元阪急のマイナーな選手を懐かしむスレ その4
晩年だけ覚えている1981年
ウエスタンで調子が良いのになかなか一軍に呼んでもらえなくて・・
みたいなインタビュー記事
外野は福本・簑田・小林で固まってたからな 敢えて書かせてもらうと福留宏紀は阪急時代ではなくオリックス時代の人
孝介とは同姓だが世代もアマ時代の実績も違うし
比較も混同もされることはなかった >>5
スポーツ新聞の片隅にファーム情報みたいなコーナーがあって
自分は嫌われてるから成績残しても昇格できないと愚痴ってる選手がいた
名前は覚えてないが梶本監督時代 二軍監督やコーチにアピールせずに新聞記者にウジウジこぼしてる選手なんてまず大成しないだろ 享栄(愛知)出身の宏紀はオリックスへ
PL(大阪)出身の孝介は中日へ
そういうもんだ 巨人からトレードで来た藤城がいきなり活躍して良かったと思ったのもつかの間
その後すぐに辞めてしまったのには驚いたし、
引退後歌手になってたのにはもっと驚いた 西口順一
入団1年目の春季キャンプで上田監督から和製ブーマーと期待されたのにいつの間にいなくなっていた
ネット時代になって調べてみたら大変なことになっていたんだな・・ マジメな人だから人一倍練習したのだろうが
やり方が拙いと身体を壊してしまうことを体現している
腰椎圧迫骨折で車椅子とは・・・ バキってやっちゃったんだろか
俺もギックリ腰は何度もやったが医者に見てもらうたびに音がしたかどうか何度も聞かれた
それによって処置の仕方が変わるらしい 俺も腰痛持ちだけど、腰やると真っ直に立つ事すら苦しいからね
西口氏は現役時代に130kgほどあったらしいが、その体重が腰に相当な負担を掛けていたんだろう >>16
姫路の出身で入団後もずっと関西弁で通していた
新聞・テレビの取材でも関西弁でしゃべってたら
マネージャーから「球団のイメージと違うので標準語でお願いします」と言われたが意地になってやめなかった
みかねた先輩から「そんなことしてると大阪(のチーム)に飛ばされるぞ」と忠告されたが、
結果その通りになった
鉄板ネタ >>18
ヤボな事かも知れないが試合以外でのケガは労災にならないのかな 当銀
名前だけ覚えてる
南牟礼
かろうじて覚えてる 佐藤滋には期待してたのにコップを投げた古川組組員は許しがたいわ。 古溝克之、永本裕章、宮本四郎、小嶋正宣、関口朋幸、山内嘉弘、白井孝幸、小林敦美
この中の2、3人でもローテや抑えに定着してくれたらだいぶ違っていたよな >>25
その面子の中では永本が一番印象的かな
前年0勝がいきなり15勝 83年頃、週ベのファームで観戦した人のレポートで
ポールの外から巻いてフェアゾーンのスタンドに落ちるなど
1試合に7本もヒットを損したと書かれた有賀 80年ドラフト1位指名したのに拒否ってプリンスホテル経由で数年後しれっと西武入りした川村
阪急戦初登板となった時ブーマーに大飛球かまされてあと一歩でスタンドインは成らなかったが
はよ打たれてしまえと念じたものだw >>27
82年ってリーグのスタッツを見るとどう考えても飛ばない球を使っていたシーズンだったと思うけど
永本やハムの工藤はその恩恵を受けた感が強いんだよなぁ ドラ1にフラれるのは伝統か?
リメンバー1973年江川卓 あのとき、江川を本気で獲得するつもりなんか無かっただろ
知らんけどw >>25
小林敦美と言えば何時ぞやの西武戦に先発してるのをNHKの中継で見た記憶があるけど
右オーバーなのに直球のスピードがMAX133くらいしか出てなくて序盤からアップアップだったな
結局3回1失点か2失点だったのに降板させられてたわ
これでは上田監督が見限ったのもしゃーないと思った ランナーが出たら神経質に牽制球を何度も投げて明らかに打者への集中を欠きコントロールミスで痛打を浴びる、と。
解説者にも指摘されてたが結局大成しなかったところをみると克服できなかったんだな >>33>>34
リッカーが経営が傾き始めて野球部廃部を前提に部員の引取先を模索していた中で中西と小林だけはプロに進めた
他の人は野球を諦めて会社に残ったかあるいは他社に移籍したが、まもなくリッカーは倒産、また他社に移ったもののそこで活躍できた人も居なかった
社会人野球はプロと違い身分の保障がないこともないが、会社の経営がダメになって倒産したり廃部になって放出があり得る点でプロと大差ないことがリッカーをきっかけに知ることができた 1年どころかクルーズだけの極貧打線で最下位独走してたハム戦の完封勝利だけ リッカーは中西獲る時に、かなりの条件出したらしい。
崇徳のセンバツ優勝投手・黒田がドラ1拒否して進んだ地元社会人をすぐに退社してしまうと受け入れた。
結構攻めてたんだね。 >>33
俺は西宮でのロッテ戦が初見
初勝利後何度か先発のチャンスをもらいながら全部フイにして中継ぎに配置転換されたが
なかなか抑えられずランナーを許すがその都度バックの好守に救われて無失点という内容
リーの頭近くにすっぽ抜けが行って睨み付けられたのもこの時と思う 1984年は阪急として最後のリーグ優勝
今井21勝、佐藤義17勝、山田14勝、山沖11勝、宮本8勝
この5人でチームのシーズン勝利数75勝の9割を占めてたので
ポッと出の新人の割り込む余地は無かった罠 >>41
>>バックの好守
弓岡とか小林晋とか内外野に守備の名手がいたがいかんせん阪急なのでマイナー扱い >>43
80年代のファンクラブ会報でも打者としてのクローズアップはあっても
守備の方は隅っこに追いやられてた >>46
でも山森のアレは箱庭だからこそできたと思う ならば
新人王取ったのにほとんど記憶に残ってない熊野輝光はどうだ 熊野にしろ藤田にしろ巨人時代はまるで打てそうな感じがしなかったよな
二人共阪急時代はそこそこ打ってたのに 83 二村(日ハム)
84 藤田(阪急)
85 熊野(阪急)
うーん、実に地味な顔ぶれだ >>47
グリーンスタジアム神戸でもそれに近いプレーしてなかったっけ? >>52
1982大石大二郎が抜けとるで
石毛は1981 水谷実雄が開幕戦デッドボールで抜けた穴(特にHR)を何とか埋める事ができたのは藤田の功績
ブーマーの三冠王もあったとはいえ藤田がいなければリーグ優勝は厳しかったかもしれない 打撃に偏ってリードが疎かになってはいけないと思った大エース山田からみっちり仕込まれたおかげで
打撃と守備(リード)が両立できる正捕手になれた
巨人藤田監督が早くからその資質に目を付けて1991年オフのトレード獲得にまでこぎ着けたのに
翌シーズン以降、打撃は良いがリードに難のあったデーブ大久保を重用したのが不可解だった
たしか豊田泰光氏も何かのコラムで「藤田を使わないのは勿体ない、何のために獲得したのか」と疑問を呈していた 捕手の場合、
打てる選手はリードがイマイチ
リードが優れてる選手は打てない
両方兼ね備えてるといえば野村と古田ぐらい? >>59
デーブのトレードは当時の巨人打線が酷くて打線のテコ入れとしての獲得だったからリードや守備は二の次だった
藤田が阪急時代の打棒を発揮できていれば使われてんだろうが全然打てなかったからね >>62
打たないにしても第二捕手の待遇はあってもよかったのに
ずっと二軍に放置だったからな 豊田さん以外にもあの頃のデーブの使い方に異議を唱えてる評論家はいたよ
エモやんなんか、デーブに内野を守らせて藤田は捕手ならデーブの打撃と藤田のリードを両方有効活用できると主張 ウケ狙いなのかトンデモな主張する解説者が昔は多かった
デーブに内野守らせろてw
フジテレビの解説者に目立った
江本、加藤(博)、関根とか >>29
このドラフトは1位石毛で西武に攫われ、外れ1位川村も最終的には西武へ。
不人気チームの悲哀を味わわされた 正直80年代阪急が西武の後塵を拝したのは投手陣の層の薄さが原因だからなぁ
80年代に入っても70年代の主力におんぶに抱っこだったのはドラフトの失敗が響いたよな
星野だってドラ5だし上位指名の投手は山沖を除いてほぼ失敗しているよな 正直川村が外れ1位というとどうかと言われてた。
アマチュアの評価は難しいが、イメージに流されてる感はあった。
もっとも、ミーハー指名は近鉄も南海も負けじとやってたものだが。 プリンスホテルを隠れ蓑にした囲い込み戦法は川村以外でも日公が高山でやられた
巨人は江川盗りで叩かれたが、これもかなりグレーやん? グレーでも策略としては◎としか言いようがない
阪急が新戦力補強で失敗続きなのは
スカウト陣の故障情報の把握スキルが
他球団より低いからという話もあった
榎田や野中といった甲子園スターはどうだったろ プロ入り後に傷めるのがほとんどじゃないの
当然だけど運動量が全然違うし、昔は投げ込め投げ込めで投球数が多いほど良しとされてた時代でしょ 野中は阪急に馴染めなかったな
本心は中日に入りたかったか ドラフトでスカを食らい続けてもずっとAクラスをキープできていたのは育成力が優れていたからか
いまは見る影もなくなったが 藤王と野中なら、藤王取るでしょ
ただこの年の、中日の営業サイドは1位を二人指名できたらいいのに!とこぼしていたそうだ 昭和50年代の阪神中継ぎエース池内の終焉の地は阪急であった 巨人で全くダメだった永本が覚醒、阪神野田が阪急で覚醒した
他に覚醒した選手居ますか 大洋で芽が出なかった宮本四郎
84年だけプチブレイク >>78
パリーグにはいないタイプの投手、また連投が利く馬力の強さが上田監督の琴線に触れ、
大洋クビの情報を聞いて獲得に乗り出したと言われていた。
なのに一軍で使わずたった一年でお払い箱にするとはね。
どこか故障でもしてたのか。 >>81
晩年は打ちごろのボールをポンポン放ってたイメージ
細かいところはわからないけど、フォームは柳田豊みたいな感じだったよね >>81
もともとは南海出身
>>79
フォーム改造で成功したという点で自分としては永本と木下がカブる 82年は飛ばない球使用でサイドの永本やハム工藤がブレイクしたね
2人とも実質82年だけで終わったが >>71
でもプリンス経由で藤井がとれた
これは掘り出し物 >>86
清原が西武に入ってなきゃ取れなかったかもな 中島輝士とか西武が囲い込まないプリンスホテルの選手はアレやな
石井浩郎は活躍したが 藤井選手は西宮でサインしてもらった
素人の頓珍漢な質問にも気さくに答えてくれた
実績も人柄も申し分なく、もし阪神にいたらもっと人気があっただろう そらそうよ
社業に専念
チームは違うが阪神赤星はプロ入り前はJR東の車掌課で働いてたのは有名
資格も持ってる 国鉄の鉄道管理局からプロ入りした選手はまあまあいる
福良は大分から、サブマリン太田は仙台から、外野手田島は門司から。 一口に言ってアンダースローにも様々あって皆が皆山田のようには投げられないのに
チームの大先輩と同じように投げれば勝てると無理矢理フォームを変えさせられた悲劇の人 江本が言ってた
投球にせよ打撃にせよ、他人から強制的にフォーム改造されて
成功した試しはない
壁にぶつかってにっちもさっちもいかなくなって
選手自らが変えたいという意思にならない限り
モノにならない >>98
だって山田さん自身が言ってたもん
「真似されるようなフォームなんか意味が無い(使ってもらえない)」
改造を指導したコーチは相当の○ホじゃないの 太田って入団時からアンダースローだったハズだけど、山田みたいな、
投げる直前で一旦浮き上がるようなフォームに改造したの?
ただ単に、アンダースロー=山田って素人同然の考えなだけじゃないの?
アンダースロー、一口に言っても足立みたいなのから他球団で言えば高橋直樹、仁科、金城と居るわけだし アンダーにも2種類あるからね
真性アンダーとサイドぽいアンダーがね
サイドぽいアンダーは身体を沈み込ませるけど腕の出どころがほぼサイド
高橋直樹、仁科、小林繁、三沢はサイドぽいアンダー 中日にトレード後、星野の下で選手、コーチの傍ら乱闘要員として大活躍し
その後地元の町長にまで上り詰めた岩本
阪急時代もそこそこメジャーな選手って感じでいいのかな?このスレには合致しない? 昭和55年頃西宮北口の寿司屋で見掛けた白石
四角い輪郭とメガネが今井雄太郎とよく似ていた 過去ログにもカキコあったが
西宮北口周辺の居酒屋鉄板焼屋寿司屋等々で
土日の夕方にブレーブス選手に会うことは良くあったようだね
デーゲームの後だから? 白石さんといえば「肩にボルトが何本も入ってる」が十八番ネタ
ちゃんとオチまで付いている 近所の阪急ファンの子がしきりに「さいぐさのマネ」をしていたが
実物を見たことはない 西武の松沼兄は真正アンダーかな
高橋直樹はサイドだと思っていた 白石は南海戦によく使われていた
スポーツ新聞の先発投手予想欄「老練な白石、鷹狩りの腕前を見せよ」のコメントは今でも覚えている
たぶんサンスポと思う >>114
なにしろ主力が左ばっかりで他チームにも左をぶつけられていた
メイはメジャーの実績もある好打者だったが
それはそれとしてなんで右をとらなかったのだろうかと 松本幸が先発してスイスイと100球足らずで抑えたこともあった
右の代打も全く問題にしなかった
ゲームセットでもニコリともせずに捕手と軽く握手、
バックには目礼しただけでさっさとベンチに引っ込むのがお決まり
本当にクールな選手 サンスポは阪急選手を良く書いてくれた
フジサンケイグループの関西テレビが阪急東宝グループにも入ってるから カンテレ社員
フジテレビが視聴率トップの時代「わが社はフジサンケイグループです」
フジテレビが凋落した現在「わが社は阪急東宝グループです」 幸行をゆきつらとは読めない
インパクトの強さゆえに最初に覚えた投手 むかしダウンタウン松本が
野球興味なかったけど「ゆきつら」という選手だけなぜか好きで
それで中日の帽子をかぶっていた という話をしていた
客席の大半は若い女の子で こいつら1人も知らんやろなと思いながら見てたな
まあ苗字が同じで変わった名前ということで松本少年の目に止まったのかもしれんね >>120
どこがマイナーやねん
中日の左のエースやぞ 日大からドラ1で来た石井
引退後大型トラックのドライバーに転身したという記事を読んだ記憶 >>127
当時の阪急は高卒ドラフト1位が全く育たず
大卒の石井には期待して見てたんだけど
結局通算で二勝しかしていない・・・
今は北海道に帰って女子野球の指導をやってるそうだが 新人の年1986年、今井山沖が絶不調で代わりにローテーションに入れようとしたが結果出せずに白井や古溝に持って行かれてしまった
二軍落ちした時に「まだまだこれから」みたいなコメントしてたが悠長なこと言ってられないのにと思ってたら案の定次の年以降も椅子取りゲームに勝ち残れず。
過酷な生存競争だね。 石井は血行障害だったかで支配下外れたりした。3年で整理されたということはもう無理だと思われたんだろう。
日大OBの田宮氏の伝手か何かで阪神に引き取られたが1年で解雇。 引退後の転職先というと飲食が王道なのにトラックの運ちゃんとはシブい所突いたな >>32
有ったよ
77年に指名していたら入っていたらしい
江川が言ってる 太田は足立二世とサンスポ裏1面に書かれていた
産経新聞購読すれば、土日?日曜のみ無料でスポーツ紙宅配してくれた そうだったね
宅配版は駅売り版と違って教育的配慮からエロページが割愛されていたっけ クラウンの江川でも、阪急の江川でも、ダメだったろうね
阪神の江川なら、どうかな 最近mineoのCMを見るたびに福原のことを思い出しちゃう 最近江川がYouTubeを始めて、また田尾や槙原のYouTubeにもゲスト出演しているが
空白の一日のことは喋るようになったが阪急指名のことは一言もなし
誰も興味ないのかな 言いたくても言えないこともある
というか、おっさん世代はともかく若い世代に
空白の一日や阪急ブレーブスを語っても
刺さらないだろうなあ センバツ今日の第2試合に登場した北陸高校のユニホームが1980年代の阪急ブレーブスにパッと見似ていました。 ルーキーイヤーだけ活躍した小嶋
東芝からドラフト外で入団
この時期東芝からは毎年コンスタントにプロ入団者が続いていたが
長続きしたのは日ハム高代ぐらい 1981年だな
この年はエース山田が前期不調で苦しい投手事情のなか間合いで試しに先発させたみたら好投してローテーションに収まったという感じ
掘り出し物と評判になった 佐藤滋が岩本とスナックにでかけ反社会の男と喧嘩になりグラスをぶつけられ、それが原因で引退してた。
今のホークスのリチャードみたいな立ち位置の選手だった。 >>152
例のマンガでも先発するところが描かれてたがリアルの5年後ぐらいに読んだので「小島?そんなやつおったのか」だったな
ヒーローインタビューをアイドルが務めるってんで阪急・南海の選手が目の色を変えてヒーローを目指すが最後はあの男がもっていく
というまあ安定の水島ワールドであえなくKO
失意の表情で松本にマウンドを譲るという役をやらされていた >>154
岩本ってその頃おった?
長池がその場に居たとかは聞いたことある マイナーではないけど矢野清はどうなんや
切通とか当銀とかは 永本はサイドに変えた82年が飛ばない球の年で技巧派に有利だったのが大きいと思う
82年は同タイプのハム工藤も突如大活躍したしな 他チームに研究されて翌83年は打たれまくったが
それでも永本は7勝、工藤は8勝できたからそれなりに頑張ったんだろう