1979年のプロ野球
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>232
中井は二宮→庄司と受け継がれてきた「張本の守備固め」の役割がこの年回ってきたんだが、この年限りで張本が退団したのが痛かったなw
その後ホワイトや松本が実は弱肩で守備で入るケースが時々あったけど、張本ほどの守備固めの必要性緊急性はなかったし。 藤沢はアキレス腱痛めて2年目からパームまともに投げられなくなったのが痛い。
中井は最初から打者で行くべきだった。それでも準レギュラーまでだったかな。
1位の素材とは思わなかった。 巨人の松本もこの時点では代走屋で終わるかと思ったのでその後の活躍は予想外だったな
打撃はぎこちなく肩は脱臼癖で打球判断もいまいちと弱点だらけだったが全て得意の俊足でカバー
野球マンガのキャラクターみたいに能力が極端に偏っていた 松本は長嶋さんに特別に目をかけてもらったからな。
「地獄の伊東キャンプ:とか「4番1000日計画」とか、
長嶋さんは命名も含めてその辺上手だったね。 藤沢はパームボールだったが
秋の日米野球では来日したニークロのナックルボールが話題騒然
魔球みたいな扱いで日本のプロ野球も取り入れるかと思ったら期待はずれだった コントロール重視じゃナックルはなかなか受け入れんだろ。
他の変化球のコントロールを付けろとか言われる。 日米野球は全日本対全米が2試合
メジャーのオールスター戦が7試合くらいやったのよね
お客さんあんま入らんかったそうだけど 入場料も高いし全米オールスターとはいえ日本人にとってはなじみのない選手も多いし
やはり日米の対戦でないと観客が集まりにくいかもね
前年に来日したレッズが日本チーム相手に勝ちまくったのでどうしてもそっちの方が印象は強い 前年からフジ系で始まった大リーグ中継も低視聴率でゴールデン枠から
深夜に追いやられたのもこの年 >>244
何せサッカーワールドカップですら、東京12チャンネル「独占中継!」からようやく脱した
って時代だしなぁ。 村田兆治は有名だったけどフォークボールを武器にする投手もまだ少なかった
村田に近い落差というと大洋の遠藤が思い浮かぶが他にも何人かいたのかな >>242
日米オールスター戦は西宮、後楽園で挙行し1勝1敗。
全米オールスター戦は横浜での第1戦を皮切りに各地で開催し、ナリーグの4勝2敗1分け。 今年の広島はこの年みたいな星取りするの?
巨人には負け越しほかに勝ちながら優勝狙いと。
なんか戦い方見てると卑怯なんだけど >>248
1974年・中日や1993年ヤクルトも同様のパターンだよ。
1985年阪神も、8月までは上位の広島・巨人には大幅に負け越しながら下位からの大量貯金で
首位争いに留まっていたり。
対巨人戦は消化試合でのバース全打席敬遠もあって、終盤6連勝フィニッシュで13勝12敗1分と
辛くも勝ち越したけど。 この年の後期は下位低迷の西武が独走優勝した阪急に6連勝の大健闘
ただしその6連勝以外は阪急に1勝16敗3分とまるで歯が立たなかった >>249
痛快に巨人をぶっ叩いて優勝したのは2000年代中盤の竜虎時代ぐらいかもな 広島打線は全く違う
やはりこの当時は最強
1遊 高橋慶
2三 衣笠
3右 ライトル
4中 山本浩
5二 三村
6一 水谷
7左 ギャレット
8補 水沼
しかし衣笠2番ってのが、いかにも古葉野球の真骨頂 >>252
水谷にはできないので衣笠が2番なんだろうけど、昭和40年代には4番だった訳だし
今思えばライトルを2番にするのも面白かったなんて考えてみる事がある >>251
でもその頃は巨人が優勝争いにかすりもせず極度の低迷をしてた時期だからな
巨人が優勝争いに加わってるときにそれをぶっ叩いて優勝したチームってなかなかない
10年の中日が6つ勝ち越した時くらいか(この時巨人とは1ゲーム差)
他は勝ち越してもせいぜい3つくらいがやっとだし 衣笠は高橋慶彦がレギュラーになる前は1番打者でもよく起用されていたが
パンチ力があって盗塁も狙えたので案外適任だったかも レギュラー2年目の高橋慶彦は33試合連続安打の日本記録が話題になり盗塁王も獲得
最後は日本シリーズMVP受賞と良いことずくめの一年だ
まだ22歳だったけど結果的にこの年が最も輝いていたような気がする >>252
五番打者は三村ではなくて水谷
水谷は、前年首位打者になり、この年も20ホーマー越えを達成し、不動のクリーンアップになっていた 「山口対決」
山口高志は阪急黄金時代を語る上で欠かせない投手である。入団した75年に新人王を獲得するなどして球団初の日本一に貢献すると、
以降78年まで4年連続の二桁勝利でリーグ4連覇にも大きく貢献した剛速球投手。4年間で47勝35セーブ(39敗)を挙げてきた山口
だったが、自身5年目となる79年は前年の日本シリーズ期間中に痛めた腰など故障が続いて前期は2セーブを挙げたのみだった。
本格的に復帰を果たしたのは後期だったが、それでも11登板で1勝4セーブの成績からも分かるようにベンチは大事に間隔を空けながら
投げさせざるを得なかった。実際に僅差での登場も少なかった。
後期を優勝した阪急、過去75年に2完投2勝でこの年と同じ相手となる近鉄をねじ伏せていたとあって山口のプレーオフでの活躍も期待
されていた。そうして迎えた決戦だったが、エース山田久志で初戦を落とした翌日の第2戦5回裏二死一、二塁で登場した山口は有田修三に
左中間への決勝3ランを浴びた。味方が1点差に追い上げた直後の8回にも平野光泰に2点本塁打を打たれて轟沈、過去2度のプレーオフと
3度の日本シリーズで剛腕を見せ付けてきた投手が散った瞬間だった。
山口は山口でもシーズンで7勝4セーブ(7敗)を挙げ最優秀防御率のタイトルを獲得した近鉄の山口哲治は高志とは対照的な大活躍、3戦
全てに登板し、第3戦10回裏二死で福本豊に唯一の安打を打たれるまで無安打投球という打者21人に僅か1安打1四球の快投で1勝2Sを
挙げMVPを獲得した。ともに救援投手という、このプレーオフでの“山口対決”は弱冠20歳の若武者に軍配が上がった。
“山口対決”を制した山口哲だったが、この79年は同じ2年目の阪急・三浦広之との“20歳対決”もあった。プレーオフでは三浦の登板が無く
山口哲の“不戦勝”だったが、レギュラーシーズンでも防御率や黒星の数で三浦を上回り20歳対決にも山口哲は勝った。(三浦は7勝10敗で
防御率4.21で規定投球回に足りていない)
山口哲や三浦に代表されるように、この年の流行歌ではないが広島・高橋慶彦、北別府学、中日・宇野勝、小松辰雄、巨人・山倉和博、
鹿取義隆、ヤクルト・尾花高夫、ロッテ・水上善雄、南海・久保寺雄二、西武・立花義家といった20〜22歳の「YOUNG MAN」がリーグを問わず
各球団で目立った年であり、若い選手から新たに生み出される「対決」を予感させた。 >>259
優勝した試合は三村は5番だった
水谷は先発出場はなかった
優勝した時のスタメン
1高橋2衣笠3ライトル4山本浩5三村6萩原7ギャレット8水沼 水谷は前年(首位打者)に比べたら不振の方だったからな。
萩原を併用して使われてたような覚えがある。 古葉監督は、打線固定派ではなかった
山本浩二以外は全ての打順を打たせたはず
ライトルでさえ2番を打ったことはある 西武ライオンズ1年目のシーズン。福岡県民いや九州地方にとって本当に毎日がやりきれない思いだっただろう。
今まで通りライオンズを応援を続ける者、縁を切って他球団のファンに鞍替えした者、さらにプロ野球と縁を切った者など・・
それでも地元福岡のスポーツ新聞やラジオ中継は、西武に変わってからもライオンズ中心を変えなかった。
10年後ダイエーが来るまではな・・ 巨人は野手陣は柴田、高田の不振。張本の怪我。
小林に8連敗。右の代打陣の不振(平田、中井以外はダメ)等で
全然だめだったな。
特に山本和、梶間、神部 の左投手が先発した時はやられてた。 柴田→松本
土井→篠塚
高田→中畑
の世代交代期に入ったから 高田は翌80年で引退柴田もレギュラー落ちと不振と言うよりは衰えだね
王も一本足後初の無冠とV9メンバーの衰えが誰の目にも明らかになって
来た年だったわ 西武最下位だったが、この頃は資金潤沢で且つ根本の根回しで
(監督退任後の管理部長でさらに手腕発揮)選手をかき集め、後の
黄金時代の礎を築いた
しかし、運がなかったのか、西鉄時代みたいな伝説には恵まれず10.19や10.12では近鉄の引き立て役 >>270
運がなかったのではなく、寄せ集め集団がみんなてんでんばらばら
勝つための作戦は無いは走れないはエラーはするはで、とてもプロのチームとは言えない状態
根本監督曰く『おまえらはプロじゃない、同好会や!』
兄やんだけはノムのリードで活躍したが、他の投手はさっぱり
特に、毎回良いピッチングをするのに勝てない森繁和が、とっても可哀相だった 根本の手法は一貫して同じ
チームをいじらず現状探索→若手に何年計画の育成→金を引き出し他球団や外国人の実力派を獲得→有能監督を招聘→機が熟す
広島時代
衣笠や山本浩二らを4年計画→大下、ホプキンスなど→メジャー監督ルーツ
西武時代
伊東や秋山を囲い込み→田淵やテリーなど→ヤクルト日本一監督広岡招聘
ホークス時代
小久保時代からの囲い込み→松永や秋山らの監督→世界の王招聘
根本のスゴいのは、何年経っても強さが脈々と続くこと 今年は、この年以来の「リーグ優勝&日本一達成→翌年に最下位」が
現実のものになりそうだ…。 >>271
270の運がないは黄金期時代の話だろう
確かに強かったが、近鉄の引き立て役になることが多かったな
10.19やブライアント4連発 >>275
>270のどこをどう読めば黄金時代の話しだと考えんだろ?
馬鹿なの? >>276
>黄金時代の礎を築いた
>しかし、運がなかったのか、西鉄時代みたいな伝説には恵まれず10.19や10.12では近鉄の引き立て役
まあ黄金時代にはふれていないな
一々喧嘩しない ヤクルト、日本一から一気に最下位へ転落したけど何が原因? >>279
・マニエルを近鉄に放出、ヒルトン、大杉が不振による打線の弱体化
・松岡と並ぶ左のエースだった安田の故障
・広岡の管理野球に選手やフロントが反旗を翻した 「失敗のブラデントン」
クラウンライターから西武へと経営権を移したライオンズは、親会社の大きなバックアップを受けて環境の整備は勿論、戦力強化もされて
新生レオ軍団として生まれ変わっていた。松沼兄弟、森繁和、柴田保光ら新人に加えて阪神から田淵幸一、古沢憲司、ロッテからは野村克也
、山崎裕之を獲得してチームの骨格を作り上げた。監督と球団管理部長を兼務していた根本陸夫が「意識の改革は難しい。人の心を変える
よりも、人そのものを変えるのが組織活性化の近道だ」と言ったように、新たに18選手が新生西武に加入した。大物補強もあってか戦前の
予想は前年最下位の割にはそれほど悪いものではなく、根本も「優勝はまだ先、今年は暴れ回るだけ。それだけの選手は揃った」と自信を
持っていた。
しかし蓋を開けるとそれは、開幕からの苦難の連続だった。エース・東尾修で緒戦の近鉄戦を落とすと、翌日も森ら5投手が5被本塁打を含む
16安打を浴び9失点。8回に出た金城致勲のチーム初得点となる一発も焼け石に水だった。次の阪急との3連戦にも全敗。新本拠地で迎えた
所沢での地元開幕戦ではなんと7失策、5失点KOの森は自責点ゼロの敗戦投手だった。続く翌日、翌々日も日本ハムに敗れて9連敗したが、
その後は惜しい試合もあった。阪急とロッテにそれぞれ1分け2敗ずつ、7回に一挙7点を取って追いついたドローや0−1の敗戦を2度演じたり
というゲームもあったが及ばず、結局のところは24年ぶりプロ野球ワーストタイの開幕12連敗を喫した。
2分け12敗の14試合でチーム打率.209、平均得点2.1。思えばアメリカはフロリダ州・ブラデントンでの長期キャンプが躓きの元だった。
日本国内で練習試合、オープン戦を行わず(米メジャー球団とのオープン戦は8勝10敗1分け)アメリカのストライクゾーンに慣れ過ぎたため
根本が「200発打線」と呼んだ土井正博、田淵、トニー・ミューサー、野村らのメンバーも戸惑い結果を出せなかった。山崎がキャンプ中に
故障し開幕に出遅れたのも誤算だった。
そして何といっても痛かったのは12連敗中25失策の守備で、大原徹也の6個を筆頭に期待を込めて送り出した山村善則、金城、といった
若手が次々に失策。戦前根本の言った「暴れ回る」をスタートから別の意味で表現してしまった原因ともいえるような53日間に渡る
“失敗のブラデントン”だったせいか、翌年からはすぐにキャンプ地は高知県春野市に移された。 (了) >>281
アメリカキャンプから帰国した時、みんな凄い髭ヅラだったよね
まさにライオンのようだったんだけど、あれも話題作りの一つだったのかな?
それにしても、森繁和はかわいそうだった
新人ながらチームNo.1の力ある球を投げて、いつもいいピッチングをしながら勝ち星が伸びなかった
個の実力からすれば、新人王を上げてもなんら差し支えないほどの、投手としての実力を持っていたと思う アメリカ長期滞在キャンプの為、国内オープン戦不参加のままぶっつけ本番で臨んだのが大失敗。
余談だが、新本拠地こけら落としの2日前、4月12日の阪急戦は初めての平和台里帰り(10、11日は西宮開催)だった。 >>284
ちなみに10年後のダイエーの初平和台も西武戦だった 空き家になっての初戦とダイエー本拠地初戦はともに西武がビジターだったわけか・・ 今年、西武が最下位になったらこの年以来の出来事になる。 結局は、>>274のとおりになりました。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141007-00010006-fullcount-base 前年1、2位のチームがBクラスに転落した始めての年
その後92、97とパでも08、09、14に発生した…
逆パターンは
62セ、97セ、08パ、14パ 熱闘日本シリーズで初めて全試合ハイライト見たけど、江夏の21球以外は淡々とした印象しかないw でも前年は大杉の疑惑の判定で大揉めだし、二年連続でシリーズ史に残る大会になったね。 根本陸夫が飯田徳治、別当薫に次いで両リーグ最下位監督に 西武は弱かったけど観客動員が100万人突破したな。
西武沿線の人たちが多くいったのが大きい。
特に所沢以西の人なんか今まで近くて神宮だったから
近くに球場&球団が出来たのはうれしいだろう。 BS NHKを今すぐ見よう
ノムさんが詳しく解説してるで! >>140
土井はその前年にフロントによって引退に追い込まれてる。
.285打ってダイヤモンドグラブ獲得していたのに(((^_^;) >>295
後輩(篠塚)に道を譲ったんだよな
しかしその翌シーズン、巨人は大洋からシピンをトレードで獲得し、長島はセカンドのレギュラーとして無条件で起用した
土井曰く
「シピンにセカンドを渡す為に引退したのではない!」
痛烈な批判をマスコミに向かってブチまけたの当然の事だった >>297
シピンは78年からジャイアンツなんだがw
うそこいてなにがたのしいんだか クルーガーという外人投手が巨人入りしたが全く通用せず
「ボク クルーガー オウチエカリタイ」と当時人気番組
「鶴光のオールナイトニッポン」で笑われていたな
背番号も小林がつけていた19だった記憶が 8月8日
元横浜の銚子選手
エースとして出場した甲子園の晴れ舞台で、顔面に打球食らって病院送り…。
元巨人の江川選手
ナイター登板時、投手ライナーを打たれ思わずマウンドにしゃがみこむ >>300
銚子は右足だったような…
早い回で気の毒だったね >>298
シピンが巨人に入団したのがS.53だから、土井とシピンはチームメイトとして一緒にプレーしているな
しかしそのシーズン、正二塁手は土井でシピンはライト
シピンは土井が引退した後のS.54にセカンドに再コンバートされたので、>>297あながち間違いではない
S.53、打率.285、27犠打(セ最多)、ダイヤモンドグラブ賞を獲得した土井がそのオフにユニホームを脱いだのは、篠塚にレギュラーを譲るため、と言うのは結構有名な話
そして翌年コーチに就任した土井が、篠塚ではなくシピンをセカンドに起用した長島監督に対する不満を、長島監督本人に直接言わずにマスコミに漏らした話も、これまた有名 西武のマスコットのレオが登場したのはこの年だっけ? 「考える虎」
シーズンオフに新球団社長へ就任したばかりの小津正次郎のチーム大改造により変身した阪神、「江川騒動」によって獲得した小林繁や
田淵幸一放出の大トレードで獲った真弓明信ら新加入は15人。球団創設初の最下位だった前シーズンがフロントには堪えたのか、初の
外国人監督ドン・ブレイザーを招聘して“考える野球”を導入する事で変革を狙った。コーチ陣も例外ではなく5人が加入、中でも3年連続
チーム打率リーグ5位の打線テコ入れのため呼んだ中西太打撃コーチは新生阪神の目玉だった。
スピードとガッツを前面に出すため、ブレイザーは移籍組の真弓、竹之内雅史、若菜嘉晴をスタメンに組み込む新打線を形成。藤田平を
故障で欠くも、代わって一塁に回った佐野仙好が初の3割。若武者24歳の掛布雅之と、前年不振だった来日4年目のマイク・ラインバックが
共に入団以来最高の本塁打と打点を記録した。リーグトップのチーム打率と本塁打(本塁打は広島とタイ)を誇った打線は新エース小林と
チームを牽引した。
阪神は序盤こそ考える野球に戸惑い下位に低迷するも、6月2日にデビュー戦の江川卓をKOして最下位を脱出すると6・7月を連続して
月間勝ち越しと反撃開始。球宴明けいきなりの6連勝で初めて貯金3としてGW以来の3位に浮上した。8月になるとさらに熱く、分が悪かった
夏の長期ロードも4勝無敗の江本孟紀と3勝無敗の小林の活躍で10勝5敗1分けと大きく勝ち越した。対照的に1ヶ月強も首位を走り続けた
中日が息切れして、様相は中日の失速と同時にスパートをかけて17日に奪首していた広島と阪神のマッチレースとなったかに見えた。
阪神はピタリと16日から1週間で4度も首位・広島にゲーム差なしと肉薄しながらロードを終えていたが、皮肉にも地元甲子園に戻って4戦連続
完封負け。広島戦3タテを含む合計6連敗を喫すると、その後9連勝まで伸ばした広島に7.5差まで離され終戦。最後は10月に巻き返した
大洋と中日に抜かれ4位に終わったが、夏場以降の優勝争いを演出して貯金1ながら3季ぶり5割以上と健闘した。
ブレイザーは翌年もあの電撃辞任まで貯金1の3位、4連勝中だった。勿論まだ100試合以上を残していたが、シンキング・ベースボールの
浸透度と2年間の戦績を踏まえると、ブレイザー辞任以降考える事を止めて、再び路頭に迷う虎を見るのは残念でならなかった。 (了) 1遊 真弓
2二 榊原
3三 掛布
4左 竹之内
5右 ラインバック
6中 スタントン
7一 佐野
8捕 若菜 この年も、セ・リーグの一塁手ベストナインは王だったが、明らかに大島の数字が上だった。どれくらいの票差だったんだろうか? >>306
だとすると、読売はこの先
大失速するわけですねw 「弱体化投手陣」
前年ヤクルトに逆転を許し、リーグ3連覇を逃した長島巨人にとって、投手陣の強化は79年への重要課題だった。ドラフト会議を欠席してまで
意地を通して獲得した江川卓は、球団自ら出場を自粛して5月いっぱいまで使えない。交換相手だった小林繁の13勝、191回1/3イニングの
穴を埋めなければならず、「江川問題」の代償の大きさが炙り出されていた。V2に貢献した左腕クライド・ライトの退団も先発陣弱体化に
拍車をかけた。残されたのは堀内恒夫、加藤初、西本聖といった右腕揃い。先発と救援の両刀使いだった新浦寿夫を先発に専任したとしても
ライトに代わる左腕先発の補強は急務といえた。
79年に入団したリック・クルーガーはライトと同じ左腕ではあったが、アメリカではメジャー通算17登板の2勝とマイナー暮らしが主で、直近
3年間の3A生活では殆どが救援登板だった。変幻自在のフォームに決め球のシンカーという典型的な救援タイプ、長島は早々と先発起用を
諦めた。4月は3登板のみ、5月は1日に幸運な来日初勝利以降、初先発を含む7試合に投げた。しかし防御率4.42ともう一つ、6月頭に
江川と入れ替わって二軍に降格した。
チームは前半戦、中日との首位争いでトップに立っている事が多かったが、7月に中日に奪首されると再びクルーガーが一軍に呼ばれた。
再昇格後はワンポイントなどショートリリーフでの出番が多くなった。だが結果は上がらず、7月以降の防御率は5.19。チームが8月に入り
Bクラスに転落すると、まだ来期を見据えるような時期とゲーム差ではなかったが、7日のヤクルト戦を最後にクルーガーは一軍のマウンド
から姿を消した。
79年の巨人投手陣において、先発左腕の勝利数は新浦一人の14勝だけに終わった。それも痛かったが、堀内、加藤、江川ら右の柱が
いずれも2ケタ勝利に届かなかった誤算もあった。ライトの退団は致し方ないにしても、小林の放出は江川獲得の意地と天秤にかけると、
損得としては如何ほどであったか。確かにその後の江川の功績を思えば、トータルで得ではあった。しかし仮に江川は獲れずとも、小林残留
の上に、ドラフトでも関係者が悔やんだという東芝府中・落合博満を予定通り2位以上で指名となったら・・・。仮の話に結論は無いが、少なく
とも76年から3年間で49勝という右のエースが抜けた大きな穴と左腕不足が、長島の解任を早めた事実は残った。 (了) ブラデントンキャンプからの帰りに
ポルノ雑誌を持ち込み、税関で止められて恥ずかしい思いをした東尾 1979 巨人〇度目の零封負け
1980 巨人〇度目の1点差負け 阪急は、この年から梶本が監督になったけど、あの抗議事件が無ければ、
この年も上田がやっていたのだろうか。 あと球団フロントとあまり関係がうまくいっていなかったという話もあった
ような気がする。 優勝した監督がシリーズ遅延で引責辞任
↑
今のオリなら考えられない話 >>313
>>315
年間チーム得点がワースト2位だったからな…
これじゃ今年のオリみたくなるのも無理も無い…
ちなみに最下位だった75もワースト2位、
93は3位ながら借金2で年間チーム得点ワースト1位 >>304
ブレイザーはこのあと古巣南海の監督になったけどそこではチーム低迷
やっぱり戦力たりなさすぎると監督が誰でも手のうちようがないな 江川が世間から非難轟々の嵐で謹慎生活で孤立してヒッキー化していた江川を金やんが
特訓でシゴいてシゴきまくった
血反吐吐くほどノックを受けて江川も吹っ切れたようだった >>309
落合きても、いきなり一軍はないとは思うが
1中畑2篠塚3シピン4王5張本6高田7落合8山倉 >>329
これだと、セカンド落合、ショート篠塚、センター高田、ライトシピンか? 中畑とオチでサードの定位置争いだろ。負けた方がトレード。
中畑の方が元気を買われ起用されたんじゃなかろうか?
オチはバッティングフォームをいじられ低迷 近鉄にプレーオフで3連敗で、結果として強い阪急の終焉の年になった
まあこの時点では阪急が翌年5位まで落ちるなんて
誰も想像していなかっただろうけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています