敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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 ̄ \__、("二) └─┘ ̄l二二l二二 _|_|__|_ 2009年(主日B年) 2月1日 年間第4主日
申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」(Iコリ v.35)
主イエスが、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」(マコ 10:45)主の僕として十字架に死に、信じる者を義とするために復活させられたとき(ロマ 4:25)、
かつては “秘密”(マコ 4:11)であった神の国は、今や教会の信徒たちにとって、「力にあふれて現れる」(マコ 9:1)将来の完成を待つ神の国となりました。
復活の勝利、聖霊の降臨、使徒たちの教会の誕生という出来事によって、神の国の業が完結してしまったのではありませんでした。
「主は、生者と死者を裁くために、栄光の内に再び来られます」(ニケア・コンスタンチノープル信条)(使 10:42,17:31、Iテサ 1:10 参照)という信仰こそが、キリスト者のミサと、その生活上の倫理の土台となったのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>657
> 「主は、生者と死者を裁くために、栄光の内に再び来られます」(ニケア・コンスタンチノープル信条)(使 10:42,17:31、Iテサ 1:10 参照)
脅迫罪とは、被害者の生命、身体、自由、名誉又は財産に対し
害を加えることを告知して人を脅迫することによって成立する犯罪をいいます。
刑法222条1項は、「生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して
人を脅迫した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。」と定めています。
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 ̄ \__、("二) └─┘ ̄l二二l二二 _|_|__|_ 2012年(主日B年) 1月29日 年間第4主日
申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
ミサ典礼書の総則 95 には次のように書かれています。
「司祭は朗読台で福音書を開き、“主は皆さんとともに” と唱える。 それから “(マルコ)による福音” と唱え、親指で福音書と自分の額、口、胸に十字架のしるしをする。」
ただし、“これは司祭の動作であって会衆の動作ではない” と、ユンクマンが解説しているものです(ミサ p.215)。
そして更に続けて括弧書きで、「日本では、福音書に十字架の印をしながら “(マルコ)による福音” と唱える」 となっています(日本の教会における適応)。
2002年に出版された新しいラテン語規範版の総則では、司祭だけでなく会衆も “自分の額、口、胸に十字架のしるしをする” と修正されましたが、これに従う日本語版典礼書の改訂は、未だ教皇庁典礼秘跡省の認可を得るに至っていません。
ですから今は、日本語版現行典礼書(1978年)掲載の総則に従ってミサが行われることが正しいのです(暫定版 総則 p.8 日本における適応 参照)。
福音が語られ聞かれることへの熱心ではなくて、不正確な知識による自己流の誤った動作への執着が、なぜか10年ほど前からカトリック浜松教会の会衆の間には伝染してしまいました。
しかし、キリストの福音に掛かっている覆いは取り除かれねばなりません。
神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が、ミサをささげる一同に見えるようになるために(IIコリ 4:3-4)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2000年(主日B年) 2月6日 年間第5主日
ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
主イエスも宣教されました。 しかし聖書が語る “宣教” とは決してイエスの “単なる教え” ではありません。
神の国の福音は、イエス・キリストの福音です。 それは神の子イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した “救いの福音” です。
使徒たちから始まって代々の教会は、福音を宣べ伝えて来ました。
人々が福音を聞いて救い主イエス・キリストを信じるようになり、洗礼の秘跡を受けて実際にこのキリストの福音に与かる者となるように、教会は宣教を続けて来たのです。
ミサは、主イエス・キリストの死と復活を記念し、十字架のいけにえをささげ、一同がこれに与かる “感謝の祭儀” です。
すべて洗礼の秘跡を受けたキリスト者は、ミサに与かり、神の国の福音に与かる権利と義務を持っています(ミサ典礼書の総則 3)。
罪と死のもとにあって、“滅び行く命” でしかなかった者 ・・・・・ 、それが私たちすべての人間の姿です。
イエス・キリストの福音なしには人間はどんなに悲惨であるかを、私たちは思いましょう。
私たちの聞かされている福音は神の国の福音です。
私たちはイエス・キリストの救いに与かって、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じて歩んでいるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
「忘れないでください。 わたしの命は風に過ぎないことを。 わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。」(ヨブ v.7)
このヨブの嘆きの言葉を厭世主義と理解するなら、それは聖書の正しい読み方ではありません。
ヨブは絶望と厭世の中で独り言を語ったのではありませんでした。
そうではなくて、彼は神に訴えて、神が彼の言い分を否定し、神が自らの答えをもって彼に報いてくださることを期待していました。
ヨブの語る自らの人生は、私たち自身の人生の現実そのままです。
もし私たちがキリストの福音を聞かず、福音に与かって生きることをしていなかったら、ヨブの語る絶望と厭世は実に私たち自身のものであったことでしょう。
しかし、キリストの福音によって私たちに神の国の希望が約束されたので、私たちはヨブの嘆きの言葉を神への希望の光の中で改めて聞くことが出来るのです。
すべての信者会衆がキリストの福音に与かって生きるために、現代の教会は使徒たちから受け継いだ宣教を継続しなければなりません。
それはキリストの福音の宣教ですから、使徒継承に基づく宣教でなければなりません。
同時に信者会衆も、ミサを通して神のことばの食卓の豊かな富を受け取るために、自らの充実した、意識的な、行動的な参加を大切に考える必要があります。
今朝のヨブの嘆きの言葉を通して、神は私たち現代の教会にそのあるべき姿、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」(フィリ 1:5)という姿へのひたすらな渇望を、呼び覚まそうとしておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より しなければならない
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人 しなければならない
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人 2006年(主日B年) 2月5日 年間第5主日
ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
病気や悪霊による苦しみからいやされたシモンの姑も町の人々も、そのことによってイエスから始まった神の国の福音の宣教に参加する者となったのでした。
ヨブの叫びは、イエスのいやしによって解決されはしませんでした。
「忘れないでください。 わたしの命は風にすぎないことを。」(ヨブ v.7)
イエスによるいやしは、彼らが共に福音にあずかるようになるためでありました。
福音から切り離されたただの癒しは、人を救うことがありません。
「そこで神は、(福音の)宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(Iコリ 1:21)とある通りです。
ヨブの叫びは、主の再び来られる日まで続く福音の宣教へと招かれているすべての人の、ありのままの姿を暴露します。
神だけが、キリストの福音だけが、神の国の福音だけが人を救うことに目覚めるキリスト者は幸いです。
その福音は “十字架の言葉の福音”(Iコリ 1:18)であり、“神の秘められた計画を宣べ伝える福音”(Iコリ 2:1)であって、
復活された主が 「私は世の終わりまで、いつもあなたがた(の宣教)と共にいる」(マタ 28:20)と約束してくださっているのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」
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人 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」
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人 福音のために、掲示板で自演や責任転嫁もしますかね? 2000年(主日B年) 2月13日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
現代の私たちの教会を通しても、この神の救いの御業は進められています。
教会は、いつの時代にも神の国の到来を待っている群なのです。
その教会の中で、いろいろな活動いろいろな働きがあって、一般にはそのような各種の活動を見て、人々は “これがキリスト教なのだ” と理解しています。
確かに、いつの時代にもキリスト教会は、いろいろな活動いろいろな働きによって世の中に貢献して来ましたし、そのようにしてイエス・キリストの恵みや愛を多くの人々にもたらして来たと言えます。
しかし、主イエス・キリストによる終末的な救いの業に目が開かれていない人は、教会についてもキリスト教についても、まだ本当には分っていない人です。
神の国の王であり、終末の審判者であるイエス・キリストがかつて地上に来られたとき、今朝のテキストの中の “一人の重い皮膚病を患っている人” もいやされたのでした。
彼は再び、社会復帰をすることが出来ました。 しかしそれがすべてではありませんでした。
「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」(マコ v.45)。
そして今なおこの人は、彼をいやしてくださった方は神の子・救い主であることを、聖書を通して現代の私たちに向かっても語っているのです。
私たちは神の国の福音を信じ、主の再び来られるのを待ち望みつつ、主日ごとにミサをささげている群です。
各自はそれぞれいろんな形で教会の活動にも参加しています。
「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリ 10:31)
神は御子イエス・キリストによって、すべての人を罪から救い出して神の国に復活させてくださる終末的な救いの業を、教会を通して進めてくださっているのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>683
イエス! タカスくりにっく
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人 それがどうした 文句があるか
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人 乳房も泣かす
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人 お湯るしくださいお湯るしくださいお湯るしください
地獄はいやです地獄はいやです
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人 2009年(主日B年) 2月15日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、“御心ならば、わたしを清くすることがおできになります” と言った。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、“よろしい。 清くなれ” と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マコ vv.40-42)
神の国は悪霊の支配に対する戦いであり、イエスの宣教はその神の国の開始でありました。
それは “時が満ちて”、遂に神が歴史の中に突入された “救いの訪れ”(ルカ 1:68以下)であります。
C.H.Doddはこれを “実現した終末論”(realized eschatology)という用語で表現しましたが、“開始した” という形容詞のほうが理解し易いかもしれません。
洗礼者ヨハネが獄中から弟子を送って尋ねさせたとき、イエスは答えて言われました。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタ 11:4-6)
福音書は、イエスによるいやしや奇跡を、イエスによる御国の業の “しるし” として語っているのです。
いやされた人が喜びのあまり、この出来事を言い広めた話は、そこから神の国の福音の正しい理解へと進まねばならないのだということを教えるためと理解すべきでしょう。
・・・・・ イエスは深く憐れまれた(マコ v.41)。
だからキリスト者は同じ憐れみの心で医療を促進し、病気の存在しない世界を目指すべきだ ・・・・ 、と言うのでは、福音とは何の関係もない話になってしまいます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 医者に行くより
神に祈ると治る
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人 吉野家では肉抜きの牛丼を注文すること
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人 2012年(主日B年) 2月12日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリ v.31)
この “聖書の学び” をプリントするために私が用意した表紙には、Οικοδομέω(キリストの体を造り上げてゆき)という題字を掲げています。
聖書ではこの言葉が “わたしたち”(Iコリ 10:23)や “あなたがた”(Iコリ 14:26)と結びつけて使われていますが、それらはすべて “教会を造り上げる”(Iコリ 14:12)という意味で理解されねばなりません。
私たちはこれまで、そのような意味で 「神の栄光を現す」 という言葉を使って来ただろうかと、反省しましょう。
教会を造り上げることにも、罪の赦しと永遠の命にもほとんど関係なしに、 ・・・・ それらには全く無知なままで ・・・・・・ 、多くの善意による奉仕や活動が行われ、
その結果として本当の救いや正しい信仰について 「人を惑わす原因に」(Iコリ v.32)になってしまって来た、そんな反面教師の数々を私たちは見ているのではないでしょうか。
「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(Iコリ v.1)
あなたは使徒パウロがどのように福音を説明し、どのように信仰を語っているかを、学んでいるでしょうか?
神の啓示に関する教義憲章(25)も、聖ヒエロニムスの 「実際、聖書を知らないことは、キリストを知らないことである」 という言葉を引用して、信者が聖書を学ぶことの重要性を強調しています。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「わたしがキリストに倣う者であるように、
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バレンタインだよねー 🍫 チョコいくつもらったの? 2003年(主日B年) 3月9日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
受肉された神の子イエス・キリストの生涯は、サタンの働きに対する戦いでありました。
そしてその受難と復活こそはこの戦いの頂点であったことを、私たちは今年も四旬節を通して学んで行きます。
主の洗礼のときに天から降ったのと同じ “霊” が、イエスを荒れ野に送り出しました。
イエスが主の僕としての使命へと任じられたとはどういうことかが、明らかにされます。
サタンから誘惑を受けるためでした。
私たちはこの伝承を、主イエスがたまたま偶然に、あるいは気まぐれに荒れ野で自分の能力を試した物語りとして読んではなりません。
新約聖書はサタン(悪魔)という呼称で、「闇の世界の支配者」(エフェ 6:12)、「この世の支配者」(ヨハ 16:11)、すべての人がその中に閉じ込められていた 「罪と死との法則」(ロマ 8:2)のことを語っています。
私たちの罪を身代わりに負うためにヨハネからバプテスマをお受けになったイエスは、私たちへのサタンの誘惑をも自ら荒れ野でお受けになりました。
十字架でのサタンとの戦いの前哨戦が、ここで繰り広げられました。
サタンがイエスを主の僕としての使命から道をそらせようと誘惑している間、助け手はだれもおらず、ただ野獣だけが(イエスの孤独の象徴)いました。
40日間の戦いが終わって、天使たちがみ許に仕えていました。
父なる神の霊が御子イエス・キリストの生涯を導いて行かれます。
それは十字架の死に至る道でありました。
そして “霊” が共にいて導かれることは、御子のサタンとの戦いがいささかでも軽減されることを意味しませんでした。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
普段から聖書に親しんでいる人は、この区別が救済史を理解するための当然の前提であることを知っています。
キリスト教の諸信条も同様であります。
洗礼は肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることだと教えるこの(Iペトの)テキストは、恐らく古代教会の洗礼式の儀式書からの引用で、そこで “正しい良心” と表現されているのはキリストの福音への正しい信仰のことです。
人は洗礼を受けているか否か、その信じている福音が正しくキリストの福音であるか否かによって、区別されるのです。
それは永遠の区別、この世においてだけでなくて神の国に至るまで有効な区別であることを、現代のキリスト者は再認識しなければなりません。
イエス・キリストの恵みによって教会に委ねられている “洗礼への招き” の計り知れない富を、財産を地の中に隠していた僕(マタ 25:14-30)のように、現代の教会は退蔵していてはならないのです。 (つづき)
区別や差別に対して異常なほどの敵意と警戒心を示す近年の風潮は、キリストによる救いを与える “洗礼への招き” という計り知れない富に対して、私たち教会が盲目になってしまったことの裏返しであるかも知れません。
教会を巻き込む歴史上の各種の分裂や闘争の中で、どれほど多くのキリスト者が 「私は洗礼を受けている!」 というたった一つの事実を心の支えとして生き抜いて行ったか、計り知れないのです。
第二バチカン公会議が “エキュメニズムに関する教令”(3)によって明らかにした原理に、信者一人一人が良い理解を持つことが期待されます。
「 ・ ・ ・ それにもかかわらず、信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、
カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められるのである。」(別れた兄弟とカトリック教会の関係/3)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>715-716
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ > 神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
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人 715:老クリスチャン 2018/02/16(金) 11:12:14.41 ID:47uYWnDB
2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8015 Iペト 3:18022 マコ 1:12015
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1285440009/715 ____
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人 2009年(主日B年) 3月1日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
くちばしにオリーブの葉をくわえた鳩(創 8:11)や、ノアの契約のしるしである虹(創 vv.12以下)が、平和の象徴として用いられて来たことは、だれもが知っています。
しかし、創 8:21 の言葉を記憶している人は、多くありません。
「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。 “人に対して大地を呪うことは二度とすまい。 人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。 わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。”」
誤解してならないのは、神は今後洪水や自然災害の一切ない世界にするといわれたのではなくて、ただ “ことごとく滅ぼす”(創 v.11)ことをしないと言われただけだということです。
洪水物語りは、創12章から始まる神の救済史の序曲として位置づけられているのです。
旧約聖書の歴史は、イエス・キリストの血によって立てられる新しい契約(Iコリ 11:25)を、ひたすら目指す救済史でありました。
イエスは、十字架の死という洗礼(マコ 10:38,45、ルカ 12:50)を受けねばなりませんでした。
イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたその日から、苦難の僕なるメシアとしての歩みが始まりました。
そして今は、「罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠の神の右の座に着き」(ヘブ 10:12)、私たちのミサを通して 「悔い改めて福音を信じなさい」 と語り続けておられます。
私たちは説教で、聖書に書かれた昔話を聞くのではありません。
「神の言葉は生きており」(ヘブ 4:12)、「主は生きておられる」(王上 17:1)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ●連続殺人犯を預言者として崇める奇痴害キリスト教●
<列王記下>
エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上っていくと、町から小さな子供たちが出て来て彼を嘲り、「禿げ頭、上って行け。禿げ頭、上って行け」と言った。(2:23)
エリシャは振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。(2:24)
要するに「やーいハゲ頭ww」ってからかった子供に逆上して起こした連続殺人事件である。
ブレイビク、禹範坤に次ぐ世界第三位の連続殺人犯である。
エリシャは反左翼テロの色彩が強いブレイビクよりも、自らの不遇にファビョって殺しまくった禹範坤に近いDQNである。
キリスト教はこういうDQN連続殺人鬼を「預言者」として崇め奉っているのである。 >>725
> ●連続殺人犯を預言者として崇める奇痴害キリスト教●
イエス タカスくりにっく
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人 715:老クリスチャン 2018/02/16(金) 11:12:14.41 ID:47uYWnDB
2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8015 Iペト 3:18022 マコ 1:12015
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1285440009/715
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人 ボクは気が弱いので喧嘩なんかしません。
敬虔なクリスチャンと自称していいでしょうか。 ボクは喧嘩っ早いキリスト信者によく絡まれますよ
それが面白おかしくて宗教板に出入りしてるようなもんで
二枚舌とか偽善者とか、自覚の無い人をあしらうのは楽しいから 2000年(主日B年) 3月19日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
現在(2000年当時)、我が国の殆どすべてのカトリック教会のミサで、説教の後に会衆が唱和するのは、“洗礼式の信仰宣言” です。
理由は単純に “いちばん短い” からです。
しかしこのことは考え直す必要があるのではないでしょうか。
各個教会によってその使用はまちまちなのでしょうが、“ともにささげるミサ〔ミサ式次第 会衆用〕” には、“洗礼式の信仰宣言” と並んで “使徒信条” と “ニケア・コンスタンチノープル信条” が収録されています。
“キリストと我等のミサ(改訂版)”(1991年改訂初版)では、題名なしの形での “洗礼式の信仰宣言” と “ニケア・コンスタンチノープル信条” の二つが載せられています。
この “ニケア・コンスタンチノープル信条” は、キリスト教の歴史、特にその教理の歴史において非常に重要な位置を占めて来たものです。
特に教会が使徒継承によって受け継いで来た “ケリュグマ(宣教)” の理解についての “東西両教会が共有する信条” であるということに、注意を喚起したいと思います。
その教会が(東方にせよ西方にせよ)自らを “一・聖・公・使徒継承の教会である” と主張するとき、必ず告白しなければならない信条が、この “ニケア・コンスタンチノープル信条” なのです。
今朝の創世記のアブラハムとイサクの物語りを、決してアブラハムの単なる個人的な信仰の称賛の物語りとしてではなく、父なる神が御子イエス・キリストを私たちの贖いのために与えてくださった救いの出来事を指し示す物語りとして読むためにも、
またさらにそのアブラハムの信仰を、ミサにおいてキリストのいけにえの奉献に一つに結ばれる私たちの信仰の手本として読むことを教え導くためにも、“ニケア・コンスタンチノープル信条” は大きく貢献するのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 ツチノコッタノコッタ
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人 2009年(主日B年) 3月8日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
毎年、四旬節第2主日には、共観福音書の中からの “主の変容” のテキストが朗読されます。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人が、口にするのも畏れおおい光景の中でイエスがメシアであることを確信し、その御顔に輝くメシアの将来の栄光(IIコリ 4:6)をかいま見たという、非常に神学的な意味合いの濃い記述に耳を傾けるのです。
人はこのテキストを、まるで意味不明な現場リポートでも聞くように読んではなりません。
なぜならこのテキストは、福音書の中で、単純な目撃者による報告をはるかに超えるものとして語られているからです。
先ずここに描かれているイエスは、“モーセのような預言者”(申 18:15,18)として、出エジプトに勝る大いなる贖いを成し遂げるメシアであり、その新しいモーセが、かつてのモーセのように聖なる山で神の声を聞いたのです(IIペト 1:18)。
出 24:16 には、こう記されています。
「主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。」
そのとおりに 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(マコ v.2)のです。
変容の山は、もちろん、新しいシナイであり、神は七日目に雲の中から新しいモーセに呼びかけられました(マコ v.7)。 (つづき)
モーセが山を下ったとき、神と語ったために、彼の顔の肌が光を放っていたように(出 34:29)、弟子たちはイエスの御顔に輝く神の栄光を見ました。
ペトロが 「仮小屋を三つ建てましょう」(マコ v.5)と言ったのも、おそらく 「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」(黙 21:3)終末の象徴であるように思われます。
モーセは真の預言者であり(申 34:10)、エリヤは マラ 3:22-23 以降、第二のモーセと考えられていました。
そのエリヤとモーセは、物語りの中で古い時代を象徴し、預言の成就する新しい時代(IIペト 1:19)と対比されています。
雲の中からの声が 「これはわたしの愛する子、これに聞け」 と呼びかけた後、彼らの姿は消えて、弟子たちは 「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(マコ v.8)と、書かれています。
しかし、まだ時は来ていませんでした(ヨハ 2:4)。
「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」(マコ v.6)、つまり彼はこれから、キリストが 「多くの人の身代金として自分の命を献げ」(マコ 10:45)ねばならないということを、学ばなければなりませんでした。
主の変容の物語りは、使徒たちが主の復活後に宣教した福音を私たちが信じるならば、現代の私たちも彼らと同じように、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る」(IIコリ 4:6)ことが出来るということを、伝えているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 本日は金曜日
肉めにゅうなし
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人 2012年(主日B年) 3月4日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。 “これはわたしの愛する子。 これに聞け。” 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」(マコ vv.7-8)
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、人の子の終末における栄光に満ちた来臨の場面を、このとき一瞬目撃したのでした(IIペト 1:16)。
イエスは旧約の出エジプトよりもさらに偉大な贖いを実現する(エフェ 1:3-14、Iペト 1:18-21)“モーセのような預言者” である、という天からの声を聞いたのです。
ですから、主の洗礼の日に聞こえた天からの声に、ここでは “これに聞け” という 申 18:15 の言葉が追加されました。
神は “新しいモーセ” であるイエスに、「六日の後」 「雲の中から」 呼びかけられ(出 24:16)、
そしてその後、モーセと、モーセの再来とそれまで考えられて来たエリヤの二人が姿を消して、「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」 と書かれています。
ペトロが 「仮小屋を三つ建てましょう」(マコ v.5)と言った言葉も、神が人と共に住む(黙 21:3-4)終末の象徴として、ここに存在しているのです。
しかし、キリストの業はこのときにはまだ完成していませんでした。
「人の子が死者の中から復活するまでは」(マコ v.9)、まだ福音は未完成であり、復活の勝利を経て初めて “十字架の言葉”(Iコリ 1:18)である福音が “信じる者すべてに救いをもたらす神の力”(ロマ 1:16)となったのです。
今年も私たち教会は、この十字架の福音を “悔い改めて信じる” (マコ 1:15)ために、四旬節の歩みを共にたどって行きます。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2003年(主日B年) 3月23日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
使徒パウロによれば福音の宣教とは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることであります。
十字架を抜きにしてキリストの福音を語ることは出来ません。
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25)
また近代のヒューマニズムのように、キリストを抜きにした単なる博愛主義を広めることも、福音の宣教とは違うのです。
“しるし” によってでもなく、“知恵” によってでもなく、ただ十字架にかけられて死に、死者の中から復活させられたキリストを信じる信仰によって、私たちは罪を赦されて神の国を受け継ぐ民に加えられました。
この福音は現代人にとっても “つまずかせるもの、愚かなもの” ですが、救われた私たちにとっては 「神の力、神の知恵であるキリスト」(Iコリ v.24)の宣教です。
私たちが祭壇を囲んで共にミサをささげるとき、そこで司祭を代理者として私たちに出会い、御聖体を一人一人に分け与えてくださるのは、十字架と復活のキリストです。
そして教会は、この屠られた小羊であるキリストが神の国を完成される再臨の日を、忍耐して待ち望んでいる(ロマ 8:25)のです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2006年(主日B年) 3月19日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
「弟子たちは、“あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす” と書いてあるのを思い出した。」(ヨハ v.17)
2000年9月28日の早朝に、当時のイスラエルの野党リクードのシャロン党首が、イスラム教徒が管理するエルサレムの “神殿の丘” を訪問したことに端を発して、パレスチナ住民蜂起 “インティファーダ” の火が燃え上がり、
やがてイスラエルによるヨルダン川西岸での “分離フェンス” 建設に至った経緯を、殆どの日本人は単なる中東紛争という私たちに無縁な国際問題の一つとして見ています。
昨年新党カディマを結成して国民の大きな支持を得ていたシャロン首相が今年1月4日に脳卒中に倒れて、現在首相代理を務めているオルメルト氏は、今月に入って遂に、現在も建設継続中の “分離フェンス” を国境化する一方的な方針を公に表明しました。
シャロン党首の “神殿の丘訪問” が、エルサレムの主権はイスラエルにあることを誇示する象徴的な行動であったことを、世界中のどれだけのキリスト者が理解したでしょうか。
今朝の福音書の日課で、弟子たちが想起した 詩 69 との関連で、現代イスラエルのパレスチナ問題に対処する姿勢を理解出来た我が国のキリスト者は何人いるでしょうか。
イスラエル建国から間もなく60年になろうとしているのに、未だに出口の全く見えないパレスチナ問題の行方を、世界は今後も長きにわたるであろう今世紀の国際紛争の一つとして捉えています。 (つづき)
神殿から商人たちを追い出すという大胆な行動に出たイエスを、ユダヤ人たちはただの暴徒のようにしか見ませんでした。
しかし初代教会は使徒たちと共に、死者の中からの復活によって救いを実現してくださったイエスの “神の国を思う熱意” こそが、福音の中心的な主題であることを理解しました。
「聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(ヨハ v.22)とは、神の救済史がイエスの死と復活によって決定的に終末の完成に近づいたことを信じたということです。
ユダヤ人たちは今日もなお、地上のエルサレムが彼らの手に戻ることを期待していますが、一・聖・公・使徒継承の教会は、キリスト再臨の日に主の民が受け継ぐであろう天のエルサレムに希望をおいています。
そのいずれもが、救済史の神への期待、すなわち “あなたの家を思う熱意” であることを、私たちはもう一度よく考えてみる必要があります。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
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出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
“十字架につけられたキリストを宣べ伝える”(Iコリ v.23)ということの重大さを再発見することによって、歴史の教会は繰り返し改革され、刷新されて来ました。
カトリック教会にとっては、第二バチカン公会議がもたらした典礼刷新の意義は、計り知れないほど大きいと言わなければなりません。
それ以来、すべてのミサで司祭は、必ず聖書に基づく説教をすることが求められるようになりました。
また信徒には自ら聖書をひもといて学ぶことが奨励されるようになりました。
神の啓示に関する教義憲章(21)は、「それ故に、教会の教えも、キリスト信者の信仰そのものも、聖書によって養われ、規定される」 と述べています。
同 22 の実りとして、我が国でも新共同訳聖書が1987年に出版されました。
しかし、それ以来40年を過ぎた現在の我が国のカトリック教会では、“神の力である十字架の言葉”(Iコリ 1:18)が司祭の説教の、また信徒たちの信仰理解の中心主題となっていると言えるでしょうか。
“この御子において、その血によって贖われ、罪を赦された”(エフェ 1:7)という福音が、“信じる者すべてに救いをもたらす神の力”(ロマ 1:16)として活き活きと宣べ伝えられ、また信じられているでしょうか。
「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」 という使徒パウロの言葉(ガラ 4:11)が、聞こえてくるようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
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