「手薄な投手陣」

いつ、どの時代でも大きなゲーム差の逆転劇には、逆転する側にもされる側にも色々な要因がある。最大で8.5差、球宴折り返し時点でも2位・近鉄
との5差を逆転された89年のオリックスの場合、自慢の打線が前半戦は1試合平均5.5得点だったのが後半戦に4.6得点に減少した事は確かに
一因といえたが、やはり一番の原因は明らかに投手陣の方だった。
6失点以上の試合が7月までの77試合のうちでは16試合だったのが8月以降は53試合のうちで21試合、2ケタ失点については7月まで2試合
だったのが8月以降だけで8試合もあった。

後半戦は優勝5回の上田利治監督も投手の台所事情に苦しんだ。7月に入ってそれまで8勝2敗の佐藤義則が8月上旬まで5連続KO、同じく7月
から徐々に調子を落としていた山内嘉弘に代わり抑えに回ったが佐藤だが、二度続けて抑えに失敗したため8月下旬にすぐ先発に戻されるという
ドタバタがあった。さらに連戦続きの8月は、8勝(5敗)を挙げていたガイ・ホフマンが肩の不調を訴え10月まで帰国、佐藤でも務まらなかった抑え
には開幕から6勝を挙げていた酒井勉を配置した事で先発陣が手薄になった。従って8月以降のローテーションは佐藤、星野伸之、山沖之彦と、
4月以来先発がなく中継ぎに回っていた今井雄太郎の4人に谷間の先発を組み合わせて臨む形になった。しかし佐藤が9月26日に勝つまで8連敗
するなど7月以降1勝11敗、山沖は後半戦6勝4敗と健闘したが7月以降の12度の先発のうち6度で5回も持たずに降板し防御率は6点台で、
ついに規定投球回にも届かなかった。今井も8月で40歳なったとあって、先発再転向後は1勝するのが精一杯だった。

手薄な投手陣の中で前半7勝、後半8勝を挙げてリーグの最高勝率に輝いた星野は孤軍奮闘の活躍だった。特に敵地に強くビジターで9勝1敗と
頼もしく、9月から閉幕までは負けなしの6連勝と勝負強さを見せた。優勝を逃した後、上田監督は「土台作りの一年」と負け惜しみともとれる言葉を
発したが、あるいは23歳になった若き左腕の一本立ちが“土台作り”としての感触を得ていたのかもしれない。 (了)