〓西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター〓Vol.29〓
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その下敷って美津濃の下敷き?
巨人と阪急の選手が異様に多く阪神とかセリーグの選手がいて。。。。。。
背後にピンクユニフォームの太平洋選手(東尾だったと思う)
一番後ろなのに異様に目立っていた。 >>6
>>7
美津濃が正しいとすると、これは「World Win」のキャンペーンの一環ですね。小生は週ベの
裏表紙で見ておりました。 もし球団命名権を保有しなければ、太平洋クラブやクラウンライターなんか知らなかったと思う。
プロ野球の宣伝効果はすごい。 日拓が未だにそうだ(あのプロ野球持っていた?)というし楽天やDeNAはプロ野球
持って何倍も。楽天は何百倍も売り上げが大きくなった。
効果は計り知れない。 プロ野球のオーナーになって1番恩恵を受けたのはオリックスだろうな
オリエントリースなんて会社名は誰も知らなかった
それが今や世界的金融企業だもんな だからよく「中日は身売りして〇〇に買い取ってもらえ」とか言う人いるけど
現時点で有名な企業がプロ野球に参入する事はほぼ100%ありえないんだよね
例外はダイエーくらい ほぼ100%ありえない、と言いたいが為に意図的にソフトバンクの名を外したって感じだぬ(w 日本ハムも社内では反対の声もあったがフライヤーズを買って
東日本の知名度がグンと上がった
あの時代にほとんどの新聞で毎日「日本ハム」と載るのは大きかったんだよ ダイエー以外でもう確立してた企業が球界参入したパターンってある?
戦後すぐとかは別にして。 西武は所沢開発のためにプロ野球に参入した
ソフトバンクはプロ野球で知名度が上がり携帯参入に弾みがついた オリックスはかんぽの宿を一括購入しようとして鳩山弟に止められたっけ
かんぽの宿は今どうなったんだろう 西武というか国土もTBSもオーナーが
何が何でも球団持ちたくて買ったわけではないのが共通しとるな
成り行きでそうなってしまった感 >リトルワコール
本当の寝間着広告だったのですね。名古屋にいた親戚がドラゴンズの寝間着だったのを
思い出しました。
寝間着=76年の太平洋ピンクユニフォームと解釈しまして。。。。
当時の美津濃の下敷きで後ろに写っているのに異様に目立ってという思い出が。
あのピンクと同じ色生地で移動用の選手移動ジャケット作ったみたいです。
電車から降りてきたらバンドマン????と周りが言う位だったようです。
でも気に入っている選手は多かったという。 堤はライオンズ買収当時JOCの会長だったと思う。
スポーツでの地位をさらに高めていきたいという野望があったと思う。
で
自社で野球となるとプリンスホテル野球部と球場をと用意したが球場の採算の思惑
(プロ野球の試合の誘致)が上手くいかないという事情も重なったようだ。
当時のアマチュアリズムを考えたらイメージが大事
ライオンズ引き取るなら一からイメージを一新してスタートしかないと利害の一致
で本拠地も移転とセットになったと思う。
中身の選手の洗浄は根本に一任。3年でほぼ移転前の選手の8割はいなくなった。
レオマークや最先端の上記精神を反映したほぼ広告の無い球場。
新しいライオンズとしてのクリーンなイメージ戦略は西武グループで相当大きな効果だったと
思う。(そういう本人の資質は別にしてアマチュアリズムの精神もベースにあるというのが垣間見えた) 559代打名無し@実況は野球ch板で (ワッチョイ 51b7-gUNg [118.16.175.80])2021/05/13(木) 21:09:03.24ID:Qz6UT4uW0
みずほ側は西武球団売却すると決めていたが
堤が森喜朗や諸井さんに何とか球団は存続してくれと頼んで
最後に売却を逃れた
西武経営委員会で西武球団売却確定の報告を待っていた記者たちは
諸井さんからまさかの西武球団は残します発言ににみな驚いていた
どのスポーツ紙も急遽1面を差し替え
>西武ライオンズが今もあるのは堤義明のおかげ
>西鉄ライオンズを中村に押し付けて逃げた木本とは大違い >>14
知名度の高い企業はJリーグクラブの運営に携わるケースが多いよね。 西鉄ライオンズ最後の年の観客動員数は僅か32万人。太平洋クラブライオンズの初年度は倍以上の87万人 木本という苗字は福岡では滋賀県由来(福岡県宮若市伝承)と
朝鮮系の通名・帰化由来とが混在しているようだが。 >>17
これは確かに言えるね
日本ハムの知名度は伊藤ハムや丸大ハムに比べると高い
略して「ハム」とも呼ばれるので、ハムの代表みたいになっている 「僕は腕白、現代っ子〜伊藤ハムは僕のもの」伊藤ハムCM
「腕白でもいい、たくましく育ってほしい」丸大ハムCM >>30
それなのに札幌ドームでは伊藤ハムの商品しか売ってもらえないんだぜ マジですか???
札幌ドーム行ったことないけどそれはキレるよ。
球場関連は球団直営でないのが殆どだから経営が変わったら毎度のごとく
利権で揉める。
福岡野球の平和台も時も然り >>28
当時の路面電車部門は平和台球場へ向かう乗客が増えて喜んでいたのだろうか。
ただし、1960年代から福岡市内の路面電車は赤字に悩んだり、地下鉄の導入が
検討されるなど、廃止も時間の問題だったみたいだね。 >>23
ピンクというよりワインカラーだね
胸番号を無くした後期のユニフォームがシンプルなデザインと相俟って洒落たイメージ >>27
知名度ある大企業は球団持つ必要が無いので戦後はアマスポーツを次々に初めたものの
それがバブル崩壊で次々に廃部・休部になったという経緯があって
バブル完全崩壊の直前にプロ化したサッカーは運良く残ったんよね。
そういう大企業は新聞屋や食い物屋みたいに直接客との営業しないといけない
わけではないのが多かったのも幸いしたのかもしれん 広島と同じ年に赤いアンダーシャツやストッキングにしたのに話題0。
赤いスパイクはヤクルトや阪急が先だしな。 >>34
路面電車
昭和36年度(1961年4月 - 1962年3月)に2億6000万人いた延べ乗客数が、昭和42年度(1967年4月 - 1968年3月)には2億3000万人と1割以上減少、路線バスの年間乗客総数の半数を割り込み、路面電車事業はついに赤字に転落
西鉄は赤字の路面電車を廃止したかったのに、
運輸省からその前に赤字の球団を整理したらと言われていた >>37
赤い旋風で全国的に話題になったやん
関東や関西で大盛り上がり、三塁側から埋まり、熱狂度もどっちがビジターなのか
わからないくらい
数年前のライオンズクラシックは赤のユニでやるべきだったね
広島の赤ヘルは ライオンズの影響かな? 太平洋クラブライオンズとなって最初の年
太平洋は、前期4位・後期5位・通算4位となり、最下位であった前年よりもわずかに上向いた。当時はホーム用が白、ビジター用がグレーというのが当たり前であったのユニフォームの色を、上が赤、下が白地にサイドラインが入ったものを導入
1975年・昭和五十年。広島カープの帽子が紺から赤に変わった Youtubeで1969年から1971年のワールド・シリーズを全て視聴したが、
ビュフォード、アルーの太平洋入団2年前くらいのプレーが見られるんで
太平洋時代の記憶がよみがえるわ。アルーは1安打しかなかったが。
1963年のワールド・シリーズなんか、ドジャースのセンターが
ウィリー・デービスでライトがフランク・ハワード。
ブッルクリンNYから遠くLAに移転してまだ6年目だったせいか
ヤンキー・スタジアムのビジター、3塁側スタンドには結構な数のドジャース・ファンがいた。
しかしビュフォードって黒人の中でもかなりのイケメンだな。
今見てもカッコいいわ。稲尾和久、江藤慎一両監督と同い年なのもいい。 >>38
赤ヘルも太平洋が先だったが、つばが青だったな。
広島みたいな全面赤ヘル、赤帽は向こうが先になった。
中日のノースリーブ赤ユニ、巨人の赤文字、黒縁取りユニも
帽子は黒と赤のコントラストで全面赤じゃなかった。 太平洋初期ユニは当時のNPBの単調なユニが主流であった中で、諸兄も仰せの広島や
その後の日拓の七色ユニ等に繋がる、将に度肝を抜かれる色遣い・デザインの先駆け
であったろう。
但、年に一回あるかないかのNHK中継や関テレ系阪急戦の「パリーグアワー」でしか、
テレビで目にする機会がなかったな。あとはフジ系のプロ野球ニュースか。 カープは巨人戦の全国放送がものすごく大きかったし初優勝もした。
カープの赤い帽子が流行ったし巨人の黒から男の子でも赤を被れるようになった
要は太平洋の時も戦記優勝とかすれば先駆けになった。
強くなかったからキワモノ扱いされた。日拓の七色と同じく。
多分存在自体知らない人が大多数だと思う。 稲尾「なんで西武は身売りせえへんのや!」
木本「稲尾君、堤義明はライオンズを愛してるんだ、僕や中村とは違うんだよ」 ビュフォードは褐色の博多っ子
赤い弾丸で大人気だったね
現役大リーガービュフォード旋風
赤いユニホーム
一時的にだが久しぶりの優勝戦線突入 S30年代後半 アサヒビール(東芝)ライオンズ(楠根オーナーが拒否)
S47年暮れ ペプシコ ライオンズ(東映も身売りで ペプシが拒否)
S53年暮れ クラウンライターライオンズ(クラウン桜井会長中村の希望金銭用意でき
スポンサー延長と思いきや、西武へ身売り)
桜井氏は中村に激怒してたな
信義に反すると >>45
カープの帽子はレッズでは無く、当時より数年前までのインディアンスの方が下地らしいね。
ttps://www.news-postseven.com/archives/20200621_1570129.html
ルーツ監督は元インディアンスコーチと考えりゃ当然の選択なんだろうけど。
先日読んだカープ本に書かれていたけど1972年頃までインディアンスとレッズはCマークが色違いだけの
極めて酷似した帽子を使っていたそうな。
只、赤帽子を継続使用したレッズが黄金期を迎えた一方、赤帽子を止めたインディアンスは(帽子変更以前からの)
長期低迷にどっぷり漬かっていた状態だったので、いつしかレッズのイメージが定着した模様。 その後2000年代になると、インディアンスのビジユニのデザインをヤクルトがパクったな。 伊藤ハムて確か巨人のスポンサーだったんじゃないか?西宮に本社があるくせにふざけやがって、と昔に知って毒づいた覚えがある 路面電車部門赤字が1967年で
そのあと九州時代は5割切ったままだった >>52
ニチイ→マイカルも大阪発祥だったが巨人を応援していた。
ただ末期の広島や、源流の地元百貨店との兼ね合いがあった青森など
一部造反した地域もあった。 中村は底値でライオンズを買って高値で所沢に転売した悪党、信義なんて始めから無いよ >>54
コイツ福岡野球が儲かってたとでも思ってそう 株式の譲渡と債務の引き受けの区別が根本的についてないね >>44 の弊ネタの続き。
その後福岡野球のユニは初年度太平洋デザインを基本的に残した儘、配色(赤/青)
をスワップしたり、例のワインカラーユニ(初年度前期は胸番号)に至った後に、
クラウンライターの時代の「赤白ユニ」に至り、「之が寧ろ落ち着いて見えた」
んだよな。
然しこの時代の悲しい思い出を一つ。当時の日テレ系讀賣戦を見ていた時、妹が
「あれ、クラウンの選手おるやん」。で、見たら「後楽園球場のボールボーイ」。
あん時の同球場のボールボーイって、赤白ユニに加え、帽子がクラウン的な「赤・
白ツートン」だったんだよね…。
嗚呼、之も「パ・リーグ故の悲哀」なんだって、子供心に思いましたよ… 79年作 松竹映画 神様のくれた赤ん坊
を見たら当時のライオンズの立ち位置がよ〜〜〜く分かります。
百聞は一見に如かず。 >>47 殿が仰せの懐かしネタ「ビュフォード」に絡め、「かつてのライオンズ戦士」ネタ
1978年10月12日のライオンズ消滅に期を画して、かつてのライオンズ戦士が各球団
に散らばったは、小生にとっては寧ろ「NPBに興味を残すモチベーション」になった。
ビュフォードが南海に、博一や基、若菜が横浜大洋に、真弓、竹之内が阪神に、等々。。。
然し、小生は決して南海ファンには、横浜大洋ファンには、阪神ファンにはなれなかった。。。
大阪は微妙だが、横浜は小生にとっては決して縁故地ではないし、セ・リーグは応援
すべき対象ではないんだよね。。。
事程左様に、NPBとそのファンって「地縁的結び付きが強い」んだよ。 78年10月以降
選手他球団移籍の時系列がおかしいです。
加藤は76年に阪神
ビュフォードも同年南海へ
若菜は阪神に真弓竹之内と共に79年阪神
基は79年大洋
加藤は83年大洋
同年途中から若菜。
皆セリーグ球団でレギュラーで活躍。 >>60 殿
紙幅が限られている訳ではないものの、5行以上の文章が読めないバカがこのスレには多い
ものだから、やや説明不足になったは御容赦願い度し。
要すれば78年10月以前に、博一やビュフォード(あとヤクルトに移ったロジャー・レポーズ)が
ライオンズを離れ、他球団に移ったは断腸の思いだったのであるが、78年10月12日以降の
眼で見れば、応援すべき球団を剥奪された小生が、寧ろかつてのライオンズ戦士たる彼等
を個人的に応援するモチベーションが後付けで生まれたのがせめてもの救いであったかな、
ということです。 あとはライオンズ戦士の御親族が活躍されていたのも励みになったね。
坪井新三郎の息子は云うに及ばず、マティ・アルーの甥っ子(?)もMLBで活躍され、NHK BS
中継時に斯く紹介された時には感慨深かったよ。。。 福岡野球の時のレギュラーだった選手が他球団に行ってバリバリに活躍
しているのは自分も身売り後の心境としてはうれしい反面複雑だった。
マスコミに真弓や若菜はイケメンとして段違いの報道。すぐ全国区に。
何故新生ライオンズに残してやれなかったのか?とか。
逆に西武に代わりに入った選手でまともに活躍した選手が田淵と山崎位。
初年度西武ははそりゃ酷いものだった。
>>51
ありゃ徳島発祥で大阪に本社がある日ハムが、東京の球団を買った事で東日本での売上が急拡大し、
プリマハム(東日本の雄でもあった)を追い抜き、ハム業界トップに立った事に対する対抗策ですよ。
食品業界って東西の嗜好の違いから関東系企業=東日本、関西系企業=西日本と住み分ける傾向が強くて
(インスタント麺業界とか)、その中間の中京地区を巡っての争いが常なんだけど、それを日ハムはいきなり
東京のど真ん中に楔を打ち込んで東日本全体のシェアを奪う戦略で業界トップに立ったもんだから、ならばって訳。 >>59
だからこそ尚更
官民一体となって球団を追い出した福岡の異常性が際立つ >>66
日常的に話し相手のいないジジイが頭をひねった文章だと思うと虚しい 支給されたバス代50円を誰かが落とし
ライターつけて全員で座席の下を捜索したとか泣ける
もちろんそのライターはクラウン製だよな? 年俸が安いのでシーズンオフに選手がバイトしていた
リアル「すすめ!パイレーツ」 活躍したのに年俸をアップ提示しない理由を球団は「九州は物価が安いから」って
マジにマスコミに発表してたからなw 本当にひどい話だなw
東尾氏にその手のエピソードを本にまとめて書いて出してもらいたい
「福岡野球時代の貧乏話を始めたら一晩じゃ終わらないよ」
と語っていたくらいだから >>72
マジレスするとそれ東尾の若い時のエピだからクラウンかどうかは関係ないかもw
しかしその中でも極めつけはクラウン時代のキャンプ行く時に
天神に集合してパンピーと一緒に西鉄の電車で大牟田へ向かったってやつか 極貧球団が一旦廃刊になっているので今校正し直しているなどでは?
と予想。
そういう環境でもプロでやりたいという気持ちで選手はプレイしていた点は
尊重したく。 球団が監督に用意した住まいが市営団地の一室(江藤の次に鬼頭がそのまま入居)とか移籍選手に用意したのが木造二階建ての旅館の一室とか
平和台が使えない時はいつも大学にグラウンド借りてチーム練習してたとか
これ75〜78年の実話だからなw
島原キャンプとか草野球チームのおっさん達の練習にしか見えんぐらい華がなかったしファンもマスコミもいなかった
島原市への経済効果もチーム分以外ほぼゼロだったんじゃないのかw 江藤に用意した住居が六畳一間のアパートだったが江藤は「野球ができればいいんじゃ」と言っていたとか
竹之内は焼き鳥屋、加藤初はスナックの手伝い、若菜は年賀状の仕分け、永射は自衛隊がシーズンオフのバイト
それが西武に買われてパとは言え12球団一の金持ち球団になったんだから
落差が凄かっただろうな 野球道具持って西鉄に乗ってって、その時点で草野球のおっちゃんにしか見えんわな もう元記事消えちゃったけど
ハンセンとか外国人選手は電車移動にウキウキで
乗ってた女子高生と英会話レッスンもどきみたいな事してたらしいな ハンセン懐かしいなぁ。ヒゲの外人。アメリカの4コマ漫画に出てくるような
風貌していた記憶。
クラウンの帽子がピンポンパンのお兄さんの帽子とソックリと思った子供時代の思い出。
しかし。。準本拠地の小倉球場に行くのに鈍行で行くなんて。。。凄すぎ。
加藤博一は新天町の靴屋でオフにバイトしていた。 「シャワーを使用する際、石鹸は選手が各自持参」
「試合後の軽食はポテトチップスのみ」
など70年代以前のパ・リーグには笑えないレベル
の貧乏話がわんさかあるけど、太平洋・クラウンは特に凄いな
それでもドラフトでの入団拒否が少なかったのがまた凄い
(てか江川以外知らないけど)
普通に会社員やってた方が安泰だったろうに 野球漫談家の金村がネタとしてる近鉄貧乏話がホント薄っぺらく感じるな
東尾が本気になって福岡野球時代の貧乏話をYoutubeでやれば話題になりそう >>81
そのメンバー殆どが要はバイト、パートだけど
竹之内だけは自分で焼き鳥屋を開業してたっていうのが凄い
西日本新聞のサイトに自分で串焼いてる写真がある 竹之内は阪神に来た時に用具やユニフォームに一切お金がかからない事に一番
びっくりしたという。
特に奥さんはユニフォームやストッキングの直しや洗濯が無くなって本当に
喜んだという。
これこそプロ野球よね。と。
そういうところから待遇の良い球団に行った経緯のある選手は指導者になっても
良い仕事ができると思った。
当時の福岡ライオンズのレギュラー―クラスの選手も西武や移籍先で良い思いにすることが出来たケースが多いから選手から見たらこの身売りをプラスに生かしていったと言えるだろう。
これが身売り後に移籍先でもさっぱり、残った選手も冷遇とかだったら救えない
そうなってないからあの時点では本拠地移転も良い選択にという解釈にもなった 東尾もだけど真弓の口からも福岡野球時代の話って出て来ないよね
それどころか阪神生え抜きでございって面してる 結構移籍当時は真弓福岡野球時代の思い出結構語ってますよ。
決して悪い思い出ではない良い意味でも捉えて語ってます。
存在自体ほとんど知らない福岡ライオンズの事情を一部知った全国の人も
多かったのでは?
若菜は。。。微妙に違う面もある。でも今福岡で仕事してるから昇華してるかも。 80年代後半に男闘呼組というイケメンで構成されたバンドグループがあって
そのメンバーの一人が「クラウンライターライオンズのファンだった。
その流れで今は西武を応援している」と雑誌の取材で発言していた記憶がある
当時中学生の俺にはなんのことだかさっぱりわからなかった
クラウンファンを公言する有名人なんて球団があった77〜78年でもほとんどいなかっただろうな オレンジ×緑の大洋もそうだが73年の日拓や76年の太平洋など、
この辺りの時代からカラフルなユニフォームが増えたみたいだな 東尾が合宿所の部屋に自分だけ勝手に
クーラー付けたって話してたけど
ルームメイトはめちゃくちゃ羨ましがられただろうな。 東尾って現役の頃はダーティな雰囲気に溢れてて、
賭け麻雀でお縄になる程度ですまない闇を想像してたので、
あっさり監督になったのは意外だった。
監督だった頃、娘の話題も合わせて東尾の半生を振り返る番組やってたのを見たが、
デービスの件完全スルーだったw 西鉄のジャンパー、凄い派手だったんだな・・・
ユニフォームは黒にオレンジがちょっとだけっていう
巨人と同じ地味地味だったのに
http://c.nishinippon.co.jp/photolibrary/cat7/post_393.php 東尾は福岡野球時代の貧乏話をする時は笑い話としてではなく若い頃にいい経験をさせてもらった
って語り口で話す事の方が多いね
入団2年目から自分の肩にチーム存続すらが掛った状態で10年必死にやってきたわけだからね >>91
真弓はマスコミが阪神一辺倒な関西が拠点という事もあって、話す機会は少ないけど、
自身の事務所のホームページでは、しっかり福岡時代も紹介している。
http://office-mayumi.co.jp/hitory/ >>98
現役前半は最弱かつ最も貧乏なチームのエース
現役後半は最強かつ最も金持ちなチームのエース
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