1979年のプロ野球
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西武は80敗ペースだったが引き分け12試合があったので73敗止まり
この年最多の大洋は130試合で実に17引き分け
3時間を超えた場合は延長戦に入らない時間制限ルールの導入で
この頃は接戦になってもやたらと引き分けばかりだったのは評判が悪かったね
最後まで試合や中継に付き合っても何だか時間の無駄だったような気分に >>133
2011年と12年の3時間半ルールでも、引き分け数は各球団当時と同水準だったな。
試合時間が総じて長引いているのだな。 >>129
あれは、森繁のセットポジションでの投球
テンポも見抜かれていたんだろうな。
森は、プロ初登板の試合途中で、セットポジ
ションからの投球を「制止してないから
次やったらボークな」と審判に文句付けられ、
以降リズムを崩してグダグダになったそうだ。
以降、森が必要以上に間を置くようになった
ことは想像に難くない。 オールスター明け以降の巨人の失速ぶりは凄まじかった 王天上、成績は期待外れだったが、球団の
アイデアは悪くないと思った。
門田を戸板で搬送する羽目にならなければ、
王天上ももっとのびのび打てたのだろうか。 中畑、篠塚が、高田や土井を追い越せるか
張本もそろそろ限界っぽいし
柴田の代わりは松本か
1中畑2河埜3淡口4王5柳田6篠塚7山倉8江川9松本 >>138
前半戦先発&複数イニングリリーフ大車輪で13勝上げた新浦の酷使による夏バテ失速も大きかった。 この年は開幕前の江川騒動が有名だけど、そのことで巨人に対する
野球ファンの冷ややかな視線というのはあった? >>142
冷ややかどころでは無かった様な。
江川の初先発でのラインバック逆転3ランや江川とのトレードで阪神入りした小林繁の対巨人戦
8連勝が敵討ちと称賛されたりと、巨人が完全に悪役って感じのシーズンだった。 で、すっかりヒールになった巨人は結局5位。
一言で言えば、「ざまあみやがれ」だなw >>143
江川が打たれたラインバックの3ランを
「天誅!」 と表現したスポーツ新聞もあったからね。
ある意味球史に残る悪役ぶり 江川騒動を起こした巨人への天罰
短期的には5位転落
長期的には落合獲得を逃したこと 広島の最終ゲームの巨人戦。
外木場がサヨナラ登板した記事を読んでびっくりした。
とっくに引退していると思ってたもんで・・・。
確かその試合の負けは江川だったと記憶あり。 江川デビュー戦で、巨人のダッグアウト上に
出された横断幕
「江川君 王さんをお手本に!」
…江川としては、自分を「おい、嫌な奴が
飯喰ってるぞ!」と罵り、自らの記録のために
バースやローズやカブレラを敬遠攻めする
ような姑息な人間を手本にはしたくないだろな… 落合は、ロッテと山内と稲尾だったから三冠王を取れた
いきなり王と対決して勝てるわけはない 巨人は頼みのOH砲がそれぞれ戦線離脱を余儀なくされて
(王は8月末に肋骨骨折&右足首ねんざ、張本は6月下旬ごろから左目の視力障害)
一気に失速。売り出し中だった中畑も9月の終盤に骨折し完全終戦。
それでも、王は怪我からの復帰初戦で自身唯一となる代打ホームランを放っている。 柴田、高田、吉田とか
V9戦士が一気に衰えたからな
その割に、まだ松本も中畑も篠塚も力不足だった
だからこそ伊東キャンプをやった
で80年
投手陣がようやく見えたところで長嶋茂雄解任 >>152
この前年から打撃面で衰えだしてる。79年は張本同様、6月ごろから
怪我で戦線離脱し、復帰してからは中畑が三塁で起用され出していたため、
元のレフトに戻って張本の穴を埋めてた。
あと、シピンと柳田もけっこう頑張ってはいた。 もし落合がすんなり巨人に入っていたら、中畑と落合でポスト高田を
競う展開になったのか?
伊東のキャンプメンバーにも当然、落合は選ばれたろう。
どうなったろうか? >>154
上手く育てば一塁、三塁が同級生コンビでもある落合、中畑で埋まって、原は東海大と繋がりが
深いとされる西武が囲い込むって形になったかもしれないけど、さて。
或いは王引退までの期間、二塁が落合、篠塚の併用になったかも? 原が巨人以外の球団でも見たかったな
西武に行ったら、清原と一緒になるのか
1辻2平野3秋山4清原5原6デストラーデ7石毛8伊東9田辺
完璧過ぎる 5位とはいえ、広島以外はほとんど混戦だった訳だし
シピンは活躍したのに、何故か解雇された
張本はやっぱり、最終的には巨人には合わなかった
長嶋茂雄って、落合もだけど
意外に切るときは理不尽だからな
情はありそうでない 張本は目の病気から復帰しても体がなまり気味だったのか動きが重たそうで
素人目にもあまり打てそうな雰囲気ではなかったな
絶好調の小林に手も足も出ないで三振していたのは対照的だった
球宴後は江川と西本がずいぶん好投するようになって7勝づつをマーク
チームの牽引役的存在になっていたけど
野手陣の落ち込みがそれ以上に激しかったね 長嶋茂雄の第一期は、投手陣だけは次につながる構築はできた
江川、西本、定岡、新浦、加藤初、角
あとは野手陣のみの状況で、伊東キャンプに中畑や篠塚や松本を連れ鍛え上げた最中に解任となった >>157
翌80年のシピンはパッとしなかったな。阪神戦でサヨナラHR打ったのだけは覚えてる。
そのシーンラジオで聞いて深夜録画で見た。この頃の日テレは月金は生中継せず深夜録画のダイジェストだった。 >>157
シピンは残留で柳田が切られた(阪急へトレード)。
序盤戦は6月まで江川一軍出場自粛、小林放出で先発が手薄になったため、
78年限りでクラウンを退団した石井茂雄を急きょテスト入団させてた 巨人の打線に関しては
他の打者がダメでも普段なら王が何とかしてくれたんだが
その王も衰え始めたため(特にHR・打点・四死球が例年と比べて激減)
フォローができなくなった感じだ >>161
石井の加入で王がチーム最年長選手の座を奪われたんだよね。 40歳の大ベテラン、石井茂雄のスローボール投法は結構びっくりしたな
王は一本足打法転向後初の無冠に終わって
現役を何歳まで続けられるかという話題を頻繁に目にするように
本塁打にこだわらなければ42歳くらいまで現役可能という
専門家の意見が多かったけど良くも悪くもそうはならなかった >>162
1977 .324・50本・124打点→1978 .300・39本・118打点→1979 .285 33本 81打点
と図抜けた超一流ホームラン打者→他球団並の4番打者→並の強打者(実際、打撃3部門全てで同じ
一塁の大島(中日)を下回った)と年々衰えていった時期だもんなぁ。 戦前生まれのベテラン組が目に見えて後退していくのとは対照的に
24歳で上り調子だった掛布は48本塁打で本塁打王を獲得、オフには結婚とバラ色の一年に
夢中で打っていたら皆が驚くような本数に到達といった感じだったけど
常に周囲からこのレベルの成績を期待されるようになってしまったのは
本人の負担になって結果的に選手生命を縮める一因になったようにも
まあ、そんな先のことは分からないし、打てる時にどんどん打っておくのは当然だが この年ホームランを量産している最中でも、掛布自身はインタビュー等ではことあるごとに「僕はホームランバッターではないので」とコメントしていた。
但し田淵がいなくなったことで、それこそ「気持ちの中で」ホームランを以前より意識するようにはなったんだと思う。
この時期の掛布は毎年首位打者候補の筆頭に挙げられていたが、本塁打王を3回も獲ったのに結局首位打者にはなれなかったのも少々意外だった。 上田が前年の日シリ絡みで辞任、梶本体制となった阪急は
加藤英司が首位打者・打点の二冠、本塁打も顎の死球骨折で欠場した
マニエルを猛追撃するもあと2本届かず三冠王になれなかった。
投手では山口が故障で一気に衰えたのが痛かった。 掛布も翌年は一転して故障と大スランプで散々なシーズンに
スター街道を驀進中だったのがたった一年でここまで一変するのだから
プロ野球は怖い世界だと思ったな
そこからまた復活はしたけど
アピールポイントの一つだった溌剌としたプレーぶりが消えてしまって
もう自分の打撃成績の帳尻合わせにしか興味が無いといった様子だったね >>165
王の打撃成績が78年から一気に下降線を描いているな 77年の世界新記録達成でモチベーションが低下したとか? 鈴木啓示の被本塁打が多かったのはこの時期の
日生&藤井寺専用「飛ぶボール」のせいでもあったのだな。 >>168
それでも通算の勝率では近鉄を上回ってたしこの時点では前年までの強さは健在だったんだが
プレーオフでまさかの3連敗は想像できなかった 当時(子供の頃)「日本で一番球の速い投手は山口」という話を耳にしたので
登板数の多かった近鉄の山口のことだと思っていた >>172
上田-梶本-上田の流れは最近の某セ・リーグ球団と同じだ 近鉄は日生球場が手狭だったこともあってか平均より飛ばないボールを使っていたのが
この年から飛ぶボールに方針転換してチーム本塁打が一気に200本近くまで増加
日本の場合は球団が使用球を好みで選ぶことが出来たので
球場の大きさよりもボールの違いの影響の方が大きかったね >>156
その布陣で、原にどこを守らせるんだよ。
レフトを守らせたいんだろうが、はっきり
言って、原の外野守備力では、西武黄金期
のレギュラーは到底無理。
まだ、指名打者にした方が、実害が少ない。 小林が22勝だもんな
当時の巨人ファンはすごく複雑だったんだろうな 小林は人気もあったし >>177
関西の女性でそれまで野球にも阪神にも興味なかった人も、
小林繁移籍をきっかけに阪神を応援するようになったと。
スタイリストと言われた風貌に加え、
「よくわからないけど巨人・江川の悪徳行為の被害に遭った人」という同情もあり 小林も毎年二桁勝利を続けていたのも関わらず4年後に突然引退
常に好成績と熱投を期待されていたのでこの辺りが引き際と本人が語っていたけど
阪神で野球をするプレッシャーも相当なものかも
田淵も掛布も不振の年はずいぶんファンやマスコミから叩かれていたね 阪神ファンって密着性が強いからね
巨人とかは案外淡白だけど
あと、関西メディアは阪神メディアと言っても過言でないし
毎日見られてる感覚だから >>179-180
小林繁が近鉄コーチの頃、阪神時代を振り返る取材で、
「死のロード? うるさいファンの目を気にせず飲み食いできるから選手は大喜び」
「選手と地元ファンの距離が近くて濃いから、憎悪・骨肉の争いにも発展してしまう」 と。
巨人時代と比べてファンとの関係性が、全く違ったんだろうね 小林が阪神に来たとき「阪神には勝つための伝統がない」と言い放ち、
それに掛布がムカついて小林を嫌ってたって話を
去年テレビでやってだけど、小林の言ってるのはほんとのことじゃん。
小林が言うには、勝てる野球やろうと選手が決起集会開いて
結束する機運が盛り上がった時でも掛布は一度も来なかったとか。 >>182
川藤はそんな小林に感謝していたっけ。
「1985年日本一になったのは、小林が阪神に意識革命を起した結果」とも。 「別に勝てなくてもかまへんやん」
こういうダメ虎独特の雰囲気が、星野やブレイザーとかにやる気を無くさせた
でも、時々こういう本気で勝ちたいってのが批判し、何だよ今に見てろと内部反発を起こす時、大概強い
藤本青田時代の阪神もそう
ことあるごとに、巨人は〜言われ、今に見てろと反発したことが優勝につながったとよっさんも言ってた
他球団でなく、この球団は内部の諦め体質が最大のガン せっかく星野が意識を変え、突っ込みどこありながらも岡田真弓はまだ勝ちたいんやパワーがあったのにまた自分から弱くなりに行ったからな
悪意識の象徴たるやつがGMだし、何より坂井がなあ
坂井と名前がつくやつはもう野球運営すんな 阪神と言えばこの年は小林だけでなくライオンズから移籍してきた
竹之内・真弓・若菜の活躍もインパクトがあったな
若菜も強肩と打撃の良さに長身で見栄えがしたけど3年後にやはり自ら退団
阪神は正捕手がいなくなってずいぶん困っていたが
江本、若菜、小林と主力選手が次々に突然辞めていっても
球団内部で責任問題にならなかったのは今考えても不思議だね 江本 ベンチがアホやから・・
小林 13勝でいきなり引退
若菜 気づいたら大洋にいた しかし掛布はチーム内でそっぽを向いていたという話が多いね
飲酒運転騒動よりもそっちの方が原因で
引退後は球団からずっと声が掛からなかったんじゃないかという気も 小林繁も阪神暗黒時代には「1985年の日本一こそが阪神低迷の元凶」みたいに言っていたらしいからなぁ…。 打つだけで守れない走れないとマニエルを放出したヤクルトは
後釜としてスコットを獲得。確かに外野守備、機動力、長打力を
兼ね揃えてはいたが、他の選手が広岡の管理野球
(広岡が呉出身なため、海軍式軍隊野球とも当時言われてた)
に反旗を翻し、当時の松園オーナーも阪神フロント同様、
ぬるま湯ファミリー主義者(チームを常勝化させる意識が希薄)
だったために一気に弱くなった。 なんでぬるま湯オーナーっていつまでも出続けるんだろうな
勝って困ることでもあるの?読売に会社の悪口でも書かれるとか?
再編過ぎても変わらない、勝ちが最大のファンサービスなのに 阪神のフロントが「2位でいい」と言ったのは優勝すると選手の給料を上げなければいけなくなるのをマジで恐れていたから。
ヤクルトのオーナーが「2位でいい」と言ったのは強くなり過ぎると巨人ファンがヤクルトを買ってくれなくなり本社の売上が落ちるのをマジで恐れていたから。 >>191
ヤクルトの場合、本業の商品販売の売り上げに響くとマジで考えてたそうだ。
それに当時は常勝化しても客足がイマイチな阪急があった。 今もW坂井とか宮内とかハジメとか、前は久万とか…
勝つのがイヤなら身売りすりゃいいのに ヤクルトのスコットのダイナミックな外野守備は話題になったね
打撃でも中距離打者として期待通りの活躍を見せたけど
前年絶好調だったヒルトン、大杉、若松が揃って不振で最下位転落
翌1980年は2位に再浮上
主砲のマニエルを放出した方向性は案外的外れでは無かったようだけど
広岡の軍隊式管理野球は負け始めるとチームの不満が一気に噴き出て
試合どころではなくなるのが難しい所だよな 勝ってるときは、反発が野球に向くけど
負け出すと、反発だけに陥るからな
だから西武時代も、森1年目は自主性に変えた
しかし日本一になると、どうしても維持という課題が上がる
だから、軍隊式管理野球が悪いわけでもない
要は上の判断次第
松園はぬるま湯だったが、堤は賛成派だった 80年は2位に上がったが、それは中日と巨人が世代交代の過渡期と、阪神が掛布怪我による漁夫の利もあった
で、翌年からは今度は、ヤクルトが世代交代の課題が持ち上がり、広沢や池山が来るまで最下位に落ちた >>196
広岡は西武時代も当然反発は受けた
ただヤクルト時代のようなことにはならなかったな
西武時代もフロントともめて辞めたけど成績自体は3回優勝で唯一優勝を逃した84年も3位と上々だった >>198
ヤクルトの80年の2位は、梶間→阪神、鈴木康→中日、尾花→巨人、松岡→大洋というカード別の投手起用がズバリ嵌ったから。
但し優勝した広島に通用する投手が全くいなかった。 79年ヤクルトは安田が怪我(確か半月板損傷だったか)で
前年の15勝からわずか1勝に終わったのも痛かった。
広岡と対立し、トレードに出されそうになって松園に残留を直訴、
残れたのだが・・・ 田代に開幕戦3発打たれたのがケチの始め
そこから8連敗
富山での大洋戦でようやく連敗脱出
確か同じ日に西武も開幕12連敗で止まった この年の田代は打率.235の19本塁打
レギュラー3年目、開幕戦に大暴れして出足好調だったのに大スランプの一年だな
穴も多いが飛ばし屋で人気もあったけど
この頃は中距離タイプの打者が本塁打数を稼ぎやすい状況だったので
田代みたいなタイプは周囲からの評価が低くなりがちで何だか不遇だった 阪急ブレーブス
前年不振だった加藤(英)が4番で完全復活
脇を固める、3番島谷5番マルカーノ、6番には高井
かなりの強力打線 >>200
最下位からチームを浮上させる際の常套手段である「首位チーム(前年優勝チームとか所謂常勝
チームとか)との勝負は捨て、下位チームから勝ち星を頂く」ってパターンの典型ですな。
そんな戦い方は関根監督時代のヤクルトとか、去年のDeNA等と見受けられ、しばしば「○○贔屓」
等と叩かれるけど、チーム浮上の手法としては間違っていないかと。
下位低迷のチームで上位チーム打倒!と意気がっても、1994年シーズンの近藤監督率いる横浜
(巨人と前年日本一のヤクルトに勝ち越したものの、他チーム戦での取り零しの多さより得失点差
プラスの「史上最強の最下位」等と皮肉られる始末)みたいになるだけだし(´・ω・`) 谷沢(一塁)が長期離脱した中日は、大島を一塁にコンバート、
大島がいた三塁には外国人のギャレット(広島にいたギャレットの実弟)で
穴を埋め、宇野や小松も台頭してAクラスを確保に成功。
一方、門田(ライト兼DH)が長期離脱した南海は王天上をDHはいいものの、
ヤクルトからトレードで獲得した山下がさっぱりで、わずか1年で
元のヤクルトに復帰した。(たぶん広岡の積極トレード策の煽りかと)
結局最下位は脱出したものの5位に終わり、ホークス暗黒時代は
いよいよ泥沼化へ・・・ この年はまだレギュラー試験中といった感じだったけど
遊撃手というと中背で小技が効く選手という先入観があったので
大柄で見た目が三塁手タイプの宇野はずいぶん異色に見えたな
この年のセ・リーグでは宇野と中畑がレギュラー獲得
二人ともアピール度の高さで球界の名物選手になっていったね >>208
特に中日のショートは一枝、広瀬、正岡と永年いかにもいぶし銀の守備職人タイプが続いていたから、宇野の登場はある意味革命的だったな。 藤沢・小松・遠藤・江川の新人王レースも話題になったが
受賞した藤沢は結局この年限りの活躍で
逃した3人が80年代を代表するエースになっていったのは皮肉だな
藤沢は先発で13勝を挙げているから妥当な選出ではあったけど >210
正岡から宇野という両極端にも見える方針転換は考えてみるとすごいね
大型遊撃手なんてアメリカ野球的発想だ
隣の二塁を守る高木守道も頑固職人タイプだけど
自分とはまるで違うタイプが連携プレーの相手になって戸惑っていたかも >>211
この4人の中で最年長は26歳の子連れルーキーだった藤沢。
それ以前に4球団のドラフト指名を蹴っ飛ばした過去を持つ回り道をしたけど、この年の「新人」だったのも大きかった。
小松と遠藤は投球内容のインパクトでは藤沢を上回るものがあったが、共に2年目だったのが影響したかな。
江川はイメージの問題が大きかったのは確かだが、これまた1浪していたのもマイナス材料だったような。 小松は既に高校野球で全国区的な知名度があったのに続いて
プロでも抜群の速球を披露したインパクトは大きかったけど終盤やや息切れ
遠藤は巨人戦で15奪三振をマークするなど実力と知名度急上昇も
先発救援兼務で大卒2年目というのはハンデになったのかも
江川は初登板が6月で投球内容が軌道に乗り始めたのが8月以降と出遅れが響いていたね 広岡監督は、森・植村両コーチを「クビにしない」という球団社長
との約束を反故にされたのに怒って退団。
「あの社長は弁護士の資格持ってるんですよ?弁護士なのに嘘ついたんですよ!」
って後年、口とんがらかせて語ってた。 ヤクルトも優勝監督が辞めるのは世間体が悪いので前年は慰留したが
この年はもう広岡が辞めるように仕向けようという態度があからさまだったな
広岡は球団組織がもっとしっかりしている筈の西武でも
片腕だった森と喧嘩別れをしたあげくに
根本とも仲がこじれて自分からいきなり辞めていたけど
誰が相手でも妥協という文字は存在しないという感じだ(笑) 青バットで有名な大下弘が亡くなったのもこの年だった。
脳梗塞で倒れ、リハビリ中に心筋梗塞と当初は報道されてたが、
後年になって自殺だったと報じられた。 >>215
依頼者の利益の為には
嘘もつくのが弁護士なのを広岡は知らなかったのかw
件の球団社長って
ベレー帽にパイプ煙草がトレードマークの佐藤って御仁だったかな >>216
現役時代は、川上に睨まれ、最期もバレンタインに睨まれ
典型的に組織に向かない性格なんだろう 中日の与那嶺と近藤貞雄の間に挟まった、中利夫監督の印象が全然ない。 この年の混戦ペナントレースは中盤戦になると巨人に代わって主に中日が首位
小松の快速球や藤沢のパームボールが話題になったが
目立つ位置にいた割には中監督はほとんどスポットが当たらなかったな
後任の近藤監督が強気な言動で報道を賑わせていたのとは対照的だった 三沢、星野もがんばってたね。
松本幸行が完全に使えなくなって、オフに阪急にトレード。
虎ファンには憎い奴だった。 ギャレット(中日の方)は可もなく不可もなくでこちらも印象がなかった。 >>224
松本は都が出てきたし、大阪生まれだから、
最後の花道って感じで。
>>3 のクルーガーが、オープン戦か開幕直後の早い段階に、
いしいひさいちのマンガで「スカ」扱いされて、
それが見事に当たってたというのを覚えている。 ギャレットの弟が中日に入ったのかと思ったら
マーチンはいつの間にか大洋の選手になっていた
シピンは大洋戦で以前のチームメイト相手に乱闘をやらかすし外国人選手はやたらと忙しい 藤沢の110km後半のストレートを空振りする
中畑が見えます 今年、広島は79年みたいに巨人の犬に徹しながら優勝するかもな 中畑と中井がNNコンビと言われて巨人では貴重な若手注目選手扱いだったな
元気者の中畑と比べると中井は地味でその後も守備要員止まりだったが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています