敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
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人 2000年(主日B年) 1月30日 年間第4主日
申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
「人々はその教えに非常に驚いた。 律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マコ vv.21-22)
このような主イエスに、私たちもお会いしたいと思います。
私たちは漠然と信じているのではなくて、権威ある者としてお教えになる主イエスに出会って、私たちが受けている救いについてもっとしっかりした確信を持ちたいものだと思います。
「人々は皆驚いて、論じ合った。 “これはいったいどういうことなのだ。 権威ある新しい教えだ。 この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。”」(マコ v.27)
現代の教会が、この驚き ・・・ 神の子イエス・キリストの力ある救いに与かる驚き ・・・ を体験する教会となるために、第二バチカン公会議は典礼憲章を定めて、典礼刷新の基礎をおきました。
全世界の教会は今、その典礼刷新の中を歩んでいるのです。 (つづき)
ミサで聖書が朗読されることについては、「信者に神のことばの食卓の富を豊かに与えるために、聖書の宝庫を今まで以上に広く開かなければならない」(典礼憲章 51)と規定され、そのおかげで私たちは今朝も、定められた三つの朗読を聞くことが出来たのです。
さらに会衆がそこから神の呼びかけ、神の語りかけを聞くことが出来るように、典礼憲章は 「典礼の暦に従って、聖書に基づいて、信仰の秘義とキリスト教生活の諸原則を説明する説教を、典礼そのものの一部として、大いに奨励する」
「特に、主日と守るべき祝日に、・・・・・ ミサ聖祭において、説教を重大な理由なしに省略してはならない」 と定めました(典礼憲章 52)。
私たちが今朝、マルコ福音書からの朗読を通して聞いたガリラヤ湖畔カファルナウムの会堂での人々の体験は、説教を通して今日の私たち自身の体験となります。
なぜならこの福音書で物語られている主イエスは、私たちが今朝このミサでお会いし、その御聖体に与かるイエス・キリストと同じ方だからです。
私たちも今朝、この同じ神の子イエス・キリストにお会いして、その権威ある教え、権威ある救いに驚くのです。
それが私たちのミサなのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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 ̄ \__、("二) └─┘ ̄l二二l二二 _|_|__|_ 2009年(主日B年) 2月1日 年間第4主日
申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」(Iコリ v.35)
主イエスが、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」(マコ 10:45)主の僕として十字架に死に、信じる者を義とするために復活させられたとき(ロマ 4:25)、
かつては “秘密”(マコ 4:11)であった神の国は、今や教会の信徒たちにとって、「力にあふれて現れる」(マコ 9:1)将来の完成を待つ神の国となりました。
復活の勝利、聖霊の降臨、使徒たちの教会の誕生という出来事によって、神の国の業が完結してしまったのではありませんでした。
「主は、生者と死者を裁くために、栄光の内に再び来られます」(ニケア・コンスタンチノープル信条)(使 10:42,17:31、Iテサ 1:10 参照)という信仰こそが、キリスト者のミサと、その生活上の倫理の土台となったのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>657
> 「主は、生者と死者を裁くために、栄光の内に再び来られます」(ニケア・コンスタンチノープル信条)(使 10:42,17:31、Iテサ 1:10 参照)
脅迫罪とは、被害者の生命、身体、自由、名誉又は財産に対し
害を加えることを告知して人を脅迫することによって成立する犯罪をいいます。
刑法222条1項は、「生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して
人を脅迫した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。」と定めています。
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申 18:15〜20 Iコリ 7:32〜35 マコ 1:21〜28
ミサ典礼書の総則 95 には次のように書かれています。
「司祭は朗読台で福音書を開き、“主は皆さんとともに” と唱える。 それから “(マルコ)による福音” と唱え、親指で福音書と自分の額、口、胸に十字架のしるしをする。」
ただし、“これは司祭の動作であって会衆の動作ではない” と、ユンクマンが解説しているものです(ミサ p.215)。
そして更に続けて括弧書きで、「日本では、福音書に十字架の印をしながら “(マルコ)による福音” と唱える」 となっています(日本の教会における適応)。
2002年に出版された新しいラテン語規範版の総則では、司祭だけでなく会衆も “自分の額、口、胸に十字架のしるしをする” と修正されましたが、これに従う日本語版典礼書の改訂は、未だ教皇庁典礼秘跡省の認可を得るに至っていません。
ですから今は、日本語版現行典礼書(1978年)掲載の総則に従ってミサが行われることが正しいのです(暫定版 総則 p.8 日本における適応 参照)。
福音が語られ聞かれることへの熱心ではなくて、不正確な知識による自己流の誤った動作への執着が、なぜか10年ほど前からカトリック浜松教会の会衆の間には伝染してしまいました。
しかし、キリストの福音に掛かっている覆いは取り除かれねばなりません。
神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が、ミサをささげる一同に見えるようになるために(IIコリ 4:3-4)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2000年(主日B年) 2月6日 年間第5主日
ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
主イエスも宣教されました。 しかし聖書が語る “宣教” とは決してイエスの “単なる教え” ではありません。
神の国の福音は、イエス・キリストの福音です。 それは神の子イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した “救いの福音” です。
使徒たちから始まって代々の教会は、福音を宣べ伝えて来ました。
人々が福音を聞いて救い主イエス・キリストを信じるようになり、洗礼の秘跡を受けて実際にこのキリストの福音に与かる者となるように、教会は宣教を続けて来たのです。
ミサは、主イエス・キリストの死と復活を記念し、十字架のいけにえをささげ、一同がこれに与かる “感謝の祭儀” です。
すべて洗礼の秘跡を受けたキリスト者は、ミサに与かり、神の国の福音に与かる権利と義務を持っています(ミサ典礼書の総則 3)。
罪と死のもとにあって、“滅び行く命” でしかなかった者 ・・・・・ 、それが私たちすべての人間の姿です。
イエス・キリストの福音なしには人間はどんなに悲惨であるかを、私たちは思いましょう。
私たちの聞かされている福音は神の国の福音です。
私たちはイエス・キリストの救いに与かって、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じて歩んでいるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
「忘れないでください。 わたしの命は風に過ぎないことを。 わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。」(ヨブ v.7)
このヨブの嘆きの言葉を厭世主義と理解するなら、それは聖書の正しい読み方ではありません。
ヨブは絶望と厭世の中で独り言を語ったのではありませんでした。
そうではなくて、彼は神に訴えて、神が彼の言い分を否定し、神が自らの答えをもって彼に報いてくださることを期待していました。
ヨブの語る自らの人生は、私たち自身の人生の現実そのままです。
もし私たちがキリストの福音を聞かず、福音に与かって生きることをしていなかったら、ヨブの語る絶望と厭世は実に私たち自身のものであったことでしょう。
しかし、キリストの福音によって私たちに神の国の希望が約束されたので、私たちはヨブの嘆きの言葉を神への希望の光の中で改めて聞くことが出来るのです。
すべての信者会衆がキリストの福音に与かって生きるために、現代の教会は使徒たちから受け継いだ宣教を継続しなければなりません。
それはキリストの福音の宣教ですから、使徒継承に基づく宣教でなければなりません。
同時に信者会衆も、ミサを通して神のことばの食卓の豊かな富を受け取るために、自らの充実した、意識的な、行動的な参加を大切に考える必要があります。
今朝のヨブの嘆きの言葉を通して、神は私たち現代の教会にそのあるべき姿、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」(フィリ 1:5)という姿へのひたすらな渇望を、呼び覚まそうとしておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より しなければならない
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人 2006年(主日B年) 2月5日 年間第5主日
ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39
病気や悪霊による苦しみからいやされたシモンの姑も町の人々も、そのことによってイエスから始まった神の国の福音の宣教に参加する者となったのでした。
ヨブの叫びは、イエスのいやしによって解決されはしませんでした。
「忘れないでください。 わたしの命は風にすぎないことを。」(ヨブ v.7)
イエスによるいやしは、彼らが共に福音にあずかるようになるためでありました。
福音から切り離されたただの癒しは、人を救うことがありません。
「そこで神は、(福音の)宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(Iコリ 1:21)とある通りです。
ヨブの叫びは、主の再び来られる日まで続く福音の宣教へと招かれているすべての人の、ありのままの姿を暴露します。
神だけが、キリストの福音だけが、神の国の福音だけが人を救うことに目覚めるキリスト者は幸いです。
その福音は “十字架の言葉の福音”(Iコリ 1:18)であり、“神の秘められた計画を宣べ伝える福音”(Iコリ 2:1)であって、
復活された主が 「私は世の終わりまで、いつもあなたがた(の宣教)と共にいる」(マタ 28:20)と約束してくださっているのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」
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人 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」
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人 福音のために、掲示板で自演や責任転嫁もしますかね? 2000年(主日B年) 2月13日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
現代の私たちの教会を通しても、この神の救いの御業は進められています。
教会は、いつの時代にも神の国の到来を待っている群なのです。
その教会の中で、いろいろな活動いろいろな働きがあって、一般にはそのような各種の活動を見て、人々は “これがキリスト教なのだ” と理解しています。
確かに、いつの時代にもキリスト教会は、いろいろな活動いろいろな働きによって世の中に貢献して来ましたし、そのようにしてイエス・キリストの恵みや愛を多くの人々にもたらして来たと言えます。
しかし、主イエス・キリストによる終末的な救いの業に目が開かれていない人は、教会についてもキリスト教についても、まだ本当には分っていない人です。
神の国の王であり、終末の審判者であるイエス・キリストがかつて地上に来られたとき、今朝のテキストの中の “一人の重い皮膚病を患っている人” もいやされたのでした。
彼は再び、社会復帰をすることが出来ました。 しかしそれがすべてではありませんでした。
「彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」(マコ v.45)。
そして今なおこの人は、彼をいやしてくださった方は神の子・救い主であることを、聖書を通して現代の私たちに向かっても語っているのです。
私たちは神の国の福音を信じ、主の再び来られるのを待ち望みつつ、主日ごとにミサをささげている群です。
各自はそれぞれいろんな形で教会の活動にも参加しています。
「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリ 10:31)
神は御子イエス・キリストによって、すべての人を罪から救い出して神の国に復活させてくださる終末的な救いの業を、教会を通して進めてくださっているのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>683
イエス! タカスくりにっく
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人 お湯るしくださいお湯るしくださいお湯るしください
地獄はいやです地獄はいやです
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人 2009年(主日B年) 2月15日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
「さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、“御心ならば、わたしを清くすることがおできになります” と言った。
イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、“よろしい。 清くなれ” と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(マコ vv.40-42)
神の国は悪霊の支配に対する戦いであり、イエスの宣教はその神の国の開始でありました。
それは “時が満ちて”、遂に神が歴史の中に突入された “救いの訪れ”(ルカ 1:68以下)であります。
C.H.Doddはこれを “実現した終末論”(realized eschatology)という用語で表現しましたが、“開始した” という形容詞のほうが理解し易いかもしれません。
洗礼者ヨハネが獄中から弟子を送って尋ねさせたとき、イエスは答えて言われました。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタ 11:4-6)
福音書は、イエスによるいやしや奇跡を、イエスによる御国の業の “しるし” として語っているのです。
いやされた人が喜びのあまり、この出来事を言い広めた話は、そこから神の国の福音の正しい理解へと進まねばならないのだということを教えるためと理解すべきでしょう。
・・・・・ イエスは深く憐れまれた(マコ v.41)。
だからキリスト者は同じ憐れみの心で医療を促進し、病気の存在しない世界を目指すべきだ ・・・・ 、と言うのでは、福音とは何の関係もない話になってしまいます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 医者に行くより
神に祈ると治る
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人 吉野家では肉抜きの牛丼を注文すること
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人 2012年(主日B年) 2月12日 年間第6主日
創 3:16〜19 Iコリ 10:31〜11:1 マコ 1:40〜45
「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Iコリ v.31)
この “聖書の学び” をプリントするために私が用意した表紙には、Οικοδομέω(キリストの体を造り上げてゆき)という題字を掲げています。
聖書ではこの言葉が “わたしたち”(Iコリ 10:23)や “あなたがた”(Iコリ 14:26)と結びつけて使われていますが、それらはすべて “教会を造り上げる”(Iコリ 14:12)という意味で理解されねばなりません。
私たちはこれまで、そのような意味で 「神の栄光を現す」 という言葉を使って来ただろうかと、反省しましょう。
教会を造り上げることにも、罪の赦しと永遠の命にもほとんど関係なしに、 ・・・・ それらには全く無知なままで ・・・・・・ 、多くの善意による奉仕や活動が行われ、
その結果として本当の救いや正しい信仰について 「人を惑わす原因に」(Iコリ v.32)になってしまって来た、そんな反面教師の数々を私たちは見ているのではないでしょうか。
「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(Iコリ v.1)
あなたは使徒パウロがどのように福音を説明し、どのように信仰を語っているかを、学んでいるでしょうか?
神の啓示に関する教義憲章(25)も、聖ヒエロニムスの 「実際、聖書を知らないことは、キリストを知らないことである」 という言葉を引用して、信者が聖書を学ぶことの重要性を強調しています。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「わたしがキリストに倣う者であるように、
l ',', ,' , ´`ー-'! c, '
l ',ヽ ! 'ゝ-===、 / あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
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l ヽ、 >‐---イ 老クリスチャン
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バレンタインだよねー 🍫 チョコいくつもらったの? 2003年(主日B年) 3月9日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
受肉された神の子イエス・キリストの生涯は、サタンの働きに対する戦いでありました。
そしてその受難と復活こそはこの戦いの頂点であったことを、私たちは今年も四旬節を通して学んで行きます。
主の洗礼のときに天から降ったのと同じ “霊” が、イエスを荒れ野に送り出しました。
イエスが主の僕としての使命へと任じられたとはどういうことかが、明らかにされます。
サタンから誘惑を受けるためでした。
私たちはこの伝承を、主イエスがたまたま偶然に、あるいは気まぐれに荒れ野で自分の能力を試した物語りとして読んではなりません。
新約聖書はサタン(悪魔)という呼称で、「闇の世界の支配者」(エフェ 6:12)、「この世の支配者」(ヨハ 16:11)、すべての人がその中に閉じ込められていた 「罪と死との法則」(ロマ 8:2)のことを語っています。
私たちの罪を身代わりに負うためにヨハネからバプテスマをお受けになったイエスは、私たちへのサタンの誘惑をも自ら荒れ野でお受けになりました。
十字架でのサタンとの戦いの前哨戦が、ここで繰り広げられました。
サタンがイエスを主の僕としての使命から道をそらせようと誘惑している間、助け手はだれもおらず、ただ野獣だけが(イエスの孤独の象徴)いました。
40日間の戦いが終わって、天使たちがみ許に仕えていました。
父なる神の霊が御子イエス・キリストの生涯を導いて行かれます。
それは十字架の死に至る道でありました。
そして “霊” が共にいて導かれることは、御子のサタンとの戦いがいささかでも軽減されることを意味しませんでした。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
普段から聖書に親しんでいる人は、この区別が救済史を理解するための当然の前提であることを知っています。
キリスト教の諸信条も同様であります。
洗礼は肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることだと教えるこの(Iペトの)テキストは、恐らく古代教会の洗礼式の儀式書からの引用で、そこで “正しい良心” と表現されているのはキリストの福音への正しい信仰のことです。
人は洗礼を受けているか否か、その信じている福音が正しくキリストの福音であるか否かによって、区別されるのです。
それは永遠の区別、この世においてだけでなくて神の国に至るまで有効な区別であることを、現代のキリスト者は再認識しなければなりません。
イエス・キリストの恵みによって教会に委ねられている “洗礼への招き” の計り知れない富を、財産を地の中に隠していた僕(マタ 25:14-30)のように、現代の教会は退蔵していてはならないのです。 (つづき)
区別や差別に対して異常なほどの敵意と警戒心を示す近年の風潮は、キリストによる救いを与える “洗礼への招き” という計り知れない富に対して、私たち教会が盲目になってしまったことの裏返しであるかも知れません。
教会を巻き込む歴史上の各種の分裂や闘争の中で、どれほど多くのキリスト者が 「私は洗礼を受けている!」 というたった一つの事実を心の支えとして生き抜いて行ったか、計り知れないのです。
第二バチカン公会議が “エキュメニズムに関する教令”(3)によって明らかにした原理に、信者一人一人が良い理解を持つことが期待されます。
「 ・ ・ ・ それにもかかわらず、信仰によって洗礼において義とされた者は、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けているのであり、
カトリック教会の子らから主における兄弟として当然認められるのである。」(別れた兄弟とカトリック教会の関係/3)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>715-716
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ > 神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
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人 715:老クリスチャン 2018/02/16(金) 11:12:14.41 ID:47uYWnDB
2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8015 Iペト 3:18022 マコ 1:12015
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1285440009/715 ____
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人 2009年(主日B年) 3月1日 四旬節第1主日
創 9:8〜15 Iペト 3:18〜22 マコ 1:12〜15
くちばしにオリーブの葉をくわえた鳩(創 8:11)や、ノアの契約のしるしである虹(創 vv.12以下)が、平和の象徴として用いられて来たことは、だれもが知っています。
しかし、創 8:21 の言葉を記憶している人は、多くありません。
「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。 “人に対して大地を呪うことは二度とすまい。 人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。 わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。”」
誤解してならないのは、神は今後洪水や自然災害の一切ない世界にするといわれたのではなくて、ただ “ことごとく滅ぼす”(創 v.11)ことをしないと言われただけだということです。
洪水物語りは、創12章から始まる神の救済史の序曲として位置づけられているのです。
旧約聖書の歴史は、イエス・キリストの血によって立てられる新しい契約(Iコリ 11:25)を、ひたすら目指す救済史でありました。
イエスは、十字架の死という洗礼(マコ 10:38,45、ルカ 12:50)を受けねばなりませんでした。
イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたその日から、苦難の僕なるメシアとしての歩みが始まりました。
そして今は、「罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠の神の右の座に着き」(ヘブ 10:12)、私たちのミサを通して 「悔い改めて福音を信じなさい」 と語り続けておられます。
私たちは説教で、聖書に書かれた昔話を聞くのではありません。
「神の言葉は生きており」(ヘブ 4:12)、「主は生きておられる」(王上 17:1)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ●連続殺人犯を預言者として崇める奇痴害キリスト教●
<列王記下>
エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上っていくと、町から小さな子供たちが出て来て彼を嘲り、「禿げ頭、上って行け。禿げ頭、上って行け」と言った。(2:23)
エリシャは振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。(2:24)
要するに「やーいハゲ頭ww」ってからかった子供に逆上して起こした連続殺人事件である。
ブレイビク、禹範坤に次ぐ世界第三位の連続殺人犯である。
エリシャは反左翼テロの色彩が強いブレイビクよりも、自らの不遇にファビョって殺しまくった禹範坤に近いDQNである。
キリスト教はこういうDQN連続殺人鬼を「預言者」として崇め奉っているのである。 >>725
> ●連続殺人犯を預言者として崇める奇痴害キリスト教●
イエス タカスくりにっく
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人 715:老クリスチャン 2018/02/16(金) 11:12:14.41 ID:47uYWnDB
2006年(主日B年) 3月5日 四旬節第1主日
創 9:8015 Iペト 3:18022 マコ 1:12015
神は洗礼によって、救われる人々と滅びに至る人々を分けられます。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1285440009/715
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人 ボクは気が弱いので喧嘩なんかしません。
敬虔なクリスチャンと自称していいでしょうか。 ボクは喧嘩っ早いキリスト信者によく絡まれますよ
それが面白おかしくて宗教板に出入りしてるようなもんで
二枚舌とか偽善者とか、自覚の無い人をあしらうのは楽しいから 2000年(主日B年) 3月19日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
現在(2000年当時)、我が国の殆どすべてのカトリック教会のミサで、説教の後に会衆が唱和するのは、“洗礼式の信仰宣言” です。
理由は単純に “いちばん短い” からです。
しかしこのことは考え直す必要があるのではないでしょうか。
各個教会によってその使用はまちまちなのでしょうが、“ともにささげるミサ〔ミサ式次第 会衆用〕” には、“洗礼式の信仰宣言” と並んで “使徒信条” と “ニケア・コンスタンチノープル信条” が収録されています。
“キリストと我等のミサ(改訂版)”(1991年改訂初版)では、題名なしの形での “洗礼式の信仰宣言” と “ニケア・コンスタンチノープル信条” の二つが載せられています。
この “ニケア・コンスタンチノープル信条” は、キリスト教の歴史、特にその教理の歴史において非常に重要な位置を占めて来たものです。
特に教会が使徒継承によって受け継いで来た “ケリュグマ(宣教)” の理解についての “東西両教会が共有する信条” であるということに、注意を喚起したいと思います。
その教会が(東方にせよ西方にせよ)自らを “一・聖・公・使徒継承の教会である” と主張するとき、必ず告白しなければならない信条が、この “ニケア・コンスタンチノープル信条” なのです。
今朝の創世記のアブラハムとイサクの物語りを、決してアブラハムの単なる個人的な信仰の称賛の物語りとしてではなく、父なる神が御子イエス・キリストを私たちの贖いのために与えてくださった救いの出来事を指し示す物語りとして読むためにも、
またさらにそのアブラハムの信仰を、ミサにおいてキリストのいけにえの奉献に一つに結ばれる私たちの信仰の手本として読むことを教え導くためにも、“ニケア・コンスタンチノープル信条” は大きく貢献するのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 ツチノコッタノコッタ
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人 2009年(主日B年) 3月8日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
毎年、四旬節第2主日には、共観福音書の中からの “主の変容” のテキストが朗読されます。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人が、口にするのも畏れおおい光景の中でイエスがメシアであることを確信し、その御顔に輝くメシアの将来の栄光(IIコリ 4:6)をかいま見たという、非常に神学的な意味合いの濃い記述に耳を傾けるのです。
人はこのテキストを、まるで意味不明な現場リポートでも聞くように読んではなりません。
なぜならこのテキストは、福音書の中で、単純な目撃者による報告をはるかに超えるものとして語られているからです。
先ずここに描かれているイエスは、“モーセのような預言者”(申 18:15,18)として、出エジプトに勝る大いなる贖いを成し遂げるメシアであり、その新しいモーセが、かつてのモーセのように聖なる山で神の声を聞いたのです(IIペト 1:18)。
出 24:16 には、こう記されています。
「主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。」
そのとおりに 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(マコ v.2)のです。
変容の山は、もちろん、新しいシナイであり、神は七日目に雲の中から新しいモーセに呼びかけられました(マコ v.7)。 (つづき)
モーセが山を下ったとき、神と語ったために、彼の顔の肌が光を放っていたように(出 34:29)、弟子たちはイエスの御顔に輝く神の栄光を見ました。
ペトロが 「仮小屋を三つ建てましょう」(マコ v.5)と言ったのも、おそらく 「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」(黙 21:3)終末の象徴であるように思われます。
モーセは真の預言者であり(申 34:10)、エリヤは マラ 3:22-23 以降、第二のモーセと考えられていました。
そのエリヤとモーセは、物語りの中で古い時代を象徴し、預言の成就する新しい時代(IIペト 1:19)と対比されています。
雲の中からの声が 「これはわたしの愛する子、これに聞け」 と呼びかけた後、彼らの姿は消えて、弟子たちは 「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(マコ v.8)と、書かれています。
しかし、まだ時は来ていませんでした(ヨハ 2:4)。
「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」(マコ v.6)、つまり彼はこれから、キリストが 「多くの人の身代金として自分の命を献げ」(マコ 10:45)ねばならないということを、学ばなければなりませんでした。
主の変容の物語りは、使徒たちが主の復活後に宣教した福音を私たちが信じるならば、現代の私たちも彼らと同じように、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る」(IIコリ 4:6)ことが出来るということを、伝えているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 本日は金曜日
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人 2012年(主日B年) 3月4日 四旬節第2主日
創 22:1〜18 ロマ 8:31〜34 マコ 9:2〜10
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。 “これはわたしの愛する子。 これに聞け。” 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」(マコ vv.7-8)
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、人の子の終末における栄光に満ちた来臨の場面を、このとき一瞬目撃したのでした(IIペト 1:16)。
イエスは旧約の出エジプトよりもさらに偉大な贖いを実現する(エフェ 1:3-14、Iペト 1:18-21)“モーセのような預言者” である、という天からの声を聞いたのです。
ですから、主の洗礼の日に聞こえた天からの声に、ここでは “これに聞け” という 申 18:15 の言葉が追加されました。
神は “新しいモーセ” であるイエスに、「六日の後」 「雲の中から」 呼びかけられ(出 24:16)、
そしてその後、モーセと、モーセの再来とそれまで考えられて来たエリヤの二人が姿を消して、「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」 と書かれています。
ペトロが 「仮小屋を三つ建てましょう」(マコ v.5)と言った言葉も、神が人と共に住む(黙 21:3-4)終末の象徴として、ここに存在しているのです。
しかし、キリストの業はこのときにはまだ完成していませんでした。
「人の子が死者の中から復活するまでは」(マコ v.9)、まだ福音は未完成であり、復活の勝利を経て初めて “十字架の言葉”(Iコリ 1:18)である福音が “信じる者すべてに救いをもたらす神の力”(ロマ 1:16)となったのです。
今年も私たち教会は、この十字架の福音を “悔い改めて信じる” (マコ 1:15)ために、四旬節の歩みを共にたどって行きます。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2003年(主日B年) 3月23日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
使徒パウロによれば福音の宣教とは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることであります。
十字架を抜きにしてキリストの福音を語ることは出来ません。
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25)
また近代のヒューマニズムのように、キリストを抜きにした単なる博愛主義を広めることも、福音の宣教とは違うのです。
“しるし” によってでもなく、“知恵” によってでもなく、ただ十字架にかけられて死に、死者の中から復活させられたキリストを信じる信仰によって、私たちは罪を赦されて神の国を受け継ぐ民に加えられました。
この福音は現代人にとっても “つまずかせるもの、愚かなもの” ですが、救われた私たちにとっては 「神の力、神の知恵であるキリスト」(Iコリ v.24)の宣教です。
私たちが祭壇を囲んで共にミサをささげるとき、そこで司祭を代理者として私たちに出会い、御聖体を一人一人に分け与えてくださるのは、十字架と復活のキリストです。
そして教会は、この屠られた小羊であるキリストが神の国を完成される再臨の日を、忍耐して待ち望んでいる(ロマ 8:25)のです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2006年(主日B年) 3月19日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
「弟子たちは、“あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす” と書いてあるのを思い出した。」(ヨハ v.17)
2000年9月28日の早朝に、当時のイスラエルの野党リクードのシャロン党首が、イスラム教徒が管理するエルサレムの “神殿の丘” を訪問したことに端を発して、パレスチナ住民蜂起 “インティファーダ” の火が燃え上がり、
やがてイスラエルによるヨルダン川西岸での “分離フェンス” 建設に至った経緯を、殆どの日本人は単なる中東紛争という私たちに無縁な国際問題の一つとして見ています。
昨年新党カディマを結成して国民の大きな支持を得ていたシャロン首相が今年1月4日に脳卒中に倒れて、現在首相代理を務めているオルメルト氏は、今月に入って遂に、現在も建設継続中の “分離フェンス” を国境化する一方的な方針を公に表明しました。
シャロン党首の “神殿の丘訪問” が、エルサレムの主権はイスラエルにあることを誇示する象徴的な行動であったことを、世界中のどれだけのキリスト者が理解したでしょうか。
今朝の福音書の日課で、弟子たちが想起した 詩 69 との関連で、現代イスラエルのパレスチナ問題に対処する姿勢を理解出来た我が国のキリスト者は何人いるでしょうか。
イスラエル建国から間もなく60年になろうとしているのに、未だに出口の全く見えないパレスチナ問題の行方を、世界は今後も長きにわたるであろう今世紀の国際紛争の一つとして捉えています。 (つづき)
神殿から商人たちを追い出すという大胆な行動に出たイエスを、ユダヤ人たちはただの暴徒のようにしか見ませんでした。
しかし初代教会は使徒たちと共に、死者の中からの復活によって救いを実現してくださったイエスの “神の国を思う熱意” こそが、福音の中心的な主題であることを理解しました。
「聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(ヨハ v.22)とは、神の救済史がイエスの死と復活によって決定的に終末の完成に近づいたことを信じたということです。
ユダヤ人たちは今日もなお、地上のエルサレムが彼らの手に戻ることを期待していますが、一・聖・公・使徒継承の教会は、キリスト再臨の日に主の民が受け継ぐであろう天のエルサレムに希望をおいています。
そのいずれもが、救済史の神への期待、すなわち “あなたの家を思う熱意” であることを、私たちはもう一度よく考えてみる必要があります。
・・・・・ 以下、本文参照。
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「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
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゙ ゙ヽ /':: "::::/::::::::: : 2009年(主日B年) 3月15日 四旬節第3主日
出 20:1〜17 Iコリ 1:22〜25 ヨハ 2:13〜25
“十字架につけられたキリストを宣べ伝える”(Iコリ v.23)ということの重大さを再発見することによって、歴史の教会は繰り返し改革され、刷新されて来ました。
カトリック教会にとっては、第二バチカン公会議がもたらした典礼刷新の意義は、計り知れないほど大きいと言わなければなりません。
それ以来、すべてのミサで司祭は、必ず聖書に基づく説教をすることが求められるようになりました。
また信徒には自ら聖書をひもといて学ぶことが奨励されるようになりました。
神の啓示に関する教義憲章(21)は、「それ故に、教会の教えも、キリスト信者の信仰そのものも、聖書によって養われ、規定される」 と述べています。
同 22 の実りとして、我が国でも新共同訳聖書が1987年に出版されました。
しかし、それ以来40年を過ぎた現在の我が国のカトリック教会では、“神の力である十字架の言葉”(Iコリ 1:18)が司祭の説教の、また信徒たちの信仰理解の中心主題となっていると言えるでしょうか。
“この御子において、その血によって贖われ、罪を赦された”(エフェ 1:7)という福音が、“信じる者すべてに救いをもたらす神の力”(ロマ 1:16)として活き活きと宣べ伝えられ、また信じられているでしょうか。
「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」 という使徒パウロの言葉(ガラ 4:11)が、聞こえてくるようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2003年(主日B年) 3月30日 四旬節第4主日
代下 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
ダビデ〜ソロモンの王国が分裂して生まれた南北イスラエルのうち、北王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ(王下 17章)、その後130年余存続した南王国も遂に紀元前587年にバビロンの王ネブカドネツァルによって征服されました。
歴代の王とその民が罪を犯した結果であったと、旧約聖書は述べています。
「それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。」(代下 v.16)
「神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。 剣を免れて生き残った者は捕えられ、バビロンに連れ去られた。」(代下 vv.19-20)
これがいわゆる “バビロンの捕囚” と呼ばれている出来事です。
しかし御自分の民を滅ぼす神は、同時にこれを顧みて将来を約束される神でありました(エレ 29:10以下)。
ペルャVアの王キュロャXの第一年(紀元前538年)、この神の約束によってイスラエルの歴史が再び始まります。
この当時の希望に満ちた喜びを、第二イザヤが見事に歌っています。
「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(イザ 40:1-2) (つづき)
この神の救済史の過去の出来事が、イエス・キリストの救いに与かる私たち教会に光を照らし、終わりの時に実現されるキリストの秘められた計画(コロ 1:26-27)を明らかにします。
私たちキリスト者にとって救われているとは、新しくキリストと共に生かされ、新しく神に造られているということです。
それは 「自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェ v.8)
神は洗礼の秘跡によって私たちを新しく神の子として(エフェ 1:5)生まれさせてくださいました。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」(IIコリ 5:17)
ですから私たちキリスト者の希望は、神の約束が実現する天の国にあります(フィリ 3:20-21)。
「わたしたちは、その善い業を行って歩む」(エフェ v.10)ということの意味は、私たちが神の国の相続人としての恵みの中でキリストの体である教会を造り上げて行く(エフェ 4:12)ことと固く結びついています。
四旬節の歩みの中にある全世界の教会に、神は今朝語っておられます。
「御子を信じる者は裁かれない。 信じない者はすでに裁かれている。」(ヨハ 3:18)
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2006年(主日B年) 3月26日 四旬節第4主日
歴下 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
南王国ユダがその独立を失ってバビロンの属国となった紀元前587年からほぼ70年を経て、紀元前516年にエルサレム神殿は再建されました。
歴代誌下は、この記事を救済史の新しい展開の序章として、その最後に置きました。
それはイスラエルの神に期待する熱き信仰の証しであったと考えられます。
旧約聖書の諸書も、新約聖書の福音書や使徒たちの書簡類も、一般の文学におけるようにそれ自身で完結する結末を持っていないことを知りましょう。
聖書の中には、“めでたし、めでたし” で終わるような完結した作品は存在しません。
救済史への期待を抜きにしては、教会の信仰を語ることは出来ないのです。
私たちのミサで、今朝も主の祈りに添えて副文が唱えられるのはそのためです。
司祭 : 私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを、待ち望んでいます。
会衆 : 国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。 アーメン。
・・・・・ 以下、本文参照。
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2012年(主日B年) 3月18日 四旬節第4主日
歴 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハ vv.14-15)
私たちキリスト者の救いは、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して」(ロマ 3:24) 「その血によって贖われ、罪を赦された」(エフェ 1:7)という 「神の賜物」(エフェ 2:8)に全く依存しています。
キリストの贖いの死と、罪と死と悪魔に勝利しての復活は、“昔々あるところで ・・・・・ ” という、単なる歴史の中の一つのエピソードではないのです。
そのことから切り離しては決して、「神は ・・・・・ 世を愛された」(ヨハ v.16)という福音のメッセージを正しく理解することが出来ません。
このキリストによる贖いと罪の赦しの御業は、教会にとっては常に現在の事実であり出来事であるということを、強調したいと思います。
カトリック教会の “ミサ典礼書の総則” は、その第一章の冒頭で次のように述べています。
「ミサの祭儀は、キリストの行為であり、(救いを受け、感謝し賛美する)神の民の行為であって、 ・・・・・ キリスト者の生活全体の中心である。
実に、ミサの中にキリストにおいて世を聖とされる神の働きの頂点があり、また人々が、神の子キリストによって父にささげる礼拝の頂点がある。」(1) (つづき)
カトリック教会の伝承における特に重大な教えが、“秘跡的再現” という用語で説明されています。
「すなわち、十字架上のいけにえと、ミサにおけるその秘跡的再現は、奉献のしかたを除けば同一のものである」(2) と、教えられているのです。
私たちがいろいろな機会に、特に主日に “ともにささげるミサ” の中に、「御子によって世が救われる」(ヨハ v.17)神の働きの頂点があり、同時に 「信じない者は既に裁かれている」(ヨハ v.18)という神の判決があるのです。
「わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから」(ヘブ 10:21)、洗礼の秘跡によって救いに入れられた私たちは、教会が 「公に言い表している信仰」(ヘブ 4:14/教会に平和を願う祈り)を揺るがぬようしっかり保って、
ともにミサをささげることを、今年も四旬節に学んで行きましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2003年(主日B年) 4月6日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
受肉されたキリストがその地上の生涯において自分を徹底的に低くされ、「多くの苦しみによって従順を学ばれ」(ヘブ v.8)たことは、それに続く復活の栄光と結びつけて、使徒たちの宣教の中に組み入れられました。
この復活のキリストは地上の教会の歩みを支え導く方であり、やがて終わりの日に再臨される神の国の王であります。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければなりませんでした。
しかし死んで、否、復活して、御自分の体である教会を贖われ、多くの実を結ぶこととなりました。
このように、教会にとって、キリストの福音からイエスの死と復活の事実を切り離すことは出来ません。
その死と復活の光に照らして解釈されない(単なるナザレの)イエスの物語りや教えは、使徒たちが伝えた福音とは違うものです。
一部の人々の中にある “イエスの宗教がイエスについての宗教に変質した” という異論への解答は、イエスの復活の後に最初の弟子たちが経験したことの中にあります。
それは、イエスの死と復活の出来事は神の贖いの業であったという、復活節における神自らの啓示の行為によって起こった経験でした。
使徒たちの福音宣教はそこから始まりました。 (つづき)
預言者エレミヤが語った 「新しい契約を結ぶ日」(エレ v.31)が、イエス・キリストの十字架の死によって実現しました。
使徒パウロは教会に書き送って、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」(Iコリ 5:7)と教えました。
主イエスは感謝の典礼を制定して、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。 飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(Iコリ 11:25)と言われたと伝えられています。
私たちのミサは “キリストの血にあずかること”、“キリストの体にあずかること”(Iコリ 10:16 )であります。
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Iコリ 11:26)
四旬節は、全世界の教会が今年も、主の過越の神秘を学ぶ期節です。 アーメン。
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人 2012年(主日B年) 3月25日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
「 ・・・・・ 何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、“お願いです。 イエスにお目にかかりたいのです” と頼んだ。」(ヨハ vv.20-21)
現代のキリスト者である私たちが、だれかから “イエスに会いたい” と相談を受けたら、“ミサに出席しなさい” と答えるかも知れません。
それで、その後このギリシア人たちはどうなったのでしょうか。
人はミサに出席しても、その朗読台と祭壇で私たちに会ってくださる “キリストのことば” を理解出来なければ、失望して去って行きます。
ヨハネ福音書はここで、まさにその核心に触れているのです。
「イエスはこうお答えになった。 “人の子が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。”」(ヨハ vv.23-24)
弟子たちは最初、この言葉の意味を全く理解出来ませんでした。
なぜならこの言葉には直ちにその後に v.25 が続いていて、それぞれが何を指しているのか納得出来なかったからです。
しかしその数日後に、弟子たちはイエスが十字架上に御自分の命を捨てられたこと(ヨハ 10:11-18 参照)を、確かに見たのでした。
そしてイエスの復活の後になって初めて、彼らの福音を理解する目が開かれたのでした。 (つづき)
「一粒の麦」 が、他ならぬ 「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25)イエス・キリストのことであるという明確な事実を、多くの人が気づかずに、間違って解釈しています(マコ 8:31 と 8:34 を参照)。
このテキストに登場するギリシア人たちが、今までよりも “少しはましな人間になる” ためにイエスに会いに来て、この答えを聞いたのだとしたら ・・・・・ 。
人が救いを得るためには、ミサに出席することと並行して、使徒たちによる福音証言を自らしっかりと聖書から学ぶ必要があるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2012年(主日B年) 3月25日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
新約聖書によれば使徒たちは、「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」(エフェ 1:7)、
「あなたがたが ・・・・・ 贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(Iペト 1:18-19)、
「言は肉となって、(世の罪を取り除く神の小羊となるために)わたしたちの間に宿られた」(ヨハ 1:14)という十字架の福音の宣教によって、原始教会という “実を結んで” 行きました。
ヨハ 12:24 は、このキリストの贖罪の事実を言っているのであって、だれか他の先人たちの偉業のことを指しているのではありません。
そして人は洗礼の秘跡によって、キリストの死にあずかり、キリストの復活にもあずかる者となりました(ロマ 6:1-11、コロ 2:12)。
それが ヨハ 12:25 の意味であって、それは神の賜物であり、人は自らの行為をいささかでも誇ることがあってはなりません(エフェ 2:8-9)。
決して思い上がって、キリストの美徳に倣って、自分もキリストのようになろうなどという不遜な考えに誘われてはならないのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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\ \_| / 。 2003年(主日B年) 4月13日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 14:1〜15:47
ピラトの裁判とそれに続く十字架の場面は、イザ 50:4-9 の “僕の歌” や 詩 22 を背景にして物語られています。
主イエスは最後の晩餐の席で、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」(マコ 14:21)と言われました。
そして捕えられたときに再び、「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」(マコ 14:49)と言われます。
イエスはピラトの命令で鞭打たれます。 それからイエスは紫の衣を着せられ、茨の冠をかぶせられて、ローマの兵士たちに侮辱されました。
「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている。 わたしが辱められることはない、と。」(イザ 50:6-7)
兵士たちはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、イエスの服を分け合いました(詩 22:19)。
祭司長や律法学者たちも代わる代わるイエスをののしりました。 「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。 それを見たら、信じてやろう。」(マコ 15:31-32)
しかし、イザ 50:9 には歌われていました。 「見よ、主なる神が助けてくださる。 誰がわたしを罪に定めえよう。」 (つづき)
十字架は決して単なる歴史の中の偶然の出来事ではありませんでした。
それは神の業であり、受肉された御子イエスは 「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:8)
「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(Iペト 2:23-24)
私たちを愛して、その御子をさえ惜しまずに死に渡された(ロマ 8:32)父なる神は、「その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:20)
ですから、教会の信仰にとって十字架は中心的な事柄です。
十字架の出来事から切り離して、私たちはイエスの生涯を解釈することは出来ません。
教会は、洗礼の秘跡によってキリストと共に死に、またキリストと共にその復活の命に生きている者たちの群れです。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ 3:3-4)
神は御子の十字架によって、私たちに和解の福音を宣言しておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
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UU ̄U U `ヽ. 2009年(主日B年) 4月5日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39
「わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている。 わたしが辱められることはない、と。」(イザ v.7)
罪と死からの救い、そして神との和解という福音は、ただ神の御業にのみ依存することであって、いささかも人間の能力や貢献にはよらないことを、聖書は語っています。
受難物語りの頂点であるイエスの逮捕から十字架上の死に至る部分は、そのことを意図的に強調しているのです。
祭司長たちと議会も、ユダヤの群衆も、そしてローマの総督ピラトも、だれも “救い” を生み出すことは出来ませんでした。
御子イエスは、この場面で彼らの行動を矯正しようとはなさいませんでした。
“救い” は彼らの協力によってではなく、ただ御子が 「十字架の死に至るまで従順」(フィリ 2:8)であることによってだけ、実現することを知っておられました。
このキリストの永遠の贖いは、既に成し遂げられただけではなくて、現在も教会を通して活き活きと私たちに働いています。
私たちは現在、原始教会の使徒たちや会衆と同じ救いに与っているのです。
ですから、「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり」(コロ 1:23)、今年も復活の祭儀に備えようではありませんか。
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l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「わたしがキリストに倣う者であるように、
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イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブ 5:8)
「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:7-8)
旧新約聖書を通して、“従順” とは神の御心に徹底的に “聞き従うこと” でありました。
現代人はこれを、単なる人間関係における徳目に置き換えて理解してはならないのです。
フィリ vv.6-9 を、人が敬虔なキリスト者になるための手本のように読むとき、神のことばの輝かしい恵み(エフェ 1:6)の大部分を捨ててしまっています。
これは、「神がキリストによって世を御自分と和解させ」(IIコリ 5:18)、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(ロマ 8:32)福音の出来事の告知以外の何ものでもないからです。
「主なる神はわたしの耳を開かれた。 わたしは逆らわず、退かなかった。」(イザ v.5) (つづき)
イザヤ書の “僕の歌” とは、 @42:1-4, A49:1-6, B50:4-9, C52:13〜53:12 であって、
私たちが新約聖書が語る “キリストの受難と死に勝利しての復活” を正しく理解するためには、主と共に、そこで歌われている神の御心に “耳が開かれる” 必要があるのです。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。 ・・・・・ そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(イザ 53:5-6)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)
教会の信仰とは、使徒や預言者の宣教という土台の上に建てられているのですから(エフェ 2:20)、私たち信者はその宣べ伝えられた福音を確かに聞き、救いへの神の招きに “聞き従う” ことが大切です。
それは信者一人一人が自ら聖伝と聖書を学ぶことによって、聞き、理解し、信じるべきことであって、私たちは決して “怠け者の悪い僕”(マタ 25:26)になってはなりません。
今朝の聖書朗読を通して聞いた “御子の十字架の死に至るまでの従順” が、私たち信者一人一人にとって “御子キリストへの私たちの従順”(ヘブ 5:9)の手本となる、実り豊かな聖週間でありますように。
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使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
主イエス・キリストの復活の福音には、この復活されたキリストが生きている者と死んだ者との審判者、また信仰の完成者として再臨されるという終末の使信が、その重要な要素として含まれています。
「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」(使 10:42)
洗礼の秘跡によってキリストに結ばれた(ロマ 6:11)すべてのキリスト者へのメッセージが、ここにあります。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロ vv.3-4)
ですから、私たちのミサの中の交わりの儀で、一同が主の祈りを唱和すると、司祭はその副文の中で唱えます。
「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。」
私たちキリスト者は 「体の贖われること」(ロマ 8:23)、すなわち神の国への復活の日を待望しているのです。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Iコリ 15:20) ハレルヤ、アーメン。
・・・・・ 以下、本文参照。
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「わたしがキリストに倣う者であるように、
あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」 2009年(主日B年) 4月12日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
“福音の事実”を理解しようと思うなら、先ず何よりも私たちは、イエス・キリストの十字架において顕された悪の力との戦いと、そして勝利に目を向けなければなりません。
十字架は、悪魔の働きへの勝利(Iヨハ 3:8)でした。
ですから、イエスの死を悲惨な殉教者の死のように思い描いてはなりません。
新約聖書は、イエスが十字架で勝利した敵を、罪、死、悪魔とその支配などと呼び(ガラ 1:4、IIテモ 1:10、ヘブ 2:14 他)、さらに使徒パウロはこれらに律法を加えています(Iコリ 15:56-57、ガラ 3:13)。
私たちキリスト者が洗礼の秘蹟によって、罪に対して死に、今や新しい命に生きているということから離れて、聖書を中立的な立場で読むなどということは、無益なことです。
現代の一般人の目線に立って聖書を学ぶ、などと言う人は、キリストの救いからいちばん遠い所にいることになります。
「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、 ・・・・・ 」(コロ v.1)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ,,..,,_
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人 2012年(主日B年) 4月8日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブ 5:7)と書かれている 「御自分」 とは、
“私たち罪人に代わっての御自分” であったことを(Iペト 2:24)、そして 「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザ 53:6)という十字架と復活の出来事を、あなたはまだ信じていないのですか。
洗礼の秘跡によって、私たちキリスト者はみな 「キリストと共に死んだ」(コロ v.3、ロマ 6:8)のです。
今や私たちの(永遠の)命は、「キリストと共に神の内に隠されているのです。」
私たちキリスト者の人生に残されているのは、ただの肉体の死だけであって、すでにキリストは死に勝利されました。
来るべき日には、キリストがその勝利を私たちに与えてくださいます(コロ v.4、Iコリ 15:54-57)。
私たちが毎週ミサで唱える信条の中の、「主は、生者と死者を裁くために、栄光のうちに再び来られます」 という条項の重要性を、あなたはこれまで真面目に考えて来たでしょうか。
実に教会は、すでに私たちのために神の裁きに対して御自身を献げ、すべての呪詛(罪が支払う報酬である死)を私たちから取り除いてくださった審判者キリストが、天から来られるのを頭を上げて待ち望んでいるのです。
このキリストを信じる者はだれでも、今やその名によって罪の赦しが受けられるからです(使 v.43)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、
>涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブ 5:7)
>と書かれている 「御自分」 とは、“私たち罪人に代わっての御自分” であったことを(Iペト 2:24)、
>そして 「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザ 53:6)という十字架と復活の出来事を、
>あなたはまだ信じていないのですか。
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605老クリスチャン2016/11/29(火) 19:40:03.73ID:meLDxuBD
多くの教会で、カトリックの教会では特に、あまり知識のない初心者には皆さん親切にしてくださいますが、彼らよりも知識のレベルが高いと分かったとたんに、警戒心だけでなく、多くの場合敵意を持った目で見られるようになります。
どこの教会でも、驚くべきことに、ほとんどの信者は (更に牧師や司祭までもが)、自分が何を信じているのかよく分かっていないし、福音に対する明確な確信も持っていないのです。
そして、その (核心的な) 弱点を見透かされることほど、彼らにとって嫌で怖ろしいことはないからです。
本物の信仰者は、ただ主への感謝と賛美に生きるもので、教会と主の小羊たちを愛することはあっても、仲間の足を引っ張ってみたり、蹴落として自分が優位に立とうなどと考えることはありません。
「信仰」 もそうですが、「謙遜」 も、主が与えてくださるものであって、自分の努力で作り出す美徳ではないのです。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1407104440/605
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__,イ /≼ⓞ≽. 2000年(主日B年) 4月30日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
教会は今年も主イエス・キリストの復活を祝って、この期節のミサをささげます。
“信じる” という言葉と “愛する” という言葉が、特にヨハネ文書では密接に結びつけて使われています。
この “愛する” という言葉は、ミサをささげる群の中で、またミサをささげる群に向かって語られていることに注目したいと思います。
“主イエス・キリストを信じる人々を愛し、洗礼の秘跡によって新しく生まれさせてくださった神を愛する” ことから、すべては始まりました。
神が御子の十字架のいけにえによって、私たちを罪と死の支配するこの世から贖ってくださったからです。
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。 そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」(Iヨハ v.1)
“愛する” とは、救われた会衆が “共にミサをささげる” こと、“共にミサをささげ続けるために一致協力する” こととして、ヨハネ文書はこの言葉を使っていることを理解しましょう。
ですから、私たちが主イエス・キリストの復活を祝って共にミサをささげているなら、私たちは互いに愛し合っていることになります。
主イエスが最後の晩餐の席で残された言葉は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハ 15:12)でした。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2009年(主日B年) 4月19日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。 そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。」(Iヨハ v.1)
よく知られている日本の聖歌に、“愛といつくしみのあるところ、神はそこにおられる” というのがありますが、これはキリストの福音を知らない人には誤解を与える危険性があります。
なぜなら、聖書が語っている愛の掟の前提は、「神から生まれた者」 だからです。
この信仰の事実(ヨハ 3:3-8)から離れて、人間の美徳として愛を考えてしまうと、もはや 「天上のこと」(ヨハ 3:12-15)を信じることが出来なくなります。
ミサの中の感謝の典礼で交わりの儀にあずかるのは、洗礼の秘蹟によって “新たに生まれた者たち” だけです。
この交わりの儀こそが、なによりも先ず “互いに愛し合う” ことの第一の中心です。
かつてはこれを個人的信心として追求し、聖体拝領と呼んでいた時代がありましたが、現代では交わりの儀と呼ばれるようになった意味を理解しましょう。
共にミサをささげる群れである教会は、“神が永遠の命を与えられた者たち(Iヨハ 5:11)の交わり(Iヨハ 1:3)” なのです。
このことを理解しない群れは、ただの人間の集会でしかありません。
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\ \_| / 。 2012年(主日B年) 4月15日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「キリストはご自分の教会の典礼を通して ・・・・・ その救いのわざを現し、現在化し、分け与えられるのです。 ・・・・・ キリストは ・・・ ご自分の教会の中で ・・・ 諸秘跡を通して働かれるのです。」(カトリック教会のカテキズム 1076)
しかもこのことと同時に聖霊は、キリストが歴史の中で実際に 「人間の姿で現れ」(フィリ 2:7)、私たちの罪を身に負ってヨハネから洗礼を受け、
私たちの贖いのために十字架の死を通して御自身を神に献げられた、あの出来事を証してくださるのです(Iヨハ v.6)。
キリストは死に勝利して復活されました。 だから ・・・ ! 「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つのです。」(Iヨハ v.4)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 2003年(主日B年) 5月4日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
今年も全世界のカトリック教会で、復活徹夜祭の洗礼の儀によって新しい民が加えられ、すでに信者であった人々も自らの洗礼を思い起こして、共に喜びのうちにミサをささげています。
救い主イエス・キリストは引き渡される夜(Iコリ 11:23)、御自分の死と復活の記念を教会に託して、聖体のいけにえ(ミサ)を制定されました。
ですから洗礼を受けて救われることは、共にミサをささげる共同体に加えられることであって、聖書はこのような信者の生き方を 「神の掟を守る」 「互いに愛し合う」 と表現しました。
このミサの重要性を明確に述べて、典礼憲章は次のように教えています。
「したがって教会は、キリスト信者がこの信仰の秘義に外来者、あるいは無言の傍観者として列席するのではなく、儀式と祈りによってこの秘義をよく理解し、聖なる行為に意識的に、敬虔に、また行動的に参加し、
神のことばによって教えられ、主のからだの食卓において養われ、神に感謝をささげ、ただ司祭の手を通してだけでなく、信者も司祭とともに清い供え物を奉献して自分自身を奉献することを学び、
こうしてキリストを仲介者として日々神との一致と相互の一致の完成に向かい、ついには神がすべてにおいてすべてとなるように全力を傾注しているのである。」(典礼憲章 48) (つづき)
「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。 わたしたちは、このことの証人です。」(使 v.15)
信じて洗礼を受けたすべてのキリスト者にとって、使徒たちは主の復活の証人であります。
洗礼によってイエス・キリストが私たちの主となってくださったこと、私たちを罪と死と悪魔の力から救い出し、贖って御自分の民としてくださったことの証人は使徒たちなのです。
その罪とは、「聖なる正しい方を拒んで、・・・・・ 命の導き手である方を殺してしまった」(使 vv.14-15)罪であり、
「悔い改めて立ち帰る」(使 v.19)とは、洗礼の秘跡によって 「イエス・キリストは主である」(フィリ 2:11)と告白する民に加えられることであります。
このイエスを復活させた 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたち(旧約のイスラエル)の先祖の神」(使 v.13)が、私たちキリスト者の神となられたことを、現代の教会は再認識する必要があります。
キリストの救いが単なる心の中の思想ではなくて、罪と死からの現実の贖いであって、やがて神の国への復活に至るものであるように、
私たちの神は抽象的な空想の神ではなくて、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエス・キリストの父なる神なのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 2006年(主日B年) 4月30日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
「神の掟」(Iヨハ v.3)、「神の言葉」(Iヨハ v.5)とは、「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(Iヨハ 3:23)。
主日のミサを共にささげるために、キリストの祭壇を囲む群である私たち教会に、復活のキリストは今朝も、互いに愛し合う結びつきを期待しておられます。
聖書はこの愛を、共に救いに与っている “兄弟” への愛として繰り返し語っています(Iヨハ 2:10,4:20-21、Iテサ 4:9-10)。
なぜならそれは、“神の子イエス・キリストの名を信じる信仰” を互いに強め支え合うための、“福音に共にあずかる者となるための(Iコリ 9:23)” 兄弟愛だからです。
この認識が不十分なままで、ミサの中で形式的に手をつなぎ合ったり、抱擁し合ったりしても、それで “仲良しクラブ” は生まれても、真のキリストの体としての教会は育ちません。
共に信仰によって罪の赦しを受け、義とされたという事実が、その認識が、“教会を造り上げる兄弟愛” を生み出す源泉であることを思い、今朝も記念唱を歌おうではありませんか。
司祭 : 信仰の神秘。
会衆 : 主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 来る来る詐欺やからwww
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人 2009年(主日B年) 4月26日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
「次のように書いてある。 “メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる” と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ vv.46-48)
初代教会のケリュグマには、次の三つの主要な要素が含まれていたと考えられます。
第一は “キリストが聖書に書いてある通り復活したこと”、第二は “キリストは生きている者と死んだ者との審判者に定められたこと”、そして第三は “信じるすべての者に罪の赦しを与える主となられたこと” です。
審判者としてのキリストの再臨という終末論的背景の中で、初代教会はキリストの死と復活の事実を宣教したのであって、それ故にキリストの福音は十字架の福音であり、勝利の福音でありました。
ですから、福音が宣教されるところではどこでも、復活のイエスが語られた 「あなたがたに平和があるように」(ルカ v.36)も、常に新しく伝えられたのです。
平和は信じる者にキリストが与えてくださる賜物であって、代々の教会は使徒たちの宣教を通してこれを受けて来ました。 (つづき)
平和という言葉はしばしば聖書とは無関係に、心の中に宿る一つの精神的な状態と解釈されたり、あるいは人間の努力目標としての争いのない世界達成のことだと考えられて来ました。
しかし聖書が語る平和は、キリストがその死と復活を通して贖われた民である教会に与えてくださったもので、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザ 53:5)のです。
キリストの復活なしには、私たちは今もなお罪の中にあり(Iコリ 15:17)、神の怒りを受けるべき者であります(エフェ 2:3)。
しかし、実にキリストは私たちの平和であり(エフェ 2:14)、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている(ロマ 5:1)のです。
聖書がミサの中で朗読されるとき、キリストは使徒たちの証言を通して、罪の赦しを得させる勝利の福音を(Iコリ 15:56-57、Iヨハ 5:4-5)、神と和解させる平和の福音を(エフェ 2:16-17)、語ってくださいます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>835-836
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/
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人 老クリスチャンは牧師としての人生に満足できてないんだろうね。 3 世界中の戦争を終わらせるために活動を続ける
いま、私たちは大きな「時代の変わり目」に存在している
日本では建国記念の日に当たる二月十一日は、南アフリカのネルソン・マンデラ氏が、一九九〇年に二十七年間の監獄生活を終えて釈放された日でもあります。
当会では、「ネルソン・マンデラ ラスト・メッセージ」という霊言を発刊しましたし、国際活動をするにあたって、「HS・ネルソン・マンデラ基金」という募金活動も行っており、
こういうものを通じて知っている人もいるでしょうし、募金への寄付をしている人もいるでしょう。
私が幕張メッセ等の会場で講演会を行うようになった一九九〇年ごろに、マンデラ氏は釈放され、その後、大統領になり、「白人と黒人に分断された国家を一つにする」という偉業を成し遂げました。
このように、黒人解放運動をし白人政府からすれば、ある意味でテロリストのように見えていた人が。
二十七年の刑期を終えて出所した後、大統領になり、分断された国家を一つにしたわけです。 今、「トランプ大統領によって、アメリカが分断されるのではないか」などと多くのマスコミから危惧の声が出ていますが、実際には、そうはならず、その正反対のことが起きてくるのではないかと私は読んでいます。
アメリカが再びアメリカらしくなり、「世界の先生」として、世界を護ってくれるようになると思うのです。
その時の日本の果たすべき役割は、おそらく、今までよりも、もっとはるかに大きなものになってくるでしょう。アメリカの良き片腕になるはずです。
やはり、先行するものは「考え方」です。
では、その「考え方」とは何でしょうか。今の時代を目指して、天上界の神々、あるいは高級心霊から降ろされているさまざまな教えがあります。
そのことに関して、「なぜ今、この国に、これだけの教えが、天上界から降り注いでいるのか」ということを知ってほしいのです。
時代的に見れば、こういうものはめったにないことであり、それが来るというというのは、今、私たちは、「大きな時代の変わり目に存在している」ということだと思うのです。 2000年(主日B年) 5月14日 復活節第4主日
使 4:8〜12 Iヨハ 3:1〜2 ヨハ10:11〜18
「わたしは良い羊飼いである。 良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ v.11)
私たちが今朝もこうして集まって、共に囲んでミサをささげているこの祭壇は、「良い羊飼い」 「羊のために命を捨て」 てくださった御子イエス・キリストの祭壇です。
教会は、「良い羊飼い」 であって御自身を罪の贖いのいけにえとして献げてくださった、この救い主イエス・キリストの羊の群に他なりません。
イエス・キリストは、なぜ十字架上で死なれたのか ・・・・・ ?
ヨハネ福音書は、主御自身が自らその羊である教会の贖いのために命を捨ててくださったということを、ここで説明しているのです。
十字架の出来事は、ナザレのイエスの人生に訪れた挫折や敗北ではありませんでした。
そうではなくて、それは父なる神の御計画であって、御子イエス・キリストは自ら進んで御自分の命を捨てることによって、父なる神への従順を貫いて、その羊の群である教会を贖ってくださったのです。 (つづき)
私たち人間にとって、死ということほど直視することの困難な問題は他にないと思います。
一人の人が死ぬとき、あるいは死去したとき、周囲のだれもが “それが当然だ ・・・・・ ” とは考えないのが普通です。
“もっと生きていて欲しかった” “たいへん残念だ” “まだまだ活躍して欲しかったのに、無念だ” と考え、またそのように弔辞を述べることが礼に適うと思われています。
兵役に服してとか、国や社会のために働いて、その責務のために戦死や殉職した人の場合でも、やはり周囲の者たちはだれも “それで良かった” とは言わず、“残念であった” “どんなに心残りであったろうか・・・・・ ” と、その死を悔やむことでしょう。
ですから、自ら命を捨てて十字架の処刑を受け入れ、それによって私たちの救い主となった御子イエス・キリストを理解することは、本来この世の常識からかけ離れたことだったのです。
神は 「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを」(Iコリ 2:9)、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちのために成しとげてくださったのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 牧師は、当然一週間、主日に備えて祈るんだろうけどその間お金を儲けることは難しい、、、いろんな理由をつけてお金を信徒から巻上げる算段をする牧師までもいる。
そりゃ、牧師や宣教師だって人間だから家族を支える為に必死だ。時には伝道集会や講演会などの理由・名目で献金を募りこっそりかなりな額の上前をはねる。
教会の役員をしていたので知ってるが、そのような悪事は既成教会より福音派などを謳うが実は個人商店化しカルト化した教会に多い。
宗教法人にすると公に会計書類を提出する必要も限りなく無いに等しいし(営利事業は別)、当然、有っても役員に現世的利益をちらつかせ、その目やその信徒さえ誤魔化せば良い。
これは忌々しきことだが現実で、神さまはそんなパリサイ化した指導者の状況を永遠に許すわけが無い。
少なくても牧師の衣を借るそのような教会関係者は無意味な事をしてる事に気がついていないか(気がつく義務は有る)、
気がついているとしたら、神さまは居ないから現世のうちに大胆に周囲を騙し、金を献金という名目で巻上げる、、、と腹をくくったか。
大半が後者だろう、神さまの前では言い訳は利かないのは当然だ。
キリスト教を騙り信仰を悪用した泥棒である。神殿の中で堂々と商売をしてるわけである。
自分だけは楽をして信徒には負いきれない重荷を押し付ける、自分の栄誉・宣伝のために意味の無い苦行などを強いるなど、あの手この手だ。
カトリック教会の修道士などは清貧を義務づける修道会も有るのはそういった現実的な意味も有るからだ。
現世と隔絶した生活、当然現世のままを享受するのは不適切と考える修道会が出てきてもおかしくはない。
社会的にもすばらしい業績を残すだけではなく、多くのものが信仰に導かれている。
一部の福音派と呼ばれる教会の中にはそれを非難しそんな肉的な行為で信仰に導かれるのではないと言う。
しかし、そんな戯言を言うのは、ただ、愛がないだけである。つまり、神さまから愛されていない、呪われた頭でっかちの牧師が言う事だ。
一度、献金した金品は法律的にも返還請求するのは難しい。
少しでも疑問が有るのなら、そういった牧師から離れその教会も去ることだ。
それは不信仰なことではなく、神さまに対しても素直なことである。
この日本でも、他にもすばらしい信徒の群れはたくさん有る。 そもそも最初から教会に行かなければいいんだよ。
教会に行かないと救いはない!
なんて言い出したのは
教会で飯食ってるやつらだよ。 2006年(主日B年) 5月7日 復活節第4主日
使 4:8〜12 Iヨハ 3:1〜2 ヨハ 10:11〜18
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。 それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実またそのとおりです。」(Iヨハ v.1)
神の御業について私たちが知っていることは、一部分にしか過ぎません(Iコリ 13:8-13 参照)。
しかし、すべてのキリスト者にとって明確でなければならない一事があります。
それは、私たちは救われて神の子とされたということです(ガラ 3:26-29、ロマ 8:14-17 参照)。
この世のすべての人が無条件に神の子なのではありません。
この世の人々は “神の子とそうでない者の区別” を知りません。
私たちキリスト者は、「心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われた」(ロマ 10:10)ことを知っています。
この “神の子” とは、“神の国の相続人” のことであって(ガラ 3:29、ロマ 8:17)、私たちは復活の日には 「御子に似た者となる」(Iヨハ v.2、ロマ 8:29)でしょう。
その日を待ち望んでいるすべてのキリスト者の初穂として、キリストは死者の中から復活されました(Iコリ 15:20)。
私たちが 「今既に神の子」(Iヨハ v.2)であるのは、この将来の約束(秘められた計画)の故であることを、再確認しましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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チロチロ >>846
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ただの飯はうまい 2009年(主日B年) 5月3日 復活節第4主日
使 4:8〜12 Iヨハ 3:1〜2 ヨハ 10:11〜18
御自身の血によってただ一度(天の)聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたキリストは(ヘブ 9:12)、終わりの日に 「生きている者と死んだ者を裁くために来られる」(IIテモ 4:1)のと同じキリストです。
イエス・キリストはその死と復活によって、今や信じるすべての人に永遠の命を与えてくださいます。
私たちキリスト者は、永遠の命を与えられて(Iヨハ 5:11)、「今既に神の子ですが」(ヨハ v.2)、まだ将来の神の国についての私たちの知識には限界があります(Iコリ 13:12)。
「しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」(ヨハ v.2)
ですから、ニケア・コンスタンチノープル信条によって、私たちは代々の時代の聖徒と共に宣言します。
「罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世の命を待ち望みます。 アーメン。」
実に、神の義は 「初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」(ロマ 1:17)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 2009年(主日B年) 5月10日 復活節第5主日
使 9:26〜31 Iヨハ 3:18〜24 ヨハ 15:1〜8
使徒パウロはダマスコ途上で復活のイエスを見た後、直ちに洗礼を受けて、キリストの福音を宣教し始めました(Iコリ 9:1 参照)。
これはおとぎ話ではありませんから、私たちはパウロが直ちに使徒たちから伝えられた福音の伝承を “受け取った” であろうことを考慮しなければなりません。
彼は決して、自分独自の新発明の福音を語ったのではありませんでした。
ガラ 1:18以下 の記述と、vv.28-29 との間に、古くから矛盾が指摘されていますが、とにかく使徒パウロはエルサレムの使徒、特にケファ(ペトロ)から福音の伝承を受けようとしたに違いないと思われます。
彼はダマスコでも(使 9:20)、アンティオキアでも(使 11:25)、12使徒のみならず、広義における使徒、すなわち “主を見た証人たち”(使 1:21-22)の伝承を受け取ったことでしょう。
それらの伝承には、要約された初期の信仰告白、イエスの言葉や生涯に関する報告が含まれていたと考えられます。
パウロの ガラ 1:12 の言葉は、この “使徒の伝承” というものの特殊性を明示しています。
すなわち 「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」
文字通りに読むと理解が困難なように見えますが、彼が受けた福音の伝承の背後には、復活のキリストが立っておられ、伝承が伝えられること自体の中にキリストが働いておられる、という理解がそこにはありました。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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チロチロ
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チロチロ 2009年(主日B年) 5月10日 復活節第5主日
使 9:26〜31 Iヨハ 3:18〜24 ヨハ 15:1〜8
O.クルマン という新約学者は、「使徒たちすべての共通の証言だけがキリスト教の伝承を形成することが出来、その中に、主御自身が働き給う」 と説明しています。
代々の教会は、今日に至るまで使徒継承によってキリストの福音の伝承を受け継いで来ました。
しかし、それは使徒たち自身が福音を受けたのとは、決定的な点で異なっています。
現代の教会がそれを受け継ぐのは “聖伝と聖書” を通してであって、あくまでも福音についての規範的な権威は使徒にあるからです。
この “使徒たちから伝えられたこと”(神の啓示に関する教義憲章 8,9)を学ぶことによって、現代の私たちも 「神の子イエス・キリストの名を信じ」(Iヨハ v.23)ることが出来るのであり、
その同じ福音を聞く人々の間で、その同じ福音を信じて救われた者たちの間で、「互いに愛し合うこと」(同)が可能になります。
互いに愛し合うとは、なによりも先ず福音を分かち合うことであり、教え合い、学び合うことに他なりません。
福音を説明したり弁明したりすることは、教導職の仕事であって、信者はただ善良な生活をしていればよいというのではありません。
「理解力が豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリスト(の福音)を悟る」(コロ 2:2)こと、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合う」(コロ 3:16)ことが、すべての信者に求められているのです。
私たちは希望し、確信しようではありませんか。
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。」(Iコリ 1:8)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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† エペソ6章10-12節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
---- 有名になりたい ■■■■■
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┃ ┃┃┗━┓ 〈 ___ || ___〉 カタカタ カタカタ ┗━━┓┏━━┛ ┃ ┃
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信者の前で がなってる あ〜ァホの金ちゃん、信者の女に手を出して893を使って口封じ♪
元893自慢をするけれど本当は枝の葉っぱでした、殆んどインチキ学位の見栄張り自慢が痛過ぎ♪
被害妄想で信者を追い込み脅して騙して金を取る、ナマポを騙して取得させ信者をタ〜ダで こき使う♪
893の関係チラつかせ周囲の牧師を見下して悪口し喧嘩する、裏で信者の陰口なんて茶飯事♪教会を離れると糞味噌に言われます♪
注卒なのに、それを隠し偽物学位(薬物注卒?)じゃないでしょか♪○○○担がせ歩かせる 金ちゃんの見栄の為だけじゃないでしょか♪
なにか刺激のあるイベントを開いては、金ちゃんが偉大であることを強調し、裏事情に詳しいことをアピール、信徒が減るのが怖くて実際は臆病なだけじゃ無いでしょうか♪ 2012年(主日B年) 5月6日 復活節第5主日
使 9:26〜31 Iヨハ 3:18〜24 ヨハ 15:1〜8
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(ヨハ v.1)
「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 わたしにつながっていなさい。」(ヨハ vv.3-4)
「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハ v.8)
ヨハネ福音書には、最後の晩餐における感謝のいけにえの制定の場面が記述されていませんが、今朝のテキストは正にそれを思い起こさせるものです。
ミサの奉献文で 「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪の赦しとなる永遠の契約の血」 と唱えられる、その “まことのぶどうの木” がイエス・キリストであるという宣言で、語り始められているからです。
このまことのぶどうの木につながっているなら、豊かに実を結ぶように父なる神が手入れをなさる(刈り込んでくださる/フランシスコ会訳)。
それは洗礼の秘跡を受けた信者は、キリストの福音によって 「既に清くされている」(ヨハ v.3 フランシスコ会訳/13:10 参照)からです。 (つづき)
言うまでもなく、ここで 「わたしの話した言葉」(ヨハ v.3) 「わたしの言葉」(ヨハ v.7)とは、イエスの語られたあの言葉この言葉を指しているのではなくて、
原始教会の伝承としての “伝えられた教え”(παράδοσις/Iコリ 11:2、IIテサ 2:15,3:6)のことです。
それはカトリック教会が “聖伝” と呼んでいるもので、成人の入信に際しては求道期の教育で、また幼児洗礼を受けた子供たちのためにはカテケージスで、
本来 “組織的かつ体系的に” 教導される筈のものです(カトリック教会のカテキズム 序論 5)が、実際には指導者等の無能によってほとんど全くスキップされて来ました。
自ら福音を学ぶことをせずに、ただの善意だけでカテケージスの奉仕が出来ると、多くの司祭と奉仕者たちが勘違いしたことに原因があります。
私たちがミサで、ことばの典礼と感謝の典礼を通してお会いするキリストは、過去の物語りの中の思い出のイエスではなくて、神の右の座に着いておられる天上のキリストであり、
「わたしの話した言葉」(ヨハ v.3) 「わたしの言葉」(ヨハ v.7)は、そのような意味で理解されねばなりません。
そうでないと、教会が “それによって、父が栄光をお受けになる” ような実を結ぶことは不可能だからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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教会を離れた信徒の悪口に陰口、自己正当化を謀る様々な愚行!
日本の教会の未来はまるで自分の肩にかかってるかのようにかっこ良く語るが、とても尊敬できるような人ではない! 2003年(主日B年) 5月25日 復活節第6主日
使 10:34〜48 Iヨハ 4:7〜10 ヨハ 15:9〜17
神がどれほど私たち教会を愛してくださるかは、その御子イエス・キリストの十字架のいけにえが記念されるミサによって、代々の時代の信者たちに伝えられて来ています。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハ v.13)
私たちのために命を捨ててくださったのは、他の誰でもなくて、御子イエス・キリストでありました。
この主が、この主だけが、私たち教会に 「互いに愛し合いなさい」 と命ずることの出来るただ一人の方なのです。
このように聖書が、特に福音書がミサの中で朗読されるとき、復活のキリストは今も御自分の体である現代の教会に向かって語り、使徒たちが聞いたのと同じことを私たちに聞かせてくださいます。
ですから現代の信者である私たちも、福音書のイエスの言葉を最初に使徒たちが理解したように理解しなければなりません。
ミサに集う私たちは単なる書物としての聖書を読んでいるのではなくて、復活して今生きておられる主イエス・キリストの御言葉を聞いているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 2006年(主日B年) 5月21日 復活節第6主日
使 10:44〜48 Iヨハ 4:7〜10 ヨハ 15:9〜17
「愛する者たち。 互いに愛しあいましょう。」(Iヨハ v.7)
神の愛、キリストの愛と、世俗の隣人愛との間には、共通する部分がありますが、決して同一ではありません。
聖書を通して使徒たちが証言している愛は、キリストが私たちの罪を償ういけにえとなってくださった愛(Iヨハ v.10)、
来るべき(終末の裁きの)怒りから私たちを救ってくださるイエスの愛(Iテサ 1:10)、
その救いを受けた人々が一致団結してキリストの体を造り上げて行く愛(エフェ 4:12)です。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。 愛は神から出るもの ・・・・・ だからです。」(Iヨハ v.7)
父の右に座したもうキリストは、21世紀の教会が聖伝と聖書を通して再び、使徒たちが伝えた福音に耳を傾けるようにと、今朝も呼びかけておられます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2009年(主日B年) 5月17日 復活節第6主日
使 10:25-26,34-48 Iヨハ 4:7〜10 ヨハ 15:9〜17
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(Iヨハ v.10)
キリストの十字架の死が神の愛であったことを、それ故に、私たちすべてのために御自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された神の愛を、聖伝と聖書を通して代々の教会は今日まで聞いて来ました。
そして、それは “ただ一度 ・・・・・ 成し遂げられた”(ヘブ 9:12)だけでなく、その福音は信じる者たちの間で今も “現に働いている”(Iテサ 2:13)のです。
「互いに愛し合う」(Iヨハ v.7)とは、この福音を信者の群れが共有することなのであって、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、 ・・・・・ 感謝して心から神をほめたたえ」(コロ 3:16)るということを通して、福音は教会の中に常に働き続けるのです。
“神から出る”(Iヨハ v.7)のではない “この世の愛” によっては、人が 「成長し、救われるようになる」(Iペト 2:2)ことは決してありません。
論理を逆転させる人は、神を知らない人です(Iヨハ v.8)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 2012年(主日B年) 5月13日 復活節第6主日
使10:25-26,34-48 Iヨハ 4:7〜10 ヨハ 15:9〜17
「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。
・・・・・ そこでペトロは、“わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか” と言った。」(使 vv.44-47)
聖書はその全巻に亘って、聖霊が降るところには神の力が働くという理解を語っています(ルカ 1:35、使 1:8 参照)。
聖霊とは神から独立した別の力ではなくて、神御自身であり、教会に聖伝と聖書を通して託された福音に耳を傾ける人々には、復活された天上のキリストが聖霊を通して訪れてくださるということが起こるのです。
神がコルネリウスたち異邦人に聖霊を送って、彼らをユダヤ人と一緒に神の国を受け継ぐ者、同じ約束にあずかる者(エフェ 3:6)にしてくださいました。
このように、教会の主体は人間ではなくて、神であることを感謝しましょう。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハ 15:16)
「あなたがたの救われたのは恵みによるのです。」(エフェ 2:5)
そして、私たちも使徒パウロと共に宣言しようではありませんか。
「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(ガラ 6:14)と。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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チロチロ 今年の 「聖書講義」 に、<2018-2> を追加しました。
今回は、ユダヤ教の聖書とキリスト教の旧約聖書の違いについて、基礎的な紹介をしています。
http://www.kuwaei2000.com/Study/2018/2018.html >>883
カスタマーレビュー
カスタマートーマス
★★★★★★5つ星のうち6.0 最高傑作
2018年5月8日
キリスト教徒になるためには、大変素晴らしい内容です。
キリスト教に興味がある方、キリスト教徒として幸せな人生をおくりたい方には必読書になります。
絶対オススメです。機会があれば、是非是非ご一読を。
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牧師金ちゃん、まだしゃぶって末世!目的は自分の名を挙げ上座に座ることや♪
今も元◎X△を強調しそれをひけらかせては周囲を恫喝!
教会を離れた信徒の悪口に陰口、自己正当化を謀る様々な愚行!
日本の教会の未来はまるで自分の肩にかかってるかのようにかっこ良く語るが、とても尊敬できるような人ではない! 2006年(主日B年) 5月28日 主の昇天
使 1:1〜11 エフェ 4:1〜13 マコ 16:15〜20
福音の起源が、復活のキリストによる使徒たちへの教えであることを、初代教会は強く主張しました(使 v.3)。
なぜなら彼らの教会は、使徒たちが教えた福音を大切にし、その福音に基づいて共にミサをささげる共同体であったからです(使 2:42)。
地上のイエスの最後の言葉は、聖霊を通して天上のキリストが今後使徒たちによる福音宣教と共にいてくださるという約束でありました(使 v.8)。
この使徒たちの宣教の継続を今日に至るまで支え導いておられる方は、やがて再び来られる終末のキリストとまさに同一の方であることを(使 v.11)、現代のキリスト者は再認識しなければなりません。
教会の宣教活動は、今日においても使徒たちの宣教の継続以外ではあり得ず、それは “贖いの福音” “罪の赦しの福音” “神の国の福音” の宣教による信仰覚醒運動でなければならないのです。
決していわゆる西欧的なキリスト教思想や道徳の宣伝、キリスト教文化圏を広げるための大衆活動と混同されてはなりません。
使徒たちはキリスト教思想の宣伝をするために遣わされたのではありませんでした。
彼らはキリストの福音を宣教し、人々を 「信仰による従順へと導くために」(ロマ 1:5)召された人々でありました。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています