1984年のプロ野球
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
広島どころか中日だったら、読売にとっては屈辱このうえなかったな
もっとも中日は日本シリーズに弱くて勝ち上がれない公算が高いけど 新橋のそごうで巨人50周年セールを派手にやってた。
沢村投手の映像とかメガホンたくさん並べたり、江川と原を呼んだりやってた。 巨人あんな人気あったのにみんな2000万くらいしかもらってなかった この年のオフだったな。
西本が江川を年俸で上回ったのは。王が口を添えたらしいが。
確か4000万くらい? 50周年の年は後楽園のチケットに江川と原の写真が印刷されて綺麗だったが
次の年は下手なイラストだった。 >>612
中日×阪急になられたらもうフジテレビがやれと言われそう >>616
西本と中畑の顔写真もあったような気が。 >>617
日本シリーズなら放映権というか推薦権がホームチームに与えられるよ
だからこの年は西宮分は関テレ×3
広島分がRCC×2、広島ホームテレビ×1、広島テレビ×1
中日がもし出てたらふだんから中京テレビに中継させてないから、
82、88通りにCBCと東海テレビが分け合う感じだったろう 広島と中日の優勝争いは結局この両チームの直接対決15勝8敗が大きかった。 この年tssはKTV制作の西宮3試合を理由に外されたか?
80年のHOMEはABC制作3試合プラスの4試合獲得だったが。
tssは最後発の局ということで割りを食ったかな。 広島と巨人の対戦成績は12勝12敗だったよ。
ちなみに中日は巨人戦は17勝8敗だった。
しかしオールスター以降は中日は巨人戦に負け越した。 >>615
江川4800万、西本5000万
王が、査定役の戸田一軍総務と岩本一軍担当に、西本を江川より上にしてやってくれと言ったって話だね。
江川はかなり腹立った(年俸ナンバーワンにプライド持ってた)らしい
58年の契約更改の途中、一時的に原が江川を上回った時にそのことを原が冗談で江川に言ったら、「生意気言うな!」とマジギレで怒鳴られた ロッテは村田兆治が1年早く復帰してたら阪急の優勝を阻止で来ていたかな?
無理だったとしても阪急との決着をPOまでには持ち込んでいたか? >>625
この年のロッテは何故か南海に大きく負け越していた。
別に相手が南海だから谷間の投手を投げさせていたわけではなく
深沢、仁科、石川とこの年の3本柱も打たれていた。
せめて五分五分だったら阪急に肉薄できたのだが。 >>626
85年までは5ゲーム差以内ならプレーオフだったよ
結局それ以上に大差がついたため実施されなかった >>625
この年の終盤にはもう村田は復帰登板してるんだよね。
でも打たれていたのでやっぱりダメかなあと思っていた。
翌年の復活は正直予想できなかった。 >>625
「たら・れば」を言い出したら、阪急は山田が7月に故障で戦線離脱しなければ一時期ロッテに4ゲーム差くらいまで
迫られることもなくもっと余裕でゲーム差つけて優勝していただろう。 あと、ロッテは開幕戦で前年36ホーマーで打点王の水谷を頭部死球でブッ壊したからね。
これが無ければ、阪急打線はもっと厚みが出ていただろうに。
以上、「たら・れば」でした。 巨人の「たられば」は矢張江川・西本が活躍してくれれば優勝出来た!だな。 >>634
優勝した前年は二人で31勝
三位のこの年は二人で30勝
ほとんど変わっていなかった・・・ 個人成績で言えば前年と大差なかった、と何かの書籍に書いてあったね
原が落ちたといっても、それを補うかのように中畑が上がってるし、
スミスの凋落は苦労でお釣りがくる。 >>614
それで浮いたカネを赤字だった中京読売並びに九州読売の損失補填に使っていたんよ(マジ)。
そもそもは大正力が強引に読売新聞の九州進出を決めた際に、務台が大きく儲かっていたプロ野球事業並びに不動産事業の傘下
とする事で損失補填を行なうと共に、読売本社の経営に影響が及ばない様にしたものらしいが。
ONが年俸でごねずに一発サインするタイプだったのにも(結果的だが)助けられた格好。 後に落合が「俺が粘って年俸を上げないと他の選手の年俸も上がらない」と言ってたね
トップの給料が基準になっちゃうからって理由
漫画界では手塚治虫が少年誌での連載を続けたくて原稿料を上げようとしなかったんだが
他の漫画家にははた迷惑だったと言う話
「漫画の神様より原稿料を上にはできない」になっちゃうから この年の巨人は中日に歯が立たなかったのが致命傷になった。
小学生だからそこまで考えなかったが何故勝てなかったんだろう。 >>641
中日の17勝8敗だったが、オールスター以降は巨人の7勝3敗だったんだよ。 オールスター以降だけだと、優勝した広島が貯金13で巨人が貯金12で中日は貯金2だけに終わった。 既に何回も書かれているが、オールスター明けの巨人戦で中尾が右肩を脱臼した
その間金山や大河原を起用せざるを得なくなり、控え捕手の薄さを露呈し、終盤広島との争いに敗れ、前半カモにしていた巨人にも勝てなくなった そうやって84年前半に巨人を苦しめていた中尾が
後年、巨人に来て斎藤覚醒に一役買うんだから
世の中分からんもんだよなぁ。 >>638
少し違う。巨人の黒字を西部読売、中部読売の赤字で相殺し税金対策。
巨人の運営会社な東京読売巨人軍でなく読売興行(1992年からよみうり)。巨人と西部読売(九州)、読売会館(有楽町そごう→現ビックカメラ)、1988年から中部読売で一つの会社。つまり巨人は法人格を持たす野球協約違反なんだが。 >>644
中尾の故障に続いて9月入ってすぐに平野の故障も後半の中日失速に拍車が掛かってしまったね。
中日一の外野守備力、中日一の送りバントなどの小技に、故障離脱した時点で30盗塁という中日一の走力。
さらに2割9分台の安定した2番打者を失って9月は8勝12敗と負け越してしまったのである。 高木守道氏、この年から2年間二軍監督に。
この年藤王に山本昌、翌年中村武志が高卒入団し高木監督の教育を受けていた。 >>646
巨人の黒字を読売の不採算部門に回していたから体のいい税金逃れだった。
02年にナベツネが株式会社読売巨人軍の独立会社にした。それでも広告収入は東京ドームに、興行権収入は読売新聞スポーツ局が分捕ってるのかな。
巨人の収入がヤバくなればこの辺から切り崩すはずだから、まだそこまでの状態では無いのだろう。 「優等生」
「バースが三冠王になれたのは俺のおかげさ」と85年秋に言ったのが、前年に外国人初の三冠王に輝いた阪急のブーマー・ウェルズだった。
84年の阪急はブーマーのバットに引っ張られて、5月中旬から首位を快走した。以後は独走で6年ぶりリーグ優勝のゴールテープを切ったが、
唯一の首位攻防といわれた8月14日の対ロッテ戦でも2本塁打と決勝の走者一掃三塁打を含む猛打賞で8打点と大暴れ、最終打席の押し出し死球
でも“暴れて”退場処分を受けるオマケも付いた。それでも個人記録もさることながら、節目の試合でも悉く結果を出して勝利打点の数は21、
前年に巨人・原辰徳の出した20を更新する当時の新記録だった。
ランディ・バースへのライバル心を密かに抱いていたからこそ、85年のコメントが出たといったところだった。同じ83年来日で関西の電鉄会社球団、
甲子園と西宮も近距離でありながら注目度では遥かに差があった。メジャー経験が浅いのも共通していたが、バースの130試合を下回る47試合で
本塁打は0だった。
三冠のタイトルのうち打点は前半からハイペースで最終的に130打点、2位のスティーブ・オンティベロスに29点差の独走だった。昨年17本だった
本塁打は前半だけで21本でトップ、それでも南海のクリス・ナイマンが1本差、チームメイトの簑田浩二が2本差、日本ハムのトミー・クルーズと
南海・門田博光も3本差と混戦状態だった。8月からは共に13本塁打ずつを放ったロッテ・落合博満との一騎打ちとなり、途中「ウチの投手までが
落合にど真ん中を投げていやがる」と怒っていた時期もあったが、最終的に2位の落合に4本差をつける事が出来た。
首位打者のタイトルは終盤までもつれた。残り5試合の時点で打率.349でトップのクルーズと3厘差だったが、翌日の優勝決定試合で3安打で
遂にクルーズを抜くと、次の日も2の2でスティーブも引き離して.355とライバルを振り切り史上5人目の三冠王が誕生した。
ブーマーは「世界の王さんと同じタイトルが獲れて嬉しい」と喜んだ。ライバルバースも「彼がセ・リーグにいたら物凄いブームになっただろう」と
存在の大きさを認めたが、練習態度も含めた真面目な性格、相手投手を分析する研究熱心さにも定評のある優等生ぶりも際立っていた。
このあたりは過去にも努力家のボビー・マルカーノやバーニー・ウィリアムスを見てきた経験もあり、前年から「ヤツは慣れたらもっと打てる」と読んで
いた監督・上田利治の眼力もさすがだった。 (了) >>637
現代の監督なら定岡と松本は4月上旬の段階で切るだろうね プロサッカー選手・野本健を肉体改造したのがトカゲロン >>609
まあスパイ活動する事もなくなってきた時期ですからw 巨人が中日に全く勝てなくなってしまったのは不思議だった この年のヒット曲
・爆風スランプ「よい」
・シーラE「グラマラスライフ」
・レッチリ「トゥルー・メン・ドント・キル・コヨーテ 」 >>661
特定のチームを苦手にしていれば、優勝など夢のまた夢だろうよ >>614
でも巨人戦視聴率は当時絶対的だったし、cmもたくさん付きまくりタニマチもたくさんいた
最低でオロナミン、原とかはそれに足して更に契約あり
んなもんだから若い選手が外車買ったりタニマチから貰ったりして王が怒った 争ってもないくらい独走なんだけど
まだ5月までの南海近鉄の方が争っていたというのにふさわしかった オールスター明けに10連勝したロッテが
ようやく阪急と4.5差と5ゲームプレーオフ圏に入ってきたが
直後の平和台での直接対決で連敗
これで終戦 この年が阪急の最後の優勝になるとは思わなかった。
昔の様な黄金時代は無理としても西武に一泡吹かせる
実力あるチームとして何年かに一回くらいは優勝する
だろうと思ったんだが。 それはたった4年後に身売りされたことの方が意外というべきでは?
当時でも山田と福本の年齢を考えれば若返りに苦労することは容易に想像できたし 水谷の頭部死球が無ければブーマーはあそこまで打ちまくれたんだろうか
それとも二人揃って打ちまくったか 振り回さずにコンパクトにミートしたライナーでも
十分にスタンドに届くと自覚して84年のキャンプに入ったらしいから
その辺は打てたと思うな
打点を食い合って三冠逃すとかはあるかもしれないが 日本シリーズで広島投手陣に内角高めを突かれて沈黙したものの
これも翌年のシーズンには克服してきたから
ブーマーはすごい適応力の高い選手だったと思う >>676
だからこそ、長きにわたってNPBで活躍できたんだろうね クローズドスタンスからスクエアスタンスに変えたんだっけ? ブーマーに日本シリーズで雪辱する機会が無かったのは残念 >>674
ロッテ土屋が水谷にぶつけなければ阪急が日本一だったろうな あれは投球の癖が盗まれてて踏み込んで打とうとしたところにすっぽ抜けが来たんだっけ。
しかも水谷は耳カバー無しヘルメットだったから最悪な事になった。 そもそも安全対策で耳当てヘルメットを導入したのになんで例外なんか認めたのか・・・
サッカーだと脛当てについては一切例外が認められないのに 衣笠が視界遮られてかえって危ないってクレームつけたから
実績のある選手は許可されたけど
耳なしヘルメット着けた以上は自己責任だわな 水谷以降はこんなひどい死球禍は無かったよね、確か? 巨人の井上は耳付きメットだったけどキーオに速球をぶつけられた以降打てなくなったよな >>688
吉村級の活躍してればそう言えるけど
あの程度なら島貫に毛が生えたようなもんだろ >>688
そのキーオがアメリカに戻って何年かして、
どこかのキャンプ地で打球が頭に直撃して再起不能になったんだよな… 阪急は離脱した水谷(元々守備は不得手だったためDH専任だった)の穴埋め要員として
石嶺(当初捕手だったが膝が悪かったため外野に転向したばかり)が育って
カバーできたのは長い目で見ればプラスだったのでは? 水谷の死球禍の翌年、阪急はDHに新外人ヒックスを起用してた。
パワーはあるが確実性に欠け一年で退団になり、翌年以降は
DHに石嶺を固定したけど、ヒックスが当たり外人だったら
石嶺はチャンスを貰えず埋もれていたかもしれない。 >>692-693
そのチャンスをものにした石嶺、あっぱれ 85年の時点で200打席足らずでで14本塁打を記録してたから
上田監督としても使わないわけにはいかなくなってたけど
もしDH枠が開かなかったら起用法でめっちゃ苦労したかも ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています