南海ホークス13©2ch.net
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スレ立てありがとうございます もう一度大阪球場行きたい 大阪球場に「21世紀へ躍進する南海」の看板があったな 白いボールのファンタジーが流れる。
バッティング時間あと五分ですのアナウンス 試合終了時の素早いファンファーレと試合終了を告げるアナウンス
そのあと心を鎮めるニニロッソのトランペット 73年の阪急とのプレーオフで江本が
「ノムさんが福本の盗塁を2回刺したから流れがこっちに来た」って
言ってるけど、具体的にどの場面で刺したか分かる人いる? >>13
資料を見ると福本が盗塁出来なかったのは初戦と4戦目だけで最終戦なんかは3回出塁して3回とも盗塁してるのだが ベースボールマガジンにあったが、昔は今のような奴隷契約と違って
契約期間が終わったら選手と球団は契約延長する形式で、
一流選手は延長する時に家を貰うのが定番だったのに、
なぜか南海は別所に対しては家もボーナスも与えなかったというけど、
一体何が理由だったんだろ? >>15
何をもって定番と言うのか。ましてや今よりも遙かに決まり事や契約なんかいい加減な時代に 難波に早く着いたら馬券を買って古本屋街を冷かしてから
チケットを買う >>15
大沢とかみたいに衰えてきた選手にボーナス払わないのはまだ理解できるが、
なんでバリバリ全盛期の別所にそんな冷たくあしらったのだろうね? 戦後間もなくしての南海は近鉄から独立したばかりで沿線は戦災でボロボロで資金がないところに
チームは急激に強豪化してしまってあたふた状態だったのが目に浮かぶ >>15
単に南海がケチだったから。
当時は今と違い選手の保有権があいまいで、契約満了後は好きな球団と
契約の交渉ができた。
そこで、選手を引き抜かれないように各球団は主力選手に高給を払い
家を与えるとかしていた。
ところが南海は監督の鶴岡がGM的な立場で球団運営にかかわっていたことも
あって、年俸が低かった。
別所も例外ではなく、契約交渉のたびに代表の松浦から実勤年数が少ないという
理由で年俸を抑えられていた。
これは南海の伝統みたいなもので、年俸やボーナスをケチって別所、木塚
飯田が南海を出るに至った。
そうすえば南海は身売りまで年俸で景気のいい話は聞かなかったね。 しかし、契約期間があるのに選手が期間満了しても球団に保有権があるプロ野球って
変な組織だよな。その時代の方が常識的だ。 余談だが、南海と分離した近鉄も後の球団経営に関しては、佐伯勇オーナーの経営哲学からして最後迄シブチンだったな。 別所は嫁から東京に住みたいと強く言われ給料うんぬんは移籍する口実にすぎなかったと何かで言ってた記憶があるな
まぁ待遇に不満はあったのだろうが 別所が巨人に移籍した時代はなんでもありだぞ
選手本人がウンとさえいえばどこでもいけたような時代だ
それを反省して統一契約書が出来てさらにそこから十数年かけてドラフト制度が出来上がった 身売りが決定した時はソウル五輪の真っ最中だったかな?
そのころオリンピックなんて全く興味なかったからハッキリ覚えてないな >>24
鶴岡の著書「御堂筋の凱歌」にはそう書いてある。別所の著書「剛球唸る」
では待遇が理由となっている。
「トレード大鑑」では住宅難のおり、妊娠した妻のために家が欲しいと言った
ところ南海から拒否され、移籍につながっとある。
鶴岡と野村の著書では連盟が巨人をひいきして裁定したと書いているが
実際は統制委員会での証言であまりにも低い別所の年俸に委員会が同情して、
南海の交渉を優先して行うという裁定を下したようだ。
>>25
こういうシステムだと契約更改のたびに移籍を理由に年俸をつりあげる選手が
続出して、球団経営がなりたたなくなるので、大リーグで選手の球団保有権が
考えられ、日本もそのシステムを導入した。裁判で大リーグの選手の保有権は
球団の権利として認められ今でも有効となっている。
ドラフトは大リーグでは戦力均衡が主目的だったようが日本は契約金の高騰防止が
主目的だった。信者が唱えているように戦力均衡が主目的ではないと思う。 結果的にはいい時期に身売りしたと思うよ
当時すでに球団親会社の中ではダントツにショボい存在だったし維持不可能なのは明らかだった
あの時は近鉄ファンから「お〜い身売りのみなさん」ってヤジられたってスポーツ誌に出ていたけど
結局あの年に阪急も身売り、金村に言わせれば「関西貧乏球団どうし一緒にいじけていたのに裏切られた」 当時子供だったから知らなかったが
後で聞いた話だと80年頃から身売りの話は表面化してたそうだよ。
だから身売り決定の時も当時の大人は「ついに決まったか」くらいで衝撃度はあまりなかったようだよ >>26
身売りの話が出たのが8月下旬か9月上旬だったかな?
10月1日にはダイエー社内で球団が誕生している
「『ダイエー』きょう誕生 名門南海は50年の幕閉じる(1988年10月1日 朝日新聞朝刊スポーツ面見出し)」 >>30
八月最後の日曜日
読売新聞報知新聞のscoop セリーグなら買いたいって会社はいくつかあったとは聞く(佐川急便とかね)
それほど広告塔として当時のセパの差は歴然としていたし、マスコミはえげつないぐらい差別的だったもんな
学校で南海ファンなんてとても言えなかった
パ球団を買って自ら盛り上げた堤義明の気概はもっと評価されても良い気がする 9月26日は、大阪球場で優勝した日ですね。
1965年といえば、もう半世紀を超えてしまうけど・・・
シーズン前半に独走して、「真夏の優勝か!」と紙面で謳われたと。
七夕前に、マジック点灯というから、その独走ぶりが窺える。
史上最速での点灯。
野村の三冠王、広瀬の五年連続盗塁王、と個人でも記録尽くめ。
南海ホークス黄金期の最後の熱気があったといわれる、65年のシーズン・・・ 64年から66年までリーグ3連覇してるんだけど、評価低いのかな パリーグはリーグ制覇はあまり意味がなかったのでは?
シリーズに出て巨人倒してなんぼという考えだったかと その時は西鉄や大毎というライバルがあり
そうでもないと思うよ
特に西鉄の稲尾と中西は認められていたしね 南海OBの解説という事で、
懐かしテレビ板の昔のプロ野球中継スレに、1982年のTBSの巨人戦中継の出演者が出ていたが、
7月30日の阪神対巨人戦(MBS)でノムさんと杉浦が一緒に解説(実況:三宅定雄)。
あの件以降の杉浦との共演は珍しい気がする。
6月27日の大洋対巨人戦では杉浦がTBSに派遣されていた(張本と解説、実況:渡辺謙太郎)。
翌年からだったかノムさんはテレ朝に移ったが。 旧南海ファンは今日は南海末期の天敵西武を応援しているのか
時代は変わったものだ 鶴岡がアコギに勝ちを求めなかったからな。力の落ちてきたベテランも、それなりに大切に使ってた
だから優勝から、遠のくこともあった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています