1979年のプロ野球
阪神タイガース
1真弓2榊原3掛布4竹之内5ラインバック6スタントン7佐野8若菜
ショート→藤田平から真弓
セカンド→中村から榊原 西武開幕12連敗。捕手野村が日本ハム島田に2盗、3盗、本盗を許す。 西武観客動員パ過去最多(だったと思う)
負けてもお客さんが入るという状態だった。 広島カープ
1高橋2木下3ライトル4山本浩5水谷 6衣笠7ギャレット8水沼
ショート 大下→高橋 ヤクルト森ヘッドコーチ、植村投手コーチ 休養
広岡監督怒って監督辞任 >>8
ショート三村→ヨシヒコ
セカンド大下→三村
じゃないか? >>9
辞任ではなく解任だと発表しろと広岡はゴネた。 巨人は6月初めくらいまで首位だったような気がする
伊東キャンプ マニエルを何故か解雇したからな広岡は
まあ日本一になり、独裁体制を作ろうとしたツケだな この年の西武の戦いぶりからは
3年後に黄金時代を築くようなチームにはとても見えなかったな 江川事件で阪神に移籍した小林繁がこの年22勝
うち8勝を巨人から挙げる
一方巨人は5位に低迷、秋に地獄の伊東キャンプ 年号も中途半端
リアル世代でないがなにも印象ない年と思う >>14
堀内が突如不調に
張本は目の病気
王と中畑が怪我で離脱 >>22
江川が巨人入団 小林繁が阪神へトレード
西武ライオンズ誕生 本拠地を福岡から所沢へ
近鉄 パ・リーグ初優勝(これで全12球団が優勝を経験)
広島 初の日本一 大洋が2位と確変した(ホエールズとして横浜移転後の最上位) >>20
江川って、もの凄い”負のオーラ”の持ち主なんだなw 中日では藤沢が新人王に。決め球のパームは
掛布があれはそうそう打てないと脱帽するほどの魔球だった。 テレ朝で開幕前に「泣くな小林、江川に負けるな」という特番が放送された。 >>29
wwwwww
なにこのアンチ巨人ホイホイ番組は >>29
「泣くな!小林投手」は確かABC制作だったと思う。
小林に同情する人も多くて、女優の吉永小百合は
「江川が入ったんで、巨人ファンやめます」宣言して話題にもなったw >>32
巨人ファンやめて西武ファン。セリーグは阪神を応援しているらしい。 >>25
終わってみたら、優勝した広島のマジック対象だった中日を抜いてタナボタで運良く2位に。
夏場には近藤唯之が週刊誌にて「今年のセリーグは西高東低」とコメントしてたのが印象。 ヤクルトの安田が、突如オーバーハンドのスピードボール勝負に転向して、全く結果が出せなかった。
球界7不思議の1つであった。 記憶が確かではないが
プロ野球中継で、昔はネット裏からのアングルだったのが
今のようなセンター方向からの中継に変わったのって
この頃じゃなかったかな。 >>36
確か前年にフジが大リーグ仕込み(当時フジは大リーグ中継を熱心に放送していた)という格好で
始めたんじゃなかったかと。
実はその何年も前から東京12で実施していた訳だけど。 >>14,23
長嶋曰く「V9戦士等のベテラン連中に引導を渡す為、敢えてベテラン中心で戦ったシーズン。
ホラ始めは調子よかったけど、夏場過ぎからスタミナ切れおこして下位低迷したでしょ。」とか
何とか。 >>37
それじゃあ、球速表示を最初に始めたのもフジだったの?
79年に後楽園で江川が投げてる映像では
日テレはもう球速表示は出ていた。 1978年からだと思う 王の800号の映像もセンターカメラからだし >>40
前年の78年から。
実はそれ以前から実験放送の名目で、年数試合はセンターカメラからの中継が行われている。
NHKは74年のオールスター第1戦、77年頃な高校野球。
日テレは王のホームラン世界記録の掛かった打席。77年の日本シリーズ。
TBSとテレ朝系は記憶にないが、フジ系は関西テレビのパリーグアワー、
77年の神宮でのオールスター第3戦で実施している。 以前G+で放送した78年の開幕戦(山倉デビュー)がセンターカメラだった 79年巨人
前半
1柴田2高田3張本4王5シピン6柳田7河埜8山倉
後半
1中畑2高田3柴田4王5淡口6河埜7山倉8篠塚 大洋(応援団)が初めて全打者鳴り物入り応援を始めた年
ドンドンドゴドゴドンドン 広島は前半調子良くなくてオールスター突入時は4位だった
しかし前年同様8月以降に猛烈に勝ちまくって一気に大差をつけた 近鉄マニエルがロッテ八木沢から顎にデットボールを食らう。
翌日の試合で近鉄応援団が「きたないぞ八木沢、江川と同じ作新学院出身」という
横断幕を掲げる。 >>46
巨人に次いで阪神もロード中に失速。阪神は肝心の優勝より巨人叩きを選び、
小林を天王山と謳われた広島戦に登板させず敗れたのが原因。 >>49
阪神はスタントンが三振ばっかりで
打たんトンと呼ばれてたなw >>49
死のロードは10勝5敗1分けとむしろ好成績。
広島に1ゲーム差に迫って甲子園に戻った途端に
4試合連続完封負け(広島との首位攻防戦2試合含む)で失速。 南海ホークス
新井、片平が覚醒。
メイも安定感があり、門田のアキレス腱断裂での離脱は痛い。 日本坂トンネル事故の影響で野球道具が届かず試合中止 大洋は基、マーチンが加入し打線に厚味が増したが、
松原の衰えが顕著になったのと田代の不振で相殺された。
それでもミヤーンが規定打席ギリギリだったとはいえ、
球団史上初の首位打者に。 大洋は前年の戦いぶりからそれなりの戦いができそうな感じはあった
広島に負けすぎたのが誤算だったが >>54
大島(中日)も
キャリアハイ
打撃成績で王を上回りながらB9に選出されず 広島打線は前年の強打線から軒並み成績低下
主力で3割超えは高橋慶のみ
HR30本超えは山本浩のみ >>61
高橋慶彦はこの年、今なお日本記録の33試合連続安打を達成したが、
達成したその試合(7月末の巨人戦)で負傷し、
しばらく欠場を余儀なくされてそれ以上記録を伸ばせなかった。 西武の核弾頭マルーフ
打率2割9分 18盗塁
まずまずかな。 >>67
時代の先端を行くチームカラーを廃止したのは情けない限り。
みずほ銀行の暗黒カラーを早急に除去すべし。 しかしバックネット裏のカメラって見にくくて堪らないな。
あんなアングルでよく数十年もやってたね。
メジャーは60年代くらいから、センターカメラなのに。 新生・西武はオープン戦に参加せず海外キャンプ続行。
ぶっつけ本番で開幕を迎えたのが失敗。 >>69
キャッチャーからのサインが丸見えになるのでやめてくれという意見があり
なかなかセンターカメラにできなかった この年も翌年もカープが優勝してるけど巨人に負け越してるんだよね
それが理由であまり評価していない 西武球場第一号が土井でも田淵でも野村でもなく意外に立花だった。
西武の内野手陣のボロボロ。 >>60
大島のキャリアハイは
本塁打王を獲得した1983年ではないかと >>75
本塁打は83年と同数
打率 打点 安打数全て79年が上回っている 内野の司令塔として期待された元ロッテの山崎が、この年は故障で欠場がちという事情もあるにはあったが、
イージーフライまであっさり落球する西武のザル内野ぶりはそれ以前の問題だった。 >>73
V9の73年巨人は中日と大洋に負け越してた。 >>80
73年のセは空前の大混戦ゆえ全ての球団が2球団(以上)に負け越している。
逆に最下位の広島でも巨人阪神以外の3球団には勝ち越し。 前年後半に猛チャージを見せた広島が優勝候補に目されたが、衣笠の不振などで出足につまづく。衣笠は5月末
の岡山でスタメンを外れ連続フルイニングがストップ、8月1日の巨人戦ではあの西本のシュートを背中に受け肩甲
骨骨折。(西本はこのイニング3死球で両軍乱闘に)ついに連続試合出場もここまでか、と誰もが思った。
が、翌日代打でフルスイング三振、程無くスタメン復帰して打ちまくりチームも首位浮上しあっと言う間に独走態勢に。
西本は87年の最後の対戦の試合(後楽園公式戦最後の試合)でも衣笠にホームランを献上しカモにされていたが
このデッドボールが引け目になったのかも。西本の兄貴が広島でほぼ同時期に内野で入団してたが。 この年の広島は5位巨人相手に9勝15敗だったのか
古葉カープは元々巨人には相性が悪かったとはいえ、ちょっとしらけてしまうなw
江夏の21球の影響で格好よく締めくくれたからまだ良かったけど 広島初優勝、巨人最下位の75年でも勝ち越しはしたが14勝11敗1分。
ちなみに巨人サイドから見ればこの年の球団別対戦成績で最も善戦したのが広島戦。 この年と翌年の広島は2位チームと最下位チームにめっぽう強かったのが功を奏した
直接争ってきた相手を蹴落とすこととビリのチームに勝ちまくるというある意味一番大事な相手に勝ち続けられたのが良かった 広島って86年を除くと巨人が大コケした年しか優勝してないよね 特に古葉の4回はいずれもそう
ヤクルト時代の野村もだけどこの2人は過大評価だと思う >>88
古葉は野村門下生
だから手法はほとんど同じ いみじくも1990年頃だが江本が「広島は巨人が調子を上げると失速するチーム」と江本にしては
(失礼)鋭い事指摘していたな(w)。
野村ヤクルトにも同様の事は言えるかと。 よく「ヤクルトは巨人の犬」とか「横浜(大洋)銀行」とか言われるけど、本質的な部分で巨人コンプレックスが一番根深いのは広島なんだと思う。 それでも広島は80年代あたりは巨人の脅威と言われていた
不在→古葉〜阿南広島→野村ヤクルト→不在→落合中日→不在が一般的な見立てなんだよな この頃の広島は高橋慶彦を中心とする機動力が一つの売りで、それが巨人の脅威にはなっていたが、こと巨人戦になるとその機動力が不発の印象がある。
広島が巨人に勝つのは、78年の札幌の試合に代表されるような巨人の投手陣の自滅によるパターンが多かった。 それでも、巨人がどん底に落ちてくれて
個人的には満足しているw 優勝決定試合と翌年の開幕戦と、広島は小林繁をカモにしていた印象。 近鉄がプレイオフで阪急にストレートの3連勝で優勝決めた時は、
西本監督が短期決戦に弱いジンクス克服したと思ったが…。 前年日本一のヤクルトが一転して最下位転落。
一体何があったんだろう? 帽子の横に三本線があったけれど
あれは何だろうね? >>101
そもそも前年でも開幕から129試合連続得点(完封負けなし)を記録する程の強力打線を擁し
ながら、得失点差が僅か16と歴代優勝チーム中最少(当時、後に1999年ダイエーが更新)と
いう投手力の弱さで、投打のバランスが一つ狂うとBクラスでもおかしくなかった位だしなぁ。
そんなチームからチーム内ホームラントップのマニエルが放出された時点で下位転落が当然視
されていた様な。 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
よく分からないけど、流刑者の白丁が密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
今では通称在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
遠くからでも、わざわざ通称在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。 前年に地元球団ライオンズを失った福岡の野球ファン(特に古い世代)は
開幕時に寂しい現実を思い知らされていた
1979年春の雑誌に載っていた川柳 「春来ても ライオンいない平和台」 >>102
セ・パ創立30周年を記念して、オールスター戦で着用された帽子 >>100
日シリも2戦目までは良かったんだが
3戦目に負けてからおかしくなった 西武初年度でクソ弱かった。
負けた試合後、へらへらしてた福岡時代からの選手にブチ切れて
説教してたのがロッテから移籍した山崎裕之。 近鉄といえば、香川正人も山口哲治も実質この年限りだったな。 木俣(中日)3割1分2厘で打率5位は良く頑張った。 第2節の阪急×西武3連戦の3試合目が平和台開催。
全戦西宮でやればいいものを集客目的の為に1試合だけ福岡へ。
西武はその2日後、西武球場で初試合だった。 江川のせいで小林繁がトレードに…。
確かキャンプイン直前じゃなかったか? ギザギザラインユニは翌80年年のキャンプでも復活してたね。
79年シーズンインと同時に練習用に格下げだったんだろうけど、
連続Bクラスで元に戻したのかとw ルーキー岡田のギザユニも貴重 スピードガン本格的に導入
後楽園球場は辛い
川崎球場は一番辛い
なかなか140q/hでないよ
絶対終速度だな >>119
この前江川のプロ入り3試合目の登板を見たら直球が125〜135km/h
たぶん当時ほぼリアルタイムで見ていたけど、140km/h出たら凄いと思っていた。 江川の投球は、終速の一瞬でグーンと速度が伸びるから
ガンではわからないんだと思う
ガンで135でも終速はかなり伸びるから、あんな速球でとなるが
恐らく、初速と終速では、かなりの開きはあると思う
これがいわゆる、ホップする球なんだろう
一時期の藤川球児もそうだった シピン(巨人)3割1分3厘 27本 74打点
ミヤーン(大洋)3割4分6厘 6本 41打点
セカンドベストナインはやっぱりミヤーンか。。。 西武球場開幕戦の西武の守備は「悲惨」の一言。
特にショート益川は、折角のスタメンだった
のに、小学生以下のひどいエラーを連発し、
結局この試合限りでプロから消えた。
よくこんなんでプロになれたな、てレベルの
選手だったな。
山崎が復帰し、日ハムから行沢を獲得して
多少内野守備は良くなったけど。 既出だったね悪い。。
開幕間もなく、西武球場に来たビジターチーム
の選手が、ダッグアウトに来ても暖房器具
らしきものがないため「寒いぞゴルァ!」って
文句言ってると、足元から温風が吹いて来て
ビビったそうだ。 この年の広島は評判良くないけど5月20日の時点で首位巨人と6ゲーム差を逆転しての優勝で
当時のセリーグでは歴代2位の記録
山本浩二衣笠の調子が悪くイメージが良くないんだろうな 野村も経験とリードを称賛する向きもあったが、もう二塁に送球するのがやっとの状態
この年の西武ほど、守備の重要性を分かりやすく教えてくれたチームは存在しないかもな >>128
既出だが日ハム島田に2盗、3盗、本盗をこの年の6月に許している。 弱肩だと野村よりも81年の吉本の方が酷かったな。
吉本がもう少ししっかりしてれば西武の初優勝は82年でなく81年に
なされていたかも知れない。 この年の西武の負け数って73敗だったんだね。
もっと酷いと思ってた。80敗は余裕でしてると思っていた。 >>126
前年の最多借金12からの大逆襲があったから、
いずれは上がってくるだろうと見られてたからね。
優勝チームの借金持ち経験数6はセでは最多だったかな? 西武は80敗ペースだったが引き分け12試合があったので73敗止まり
この年最多の大洋は130試合で実に17引き分け
3時間を超えた場合は延長戦に入らない時間制限ルールの導入で
この頃は接戦になってもやたらと引き分けばかりだったのは評判が悪かったね
最後まで試合や中継に付き合っても何だか時間の無駄だったような気分に >>133
2011年と12年の3時間半ルールでも、引き分け数は各球団当時と同水準だったな。
試合時間が総じて長引いているのだな。 >>129
あれは、森繁のセットポジションでの投球
テンポも見抜かれていたんだろうな。
森は、プロ初登板の試合途中で、セットポジ
ションからの投球を「制止してないから
次やったらボークな」と審判に文句付けられ、
以降リズムを崩してグダグダになったそうだ。
以降、森が必要以上に間を置くようになった
ことは想像に難くない。 オールスター明け以降の巨人の失速ぶりは凄まじかった 王天上、成績は期待外れだったが、球団の
アイデアは悪くないと思った。
門田を戸板で搬送する羽目にならなければ、
王天上ももっとのびのび打てたのだろうか。 中畑、篠塚が、高田や土井を追い越せるか
張本もそろそろ限界っぽいし
柴田の代わりは松本か
1中畑2河埜3淡口4王5柳田6篠塚7山倉8江川9松本 >>138
前半戦先発&複数イニングリリーフ大車輪で13勝上げた新浦の酷使による夏バテ失速も大きかった。 この年は開幕前の江川騒動が有名だけど、そのことで巨人に対する
野球ファンの冷ややかな視線というのはあった? >>142
冷ややかどころでは無かった様な。
江川の初先発でのラインバック逆転3ランや江川とのトレードで阪神入りした小林繁の対巨人戦
8連勝が敵討ちと称賛されたりと、巨人が完全に悪役って感じのシーズンだった。 で、すっかりヒールになった巨人は結局5位。
一言で言えば、「ざまあみやがれ」だなw >>143
江川が打たれたラインバックの3ランを
「天誅!」 と表現したスポーツ新聞もあったからね。
ある意味球史に残る悪役ぶり 江川騒動を起こした巨人への天罰
短期的には5位転落
長期的には落合獲得を逃したこと 広島の最終ゲームの巨人戦。
外木場がサヨナラ登板した記事を読んでびっくりした。
とっくに引退していると思ってたもんで・・・。
確かその試合の負けは江川だったと記憶あり。 江川デビュー戦で、巨人のダッグアウト上に
出された横断幕
「江川君 王さんをお手本に!」
…江川としては、自分を「おい、嫌な奴が
飯喰ってるぞ!」と罵り、自らの記録のために
バースやローズやカブレラを敬遠攻めする
ような姑息な人間を手本にはしたくないだろな… 落合は、ロッテと山内と稲尾だったから三冠王を取れた
いきなり王と対決して勝てるわけはない 巨人は頼みのOH砲がそれぞれ戦線離脱を余儀なくされて
(王は8月末に肋骨骨折&右足首ねんざ、張本は6月下旬ごろから左目の視力障害)
一気に失速。売り出し中だった中畑も9月の終盤に骨折し完全終戦。
それでも、王は怪我からの復帰初戦で自身唯一となる代打ホームランを放っている。 柴田、高田、吉田とか
V9戦士が一気に衰えたからな
その割に、まだ松本も中畑も篠塚も力不足だった
だからこそ伊東キャンプをやった
で80年
投手陣がようやく見えたところで長嶋茂雄解任 >>152
この前年から打撃面で衰えだしてる。79年は張本同様、6月ごろから
怪我で戦線離脱し、復帰してからは中畑が三塁で起用され出していたため、
元のレフトに戻って張本の穴を埋めてた。
あと、シピンと柳田もけっこう頑張ってはいた。 もし落合がすんなり巨人に入っていたら、中畑と落合でポスト高田を
競う展開になったのか?
伊東のキャンプメンバーにも当然、落合は選ばれたろう。
どうなったろうか? >>154
上手く育てば一塁、三塁が同級生コンビでもある落合、中畑で埋まって、原は東海大と繋がりが
深いとされる西武が囲い込むって形になったかもしれないけど、さて。
或いは王引退までの期間、二塁が落合、篠塚の併用になったかも? 原が巨人以外の球団でも見たかったな
西武に行ったら、清原と一緒になるのか
1辻2平野3秋山4清原5原6デストラーデ7石毛8伊東9田辺
完璧過ぎる 5位とはいえ、広島以外はほとんど混戦だった訳だし
シピンは活躍したのに、何故か解雇された
張本はやっぱり、最終的には巨人には合わなかった
長嶋茂雄って、落合もだけど
意外に切るときは理不尽だからな
情はありそうでない 張本は目の病気から復帰しても体がなまり気味だったのか動きが重たそうで
素人目にもあまり打てそうな雰囲気ではなかったな
絶好調の小林に手も足も出ないで三振していたのは対照的だった
球宴後は江川と西本がずいぶん好投するようになって7勝づつをマーク
チームの牽引役的存在になっていたけど
野手陣の落ち込みがそれ以上に激しかったね 長嶋茂雄の第一期は、投手陣だけは次につながる構築はできた
江川、西本、定岡、新浦、加藤初、角
あとは野手陣のみの状況で、伊東キャンプに中畑や篠塚や松本を連れ鍛え上げた最中に解任となった >>157
翌80年のシピンはパッとしなかったな。阪神戦でサヨナラHR打ったのだけは覚えてる。
そのシーンラジオで聞いて深夜録画で見た。この頃の日テレは月金は生中継せず深夜録画のダイジェストだった。 >>157
シピンは残留で柳田が切られた(阪急へトレード)。
序盤戦は6月まで江川一軍出場自粛、小林放出で先発が手薄になったため、
78年限りでクラウンを退団した石井茂雄を急きょテスト入団させてた 巨人の打線に関しては
他の打者がダメでも普段なら王が何とかしてくれたんだが
その王も衰え始めたため(特にHR・打点・四死球が例年と比べて激減)
フォローができなくなった感じだ >>161
石井の加入で王がチーム最年長選手の座を奪われたんだよね。 40歳の大ベテラン、石井茂雄のスローボール投法は結構びっくりしたな
王は一本足打法転向後初の無冠に終わって
現役を何歳まで続けられるかという話題を頻繁に目にするように
本塁打にこだわらなければ42歳くらいまで現役可能という
専門家の意見が多かったけど良くも悪くもそうはならなかった >>162
1977 .324・50本・124打点→1978 .300・39本・118打点→1979 .285 33本 81打点
と図抜けた超一流ホームラン打者→他球団並の4番打者→並の強打者(実際、打撃3部門全てで同じ
一塁の大島(中日)を下回った)と年々衰えていった時期だもんなぁ。 戦前生まれのベテラン組が目に見えて後退していくのとは対照的に
24歳で上り調子だった掛布は48本塁打で本塁打王を獲得、オフには結婚とバラ色の一年に
夢中で打っていたら皆が驚くような本数に到達といった感じだったけど
常に周囲からこのレベルの成績を期待されるようになってしまったのは
本人の負担になって結果的に選手生命を縮める一因になったようにも
まあ、そんな先のことは分からないし、打てる時にどんどん打っておくのは当然だが この年ホームランを量産している最中でも、掛布自身はインタビュー等ではことあるごとに「僕はホームランバッターではないので」とコメントしていた。
但し田淵がいなくなったことで、それこそ「気持ちの中で」ホームランを以前より意識するようにはなったんだと思う。
この時期の掛布は毎年首位打者候補の筆頭に挙げられていたが、本塁打王を3回も獲ったのに結局首位打者にはなれなかったのも少々意外だった。 上田が前年の日シリ絡みで辞任、梶本体制となった阪急は
加藤英司が首位打者・打点の二冠、本塁打も顎の死球骨折で欠場した
マニエルを猛追撃するもあと2本届かず三冠王になれなかった。
投手では山口が故障で一気に衰えたのが痛かった。 掛布も翌年は一転して故障と大スランプで散々なシーズンに
スター街道を驀進中だったのがたった一年でここまで一変するのだから
プロ野球は怖い世界だと思ったな
そこからまた復活はしたけど
アピールポイントの一つだった溌剌としたプレーぶりが消えてしまって
もう自分の打撃成績の帳尻合わせにしか興味が無いといった様子だったね >>165
王の打撃成績が78年から一気に下降線を描いているな 77年の世界新記録達成でモチベーションが低下したとか? 鈴木啓示の被本塁打が多かったのはこの時期の
日生&藤井寺専用「飛ぶボール」のせいでもあったのだな。 >>168
それでも通算の勝率では近鉄を上回ってたしこの時点では前年までの強さは健在だったんだが
プレーオフでまさかの3連敗は想像できなかった 当時(子供の頃)「日本で一番球の速い投手は山口」という話を耳にしたので
登板数の多かった近鉄の山口のことだと思っていた >>172
上田-梶本-上田の流れは最近の某セ・リーグ球団と同じだ 近鉄は日生球場が手狭だったこともあってか平均より飛ばないボールを使っていたのが
この年から飛ぶボールに方針転換してチーム本塁打が一気に200本近くまで増加
日本の場合は球団が使用球を好みで選ぶことが出来たので
球場の大きさよりもボールの違いの影響の方が大きかったね >>156
その布陣で、原にどこを守らせるんだよ。
レフトを守らせたいんだろうが、はっきり
言って、原の外野守備力では、西武黄金期
のレギュラーは到底無理。
まだ、指名打者にした方が、実害が少ない。 小林が22勝だもんな
当時の巨人ファンはすごく複雑だったんだろうな 小林は人気もあったし >>177
関西の女性でそれまで野球にも阪神にも興味なかった人も、
小林繁移籍をきっかけに阪神を応援するようになったと。
スタイリストと言われた風貌に加え、
「よくわからないけど巨人・江川の悪徳行為の被害に遭った人」という同情もあり 小林も毎年二桁勝利を続けていたのも関わらず4年後に突然引退
常に好成績と熱投を期待されていたのでこの辺りが引き際と本人が語っていたけど
阪神で野球をするプレッシャーも相当なものかも
田淵も掛布も不振の年はずいぶんファンやマスコミから叩かれていたね 阪神ファンって密着性が強いからね
巨人とかは案外淡白だけど
あと、関西メディアは阪神メディアと言っても過言でないし
毎日見られてる感覚だから >>179-180
小林繁が近鉄コーチの頃、阪神時代を振り返る取材で、
「死のロード? うるさいファンの目を気にせず飲み食いできるから選手は大喜び」
「選手と地元ファンの距離が近くて濃いから、憎悪・骨肉の争いにも発展してしまう」 と。
巨人時代と比べてファンとの関係性が、全く違ったんだろうね 小林が阪神に来たとき「阪神には勝つための伝統がない」と言い放ち、
それに掛布がムカついて小林を嫌ってたって話を
去年テレビでやってだけど、小林の言ってるのはほんとのことじゃん。
小林が言うには、勝てる野球やろうと選手が決起集会開いて
結束する機運が盛り上がった時でも掛布は一度も来なかったとか。 >>182
川藤はそんな小林に感謝していたっけ。
「1985年日本一になったのは、小林が阪神に意識革命を起した結果」とも。 「別に勝てなくてもかまへんやん」
こういうダメ虎独特の雰囲気が、星野やブレイザーとかにやる気を無くさせた
でも、時々こういう本気で勝ちたいってのが批判し、何だよ今に見てろと内部反発を起こす時、大概強い
藤本青田時代の阪神もそう
ことあるごとに、巨人は〜言われ、今に見てろと反発したことが優勝につながったとよっさんも言ってた
他球団でなく、この球団は内部の諦め体質が最大のガン せっかく星野が意識を変え、突っ込みどこありながらも岡田真弓はまだ勝ちたいんやパワーがあったのにまた自分から弱くなりに行ったからな
悪意識の象徴たるやつがGMだし、何より坂井がなあ
坂井と名前がつくやつはもう野球運営すんな 阪神と言えばこの年は小林だけでなくライオンズから移籍してきた
竹之内・真弓・若菜の活躍もインパクトがあったな
若菜も強肩と打撃の良さに長身で見栄えがしたけど3年後にやはり自ら退団
阪神は正捕手がいなくなってずいぶん困っていたが
江本、若菜、小林と主力選手が次々に突然辞めていっても
球団内部で責任問題にならなかったのは今考えても不思議だね 江本 ベンチがアホやから・・
小林 13勝でいきなり引退
若菜 気づいたら大洋にいた しかし掛布はチーム内でそっぽを向いていたという話が多いね
飲酒運転騒動よりもそっちの方が原因で
引退後は球団からずっと声が掛からなかったんじゃないかという気も 小林繁も阪神暗黒時代には「1985年の日本一こそが阪神低迷の元凶」みたいに言っていたらしいからなぁ…。 打つだけで守れない走れないとマニエルを放出したヤクルトは
後釜としてスコットを獲得。確かに外野守備、機動力、長打力を
兼ね揃えてはいたが、他の選手が広岡の管理野球
(広岡が呉出身なため、海軍式軍隊野球とも当時言われてた)
に反旗を翻し、当時の松園オーナーも阪神フロント同様、
ぬるま湯ファミリー主義者(チームを常勝化させる意識が希薄)
だったために一気に弱くなった。 なんでぬるま湯オーナーっていつまでも出続けるんだろうな
勝って困ることでもあるの?読売に会社の悪口でも書かれるとか?
再編過ぎても変わらない、勝ちが最大のファンサービスなのに 阪神のフロントが「2位でいい」と言ったのは優勝すると選手の給料を上げなければいけなくなるのをマジで恐れていたから。
ヤクルトのオーナーが「2位でいい」と言ったのは強くなり過ぎると巨人ファンがヤクルトを買ってくれなくなり本社の売上が落ちるのをマジで恐れていたから。 >>191
ヤクルトの場合、本業の商品販売の売り上げに響くとマジで考えてたそうだ。
それに当時は常勝化しても客足がイマイチな阪急があった。 今もW坂井とか宮内とかハジメとか、前は久万とか…
勝つのがイヤなら身売りすりゃいいのに ヤクルトのスコットのダイナミックな外野守備は話題になったね
打撃でも中距離打者として期待通りの活躍を見せたけど
前年絶好調だったヒルトン、大杉、若松が揃って不振で最下位転落
翌1980年は2位に再浮上
主砲のマニエルを放出した方向性は案外的外れでは無かったようだけど
広岡の軍隊式管理野球は負け始めるとチームの不満が一気に噴き出て
試合どころではなくなるのが難しい所だよな 勝ってるときは、反発が野球に向くけど
負け出すと、反発だけに陥るからな
だから西武時代も、森1年目は自主性に変えた
しかし日本一になると、どうしても維持という課題が上がる
だから、軍隊式管理野球が悪いわけでもない
要は上の判断次第
松園はぬるま湯だったが、堤は賛成派だった 80年は2位に上がったが、それは中日と巨人が世代交代の過渡期と、阪神が掛布怪我による漁夫の利もあった
で、翌年からは今度は、ヤクルトが世代交代の課題が持ち上がり、広沢や池山が来るまで最下位に落ちた >>196
広岡は西武時代も当然反発は受けた
ただヤクルト時代のようなことにはならなかったな
西武時代もフロントともめて辞めたけど成績自体は3回優勝で唯一優勝を逃した84年も3位と上々だった >>198
ヤクルトの80年の2位は、梶間→阪神、鈴木康→中日、尾花→巨人、松岡→大洋というカード別の投手起用がズバリ嵌ったから。
但し優勝した広島に通用する投手が全くいなかった。 79年ヤクルトは安田が怪我(確か半月板損傷だったか)で
前年の15勝からわずか1勝に終わったのも痛かった。
広岡と対立し、トレードに出されそうになって松園に残留を直訴、
残れたのだが・・・ 田代に開幕戦3発打たれたのがケチの始め
そこから8連敗
富山での大洋戦でようやく連敗脱出
確か同じ日に西武も開幕12連敗で止まった この年の田代は打率.235の19本塁打
レギュラー3年目、開幕戦に大暴れして出足好調だったのに大スランプの一年だな
穴も多いが飛ばし屋で人気もあったけど
この頃は中距離タイプの打者が本塁打数を稼ぎやすい状況だったので
田代みたいなタイプは周囲からの評価が低くなりがちで何だか不遇だった 阪急ブレーブス
前年不振だった加藤(英)が4番で完全復活
脇を固める、3番島谷5番マルカーノ、6番には高井
かなりの強力打線 >>200
最下位からチームを浮上させる際の常套手段である「首位チーム(前年優勝チームとか所謂常勝
チームとか)との勝負は捨て、下位チームから勝ち星を頂く」ってパターンの典型ですな。
そんな戦い方は関根監督時代のヤクルトとか、去年のDeNA等と見受けられ、しばしば「○○贔屓」
等と叩かれるけど、チーム浮上の手法としては間違っていないかと。
下位低迷のチームで上位チーム打倒!と意気がっても、1994年シーズンの近藤監督率いる横浜
(巨人と前年日本一のヤクルトに勝ち越したものの、他チーム戦での取り零しの多さより得失点差
プラスの「史上最強の最下位」等と皮肉られる始末)みたいになるだけだし(´・ω・`) 谷沢(一塁)が長期離脱した中日は、大島を一塁にコンバート、
大島がいた三塁には外国人のギャレット(広島にいたギャレットの実弟)で
穴を埋め、宇野や小松も台頭してAクラスを確保に成功。
一方、門田(ライト兼DH)が長期離脱した南海は王天上をDHはいいものの、
ヤクルトからトレードで獲得した山下がさっぱりで、わずか1年で
元のヤクルトに復帰した。(たぶん広岡の積極トレード策の煽りかと)
結局最下位は脱出したものの5位に終わり、ホークス暗黒時代は
いよいよ泥沼化へ・・・ この年はまだレギュラー試験中といった感じだったけど
遊撃手というと中背で小技が効く選手という先入観があったので
大柄で見た目が三塁手タイプの宇野はずいぶん異色に見えたな
この年のセ・リーグでは宇野と中畑がレギュラー獲得
二人ともアピール度の高さで球界の名物選手になっていったね >>208
特に中日のショートは一枝、広瀬、正岡と永年いかにもいぶし銀の守備職人タイプが続いていたから、宇野の登場はある意味革命的だったな。 藤沢・小松・遠藤・江川の新人王レースも話題になったが
受賞した藤沢は結局この年限りの活躍で
逃した3人が80年代を代表するエースになっていったのは皮肉だな
藤沢は先発で13勝を挙げているから妥当な選出ではあったけど >210
正岡から宇野という両極端にも見える方針転換は考えてみるとすごいね
大型遊撃手なんてアメリカ野球的発想だ
隣の二塁を守る高木守道も頑固職人タイプだけど
自分とはまるで違うタイプが連携プレーの相手になって戸惑っていたかも >>211
この4人の中で最年長は26歳の子連れルーキーだった藤沢。
それ以前に4球団のドラフト指名を蹴っ飛ばした過去を持つ回り道をしたけど、この年の「新人」だったのも大きかった。
小松と遠藤は投球内容のインパクトでは藤沢を上回るものがあったが、共に2年目だったのが影響したかな。
江川はイメージの問題が大きかったのは確かだが、これまた1浪していたのもマイナス材料だったような。 小松は既に高校野球で全国区的な知名度があったのに続いて
プロでも抜群の速球を披露したインパクトは大きかったけど終盤やや息切れ
遠藤は巨人戦で15奪三振をマークするなど実力と知名度急上昇も
先発救援兼務で大卒2年目というのはハンデになったのかも
江川は初登板が6月で投球内容が軌道に乗り始めたのが8月以降と出遅れが響いていたね 広岡監督は、森・植村両コーチを「クビにしない」という球団社長
との約束を反故にされたのに怒って退団。
「あの社長は弁護士の資格持ってるんですよ?弁護士なのに嘘ついたんですよ!」
って後年、口とんがらかせて語ってた。 ヤクルトも優勝監督が辞めるのは世間体が悪いので前年は慰留したが
この年はもう広岡が辞めるように仕向けようという態度があからさまだったな
広岡は球団組織がもっとしっかりしている筈の西武でも
片腕だった森と喧嘩別れをしたあげくに
根本とも仲がこじれて自分からいきなり辞めていたけど
誰が相手でも妥協という文字は存在しないという感じだ(笑) 青バットで有名な大下弘が亡くなったのもこの年だった。
脳梗塞で倒れ、リハビリ中に心筋梗塞と当初は報道されてたが、
後年になって自殺だったと報じられた。 >>215
依頼者の利益の為には
嘘もつくのが弁護士なのを広岡は知らなかったのかw
件の球団社長って
ベレー帽にパイプ煙草がトレードマークの佐藤って御仁だったかな >>216
現役時代は、川上に睨まれ、最期もバレンタインに睨まれ
典型的に組織に向かない性格なんだろう 中日の与那嶺と近藤貞雄の間に挟まった、中利夫監督の印象が全然ない。 この年の混戦ペナントレースは中盤戦になると巨人に代わって主に中日が首位
小松の快速球や藤沢のパームボールが話題になったが
目立つ位置にいた割には中監督はほとんどスポットが当たらなかったな
後任の近藤監督が強気な言動で報道を賑わせていたのとは対照的だった 三沢、星野もがんばってたね。
松本幸行が完全に使えなくなって、オフに阪急にトレード。
虎ファンには憎い奴だった。 ギャレット(中日の方)は可もなく不可もなくでこちらも印象がなかった。 >>224
松本は都が出てきたし、大阪生まれだから、
最後の花道って感じで。
>>3 のクルーガーが、オープン戦か開幕直後の早い段階に、
いしいひさいちのマンガで「スカ」扱いされて、
それが見事に当たってたというのを覚えている。 ギャレットの弟が中日に入ったのかと思ったら
マーチンはいつの間にか大洋の選手になっていた
シピンは大洋戦で以前のチームメイト相手に乱闘をやらかすし外国人選手はやたらと忙しい 藤沢の110km後半のストレートを空振りする
中畑が見えます 今年、広島は79年みたいに巨人の犬に徹しながら優勝するかもな 中畑と中井がNNコンビと言われて巨人では貴重な若手注目選手扱いだったな
元気者の中畑と比べると中井は地味でその後も守備要員止まりだったが >>232
中井は二宮→庄司と受け継がれてきた「張本の守備固め」の役割がこの年回ってきたんだが、この年限りで張本が退団したのが痛かったなw
その後ホワイトや松本が実は弱肩で守備で入るケースが時々あったけど、張本ほどの守備固めの必要性緊急性はなかったし。 藤沢はアキレス腱痛めて2年目からパームまともに投げられなくなったのが痛い。
中井は最初から打者で行くべきだった。それでも準レギュラーまでだったかな。
1位の素材とは思わなかった。 巨人の松本もこの時点では代走屋で終わるかと思ったのでその後の活躍は予想外だったな
打撃はぎこちなく肩は脱臼癖で打球判断もいまいちと弱点だらけだったが全て得意の俊足でカバー
野球マンガのキャラクターみたいに能力が極端に偏っていた 松本は長嶋さんに特別に目をかけてもらったからな。
「地獄の伊東キャンプ:とか「4番1000日計画」とか、
長嶋さんは命名も含めてその辺上手だったね。 藤沢はパームボールだったが
秋の日米野球では来日したニークロのナックルボールが話題騒然
魔球みたいな扱いで日本のプロ野球も取り入れるかと思ったら期待はずれだった コントロール重視じゃナックルはなかなか受け入れんだろ。
他の変化球のコントロールを付けろとか言われる。 日米野球は全日本対全米が2試合
メジャーのオールスター戦が7試合くらいやったのよね
お客さんあんま入らんかったそうだけど 入場料も高いし全米オールスターとはいえ日本人にとってはなじみのない選手も多いし
やはり日米の対戦でないと観客が集まりにくいかもね
前年に来日したレッズが日本チーム相手に勝ちまくったのでどうしてもそっちの方が印象は強い 前年からフジ系で始まった大リーグ中継も低視聴率でゴールデン枠から
深夜に追いやられたのもこの年 >>244
何せサッカーワールドカップですら、東京12チャンネル「独占中継!」からようやく脱した
って時代だしなぁ。 村田兆治は有名だったけどフォークボールを武器にする投手もまだ少なかった
村田に近い落差というと大洋の遠藤が思い浮かぶが他にも何人かいたのかな >>242
日米オールスター戦は西宮、後楽園で挙行し1勝1敗。
全米オールスター戦は横浜での第1戦を皮切りに各地で開催し、ナリーグの4勝2敗1分け。 今年の広島はこの年みたいな星取りするの?
巨人には負け越しほかに勝ちながら優勝狙いと。
なんか戦い方見てると卑怯なんだけど >>248
1974年・中日や1993年ヤクルトも同様のパターンだよ。
1985年阪神も、8月までは上位の広島・巨人には大幅に負け越しながら下位からの大量貯金で
首位争いに留まっていたり。
対巨人戦は消化試合でのバース全打席敬遠もあって、終盤6連勝フィニッシュで13勝12敗1分と
辛くも勝ち越したけど。 この年の後期は下位低迷の西武が独走優勝した阪急に6連勝の大健闘
ただしその6連勝以外は阪急に1勝16敗3分とまるで歯が立たなかった >>249
痛快に巨人をぶっ叩いて優勝したのは2000年代中盤の竜虎時代ぐらいかもな 広島打線は全く違う
やはりこの当時は最強
1遊 高橋慶
2三 衣笠
3右 ライトル
4中 山本浩
5二 三村
6一 水谷
7左 ギャレット
8補 水沼
しかし衣笠2番ってのが、いかにも古葉野球の真骨頂 >>252
水谷にはできないので衣笠が2番なんだろうけど、昭和40年代には4番だった訳だし
今思えばライトルを2番にするのも面白かったなんて考えてみる事がある >>251
でもその頃は巨人が優勝争いにかすりもせず極度の低迷をしてた時期だからな
巨人が優勝争いに加わってるときにそれをぶっ叩いて優勝したチームってなかなかない
10年の中日が6つ勝ち越した時くらいか(この時巨人とは1ゲーム差)
他は勝ち越してもせいぜい3つくらいがやっとだし 衣笠は高橋慶彦がレギュラーになる前は1番打者でもよく起用されていたが
パンチ力があって盗塁も狙えたので案外適任だったかも レギュラー2年目の高橋慶彦は33試合連続安打の日本記録が話題になり盗塁王も獲得
最後は日本シリーズMVP受賞と良いことずくめの一年だ
まだ22歳だったけど結果的にこの年が最も輝いていたような気がする >>252
五番打者は三村ではなくて水谷
水谷は、前年首位打者になり、この年も20ホーマー越えを達成し、不動のクリーンアップになっていた 「山口対決」
山口高志は阪急黄金時代を語る上で欠かせない投手である。入団した75年に新人王を獲得するなどして球団初の日本一に貢献すると、
以降78年まで4年連続の二桁勝利でリーグ4連覇にも大きく貢献した剛速球投手。4年間で47勝35セーブ(39敗)を挙げてきた山口
だったが、自身5年目となる79年は前年の日本シリーズ期間中に痛めた腰など故障が続いて前期は2セーブを挙げたのみだった。
本格的に復帰を果たしたのは後期だったが、それでも11登板で1勝4セーブの成績からも分かるようにベンチは大事に間隔を空けながら
投げさせざるを得なかった。実際に僅差での登場も少なかった。
後期を優勝した阪急、過去75年に2完投2勝でこの年と同じ相手となる近鉄をねじ伏せていたとあって山口のプレーオフでの活躍も期待
されていた。そうして迎えた決戦だったが、エース山田久志で初戦を落とした翌日の第2戦5回裏二死一、二塁で登場した山口は有田修三に
左中間への決勝3ランを浴びた。味方が1点差に追い上げた直後の8回にも平野光泰に2点本塁打を打たれて轟沈、過去2度のプレーオフと
3度の日本シリーズで剛腕を見せ付けてきた投手が散った瞬間だった。
山口は山口でもシーズンで7勝4セーブ(7敗)を挙げ最優秀防御率のタイトルを獲得した近鉄の山口哲治は高志とは対照的な大活躍、3戦
全てに登板し、第3戦10回裏二死で福本豊に唯一の安打を打たれるまで無安打投球という打者21人に僅か1安打1四球の快投で1勝2Sを
挙げMVPを獲得した。ともに救援投手という、このプレーオフでの“山口対決”は弱冠20歳の若武者に軍配が上がった。
“山口対決”を制した山口哲だったが、この79年は同じ2年目の阪急・三浦広之との“20歳対決”もあった。プレーオフでは三浦の登板が無く
山口哲の“不戦勝”だったが、レギュラーシーズンでも防御率や黒星の数で三浦を上回り20歳対決にも山口哲は勝った。(三浦は7勝10敗で
防御率4.21で規定投球回に足りていない)
山口哲や三浦に代表されるように、この年の流行歌ではないが広島・高橋慶彦、北別府学、中日・宇野勝、小松辰雄、巨人・山倉和博、
鹿取義隆、ヤクルト・尾花高夫、ロッテ・水上善雄、南海・久保寺雄二、西武・立花義家といった20〜22歳の「YOUNG MAN」がリーグを問わず
各球団で目立った年であり、若い選手から新たに生み出される「対決」を予感させた。 >>259
優勝した試合は三村は5番だった
水谷は先発出場はなかった
優勝した時のスタメン
1高橋2衣笠3ライトル4山本浩5三村6萩原7ギャレット8水沼 水谷は前年(首位打者)に比べたら不振の方だったからな。
萩原を併用して使われてたような覚えがある。 古葉監督は、打線固定派ではなかった
山本浩二以外は全ての打順を打たせたはず
ライトルでさえ2番を打ったことはある 西武ライオンズ1年目のシーズン。福岡県民いや九州地方にとって本当に毎日がやりきれない思いだっただろう。
今まで通りライオンズを応援を続ける者、縁を切って他球団のファンに鞍替えした者、さらにプロ野球と縁を切った者など・・
それでも地元福岡のスポーツ新聞やラジオ中継は、西武に変わってからもライオンズ中心を変えなかった。
10年後ダイエーが来るまではな・・ 巨人は野手陣は柴田、高田の不振。張本の怪我。
小林に8連敗。右の代打陣の不振(平田、中井以外はダメ)等で
全然だめだったな。
特に山本和、梶間、神部 の左投手が先発した時はやられてた。 柴田→松本
土井→篠塚
高田→中畑
の世代交代期に入ったから 高田は翌80年で引退柴田もレギュラー落ちと不振と言うよりは衰えだね
王も一本足後初の無冠とV9メンバーの衰えが誰の目にも明らかになって
来た年だったわ 西武最下位だったが、この頃は資金潤沢で且つ根本の根回しで
(監督退任後の管理部長でさらに手腕発揮)選手をかき集め、後の
黄金時代の礎を築いた
しかし、運がなかったのか、西鉄時代みたいな伝説には恵まれず10.19や10.12では近鉄の引き立て役 >>270
運がなかったのではなく、寄せ集め集団がみんなてんでんばらばら
勝つための作戦は無いは走れないはエラーはするはで、とてもプロのチームとは言えない状態
根本監督曰く『おまえらはプロじゃない、同好会や!』
兄やんだけはノムのリードで活躍したが、他の投手はさっぱり
特に、毎回良いピッチングをするのに勝てない森繁和が、とっても可哀相だった 根本の手法は一貫して同じ
チームをいじらず現状探索→若手に何年計画の育成→金を引き出し他球団や外国人の実力派を獲得→有能監督を招聘→機が熟す
広島時代
衣笠や山本浩二らを4年計画→大下、ホプキンスなど→メジャー監督ルーツ
西武時代
伊東や秋山を囲い込み→田淵やテリーなど→ヤクルト日本一監督広岡招聘
ホークス時代
小久保時代からの囲い込み→松永や秋山らの監督→世界の王招聘
根本のスゴいのは、何年経っても強さが脈々と続くこと 今年は、この年以来の「リーグ優勝&日本一達成→翌年に最下位」が
現実のものになりそうだ…。 >>271
270の運がないは黄金期時代の話だろう
確かに強かったが、近鉄の引き立て役になることが多かったな
10.19やブライアント4連発 >>275
>270のどこをどう読めば黄金時代の話しだと考えんだろ?
馬鹿なの? >>276
>黄金時代の礎を築いた
>しかし、運がなかったのか、西鉄時代みたいな伝説には恵まれず10.19や10.12では近鉄の引き立て役
まあ黄金時代にはふれていないな
一々喧嘩しない ヤクルト、日本一から一気に最下位へ転落したけど何が原因? >>279
・マニエルを近鉄に放出、ヒルトン、大杉が不振による打線の弱体化
・松岡と並ぶ左のエースだった安田の故障
・広岡の管理野球に選手やフロントが反旗を翻した 「失敗のブラデントン」
クラウンライターから西武へと経営権を移したライオンズは、親会社の大きなバックアップを受けて環境の整備は勿論、戦力強化もされて
新生レオ軍団として生まれ変わっていた。松沼兄弟、森繁和、柴田保光ら新人に加えて阪神から田淵幸一、古沢憲司、ロッテからは野村克也
、山崎裕之を獲得してチームの骨格を作り上げた。監督と球団管理部長を兼務していた根本陸夫が「意識の改革は難しい。人の心を変える
よりも、人そのものを変えるのが組織活性化の近道だ」と言ったように、新たに18選手が新生西武に加入した。大物補強もあってか戦前の
予想は前年最下位の割にはそれほど悪いものではなく、根本も「優勝はまだ先、今年は暴れ回るだけ。それだけの選手は揃った」と自信を
持っていた。
しかし蓋を開けるとそれは、開幕からの苦難の連続だった。エース・東尾修で緒戦の近鉄戦を落とすと、翌日も森ら5投手が5被本塁打を含む
16安打を浴び9失点。8回に出た金城致勲のチーム初得点となる一発も焼け石に水だった。次の阪急との3連戦にも全敗。新本拠地で迎えた
所沢での地元開幕戦ではなんと7失策、5失点KOの森は自責点ゼロの敗戦投手だった。続く翌日、翌々日も日本ハムに敗れて9連敗したが、
その後は惜しい試合もあった。阪急とロッテにそれぞれ1分け2敗ずつ、7回に一挙7点を取って追いついたドローや0−1の敗戦を2度演じたり
というゲームもあったが及ばず、結局のところは24年ぶりプロ野球ワーストタイの開幕12連敗を喫した。
2分け12敗の14試合でチーム打率.209、平均得点2.1。思えばアメリカはフロリダ州・ブラデントンでの長期キャンプが躓きの元だった。
日本国内で練習試合、オープン戦を行わず(米メジャー球団とのオープン戦は8勝10敗1分け)アメリカのストライクゾーンに慣れ過ぎたため
根本が「200発打線」と呼んだ土井正博、田淵、トニー・ミューサー、野村らのメンバーも戸惑い結果を出せなかった。山崎がキャンプ中に
故障し開幕に出遅れたのも誤算だった。
そして何といっても痛かったのは12連敗中25失策の守備で、大原徹也の6個を筆頭に期待を込めて送り出した山村善則、金城、といった
若手が次々に失策。戦前根本の言った「暴れ回る」をスタートから別の意味で表現してしまった原因ともいえるような53日間に渡る
“失敗のブラデントン”だったせいか、翌年からはすぐにキャンプ地は高知県春野市に移された。 (了) >>281
アメリカキャンプから帰国した時、みんな凄い髭ヅラだったよね
まさにライオンのようだったんだけど、あれも話題作りの一つだったのかな?
それにしても、森繁和はかわいそうだった
新人ながらチームNo.1の力ある球を投げて、いつもいいピッチングをしながら勝ち星が伸びなかった
個の実力からすれば、新人王を上げてもなんら差し支えないほどの、投手としての実力を持っていたと思う アメリカ長期滞在キャンプの為、国内オープン戦不参加のままぶっつけ本番で臨んだのが大失敗。
余談だが、新本拠地こけら落としの2日前、4月12日の阪急戦は初めての平和台里帰り(10、11日は西宮開催)だった。 >>284
ちなみに10年後のダイエーの初平和台も西武戦だった 空き家になっての初戦とダイエー本拠地初戦はともに西武がビジターだったわけか・・ 今年、西武が最下位になったらこの年以来の出来事になる。 結局は、>>274のとおりになりました。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141007-00010006-fullcount-base 前年1、2位のチームがBクラスに転落した始めての年
その後92、97とパでも08、09、14に発生した…
逆パターンは
62セ、97セ、08パ、14パ 熱闘日本シリーズで初めて全試合ハイライト見たけど、江夏の21球以外は淡々とした印象しかないw でも前年は大杉の疑惑の判定で大揉めだし、二年連続でシリーズ史に残る大会になったね。 根本陸夫が飯田徳治、別当薫に次いで両リーグ最下位監督に 西武は弱かったけど観客動員が100万人突破したな。
西武沿線の人たちが多くいったのが大きい。
特に所沢以西の人なんか今まで近くて神宮だったから
近くに球場&球団が出来たのはうれしいだろう。 BS NHKを今すぐ見よう
ノムさんが詳しく解説してるで! >>140
土井はその前年にフロントによって引退に追い込まれてる。
.285打ってダイヤモンドグラブ獲得していたのに(((^_^;) >>295
後輩(篠塚)に道を譲ったんだよな
しかしその翌シーズン、巨人は大洋からシピンをトレードで獲得し、長島はセカンドのレギュラーとして無条件で起用した
土井曰く
「シピンにセカンドを渡す為に引退したのではない!」
痛烈な批判をマスコミに向かってブチまけたの当然の事だった >>297
シピンは78年からジャイアンツなんだがw
うそこいてなにがたのしいんだか クルーガーという外人投手が巨人入りしたが全く通用せず
「ボク クルーガー オウチエカリタイ」と当時人気番組
「鶴光のオールナイトニッポン」で笑われていたな
背番号も小林がつけていた19だった記憶が 8月8日
元横浜の銚子選手
エースとして出場した甲子園の晴れ舞台で、顔面に打球食らって病院送り…。
元巨人の江川選手
ナイター登板時、投手ライナーを打たれ思わずマウンドにしゃがみこむ >>300
銚子は右足だったような…
早い回で気の毒だったね >>298
シピンが巨人に入団したのがS.53だから、土井とシピンはチームメイトとして一緒にプレーしているな
しかしそのシーズン、正二塁手は土井でシピンはライト
シピンは土井が引退した後のS.54にセカンドに再コンバートされたので、>>297あながち間違いではない
S.53、打率.285、27犠打(セ最多)、ダイヤモンドグラブ賞を獲得した土井がそのオフにユニホームを脱いだのは、篠塚にレギュラーを譲るため、と言うのは結構有名な話
そして翌年コーチに就任した土井が、篠塚ではなくシピンをセカンドに起用した長島監督に対する不満を、長島監督本人に直接言わずにマスコミに漏らした話も、これまた有名 西武のマスコットのレオが登場したのはこの年だっけ? 「考える虎」
シーズンオフに新球団社長へ就任したばかりの小津正次郎のチーム大改造により変身した阪神、「江川騒動」によって獲得した小林繁や
田淵幸一放出の大トレードで獲った真弓明信ら新加入は15人。球団創設初の最下位だった前シーズンがフロントには堪えたのか、初の
外国人監督ドン・ブレイザーを招聘して“考える野球”を導入する事で変革を狙った。コーチ陣も例外ではなく5人が加入、中でも3年連続
チーム打率リーグ5位の打線テコ入れのため呼んだ中西太打撃コーチは新生阪神の目玉だった。
スピードとガッツを前面に出すため、ブレイザーは移籍組の真弓、竹之内雅史、若菜嘉晴をスタメンに組み込む新打線を形成。藤田平を
故障で欠くも、代わって一塁に回った佐野仙好が初の3割。若武者24歳の掛布雅之と、前年不振だった来日4年目のマイク・ラインバックが
共に入団以来最高の本塁打と打点を記録した。リーグトップのチーム打率と本塁打(本塁打は広島とタイ)を誇った打線は新エース小林と
チームを牽引した。
阪神は序盤こそ考える野球に戸惑い下位に低迷するも、6月2日にデビュー戦の江川卓をKOして最下位を脱出すると6・7月を連続して
月間勝ち越しと反撃開始。球宴明けいきなりの6連勝で初めて貯金3としてGW以来の3位に浮上した。8月になるとさらに熱く、分が悪かった
夏の長期ロードも4勝無敗の江本孟紀と3勝無敗の小林の活躍で10勝5敗1分けと大きく勝ち越した。対照的に1ヶ月強も首位を走り続けた
中日が息切れして、様相は中日の失速と同時にスパートをかけて17日に奪首していた広島と阪神のマッチレースとなったかに見えた。
阪神はピタリと16日から1週間で4度も首位・広島にゲーム差なしと肉薄しながらロードを終えていたが、皮肉にも地元甲子園に戻って4戦連続
完封負け。広島戦3タテを含む合計6連敗を喫すると、その後9連勝まで伸ばした広島に7.5差まで離され終戦。最後は10月に巻き返した
大洋と中日に抜かれ4位に終わったが、夏場以降の優勝争いを演出して貯金1ながら3季ぶり5割以上と健闘した。
ブレイザーは翌年もあの電撃辞任まで貯金1の3位、4連勝中だった。勿論まだ100試合以上を残していたが、シンキング・ベースボールの
浸透度と2年間の戦績を踏まえると、ブレイザー辞任以降考える事を止めて、再び路頭に迷う虎を見るのは残念でならなかった。 (了) 1遊 真弓
2二 榊原
3三 掛布
4左 竹之内
5右 ラインバック
6中 スタントン
7一 佐野
8捕 若菜 この年も、セ・リーグの一塁手ベストナインは王だったが、明らかに大島の数字が上だった。どれくらいの票差だったんだろうか? >>306
だとすると、読売はこの先
大失速するわけですねw 「弱体化投手陣」
前年ヤクルトに逆転を許し、リーグ3連覇を逃した長島巨人にとって、投手陣の強化は79年への重要課題だった。ドラフト会議を欠席してまで
意地を通して獲得した江川卓は、球団自ら出場を自粛して5月いっぱいまで使えない。交換相手だった小林繁の13勝、191回1/3イニングの
穴を埋めなければならず、「江川問題」の代償の大きさが炙り出されていた。V2に貢献した左腕クライド・ライトの退団も先発陣弱体化に
拍車をかけた。残されたのは堀内恒夫、加藤初、西本聖といった右腕揃い。先発と救援の両刀使いだった新浦寿夫を先発に専任したとしても
ライトに代わる左腕先発の補強は急務といえた。
79年に入団したリック・クルーガーはライトと同じ左腕ではあったが、アメリカではメジャー通算17登板の2勝とマイナー暮らしが主で、直近
3年間の3A生活では殆どが救援登板だった。変幻自在のフォームに決め球のシンカーという典型的な救援タイプ、長島は早々と先発起用を
諦めた。4月は3登板のみ、5月は1日に幸運な来日初勝利以降、初先発を含む7試合に投げた。しかし防御率4.42ともう一つ、6月頭に
江川と入れ替わって二軍に降格した。
チームは前半戦、中日との首位争いでトップに立っている事が多かったが、7月に中日に奪首されると再びクルーガーが一軍に呼ばれた。
再昇格後はワンポイントなどショートリリーフでの出番が多くなった。だが結果は上がらず、7月以降の防御率は5.19。チームが8月に入り
Bクラスに転落すると、まだ来期を見据えるような時期とゲーム差ではなかったが、7日のヤクルト戦を最後にクルーガーは一軍のマウンド
から姿を消した。
79年の巨人投手陣において、先発左腕の勝利数は新浦一人の14勝だけに終わった。それも痛かったが、堀内、加藤、江川ら右の柱が
いずれも2ケタ勝利に届かなかった誤算もあった。ライトの退団は致し方ないにしても、小林の放出は江川獲得の意地と天秤にかけると、
損得としては如何ほどであったか。確かにその後の江川の功績を思えば、トータルで得ではあった。しかし仮に江川は獲れずとも、小林残留
の上に、ドラフトでも関係者が悔やんだという東芝府中・落合博満を予定通り2位以上で指名となったら・・・。仮の話に結論は無いが、少なく
とも76年から3年間で49勝という右のエースが抜けた大きな穴と左腕不足が、長島の解任を早めた事実は残った。 (了) ブラデントンキャンプからの帰りに
ポルノ雑誌を持ち込み、税関で止められて恥ずかしい思いをした東尾 1979 巨人〇度目の零封負け
1980 巨人〇度目の1点差負け 阪急は、この年から梶本が監督になったけど、あの抗議事件が無ければ、
この年も上田がやっていたのだろうか。 あと球団フロントとあまり関係がうまくいっていなかったという話もあった
ような気がする。 優勝した監督がシリーズ遅延で引責辞任
↑
今のオリなら考えられない話 >>313
>>315
年間チーム得点がワースト2位だったからな…
これじゃ今年のオリみたくなるのも無理も無い…
ちなみに最下位だった75もワースト2位、
93は3位ながら借金2で年間チーム得点ワースト1位 >>304
ブレイザーはこのあと古巣南海の監督になったけどそこではチーム低迷
やっぱり戦力たりなさすぎると監督が誰でも手のうちようがないな 江川が世間から非難轟々の嵐で謹慎生活で孤立してヒッキー化していた江川を金やんが
特訓でシゴいてシゴきまくった
血反吐吐くほどノックを受けて江川も吹っ切れたようだった >>309
落合きても、いきなり一軍はないとは思うが
1中畑2篠塚3シピン4王5張本6高田7落合8山倉 >>329
これだと、セカンド落合、ショート篠塚、センター高田、ライトシピンか? 中畑とオチでサードの定位置争いだろ。負けた方がトレード。
中畑の方が元気を買われ起用されたんじゃなかろうか?
オチはバッティングフォームをいじられ低迷 近鉄にプレーオフで3連敗で、結果として強い阪急の終焉の年になった
まあこの時点では阪急が翌年5位まで落ちるなんて
誰も想像していなかっただろうけど あなたは40代ですか? ドーハの悲劇ですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか? >>334
腰痛完治の加藤英司だけが輝いていた79年 >>334
そして、2年後に上田監督が復帰することもだな。 >>337
プレーオフに負けたとは言え、年間の勝率は6割を軽く越えていたし、近鉄より上だった。山田は21勝してるし、島谷も102打点。ちなみに、MVPはマニエルだが、次点は加藤では無くて山田。 近鉄の打線が凄すぎた
打ち込まれた試合ばかり見た気がする 近鉄に負けたとはいえ、この年の阪急も十分強かったんだけど
黄金時代を支えたレギュラー陣の中で大橋とウイリアムスの
出場試合がこの年減っている。
鉄壁だった守備力の衰えが少しづつ現れていたと思う。
近鉄とのプレーオフ第3戦の決勝点は
大橋に代わってショートに入ってた井上のエラーだった。 大橋は余りにも打てなさすぎw
ウイリアムスも当時の外国人としては、今ひとつ打撃が物足りない 近鉄が前期優勝の足踏みしていた時に
山田、加藤、福本等が
栗橋、羽田等にハッパをかけたというエピソードを聞くと
同門意識のようなものがあったみたいですね。 西武の海外キャンプから、日本国内オープン戦無しは無謀にも程がある。 小林繁が、江川の生け贄にされたのは、有名だが、小林繁の登板日の相手の先発は、必ずと言っていいほど、加藤初が、生け贄として捧げら記憶がある。 ふむ
4/10 加藤初
5/3 西本
5/22 西本
6/1 加藤初
6/22 加藤初
7/8 堀内
7/27 加藤初
8/15 浅野
9/5 新浦
9先発登板中4つが加藤初先発だね >>350
サンクス。そんな、罰ゲーム以上の事をさせられて、その後も、巨人に長く在籍できたなあ。しかも、この頃、セゲヲに干され気味で、扱いも悪く。翌年のセゲヲ解任は、笑いが止まらなかっただろうなあ。 >>348
案の定、最下位に終わったもんな。
しかし、現段階での”西武ライオンズのシーズン最下位”は、後にも先にもこの年だけ。
いかに、根本さんや後に監督になる広岡さん、森さん…が良かったかということよ。 >>348
一番割りを喰ったのはマルーフとミューサーの新外国人2人かな。
日本の投手に慣れる時間すら与えられずにいきなり実戦投入で
マルーフはトップバッターとしては及第点で何とか適応できたけど、
ミューサーは案の定さっぱりダメで前期限りであえなく解雇・・・ 沿線民でよくタダ券もらってみに行ったけど
南海戦以外はまともな試合になる感じがなかったなあ 南海と西武の弱さが際立ったシーズン。しかし、3年後に日本一になる西武と、前年から20年連続のBクラス街道を行くことになる南海・ダイエー。この時点では、どちらも予想出来なかった。 数年のうちに西武の黄金時代が来ることは分からなくても仕方ないけど
南海がしばらく低迷しそうだというのはある程度予想できたと思うけどなあ
泥まみれ野球とかいってそれまで築き上げてきたものを完全にぶち壊しちゃったし しかし、広岡監督が一番警戒していたのは南海ホークスだった
曰く『あそこは投手陣がいいですからね、一番気をつけなければいけないチームですよ。』 野村退団後の南海には投壊状態の印象しか残ってないなぁ >>359
いくらなんでも、16年連続負け越しや、20年連続Bクラスの超長期低迷は予想出来ない。 しかもこの年は門田がキャンプ中にアキレス腱を断裂してシーズンの殆どを
棒に振った(終盤にやっと復帰)しな。
外国人のメイはそこそこ打ち、王天上も数字だけなら及第点な感じだったが >>363
投手陣がガタガタ。前年は4・01だったチーム防御率が4・86。飛ぶボール、圧縮バットの影響もあるが論外。開幕戦で藤田学が故障で離脱も響いた。 広岡西武後半の昭和59〜60年頃には、山内トリオに井上祐二、さらに藤本修二や加藤伸一など、戦前は投手王国予感させるに充分な布陣だった。
結果論だけで物を言ってはいけない。 この頃の南海は左投手(特に先発できるのが)がほとんど居なかった。 昭和59年頃はすでに山内新一は燃え尽きた後だし
毎年毎年投手のコマが足りないんで当時の南海をよく知ってれば
投手王国誕生なんて言葉は間違っても出てこない 広岡は若手選手が好きだったから、将来的にそうなりそうという
ニュアンスだったなら分からんでもない >>367
実際に広岡がそう発言しているのだから、それはないも何もないだろ スレチだけど昭和59年頃は藤田引退、金城と山内新一は衰えて放出が重なった時期
畠山、加藤といった高卒選手に期待しないと厳しい状況
ちょっとどころかかなり投手王国からは程遠かったと言わざるをえない
危機感から新井と山口トレードしたんだがこれがまた球史に残る失敗でなぁ… しかし井上、畠山、藤本、加藤と、デビューした頃の高卒投手達の素材は本当に素晴らしかったな >>366
広瀬監督いわく
投手不足で引退してた上田(ジージョ)を復帰させたりしたけど
他球団との差は目をおおうばかりで監督した三年間は辛いだけの日々でした、と
生え抜きで野村放出後のミスター南海と呼べる存在が
これだけ言ってしまうくらい当時のホークスは… 当時、同級生が被ってたプロ野球帽で南海だけいなかった >>373
あの恥ずかしい西武の帽子かぶってた奴いたのか 西武は移転先の所沢(埼玉県内)で球団の知名度を上げるために子供の通う学校近辺で
西武の帽子を無料配布してた。 8月に広岡の解任。
腹心の森ヘッドコーチと植村投手コーチの休養発表に
反発して。 この頃のヤクルトの家族主義はちょっと行き過ぎていて
外様に排他的な一面もあった 森と広岡はこの後も親密な関係だったのに、
西武時代の84年途中で対立して今は・・。
森が98年ぐらいに巨人監督に就任って言われた時
広岡は「森のような性格が巨人監督に合わない」って
言ったんだよな。 >>382
ファースト 片平
セカンド 河埜
サード 藤原
ショート 定岡
の内野陣は、それほど悪く無かったよ >>383
この面子はマシだったがそこから
片平トレードで放出
河埜チーム事情でポジション転々
藤原、穴吹監督就任に伴い引退してコーチ就任
定岡アキレス腱を切って引退 藤原はまだ現役続けるつもりだったが
後進に枠を空けてほしいという要望を聞き入れて引退
これが大失敗だった 山内、金城、藤田
衰えの見えた主戦投手を補おうとしてトレードに手を出し
だぶつき気味の新井を出してこの年近鉄Vの立役者山口を獲得する
が、現在でも球史に残る大損トレードとして語り継がれる 野村退団以降の南海はトレードをほとんどやらなくなった
たまにやっても失敗ばかり
なんか成功したやつあったっけ 阪急上田監督に言わせれば
「あれは『補強トレード』じゃなくて、『補弱』だ!」
さらに
「近鉄は新井で随分助かっている。南海はなぜ出したんだろうねえ…。」 片平、黒田と山下、山村も失敗でしたね。
片平は西武で有名になった。 ドラ1名取を入団一年目のシーズンオフにトレードに出してタイロン獲得
タイロンは南海で主力打者、名取は西武移籍後目立たず引退するので南海が得か?
でもタイロンも結局二年で守備難を理由にお払い箱になるんだよねえ >>392
でも山村はブレイザーのオキニ。
長年ホークスでコーチやってたし。 西武とヤクルトの開幕からの低迷。
西武は内野陣が大崩壊。
山崎の怪我欠場もあるけど、
山村、伊原、広瀬等ザルもザル。
外国人のミューサーは全く打てなかった。
守備は良かったけど。 >>395
大原もお忘れなく
新人森繁、怒りを通り越してマウンドで薄ら笑い
根本監督激怒
『オマエらはプロじゃないっ、同好会だ!』 青田昇さんのおかげでハンデ師とかしっかり勉強させてもらえた。だから今度の騒ぎでも何を今更って感じ。 やっぱり小林キャリアハイの22勝、内巨人戦8勝無敗ってのは
プロ野球ファンの胸を打った
まさにカッコいい男を地でいってた、男はグダグダ言わず仕事の結果で意思を示す的な。。 エースが獅子奮迅の大活躍、方や四番の掛布も確か48本打って
本塁打・打点の二冠獲ったんじゃなかったっけ?
それでも2位にすら滑り込めない阪珍タイガースw 実はこの年の掛布は3番が定位置。4番はラインバックとかスタントンとか竹之内だった。
あと、序盤の4月で一塁の藤田平が肉離れで離脱→重度の筋断裂と判明し、
ブレイザーの紹介でアメリカで治療・リハビリしてシーズンのほとんどを休んでた。
代役の一塁には佐野がコンバートされてた。 阪神は8月まで広島と首位争いしてたけど、
下旬の直接対決で3連敗して完全に脱落したな。
巨人もこのあたりで王が怪我で欠場していたし。
9月1日のヤクルト戦では
スイッチの柴田を含めて全員右打者を並べて神部に対したけど
2安打完封負け。 神部とか懐かしすぎる響きだなw
いぶし銀サウスポー梶間も同時期だったよな? NPO誇大広告ハローワーク指導員じゃちょうバイトレベル
NOPハローワーク爆買い指導員(40代千本ノックの刑)
NOPハローワーク爆買い指導員(冷暖房完備低所得者レビューアマゾンカスタマーさんコメント問題)
警察無視騒音問題(クラブビジネス使用クラス記者) >>171
日生藤井寺劇場は川崎球場より 狭いよ
照明が暗いし、階段は急でトイレ汚い
まあ照明暗いのは投手には有利だな >>402
小林繁 22勝9敗1セーブ 17完投 最多勝利 沢村賞
→優勝したらMVPでしょ
掛布48本塁打
これで優勝出来ないんじゃ >>141
>>138
新浦も途中まで小林より勝っていた
うまくいけば、20勝するかなと思ったが夏バテした
せっかく先発回数が増えのに、1年浪人あけで完投能力が低い江川の尻拭いに、エースが救援だから過保護特別扱いも甚だしかった
長島杉下小俣(長島の横にいた)堀内みんな安心仕切ってた
79年に限っては先発完投が期待出来たのは、新浦しかいなかったもんな
長島が四年間無茶苦茶な使い方したから、いつかは故障すると思ったよ…
新浦は後楽園で開幕投手で144 145 神宮球場でオールスターで149出してる
中日名古屋球場では最速何キロだしたかな? 8月16日時点
中日 40-35
広島 42-37
阪神 43-38
8月19日時点
広島 44-37
阪神 45-39
中日 41-37
8月23日時点
広島 46-38
阪神 47-39
この後甲子園に戻った阪神は4試合連続無得点負けで後退 >>402>>411
小川16勝、バレンティン60本塁打
で最下位のチームもありましたが… >>414-415
最多勝投手&本塁打王がいたにも関わらずチームは最下位
いつぞやのカープもそうだったなw この年、広島カープは初の日本一に輝く。
さて今年は… >>413
俺、8月17日に横浜で大洋に逆転勝ちして首位に立った試合見た。7回にギャレット同点2ラン、9回衣笠決勝タイムリー
裏に1死1、3塁のピンチを迎えたが江夏が代打田代を三振、最後の打者は覚えていないが。
これっきり首位の座を譲らなかった。 ギャレットといえば今年の巨人広島戦を見てると
未だにギャレットが打って巨人に点が入ってるのを変に感じちゃう >>402
全体の選手層は薄かった
特に抑えが皆無
先発が足りず抑えが皆無では
打線は本塁打数リーグ1位だっただけに >>400
小林繁はこの年の巨人戦の8勝無敗ばかりクローズアップされるね
同投手の80年〜83年の巨人戦成績は5勝15敗で実は巨人戦は通算で負け越している事実
はマスコミはあまり取り上げない
なんでだろ >>422
それだけ、巨人戦8勝無敗のイメージが強すぎた
ということですよ。 風船飛ばしは、まだなかったけど
甲子園ラッキー7の音楽がこの年から流れてた >>816
ゲーム差0で勝率の違う3チームが並ぶのは珍しい >>396
森繁は、開幕12連敗中に喫した二度の0-1試合で、両方とも先発だな。
シーズン通算では失点と自責点の差が18もある。似たようなイニング投げた松沼博は6。
森繁は本当にバックに足を引っ張られまくったのだろうな。 8月16・17・22・23日とゲーム差ゼロに迫りながら結局一度も単独首位に立てなかったタイガース 今夜みたいなイライラする試合を名試合に書いた山際は神 ヤフージャパンブログ社員ダイエットニュース マイナス金利狙い通り「仏」ローーン
https://www.youtube.com/watch?v=uWLnfkOLmfk京都京野菜ぼったくり取引価格
ダイエットニュース (アリババダイエット40代偽装結婚プロ級世代(ヤフージャパンタイ資金洗浄)
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ヤフーネットダイエットコーヒーニュースタウンワークサービス不足まいちゃりマイカー窃盗犯
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適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否
トランプジョーカー切り(放送大学消防庁コストカットアイドルマスターアップ株式会社)
NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京槍杉ギャンブル依存症顧問職員)
ヤフージャポンマイノリティ社員「日本とロシアは仲良くさせてはいけないーhondasouichirouー」
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け投資家フェイクニュース 今年の日ハムがただ今最下位街道驀進中で、この年のヤクルト以来の惨事になりそうな勢いだなあ >>435
それでも、一時期のどん底状態からは脱した感があるな。
その代わり、ロッテが酷いことになっているw >>422
王を筆頭に巨人の選手が同情して打てなかった >>339
この年は77年に比べると強かった印象
山田福本加藤が脂乗り気って磐石だったし
それだけに近鉄に3タテ喰らったのはショックだった >>439
山田の一発病は相変わらずだった。
山口高志が最早ポンコツになっていた。
打線が山口哲治を全く打てなかった。 >>435
優勝→最下位なら13年日本ハム、14年楽天も
ま、それは無いかw 大一番に弱い鈴木に代えて井本をプレーオフ、日本シリーズ第1戦に持って来て成功した。
鈴木はシリーズ第2戦に完封してさすが大投手と思わせたが、第7戦は先制を許し(マニエルの
後逸が痛かったが)やっぱりって歴史的評価になってしまった。翌年の第7戦は逆転してリリーフ
に出て来たが再逆転された。
井本はヤクルト移籍以降はボロボロの人生で早死にしてしまったのが悲しい。 Gグラブ賞のセリーグ捕手は水沼四郎だろうに
当時の記者は何をやってるんだか >>444
若菜だっけ。
シーズンのパスボール日本記録を作った。 この年の阪神・掛布は本塁打48本打ったのに打点は95なんだね
なんとなく効率が悪い気がする >>341
大橋の守備は前年の日シリでかなり顕著になっていた。 セリーグの1位と5位と6位の順位が現時点で一緒。
広島が強いときは巨人が弱いというジンクスいまだあるのか・・・
79年と違うところは巨人と広島の対戦成績・・巨人はなぜか優勝チームの広島に
勝ち越し この年の広島は、セリーグを制したのに5位巨人を相手に9勝15敗の大敗
優勝チームがBクラスチームにここまで負け越す例はかなり珍しいのでは?
江夏の21球があるからかしらんがあまり知られていない >>449
巨人からしたら、15勝9敗で勝ち越しているわけよね。
それでシーズン5位ということは、どこかのチームに大負けしたということか。 巨人は小林に8連敗したのがそのまま対戦成績に反映。
またこの年は最下位ヤクルトにも負け越し。 >>449>>450
ちなみに巨人は79年2位の大洋にも勝ち越してる。 75年の巨人は最下位で全チームに
負け越してるが優勝してる広島とが負け越しの数が一番少ないという・・・古葉って巨人苦手
なんだなと思う。 阿南監督の3年間は巨人に全部勝ち越し
当時巨人はダウンスイングの全盛期で広島の山根・福士・池谷という本格派には強かったが
阪神小林・中日三沢といったアンダースローの縦変化に弱かったと言われてたね。
日本って動く球が打てないというがこの時からのダウンスイング信仰が原因だと思う 80年も巨人は広島に一応勝ち越し。 84年王政権1年目ですら広島と5分 古葉vs長嶋の頃の市民球場の巨人戦は
いつも馬鹿試合で広島の強打線が打ち負けてた印象 >>423-424
小林はレギュラー陣が変わっていくにつれて打たれ出したと言ってたな。
自分がいた頃のレギュラーはベンチから見てて弱点とかクセが丸わかりだったらしい。 79年の巨人は5位だったが、首位広島2位大洋には勝ち越していた。中日ヤクルトに僅差で負け越したが何と
言っても阪神戦の負債がね。 昨日の巨人がユニ一式が試合開始時間に届かず急きょ30分開始時間を遅らせて
何とか試合開催できたが、この年の南海が7月の後楽園での日ハム戦に備えて送ったはずのユニ一式が
東名高速の日本坂トンネル事故による渋滞で届く目処が立たずに
結局中止になったことを思い出した。 ☆ 日本の核武装は早急に必須です。総務省の、『憲法改正国民投票法』、
でググってみてください。現在、衆参の両議員のそれぞれで、改憲議員が
3分の2を超えています。私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。
憲法改正国民投票法、でググってみてください。お願い致します。☆☆ >>458
あのど貧乏南海に、ユニを前送させる余裕が
あったのか…?
てっきり、選手に自分で洗濯させて、自分で
遠征地まで持ってこさせるものかとw すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
9JBFO この年、カープが初めての日本一に輝く
これが今日放送の「アタック25」で出題されてたな
(最後の旅行行きをかけた「西暦何年に起きた出来事か」を
問う問題の最後に古葉監督の胴上げのシーンが流れる) この年の今日、西武球場が開場
しかし、西武は開幕から連敗街道まっしぐら… オープン戦をやらずにキャンプからいきなりシーズンインしたんだっけ? >>82にもあるように、衣笠の死球→肩甲骨骨折はこの年のことだった。
そして今日、その衣笠氏が逝去。ご冥福をお祈りします。 自己レス
逝去したのは今日ではなく昨日のことでした
申し訳ありません >>82
この時は3連戦(7月31〜8月2日)だったけど、
1戦目・・・高橋慶が今も日本記録の33試合連続安打を新浦から打って達成も試合中(2回表の守備で)左足を負傷離脱
2戦目・・・西本が衣笠の肩にぶつけて骨折(その前に1イニングで三村や萩原にもぶつけて不穏な空気が)
3戦目・・・負傷して出られそうもなかった衣笠が代打で登場、江川から三振を喫するも名セリフ
2戦目にぶつけた時に衣笠が西本を気遣ってたのは乱闘が起きるから避難しとけということも 39年ぶり
ヤクルト側の用具運搬車に到着遅延が発生したため、6日にナゴヤドームで開催される予定だった中日―ヤクルト戦の
中止が決まった。中日の球団広報部が発表した。
ヤクルトの用具を運ぶトラックは5日に遠征先の広島市を出発したが、名古屋に向かう途中の交通事情が悪く、球場到着が
大幅に遅れたため。
また、これまでに荷物の遅延で中止になったのは1979年7月13日の日本ハム―南海戦(後楽園)。この時は、東名高速道路の
日本坂トンネル火災の影響で、南海の荷物が届かなかったため、試合が中止になった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180706-00000109-spnannex-base 衣笠が肩甲骨に死球を受ける乱闘になった試合
その後山本浩二が同点3ランとサヨナラ本塁打打ったんだっけ?
この年の日本シリーズって
江夏の21球以外はあんまり語られない印象なんだが
何か他にも名シーンとかあったの? 40年近くも前だからね。
あれ以外に名シーンといっても、思い出せないよ。
強いて言えば近鉄の2戦目の先発だった草が、ヒーローインタビューで第1戦の
先発に起用されなかったことの不満を仄めかしたとか…でも試合じゃないしな 第一戦を井本にとられた無念みたいなことが、新聞にデカでかと出ていたな。
まちにまった初めての日本シリーズに、今まで近鉄を引っ張ってきた草根が、シーズン大活躍といかずに、好調だった井本にとられたと。 日本シリーズ第六戦の井本の力投は凄かった。
中二日先発で完投勝利。
中二日の先発で日本シリーズ勝利は
これが最後ではないのかな。 エースは中3日で1、4、7戦投げるのがセオリーの時代 この年の西武の後楽園球場での日ハム戦では、
この年だけいたマルーフの打席の時に、福岡時代からのファンから、
「基〜!」!という声が飛んでいたらしい… 政治家はどうして「朝鮮飲み」をするんですか?
http://livedoor.blogimg.jp/defugon/imgs/3/0/30454123.jpg
朝鮮飲みは朝鮮の人が目上の人の前でお酒を飲むときの作法です。
それが何故、日本の国会答弁で“水を飲むとき”にやらなければいけないのでしょう? >>477
あの年の日本シリーズは最後の最後で大ドラマが待っていたわけだが、それまでは「チョンボシリーズ」と言われたくらいミスが目立ったな。
最たるものが第五戦、三村のフライをライトのマニエルが取れずに決勝点となったプレー(投げていたのは草魂)。
プレーオフで大車輪だった山口哲治も打ち込まれた。
平野は20打席以上もノーヒットだった。 「ヤクルトファミリー」(前)
日本シリーズ終了の翌日から来季の戦いは始まっているとはよく言われるが、それは全球団に言える事で頂点に立った球団でも、浮かれないように
との戒めの意味で使われる表現だ。下馬評を覆して阪急に勝って日本一になった78年のヤクルトも例外ではなかったが、ここではクールな指揮官
広岡達朗と球団フロントとの“内戦”という戦いが始まっていた。
日本一から一夜明けたオーナー報告の場で、広岡は「今年優勝したのは早過ぎました。たまたま勝ったようなもので、本当に力のあるチームになる
のはこれからです」と言った。日本一の余韻に浸って大喜びしていた松園尚巳オーナーの心は冷めたが、広岡にすれば「勝って兜の・・・」という本心
からの発言だった。引き続きチーム強化を図りたい広岡と、“ヤクルトファミリー”と言われるほど選手を可愛がる松園ら球団首脳が火花を散らして
いたのはこの時からだった。
76年シーズン途中に監督に就任した時から“火種”はあった。オーナーは「武上四郎を監督として育ててほしい」と広岡に頼んだ。69年のオーナー
就任以来、別所毅彦、三原脩、荒川博、そして広岡と続くヤクルト監督の系譜、生え抜き監督誕生は松園の悲願だった。広岡は当時まだ44歳、
初監督で理想のチーム作りに燃えていた事もあって、後任育成指令には少なからず煩わしさを覚えた。
それでも当初は蜜月関係にあった。染みついていた負け犬根性が顔を出した時には、選手に「やる気の無いものは行きたいチームを3つ書け、
トレードに出してやる」と檄を飛ばしたり、77年オフには森昌彦のコーチ招聘とユマでの初となる海外キャンプを認めるなど、オーナーは広岡をバック
アップしてきた。
猛練習や意識改革が効果を示して2年で覇権を取り安定期に入るかにも見えたが、フジサンケイグループを中心とした「広岡留任」の声が高まり武上
監督就任がずれ込んだのと、前述の日本一会見で松園は苛立ってきていた。歓喜に沸く球団やファンをよそに広岡はコーチ人事に着手、森を作戦兼
バッテリーからヘッドに昇格させた。さらに外部からは阪急・植村義信、大洋・近藤昭仁を呼び、堀内庄と丸山完二を二軍へ転出した。この編成までは
受け入れられたが、戦力の入れ替え案では悉く衝突を繰り返す事となった。 (続) 「ヤクルトファミリー」(中)
契約延長となった広岡は、マンネリ化を防ぐためのトレードを次々画策した。ロッテ・山崎裕之の獲得を狙って「投げてみないと分からない投手で計算
が立ちにくい」と評していた安田猛の放出を目論んだが、これに松園オーナーは「前から子飼いの選手は出したくないと言っているではないか」と
怒った。それならばと交換相手を替えて山崎獲得内定まで漕ぎ着けたが、放出予定の西井哲夫と渡辺進が渋って流れた。
安田については、守備面に不満を持っていたチャーリー・マニエルも合わせたトレードを近鉄に打診して、井本隆と神部年男を譲り受けることが決まり
かけたが、オーナーに続き安田本人が「他へ行きたくない」と拒否してご破算になった。それでもマニエルと神部を軸とした2対3の交換は実現、他にも
山下慶徳を南海へ放出するトレードを行ったが、「自分のチームでなくなった」とこぼしたように、松園にはチームが遠くへ行ってしまうような気がした。
一方で、ファミリーに固執しない約束でならと続投を引き受けたはずの広岡は落胆した。広岡によれば前年オフも南海の江夏豊と柏原純一の獲得が
内定しながら交換予定が折り合わず流れた経緯もあったとの事だった。選手側も多くがトレード案に対し残留を望んだが、猛練習や出番減少もあと
少し耐えていれば“家族的雰囲気”が戻ってくると考えていたのか。
秋からの監督とフロント、選手の関係がペナントレースにも影響して1分けを挟み開幕8連敗したが、5月に持ち直して27日には5割まで戻した。4位に
浮上して首位とも2.5差、さあ追撃という6月に広岡はオーナーに呼ばれた。そこで指導法を理由に森、植村両コーチの二軍異動を迫られた。
広岡は「コーチに指名した監督の私に責任がある」として応じなかった。オーナー注文は「厳しすぎる指導はチームワークを乱す」という選手からの
言い分のみというものだったが、皮肉にもこれでまたチームワークを乱されたヤクルトは、6月に2度の4連敗と開幕同様の1分けを挟んだ8連敗で
最下位転落、5位阪神とだけでも5差がついた。主力の不振も致し方ないチーム状況で、6月まで大杉勝男、大矢明彦、水谷新太郎が大不振、投手も
梶間健一の孤軍奮闘だった。
負けが込み8月に入ってもリーグの借金独占と好転しないチーム、その頃オーナーの意を受けて広岡に意見をぶつけるため真っ向対峙したのは、
弁護士を本職とする球団社長の佐藤邦雄だった。佐藤が広岡を球団事務所に呼んだのは、8月7日で立秋の事だった。(了) 「ヤクルトファミリー」(後)
ヤクルトの思わぬ低迷の一因として故障者続出というのがあった。オープン戦で酒井圭一が顔面骨折、6月には抑え役の井原慎一朗が右肘痛で
2ヶ月半、下旬には神部が右太もも肉離れ、若松勉が左太もも捻挫でそれぞれ1ヶ月離脱した。他にはデーブ・ヒルトンが7月から右かかと挫傷で
1ヶ月、右太もも肉離れの安田と左手腱鞘炎の角富士夫はシーズンの半分以上を休み、満足な状態で試合に出た事がなかった。こうした現象を
球団側が広岡や森、植村の課した厳しい練習に原因を求めた。
8月7日の会談で佐藤球団社長は、森と植村の二軍異動か休養を迫ったが広岡は首を縦に振らなかった。5日後には佐藤が遠征先の岡山まで連絡
もなく出向き、両コーチの降格を要求したが広岡は三たび拒否した。一連のやり取りからは、コーチではなく自身に責任があるという広岡に対して、
コーチ人事を攻め続ければ広岡から辞任を切り出すのではないかという球団の狙いが透けて見えた。球団社長が手を変え品を変えという形で手直し
を提案しても平行線のままだと、行き着く所は強権発動だった。8月17日に広岡へ一切知らせず、森と植村に「休養」を言い渡した。こうなると売り言葉
に買い言葉、責任の所在を説明する広岡に球団社長が「ならば君が辞表を出したまえ」と言うと、外堀を埋められたように広岡も怒って退陣を決意して
しまった。
その日の試合前、球団社長は2コーチの休養と“今日は”広岡が来ない事を発表した。試合中には弁護士を立てた広岡から今回の問題に関した全
600字に渡る声明文が届いて、後々辞任か解任かを巡る騒ぎにもなった。正式退団は8月29日、歓喜の日本一からわずか10ヶ月後の事だった。
広岡は「野球人の信念に基づいての退団を、お金の問題として見られたのは残念だった」と振り返った。ヤクルトファミリーの壁はとてつもなく高く、
前年の日本一ぐらいではフロントも選手も本当の意味での意識改革は出来ていなかったのだ。
翌年の監督に予定通り武上を据えた松園オーナーは、よく新人入団発表の場で「監督は技術を100%求める、私は人間性を無視してまで技術を
求めない」と言っていた。入団発表に選手の家族を呼ぶのも今ではどの球団でも恒例になったが、この頃のヤクルトが最初だった。 (了) >>491
酒井圭一はまるで戦力になっていないから彼のケガはヤクルト低迷の原因ではないぞ。 【告発者の名前と住所】
◎宇野壽倫 連絡先:東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸202号室
還暦無職・生活保護不正受給犯罪者の色川高志(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)はアルバイトをしていながらそのことを内緒にして申告をせずに
不正に生活保護を受給しています。「糞アリ貧乏人どもは一生死ぬまで汗水流してせっせと働いとればええんじゃい。おんどれら糞アリ貧乏人どもがちゃんと働かんかったら
ワシが遊んで暮らせんじゃろうが〜。ボケ〜。カス〜。アホンダラ〜。」が口癖で「金や金、金持うて来い〜。どアホ〜。」といつも大声で叫んでいるようなとんでもないクソ野郎です。
こんなクソ野郎の思い通りにさせてはいけません。みなさんどんどん匿名で役所や警察に密告してこのクソ野郎が遊んで暮らせないように人生の厳しさというものを徹底的に教え込んでやりましょう。
生活保護が受給されなくなった時点でこの犯罪者クソ野郎の場合は自殺するしか他に道がないでしょう。 こんな犯罪者クソ野郎をのさばらせていては世の中のためになりません。
このような犯罪者クソ野郎が存在していること自体正当に生活保護を受給している人の迷惑となるでしょう。
まずはこの犯罪者クソ野郎に渡ってしまった我々の大切なお金を取り戻しその上でみなさんの力でこの犯罪者クソ野郎を自殺へと追い込みましょう。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
色川高志 (あいかわ たかし)
〒125−0062
東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室
【色川高志という人物も生活保護受給者でありながら申告せずに内緒でネットストーカーなどのアルバイトを
している生活保護不正受給犯罪者です】
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111 「機は熟した」
V9以後のプロ野球はまさに群雄割拠で、74年ロッテは24年ぶり、75年阪急と78年ヤクルトは球団初となる日本一に輝いた。リーグ優勝の点でも、
75年広島のセ・リーグ初制覇は世間を騒がせた。
近鉄が12球団で最後となるリーグ制覇をしたのが、2リーグ分立30年目の79年だった。前年前期が9差の2位、後期はあと一歩の所で王者・阪急に
かわされた悔しさを胸にスタートした近鉄、5年以内に優勝させられず胃潰瘍もあり辞任を決意していた西本幸雄監督を、選手のみならず球団や本社
総動員で翻意させての再出発だった。フロントは神部年男らとのトレードで、ヤクルトからチャーリー・マニエルと永尾泰憲を獲得してバックアップした。
西本が「機は熟した」と言った事に間違いはなかった。開幕からの4連勝を皮切りに4月を13勝3敗の好発進、その後も勝ち続け5月末時点で31勝
9敗4分けと驚異の成績を挙げて、2位の阪急とは最大となる7差をつけた。4月は打率.420で9打点の梨田昌崇、5月は打率.427で15本塁打の
マニエルが打線を牽引した。投手陣では井本隆、村田辰美、柳田豊らの先発が力投、救援では香川正人の活躍も大きかった。
5月29日には既に前期優勝M18が点灯していたが、6月9日に背筋痛で成績不振の鈴木啓示が登録抹消した上に、ロッテ戦でマニエルが死球に
よる顎骨折で離脱した。エースと主砲を一日で失ったチームは2度の3連敗で失速して、1分けを挟み9連勝の阪急に首位を奪われ逆マジック「3」が
点灯したのは、6月23日で残り3試合の時だった。
しかし翌24日からの南海3連戦では、切り込み隊長・平野光泰が大活躍し24日は逆転打、25日は1試合3本塁打で連勝に貢献した。そしてM1の
26日で引き分けて75年後期優勝以来の“2分の1優勝”となる前期優勝を決めたが、この日奇跡のバックホームをして見せたのも平野だった。
後期は2差の2位、阪急とのプレーオフでは対戦成績で負け越し実績でも劣る事で不利と言われながら、1戦目は井本の好投、2戦目は一発攻勢で
山口高志を攻略、3戦目は2戦目まで計3イニング打者9人に対しパーフェクトリリーフの山口哲治が3回3分の1を被安打1の快投で胴上げ投手と
なりあっさりとストレートで下す悲願の初優勝、山口は1勝2SでプレーオフMVPに輝いた。
阪急時代での初優勝は5年目、近鉄では優勝まで6年をかけた西本は「優勝に立ち会えたのは本当に幸運」と言ったが、ナインや球団の熱意によって
与えられたともいえる契約6年目での優勝から出た本音だったのではないか。それにしても阪急と近鉄での長い歳月をかけた弱いチームからの
手作り野球が印象的な西本だが、それぞれ優勝させるまでにBクラス3度ずつを経験していた。現代でならいずれも途中で解任された可能性が高く、
西本の時代は実績ある監督に対して“機が熟す”まで待ってもらえる良い時代だった。 (了) >>495
死ねオナニーガイジ
下手くそで醜い文章乗せんな 広島が優勝を決めた阪神戦、
9回表に阪神が一点差に迫ってなおも無死一、二塁から
榊原の送りバントを江夏が処理して三塁封殺したが、
難なく三塁に投げた江夏のフィールディングに驚くと同時に
二塁走者川藤を変えずにそのまま使ってた事に驚いた。
川藤は80年まで盗塁を記録してるからまだ鈍足になるちょっと前か。 >>495
いつもありがとうな
単発の罵倒レスの方がよっぽどスレ汚しじゃボケが >>499
毎度毎度の自演w
こんな過疎板の過疎スレで単発がどうのとか頭悪いの? 駄文を貶されると発狂してすぐ擁護レスするからわかりやすい 7月まで小林いなくても巨人首位争い。
小林いたらね。 クラウンにいた石井茂雄(クラウン退団当時で187勝)を4月に急遽テスト入団させるも、
小林放出、江川6月まで出場自粛の穴を埋められるはずもなく、何とか700試合登坂だけは達成し引退、
巨人では2勝上積みに留まった。もっともクラウン時代は年間5勝するのがやっとで
200勝への道はかなり厳しかったが >>495
また書いて下さい。
楽しみにしています。 よくこんな稚拙な駄文を載せる気になるな
爺になると恥を感じなくなるのかな >>498
リアルに野球を見始めた頃は既に代打だった川藤が実は俊足だったとは… 何でそんなに攻撃的になるんかよくわからんな
確かに知ってる話ばかりだけど、こういうのもあっていいじゃん >>498
カープ優勝の動画見る限り川藤の足が早く三塁セーフだわ
これ逆転負けしても広島の優勝は変わらんだろうけど
阪神は2位ぐらいになれただろ 後期は、阪急が西京極のホームゲームで優勝を決めたが、試合は引分だった。
阪急の最後の打者(加藤英だったかな)が内野ゴロで凡退した直後、阪急の選手が喜びながらベンチを飛び出して、上田監督を胴上げをしていた。
ちょっと珍しいシーンだと思ったw この年から主がいなくなった平和台、全面人工芝にしたな。
2億5000万円かけたそうだが、ライオンズが去って慌てて導入を決めたのだろうか。 本来なら、ライオンズがいた時点でそれをすべきだったんだけどね 太平洋クラウン時代は行政に嫌がらせされ続けてたからな
無理な話よ それらが積もり積もって、「福岡を去る」という決断に達したわけだからね >>517
お前らの脳内には珍カスと虚カスしかいないのかw
これだから知恵遅れは困る >>517
お前らの脳内には珍カスと虚カスしかいないのかw
これだから知恵遅れは困る この年が強い阪急の最後の年だった。ただその終焉の兆しは見えていて
ウィリアムスと大橋の出場が減ってきて黄金時代を支えた守備に衰えが出てきている。
近鉄に3連敗を喫した喫したプレーオフ、第三戦の決勝点がこの年大橋と交替して
ショートに入っていた井上のエラーだったのが象徴的だった。 10回表の阪急の守備、無死一塁でバントを稲葉が犠打野選、その次のバントは三塁で刺せるのに、加藤秀が三塁を見もせずに一塁に投げたりしてた。
近鉄の先制点も島谷のエラーが絡んでいるし、やはり全般的に守備がおかしかった。 半期優勝も含めればこの年で阪急は10連覇だったね。 この年前期の土壇場に近鉄を逆転して阪急にマジック点灯したのに
日本ハム戦を山田で落としてる。こんな時には絶対勝つのが
阪急だったのに、って思ったのを覚えている。 130試合制なら阪急の方が近鉄よりも1ゲーム差で上だったんだよな。
もちろん最初から1シーズン制ならば、それを目標にやるわけだからそういう単純比較は無意味に近いかもしれんが。 あと、梶本は投手出身の監督にも関わらず、監督が梶本になった途端に阪急の投手王国が崩壊したよな。
翌年80年はさらに投手陣が酷くなったし。 短期決戦に弱い西本監督だが、この年も翌年もパのプレーオフは3連勝。
相手の監督が梶本、山内、と自分が監督をしていた時の選手だった人だから
見下ろして戦うことが出来たのかな。
逆に阪急時代の懐刀だった上田相手にはやりにくかったのかもしれん。 >>531
75年は逆に近鉄が上だったから
まあ、おあいこってことで 近鉄の顔ぶれってマニエルと永尾が来た以外は前年とほとんど変わってない。
前の年はDHだけレギュラーが定まらなくて、そこにマニエルが来たから
マニエル加入の分がほぼ丸まんま戦力アップになり、これでほぼ阪急と互角になった。 名前だけは知名度あってもどんな選手だったのか知られていない代表例として
この年南海に加入した王天上(本名はオーテンジオ)がいた。
成績だけ見ると.248 23HR(113試合出場、前期はDH・後期はライト)と
及第点と言える成績だけど、この年は門田がアキレス腱を断裂し終盤まで休んでたから
穴埋めとしてはかろうじて合格点かな? >>537
長打力のある右打者がいないチーム事情を考えればまずまずの成績だったんだけど
前期で16本塁だったのが後期は7本に落ちていて、どうも研究されてしまった感
が拭えなかった。翌年シーズン途中で解雇になる予兆はあったのかも。 日本では「王天上」だったがアメリカでのニックネームは
皮肉にも前監督の野村克也と同じ「ムース」だった この年公開された「太陽を盗んだ男」の中でジュリーが3つ要求したうちの一つが
プロ野球中継を最後までやれだったのは有名だが、そのカードは巨人-大洋だった。 そう言えばこの年から始まった西部警察の第1話で犯人の要求のひとつが
「近鉄-日本ハムで近鉄に勝たせろ」だった。
劇中では結局近鉄の鈴木啓が日ハムの高代にサヨナラホームラン打たれて負けるんだが
実際にそういう試合あったのかしら? >>541
79年5月26日の日ハムー近鉄で
鈴木啓示が高代に2発浴びて8-11で負けた試合があったが
サヨナラ負けではない 太陽を盗んだ男の劇中、ジュリーが第一の要求としてナイターを最後まで中継しろと言ったのは
自室で原爆を製作中にたまたま後楽園での巨人vs広島戦がテレビで中継されてて
当時の広島の抑えだった江夏が左キラーとして売り出す前の平田薫と対戦する終盤に
ナイター中継が21時になったため打ち切りになったのシーンが要求の原因に。
ただ、この当時は東京でも巨人戦しかナイター中継はしてなかったと思う。 >>543
テレビ東京(当時は東京12ch)が時折自社でヤクルト、大洋、西武戦を。
阪神、稀に阪急、近鉄戦をサンテレビ、KBS京都から同時ネットしていた。 >>543
じゃたぶんその試合の映像だ
ドラマはサヨナラホームランって設定になってるんだが
映像は何故かサヨナラっぽくなくて、まだ試合が継続している感じだったから 開幕12連敗の西武だが年間トータルでは5位南海と一敗分0.5ゲーム差しかなかった
両チームがライバルだったのは翌年の前期までだった 片や上がり目、片や暗黒時代への片道切符状態だからねw >>309
> 「弱体化投手陣」
先発と救援の両刀使いだった新浦寿夫を先発に専任したとしても
> 79年に入団したリック・クルーガーはライトと同じ左腕ではあったが、アメリカではメジャー通算17登板の2勝とマイナー暮らしが主で、直近
> 3年間の3A生活では殆どが救援登板だった。変幻自在のフォームに決め球のシンカーという典型的な救援タイプ、長島は早々と先発起用を
> 諦めた。4月は3登板のみ、5月は1日に幸運な来日初勝利以降、初先発を含む7試合に投げた。しかし防御率4.42ともう一つ、6月頭に
> 江川と入れ替わって二軍に降格した。
> チームは前半戦、中日との首位争いでトップに立っている事が多かったが、7月に中日に奪首されると再びクルーガーが一軍に呼ばれた。
> 再昇格後はワンポイントなどショートリリーフでの出番が多くなった。だが結果は上がらず、7月以降の防御率は5.19。チームが8月に入り
> Bクラスに転落すると、まだ来期を見据えるような時期とゲーム差ではなかったが、7日のヤクルト戦を最後にクルーガーは一軍のマウンド
> から姿を消した。
>
> 79年の巨人投手陣において、先発左腕の勝利数は新浦一人の誤り14勝だけに終わった。
新浦寿夫は正しい15勝11敗15セーブ >>119
新浦さん〜村田さん〜鈴木孝政さん
ボクですら後楽園で79年に150q/h越えたこと有りません…
1981年度に日米野球で救援で最高148q/hです 甘くなってからです 終速なら納得します
1985年度最盛期過ぎてから北陸の地方球場デーゲームで152q/h出しました
20代後半でも速くなってます
79年に名古屋神宮では150出るのに 江川から逆転3ランのラインバック、引退後信じられないくらいの不運が続き挙句は事故死
あれほどのナイスガイがどうしてこんな仕打ちを受けなきゃならんかったのか! https://www.nikkansports.com/baseball/news/202001140000120.html
寺尾 2作目が「江夏の21球」ですね。
山田(雅人) 西本幸雄さん(元阪急、近鉄監督)とは関西テレビ情報番組「なにぬねノムさん」でご一緒していた時に話を聞いていたし、
江夏さんは大院大高の先輩なんです。
寺尾 79年広島と近鉄の日本一決戦。広島江夏が9回無死満塁の大ピンチを抑えて優勝します。
山田 江夏さんの外角低めへの制球力は高校時代に砲丸投げをやってたから身についた。
寺尾 1死満塁から近鉄石渡がスクイズ失敗で代走藤瀬が三本間で挟殺にあった。2死から石渡三振で広島が日本一になった。
山田 西本さんは江夏は一生待っても押し出しがないからスクイズしたくなかったらしい。その前の佐々木が三振したから石渡も打てな
いだろうと、つい手が動いてスクイズのサインを出してしまった。 この年の今日、江川が阪神へ入団し、小林繁と即日トレードで讀賣へ移籍 >>553
そして小林はこの年、讀賣相手に8勝を挙げた 上田は、前年のシリーズの混乱の責任を取って辞任したけど、それがなければこの年も上田が阪急の監督をやっていたのだろうか。 1978年オフは田淵の世紀のトレードもあったから凄いよねw >>560
ちゃうで
田宮はん自殺は1978年の師走や >>395
この当時のライオンズは、田淵獲得のために真弓と若菜のレギュラー2人を放出したけど
その穴埋めをせずにシーズン入って守備ボロボロだったみたいだね。
野村を入れたけど、野村はもう守備で計算できる年時じゃないはずだし。
根本は補強しなくてもどうにかなると甘く見ていたのか? 西武が野村と田淵の獲得にゴーサインを出したのは堤の意向
球団持った直後の堤は選手に対してあまり詳しくなかったが
そんな自分でも知ってる選手なんだから一流選手に違いない
例え衰えていても何かしら役に立つ部分があるって公算だった >>564
ただドラフトで石毛、ロッテから山崎、南海から片平とその後は上手く補強した
田淵については明らかに出血覚悟のトレードだった
当時の田淵はすでに「打つだけで守れない走れない選手」という評価だった >>564,565
堤傘下のプリンスホテル野球部で中尾や石毛等と確保していたので、ゆくゆく彼らを入団・起用する腹積もりだったかもと。
只、プリンスホテル並びにライオンズの有望選手掻っ攫い振りに非難が集中したのと、中尾よりも更に若い伊東の確保の目処が立ったので、
中尾とかは他球団に行った(行かせた?)けど。 プリンスホテルは支度金を最高2500万出してたって言うんだから
貧乏なプロ球団より待遇が良かった 記憶があいまいなんだが、この年
後楽園球場の大洋戦で江川が救援登板して
最後に新浦が抑えた試合観戦した。 当時「江川投手 王選手を見習って」という横断幕が掲げられてたな >>572
王の人間性を知らんヤツが掲げていたんだな >>3
R.クルーガー(読売ジャイアンツ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構https://npb.jp/bis/players/41343848.html
子供時代なので記憶にないよ
左投手だったかな?
29イニングスじゃ見れない確率高い ジャイアンツヴィンテージ江川特集パート1 江川初勝利で新浦寿夫 4点差で救援した
最速終速143キロq/h近代の初速ガンなら新浦も江川も150連発だな
>>571
> 記憶があいまいなんだが、この年
> 後楽園球場の大洋戦で江川が救援登板して
> 最後に新浦が抑えた試合観戦した。 日本シリーズ第七戦。9回裏、佐々木三振の後に近鉄に代打は残っていなかったのかな。 まずスタメンで
石渡 小川 マニエル 栗橋 有田 羽田 アーノルド 平野
途中出場で
梨田 池辺 藤瀬 吹石 阿部 永尾 佐々木恭
あと残ってるのは第三捕手の石山とあと一人誰か入れてるか入れてないか
くらいじゃないの
http://2689web.com/1979/buffaloes.html
あと石渡はなんだかんだ言って.280打ってキャリアハイのシーズン この年の今日、広島カープが球団創設後初の日本一を決める >>558
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/meikyu/1423307804/481-482
ちょっと前に「1978年のプロ野球」(↑参照)スレでも話題になったけど、
シーズン途中でも休養していたようだから、勇退していたと思う 広島ファンが江夏を見る目は今のソフバンファンが森を見る目と似た感じかな? あのヒョロ体型の小林繁、
あの太鼓腹の江夏、
今見るとどっちも異常 タブチのトレードをバカにするやついるけど
阪神とすれば
真弓、若菜、竹の内と3人レギュラー貰えたんだから
大成功だろ
小林の加入もあって前年歴史的最下位から5割復帰と大躍進だしなw 田淵のトレードで阪神が責められるのは
深夜1時過ぎのド深夜に呼び出した非常識さの部分も大きい >>585
あれ何をそんなに急いでたのかね。
マスコミ漏れを恐れたとか? スポーツ新聞の締め切りは過ぎたであろう時間帯だけどね 当時は掛布がかなり伸びてきて、人気もトップクラスになっていた
だから、田淵を放出するにはよいタイミングだった
獲得した真弓が人気選手になったから大成功だった >>575
> ジャイアンツヴィンテージ江川特集パート1 江川初勝利で新浦寿夫 4点差で救援した
> 最速終速143キロ?/h近代の初速ガンなら新浦も江川も150連発だな
→これは広島戦だよ >>309
45試合 15勝11敗
5セーブ 234回奪三振率8・49
79年の巨人投手陣において、先発左腕の勝利数は新浦一人の14勝だけに終わった。
ちゃんと調べたまえ!!15勝利しとる失礼だ! だから先発左腕の勝利数なんじゃない?
15のうち1勝はリリーフだからだなきっと。 後に日本シリーズ未勝利の200勝投手になる北別府は
この年にシーズン17勝、日本シリーズ初戦を任されてるが、
この年には既にエースという感覚だったでしょうか? 不動のエースって程では無かったよ。
初優勝時までのエース外木場は衰えがハッキリし、次を担うべき池谷、高橋里志も一発病に悩まされたりと不安定で、
先発の駒を揃えるべく、北別府と山根を抜擢せざるを得なかったって状況なんよね。
シーズン通してローテを守ったと言う点では確かに北別府なんだけど、夏場辺りから台頭して、カープの首位浮上並びに
9月以降の首位独走に大きく貢献し、防御率も最も良かった山根和夫が(シリーズでの好投も相まって)次期エースという
感じになっていた様に記憶している。 >>590
結果そうなったけど、もしこれで真弓が鳴かず飛ばずで終わったら
阪神としては大損だっただろうね 田淵で商売するとなった時、他球団からトレード打診が殺到したが
交換要員に真弓がいることが決め手になってライオンズとのトレードとなった 当時の阪神は若いスター選手の掛布が育ってきたため、田淵を出すことができた。
ストイックで練習熱心な掛布のほうが、練習嫌いで肥満体の田淵よりイメージもよかった。
阪神時代晩年の田淵はあまり評判はよくなかった。 >>597
意味は感じるだろ
そう解釈する理由が分からん 小林の対巨人8勝ってたぶん手を抜いていた部分はあったろうね巨人は 漫画江川と西本ではあのトレードはオーナーの強いお願いされる以前から
阪神側も小林をトレードで譲って貰えることを期待して江川を指名したなんて描かれてたが
本当にそんなことあるのかね 西武ライオンズの最下位なんてことになったら、この年以来のことだよね >>601
違うわ。
打たなければ自分の成績が下がるのにそんなことやるわけない。
小林は長年ベンチで主力打者の打撃見ていたから各打者の特徴弱点をしっかり把握していたからだ。
柴田高田王などV9戦士はこの年も主力だったが、
翌年から新旧交代が始まり、主力が中畑篠塚原など若手と入れ替わるようになとなって抑えられなくなった、
と生前の小林がインタビューで語ってるんだよ。 西武は真弓に加えて基も放出したので内野が酷いことになった
ロッテから来た山崎が5月から出場するようになったので、ようやくまともになった
もし山崎を取れていなかったら、恐ろしい状態になっていた >>605
ただ守りだけならセカンドに吉岡、ショートに広瀬とベテランを使えば
あそこまで酷い事にはならなかったと思う。根本監督は実績の無い
大原や金城になぜあの時期だけこだわったのやら。 日本シリーズに弱い北別府は、この年が始まりだったか 衣笠は地元の日本シリーズ第3〜4戦に一度も打席に立てず守備固めのみ
第5戦に至っては出場すらなし
で、第6戦まで10打数ノーヒット
この干されっぷりだったから
「お前が辞めるなら俺も辞める」は
江夏の気を鎮めるだけじゃなく本心だったのかも >>603
結局、この年以来の最下位が確定してしまいました 巨人のダウンスイングが小林の落ちる球に合わないと川上を批判したい
青田昇を筆頭に長嶋派のOBが言ってたな。 >>604
小林にとっては勝手知ったる連中がいなくなって、
なかなか結果に結びつかなくなったということか ❔❔❔❔❔❔❔❔❔❔❔❔❔❔❔❔❔❔❔❔❔ >>614
全て文字化けなので、何を書いているか全く分からん この年の今日、江川が阪神に入団
そして、小林繁との即日トレードで讀賣へ移籍 >>572
正確には「江川君 王さんをお手本に!」 >>572
正確には「江川君 王さんをお手本に!」 79年
堀内=菅野 衰えたエース
江川=堀田・山崎 リハビリ
鹿取=赤星 新人でまとまってる
角=高橋優 前年勝って今年ダメ
クルーガー=両外人 使えない
加藤初=山口 移籍時は良かったが干されそう
西本=戸郷 戸郷くらいは躍進してほしい
新浦がいない分79年よりひどいかも >>606
折角西武球場こけら落としで先発出場したのに、エラーを連発して、結局その試合がキャリア最終出場になった益川満育もひどかった。
山崎が骨折から復帰し、行沢が入ってきて、多少格好はついてきたが… >>606
当時のライオンズにとって、その2人は多少のエラーを我慢してでも
一人前にしたいと思えるような、身体能力抜群などの特徴があった選手なの? >>625
とてもそうは思えなかった。
プロ入りも、大原はドラフト外、金城も下位で、無理して使わなきゃいけない上位選手でもなかった。
他には、ドラ2で二年目で、新人年に先発経験のある山本隆造がいたけど、伸び悩んでたのか故障してたのか 巨人は当時のチーム構成と似てる。 若手野手に逸材がいない 開幕ダッシュするも7月から失速し、
結果はBクラスの5位
今年はこの年のリメイクになりそう。
それも開幕相手が奇しくも同じ中日 >>628
ヤクルトのスタートダッシュ失敗による最下位と広島の優勝はなさそう この年は、開幕8連敗以上したチームが両リーグで出た(西武とヤクルト)
このうち、ヤクルトは引き分けを挟んでいるので、今年の阪神が喫した
「開幕8戦8敗」はセリーグ初の屈辱 この頃の西武球場の映像って鮮やかでやたら綺麗に見える 「そして伊東」
9月6日、阪神に13失点の大敗を喫して首位広島とは8ゲーム差の5位に転落、この負けで勝ち無しの8連敗を許した小林繁に「戦いぶりを見てると
複雑な心境、巨人の船は沈んじゃったね」と言われた長島巨人の5年目は苦しかった。事あるごとに「江川問題」で電撃移籍の小林に牛耳られる
皮肉がクローズアップされた79年、しかしスタートは良かった。
4月は首位、5月も貯金を増やしてV2した77年のような独走の気配さえあった。張本勲とジョン・シピンが、平均5得点弱の打線を引っ張った。
投手陣は前年まで2年連続最優秀防御率の左腕エース新浦寿夫が6月に早くも4年連続となる2ケタ勝利に到達する活躍、チームが2位に3差を
つけていた時もあった。6月は頭から6連敗して中日に首位の座を譲るも、17日にプロ初勝利の江川卓が先発ローテーションに加わり、阪神とヤクルトを
除く4球団の混戦状態ながら7月頭には首位に再浮上していた。
チームの息切れは球宴明け、新浦の息切れからだった。というのも後半戦が始まって2週間、新浦は救援に回った事で調子を崩してしまい、先発に
戻っても勝てず冒頭の阪神戦での大敗まで4連敗、9月16日に後半戦初勝利を挙げた頃には既に首位と9ゲームの差がついていた。以後も3連勝
以上が無く閉幕まで7勝11敗、大洋と中日に抜かれて5位で終戦した。
主砲・王貞治が8月下旬から背筋痛で2週間近く先発を外れる事もあって33本塁打81打点、打率も4年ぶりに2割台で18年ぶりの打撃タイトル無冠
だった。張本も目の疾患で77試合の出場に留まり、プロ入り以来初めて規定打席に届かなかった。残るV9戦士の柴田勲、高田繁の衰えも目立って
きていた時でもあった。得点力低下が主力投手にも影響して加藤初と堀内恒夫は後半戦で1勝ずつしか出来なかった。
打者で中畑清、投手で江川と西本聖の頑張りぐらいが明るい話題だった79年は、優勝広島と2位大洋に勝ち越しながらBクラスの阪神とヤクルトに
負け越して借金4のいびつなシーズンだった。中でも阪神には小林に対する8連敗がそのまま対戦成績に表れ8つの負け越し、2022年の現時点でも
ワーストタイの対阪神戦17敗を喫した。この年に限っていえば「空白の一日」の代償が大きかったが、オフに長島は球団としては43年ぶりとなる
秋季練習を伊東市で17人の若手と行った。長島は勿論、日米野球やオープン戦にイベントを取り止めてでもキャンプを実施した球団の本気度も
かなり高かった。 (了) >>635
ウザいんだよオナニー作文野郎
雑談掲示板の空気を読め 巨人は王の衰えが明白になった年
本塁打王はもちろん、打点王も取れなくなった
張本も衰えて3割打てなくなり、新しいクリーンナップを作る必要があった 【誘拐】 吉田有希ちゃん、エプスタイン、統一教会
://mevius.5ch.net/test/read.cgi/baby/1576215830/l50
>>641
でもセのベストナイン一塁手は王で、三部門全てで王を上回った大島はかすりもせず。 王=坂本
序盤は堀内=菅野かと思ったけど菅野は持ち直してきた
戸郷=西本
山崎=江川 球数制限
大勢=角
赤星=鹿取
堀田=定岡 開花待ち
こんな感じか?
前年優勝逃し采配批判される原監督=長嶋監督
コーチがやめていく
黒江=石井琢朗
たぶん今年打撃コーチは切られそう。 村田修一=国松
阪神青柳に弱い=小林繁 >>643
前年も首位打者の水谷実雄が選出されず、
800号を打った王が選出。
翌年は首位打者の谷沢健一が選出も、打率30傑ビリの王が肉薄。
当時の記者投票での王忖度が酷すぎ >>645
水谷なんかMVPの若松より好成績だったのにな。
1980年も、かなりの僅差だったね。
谷沢が首位打者逃してたら、王が選ばれたに違いない。 >>643
当然、王忖度の要素が大きかったろうけど、前年までの大島が三塁、外野、一塁掛け持ちだった事から票が分散した
側面もあろうかと。 セゲヲのベストナインも最後の2年はひどかったけどね >>648
1974年はどう見てもボイヤーが相応しい。 >>648
あんなもん、讀賣への忖度以外の何物でもないよね ゴールデングラブ賞なんてボイヤーと長嶋折半だぜ
こんなのそれまでも今でも(無論メジャーでも)なかった異例選考
当時の記者ってとりあえず長嶋入れときゃいいんだろ感で別に野球詳しいわけじゃない ゴールデングラブ一塁手、何があっても王だったが、松原の方が絶対にうまかった。
いやまあ王も下手ではなかったけどさ。 ところでダイヤモンドグラブだろ 当時は
投手は判で押したように西本だった 投球面でライバルだった江川が守備ではほぼ立ってるだけで
さすがにいくら下駄をはかせても受賞させるのは無理だったからね 現在だったら、各チームはそんな江川の周辺に
セーフティーバントしまくるだろうな そうだったのね
どちらかと言えば、投げること以外は守備も含めて無頓着という印象があった やっぱり才能のカタマリで打ってもよし走ってもよしだったんだが
「手抜き」ってワードがそういうイメージを作ってしまうのかね >>659
プロ間もない頃、ライナーが飛んできて頭抱えたシーンが、よほど印象強かったのかも知れん。 >>660
打つ方は無頓着どころか、かなりのものだったけどね。
シーズン3本塁打を3回やってるし、1983年の打撃成績は素晴らしい。
大学時代から、野手顔負けのバッティングをしていた。 堀内がそうだったけど、エース級の投手は守備もうまい人が多い印象がある
パリーグだと阪急の足立、西武の東尾がうまかったね >>664
そうなの?
下手投げで上手い人って聞いたことないけど
足立とかリアルタイムで見たことことあんの?
「うまかったらしい」ならわかるが、
「うまかったね」とは… >>655
王さん自身は、打撃は散々語り尽くしているから
守備について語りたいようだったね
いつだったかの「球辞苑」を見た限りでは 前年復活したが、西武に代わって出場なく引退した奥宮捕手 >>666
足立は投球フォームがきれいで投げ終わった後の姿勢がよかった
だから、アンダースローだけど打球への対応が早かったんだと思う
上田阪急時代、日本シリーズでよく投げていたから、リアルで見ていたよ
猛抗議で試合が長時間中断した試合も足立が投げていた >>654
セゲヲが守備が上手いようには見えないけどね 長嶋は「守備を上手く見せるのが上手い」んじゃないか? >>672,673
20代半ばまでは抜群の守備範囲を誇る紛れも無い名手だったけど、30を前にして守備範囲がめっきり狭くなり、
只のパフォーマンスだけになっちまった(´・ω・`) 足立はプレーオフの最終戦で先発したのかなあ。うろ覚えだけど。大阪球場で近鉄が2勝し、西宮の第3戦で0ー0で9回表だったか10回表だかに2死からショートのエラーで決勝点。
これが現役最後の登板になった。 >>676
翌年は一度も一軍からお声が掛からなかった。
80年オフに近鉄移籍の記事も出てたけど引退。
もし近鉄移籍が実現していても厳しいどころか、1年で戦力外だったたろう。 >>678
>>676の時点で、既に>>671の状態だったのかも 「マニエルおじさんとフェイスガード」
「もうロッテのガムは噛まないよ」と近鉄のチャーリー・マニエルが怒った表情で話したのは、6月9日のロッテ戦で八木沢荘六から受けた
死球で右下顎を骨折して入院していた西宮の病院での事だった。近鉄は当時、2位阪急に6差の独走中で原動力マニエルの打棒は開幕から
猛威を振るっていた。前期打ちに打っていた中での死球は、内角攻めに苛立ち少々のボール球でも踏み込んで打ちにいっていたのが仇と
なったが、マニエルは「ニシモトの笑顔を見るために打つ。すぐオレは戻って来る」と西本幸雄監督に早期復帰を誓い、病室には自身の
レントゲンと八木沢の写真を貼って闘争心をかき立てた。
マニエルの離脱後3勝6敗2分けと失速したチームを、同時期9勝1敗1分けの阪急が一時は抜いた。だが西本に「マニエルおじさんの遺産を
道楽息子たちが食いつぶした」と言われた門下生が奮起、攻守に大活躍の平野光泰や井本隆、村田辰美らの頑張りで最後の南海3連戦に
2勝1分けで阪急を抜き返して前期優勝を決めた。
マニエルの骨折は全治2ヶ月と診断されていて「プレーオフに出られれば」といった所だったが、死球から19日後の6月28日に退院すると、
後期が始まって1ヶ月ほどした8月4日にアメフト選手顔負けのフェイスガード付きヘルメットを着用して復帰した。その試合ではいきなり代打で
2点適時打、3日後から四番で先発出場して後期も13本塁打を打ったばかりでなくナインに与えた勇気も大きかった。
フェイスガード着用という闘志を見せた大きな理由として西本への強い忠誠心があった。前年まで3年間のヤクルト在籍時に監督の広岡達朗
から厳しく扱われた反動もあったとは思われるが、西本とはとにかく気が合い通訳なしで1時間半話し合う事もあった。西本はプライドを尊重
してきたが、身振り手振りを交えてのコミュニケーションには、マニエルもすっかり感激していて「選手の心を知っている。グラウンドで力を出せる
よう大事に考えてくれるから大リーグでも監督の出来る人だ」と心酔し切っていた。
フェイスガード付きヘルメット着用については、患部を守る事や内角に臆せず打撃に臨む事も理由だったが、米マイナー時代にも顎に死球を
受けていて医師から「三度目の直撃は日常にも影響が出る」と忠告されていた事も理由の一つだった。
球団で用意したフェイスガードだったためサイズが少し大きく、上下して打ちづらくなり後期は少し成績が落ちたもののリーグ優勝に導いて
MVPを獲得したマニエルおじさんは勿論、道楽息子たちにしても西本親父をとにかく勝たせたい一心だった。 (了) 親父が近鉄のハリスに「ヘイ、チューインガム!」と野次ったがまったくウケなかったな >>647
どこか一つのポジションで固定されていればね… >>182
9年前の書き込みにレスするのもアレだが決起集会に来ない話は岡田も言ってたな
その分節制でもしてれば良かったんだが… >>53
開幕直前のTV番組でのシーズン予想で、フランク・オーテンジオが本塁打王候補に上がってたw フェースガード付きヘルメットはNPB発祥であると某スポーツライターが
書いてたが、どうやらデマだったようだ この当時、どの球団も耳当てなしヘルメット着用者が多かったが、近鉄の選手はほとんどが耳当てありだった。 >>687
こんなんで野球のボール防げるのかよと当時でも思った ソフトボールのフェースガードはもう少し位置が高くて目も細かかったぞ >>680
八木沢はワザとぶつけた、説に一票。
理由は、八木沢の出身高校が作新学院だから。
江川の先輩ならやりかねん! 八木沢が13年後ロッテの監督になるって予言してた人いる? 意図的か失投かは本人の自己申告でしかないから何とも言えない
ただ、顔面に当てるのはどっちにしてもダメ
これは投手が悪い
https://i.imgur.com/9KfGbIM.jpg >>694
さすがに、その時点ではいなかったと思う 藤沢公也は、完全にこの年だけだった。
数年前に突然姿をくらまして、消息不明になってしまった。 ああでも、新人年以外も勝ちはついてるな。
1980年の1勝15敗って、、、負け過ぎ >>701
個人で1シーズンに借金14なんて、そうそう無いよね >>704
1リーグ時代は、借金19の投手が2人いるけどね。
藤沢は、たった1勝ってところが切ない。 2リーグ時代だと、大洋の権藤正利が3勝21敗という年があったな 後の時代だと名古屋ドーム元年のチョコ前田が2勝13敗