【非思量】石の上で瞑想すると何が見えてくるのか3【瞑想】 [無断転載禁止]©2ch.net
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非思量】石の上で瞑想すると何が見えてくるのか2【瞑想】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1471071690/ 近いうちにサウナ・水風呂が・・
お坊さんたちの修行の場になる感がする^^ 二取随眠
2つの執着を生ずる種子。煩悩の種子。
二取の「取」
「所取」の取(対象への執着)と「能取」の取(主観への執着)。
両者とも,その熏習した種子(習気)を随眠という。
これらを止滅(伏滅)しないかぎり,主観と客観に二分化する。
ふむふむ^^ 十八 一切種識の、是の如く是の如く変ずるに由り。展転する力を以ての故に、彼彼の分別生ず。
十九 諸の業の習気と、二取の習気と倶なるに由りて、前の異熟既に尽きぬれば、復た余の異熟を生ず。
二十 彼彼の遍計に由りて、種種の物を遍計す。此の遍計所執の自性は所有無し。
二十一 依他起の自性の分別は縁に生ぜらる。円成実は彼がうえに、常に前のを遠離せる性なり。
二十二 故に此れは依他と、異にも非ず不異にも非ず。無常等の性の如し、此を見ずして彼をみるものに非ず。
二十三 即ち此の三性に依りて、彼の三無性を立つ。故に仏、密意をもって、一切の法は性無しと説きたまふ。 「意識こそは虚妄分別するものである。その性質が分別を具えたものだからである。それは
意識自らの言葉に依る熏習を種子として生じ、またあらゆる表象の言葉に由る熏習を種子
として生じている。それ故に、意識は無限に種々の形相のある虚妄を分別するが故に遍計
と名づく。」
無着(摂大乗論) 「(意識が遍計することは)名・概念を対象として虚妄分別するのであり、概念を依他起性の
上に相(形相・性質)として付託し、相を見て執着し、種々に思考を廻らして言葉として言う、
見る、聞く等の四種の言説を為して、ものが存在しないのに存在と誤認するのである。」
無着(摂大乗論) 無着「摂大乗論」
表象されて名を与えられるものが、そのまま外界に実在するのではない 「1、同一の物に対して様々な異なった認識が生じる。例えば人が見れば清冽な水が流れ、
手を洗い、口をすすぎ、あるいは沐浴するのに適した川であっても、地獄の罪人はそれを火
の川として表象する。・・・・・同じ川を餓鬼は汚物に満ちたものとして表象する。このように同
一の物が見る者の境遇の差別に応じて様々に表象されるということは、表象が外界の実在
に対応することなく、主観的に虚妄分別されたものであることを示すであろう。 2、対象が存在しない場合にも認識が生じることを、我々は現に経験する。例えば、過去に
見たものを今想起する際、この想起の認識は対象が存在しないのに生じているのである。
また瑜伽を修習すれば未だ存在していない未来の物が見えるようになる。・・・・・これらの例
は、認識が必ずしも実在する対象を表象するのではないことを示している。 3、認識は必ず対象と対応関係にあるとすれば、人は倒錯の無い智を得ることを目的として
修行に努める必要は無いことになるであろう。最高の真実を了る倒錯の無い智を得たときに
、人は仏の階位に到達する。ところが認識は必ず対象に対応して生じるものであるならば、
対象があればそれに対応して倒錯の無い智が生ずることになるが故に、宗教的修行は全く
無意味であることになる。 4、瑜伽を行じて自在力を得た菩薩は、自らの意思に従って対象を描出することが出来る。
瑜伽を修得した者は、ある対象を観察しようとすれば、その対象が思いのままに心の中に
映し出されてくる。ただし、このようにして心の中に描出された影像は、外界にその対象物が
対応して実在するわけではない。瑜伽を行じて修習の階梯を進めば、見道の階位に至って
対象の表象を離れた純粋な超世間的な智を得ることが出来る。」 無着ちゃんは「執着がない」ということで・・
この名にしたんだろうね^^ 「表象されて名を与えられるものが、そのまま外界に実在するのではない(キリッ 」
無着ちゃんより・・^^ B「円成実性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓↑縁起的な分別(虚妄分別したものへの執着)の否定
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
無分別(諸法実相・真如)
これなんだよな^^ ひと言でいえば・・^^
「無分別智」^^
とこうなる^^ う〜〜ん^^
仏教もよくネタが尽きないな・・^^
とこうなる^^ この調子でいくと・・^^
おいらはどうなってしまうんだ^^
とこうなる^^ その答えは・・当然・・
「知らんがな・・」
となる^^ その結果として・・
「八正道を実践して基礎固めをするかな・・^^」
になる^^ 客体とは感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる物である。
主体とは感覚を受け取るものであり、意識である。 哲学
客観的実在という用語を、意識から独立して存在している事物を指すために用いている。
これに対して、主観的実在とは、広い意味での意識に依存する事物を意味する。
知覚されている色や音は、それらが意識作用に服している限りにおいて実在する。
この他にも、とりわけ幸福や悲嘆などの感情は主観的実在であると考えられる。 仏教(中観派)
主体と客体というような二項対立的な見方を謬見として徹底的に斥ける。
この延長線上で実践したのが中国唐代の禅であり、彼らの目標は「主と客」と
いう意識(念)の起きる以前の意識の探求・・ 「対象自体」(対象そのもの)と「表象」(心に現れた像)を区別する二元論かー^^ カント
人間は特定の形式(時間と空間)に沿ってしか現象を認識できず、
ありのままの事物(物自体)を知ることは不可能である ということは・・
「五蘊は皆な空である」となり^^ すると・・
主観と客観に執着しない「空の心」に達することになると^^ 「是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香
味触法 無眼界乃至無意識界」
(この故に、空の中には色もなく、受想行識も無く、
眼耳鼻舌身意も無く、無色声香味触法も無く、眼界乃至意識界も無い)
となる^^ 989.
現象を否定したらば何が残るのか、という問題である。
その答えが問題となる。 十五頌 五識は、根本識から、縁にしたがって、一緒に、あるいはそうではなく
生起する。ちょうど、水における諸々の波のようである。
十六頌 意識は、無想果と、二つの禅定と、睡眠および気絶という無意識の状態を
除いて、常に生起する。
十七頌 この識の転変は分別である。それによって分別されたものは存在しない。
それ故、この一切は唯だ識のみのものである。 二十頌 どんな分別によってどんな事〔物〕が分別されたとしても、
それは遍計所執性である。それは存在しない。 @「遍計所執性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着 二十六頌 唯だ識のみであることに、識が住しないかぎり、その間は二取の
随眠は止滅しない。 二十八頌 識が、所縁(対象)を得ることがまさに無くなったとき、
唯だ識のみ、ということに住したのである。〔というのも〕
所取がないとき、それを取ることがないからである。 二十九頌 これは無心であり、無所得である。それはまた、出世間の智である。
転依である。二種の粗重を断じたが故に。 三十頌 それこそが無漏界であり、不思議であり、善であり、永遠である。
これは楽であり、解脱身である。これが大牟尼の法といわれるものである。 唯だ識のみである^^
すんばらしい^^
・・ということで^^ このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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