南海ホークス13©2ch.net
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>>191
なんといっても鉄道会社だと地元チームって感じがする >>185
そして52年前が「大阪のプロ野球球団」が最後に日本一になった年でもあるんだよなあ >>186
セのカープやタイガースのファンはどん底時代でも
堂々とファンであることを公言してるってのに… 南海は87年のちょっと成績上がった頃や、身売り報道以降は続々とカミングアウト出てきたな 伝統あるかつての強豪球団のファンであることを公言して
変わり者扱いされたってのが悲しいね パ・リーグ自体がそんなものよ
当時の雰囲気を手っ取り早く知りたきゃあぶさんの南海時代でも立ち読みすれば 関西にあっては、在阪パ球団のファンが、とくに変わり者扱いといようなのは
なかったですよ。
少なくとも、80年代後半でいうと。
とくに、阪急や近鉄は強かったし、各々の沿線にあっては当たり前なことで。
ただ、南海に関しては、ひとり置いてけぼりな印象は否めなかったかなと。 南海はレジェンドなので分かる人には分かるという対応でしたよ 南海は、オールドファン、かつてファンだった、という人は、潜在的には
多かったけど、低迷期のファンとなると、かなり希少だったかなあ。
大阪の50代後半くらいから上の世代には、かつてファンだった人は多いと
思われるけど、どこかで南海への熱って醒めたんだろうなと・・・ 昔テレビでビートたけしが御堂筋パレードの鶴岡監督の写真を見て
「このおじさん誰?なんでお祝いされてるの?」って言ってた。
さすがに名前だけは知ってるだろうが >>202
ひいきの巨人といつも日シリを争っていたチームなんだけどな
鶴岡監督は東京でも知名度はあったんじゃないか? まぁテレビではよくある知らないテイにされるパターン たけしは「自分の税収でやってる東京は偉い、国の交付金に頼る地方は怠け者」っていう非常に幼稚な東京至上主義者だからな
東京じゃ無いモノに対しては概して知らぬふり気付かぬふり 鶴岡さんと川上さんのw解説はオールスターとか
特別な試合にあったがなんともいえない会話だったな
山口組の親分と住吉会の親分が頂上会談しているみたいな 川上さんには監督として
日シリ0勝3敗
日シリに弱い鶴岡さんって印象 セ・リーグの他ファンだが、最初から一気に読ませて貰った。
面白かったな。
出て来た名前も、名前だけは知ってるというのがほとんどだったが、
裏を返せば、それだけ名選手を輩出してきた伝統のあった球団ということかな。
珍プレー番組でよく見たVSハム武田のバナザードの名前が出てきてないのは意外だったけど。
まあ、過去スレには出てきてるはずか。
これからも南海ホークスの名前を後生に伝えていって下さい。 1988/10月14日(金)
明日、大阪球場だが満員だろうな。思い切って学校さぼるよ
でも親が許してはくれないだろうしな。
まあいいや、南海最後の試合だし絶対観る どうして土曜日は学校や休みじゃないんだ?
会社は休みのとこ多いだろ? >>210
学校は午前中だけ授業あった。
遠方から行くならサボる必要あったかも。
あれ?この日はデーゲームだったっけ? >>211
本日の最後の試合は10/20川崎球場だよな。
そう、あの伝説の10.19の翌日。
球場近くのセブンイレブンに寄ったら、
見事に棚が空だった。
スタンドには前日に撒かれた新聞紙を千切った紙吹雪の残骸がそのままになっていた。 >>213
あの日は試合終了後特に何もなく淡々と去って行ったんだよな
そりゃビジターだし大阪で済んでいるから…というのはわかるんだけど
地元でもないのに低迷期を支えた関東のファンにも少しぐらいは報いてくれてもと
つい恨み言も出てしまった記憶が 「ホークスは、不滅です!」
「ありがとうございました。行ってまいります。」
あれから28年… 熾烈な優勝争いしていた近鉄がジョブ役に当たってしまったんだよな 未だに近鉄ファンから大阪球場最終戦の恨みっつらみを言われてムカつくねんな あの年の牛ヲタはハム阪急以外にみんなきれまくってたじゃん
西武にはなぜ優勝した、ロッテにはなぜ抗議したとか 西内野席で観てた。87,88年は佐々木湯上谷が定着して楽しかった
杉浦さんに貰ったサインは今も宝物。 87年は調子良かったけど外国人はスカだったよなあ
バナザードがもう一年早く来ていたらどうだったろうか? 近鉄ファンは柄悪いからな
南海ファンはユーモアもあるし相手の選手にもリスペクトあるけどね
阪神ファンも同様に変や パリーグのこと知らん野球音痴が多いし >>58
正捕手と抑えと伸び盛りの5番ファーストを叩き売ったんだから当たり前とも >>132
新井トレードは佐々木誠と山田勉か準レギュラーにまで育っていたから、戦略自体は間違いではない。
ただ交換相手が…既に終わった山口哲治ってのがね。
まだ若手だった吉井や山崎慎太郎や加藤哲郎でもとれたろうに >>143
田代「いや照れるなあ」
山下「お前は違う」 >>224
この時点だと、南海の藤本にゃんこ、加藤、畠山の方が数段上だよね。住友、久保を要求したら、門前払いだったかな? >>224
なんか後付けと妄想が酷い人だな
戦力外とみなされて足元を見られたトレード交渉に何を期待するんだ?
同じ戦力外でも万一同リーグに行かれては困ると、とっととセリーグに加藤英、柏原を
金銭で出した近鉄日ハムよりも編成が下手だったんだろうな ベースボールマガジン社「プロ野球トレード史U」には、
杉浦監督が限界と見做した新井に近鉄が食いついたが、
南海側が「金銭トレードではちょっとまずい、交換トレードで」と要求したから、
新井の単独譲渡に近い形で近鉄が肩を壊していた山口を差し出したとあったな。 野村の著書を読むと、例えば江本を出したトレードは阪神の吉田監督から江夏要らんかって連絡来て、
その後も監督同士で話まとめたみたいに書いてるけど、昔は監督がそんな仕事までしていたの?
野村は、オレの年俸は一億超えてたとか平気で書くからどこまで本当なのかわからん >>229
江本を東映から獲得した時田宮監督と話してトレードで取ったという話も
よく著書に書いてる だいたい野村の話って捏造が混じりすぎ
自分を美化する自己愛の塊だから自分を持ち上げために否定されたり反論されたりがすごい >>212
今は半ドンという言い方もされてないんかなぁw 半ドン懐かしいな〜
ウチの職場は月1〜2回半ドンあったけど意外にこれ良いんだよ
午後は自由だから遊びに行くも良し・その気次第で仕事するも良し(来客や電話は皆無なんでかなり捗る)
色々あって廃止になったけど、俺は楽しくかつ懐かしい思い出 >>231
急にどうした
70年代は監督自らトレードをまとめるのも
何ら珍しくなかった時代だろう >>231
ノムの捏造で一番見苦しいのは
ヤクルト時代の古田獲得の件だな
当時のスカウト部長だった片岡氏が暴露してたが 野村は今でもすごい勢いで著書を出してるけどゴースト使ってるのかな?
口述筆記ならまだ良いけど ネタが尋常じゃなくダブりまくりなうえに、ちょっとずつ内容が変わって来てるって、ダウンタウンの番組で特集ネタにされていたなw ノム名義の著書が今更新しく出たところで買ってる奴いるのかww >>232
半ドンとは?
28年前の今頃は南海が終わったけどダイエーで新しい歴史を作ってほしいと言う前向きな感じだったな その後まさかダイエーがああなるとはね
西武のドンも逮捕されるとは思わなかったけど
土曜閉庁は翌年からだったんだな >>240
>その後まさかダイエーがああなるとはね
あと1年早くソフトバンクへ身売りしてれば
小久保が無償トレードされることもなかったのにな 小学校の半ドンは好きやったな
学校終わると家できつねうどんとバッテラの昼食を
吉本新喜劇見ながら食べて外で友達と空き地で遊んで帰ると
夕方パリーグアワーで南海阪急をやっていたりする
ああ明日は日曜だが土曜のこの雰囲気が好き >>242
同年代ですね
バッテラは子供の頃食えなかったが、あとはまったく一緒です >>235
その片岡氏は学生時代は杉浦とバッテリーを組んでいたんだよな。
杉浦も伊東芳枝と関わって以降の野村について片岡に嘆いていたようだし。 ノムさんも鶴岡御大に酷い扱い受けてたしねぇ、行き違いもあるんだろうけど
でも蔭山さんの死が一番堪えたんだと思う、で、そんな折に出会ったもんだから 佐々木誠の妹の子供さんが指名されたね目出度い事だわ >>244
野村との接し方に困った片岡が杉浦に相談したら
「あいつの言葉を真に受けない方が良い」と慰められ、
その後片岡は野村に対する悪感情をあけすけにして全く隠さなくなり
2人の仲は更にこじれてしまった
もっともその後阪神で痛い目見た野村はヤクルト時代の全てが
甘い記憶になったようで、著書で片岡にあれこれ言及したことはない >>246
明治の佐野恵太だね
いいバッターではあるが特徴に乏しくギリギリひっかかった形になったが
佐々木氏がセガサミー率いて明大グラウンドに練習試合におこしになった時は
明治OBで南海ファンでセガユーザーだった自分としては
どっちに肩入れすべきかわりと真剣に迷ったものだ 二世や甥や姪の時代となったか
寂しいな ところでカツノリは今何しているの ヤクルトの1軍コーチ。
あの父母でありながら人柄が素晴らしく良いのでコーチ歴が長い。 どういう突然変異か知らんがカツノリの人柄の良さは当初からずっと言われていたよな
しかしカツノリのコネ入団時、ノムがその年俸分を返上したって本当なのか
サチヨがそんなこと許すはずないと思うが >>251
そうでもしないかぎり他球団から指名される可能性はゼロだったんだから、沙知代も容認せざるを得なかった カツノリは人柄ってより
両親の悪評を反面教師に上手く立ち回ってるって
だけな感 カツノリの幼少期、解説者として多忙だった野村はほとんど教育に携われてない
なので佐知代が育てたわけだが、親に逆らうと時にはフライパンでしばかれる
バイオレンスな環境だった
カツノリの性格面を変えたのは高校時代の恩師桑原秀範 >>248だけど
そういや俺がプロから大学にシフトしたのって
この御仁がキャプテンの時の優勝シーン見てからだったんだよね
そんなのそれまで全く縁がなかったから一発でやられてしまった感がある
応援席に「おっし、新宿行くぞ!!」などとアオリ入れていたが
一昨日の優勝インタビューで優等生発言に終始した柳とは良くも悪くもという感じだ >>255
その桑原って何の因果か、鶴岡の出身校の広島商業のOBで、同校の監督も務めた人なんだよな。 日ハムサードのレアードって守備上手いなぁ
サードで外人って言うとド下手のハモンド思い出す ウソかまことか捕手も出来るという触れ込みで
ドカベン危うし!なんて書いてたバカ新聞があったが
さすがにこりゃウソだろと思った
ただいちおう2割7分打ってたから
守備がうまければ期待料込みの残留もゼロではなかったかも >>259
狭い大阪球場、しかもストライクゾーンが狭くラビットだった86年で9発という非力さが 当時の南海は三塁が手薄だったから、新外国人はサードを守れる奴が最優先で飛び付いたんだっけか。
最終年に藤本博が台頭しかけるまで人材難なポジションだったな。 >>260
難癖ではないけども、86年は、いわゆるラビットとは異なるかなと。
プロ野球史的に、いわゆる過剰なラビットは、1949〜50、78or79〜80、
2001〜何年までか、この時期が顕著だったかと。
いつまでだったか曖昧だけど、04年までは、確実にピンポンかな。
ちょっと、飛び過ぎでないかいってのは・・・
まあ、ボール云々はさて置き、大阪球場は小さかったけど、
それも拡張前がかなり狭いよね。
両翼が、85mなかったんでしょう。 藤本博も実力で台頭したって言うより、我慢して実戦経験を積ましてるって感じだったな てか、ハモンドが在籍してたのは87年なんだが
86年はグッドウィンだった。(これまた打てない選手だった) 藤本はデビットの応援歌を流用してたな
太鼓を叩きまくるのがよかった 極端なラビットではなかったが、狭い球場全盛でブーマーや西武近鉄の外人が
30本当たり前の時代にデビットやグッドウインじゃ話にならなかった。
ただでさえ打線が強くないんだから。 あの頃は各球団1人は当たりの外人が居た感じだが
南海はスカばっかりだったからなあ
年俸が違うって言ってしまえばそれまでだが グッドウィンはすごい見掛け倒しだったな
結構期待していたのに
昔は球場によってボールのメーカーが違っていて、
大阪球場は久保田製であんまり飛ばないボールだった記憶が
それに対して西宮球場の美津濃製はポンポン飛んでた 失礼
PLだけど守備が下手〜我らの若井〜
外人獲得も上手く行かなかったが南海ホークス全体の内野守備の酷さは
間違いなくあの時代の12球団ワーストだったように思う
なにせ上手いといえる人が思いつかない 若井は後に代打の切り札のなったけどな
81年選抜の優勝メンバー、西川がエースで吉村が3番
PL学園は翌年の選抜も優勝して春2連覇を達成
春2連覇はその後達成したチームはなし。 >>269
見掛け倒しっていうより評判倒れね
見掛けは小太りのおっちゃんだったからw
実際開幕前の評判はよかったんだよね
軟らかいバッティングでパワーもあるとか言われて
ところが粗くてダメだろと言われたデビットの方が活躍した
それにしたってよそは30本どころか40本当たり前だからな
そりゃ勝てないわけだよ >>268
最後の最後にバナザードをとれたのは本社から特別予算でも出たのだろうか? 前年の好成績(しかもスカ外国人で)で観客動員は大幅アップしたし、好景気真っ只中で親会社も余裕があった
まさかあの年が結果的に最終年になるとはねぇ 球団設立50周年でしかも前年は終盤戦まで優勝戦線に絡んだということで
奮発してくれたらしいよ
もっとも同時に入団したのが3Aどころか2Aまで落ちてたジョージ・ライトだったり、
ドラフト1位の吉田豊彦の契約金をけちってつましく帳尻を合わせてる。 消化試合になると打ち出すナイマンなんてのもいたなあ
シーズン通して打ってくれればタイトルも狙えた選手だと思う 穴吹降板と共にナイマン・ドイルをクビにして連れてきたのがデビッド・グッドウィンだったか
キャンプで鶴岡が「杉浦は運が良いよ。素晴らしい外国人が来てくれた!」とか言ってたけどなあ >>278
あの時は門田が60でデビットが61でグッドウィンが62と
60番トリオで売り出そうとしたんだな。
他球団のファンは知らないだろうが
そしてその年のオールスターで南海から誰も選ばれないのかと心配した
それでも大阪球場で山本がホームランを打つなどの活躍があってホッとした 他にも山内トリオで18、19、20とか南海はそういうのが好きだったね しかし1球団60人しか居ない中で山内姓が3人ってのは、意図的に集めたので無ければ稀有なことだわな
しかも単なる山内選手でなく全員エース級の実力者ってのが凄い 久保寺急死、定岡のアキレス腱断裂後に急激な衰えが重なり、内野手の層が薄くなった。この二人が南海最終年まで健在なら、河埜を含めて、もう少しマシな内野陣だったはず。 広瀬穴吹杉浦あたりは鶴岡直系だったんだから
せめて外国人操縦法くらいは倣ってほしかったなぁ
「外国人は話せる相手が少なく孤独になりがち。
親身になって悩みを聞き、打ち解けることで不安を取り除けば
活躍してくれる」
ってのは、現代でも通じるやり方だと思う
実際鶴岡時代は当たり外人多かったしね
スタンカ、ハドリ、ブレイザー、ピート 上田監督は奥さんがきつねうどん代くらいしか出してくれないブーマーに
ステーキおごってあげたりしたというしな。 史上最強助っ人ブーマーが、うどんにいなりをつけるかどうか毎回悩んでいたってw
もちろん金村ネタだけど笑っちゃう >>284
鶴岡時代以降も最後の優勝に貢献したジョーンズ
低迷した時代に気を吐いたメイは当たりだ
南海の外人獲得ルートは鶴岡時代を引きずってそのまま失敗した感があるなあ メイとて元大リーガーだからな
80年代南海の格安外人とはさすがに比較できんだろ >>276
そのライトが福岡ドーム1年目の1993年に復帰した時は驚いた。 あの年はライトとタネルの2人だったから
シーズン開幕前にBクラスを確信してたな
だからあの年は一番期待できない年だったと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています