1989年パリーグペナントレース★2
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>126
(了)とかいらねぇから
書き込まない努力をしろ ハムの大島が2年連続皆勤。2年間で258安打を積み上げて、翌年2000安打を達成。中日時代の最後の2年くらいを思うと、予想外の記録達成だった。 >>130
大島が近藤監督から祝福のキスをうけたのはこの年だっけ? 佐藤義則と山沖が両方とも防御率5点台
こんなのが先発ローテーションに並んでたんだから優勝なんかできるはずもなく
そういえば佐藤ってこの年と翌年と連続で開幕6連勝したよな
結局失速して残りのシーズンひたすら負けまくったところもまったく一緒 おもえば、門田補強せず、投手補強してたらオリックス優勝してたのでなないかと。 「ライバル対決」
球界には同じポジションのライバル、主に投手同士の直接対決を避ける傾向にある。有名なところで80年代の小林繁と江川卓、5年ほど前の
田中将大と斎藤佑樹などが当たるがいずれも、マスコミが好奇心を煽り立てるように書いた記事で当人たちが本来の力を出せなくなる事を首脳陣が
恐れて避けるケースが原因だった。球宴の場でも、比較しやすくなるといった理由で同じ試合にライバル同士が登板する事はほとんど無かった。
「トレンディエース」と言われた日本ハム・西崎幸広と近鉄・阿波野秀幸の対決も、両者が入団した87年以来なかなか実現しなかった。初対決は
3年目となる89年、3強による優勝争いが佳境に入った10月8日の事だった。当日はカード最終戦、藤井寺球場に2万人以上の観衆が詰め掛けた。
試合は序盤三回まで両軍無得点、西崎はいてまえ打線、阿波野は先発9人全員が右打者の打線を抑えていた。動いたのは四回裏、西崎が三番の
ラルフ・ブライアントに44号となるソロを浴びて均衡が破れた。それでも六回まで西崎は、その1失点だけに抑えて意地を見せた。対する阿波野は
優勝争いの負けられないチームの雰囲気の中でゼロを並べ続けた。ほとんどが近鉄ファンというビジターの熱気に飲まれたのか、七回裏に西崎は
金村義明に適時二塁打を打たれ2点目を失うと、気落ちした状態で投げた高めの速球を次打者・山下和彦に捕らえられる6号2ランを打たれて7回
4失点で降板。阿波野は最後まで集中力を切らさず、6安打完封してライバル対決を制した。
最終的に一方的な展開になったのも片や逆転優勝の望みを持ち、もう片方は後半戦健闘しているダイエーにも離されて5位に沈んでいるという
所属球団の差を考えれば致し方無かった。
直接対決はその後2度しかなく、二度目は翌90年夏で両者とも8回を投げて勝敗付かず、三度目は91年の開幕戦で4−2と西崎が完投勝利で
雪辱した。直接対決は1勝1敗の五分に終わった二人、通算勝利では西崎が阿波野を50勝以上も上回り、優勝回数では阿波野が西崎を2回多く
リードしたばかりか西崎が経験し得なかった日本一も経験できた。他にも各年での成績などあらゆる面で振り返れば、野球人生においての
“ライバル対決”でも、これまた五分といったところだった。 (了) >>137
>>138
おまえらが去れよ。邪魔すんな。
この人の書き込みで当時の詳細な記憶が甦り楽しく読んでる俺達みたいなのも多いんだ。 >>135
実際打線に厚みが出てチーム打率が前年より高くなった
>>136
98年の日本シリーズにこの頃のパリーグのメンバーが結構出ていたな >>122
抑え投手の補強が西武にとってとても重要なポイントになったよな >>136
ナンバーで江夏山田が西崎阿波野にインタビューして「直接対決がないなんて信じられんよ」と言ってた。そりゃ興行としては最低のローテーションだもん。
20年たって山田が「ダルがマー君や涌井と投げ合ってる。自分が東尾村田鈴木と投げ合ってたような感じが蘇ってきた」と喜んでた。 >>134
酒井勉 9勝7敗9S 抽選で引き当て渡辺智男を抑えて新人王に輝く
ガイ・ホフマン 9勝6敗 前年10勝の古溝が不調の中、唯一の先発左腕
地味だけど投手の補強も当たってるんだよなあ >>134,145
オリックスを黒船と感じ、必死こいて優勝出来る戦力に整えたって感じだね。
それが今では戦力強化や集客よりもオーナーの顔色ばかり伺う集団に(´・ω・`)
逆に言えば「オーナーのご機嫌取ってれば我が身は安泰」とオーナーに甘え切って
いるとも。
それは良いけど、唯一の先発左腕って・・・・・・、この年15勝とエースに上り詰めた
星野が居たろ?w オリックスは投手陣の弱さを言われたが、後半戦の失速した一因に、松永のスランプもある。最終的に3割を保ったが、8、9月の下降は痛かった。 >>146
失礼
完全に勘違いしました(´・ω・`)
星野と上述の2人はまあまあだが、佐藤義、山沖の防御率5点台コンビの不調だね。
あと、前年頭角を現した新ストッパー山内が前半戦で馬脚を現した。
これで佐藤義、次いで酒井が抑えに回って今度は先発投手が不足という悪いサイクル 何だかんだでブーマーと門田のハイタッチがVやねんの一番の原因だろう。 >>150
当時現役の姿見てりゃ知ってることだが山田はヘロヘロだったから無理だよ
最終年なんてアンダースローで投げてるだけの投手になってたからな
もう1年現役続行したら山田の個人成績もチームも星を落としたに違いない
やっぱ膝がイカれると野球選手はアカンね >>148
オリックスは投手がこんな感じだから、ドラフトでは即戦力投手が何が何でも欲しかった。
野茂を抽選で外して、ウェーバーで順番が回ってきたときには目ぼしい投手は残っておらず
苦し紛れにパンチ佐藤を指名。 >>154
エース同士の対決を避ける為イマイチ盛り上がらないから。 「二人の救い主」
前半戦でチームが思わぬ低迷をすると、急場しのぎとしてトレードなどの緊急補強をしたり、二軍にいる若手を思い切って登用するケースがプロ野球
ではよく見られる。そうした光景を89年の西武から見られるとは、全く予想できない事だった。5月を終わっても13勝18敗2分けの5位という不振は、
王国といわれた主力投手陣と、清原和博やタイラー・バン・バークレオら野手陣の不調に、開幕前からの故障者の続出にあった。エースと目した
工藤公康が1勝も出来ず6連敗、前年新人王の森山良二も右肩を痛めて不在の上、高山郁夫や石井丈裕らも穴を埋める働きが出来ていなかった。
石井と同じく即戦力新人として期待されてきた渡辺智男が、デビューしたのは6月2日の事だった。ただ、プロ初登板はダイエー相手に二回途中まで
7失点でKOの散々な黒星スタート。2戦目は中6日の9日で、2失点完投ながら打線の援護無く連敗。三度目の登板だった17日に、5安打完投の
プロ初勝利でダイエーに仕返しをした。しかしその後また3連敗で1勝5敗となって球宴折り返し、防御率も5点台だった。本来ならここで中継ぎ
もしくは二軍に降格していた可能性もあったが、当時の西武の苦しい台所事情が渡辺智には幸いした。
8月3日に5イニング無失点のロング救援で2勝目を挙げたのが起点となり、先発に戻った次回登板から3連勝するなど、後半戦だけでいえば
近鉄・阿波野秀幸と並び最多の9勝を挙げて8、9月の西武快進撃に一役買った。新人王はほぼ一年通して働いたオリックス・酒井勉に譲ったが、
規定投球回到達22人の中で被本塁打が最少の12という内容で2ケタ勝利の活躍だった。
打者では米国3Aから、6月に加入したオレステス・デストラーデが救世主になった。メジャーでは通算12安打1本塁打だったデストラーデ、20日の
デビュー戦での2打席目で初本塁打すると7月末までに10発、8月も10発、9月8発とコンスタントに打って、規定打席未到達ながら32本塁打を
放った。規定打席未満の30発クリアは87年ボブ・ホーナー、88年ラルフ・ブライアントに次ぐ3人目の記録だった。
逆転優勝こそ逃したが、二人の救い主は首脳陣やファンの期待に十分過ぎるほど応えた。さらに90〜92年の間には渡辺智は31勝(18敗)、
デストラーデは3年連続本塁打王で122本塁打と活躍。西武球団史上で“最強の三年間”といわれる期間において、二人は救世主からチームを
支える実力者となっていた。 (了) 渡辺智男の初登板は覚えているわ。テレビ中継されていた。
7時に中継始まった時にちょうど、マウンドに輪ができていて
ダイエーが大量リードして試合の大勢が決まっていたわw 規定打席未満の30発クリア
83年の田淵幸一も達成してるはず ホーナー、ブライアント、デストラーデが
立て続けに規定未満で30発とか凄い時代だったな、そういや。 >>156の下から4行目
×→規定打席未満の30発クリアは・・・3人目の記録だった。
○→規定打席未満の30発クリアは・・・外国人では3人目の記録だった。
の誤りでした。お詫びして訂正します。 >>160
> お詫びして訂正します。
お詫び?
どこにお詫びの言葉があるの? 「入れ替え」
阪急からオリックスに親会社が代わってもブレーブスを率いる事となった上田利治は、前年4位だった新生球団のスタートとして大幅に空気を変える
必要があると感じていた。フロントと一丸になっての“門田博光獲得レース”では、近鉄を逆転する意地の大型トレードだった。これまでもマンネリ化
打破や活性化の必要性を口にしてきた上田だけでなく、年々低下していた阪急打線を考えても不惑の大砲獲得は、待望していた刺激剤だった。
上田が監督に復帰した頃の阪急もそうだった。力の落ちたチームを変えるべく、リーグ4連覇の英雄を次々と入れ替えた。水谷実雄との交換で
加藤秀司は広島へ、ロベルト・マルカーノは自由契約でヤクルトに移籍した。
若手の抜擢ではさらに強い刺激を与えてきた。動きに衰えの見えた遊撃手・大橋穣に代えて新人の弓岡敬二郎を起用、三塁手・島谷金二も21歳で
両打ちの松永浩美に取って代わられた。左翼手にも4年目の小林晋哉をレギュラーにした上田、ベテラン捕手の中沢伸二が22歳の藤田浩雅に
マスクを譲ったのもこの頃だった。若手たちは成果を上げて、84年の6年ぶり優勝に貢献した。
その弓岡と藤田が代わられる立場になったのが、門田獲得の89年だった。ブルーサンダー打線構築の影で、遊撃に起用した小川博文と正捕手に
据えた中嶋聡は、主力に比べて打率は低かったが共に我慢強く使われた。
小川は9番で先発出場した開幕戦で、近鉄・阿波野秀幸から適時二塁打、次の試合でもロッテ・小川博から初本塁打といきなりエース級を打った。
奇しくも弓岡が抜擢された当時と同じ新人だった小川は、トータル115試合に出場し打率.247だったが優勝した近鉄には.302と相性が良かった。
弱冠20歳の中嶋はリードに苦心し自慢の強肩はさほど見せられず、盗塁阻止率は28.7%でリーグ5位だったが、リード面は評価されゴールデン
グラブ賞を受賞した。守備だけでなく打つ方でも、意外性のある打撃を見せた。猛打賞を記録した5試合は、守りに好影響だったのか5戦全勝という
験の良さだった。
惜しくも優勝を逃した89年当時は、“強力打線の安全牌”と言われる事もあった小川と中嶋だったが、二人はその後も戦力となり95、96年のリーグ
連覇と19年ぶりの日本一にも貢献、皮肉にも入れ替えが報われたのは上田が敵将となっていた頃だった。 (了) >>163
近鉄は金銭で大丈夫だと交渉を進めていましたが、途中でこじれて決裂となったそうです。 すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
QK0XR 衝撃事実拡散
【創価学会の魔の正体は、米国が仕掛けてるAI(人工知能)】
創価を日本統治に利用してる組織がCIA(米国の極悪クソ諜報、スパイ)
創価の活動家は、頻繁に病気や事故に遭うけど、信者は皆、魔(仏罰、現証、非科学的な原始的発想)にヤられてると思ってる
災難が続くと、信者は仏にすがって、学会活動や選挙活動に精を出すから、定期的に米国のAlが科学技術で災いを与える。モチベーションを上げさせる為の、起爆剤みたいなもん
パトカーの付きまとい、芝刈機音、ドアバン、ヘリの飛行音等も、米国が仕掛けてるAIが、人を操ってやってる。救急車のノイズキャンペーンに至っては、サイレンで嫌がらせにする為だけに、重篤な病人を作り出す冷徹さ
集スト(ギャングストーカー、ガスライティング、コインテルプロ、自殺強要ストーキング)以外にも、病気、痛み、かゆみ、湿疹かぶれ、臭い、自殺、殺人、事故、火災、台風、地震等、この世の災い全て、クソダニ米国の腐れAIが、波動(周波数)を悪用して作り出したもの
真実は下
http://ss.fan-search.com/bbs/honobono/read.cgi?no=12029 >>50
>>86
大宮龍男と鹿取義隆をトレードで獲得したのも
このシーズンの内容も関係しているだろうな >>5
西武VS近鉄やロッテVSオリックスも地上波全国ネットナイターでやっていた ブライアントの三発目、ナベは前々日の
投球数が響いて打たれたのだろうか。 「投げ込み不要論」
投手コーチとして有名な権藤博の指導法の一つに「投げ込み不要論」がある。今では“肩は消耗品”が常識となっているが、現役時代の苦い経験を
もとに試合どころかブルペンでも投球数を抑えるよう指示したのは中日コーチ時代の40年近く前の事で、当時までには無い教えだった。権藤が
二軍から一軍投手コーチに昇格した時の監督は近藤貞雄で、投げ込み不要論の提唱は近藤がコーチ時代に権藤の酷使を止められなかった反省
からの持論であり、60年代当時から過重な投げ込みには反対し続けていた。中日時代からキャンプでの投げ込みを隔日にして、大洋監督時代では
“休肝日”ならぬ“休肩日”の導入が話題になった。
89年に日本ハムの監督に就いた時も近藤の方針は変わらなかった。ブルペンでの投げ込みを減らし、余った時間は筋力トレーニングに充てた。
柴田保光らベテランや、87年のプロ入り以来2年間よく投げた西崎幸広はこの方針を歓迎した。しかし高校時代から投げ込んでフォーム固めや体力
強化をしてきたタフな若手にとっては、容易に受け入れ難いものがあった。特に前年最多勝を獲った23歳の松浦宏明は「キャンプで投げ込まない
なんて、とても勇気が要ることなんです」と強く抵抗した。
若手の不安は的中した。松浦は皮肉にも開幕してすぐ故障して離脱、6月に復帰も7月に再度離脱して1勝に終わった。前年最優秀防御率に輝いた
河野博文は、絶不調に陥りプロ5年目にして初めての未勝利だった。6年目24歳の津野浩は、3年ぶりの2ケタ勝利には達したが防御率5.50で、
前年より2.5以上も下げた。豊富な投手陣と近藤の手腕で優勝争いの予想もあったが、西崎以外の若い力が機能せずチームは5位と期待に沿えな
かった。
目論見が崩れても近藤は「キャンプのブルペンで投げる200球より、オープン戦で投げる20球の方が身に付く」と持論を崩さなかったが、前半戦まで
5割近辺で3位争いをしながら後半戦16勝33敗と大きく負け越したのでは、評論家たちに失速の原因を「投げ込まない事でのスタミナ不足」といって
近藤理論に求められるのも仕方のない事だった。 (了) >>172
いつも、ありがとう。
興味深く読んでる。 10.12の西武−近鉄ダブルヘッダーだっけ??
ブライアントに打たれ、
マウントにがっくり膝をついて
打球の行方をただ呆然と見送る渡辺久の姿が忘れられない。
俺もまだ若かったなあ・・・(遠い目) 10.12の西武−近鉄ダブルヘッダーだっけ??
ブライアントに打たれ、
マウントにがっくり膝をついて
打球の行方をただ呆然と見送る渡辺久の姿が忘れられない。
俺もまだ若かったなあ・・・(遠い目) >>175
この年の10.12もそうだが
西武は冬季五輪開催年に優勝してしまうと
翌年は災難に遭うな…
92年→翌年ヤクルトにリベンジされ日シリ敗退
94年→翌年オリックスの優勝胴上げを見届け
98年→翌年ホークスの初Vを許す
02年→翌年伊原退任、稼頭央メジャー移籍 逆にいえばそれだけ冬季五輪イヤーに優勝できてるのが凄いといえるが。 >>157
何故だかわからないが水島新司が居酒屋でテレビを見ているシーンが
流れていなかったか?
>>176
こういうデータもある
59年→6年ぶりのBクラス
69年→黒い霧事件で大揺れ
79年→最下位
89年→10.12などで優勝を逃す
99年→ダイエーに初優勝を許す
09年→前年日本一からBクラス ブライアントのダブルヘッダー四連発、
初回の外野フライ時点で配球を変えとけばな… >>181
あの試合で近鉄が2連勝して近鉄に残り2試合でマジック2が付いたけど
実は裏でロッテVSオリックスのダブルヘッダーも川崎でやっていて
オリックスが2連勝して、オリックスの優勝の可能性も他力だけどまだあったけど
次の日にオリックスがロッテに負けて近鉄のマジックが1に減って
近鉄の優勝がさらに近づいた(ちなみにその試合のロッテの先発は園川だった) 近鉄ベンチもブライアントには高めの速球で攻めて
来ると分かっているだろうから彼に指示しただろう。 勝ち越しホームランを打たれたナベQはブライアントキラーで
いつもはインハイのストレートで抑え込める楽な相手だった
あの打席の時だけ打たれたって振り返ってたな ダブルヘッダー1戦目が郭&久信VS高柳
2戦目が高山VS阿波野、1戦目敗戦で終ってた。 石毛がダブルヘッダー第1試合先発阿波野じゃ
なくて高柳だったことに驚いたそうな。
感覚が「高柳ってw」みたいな。
実は牛ファンだった俺は第2試合が「高山w」だっ
た。確か3回ぐらいでノックアウトしたと思った。 巨人は近鉄を破り日本一になったが、
巨人は当時のパリーグの6球団(前身球団含む)と
対戦しそして日本一もコンプリートした記念すべき
年だったが巨人は楽天には日本一にはなれず、
ホークスはセリーグ全球団と対戦&日本一を
達成しているのでホークスの方が偉い。 >>186
優勝するにはダブルヘッダー連勝しか無い近鉄は、第1試合に阿波野をリリーフ投入する事も考慮に入れて、第2試合の先発に回したんよね。
一方1勝1敗で優勝へ大きく近付く西武は第1試合に郭を立てて必勝を期したが・・・・・、ブライアント3連発で第1試合を落とした事で全てが裏目
に出てしまったという感じ。 第二試合先発高山だがライオンズはもう投手残っていなかったのか。
森の性格からして第一試合落とした時のために二戦目の先発投手用意しているかと思ったが。
そんな余裕が無いほどお互い過密日程で消耗していたのか。 森の本読むと10.12より5日のダイエー戦で序盤8点リードの展開から
12対13の大逆転負けを喰らったことの方がターニングポイントだったと書いてある スポーツニュースで「後半だけならダイエーは2位」というフレーズを何度も聞いた記憶があります。
あとは「閉店前の・・・」 西武の豊田スコアラーは森監督に配球を叱責されたとか。
高めの速球一筋では幾らブライアントでも順応されるよ。 うろ覚えかもしれないが件のダイエー戦の後に
西武は川崎でロッテとのダブルヘッダーがあったと
思った。当時最下位独走中のロッテ相手に第一試合
大差で勝ったんだけど「そこまで取らなくても」と
思った点差でそのため第二試合は疲れで
落としてしまった。ボーナスステージだから
確実に二つは取りたいという気持ちだったと思うが
ロッテ投手陣がひどくても手加減できないほど
焦っていたのだろうか。またああいう逆転がある
かもという焦りがあったのか、ブラ砲連発の前の
西武の試合振りには悲劇への前兆がかなりあった。 だから鹿取取った。
もうピークは過ぎたと思われてた鹿取が、あそこまで長くやるとは予想外だった。
堀内は予見してたけど。 カトリ?もうオワコンだろ?
ってかなりの人が思ってたが…
後のデニーもそうだが、セのイマイチなサイド投手が上手くハマったなぁ。 玉木正之が西武の応援歌の「ミラクル元年奇跡を
呼んで〜♪」の歌詞は作詞家が阪神ファンなため、
ライオンズの応援歌のつもりで作詞したのに、
いつの間にかタイガースの応援歌になってしまった
と言ってたな。タイガースの優勝はミラクルがなけ
ればないがライオンズはチーム力がしっかりして
るためミラクルなど必要なく優勝できると。
ただこの歌詞はミラクル(バファローズが)
(平成)元年奇跡を呼んで(優勝)とも読める。
実は近鉄の優勝を予言していた? 所沢移転前の弱小球団がわずか4年目で優勝ってのが十分ミラクルだろ
同じような条件でダイエーが10年
それ以下の新規球団の楽天が9年かかってるのにたいして 当時の西武(つうか堤義明氏)の資金力と根本さんの影に日向に暗躍する策士振りを思えばミラクルという感じはしないな。
年々目に見えて強くなっていったし。 買収した時点ではボロボロだったけどその分堤や根本の好きなように出来たからね
阪急を買収したオリックスがその辺の問題で苦労したのとは対照的 自分が若い時から応援してたチームを買えた人と、ビジネスの付き合いで買った人(元々好きなのはウインタースポーツ)とではそりゃね… ブライアントの連発は真剣勝負のパリーグだから
成立するのでありセの特に藤田巨人ならブライア
ントを満塁の場面でも敬遠してただろう、と
安部譲二が週刊誌かスポーツ紙のコラムに書いて
たな(ただ満塁の場面は森監督は四球でもいいと
郭に言ったらしいが)。渡辺久信とブライアント
の勝負は伊東が「(江川と掛布みたく)勝負を越えて
投手打者が真剣勝負を楽しむと言うのがあるけれど
あれこそ本当の真剣勝負ですよ」と言わしめた。 ナベQ自身も「思い出に残っているシーン」として語っているらしいね
打たれた後に片膝ついて呆然と見送っていたシーンがある意味でカッコよかった ナベQは無類のブライアントキラーで決め球にインハイのストレート投げときゃ安パイだった
あの試合のあの打席の時だけ打ち返されたってのが何ともドラマチック 久信は100の力ならブライアントを抑えられた
と思うがいかんせん中1日。パフォーマンスは
落ちる。 オリックスもロッテ最終試合に勝ってればな。
近鉄はダイエー戦の後西武戦だから西武はダブル
ヘッダーのリベンジとばかり近鉄を倒してただろ。
そうなるとオリックスは最終戦は獲ってたから
オリックスの優勝だったかもしれない。 オリックスは5月4日の西武戦勝っていたら優勝だったんだよな
あの試合は9分9厘勝っていたよ >>206
あれが投げミスではないからこそのあの表情なんだろうね
「しまった!」って顔ではない
ジョニーがプリアムに打たれたのと同じ
完璧なコースに完璧な球を投げたのにやられた 初球は外角の釣り球に騙されず、
二球目は内角直球を大ファール、
三球目の変化球に全く反応せず。
ブライアントは完全に合わせていた。 あの日ブライアントが郭から打った1本目は
何度見ても惚れ惚れする完璧なスイング 清原が入ったチームは物凄い弱体化し、
出て行ったチームは、糞がいなくなったことでめちゃめちゃ強くなる
1985年清原入団前
西武優勝 勝率 .637 2位とのゲーム差15.0
1986年清原入団
西武優勝 勝率 .581 2位とのゲーム差2.5
清原が入ったことによってゲーム差がマイナス12.5
1996年清原移籍前
巨人優勝 勝率.592 2位とのゲーム差5.0
1997清原移籍
巨人4位 勝率.467 1位とのゲーム差-20.0
清原が入ったことによってゲーム差がマイナス25.0
結論を言えば
清原はチームのお荷物にしかならないってことだ
清原が出て行った西武の成績
1996年清原移籍前
西武3位 勝率.492 1位とのゲーム差-13.0
1997年清原移籍
西武優勝 勝率.576 2位とのゲーム差5.0
清原が出て行ったことによってゲーム差がプラス18.0
2年連続3位だった西武だが
清原がいなくなった途端に2連覇達成 >>213
面白い。
ちなみに清原が出ていった前後の巨人と、移籍してくる前後の檻はどうかな? 清原が出て行った年の巨人は
有名な8連敗10連敗9連敗の年だけどね(´・ω・`)
まぁ前年より順位は一つ上がったがw >>189
先発出来る投手では休養十分の松沼博久がいた。前回登板の内容の悪さと、近鉄との相性を忌避されたのかも。
高山ではいかにも力不足だな。
打たれた後の投手交代も失敗だった。 あと、秋山が9月22日に31号を放ったけど、以降17試合、本塁打が全く出ずに終わった。
例のダブルヘッダーでは、二試合とも初回にライトに三塁打打ってたし、打率はキープしていたが。 >>212
あのスイングが毎回出来てりゃ、とてつもない本塁打数になりそうだ。 >>217
トランプゲームの大富豪(大貧民)で弱いカードを
先に出したのが近鉄(高柳)。西武は郭太源という強いカードを
先に出した。しかし失敗して次の試合高山という弱いカードを
出すしかなかった(近鉄は阿波野で当然強いカード)。
ダブルヘッダー第一試合は石毛は阿波野でくると思ってたらしいし。
でももし第一試合郭阿波野エース対決で第二試合高山高柳ローテー
ション谷間対決だったら試合はどうなっていただろうか
興味深い。 「真面目でいい子」
新しく日本ハムの監督に就いたばかりの近藤貞雄が、選手を見て一言「真面目でいい子ばかり・・・」と不満を漏らした。前から近藤の頭には「真面目で
いい子がグラウンドで働いたためしがない」というのがあった。それまで26年の指導歴での実体験によるものが大きく、優等生よりも一癖あるタイプの
方がよく働くと思っていた。
前任の高田繁監督時代に、3年連続で開幕投手を務めた津野浩は“真面目”の代表だった。身長も高くセンスもある、しかし真面目が災いしていると
近藤は見ていた。細身で甘いマスクに加えた「凄味がなきゃ・・・」という近藤の話を受けたか受けずか、89年の津野は11勝しながら防御率5.50と
いったように好不調の波が激しかった。6月のダイエー戦で8回まで無安打の快投を見せたかと思えば、8月の西武戦で2回KOされてからは閉幕まで
4連敗とムラがあり、イメージチェンジの評価は翌年に持ち越された。
前年最多勝を獲り、近藤が提唱した投げ込み不要論に抵抗を見せた松浦宏明は真面目理論から考えれば期待は持てた。しかも88年の松浦は西武
相手に4完投を含む6勝1敗というキラーぶりで強い相手だと燃えるタイプだったが、皮肉にも開幕して間もなく右肘故障の大誤算でわずか20イニング
しか投げられず1勝に終わり近藤の公算を狂わせた。
左腕の河野博文も前年最優秀防御率のタイトルホルダーでありながら、後の90年に失踪騒動を起こすなど考え込みやすい性格だった。しかし
未勝利で6敗という河野の絶不調で、左投手不足に悩んだチームがトレード期限いっぱいの6月末日に巨人から獲得した角盈男は、生え抜きの選手と
違って移籍早々近藤に堂々と物申した。
中継ぎ起用で考えていた近藤に「先発で使わないならトレードしてくれ」と言ったのだ。先発登板は79年を最後に10年もしていないにもかかわらずの
角の強気な発言に、近藤は呆れたが「自己主張をハッキリしてくれた方が、陰でブツブツ言うより良い」と言っていた。角はプロ初完投も含め3勝を
挙げてローテーションの谷間を埋めた。近藤自身も決して現役時代に優等生でないことを認めていて、指導者とぶつかりながら投げ抜いた。89年の
上位3球団は個性の強い選手が目白押しだったが、日本ハムも真面目でいい子でない選手がもう少し多くいたら、結果は変わっていたのだろうか。
(了) >>210
あのシーン、渡辺久信の表情もさることながら、喉仏の大きさが気になった。 渡辺は「ブライアントよりリベラの方が嫌だ」と言っていたな
リベラは数値的にはそこそこだけど「ここで打って欲しい」ってとこで打っていた >>209
このシーズンオリックスはかなり惜しかったからな
5月4日の西武戦もそうだけど
もし10月13日のロッテ戦勝っていたらペナントの結果は違っていたかもしれないな
10月13日の場合は近鉄にマジックあるけど残り試合2でマジック2のままだったから
近鉄もかなり厳しい戦いになっていただろうな 森は残り4試合が全て前年のリベンジに
燃える近鉄相手で嫌な予感してたかもな。 http://2689web.com/1989/BF/BF19.html
8/10の日ハム戦かなあ
なんとかストッパーを務めていた山内が大炎上してストッパー失格の烙印を押され
以後佐藤義、酒井らローテーション投手がストッパーに廻され、薄い先発がさらに薄くなった
西武とオリックスは痛い敗戦が多すぎてどれが痛いとも言い切れないが
9/30,10/1のオリックス戦に渡辺久、郭をつぎ込んでの連敗もかなり痛かった
これ一つ取ってればオリックスが死んで、あとは流して2〜3ゲームつけて優勝できてたかも ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています