなかった。
こうして彼らは、遂にインドのバラモンたちにも、そして、一般大衆からも「好きにさせておけ!(勝手にしろ)」と見捨てられたのです。

確かに、
仏教(継承した教団)では「(アートマンを説く)ヴェーダ聖典の権威を認めない」けれども、
しかし、実際にゴータマ・ブッダ自らがヴェーダ聖典を否定したという事実はまったく確認されない。
原始経典の中でも最も原初の形式を保持するものと定説化している『スッタニパータ』をみるならば、
ゴータマはヴェーダ聖典の否定どころか、逆に“ヴェーダの達人”として称賛されていた事実が浮き彫りとなるのです。
0830宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/04(火) 13:18:01.54ID:ObD1CUFz
ゴータマは、現代のサドゥーらに継承されるような壮絶な苦行も含め、当時のインドの宗教であり、
最高の権威とされるヴェーダ聖典の教えのすべてを実践し、そして、そのすべてを完全に修得したのです。
二人の仙人に仕えたという有名なエピソードはその一例に過ぎない。
ゴータマ自らが、解脱した完成者のことを“ヴェーダの達人”と呼んでいたのであり、
そして、人々からもゴータマは“ヴェーダの達人”として讃えられていたのです。
また中には、ゴータマを“梵(Brahma)”と呼ぶ者すらもいたが、ゴータマはそれをそのまま受けて了承している。
実際、これらのことが『スッタニパータ』から確認できる事実のすべてなのです。
もしも、ゴータマが「ヴェーダ聖典の教えは間違っています。私はそのことを自ら確認したのです。」と、
説いていたというのであれば、ゴータマの噂は当然、ヴェーダを否定した者として広まった筈です。
しかし、事実はその正反対なのでした。
後代の経典になって、いわゆる我々のよく知るような仏教的な印象のものへと編纂され、内容も大きく改変されていった。
こうして、バラモン教的な印象の記述は次第に省かれていき、バラモン的な呪力的部分も消されていった。
0831宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/04(火) 13:19:42.02ID:ObD1CUFz
 『バラモンがいった、「わたくしはヴェーダの達人であるこのような立派な方にお目にかかったのですから、実にその方に対する
(わたくしの)献供はきっと効果があるでしょう。(以前には)あなたのような方にお目にかからなかったので、他の人が献供の菓
子(のおさがり)を食べていたのです。」』(Sn.459)
 『私(マーガ)はいま梵(Brahma)に遭うことができた。あなたこそ本当に梵(Brahma)と等しい方である。』(Sn.508)
 『あなたのようなヴェーダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。梵天こそ証人としてみそなわせ。
先生!ねがわくはわたくしから受けてください。先生!ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がってください。』(Sn.479)
 『諸々の“煩悩の汚れ”の消滅のゆえに“無病(ニルヴァーナ)”の起こることを正しく知って省察して“食料を受容”し
“理法”に住するヴェーダの達人(賢者)はもはや“迷いの生存者”のうちに数えられることはない。』(Sn.749)
 『ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。
かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。』
(Sn.846)
 『メッタグーさんがたずねた、「先生!あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。あなたはヴェーダの達人、
心を修養された方だとわたくしは考えます。世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。』
(Sn.1049)
 『何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、--かれは確かにこの煩悩
の激流をわたった。かれは彼岸(ひがん)に達して、心の荒(すさ)びなく、疑惑もない。』(Sn.1059)
 『またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、
望むことがない。「かれは生と老衰とを乗り超えた」とわたくしは説く。』(Sn.1060)
0832宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/04(火) 13:21:38.68ID:ObD1CUFz
ゴータマが否定したものはヴェーダ聖典の教えそのものではなく、誤解を起こし間違った認識にあった当時のバラモン行者たちのことです。
本物の完成者が残した太古の叡智であるヴェーダを真に正しく理解し、それを証明した者など当時のインドにはすでに一人もいなかった。
それを自らが体得して見せたのが唯一、ゴータマだったということ。ただゴータマがバラモン教をそのまま認めることをしなかったのは、
すでに教えは廃れて迷信が蔓延り、生贄などの悍ましい儀式儀礼が盛んだったからです。

この構図と図式というのは、キリスト教のイエスの場合とほぼ共通するものでもある。

【ゴータマ】
 バラモン教社会の中で生まれ育ち、自らヴェーダの奥義に達して解脱し、当時のバラモンたちの間違いを指摘した。
こうして真の正しいヴェーダの達人のあるべき姿を示した。それが「仏教」と呼ばれるようになった。
【イエス】
 旧約聖書のユダヤ教社会の中で生まれ育ち、クムラン集団エッセネ派ユダヤ教徒として、
パリサイ派やサドカイ派といった当時の伝統的なユダヤ教学派の間違いを指摘し、真の正しいユダヤ教徒のあるべき姿を示した。
それが新約のキリスト教と呼ばれるようになった。
0833宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/04(火) 13:23:04.92ID:ObD1CUFz
それから、
「アートマンは無い」という意味での無我論を信奉しているのが二つのタイプの人間です。
一つは、伝統仏教の信奉者でこれは南方の上座部、北方の大乗の区別なく信じられ続けている。
そして、もう一つの人々が唯物論者たちです。彼らは、アートマンは無い。
アートマンが無ければ、当然、「魂」も「霊」も無い
(元々、彼らにはその違いも理解できないし、所詮、彼らにとっては同じようなものでしかない)といい、
仏典における神通についての記述も、それらは単なる後代の神格化に過ぎないもの見なしている。

けれども、
ゴータマはアートマンについての無記の態度を採った理由説明の中で、
『「アートマンは無い」と答えれば断滅論者と同じことになる』(SN.44 第10 経)から、
「無い」とはいわないのだとハッキリと答えている。
「断滅論」というのは、人間の死後は肉体が分解して諸元素に還元されるだけで、それ以外に残るものは何もないとする見解のことであり、
当時もこれを説く有名な思想家(六師外道)たちがいたのです。
つまり、ゴータマは唯物論を認められることは絶対になかったのです。

この伝統仏教の無我の教えの間違いを理解し、
「非我」を説く無記であると知る者は、仏教学の健全な研究者たちと私のように伝統仏教に捕らわれていないごく少数派の学徒のみです。
ゴータマは、「信仰を捨て去れ(間違った古き信仰や概念)」といったのだが、それができないのが現仏教徒たちです。
それまで信じてきたものを手放すのには強い勇気がいる。覚悟がいる・・・。
0834神も仏も名無しさん垢版2017/04/05(水) 02:43:40.43ID:e4R/Wdiq
わたしが確実にいて、それに、向かって世界というものがあるというのが、誤りなのだよ
無我の境地とは、わたしが、いないことなのだw
非我というと、どこかに、わたしがいると、可能性を残したいのだろう
それは、苦の滅には、達さない
霊にしても魂にしてもアートマンも、あるのかもしれない
しかし、この世界は、絵本みたいなものなのだ
そこには、物語もあり、登場人物もいる、舞台もある、そして意識もあれば、肉体もあるw
もちろん、ページを見て、感じる、わたしがあるからなのだよ
そして、その、物語の中で、苦しんだり、喜んだりするのだが、それは紙の上に描かれた、本なのだよ
そして、それを読んでいる、この、わたしが、本体であるとゆーのは、スライドした、だけで、まだ、そこも絵本の中なのだwwww
そういった輪廻の主体である、わたし、が、じつは、ないのだwwww
あるのは、それらの活動を、つまり、ジョークを演じている、何らかの夢の母体
と、想像は、ふくらむw
0835神も仏も名無しさん垢版2017/04/05(水) 15:57:31.91ID:UkxoDT07
>>419
>>399
>>そのまじないに視座を置いた仏教解釈は否定されるね。
>>釈尊はまじない信仰に否定的だったから。
>釈尊が否定したのなら、その情報自体が間違っている。
>仏陀自身途中で殺されてるし。
0836神も仏も名無しさん垢版2017/04/05(水) 17:04:01.97ID:4R4WBSBW
ヤージュニャヴァルキヤ

人にとってすべてがアートマンそのものとなったとき、
彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。
彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。
彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。
彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。

この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか。

この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
捉えることができない。捉えられないから。
壊れることがない。壊されないから。
こだわりがない。こだわらないから。
つながれず、動揺せず、損なわれない。
ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
ー中略ー
彼らが語ったことは、<業>についてであった。
彼らが称えたことは<業>であった。
実によい行いによって人はよくなり、悪い行いによって人は悪くなるのである。

こうして、ジャーラットカーラヴァ・アールタバーガは沈黙してしまった。
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/yajnav.htm

アートマンというのは認識の主体なので認識することができないというのが古代からのバラモンの教説。
釈迦もそれを分かっていたのでアートマンについては無記を貫いた。
そして五蘊というのは例えば観行瞑想で無常・苦・無我と観察できる認識の客体であるのでアートマンではないとした。
我がものではなく、我ではなく、我がアートマンではない五蘊への執着を離れよと説いたのである。
0837神も仏も名無しさん垢版2017/04/05(水) 20:45:03.08ID:3G/vCGqH
416 名前:@@@ :2017/04/05(水) 15:07:46.34 ID:qLYYqHY9
>>403
>改竄されているなら、どこで誰がどうやって改竄したか?
>資料を出して、証明しなさい。

仏像の髪型がまず一番証拠。
仏陀の髪型がパンチパーマな件。
仏陀が旅に出る前と後で髪型が違う。
パンチ・パーマになっている。
仏陀は旅の途中で殺され、黒人と入れ替えられている。
僧は剃髪しなければいけなかったのに、後年の仏陀をそれを拒み、
生活も変わっている。
初期の仏陀は、慎ましい食生活だった。
が、悟った後の仏陀は、豚肉食べては女に手を出し昼寝していた。
このへんは、資料に詳しい人は知っているだろう。
0838神も仏も名無しさん垢版2017/04/05(水) 21:52:08.40ID:e4R/Wdiq
>>837
なぜなら、悟ったからだw
0839パーピマン垢版2017/04/05(水) 22:23:40.29ID:6zZF8KVn
>>837

なんか、おかしなことが書いてあるので、該当スレ(鬼和尚スレ)
みてみたが・・・・・

@@@ は、どこにでもいるキチ外w
相手にする価値なしw    終了w
0840宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/06(木) 09:31:56.01ID:/aEtgg3M
>>834
あなたが、
アートマンを信じるかどうかはどうでもいいこと。
好きにされたらそれでいいのです。
ここで論じているのは、あくまでも仏典から読み解くゴータマ当人の教説の内容です。

>しかし、この世界は、絵本みたいなものなのだ--中略----
>と、想像は、ふくらむw

〜それをヒンドゥーでは「マーヤー」(Māyā/幻影)といっています。
その理解においては輪廻すらも無いのです。
このヒンドゥーのマーヤーは仏教の縁起/空に相当するものであり、
つまり、私の理解では構図的には以下のようになる。

【仏教】
無明に落ちている凡夫 仏教の目指す究極の境地
 諸行無常/縁起/空 ⇔ ニルヴァーナ(涅槃)
【ヒンドゥー】
無明/マーヤー    ⇔ アートマン(梵我一如)

要するに、
ニルヴァーナとアートマンは結果としては同義。
仏教の涅槃を知覚しているのがアートマンであり、
アートマンの実現とは、すなわちニルヴァーナ境に到達したことを意味するもの。
0841宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/06(木) 09:35:35.40ID:/aEtgg3M
分かる者は、
仏典に「涅槃はアートマン(梵我一如)と同じことですよ」などとは書かれてなくても、
また、ヒンドゥー聖典にいちいち、「アートマン(梵我一如)の実現は仏教の究極境地と同じですよ」
などと書かれてなくても、“それ”として理解する。
分からない者は無知か洗脳が激しいかのいずれかです。
そして、信仰による迷信を打破するのに学問は有効な手段です。

 『このように解釈することが許されるとすれば、原始仏教にも涅槃や如来はアートマンとする考え方があったことが判る。
---中略--- もしそうなら、仏教のアートマンは実はウパニシャッドが説くアートマンと同じようなものを指していたと解釈
することができるかもしれない。ウパニシャッドでもわれわれ衆生がアートマンと合一していないから輪廻を繰り返すとする
のであって、構造的には仏教と共通しているということができるからである。』
(森 章司著『死後・輪廻はあるか--「無記」「十二縁起」「無我」の再考--』)

 『この点は、仏教以前の正統バラモン教が、ウパニシャッドにおいて、梵我一如を正しく知り、それを体験することに
よって、理想が達成されるとしていたのに似ている。ウパニシャッドでは梵我一如の境を涅槃の語によって呼んではいな
いけれども、この境地は「非ず、非ず」(neti neti)と云われているように、筆舌に尽くすことの出来ない大歓喜の自由境
であるとせられているから、実際には仏教の涅槃が意味しているものと、それ程違ったものではないであろう。(p126-127)』
(水野弘元著『原始仏教』02年第16刷/平楽寺書店)

 『私は、ブッダの涅槃の境地も、バラモンの哲人たちの梵我一如の境地も全く同じものなのだ、と確信しております。
インドに於いては、仏教も外道もない、真理は一つ、真実に実在する(と彼らが確信している)世界は一つなのです。
 この点ではヴェーダーンタとかサーンキャとか、インド哲学の主要な体系も、すべて同じことなのです。彼らは皆その同
一の有を、ただしそれぞれの視位から、それぞれの制約に於いて見ているのです。ブッダも同じなのです。』
(津田真一著「密教とブッダの根本的立場」『大法輪』88年9-10月号)
0842宝珠@神智学徒 ◆9XuF3XEACk 垢版2017/04/06(木) 11:35:16.43ID:/aEtgg3M
〜絶賛!!!

なんと、
この私が大勢から罵声を浴びせられながらも、
いつも主張していることと完全に同一の内容を投稿している人がいました。
これは、なかなか見られるものではない...。
いったい、誰???

どうやら、この私が続けてきた投稿は無駄ではなかったようです。---随喜

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>116 : 神も仏も名無しさん2017/04/06(木) 01:48:31.38 ID:xZeu7Buz
>ダンマパダ277 、
> 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
>これこそ人が清らかになる道である。
>
> 有名な諸行無常を仏陀が説いた句ではあるが、
> 涅槃やアートマンは形成されたものではない(行=サンカーラではない)ので無常の対象とはならない。
>
>そして一切の中にも入らない。
> 一切とは仏陀曰く
>http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html
>と六根六境の十二処であるが、アートマンは最初から十二処で認識できるものではないという設定だからである。
>
>つまり、アートマンは一切にも入らないし形成されたものでもない、なので無常とはみなされない。


>118 : 神も仏も名無しさん2017/04/06(木) 01:57:05.76 ID:xZeu7Buz
>ダンマパダ288
>sabbe savkhara dukkha ti yada pabbaya passati
>「一切の行(形成されたもの)は苦しみである(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
>これこそ人が清らかになる道である。」
>
>これも同じ。
> 涅槃やアートマンは形成されたものではないので苦ではない。
>また一切にも入らない。
>アートマンについては一切外なのは>>116に書いた通りだが、涅槃についてももしこれを一切にいれると涅槃まで苦となる。
> 実際に仏陀が説いたのは、涅槃は苦ではなく安らぎである。
>http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487443014/116-118
0843神も仏も名無しさん垢版2017/04/06(木) 12:01:26.37ID:d7xMQxLf
聖書ってヤハウェやエホバとかいう池沼の観察日記なんだよな
黒歴史本残っちゃってお疲れ様です^_^
0844神も仏も名無しさん垢版2017/04/06(木) 14:00:21.49ID:xZeu7Buz
結局は

>>813
>756 見よ、神々並びに世人は、非我なるもの(Anattani)を我と思いなし(attamāniṃ)、
>  <名称と形態>(名色)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
>757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。
>  何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
>758 安らぎ(涅槃nibbānaṃ,)は虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。
>  かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

虚妄ならざるものである涅槃においては、
非我なるものを我と思いなし、名称と形態に執着し、『「これこそ真実である」という(過ぎ去るが故に)虚妄なる考え』を抱く、
こういう転倒がなく、真理を悟っているということですかね。

まず第一に虚妄ならざる立ち位置からじゃないと「過ぎ去るものは虚妄なるものである」などとは言えないわけですし。
0845神も仏も名無しさん垢版2017/04/06(木) 15:12:43.81ID:5wv/F40s
>>844
天才ですな
0846神も仏も名無しさん垢版2017/04/06(木) 18:56:52.97ID:4V5ggri/
密教は、ビンドゥー教の教義を梵は仏・我は如来蔵としたり、また神様大好きなインド人に迎合するかのように
調伏という形ではあるが外教の神様を沢山取り入れたりしたりしてビンドゥーに歩み寄ったのに、
結局はインドで廃れてしまったのは、崇める対象を真理である法身仏の大日如来中心にしてしまったことにもあると思う。
インド人は神様と並んで聖者を信仰するから、灌頂を受けた聖者を崇めるような宗教にしてればよかった。

ヒマラヤ密教、チベット密教はその反省からか聖者を何人も輩出しているし、
日本でも空海は聖者であり弘法大師を拝む形でも高野山に参拝に訪れる人は多い。
0847パーピマン垢版2017/04/07(金) 00:28:54.78ID:NaEeee2Z
たまには、真面目に書いておくかww

「涅槃は、一切皆苦の一切に含まれるか?」・・・・・まずこれは、問い自体が
成立しないんだがww

この「涅槃」と言う語彙は、仏教要語の中でも、最も誤解を生みやすい語のひとつだわなw
というのも、この語彙は実に様々な意味をもち、その射程範囲が異なるからだw

仏教以前にも、この語彙は使用されていて(バラモン教などでねw)
バラモン教では「不死」と言われていたが、バラモン教自体、アートマンを是認するので
しばしば、⇒「最高点まで到達したスーパー存在」の意味合いで使用されるw
(つまり、輪廻を超越した状態・・・もしくは、そのような存在w)
(これがまさに、宝珠がいいたいものww)

もしくは、そのようなスーパー存在が住する場所 とかの意味合いかな?w

仏教でも、部派時代には、有余涅槃、無余涅槃(般涅槃)・・とかでてくるけど、
そのような分け方自体が外教(ジャイナ教)からの混入らしいw
(涅槃が「苦を滅した寂静なる心的状態」を指示する語彙であるならば、身体の有無など
本来、問題になるはずもないんだがねw このあたりは、輪廻業報思想からくる死後存続が
関わってきて、生前は身体の生理作用からくる欲求・・・・食欲や睡眠欲があるからまだ
完全ではなく、死後、「完全なる存在」へと昇華する とwww
くっだらねww 如来の死後は無記でしょうにww)
0848パーピマン垢版2017/04/07(金) 00:29:46.45ID:NaEeee2Z
では、原始仏教における涅槃とはどういうものなのか?
これは原義から明らかなように、「煩悩を吹き消したもの」「執着を滅したもの」
即ち、「寂静なる『心的状況』を指示する語彙」 なんだよなw

つまり、凡夫にとっては(無明によって)  「一切が」苦となる。
(・・・・この一切が苦である という認識自体が如来の視座で、現実に凡夫は
これは楽、これは苦と分別し、苦を厭い、楽を求めることを繰り返すw
「一切皆苦」をとことん自己に落とし込めて了解できれば、それはもう如来の視座
に近いと言えるだろうがw)

要は、「凡夫にとっては」⇒一切が苦・・・即ち、全ての存在、全ての現象、作用が苦
なわけだw (凡夫自身は、そうは感じていなくて「これは楽、あれは苦」とやってるがねw
如来の視座からすれば、愛だの、楽しいことだの、一般常識からすれば「望ましいこと」も
全て『苦』であると分かってるわけw)

では、如来から見ればこの世の一切、即ち「全ての存在、現象、作用」はどのように映るか?
それは、もう「苦」でも何でもなくて、善悪、苦楽の分別なしで、ただ、「ありのまま」
ただ、「そのようなもの」として受容されるだけ。
そこに苦は存在しない。なぜならば、如来は全ての煩悩の火を吹き消し、我執を滅し、
寂静なる境地に達しているので「苦」など生じようはずもないw

そのような如来の「心的状態」・・即ち「境地」を『涅槃』と言う語彙で表したのであって
別に超越的な存在とか、そのようなスーパーなんちゃらが住するところを涅槃と呼んだのでは
ないわけw

だからこそ、生きた生身の人間が、そのような境地に達すれば、「生前に・・・即ち生きた状態で」
『涅槃に住する』・・・・寂静なる心的状態でいられるわけw
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