南海ホークス32
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>>199
んー まあ数字以上に状態の悪い時期もあったから仕方ない部分もある
88年はさすがにフル出場だったし
ただ
スタメン落ちから満塁に代打で登場も向こうがタコ踊りの佐藤を出してきて
代打の代打に引退直前の定岡 にはさすがに怒りを覚えたw
結果?三振でしたよ 坂東が本で星野のことを
「あんなに練習しなかった選手も珍しい。人並みの練習をしていたら200勝していたはずや。」と書いていて
その何年か後に落合が「現役時代に練習しなかった人ほど自分が監督になると「練習しろ」と言うんだよ」と言って
「あれ本当だったのか」と思った >>167
その頃は、球団ブランドを本業の宣伝に使ってやろう、って気持ちが薄かったんかね。特に南海は、球団と本業の関係が希薄だったように思う
後発のダイエー、ソフトバンク、オリックス、楽天、それから、参入は叶わなかったがライブドアも、球団ブランドを活用して本業の業績を伸ばしてきたと思うが Twitterで
南海電車ではよ帰れ
近鉄電車ではよ帰れ
が、誹謗中傷ってアホか、 鉄道会社は本業を宣伝しようがしまいが
乗らざるを得ないやつは乗るし、乗る必要がない人は一生乗らない
あとは百貨店も高島屋にやってもらってたわけだし
旅行社、物流、リゾートなど関連事業も他球団の鉄道会社よりも
手広く展開してない >>201
そこは何とも言えんでしょ。門田を使っても三振してたかも知れんよ。
名前や実績だけじゃなくその時のスイングの状態とか投手との相性とかいろいろ
考えて起用するわけだから。
門田は杉浦監督の頃ずっと打ちまくってたわけじゃないし、ダメな時期もあった
からな。 故障上がりだったにせよ1987年開幕スタメン6番門田には萎えた
4番デビッドはともかく5番にどう見てもパワー不足の新外国人ハモンドって 今年のヤクルトが1951の南海の勝率を超えそうな勢い >オリックスへ移籍の真相は杉浦監督との確執が原因と明言
落合氏のロッテから中日移籍も有藤監督の不仲が発端と言われているし
監督と主力打者の衝突はどのチームでもあったんじゃ無いかと・・・
>杉浦さんは左投手には右打者という考えが
ベーマガの門田博光特集号で門田さんの代わりにスタメン起用が多かった高柳氏も
「門田さんなら左投手も苦にしない」って言及していたね
もっとも高柳氏も門田さんの代わりなんて恐縮ですってな感じでスタメン交代時には
門田さん本人に直接わびるあたり尊敬されていたんだな
>門田を外すとかいう頭病気かってことしてたからな
藤原さん曰く「門田は宴会の時に東京音頭を毎回謳っていたw」らしい
関西出身が多い南海ホークスで大阪で受けそうもない宴会芸じゃ上司とのコミュニケーションは難しいだろw 高柳は今は千葉商科大学の監督か。
中日コーチ時代にやらかしたイメージがなかなか拭えないが
大学の監督としてはどうなんだろうと思った。 >>206
「待ってました門田!不調いうてもやっぱりあんたがおらな!」
と少ない客が沸いたのに打席に立つ前に引っこめるて…
門田さんで三振ならまあしゃーないで済んだが
そうまでして起用したのが引退間際の定岡で結果三振ではあんまりよ >>206
阪神で川藤出しとけば言い訳が立つのと同じ。 >>204
それ初めて聞いたとき、関西は何とか電車と言うんだなと一種のカルチャーショックを受けた記憶がある。
関東では東急電車とか小田急電車とかいわんもんな。 >>214
関西から地方に移った時、電化とは程遠いローカル線の鉄道でも「電車」と言ってしまう癖がどうしても抜けんかった(´・ω・`) 1978
2 藤田達
1979
3 山内孝
1980
2 井上
1981
2 赤星
1982
6 森田(拒否)
1983
2 山口裕 3 岸川
1984
1 田口 4 松崎 5 岩田(拒否) 6 坂口
1985
5 坂田
1986
3 右田
1987
1 吉田豊 3 柳田
最後の10年、やたら九州の選手を指名した(クジで外した中にも西村、園川)
モノになったのは山内孝、井上、岸川、吉田豊くらいだが
私は身売りを嘆いた数少ない九州出身の南海ファン >>210
「子どもを置いて単身赴任できん」というのが、一応門田オリックス移籍の定説だった。
それに対して坂東本の杉浦監督との確執説が、長池コーチ(次期監督予定)の去就と
いう状況証拠と合わせて、なんとも言えない真実味のある話だな、というところが
今回の藤原証言によって裏付けされたというのがポイント
監督と主力が確執起こすのはよくあることじゃないのという一般論ではないんだな 門田に代打はないよね
王や長嶋に代打もないだろう けがした以外は・・・
野村はロッテ・西武で力を落としてから
代打 鈴木葉留彦と告げられ引退決意したらしいから 山本和範も初めて規定打席3割を記録した89年に
昨年までは左投手の時は外される事が多かったけど今年は使ってもらえたと話してたな >>219
野村は代打出されたことが、というよりも、代打出されて腹が立って、代打失敗しろと祈ってしまい、チームの勝利に反するその態度を自省してプロ失格だと思ったのが引退のきっかけだと言っていた >>214
東京ドームは「黄色い電車」
あと京成電車となぜか千葉方面は言うような気がする >>214
関西人だけの言い方は結構ある
関西では「百貨店で買い物する」とか言うが、東京ではデパートと呼んでる
百貨店という呼び方が凄く古臭く聞こえるらしい
ずっと関西にいる人にはわからんだろうな >>222
東武は東武電車と公式に言っていた時期がある
(浅草や池袋の駅看板に表記されていた)
旧西武球場では「西武電車ではよ帰れ」ってヤジもあったような 関東では電車のエスカレーターで歩く人の為に右側を空けるのが暗黙のルール
関西では電車のエスカレーターで歩く人の為に左側を空けるのが暗黙のルール >>219
長嶋に代打は1回だけあった。67年のシーズンでスランプだった時に広島から移籍してきた
森永を代打に出されたことがあった。 >>68
取り敢えず正面が鷹マークなのでキャップは買いました
しかしサイドの大東建託が何とも邪魔 >>226
王も一本足打法になる前は普通にありそう
バントはON両方何度もやってる >>215
田舎の人って汽車って言うしそれはおかしくはないのでは? 田舎の単行ディーゼルをどう呼んだらいいのか 自分なりの結論は出そうにない >>201
調べてみたら代打の代打定岡三振は1986年9月14日ですね
さらに翌1987年6月3日のロッテ戦でも代打門田の代打高柳があってこちらはヒットを打ってる
投手は2度とも佐藤政 >>228
「三原脩の昭和35年」に拠ると、一本足に転校する前の王は権藤正利のドロップカープに全くタイミングが合わずに苦手としていた
らしく、三原監督の細切れ継投で権藤がリリーフ登板した際に、水原監督が王を引っ込めて代打を出す記述があった様な
気がする。
で見つけたのが、6月2日の大洋巨人戦で、初回、巨人のチャンスの場面で王に打順に回ってきた所で権藤正利がリリーフ登板すると、
水原監督はさっさと王を引っ込めて代打宮本とか、8月29日、8月30日、同対戦でもやはり権藤がリリーフ登板した所で代打難波とか。
それ以外にも3打席ノーヒットで代打に与那嶺出されたりと、この年だけでも度々見受けられる。 >>219
南海での野村最終年の77年に野村の代打で久保寺があって、これが
久保寺のデビューだったような? 関西出張行くと乗り換え先の私鉄が
「〜線」とか「〜電鉄」じゃなくて「〜電車」って書いてあるのが面白いわ。 >>233
1977年6月5日対阪急ダブルヘッダー第2試合に野村の代打で山口高志から二塁打してこれが初打席初安打
ただし、そのまえに所謂「当て馬」で記録的には3試合出場 >>233
野村は自分で自分に代打出したのか、なんか新鮮だな
古田は「代打オレ」はよくやったけど、逆に、打者古田に代打出したことあったかな? たぶん相手が全盛期の山口高志で、山口の超豪速球に対応し切れる自信が
揺らいでたのでは >>231
ご親切にありがとう
佐藤政夫はフォームがすっごくアレなだけでさほどクセ球のイメージはないですよね
(間違ってなくてよかったがうっかりうろ覚えの書き込みもできんなあ…おそろしいやつ) >>237
「く、久保寺 おまえ行け」
「カントク、ビビっとるんだら?」
(こ、こいつ心臓強いな…) >>233
その試合たまたまサンテレビの中継があってテレビで見てた
敗色濃厚な雰囲気で代打で登場した久保寺が左中間へライナーをぶっ飛ばし、なかなか活きのいい若手が現れたなと印象深かった記憶 >>219
どんな選手でも打てなきゃ代打出されるしスタメン落ちだってある。
ケガしてからの門田は守る、走るはダメでほぼ打つだけだったから、不振になると
監督としちゃかえって使いづらい面もあっただろ。出塁したらしたで代走出して
次の回守備代えて、とか用兵が難しくなるし。 加藤が移籍してきた1987年は、ちょいちょいレフト守ってたでしょ >>189
岡田を入札したのは関西4球団に西武、ヤクルトで何処が引き当ててもスンナリだった
4番目の阪神が当たりクジを掴んだ訳ですが南海は3番目、相変わらず弱ぇよなぁ 久保寺は当て馬もあったのか
そういえば渡会純男パークスに写真あったな
レギュラーで出てもそこそこは打つ感じではないかな
古久保くらいの成績はあっただろうに ドラフトのクジ運の悪さはともかくトレードも上手くなかった印象
南海末期でトレードで戦力になったのは小川史、森脇浩司くらい? 小川、森脇は南海だから使ってもらえたレベルだからなあ…
まあ 戦力になったのにかわりはないか >>247
野村監督時代はむしろトレードが上手くて
「野村が狙う選手は使える」と警戒されるようになったほどだった。
野村監督解任後は、柏原、黒田、片平、新井とボランティアをしているとしか
言いようがないトレードばかり。 山内新、山本雅、岡本も出さんでええやろ!何やソレ?と思った
そのくせ森口⇔新浦は断ったりね >>249
これらの場合はボランティアというより「チャリティ」 片平新井の叩き売りは60年代西鉄の切り売り自転車操業に近いわな
豊田放出時の「(サンケイが追い出したがってる)金田より(現)金が欲しい」の世界
柏原流出は沙知代のせいで交換要員を出してもらえただけまだマシな事例だし
相手がOBの大沢じゃなかったらもっと足元見られても何の不思議も無い
まずその前の江本・長谷川・池内・島野⇔江夏・望月トレードが最悪だった訳だが >>252
いやいや 小田と杉田だぞ?
金銭のがまだマシだったろ 南海の場合は新井の時も「金銭トレードは避けたい」と選手交換しているからちょっと違うんじゃね
柏原、黒田、片平、新井とみんなチーム優勝時の貴重な戦力になっているのが凄い ビンボのくせに見栄張って?カネよりポンコツとか意味わからん
新人の獲得費用にでもまわしゃいいだろ 上田監督だっけ?
「補強じゃなくて補弱や」
いうたのは。
どういう経営方針があったんだろう。 柏原と小田を換えたのは酷かったな
どちらも一塁手だけど、小田は主軸を打つには非力過ぎる
小田が5番を打っていた南海打線は絶望感が大きかった >>252
豊田の放出時については、資料により国鉄が金田か村田元一のどちらかとの交換を提示して、
西鉄がどうしても金銭にこだわったとするものと、
西鉄が豊田に見合う選手として金田か村田を要求して、国鉄がこの2人の放出は無理として
金銭で解決したとするものとがあるな。 野村が嫌って出したけど高橋里は結果的に惜しかったな
古葉に拾われたんだよね
西岡三四郎も居残ってほしかった
新井は佐々木誠の台頭なので仕方ないかもな 結果はもったいないけど
杉田と小田は確かにひどかった >>258
前者は交渉役を命じられた国鉄監督の浜崎真二ら当事者の証言に基づくもので
後者はベーマガの別巻に書かれてるが明確な裏付け無し
>>260
西岡は74年の時点でもう肩が壊れてたからね。77年にヤクルトでプチ復活したけど
それで二匹目のドジョウを狙った広岡が中山孝一を山下慶徳とのトレードで獲った 打者でトレードで得したと言うか拾い物だったけど、カズ山本くらいか ボロ儲けはタイロンかな?ドラ1の名取を一年で放出してだったけど >>261
西鉄側の交渉役の川崎徳次に拠ると、あのトレードは財界の重鎮でもあったサンケイの水野成夫氏が
西鉄に睨みが利く大物として右翼の大物で政財界の黒幕の1人だったとされる三浦義一氏を介して
強引に成立させた経緯だそうだが、三浦氏と予てから交流があった川崎氏はトレードマネーとして
5000万円(当時)の法外な金額を要求した事に、水野・三浦氏が「それはいくら何でも・・・」と窘めようと
するも頑として要求を下げなかったそう。
それで国鉄(つうかサンケイ)側もすっかり困り果てて、「なら金田か村田との交換でどうか?」と言い出し、
川崎氏も金田、稲尾の左右の大エースが揃うなら、と色めき立って西鉄球団に連絡するも「金田よりは金が欲しい」と。
結局、5000万円のトレードマネーで成立し、そのトレードマネーでバーマ、ロイ、ウイルソンの3外国人選手を獲得し、
この3外国人でクリーンアップを形成して南海との最大14.5ゲーム差を跳ね返す奇跡の逆転優勝の原動力となったとの事。 >>259
かつてのタイトルホルダーも完全にロートルだった金城よりは
左のショートリリーフ中条の方がまだ働いたのは皮肉というか >>257
1975年にひょっこり打率2位になったのが高評価につながった感 日ハム時代の小田は嫌らしい中距離ヒッターのイメージで、ほのかに期待はしてたんだがなぁ >>120
ごめんやす馬場章夫です
ホットのしゃべって当てまショー!
グァムグァムリクエスト
ラジオ大通り
諸口あきらのイブニングレーダー >>269
何スレのつもりだったのかも書いてけよw 芥川の「神神の微笑」じゃないが
入ってきた選手がパワーを失ってしまう得体の知れないなにかがあるのかも >>263
名取はあのまま南海に居たら少しは活躍できたのかなぁ
結局、一年目の5勝12敗だけで消えた(西武でも1敗はあったけど)
確かに3勝目までは木田(日)と並んでて新人王獲れ!と期待した記憶があるも片や22勝 長谷川勉もドラ1なのに1年で阪神にトレードされた
これは江夏のトレードに巻き込まれたんだろうけど あの子をゲットしたくって 日産から来るのはトレード
ダメだ 語呂が合わない >>272
81年開幕時点で先発ローテが
東尾森繁松沼兄弟杉本5枠全部埋まってたからな
正直西武も南海の戦力を削りにいっただけかと それを思えば7年後の近鉄は中日相手に巧い(旨い)商売しました >>275
その影響なのか、ダットサンという名前の外国人もいたな >>278
その1982年は門田故障、タイロン故障、ダットサン期待外れで2年ぶり最下位
ほぼ毎日山内先発で3人とも2桁勝利もトータル34勝37敗でした >>278
本来ドットソンが「どっと損」に揶揄されるのを懸念したとかで
まあ実際そうなったんだが 山内孝徳はあんなチーム状態でよく100勝できたと思う
達成時号泣してたのを見てこっちももらい泣きしそうになった >>281
私もです
あの姿がヘンなユニフォームじゃなかったらこちらも号泣必至でした
南海時代は8年連続規定投球回数、5年連続200イニング、7年連続2桁勝利とBクラスの球団で素晴らしい働き
指名順位に拘らず1980年に入団して欲しかった 勿論、山内和宏の最多勝も非常に嬉しかった
門田の本塁打王以上に
先に日程終了後、東尾に並ばれたのは残念だったけど 1987年の今日4月16日は山内孝が落合の抜けたロッテ打線を4安打に抑え1-0の完封勝利(大阪)
虎の子の1点は加藤英のソロ
(左)門田の第3打席に佐藤政が出てきて例によって代打高柳、結果は四球で佐藤政降板
嘉弥真か!? 南海ファンから見たらあの通算100勝時のユニフォームは変そのものだったのか。
本拠地になった街に住んでいる自分が当時見たら歴史の返還点
一番大事な(刷り込み)という意味合いのゲームであの西武に勝ったという事で
一気にユニフォームが違って見えた。(一気に近づいたというか)
印象がこれだけ違うという良い例ですね。 西武?平和台初勝利のことですか
山内孝100勝はその3年後で対日本ハム
投げて投げても援護なくザル守備の中で2桁勝利を続け、福岡2年目からはとんでもない監督の下で投げての100勝到達
南海では88勝だったと思うが、まともな戦力ならもっと早く達成していたでしょう 1992年オフのファン感謝デーは新監督・球団専務の根本が出ていたな。
ユニフォームも翌年からのものになっていた。 >>247
阪急上田監督 「南海のトレードは補強やない!補弱や!」 >>289
正しいが なんでアンタがキレるんだよw >>290
その発言は片平と黒田を西武にトレードした際の発言らしいから
上田監督としては最大のライバル西武の戦力補強に貢献した
南海フロントの姿勢に我慢できなかったんだろうと愚考する その後近鉄の戦力補強にも貢献したが、最後はアンタのとこにも門田差し上げたでしょうというオチ 門田といえば、ホームラン44本目指して背番号44、60本目指して60、と、大きな背番号をつけていたが、
オリックス時代の「78」と、ダイエー時代の「53」には何か意味があったんだろうか?
「53」は当時のパリーグ記録が野村の「52本」だったから、それを超えてやる、って意味だったか?と憶測 44はお母様が亡くなられた年齢、60は目指す本塁打数、78と53は何かヘンな占いじゃありませんでしたっけ 久保寺の生涯本塁打数が44
これが43か45で84年シーズンを終えていたらなぁと考えるのは俺が日本人だからだろうか? 80年位から西武のお客さんと揶揄されてたからな阪急。
ようやく攻略しかけた大石や吉本に代わって野村の頭脳を継承した黒田が
入って来るようになったから上田からしたらたまらんよ。という事。
山内孝徳の通算勝利と平和台ホークス開幕投手の件
私の記憶違いでした。
でもあの勝利でしっかり福岡の人の記憶に刻み込まれ今でもテレビで活躍出来てます。
あの年は前半ボロボロだったけど後半は節目節目で勝ったり逆転勝ちしたりして
初年度としては混パの一員として楽しませてくれました。
杉浦監督もう一年してほしかったと当時でも思ってたのですが。。。
次の監督で飛躍が大きく遅れました。 若い投手が多かった西武にはベテラン捕手の黒田の加入は大きかった
長年、野村の控えだった黒田も西武でレギュラーになって優勝に貢献できたので、
黒田にとってもよいトレードだったと思う 交換で南海に来た山下山村の成績をチェックするとひでえな
山下は全く戦力になっていないし山村はそれなりに戦力になっても片平に全く及んでいない打力 山村は珍プレー好プレーみたいな番組で
拙守でポジションをたらい回しにされるがそこでことごとくエラーばかりするというシーンがあったな >>292
広島にも高卒2年目の西山を差し出してるよな
西山の話によると(87年の南海が)久々に優勝争いできそうだから補強したいが
球団にカネが無いので申し訳無いが広島に行ってくれという
露骨な口減らしトレードだったらしいが
その後、西山は広島不動の正捕手となる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています