外道の独り言 6 [無断転載禁止]©2ch.net
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まず最初に断わっておきますが、「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」
というスレではありません。 このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に
関して、私が私見、疑問点等を提示いたします。まさに、「外道がぶつぶつと
独り言を書き散らしているスレ」だと思ってくれて構いません。
勿論、それに対して異論、反論、疑義等は排除するものではありませんが、
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います。
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく、
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいですw) 「真摯なる碩学」が、私の
書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です。
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動
してください。
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑
なのです。
前スレ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1466328423/
ログ保管庫
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html それらの階層、そして最初からただそこにあった自己は、空であるってのが釈迦でしょうw
諸法無我ですからね
しかし、ここでその、諸法は、この現世のものに限定されるというのが、主張の肝ですね
しかし対象化されるものはすべて空であると、見ろと言ってます
見ろということは、ああ、感ぜよかw
それは対象化されないところに涅槃があるということなのですよ
その涅槃とアートマンは同一です
しかし、それを言うと問題があるわけです
そこが認識に昇るからです
だから釈迦がバラモンの教えの本当のところを説いたというのは本当ですが、アートマンがあるというのは、今でも、永遠に、不味いのです
消失したところなわけですからね
つまり、現世にしろ、まあ、あの世の生活が仮にあったにせよ、その自己の存在そのものが苦になるというパーピマンという悪魔の指摘は鋭いわけですよ
しかし宝珠さんは、その消失したところの実在性を指摘していて、それも誤りではないので、いつまでたっても、堂々めぐり
とか、勝手に妄想するワシwwwww >>424 wwwwwww
>いやいや、まったく逆でしょう!!
>インド哲学大いに結構。古代インド思想を知らずして、正しく仏教を知ることができよう筈がないのです。
> 当時の古代インドの状況と宗教思想が前提となって、仏教というのは誕生しているからです。
だからあw
そのインド哲学、・・・・当時のバラモンの考えの否定から誕生したのが仏教なのw
それをバラモン的思考そのままで、仏教を解釈するから、
「仏教はアートマンを支持していた」なんて寝ぼけた説に行き着くのw 頭の中で分けて見てるだけですよ。
其が元で様々な齟齬をきたしてるだけです。 >ゴータマは、「(聖典成立以前の)ウパニシャッドの教えにみるアートマンと
>私(ゴータマ)の説くアートマンとは異なるものだ。ウパニシャッドの説くアートマンは実在し無い。
>だから、それらとは混同しないように」などとは言っていない。
wwwwwwwwww
言うわけないだろw そもそも釈迦はアートマンなどあるとは思ってねえんだからw
>ゴータマが説いたものとは、
>「本来の清浄なる自己(つまり真実の自己)を求めよ!」という意味での“自己の探究”でした。
>それが、確かにウパニシャッドの意味合いとは異なるゴータマの語ったアートマンというものです。
>ただし、ウパニシャッドのアートマンには、恒常にして永久不滅の超越的な形而上存在としての意味に加えて、
>そのゴータマの説く真実にして本来の清浄なる自己(本性)という意味をも含んでいるということ。
>それがウパニシャッドのアートマンです。
wwwwwwwwwwwwwww
あのなあ、以下に出てくる「自己」もそうだが・・・・
この「清浄なる自己」ってのは、(今現在、この世界にあると誤謬している)
一般的会話の中に言及する自己のことww
バカが最もよくやることだがw
釈迦もね、相手と会話するときは、きちんとその対話相手に基体を認めてるのw つまり、
Aさんという人が前提として、Aさんに話しかけてるのw
Bさんに話してるのではなく、Aさんに話してるの。 そこでは、きちんと「個別属性」を
有するそれぞれの「基体」を前提としてるわけw
そうでないと話ができないでしょ?
「無我だからAさんも、Bさんもない」・・・なんて言い出したら話もできんわw
そもそも、「仏道を歩む」という言い回し自体が、「仏道を歩む基体」が存在することが
前提なのw そこで、「我などない。よって仏道を歩むものなどない。」と言ってしまえば、
何も始まらないww
水野も言ってただろ? 「倫理主体としての自己は、仏教は認めていた」 とw
当たり前だろwww
それがなけりゃ、諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教 もないわなww
だから、釈迦も当然、清浄なる自己 を説くわけw
バカは、それを短絡的に「釈迦は自己即ち真我を認めていたあああ」 なんてやりだすんだよww んでな、w
行き着くとこまで行ってしまえば、その「自己」・・・・方便上あることにしていた
自己も、単なる五蘊の集積で、無明により勝手にあると思い込んでいただけ
のもので、ホントは「我」などないんですよw
それがわかりますよw ってのが仏教だよw
バラモン⇒真我を見出す
仏教⇒我などないと了解する
・・・・・全く別もんwww
覚者気取りを頭から否定する連中も同じ穴のムジナw
むしろ覚者気取りより低能だwww
>>442
いや、それは、宝珠さんとそんなに違ってないですよ
ただ、その我がない向こうに真我をおいてるんですよ
それは間違ってない
でも、それが、ある!
というのなら間違いなんです
相手を批判する時は、相手の土俵に上がって、
相手の矛盾を指摘しないと無意味だw
最近、これがわからないバカが増えて来たw
>系譜?という言い方はどうなのか?は、分からないけれども、
>中村 元氏を尊敬し、その影響を受けない仏教学者がどこにいるというのか?
wwwwwwwwww俺がここで「系譜」といったのは、
中村の説を無批判に受け入れ、バラモン教の視点で「仏教はアートマンを説いてた」
主張するアホ学者たちのことww
お前が引用した 森 章司 もその一人w
(その論文も読んでるが、今まで読んだ論文の中で最もくだらないものの
一つだったなww)
あとひどいのは、 宮元啓一 とかかな?www
覚者気取りと
同じ穴のムジナたちのくだらんスレwww
>>447 wwwwwwwwww
そう、くだらんスレなんだw
だから、もう書き込まないでねw
新しくスレ立てするの大変なんだよ、最近はw >>449
はいはい、そうだねw
わかったから消えてねww >>439
>だからあw
>そのインド哲学、・・・・当時のバラモンの考えの否定から誕生したのが仏教なのw
>それをバラモン的思考そのままで、仏教を解釈するから、
>「仏教はアートマンを支持していた」なんて寝ぼけた説に行き着くのw
ゴータマがバラモン教に反発的だった大きな理由というのは、
バラモン伝統における差別支配のカースト制度と、そして実は、
もう一つの大きなウエイトとしての、バラモン司祭によって執り行われるヴェーダ祭祀の“生贄”なのです。
ただし、これをあまり露骨に批判展開を行うと反政の危険人物として捕らわれの身となるので、
具体的な内容発言を控えているのです。
これらも含めて、ゴータマはヴェーダの宗教をそのまま良しとはしなかったのです。
参考として、ヴェーダ聖典に説く悍ましく恐ろしい生贄についての論文から一部を紹介します。
尚、「SB」=白ヤジュルヴェーダSatapatha Brahmarpaの略です。
聖典原語の引用部分はコピーが旨くいかなかったので省きます。 『SBには動物を殺し捧げる順番の説明があり、それによれば一番最初に殺される動物は人間である。
先ず人を捧げる。人は諸動物のうちで第一のものなので。次に馬を。馬は人の後に続くので。次に牛を。牛は馬に続くので。
次に羊を。羊は牛に続くので。次にヤギを。ヤギは羊に続くので。そのようにそれらを順序通り優れたもの順に捧げる。
また、同じ白ヤジュルヴェーダに属すKSS の以下のような記述は注目すべきである。
(14) 囲いの中で人を同意させること(殺し)が(行われる) 8。(17)人はヴァイシャかクシャトリヤ。(18)首に草の葉
を当てて頭部を取り除く。』
(ソーマ祭の動物供犠における殺生行為と解釈について)
因みに、今でも誤解されている“北枕は不吉”の謂れともなった、
本来のゴータマ涅槃入り(肉体死)の際の“頭を北向きに”という自らの指示というのは、
当時のバラモン祭祀における生贄動物というのは頭が南に向けてなされていたことから、
この置き方とは逆方位にしたかったからである、と私は見なしています。
バラモン教は間違い ---だから仏教は現れた。
バラモン/アートマン(我)を説く-「有我」 ---仏教/アートマンなどはない-「無我」
バラモン/転生(生まれ変わり)を説く ---無我(輪廻主体が無い)だから転生しない、できない。
輪廻転生はバラモン思想なのであり、仏教にも混入してしまった。
或いは、これを方便利用しただけ。
〜などといったパーピマンのような、
昔から巷に広められた仏教理解などといものは全部間違ったものです。
これは、また後でやります。 http://www.onedhamma.com/?p=5136
15/05/24 仏教思想のゼロポイント
魚川祐司氏 山下良道氏 藤田一照氏
http://www.onedhamma.com/?p=5771
16/12/11 インドで開かれた 新しい地平
山下良道氏
珍しく、テーラワーダ2.0(パオ・セヤドー・メソッド)の説明をしているので、今回のpodcast法話も良いでつ
仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
我所・我とかは、地水火風空識に依存している、仮の現れなので、それゆえに
1026
無明が頭であると知れ
明智(智慧)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
1119
(智慧を以て)つねによく気をつけ
自我に固執する見解をうち破って
世界すべて一切を「(無明に依存している?)空性なり!」と観察せよ
(無明に依存している、空性から解脱して → あおぞらの世界に逝ってみよう?)
インド人、参加者からの質問
「(たぶん英語で?)あおぞらの世界ってのは、阿頼耶識のことでつか?」
山下良道氏からの答え
「(たぶん英語で?)あおぞらの世界ってのは、無為法の世界なので、阿頼耶識ではないでつ!」 nāgita #antifa @naagita2010-07-04 03:02:36
.@stogyo パパンチャを弄んでる奴らはみんな病気!というスタンスと思います。
もうちょっと引いて話す場合は、
「大乗仏教は元々の仏教を素材に俗人がごちゃごちゃ考えて作った宗教なので、欠陥だらけだけど、他よりは遥かにましな作品ではある」
というようなことは仰っていたような。
@stogyo 2010-07-04 03:09:07
@naagita なるほど.言い方はキツイですが,でもそういうスタンスって基本的にはいいものだと私は思います :-)
でもスマナサーラさんの『般若心経』の理解はちょっとまずいところがあった気がします(うろ覚えです).
たぶん註釈とか読んでらっしゃらないのだろうなという気がしました.
nāgita #antifa @naagita 2010-07-04 03:16:21
@stogyo 長老の『般若心経』解釈の「ちょっとまずいところ」、もし思い出したらお手すきの時に教えてください。
長老にもお伝えしておきます。
般若心経・空・無我
http://togetter.com/li/33555 >>455
>仮設としての
>無明の暗闇に覆われた世界の中において
>我所・我とかは、地水火風空識に依存している、仮の現れなので、それゆえに
確かに、「我所」はその通りです。
しかしながら、この「我」がウパニシャッドの究極のアートマンだというならば間違いです。
インド的には、すべての「自己」がアートマン/アッタン呼ばわりなので宜しくない。
これが、「自我」「エゴ」(egoisticもしくはegoism的意味合い)としての「我」(アートマン)ならば問題ありませんが、
パーリ聖典といえども、所詮は部派所蔵のものであり、幾分着色されていて完全なものじゃないです。
現存する南方仏教(テーラワーダ)も部派の生き残りに過ぎない。
究極のアートマンは仮設ではなく、五大/六大にも五蘊にも依存していない。
>無為法の世界なので、阿頼耶識ではない
アートマンは、パーリ聖典においては説かれなかったが、
意味的にはニルヴァーナ同様の無為法。
ただし、魂に相当する輪廻主体の阿頼耶識は有為法です。
元々、仏教における一切法は「有為法」のことであり、
この中には無為は含まれなかった。
一切法の中へ勝手に無為法も含めたのは部派仏教による所行です。
これにより誤認が生じて、「涅槃も空」「如来も空」などという馬鹿げた言い方をするようになったのです。
『原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな
い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) (師走の追い込みにて投稿が鈍っています)
残念ながら、
パーリ聖典は部派の着色を受けており、
原始経典であっても漢訳は大乗の着色を受けている。
ゴータマの真実の姿(当時の教説そのもの)を完全に知ることは現存する経典からは不可能...。
つまり、結論としてはテーラワーダであれ、大乗であれ、
その中から“良かれという部分”だけを学び、実践する以外ない。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~ym7m4ovz/churon.htm
(9)「我(アートマン)の考察」第18章(全11頌)
仮設としての
空性に依存している
我は
無明の暗闇に覆われた世界の中で
現れ滅して変化している
我(アートマン)とは
インドの諸哲学・宗教において考えられている不変に相続する自我意識であり
人間の個人存在を決定するものとされている
インドでは我が肉体の束縛を離れることを目指したり
我と梵(ブラーフマン:宇宙全体の大我・梵我)とが一体となることを目指したりする修道が実践されている
それらに対して
釈尊は無我を説いた
無我を説くことは仏教の根本であり、我の有を説いたら仏教ではない
それが我は五蘊(色受想行識)が仮和合しているものであるとの教説である
テーラワーダとか後期大乗密教とかでは地水火風空識という
仮設としての
自性を有する複数の法に分解されるものは実有ではないとされる
我の仮和合は、色受想行識に分解される
仏教は輪回を説く。この場合
輪回する主体は誰であるのか?無我ならば誰も輪回しないではないか?
犢子部はフドガラ(補特伽羅)であり
唯識派は阿頼耶識(変化しないものではない)であると主張した 仏教は輪回を説く。その主体は誰か。無我ならば、。
それは存在の問題である。
宗教は存在の問題ではないよ。 変化することのないものなら
過去から → 現在へと、相続していくこともできないと思うけど↓とりあえず
> インドの諸哲学・宗教において考えられている不変に相続する自我意識
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
有分心は「生命相続流」と翻訳できます
心の流れの相続を維持する主要な要因となるものです
(仮設としての)
有分心があるので
心の流れは、断絶する事がありません
たとえば、有分心は
熟睡して夢も見てないような時でも
継続的に(現れ、滅して、変化して)生起しているのです
過去の学者で
有分心を「無意識」とか「下意識」とかに訳しました
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
(仮設としての)
我癡・我見・我慢・我愛とかが
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けているので
それゆえに
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説
『(無明の暗闇に覆われた世界から)解脱すれば仏だ!』ということに、気づくまでは、気づくことは難しい 問題は、
今現在、
釈尊の何を伝え得ているか?(何を伝え得ていないのか?)
なわけでね・・
それは、宗派や地域とは全く無関係に、
理と体と行(≒用)とを伝承し得ているかどうか? なわけで・・。
相が、千差万別、異なることも不可避なわけで・・・。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1480937497/ 仏教以外にも「瞑想」する宗教はあります。
バラモン教とヒンドゥー教の瞑想文化は、心理学的な立場でみると、それほど進んだものとはいえません。
ヒンドゥー教のヨーガ文化はとてもよく知られています。
その瞑想は「真我」と「個我」という二つの概念に基づいています。
真我とは「絶対的な魂」または「絶対的な神」という存在です。
個我は「個人の魂」のことです。
これらは本来二つに分かれたものではなく同一であり、個我が汚れているので二つであると誤解しているのだ、
というのが基本的な教えです。
そしてヨーガによって真我と個我を一体にするのだというのです。
しかし実践する人は真我の存在を信仰しなければいけません。
自分の魂があると信仰しなければならないのです。
「魂は実在する」証拠は何一つないのに、ただ信じるしかないのです。
これは心理学的なアプローチではありません。
もし真我も個我も、実在しない、単なる人間の希望的概念であるならば、それも幻覚・妄想概念に過ぎないのです。
ヨーガによって真我一如感が経験されたとしても、それももう一つの幻覚に突入したことになるのです。
「本来の魂を経験する」という立場は、仏教的にみると固定概念にしがみつくことです。
仏教はありのままの現象を観察して、魂論は成立できるか否かを調べることを推薦します。
(ブッダの集中力 アルボッムレ・スマナサーラ) >>459
アートマンは恒常にして不変、永久不滅の唯一なる実在です。
それ以外のすべてが非実在なのです。
我々は非実在である自己を自己と見なし、自己のもの見なしている。
その間違った幻影から目覚めて、真実の自己に目覚めることが本物の悟りです。
それが真我の実現であるところのニルヴァーナです。
これはすべての現象界の性質を超越したものであるから涅槃同様にして無為なのです。
>我(アートマン)とは
>インドの諸哲学・宗教において---中略---
>我の仮和合は、色受想行識に分解される
これら説明のすべては「一切」(一切法/一切諸法)に限定されたものであり、
部派が勝手に無為法を一切の中に含めたからこういう馬鹿げた論理が形成されたのです。
本来のゴータマの教えではない。
>仏教は輪回を説く。この場合
>輪回する主体は誰であるのか?無我ならば誰も輪回しないではないか?
>犢子部はフドガラ(補特伽羅)であり
>唯識派は阿頼耶識(変化しないものではない)であると主張した
そうではなく、
「無我」(非我)だからこそ輪廻するのです。アートマンは輪廻しないから。
だから、「名色は識とともに互いに縁って生起する」(ディーガ・ニカーヤ 15)と
五蘊の一部である「識」こそが輪廻主体であるとゴータマは明言してるのです。
しかし、だからといって誤ってこれをアートマンであると誤認してはならないとも戒めている。
「識」(後の阿頼耶識)は表層意識も含めすべて仮和合の自己でしかない。
ということで、“無我だから輪廻主体はない”などとい馬鹿げた論理は問題外。 『「識に縁って名色がある」と、このようにすでに説いた。どのように識に縁って名色があるかというこのことは、アーナンダよ、この
ような観点からも知らなければならない。
アーナンダよ、もし識が母胎に入らないとすれば、いったい名色は母胎において凝固するであろうか。
Vin~n~a^nam va hi a^nanda ma^tu kucchiṃ na okkamissatha, api nu kho na^maru^paṃ ma^tukucchismiṃ samucchissatha^ ti
尊師よ、そうではありません。
アーナンダよ、もし識が母胎に入ってから消失するとすれば、いったい名色はそのようなものとして現起するであろうか。
尊師よ、そうではありません。
アーナンダよ、もし識が男児あるいは女児にせよ幼児の時に断たれるとすれば、いったい名色は増大し、成長し、発達するであろうか。
尊師よ、そうではありません。
それゆえここでは、アーナンダよ、これが名色の原因であり、これが縁由であり、これが起因であり、これが縁なのであり、それがす
なわち識である。22. Nāmaru^pa-paccaya^ vin~n~a^ṇaṃ「名色に縁って識がある」と、このようにすでに説いた。どのように名色に縁って識
があるかというこのことは、アーナンダよ、このような観点からも知らなければならない。
アーナンダよ、もし識が名色のもとに依り処をうることがないとすれば、いったい未来に生老死苦の生起の存在が知られるであろうか。
尊師よ、そうではありません。
それゆえここでは、アーナンダよ、これが識の原因であり、これが縁由であり、これが起因であり、これが縁なのであり、それがすな
わち名色である。
アーナンダよ、この限りにおいて、あるいは生まれ、あるいは老い、あるいは死に、あるいは逝去し、あるいは生処に達するのであり、
この限りにおいて言葉の通路があり、この限りにおいて語義解釈の通路があり、この限りにおいて定立の通路があり、この限りにおいて
慧の領域があり、この限りにおいて流転を繰り返し、この況位を表すことになる。それはすなわち、名色は識とともに互いに縁って生起
するのである。(ディーガ・ニカーヤ 15, Maha^nida^nasuttanta /PTS vol.2, pp.55-71)』 >>465
何も知らない人がそういうことをいうのです。
>しかし実践する人は真我の存在を信仰しなければいけません。
>自分の魂があると信仰しなければならないのです。
>「魂は実在する」証拠は何一つないのに、ただ信じるしかないのです。
>これは心理学的なアプローチではありません。
実は必ずしもそのような信仰は必要ない。
なぜなら、これは科学的なメソッドによるプロセスなので、
決められた通りに実践を続ければ、必ず一定の結果を得ることができるのです。
だからこれは科学であり、“聖なる科学”と呼ばれています。 霊魂観を明確にすべき 21世紀の仏教を語る
2016年12月16日 16時10分
『真言宗智山派の智山教化センターは9日、東京都港区の総本山智積院別院真福寺で愛宕薬師フォーラムを開いた。
慶応義塾大非常勤講師の正木晃氏が「再興!日本仏教―21世紀の社会に仏教はどう応えていくか―」と題して講演し、
仏教者が霊魂観を明確にして死後について語ることが必要だと語った。
正木氏は、1930年代に仏教学者の宇井伯寿が「無我説とは霊魂の否定」と主張したことに触れ、近代の仏教学にお
いて「釈尊は霊魂の存在を認めていない」という学説が主流になったと指摘。以降、仏教界は霊魂や死後の世界につ
いての立場を曖昧にしているとして、「僧侶一人一人が霊魂観を明確に答えられることが求められている」と述べた。
2007年に在宅緩和ケアを利用して患者の看取りを行った遺族を対象にしたアンケートで、約5割の患者が臨終の際
に、「他人には見えない人の存在や風景について語った」ことを紹介し、日本人には“お迎えが来る”といった死後の
世界観があることを示唆した。(詳細は2016年12月16日号をご覧ください。中外日報購読申し込み)』
http://www.chugainippoh.co.jp/religion/news/20161216-003.html
“人間、死んだらそれでお終い”などという
ゴータマの教えに反した「断滅論」(断見)を支持するような僧侶が、
葬儀(死者の法要)を営む資格などはない。
もし仮に、葬儀は生きている側の為に営まれるという眉唾の言い訳をするのならば、
その寺院では、死者に対する供養などとい言い方は一切止めにしてもらいたい。
でないと、その行為は詐欺に該当する。 >ゴータマの教えに反した「断滅論」(断見)を支持するような僧侶が、
>葬儀(死者の法要)を営む資格などはない。
wwwwwwwwwwwww
⇒「ゴータマの教えに反した「常住論」(常見)を支持するような僧侶が、
葬儀(死者の法要)を営む資格などはない。
まあ、葬儀に関しては、釈迦は自分の弟子たちに対して、
・・・・「 お前らは葬儀に関わるな。そういうことは在家の信仰篤き者たちが
行う。」 と言ってるんだがw
(ただ、大迦葉はそれを無視したがw) >>464 それでは、それに関連して昔の書き込みをww
@「・・・・は、仏教的にどうなのか?・・・・は、仏教といえるのか?」
これは常に問題となるところであって、しばしば、討論において「それは仏教ではない」という
非難が対論相手になされる。そもそも、仏教とは何なのか?これも、突き詰めていけば
かなり複雑な問題をはらむが、ここでは単純に、「釈迦の教説、教え、」ということにしよう。
では、「ある対象を仏教的にどう評価するのか?・・・即ち、それは本当に釈迦の説いた教え
なのか?」・・・・それを判断する基準を何に求めたらよいであろうか?
言うまでもなく、それは伝承、経典、論書などが、その際の参考資料となるでしょう。
それらを一切無視して、「俺がそう考えるから」を唯一の根拠に自己の見解を語るなら、それは
もう単なる「オレ様仏教」であり、反面教師としての価値しか有さないでしょう。
(これは自燈明を勘違いした、ちょっと仏教をかじった者によく見られる傾向ですねw)
では、自己の体験、自己の到達した(と思い込んでる)境地を根拠に語る者はどうでしょう?
このタイプも仏教関連スレでは非常によく見かけます。
そして殆んど全てと言っても過言ではなく、「勘違いバカ」です。
(まあ、このような掲示板で、「己が悟ったことを前提に語りだすこと」が如何に愚かな行為であるかも
理解できないアホたちですw) Aそれでは、判断を師匠に委ねる、師匠の見解をその判断基準とする・・・・これはどうでしょうか?
これは確かに有力な方法論ですが、それには大前提があります。
そう、「その師匠が本物の聖者、覚者である」なら、その言質、指導に従って道を歩んでいけば良いでしょう。
しかし、もしその師匠が「なんちゃって覚者さん」なら? これはもう見るも無残な結果となることでしょう。
(釈迦が自燈明、法灯明を言ったのも、その危険性に留意せよ ということでしょう)
オウムがそのいい例ですねw 麻原を本物の最終解脱者と信じてついていった弟子たちの現状は、皆さんも
ご存じのとおりです。
昨今、「本物の覚者さん」というのは、どれほどいるのでしょうか?
わたしは知りませんが、もしいたとしてもその数は限りなく少ないことでしょう。さらに、凡夫である私たちが
「この人は本物の覚者である」と正確に識別できるものでしょうか?
・・・・・以上を考慮すると、師匠を選定し、その指導に従うという方向も、かなりの困難を伴うように
思われます。(ちなみに、道元もその師、 如浄禅師 に出会うまではかなりの紆余曲折を経ています。)
結局のところ、
「釈迦の教えとは何だったのか?」・・・・これに一歩でも近づく方法論としては、残された資料の吟味・・
これしかないように思われます。(行については、今は触れません。あくまでも、ある教説について、
その是非を他者とすり合わせる際の根拠についての話です。個人としての確認作業である行は、それを
語るに相応しい人にお任せします。w) Bですが、ここで更なる問題が持ち上がります。
→「経典に書かれていることは、全て本当のことなの? 経典の記述は全て本当にあったことを基にして
書かれたものなの?」・・・・・この問いに「イエス」と答える人は殆どいないと思います。
仏教徒、研究者、ほとんど全ての者が、「経典には、比喩、誇張、方便、神格化などのノイズが含まれる」
ことに同意することでしょう。
もし、経典の記述が全て本当にあったことを基に書かれているとするならば、ジャータカに出てくるウサギのように
「2500年前のウサギは、現在よりも知能が発達していて言語機能も有し、人間と会話していた。」・・・・
これも事実として認知しなければならなくなります。
さすがによほど信仰心の篤い仏教徒でも、「釈迦在世当時のウサギは、話ができた」 とは考えないでしょう?w
即ちこれは、ある教え、この場合は「自己犠牲の尊さ、及び、布施の重要性」をより分かりやすく、そして印象的に
説くためのキャラ設定、舞台装置なわけです。
仏の三十三相の話に出てくる「舌が伸びる話」、あるいは、誕生譚に出てくる「天上天下唯我独尊」も
釈迦の偉大さを表すための神格化の一種であり、「本当に舌が伸びたんだ」と信じている仏教徒は、ほとんど
いないでしょうw どうやら見えていなかったようである。遅鈍な奴である。 Cところがですねw 六神通となると話は変わります。
神秘主義的仏教徒や万教帰一を目指すオカルト系異教徒は、これを強く支持します。
(あれほど、スシーマ経で繰り返し否定されてるのにも関わらず、六神通は本当にある・・・・と主張するのですw)
彼らは、「しゃべるウサギ」は否定するのに、「空中を自由に飛び回る(神足通)」は、肯定するわけです。
はて?? その違いは何なんでしょうか?
彼ら(及び我々が)、「しゃべるウサギ」を否定する根拠は、過去から現在まで、そのようなウサギは発見されていない・・
という経験則に基づくものです。さらに、生物学上、ウサギは会話を可能にする言語機能も知能も有していない。
・・・ということですね。
では、神足通はどうでしょうか?
これも、過去から現在まで、空中を自由に飛び回る人間は発見されていません。勿論、解剖学上、人間にそのような機能は
確認されていませんし、物理学上もありえません。
しかし、ウサギはNG,空を飛ぶのはOK・・・・どういうことでしょうか?
・・・・思うに、これは肯定論者の願望が強く投射されている結果でしょう。
つまり、「ウサギが話すことは望まないが、空は飛びたい」・・・こういうことなのでは?w Dでは、何故このようなノイズが混入するのでしょうか? それには様々な理由が考えられます。
最大の原因は何といっても釈迦の金口の資料が文章記録として残されなかった・・ということでしょう。
100年もの間、口伝オンリーできたなら、そりゃあ、その間、伝承者にとって好ましくないものの削除、
あるいは付加などは容易であったことでしょう。(それがたとえ、韻文の形式であっても)
(それでもなお、時系列上最も近似している最古層文献に最大の信頼性をおくことは尤もな判断だと思われますが)
後代の経典編集者たる仏弟子たちは、なぜノイズの混入を招いてしまったのでしょうか?
T 他教との競合の結果・・・・即ち、自己の宗教の開祖が、何ら超常的能力を有していないとしたら、他宗教の
開祖と比して都合が悪い。(釈迦の神格化)
U 純粋な自己の宗教の開祖へのスーパーマン願望・・・・「うちの宗教の開祖は、こんなにすごいんだ。」
まあ、一種のファン心理ですねw
V 信者獲得、及び、信者維持のためのご褒美的もの・・・・「がんばって解脱したら、こんなにすごい能力が
身に付くよ。」 (六神通)
・・・・・・・・・実際には、一般大衆やパトロンたる王族などの願望、要求、 あるいは、時代時代の政治、経済的事情
など、様々な要因が複雑に絡み合って、変質していったのでしょう。
(勿論、この変質していった現在の仏教諸宗派を「仏教」としていいのか?どうかは、また別問題です。
大乗非仏説に代表されるように、現在の、特に日本の仏教が批判にさらされてるのは、ご存じのとおりです。) E釈迦は一体、何を説こうとしたのか? それを知るためには、出来るだけノイズを除去していく必要があります。
その前に、釈迦とは一体、どの様な人物であったのか?・・・・を把握しておくことは大切でしょう。
勿論、2500年前の、それも確実と言える資料が殆ど残されていない者の人物像を正確に描いて行くことなど不可能ですが、
各人がそれぞれ、「釈迦とはこういう人だったろう」というイメージをもっていることと思います。
以下は、その一つですが、まず、
T 極めて世俗的物欲というものが希薄だったひと。・・・これは、殆どの人が同意されるのではないかと思います。
王子という恵まれた境遇(実際は、一地方の一領主程度だったと思われますが)を、それこそ、食いかけのまんじゅうを
道端に捨ててしまうほどの気安さで放り投げてしまうほど、世俗的裕福さというものに価値を認めなかったのでしょうw
U 何かに対して疑問を感じたとき、その対処法よりもまず、その問題の本質を問う傾向がある・・・・四門出遊の際、(まあ、
この話自体も創作という意見もありますがw) 治世者タイプの人なら、まず、老人、病人に対してどのような救済策が
可能かを考え、死は避けられないこととはいえ、どのようにすれば現在より長寿が可能かを模索し、それを行者と相談する
・・・・こんなかんじですか?w しかし、釈迦はそのような現実的な対処法には関心なく、その問題が抱える根源的本質
の方に目を向ける。
V これは、Uとはまさに対照的特性なんだが、 毒矢の喩えにもあるように、「極めて現実的な、そして実際的な対処法」も
重視する。 これは仏教が必然的に内包する矛盾・・・即ち、出家と在家の価値体系の齟齬を、釈迦がきちんと理解していて
そのどちらの行き方も是としたことからくる結論でしょう。(仏教は二諦を立てる) F
W 内省的な人物・・・これは中村元氏の描写だが、まさにそうでしょう。
人間には、「まず、やってみる。そして、その過程で得たものを次に繋げていく。」という「行動派」の
ひともいますが、釈迦は正反対の人でしょう。行動を起こす前にまず、考える。 じっくりと考えた末の自己の
結論に信頼をよせる。
X しかし、内省的な人物がとかく陥りやすい「観念論的思考への執着」というのも、はっきりと否とした。
即ち、「自分で確認できること」のみを是とする、極めて「体験主義的傾向」を有する。
・・・・このように見ていくと、釈迦という人物は一言でいってしまうと、「大変バランスのとれた人物」
「極めて現実的な人物で、『人間の心が抱える諸問題の解決』に関心を特化させていった人物」
と言えると思いますが?
このように、釈迦という人物像の輪郭を描いて、それに照らして釈迦の教説の真意を各仏典から拾って
いくしかないでしょう?
後は、各人が釈迦の教えをどのように捉えていくか?・・・・各人の資質の問題ですなw
・・・・・まあ、釈迦にオカルト的スーパーマンを投影して、仏典のそのような記述のみを真実であるとし、
「スーパー仏陀」を作り上げるのも個人の自由でしょうw
(現にそういうのも多いですしw) >>471
>「ゴータマの教えに反した「常住論」(常見)
常住論というのは
一切行/諸行無常における現象界において恒常なるものを説く誤った見解のことをいう。
しかしながら、
ウパニシャッドの説くアートマンは一切法を超越した一切外のものであるから、「常見」にはまったく抵触しない。
ゴータマの説かれた一切法とは、すべて限定意のものであることを知る必要がある。
この基本的な前提を知らない者があまりにも多い。
これが部派のアビダンマによって生じた弊害なのです。
テーラワーダの理解もすべて間違っている。
『ところで仏教で一切法とは存在するすべてのものを指すのであるが、原始仏教時代に関するかぎり、それは生滅変化す
る現象の法に限られていた。一切法を五蘊・十二処・十八界などとした場合、それらはすべて時間と空間の中にあってわれ
われに認識され得る現象界だけを意味した。(p112)
現象のことを仏教では有為(samskrta,sankhata 造作されたもの)とか行(samska^ra sankha^ra 諸行無常の行)とかいう。
われわれはこの現象界の中で生滅変化し、苦しみ悩み、喜び楽しみ、迷い悟るなどの生活をしている。われわれにとっての
世界は現象界のみである。この意味における一切の現象界を仏教では一切とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのは
この現象界に限られる。(p127)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
アートマンというものは元々からして、この一切外。
涅槃も同様にして「無為」であり、一切に含まれることがない。
あなた方は皆、
部派影響下の中にあってそのことを知らず、
それらを勝手に肯定したり、批判してるだけ。 >>476 :
(あれほど、スシーマ経で繰り返し否定されてるのにも関わらず、六神通は本当にある・・・・と主張するのですw)
彼らは、「しゃべるウサギ」は否定するのに、「空中を自由に飛び回る(神足通)」は、肯定するわけです。
これについても以前、私からは明快に解答済です。
ゴータマのこの対機説法というのは、
“神通獲得を目的とする者には真実(神通獲得に繋がる真実)は教えない”ということ。
このスシーマなる人物がどんな意図で近づいてきているかをみれば、そのことは瞭然でしょう。
対して、真摯に解脱と悟りを求めて修行する者には、
六神通についての詳細な教えとのその方法とが随所において多岐に渡って説かれます。
どう、分かりましたか?
しっかりと経文の文章の意味やその意図を読み取って欲しいものです。 >>780
言語の迷路に落っこちた者は、
迷路の中ではそれを自覚出来ず、
結局そのまま一生を終える。 如何にして言語の迷路から脱するのか?
ちょろいなw
言語になりゃいいw スッタニパータ
204
この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。
1086
(ブッダが答えた)、
「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪(むさぼ)りを除き去ることが、
不滅へのニルヴァーナの境地である。
1087
このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩(わずら)いを離れた人々は、
常に安らぎに帰(き)している。世間の執著を乗り超えているのである」と。
不滅なるニルヴァーナの境地
不滅へのニルヴァーナの境地
常に安らぎに帰している
というのは一見常住論に思えるが、ニルヴァーナは一切外だから常住でいいということなのかな? スマナサーラ長老のニルヴァーナの解釈はどうだったかなあ… 不滅という言葉に執われるな!
識別すること自体妄想と仰ってこざる。
つまり、なにもない、不生なのだ!
不生だから不滅なのだ!
常見も断見も離れてるのだ! 487.486.
識別が生じないから不生、か。よって不滅、か。
それはバカになっていろ、ということになる。
そのバカになるのが仏教かいな。
それは単なる心理学である。 >>488
いや、不生不滅ならバカという識別さえないのだ!
なってろ!ではない、なる前なのだ!
さぁ、それは何者だ? ,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii| <最終解脱者の私だ!
..iiiiiiiiiiiii》| ::: |iiiii| \_________
iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii|
..iiiiiiiiiiiiiiiiii, ( ● ● ) .|iiii|
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ 》 / ̄ ̄\ 《 |iiiiiiii|
iiiiiiiii《《《《《《《《 《《 \ ̄ ̄/ 》》 |iiiiiiiiiii|
iiiiiiiiiiii《《《《《《《《《《《 》》  ̄ ̄ 《《 》》》》》iiiii|
iiiiiiiiii《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《》》》》》》》》》》》》》》iii|
iiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》》》IIII
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》iiiiiii 489.
不生不滅になる前、か。
それは何者か。
その何者が発展して不生不滅となるのかや。
その不生不滅が発展して何者となるのか。
その因果関係が問題である。
止まった思考には限界がある。 >>491
不生でいればヨロシ。
でも思考は川の上でまりをつくが如し。 他人の経験を嘲笑う者が自分の思考を疑いもしないことがいかにジョークになってるか気づきもしない。
絶対的な地平に立ってみれば同じことなのに。
本当に愚かですね。 > 止まった思考には …
仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
因と縁の双方の縁起に依存して変化している世界の中において
たとえば(表面的な)第六意識が
仮に
「(一時的に?)止まった思考」であるかのように思っても
阿頼耶識(根源的な識)は激流のごとく活動している。暴流の如し!
たとえば
一時的にでも?
止まった思考とか?
(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である、遍計所執性
123タソも
仏教の経典・論書・(初心者向けの?)解説書とか読んで勉強した方が良いんジャマイカ?
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
有分心
生命相続流
(現れ、滅して、変化して)生起しているのです 別件で読んだ小論。
かなりパピー向きなのでURL。(たとえば29・30、33頁とかw)
http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=ja&type=pdf&id=ART0008934997
(註39の論文→http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=ja&type=pdf&id=ART0008941499)
著述一覧:http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000004113828/?sortorder=1&count=20&start=1 識別を止滅させたところが涅槃。
大乗仏教では上記涅槃を空という。
識別を止滅させ無分別だから空を言葉で表すのは本当は無理。
それを知ってた維摩は空を説明するのに沈黙を使った。維摩の沈黙と呼ばれる。
その空を敢えて説明すれば、分別なく平等で大調和の世界、と言えるのかもしれない。
これが大乗仏教での涅槃である(仏国土はまた別)。
初期仏教の涅槃「一切の煩悩を断ち尽くした状態」に止まってない点に注意。 497.
識別を止滅させたところが涅槃、か。
それは単なる心理学である。
よってして、識別を止滅させたところ、は涅槃ではない。
心理学をやっている場合ではないよ。
その区別が理解できないバカが多い。 495.
おじゃる君は心理学と宗教との区別を理解できないバカである。 松本史郎氏は徹底した無我説、無基体説に基づいており、仏性、如来蔵はもとより解脱や涅槃も仏教ではないと否定しています。 乱暴だなぁ・・・w >>501
解脱や涅槃(という「事柄」)は、袴谷松本路線でも踏まえられてる(→踏まえざるを得ない)部分と思うけど?w
涅槃及び解脱を否定するなら、
菩提樹下以降の釈尊の歩みを、どう評価するのか?
そして、
意味合いとしては、自身、 「涅槃に住して45年の遊行に在った」 というのが、
遺言のプロローグである筈なだがな・・ 又、松本はオリジナル釈尊に依拠していない、その必要をいわない。釈尊の説から導き出される十二支縁起説こそが仏教という。
では、縁起とは何か。ここで次に宇井伯寿の解釈を批判する。
宇井は「世界の相依」と解釈する。
それを批判し松本は、縁起とは十二支縁起説を説く、という。釈尊そのものが説いたものでもない、ともいう。
https://takanetosyo.jimdo.com/2011/11/05/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E6%9C%97%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E8%80%83%E5%AF%9F/
涅槃についても松本史朗氏は、「火が吹き消された状態」という意味だとされているが、
「覆いをとりさる」という意味であり、解脱と同じ意味だという。
自分の中に光り輝くものがあり、心の磨いて汚れを取り除くという考えはきわめてわかりやすい。
しかし無我説に立つならば、解き放たれるべき我、清浄な光り輝く我などない。
ということで、松本史朗氏は、
つまり、“縁起”は仏教であるが、“涅槃”も“解脱”も仏教ではない。
と、またまた激しいことを言っている。
仏教でも我(アートマン、本質、自性)が実在するという考えを取り入れ、如来蔵、仏性、アラヤ識などと呼び、
梵(ブラフマン)に当たるものを真如、法身、法界、一如などとして立てるようになった。
ということで、松本史朗氏は『縁起と空』の冒頭で、
如来蔵思想は仏教ではない。
とまず断言している。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/12c2a22ae6567df92065b7237c13b89c http://fallibilism.web.fc2.com/001.html
松本史朗氏
如来蔵思想は仏教ではない
その背後にはインド土着思想であるヒンドゥー教というものがあると見ている
仏教の開祖である釈尊は「縁起」を説いた、つまり、“仏教”とは縁起説である
というのが筆者(松本史朗氏)の理解であるが、この縁起説とは
ヒンドゥー教の「アートマン」(我)〔霊魂〕の思想を根底から否定したものなのである
“仏教”としての縁起説からは、「無我・無常」の説が導出され、これが仏教の旗印ともなる
− これに対して −
「我・常」ということを積極的に主張するのが、如来蔵思想であり
『涅槃経』には
「仏陀とは、我(アートマン)を意味する。その我は永遠不変の実在である」
と明記されているのである
如来蔵思想の「我の思想」、「有の思想」が
仏教の縁起説・無我説と全く逆の立場であることは明らかであり
この意味で筆者(松本史朗氏)は、“如来蔵思想は仏教(縁起説)ではない”と論じるのである
_ _ _
↓松本史朗氏の場合は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83
掴もうとしている想いを手放して(滅して?)、そして
現れることもなく・滅することもなく
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%B5
分別超えた無分別の
智慧(般若, 慧)が釈迦の悟り …
↑という意味を理解してない?のかもしれない m(_ _)m
分別を超えた無分別の
智慧(般若, 慧)の世界から観察して
『(松本史朗氏の)如来蔵思想は仏教(縁起説)ではない!』
と掴もうとしている想いを手放して(滅して?)いくこと m(_ _)m 505.
分別を超えた無分別、か。
想いを手放して、滅する、か。
それは心理学である。
それは宗教ではないよ。
それではバカになれよと奨励していることになる。 曹洞宗 内山興正
http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
「思いを手放しにする」とはどういうことか
われわれの思いは
いつも「何か」を思うわけですけれど,この「何かを思う」ということは
思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです。実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
…さらに無著・世親の唯識系統では阿頼耶識説を説くことにより
…われわれ日常行為における因果関係についても
まったく詳細巧妙に説明する
(心の動き・心の働きとかの)心理学を展開しています
そういうつもりで唯識教学などを勉強すると
われわれの実際修業における日常生活の心構えにも大いに役立つと思います
_ _ _
(脳みそクルクルパーの)123タソも
年末年始には護摩の参拝に逝ってみよう
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 507.
唯識なんてものは心理学である。
日常生活の心構え、か。
それは生活の知恵の問題である。
それは宗教ではない。
それは生活の問題であるよ。 ゴミの持ち込みは禁止ですよ〜
>十十十十<
Π | n n |
||∩亅 じ じ L∩
H∪> ≡≡≡≡ <∪
|| (〈口 ̄ ̄口〉)
(⌒O \\_口_//
|\\_>――イ
(⌒二/┼┼┼//
Π /|土土// _
H  ̄ヒニニ2_|コ
冊 /┼┼┼∠_|コ
_ノ|L|土土/  ̄
フ//| \\_
イ// / />
 ̄ ヒ∠> (脳みそクルクルパーの)123タソには↓わからないかもしれないけど
仮設としての
無明の暗闇に覆われた世界の中において
因と縁の双方の縁起に依存して変化している世界の中において
此縁性(しえんしょう)
無明に依存して
たとえば『苦しい!』と掴もうとしている想いが現れる
(現れ滅して変化している。心の動き・心の働き、仮の現れ)
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空經
業報有るも而かも作者(我所も・我も)無し
(我所も・我も、ないので、それゆえに)此の陰滅し已らば異陰相續す
此れ有るが故に彼れ有り。此れ起るが故に彼れ起る
無明に縁りて行 → 行に縁りて識(が、仮設として、仮に現れ、そして)
此れ無きが故に彼れ無く、此れ滅するが故に彼れ滅す
無明滅するが故に行滅し → 行滅するが故に識滅す
「苦しい!」と掴もうとしている想いを手放して(そして、滅して)いく
(変化している)心の動き・心の働き
http://www.geocities.jp/koogakan/suttanipata.html
スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
(それゆえに最終的には苦集滅道から → 無苦集滅道(涅槃)へ)
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ m(_ _)m 511.
おじゃるバカは、いつまで心理学をやっているのかや。
心の動き、心の働き、をやっている場合ではないよ。
宗教とは何か、を理解していない。
なんでか。
宗教問題とは何か、を分離して理解できないからである。 >>472-479
@-Bは同意するけれど、
C以降〜については意義あり。
パーピマンはつまり、
勝手に己の未熟な自己認識であるところの唯物論へと仏教を持っていこうとしてるだけ。
西洋の学者たちがアホな合理主義により、
宗教の神秘部分はすべて単なる神格化と迷信であるとして排除しようとする単純な態度とまったく同じ。
何故なら、彼らは“超常現象というのは絶対に在り得ない”ものだと結論づけているから。
答えは最初から出てるということで、その色眼鏡で宗教を見て判断していくわけ・・・。
けれども、こういった唯物論は誤った最も低き見解だと戒めているのがゴータマの教えなのです。
唯物主義者というものは、自己体験するまでは絶対に認めないので、
理論によっては見解を変えるということはまずない。そういう意味では何を言っても無理。
もちろん、自分が勝手に信じないのはご自由なんだけど、
しかしながら、仏教は唯物論ではないという事実は捻じ曲げられては困るから。
そこはあまりにも重要なので、また時間が取れしだい再開します。
今は、妻とのクリスマスと
年末に向けての注連縄や祭壇の手入れなどで忙しいので...。
暫しの間、休戦します。 前にも言いましたが、自分だけの体験を信じ込むのも自分だけの考え方を信じ込むのも同じことです。
落ち葉落ちて落葉の如し。
今この字を読んで字の如しです。
万人に共通じゃなきゃ意味無いでしょ。
だから以心伝心というんでしょう。 何を信じて何を信じないかはその人の自由。
結果、救われるも滅びるも、全ては自業自得。 そんな話ししてません。
真実は信じる信じないに全く関係ないんです。 「心」の働きで、現れの形式は決まっているんでしょう >>517
>万人に共通じゃなきゃ意味無いでしょ。
無我なんて言ってるのは仏教だけで世界中の他の宗教では我、霊魂の存在を信じている。
仏教徒を除いて万人に共通しているのは有我論の方。
仏教はその意味では意味が無い。
有我論のインドでも当然廃れてしまった。 決まりがないということが決まってるでしょうね。
だから仏の教えは唯一無二なんです。
その他の宗教は必ず何かを立てる。
それがいかんとも言ってませんけどね。
まぁ縁が無ければどうしようもありませんな。
本当にお困りの人だけ必死になればええんじゃないですかねー。 ぱーぴまんへ、
いろいろあったが、おもしろかったです。
わたし、2chやめます。
あなたの教説は、本当にためになりました。
あらためて、お礼申し上げます。 >>496 wwwwww
なんていうかねえw 前から、南泉斬猫は嫌いなんだよなw
それが仏行かどうかはいいから、とにかくヌコさん殺すなとww
まあ、この辺りはアングリマーラ とも絡むしw
>>523 おや? 引退ですか?w それはお疲れさんw
最後だそうなんで、一言いうとw
「お前さんは、傍から見ると実に危なっかしいw 簡単にオレオレ詐欺に 引っかかりそうw
もう少しは他人を見る目を養った方がいいよw でないといつかリアルで痛い目見るぞww」
・・・・・・まァ、余計なお世話だと思うがww 最近は、ダライラマの対談本・・・あとは佐々木閑 か?ww
佐々木閑の著作は、どれも同じようなんだよなw
(まあ、結構すきだがw・・・・彼は律が専門何だろうw)
これからの予定は、奈良さんのインド・東南アジア仏教史 かな? ・・・・・
ダライラマ氏についての感想
色々、評価はあるけど、やはり当代随一の「宗教家」であると思いますなw
これは世界を飛び回った経験が大きいと思うw
各国の最先端で活躍する人々と触れ合うことによって得た視座は貴重なんでしょうw
チベットに籠っていたらこうはならなかったと思うけどw >>524
URL論文では、猫は無関係だがな・・w
問題(ポイント)は、そこじゃない、と。
猫を斬ろうが可愛がろうが、
禅宗は、(―既に六祖から?!―)野狐を生むことが運命づけられていたのではないか?
とw パーピマン返事ありがとう。
おれ、なんか、狐かタヌキに化かされているような感じがするんだよな! >>528
おしいw
キツネやたぬきじゃなくて、正解はイタチでしたww >禅宗は、(―既に六祖から?!―)野狐を生むことが運命づけられていたのではないか?
そりゃそうでしょ?w
そして、それを決定づけたのが馬祖だと思うがねw オレはww >>530
おい!
パーピマンよ
悪魔よ
オレはおまえとの命の話をしとるのだ、
なにが神秘だ!!!!
ええか?
お前は朽ち果てる
俺もな爆笑
お前のお勉強はアホ
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仏教史 1 インド・東南アジア(世界宗教史叢書 7)1980/1 奈良康明
この書籍は↑読んだことないけど
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仏教出現の背景(新アジア仏教史01 インドT)2010/4/27 奈良康明 下田正弘
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須弥山の仏教世界(新アジア仏教史09 チベット)2010/4/27 沖本克己 福田洋一 wwwwww
二番目のは、次に読む予定w
三番目のは予定なしww
たとえば
隠居先生のように
チベット密教(仏教?)があったから
「オウム真理教のような邪教集団が現れたのだ!」
とチベットを批判する人もいるかもしれないけど↓とりあえず
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チベットの生と死の書 1995/10/18 ソギャル・リンポチェ
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書籍ではなくてDVDでつ
NHKスペシャル チベット死者の書 DVD
ダライ・ラマ 単独インタビュー(1993年2月ダラムサラにて)
チベット仏教の叡智を語る 瞑想・死・輪廻転生・日本人へのメッセージ 南泉斬猫ですか…
猫に限らず、我々は他の生き物の命を頂いて体を養ってますからねぇ。
二義に墜ちて説明すれば、趙州禅師が草鞋を頭に頂いて
去っていたのも頷けますわ。 >>535
そのために(→二義に墜ちることを戒めるために)
猫を切り捨てるとしても、
『その是非を』 『どの基準で問うか?』
なわけよw
例1、陶芸家が、気に入らない作品を割り捨てる。
もしそれを、格安品として市場に出せば、どれだけの人にメリットが出るだろうか?
例2、医薬品の開発に於いて、どれだけの動物が実験台になっているか。
南泉は猫一匹だが、医薬品の研究者は、何百匹とネズミ等を『弄んで』いるわけだが?
南泉が猫を斬るのは良くないが、医薬品や化粧品開発の爲に、
或いは、医学進歩の爲に動物を実験道具とすることは良いというなら、
その線引き基準を発言して貰おうかw >>535 >>536
パーピマンさん、かな?
ごめん、趣旨がわからん。
一義では「ぎゃあぁぁぁっつ!」で基準を付けようがない。
二義は人の物差しによって変わるし。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています