南海ホークス13©2ch.net
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野村は今でもすごい勢いで著書を出してるけどゴースト使ってるのかな?
口述筆記ならまだ良いけど ネタが尋常じゃなくダブりまくりなうえに、ちょっとずつ内容が変わって来てるって、ダウンタウンの番組で特集ネタにされていたなw ノム名義の著書が今更新しく出たところで買ってる奴いるのかww >>232
半ドンとは?
28年前の今頃は南海が終わったけどダイエーで新しい歴史を作ってほしいと言う前向きな感じだったな その後まさかダイエーがああなるとはね
西武のドンも逮捕されるとは思わなかったけど
土曜閉庁は翌年からだったんだな >>240
>その後まさかダイエーがああなるとはね
あと1年早くソフトバンクへ身売りしてれば
小久保が無償トレードされることもなかったのにな 小学校の半ドンは好きやったな
学校終わると家できつねうどんとバッテラの昼食を
吉本新喜劇見ながら食べて外で友達と空き地で遊んで帰ると
夕方パリーグアワーで南海阪急をやっていたりする
ああ明日は日曜だが土曜のこの雰囲気が好き >>242
同年代ですね
バッテラは子供の頃食えなかったが、あとはまったく一緒です >>235
その片岡氏は学生時代は杉浦とバッテリーを組んでいたんだよな。
杉浦も伊東芳枝と関わって以降の野村について片岡に嘆いていたようだし。 ノムさんも鶴岡御大に酷い扱い受けてたしねぇ、行き違いもあるんだろうけど
でも蔭山さんの死が一番堪えたんだと思う、で、そんな折に出会ったもんだから 佐々木誠の妹の子供さんが指名されたね目出度い事だわ >>244
野村との接し方に困った片岡が杉浦に相談したら
「あいつの言葉を真に受けない方が良い」と慰められ、
その後片岡は野村に対する悪感情をあけすけにして全く隠さなくなり
2人の仲は更にこじれてしまった
もっともその後阪神で痛い目見た野村はヤクルト時代の全てが
甘い記憶になったようで、著書で片岡にあれこれ言及したことはない >>246
明治の佐野恵太だね
いいバッターではあるが特徴に乏しくギリギリひっかかった形になったが
佐々木氏がセガサミー率いて明大グラウンドに練習試合におこしになった時は
明治OBで南海ファンでセガユーザーだった自分としては
どっちに肩入れすべきかわりと真剣に迷ったものだ 二世や甥や姪の時代となったか
寂しいな ところでカツノリは今何しているの ヤクルトの1軍コーチ。
あの父母でありながら人柄が素晴らしく良いのでコーチ歴が長い。 どういう突然変異か知らんがカツノリの人柄の良さは当初からずっと言われていたよな
しかしカツノリのコネ入団時、ノムがその年俸分を返上したって本当なのか
サチヨがそんなこと許すはずないと思うが >>251
そうでもしないかぎり他球団から指名される可能性はゼロだったんだから、沙知代も容認せざるを得なかった カツノリは人柄ってより
両親の悪評を反面教師に上手く立ち回ってるって
だけな感 カツノリの幼少期、解説者として多忙だった野村はほとんど教育に携われてない
なので佐知代が育てたわけだが、親に逆らうと時にはフライパンでしばかれる
バイオレンスな環境だった
カツノリの性格面を変えたのは高校時代の恩師桑原秀範 >>248だけど
そういや俺がプロから大学にシフトしたのって
この御仁がキャプテンの時の優勝シーン見てからだったんだよね
そんなのそれまで全く縁がなかったから一発でやられてしまった感がある
応援席に「おっし、新宿行くぞ!!」などとアオリ入れていたが
一昨日の優勝インタビューで優等生発言に終始した柳とは良くも悪くもという感じだ >>255
その桑原って何の因果か、鶴岡の出身校の広島商業のOBで、同校の監督も務めた人なんだよな。 日ハムサードのレアードって守備上手いなぁ
サードで外人って言うとド下手のハモンド思い出す ウソかまことか捕手も出来るという触れ込みで
ドカベン危うし!なんて書いてたバカ新聞があったが
さすがにこりゃウソだろと思った
ただいちおう2割7分打ってたから
守備がうまければ期待料込みの残留もゼロではなかったかも >>259
狭い大阪球場、しかもストライクゾーンが狭くラビットだった86年で9発という非力さが 当時の南海は三塁が手薄だったから、新外国人はサードを守れる奴が最優先で飛び付いたんだっけか。
最終年に藤本博が台頭しかけるまで人材難なポジションだったな。 >>260
難癖ではないけども、86年は、いわゆるラビットとは異なるかなと。
プロ野球史的に、いわゆる過剰なラビットは、1949〜50、78or79〜80、
2001〜何年までか、この時期が顕著だったかと。
いつまでだったか曖昧だけど、04年までは、確実にピンポンかな。
ちょっと、飛び過ぎでないかいってのは・・・
まあ、ボール云々はさて置き、大阪球場は小さかったけど、
それも拡張前がかなり狭いよね。
両翼が、85mなかったんでしょう。 藤本博も実力で台頭したって言うより、我慢して実戦経験を積ましてるって感じだったな てか、ハモンドが在籍してたのは87年なんだが
86年はグッドウィンだった。(これまた打てない選手だった) 藤本はデビットの応援歌を流用してたな
太鼓を叩きまくるのがよかった 極端なラビットではなかったが、狭い球場全盛でブーマーや西武近鉄の外人が
30本当たり前の時代にデビットやグッドウインじゃ話にならなかった。
ただでさえ打線が強くないんだから。 あの頃は各球団1人は当たりの外人が居た感じだが
南海はスカばっかりだったからなあ
年俸が違うって言ってしまえばそれまでだが グッドウィンはすごい見掛け倒しだったな
結構期待していたのに
昔は球場によってボールのメーカーが違っていて、
大阪球場は久保田製であんまり飛ばないボールだった記憶が
それに対して西宮球場の美津濃製はポンポン飛んでた 失礼
PLだけど守備が下手〜我らの若井〜
外人獲得も上手く行かなかったが南海ホークス全体の内野守備の酷さは
間違いなくあの時代の12球団ワーストだったように思う
なにせ上手いといえる人が思いつかない 若井は後に代打の切り札のなったけどな
81年選抜の優勝メンバー、西川がエースで吉村が3番
PL学園は翌年の選抜も優勝して春2連覇を達成
春2連覇はその後達成したチームはなし。 >>269
見掛け倒しっていうより評判倒れね
見掛けは小太りのおっちゃんだったからw
実際開幕前の評判はよかったんだよね
軟らかいバッティングでパワーもあるとか言われて
ところが粗くてダメだろと言われたデビットの方が活躍した
それにしたってよそは30本どころか40本当たり前だからな
そりゃ勝てないわけだよ >>268
最後の最後にバナザードをとれたのは本社から特別予算でも出たのだろうか? 前年の好成績(しかもスカ外国人で)で観客動員は大幅アップしたし、好景気真っ只中で親会社も余裕があった
まさかあの年が結果的に最終年になるとはねぇ 球団設立50周年でしかも前年は終盤戦まで優勝戦線に絡んだということで
奮発してくれたらしいよ
もっとも同時に入団したのが3Aどころか2Aまで落ちてたジョージ・ライトだったり、
ドラフト1位の吉田豊彦の契約金をけちってつましく帳尻を合わせてる。 消化試合になると打ち出すナイマンなんてのもいたなあ
シーズン通して打ってくれればタイトルも狙えた選手だと思う 穴吹降板と共にナイマン・ドイルをクビにして連れてきたのがデビッド・グッドウィンだったか
キャンプで鶴岡が「杉浦は運が良いよ。素晴らしい外国人が来てくれた!」とか言ってたけどなあ >>278
あの時は門田が60でデビットが61でグッドウィンが62と
60番トリオで売り出そうとしたんだな。
他球団のファンは知らないだろうが
そしてその年のオールスターで南海から誰も選ばれないのかと心配した
それでも大阪球場で山本がホームランを打つなどの活躍があってホッとした 他にも山内トリオで18、19、20とか南海はそういうのが好きだったね しかし1球団60人しか居ない中で山内姓が3人ってのは、意図的に集めたので無ければ稀有なことだわな
しかも単なる山内選手でなく全員エース級の実力者ってのが凄い 久保寺急死、定岡のアキレス腱断裂後に急激な衰えが重なり、内野手の層が薄くなった。この二人が南海最終年まで健在なら、河埜を含めて、もう少しマシな内野陣だったはず。 広瀬穴吹杉浦あたりは鶴岡直系だったんだから
せめて外国人操縦法くらいは倣ってほしかったなぁ
「外国人は話せる相手が少なく孤独になりがち。
親身になって悩みを聞き、打ち解けることで不安を取り除けば
活躍してくれる」
ってのは、現代でも通じるやり方だと思う
実際鶴岡時代は当たり外人多かったしね
スタンカ、ハドリ、ブレイザー、ピート 上田監督は奥さんがきつねうどん代くらいしか出してくれないブーマーに
ステーキおごってあげたりしたというしな。 史上最強助っ人ブーマーが、うどんにいなりをつけるかどうか毎回悩んでいたってw
もちろん金村ネタだけど笑っちゃう >>284
鶴岡時代以降も最後の優勝に貢献したジョーンズ
低迷した時代に気を吐いたメイは当たりだ
南海の外人獲得ルートは鶴岡時代を引きずってそのまま失敗した感があるなあ メイとて元大リーガーだからな
80年代南海の格安外人とはさすがに比較できんだろ >>276
そのライトが福岡ドーム1年目の1993年に復帰した時は驚いた。 あの年はライトとタネルの2人だったから
シーズン開幕前にBクラスを確信してたな
だからあの年は一番期待できない年だったと思う 93年は最初から捨ての年で現有戦力を見極めるつもりだったんだろ。
門田・ブーマー・ラガが退団で岸川が故障してるのに大砲の補強無しだったし
キャンプも初日から紅白戦とユルユルだったし
何より当の根本が最下位なのに余裕綽々そうにしてた そうそう。あの年、根本さんはじっくりチームを見てて選手をふるいにかけてたんだよ。
中内さんも後ろから賛成してくれてたから出来たことだけどね 本来派手にやりたい福岡ドーム元年だというのにね
まったく食えないジジイだよ
でもどりジョージが打てなくて本人が外してくれって言っても4番に据え続けたという ジョーンズは南海の時は豪快な三振の記憶の方が強い
のちの日ハムのミッチェルみたいな感じだった >>295
93年の藤井寺と言えば8対2から9回に逆転されたことがあったな 平和台時代やドーム元年あたりも今くらいの頻度でテレビ中継はあったんですか?
タイムマシンがあれば平和台で野球観戦したり、出来たばかりのドームで観戦したいものです >>299
まあまあそんなかたいこと言うんだったら↓
>>295
俺は第一次ジョージ・ライトの両打席本塁打を川崎で見たぞ ドイルもいたな。ミッキーマウスのヒッティングマーチが鳴ってたな >>303
そうだっけ?
土日に分けて打ったのを勘違いしたのかもしれんが
とにかくジョージ・トニー・山本のホームランが乱れ飛んで
痛快で暑い週末だったと記憶している ナイマンは珍プレーにも出ていたな
エラーする度に目にゴミが・・ってナレ付けられてて笑った
露出の少ない南海なんで、たとえ珍プレーでも立石みたいに目立ってたら嬉しかった 野村政権末期に在籍した
ピアース
成績はアレだったが打席での極端なオープンスタンス
あんなの初めて見たわと印象に残っている 野村は低打率のジョーンズを辛抱強く起用していたが
日本シリーズで致命的なエラーをやったのを見てクビを決めた その時のジョーンズは二日酔いでフラフラな状態で
野球に対する姿勢がいい加減な選手はいらないということで放逐した そしたら西本翁率いる近鉄が拾ってパリーグ初の外国人本塁打王に
代わりに獲得したロリッチは及第点だったが、ジョーンズより低打率で切られて
その後メイ(2年目)が当たるまで外国人の貧打に泣かされるハメに >>309
メイが来た時は、戦力ガタ落ちだったからね。ナイマン、デビットも悪く無かったが、リーやブーマーから見たら数段下。 ロリッチはシーズン途中での獲得だったような
ジョーンズの代わりに獲ったのはパーカー
3割打ったが凡退するたびに涙目になる極度のネガティブで
お守を任せていたブレイザーが根を上げたと野村の本に書いてたな
あと男色疑惑もあった ノムは鶴岡時代のスタンカやハドリとは
上手くやっていたのかな?
基本外人嫌いみたいだしな
米球界でも嫌われ者だったブレイザーだけはウマが合った様だが
あとジョーンズを我慢して使ったのは
ブレイザーが見つけて来た御仁だから気を使ったんだろうし >>311
パーカーはその後、阪神への移籍が決まりかけたけど家庭の事情で断念して、
阪神はアルトマンをロッテから獲得したと「大阪タイガース球団史」にあったな。 太平洋クラブを退団したビュフォードや広島を退団したホプキンスを拾ったこともあったな。
ホプキンスは広島を退団してアメリカの医大に進学するつもりだったが、
進学先の医大の教授が広島での活躍を知ってたそうで、1年待ってやるから日本に戻れと諭されて
日本に戻るも広島は既にライトル・ギャレットと契約して空きが無く、古葉監督が旧知の野村に紹介して
南海に来たと聞いたことがある。
だから77年のホプキンスは最初から1年契約だったとか。 そのライトルも後に南海に移籍、他に西武からタイロンも来た
ライトルは旬を過ぎた感があったけどタイロンはそこそこ活躍したね タイロンの活躍(特に1年目)は文句なしなんだけど
その獲得の仕方と、獲得後の余波がねえ
ドラフト1位をわずか1年で放出させられ、
タイロン入団で1人が練習生枠にあぶれた台湾選手コンビが退団騒動になったり
なんかその根本さんの手のひらで転がされたような気が 名取は本当に気の毒というか
仮にトレードが無ければもっと成績を残せたかもな ホプキンス、ビュフォード、タイロン
こうしてみると意外と中古外人が多いね
この時代には結構珍しかったんじゃないだろうか >>318
南海以外でも
珍しくないけどな
大洋に行ったスタンカ以降でもアスプロ スチュアート ロイ ボレス
ロペス ロジャー アルトマン ジョーンズ テーラー
南海に来たビュフォード ホプキンスまでに
これだけ動いてる
当時は今より情報が取り難いから
日本で実績のある外人を獲得してたんだろうな >>319
スチュアートじゃなくて
クレス(クレスニック)だった
大洋➡近鉄➡阪神 アグウィリー(アグリー・アギー)もいたな。
ブルームの近鉄→南海、バルボンの阪急→近鉄もあった。 >>316
記憶が定かでないんで、よければ
なんで外人獲得で新人投手出すとか、わけのわからない
トレードしたのか教えて下さい
そんなにタイロンが欲しかったの?
漫画あぶさんで、印象深いな >>322
当時外国人枠はメイ(不動の主砲)の他は育成目的の台湾人(高と李)で
とても一軍の戦力とは言い難かった。
チームの成績も最下位あたりに定着し、貴重な外国人枠を育成に当てる余裕など無いと
当時の監督だったブレイザーは判断したんだろう。
名取はドラフト指名時に一年でプレーしたら好きな所へ行ってもいいとかの裏条件があったのでは? 同じ南海のドラ1では、長谷川勉も1年目のオフに阪神へトレード(江夏と複数交換) マッシー村上って
ノムに疎まれてたんかね?
阪神へトレードされたのは誰との交換だったっけ?
阪神へ移るもその1年後には日ハムの東田と
マッシー+後藤和昭との交換トレードだったが
同年に江夏望月充と江本島野+長谷川?のトレード
この時期は阪神とのトレードが多いな
和田徹も南海へ移ってる >>326
江夏絡みのトレードでは、南海からは池内もいた。
阪神からは最初佐藤正治も要員に上がっていたけど、
佐藤がトレードを知って引退してしまったから、江夏と望月の2人に。 ノムは自分の言うことを聞く手駒を揃えたがる
鶴岡時代から主戦として活躍してきたベテランマッシーはちょうどいいトレードのコマ
野村再生工場の根っこも結局そこ 言うこと聞く選手を揃えたがるなんて監督ならそりゃ当たり前でしょ
むしろ南海時代の野村は門田やら江本やら反発する選手も上手く使ったほう
村上とは確かに反りが合わなかったようだ
村上が熱心な鶴岡信奉者ということもあるが、球界初のメジャー帰りの選手が
復帰してすぐ思った活躍が出来ず、その時野村のインサイドワークも槍玉に上がった 高橋里志への暴力は今でも野村にとってトラウマになっている様だな。
もっともあれは本人の態度にも問題があったが。
里志はRCCの解説者時代も、
広島対ヤクルト戦で野村についてはあまり語らなかった気がする。 台湾の投手コーチで高英傑もいるな。郭泰源とかも出るのね。 二軍で不貞腐れて試合途中で抜け出たところを
視察に来ていた野村が殴って、更に倒れたところを蹴ったとか。
それがもとで一度引退して郷里にいたけど、
広島に復帰していた古葉コーチが復帰させたらしい。
里志は野村シンパだった江夏とも広島で揉めていたが、
日本ハムの監督だった大沢はそれを承知で2人とも獲得した。 大沢は江夏と里志の2人を同時に呼び出して
グラウンドの上では絶対に喧嘩するなと厳命した ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています