南海ホークス13©2ch.net
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グッドウィンはすごい見掛け倒しだったな
結構期待していたのに
昔は球場によってボールのメーカーが違っていて、
大阪球場は久保田製であんまり飛ばないボールだった記憶が
それに対して西宮球場の美津濃製はポンポン飛んでた 失礼
PLだけど守備が下手〜我らの若井〜
外人獲得も上手く行かなかったが南海ホークス全体の内野守備の酷さは
間違いなくあの時代の12球団ワーストだったように思う
なにせ上手いといえる人が思いつかない 若井は後に代打の切り札のなったけどな
81年選抜の優勝メンバー、西川がエースで吉村が3番
PL学園は翌年の選抜も優勝して春2連覇を達成
春2連覇はその後達成したチームはなし。 >>269
見掛け倒しっていうより評判倒れね
見掛けは小太りのおっちゃんだったからw
実際開幕前の評判はよかったんだよね
軟らかいバッティングでパワーもあるとか言われて
ところが粗くてダメだろと言われたデビットの方が活躍した
それにしたってよそは30本どころか40本当たり前だからな
そりゃ勝てないわけだよ >>268
最後の最後にバナザードをとれたのは本社から特別予算でも出たのだろうか? 前年の好成績(しかもスカ外国人で)で観客動員は大幅アップしたし、好景気真っ只中で親会社も余裕があった
まさかあの年が結果的に最終年になるとはねぇ 球団設立50周年でしかも前年は終盤戦まで優勝戦線に絡んだということで
奮発してくれたらしいよ
もっとも同時に入団したのが3Aどころか2Aまで落ちてたジョージ・ライトだったり、
ドラフト1位の吉田豊彦の契約金をけちってつましく帳尻を合わせてる。 消化試合になると打ち出すナイマンなんてのもいたなあ
シーズン通して打ってくれればタイトルも狙えた選手だと思う 穴吹降板と共にナイマン・ドイルをクビにして連れてきたのがデビッド・グッドウィンだったか
キャンプで鶴岡が「杉浦は運が良いよ。素晴らしい外国人が来てくれた!」とか言ってたけどなあ >>278
あの時は門田が60でデビットが61でグッドウィンが62と
60番トリオで売り出そうとしたんだな。
他球団のファンは知らないだろうが
そしてその年のオールスターで南海から誰も選ばれないのかと心配した
それでも大阪球場で山本がホームランを打つなどの活躍があってホッとした 他にも山内トリオで18、19、20とか南海はそういうのが好きだったね しかし1球団60人しか居ない中で山内姓が3人ってのは、意図的に集めたので無ければ稀有なことだわな
しかも単なる山内選手でなく全員エース級の実力者ってのが凄い 久保寺急死、定岡のアキレス腱断裂後に急激な衰えが重なり、内野手の層が薄くなった。この二人が南海最終年まで健在なら、河埜を含めて、もう少しマシな内野陣だったはず。 広瀬穴吹杉浦あたりは鶴岡直系だったんだから
せめて外国人操縦法くらいは倣ってほしかったなぁ
「外国人は話せる相手が少なく孤独になりがち。
親身になって悩みを聞き、打ち解けることで不安を取り除けば
活躍してくれる」
ってのは、現代でも通じるやり方だと思う
実際鶴岡時代は当たり外人多かったしね
スタンカ、ハドリ、ブレイザー、ピート 上田監督は奥さんがきつねうどん代くらいしか出してくれないブーマーに
ステーキおごってあげたりしたというしな。 史上最強助っ人ブーマーが、うどんにいなりをつけるかどうか毎回悩んでいたってw
もちろん金村ネタだけど笑っちゃう >>284
鶴岡時代以降も最後の優勝に貢献したジョーンズ
低迷した時代に気を吐いたメイは当たりだ
南海の外人獲得ルートは鶴岡時代を引きずってそのまま失敗した感があるなあ メイとて元大リーガーだからな
80年代南海の格安外人とはさすがに比較できんだろ >>276
そのライトが福岡ドーム1年目の1993年に復帰した時は驚いた。 あの年はライトとタネルの2人だったから
シーズン開幕前にBクラスを確信してたな
だからあの年は一番期待できない年だったと思う 93年は最初から捨ての年で現有戦力を見極めるつもりだったんだろ。
門田・ブーマー・ラガが退団で岸川が故障してるのに大砲の補強無しだったし
キャンプも初日から紅白戦とユルユルだったし
何より当の根本が最下位なのに余裕綽々そうにしてた そうそう。あの年、根本さんはじっくりチームを見てて選手をふるいにかけてたんだよ。
中内さんも後ろから賛成してくれてたから出来たことだけどね 本来派手にやりたい福岡ドーム元年だというのにね
まったく食えないジジイだよ
でもどりジョージが打てなくて本人が外してくれって言っても4番に据え続けたという ジョーンズは南海の時は豪快な三振の記憶の方が強い
のちの日ハムのミッチェルみたいな感じだった >>295
93年の藤井寺と言えば8対2から9回に逆転されたことがあったな 平和台時代やドーム元年あたりも今くらいの頻度でテレビ中継はあったんですか?
タイムマシンがあれば平和台で野球観戦したり、出来たばかりのドームで観戦したいものです >>299
まあまあそんなかたいこと言うんだったら↓
>>295
俺は第一次ジョージ・ライトの両打席本塁打を川崎で見たぞ ドイルもいたな。ミッキーマウスのヒッティングマーチが鳴ってたな >>303
そうだっけ?
土日に分けて打ったのを勘違いしたのかもしれんが
とにかくジョージ・トニー・山本のホームランが乱れ飛んで
痛快で暑い週末だったと記憶している ナイマンは珍プレーにも出ていたな
エラーする度に目にゴミが・・ってナレ付けられてて笑った
露出の少ない南海なんで、たとえ珍プレーでも立石みたいに目立ってたら嬉しかった 野村政権末期に在籍した
ピアース
成績はアレだったが打席での極端なオープンスタンス
あんなの初めて見たわと印象に残っている 野村は低打率のジョーンズを辛抱強く起用していたが
日本シリーズで致命的なエラーをやったのを見てクビを決めた その時のジョーンズは二日酔いでフラフラな状態で
野球に対する姿勢がいい加減な選手はいらないということで放逐した そしたら西本翁率いる近鉄が拾ってパリーグ初の外国人本塁打王に
代わりに獲得したロリッチは及第点だったが、ジョーンズより低打率で切られて
その後メイ(2年目)が当たるまで外国人の貧打に泣かされるハメに >>309
メイが来た時は、戦力ガタ落ちだったからね。ナイマン、デビットも悪く無かったが、リーやブーマーから見たら数段下。 ロリッチはシーズン途中での獲得だったような
ジョーンズの代わりに獲ったのはパーカー
3割打ったが凡退するたびに涙目になる極度のネガティブで
お守を任せていたブレイザーが根を上げたと野村の本に書いてたな
あと男色疑惑もあった ノムは鶴岡時代のスタンカやハドリとは
上手くやっていたのかな?
基本外人嫌いみたいだしな
米球界でも嫌われ者だったブレイザーだけはウマが合った様だが
あとジョーンズを我慢して使ったのは
ブレイザーが見つけて来た御仁だから気を使ったんだろうし >>311
パーカーはその後、阪神への移籍が決まりかけたけど家庭の事情で断念して、
阪神はアルトマンをロッテから獲得したと「大阪タイガース球団史」にあったな。 太平洋クラブを退団したビュフォードや広島を退団したホプキンスを拾ったこともあったな。
ホプキンスは広島を退団してアメリカの医大に進学するつもりだったが、
進学先の医大の教授が広島での活躍を知ってたそうで、1年待ってやるから日本に戻れと諭されて
日本に戻るも広島は既にライトル・ギャレットと契約して空きが無く、古葉監督が旧知の野村に紹介して
南海に来たと聞いたことがある。
だから77年のホプキンスは最初から1年契約だったとか。 そのライトルも後に南海に移籍、他に西武からタイロンも来た
ライトルは旬を過ぎた感があったけどタイロンはそこそこ活躍したね タイロンの活躍(特に1年目)は文句なしなんだけど
その獲得の仕方と、獲得後の余波がねえ
ドラフト1位をわずか1年で放出させられ、
タイロン入団で1人が練習生枠にあぶれた台湾選手コンビが退団騒動になったり
なんかその根本さんの手のひらで転がされたような気が 名取は本当に気の毒というか
仮にトレードが無ければもっと成績を残せたかもな ホプキンス、ビュフォード、タイロン
こうしてみると意外と中古外人が多いね
この時代には結構珍しかったんじゃないだろうか >>318
南海以外でも
珍しくないけどな
大洋に行ったスタンカ以降でもアスプロ スチュアート ロイ ボレス
ロペス ロジャー アルトマン ジョーンズ テーラー
南海に来たビュフォード ホプキンスまでに
これだけ動いてる
当時は今より情報が取り難いから
日本で実績のある外人を獲得してたんだろうな >>319
スチュアートじゃなくて
クレス(クレスニック)だった
大洋➡近鉄➡阪神 アグウィリー(アグリー・アギー)もいたな。
ブルームの近鉄→南海、バルボンの阪急→近鉄もあった。 >>316
記憶が定かでないんで、よければ
なんで外人獲得で新人投手出すとか、わけのわからない
トレードしたのか教えて下さい
そんなにタイロンが欲しかったの?
漫画あぶさんで、印象深いな >>322
当時外国人枠はメイ(不動の主砲)の他は育成目的の台湾人(高と李)で
とても一軍の戦力とは言い難かった。
チームの成績も最下位あたりに定着し、貴重な外国人枠を育成に当てる余裕など無いと
当時の監督だったブレイザーは判断したんだろう。
名取はドラフト指名時に一年でプレーしたら好きな所へ行ってもいいとかの裏条件があったのでは? 同じ南海のドラ1では、長谷川勉も1年目のオフに阪神へトレード(江夏と複数交換) マッシー村上って
ノムに疎まれてたんかね?
阪神へトレードされたのは誰との交換だったっけ?
阪神へ移るもその1年後には日ハムの東田と
マッシー+後藤和昭との交換トレードだったが
同年に江夏望月充と江本島野+長谷川?のトレード
この時期は阪神とのトレードが多いな
和田徹も南海へ移ってる >>326
江夏絡みのトレードでは、南海からは池内もいた。
阪神からは最初佐藤正治も要員に上がっていたけど、
佐藤がトレードを知って引退してしまったから、江夏と望月の2人に。 ノムは自分の言うことを聞く手駒を揃えたがる
鶴岡時代から主戦として活躍してきたベテランマッシーはちょうどいいトレードのコマ
野村再生工場の根っこも結局そこ 言うこと聞く選手を揃えたがるなんて監督ならそりゃ当たり前でしょ
むしろ南海時代の野村は門田やら江本やら反発する選手も上手く使ったほう
村上とは確かに反りが合わなかったようだ
村上が熱心な鶴岡信奉者ということもあるが、球界初のメジャー帰りの選手が
復帰してすぐ思った活躍が出来ず、その時野村のインサイドワークも槍玉に上がった 高橋里志への暴力は今でも野村にとってトラウマになっている様だな。
もっともあれは本人の態度にも問題があったが。
里志はRCCの解説者時代も、
広島対ヤクルト戦で野村についてはあまり語らなかった気がする。 台湾の投手コーチで高英傑もいるな。郭泰源とかも出るのね。 二軍で不貞腐れて試合途中で抜け出たところを
視察に来ていた野村が殴って、更に倒れたところを蹴ったとか。
それがもとで一度引退して郷里にいたけど、
広島に復帰していた古葉コーチが復帰させたらしい。
里志は野村シンパだった江夏とも広島で揉めていたが、
日本ハムの監督だった大沢はそれを承知で2人とも獲得した。 大沢は江夏と里志の2人を同時に呼び出して
グラウンドの上では絶対に喧嘩するなと厳命した 高橋里志は現役の頃は野村に暴力振るわれたことを
あれは自分の態度が悪かったと非を認めていたのに、
解説者になってからまたたまに恨み節を見せるようになった 野村はめったに手は出さないので
暴力をふるったことで自分で傷んでいたな 野村はあの時代には珍しく、滅多に暴力を振るわない監督だった
現役時代暴力を振るったのは高橋里志、田中尊、小泉恒美の3人だけ
小泉も2軍で不真面目な態度をとっていたところを見つかって殴られ
70年オフにトレード会議で中日に移籍
田中はお互いが若手時代の頃の話だから監督時代ってのとは違うか >>339
田中も広島に移籍して長くレギュラーを務めたな。
赤ヘル世代には古葉監督時代のヘッドコーチの印象が強いかも。
小泉はやっぱり「鶴岡派」だったんだろうか? 小泉のトレードは本人の希望かも知れないね
小泉恒美というと樋口を思い出す
寺田は黒い霧の灰色で鶴岡が嫌ったうわさあり 選手として絶頂期だったのに杉山を阪急に出したのは
高年俸や十年選手制度対策なのかな? 捕手の黒田さんを西武に金銭?でトレードに出して
それまでなぜか五分で渡り合っていた西武に
次の年、ちんちんにされたんだよな。
なんでそんな馬鹿なトレードをしたんだろ 金銭じゃなくて、黒田+片平←→山村+山下律夫だよ。
もっと悪いか(´・ω・`)
まあ30過ぎのベテランを2枚出して、右の強打外野手と手薄な中継ぎ補強という
目論みは分かるが、このころの南海にはもうそういう見極める目はなかったわけで >>345
この選手を見極める感覚が途切れたのもノム粛清のブーメランとしか思えない。 この頃の南海はトレードする度に戦力が薄くなっていったイメージが >>347
その人はもっと大昔の年代だな。すでに亡くなっている。 >>339>>342
小泉の中日行きは
先に移籍してた堀込基明のツテだろうな
小泉は堀込の同郷の後輩でもある
堀込は亡くなるまで中日でマネージャー 編成スカウト コーチを務めた 小泉恒美って中日でも1年限りで
球界にも残れず早死にしてるんだな
鶴岡時代末期にはスタメン張った事もあるのに 吉田豊彦さんに
君は三位評価からの繰り上げ一位指名って、暴言吐いて
契約金値切ったのはほんと?
当時、吉田豊彦さんが入団拒否してた記憶はある >>353
吉田は阪神に行くつもりでプロ野球ニュースのドラフト前のインタビューでも
タイガースに入ったら・・みたいに答えてたから南海の指名はショックだったろうなぁ 南海の渋ちんぶりは既出の通り国貞にも言われたくらいだからなww 南海は年棒安いし当時の時代背景には受け入れられなかったんだろうな この時代の在阪では阪急が比較的待遇が良かったようだが。 阪急は10年在籍しないと査定額からいろいろ引かれて提示されたらしい 南海を出た山本雅夫は巨人へのトレード、内心は喜んでたような気がするよ >>357-358
年功序列と実績重視の会社員みたいな年俸交渉
トップ(山田福本)はさておき、御しやすい2番手3番手あたりの選手の年俸を
キチッと締めておくと、それ以下の選手が必然的に抑えられる
今井さんがあまりに球団の提示額であっさり陥落してくるので、
俺の給料が上がらん、と(給料逆転するまでの)佐藤義則がぼやいてたらしい >>358>>360
長池なんて活躍と貢献度を見たら
明らかに年俸抑えられてたな
2000万を大きく下回ってたんだから
10年経ったら故障で衰えて年俸ダダ下がり
確か最終年は.1000万くらいだった >>347
ありゃ「何回やっても(巨人に)勝てない南海」とも揶揄された昭和20年代後期の頃の
レギュラー外野手・黒田一博の方だよ。
高橋ユニオンズの設立に伴い、「所属の既存各球団も高橋のチーム力整備に協力する」とのリーグ方針に沿った格好で高橋に移籍し、2年後、大映に移籍し1年在籍して
現役生活を終え、大阪に戻りスポーツ用品店を開業し、後に鶴岡監督が提唱した
ボーイズリーグに自ら「オール住之江」を設立して参画し、自分の息子を含めた後進
の指導で一生を全うした。
その息子・黒田博樹は彼が51歳の時に出来た子供だそうだ。
そんな時代の選手な故か晩年、黒田投手の親父としてインタビューを受けた際も、
「とにかく打倒巨人!それやらな一人前の選手として認められん!」と打倒巨人を
熱く語る頑固爺さんって感じでしたな。 阪急がまた実質球団持つとはねぇ。
今年のドラフト見てたら、選手獲得資金かんなり
締め付けられてる感じ。
阪神も、身売りだな。 野村が現役の時にヒッティングマーチはあったのだろうか?
73年の日シリの映像でも応援団は既にいたのだが。 そういうのはないなあ
当時の登場のテーマソングと言えばアホの加藤しかないと思う ヒッティングマーチらしきものが導入されたのは78年のカープが始まり
それまでは笛太鼓で337拍子がメイン 末期は外野席に応援団がいてセリーグと同じ応援風景になってたな 大阪球場はホームランや試合開始終了のメロディ以外に
ヒットやファインプレー時にも音楽があった時代がある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています