>>109 対策はしなくてよいのじゃ。
 苦しみを自分で作らないように、努めなくてよいのじゃ。
 ただひたすらにそれを観察し続けるのじゃ。
 その心の働きが作用しているところとか、原因をただひたすらに観察し続けるのじゃ。
 そうすれば厭離されて完全に消えるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>123 それは仏教徒ではないのじゃ。
 何か勘違いしているようじゃ。

>>128 西式健康法をするとよいのじや。
 基本的に本当に健康にならなければ全ての活動は減衰していくのみなのじゃ。
 運動のかわりに気功法とかヨーガをするとよいのじゃ。
 甘いものやコーヒーとか茶とか嗜好品はやめたらよいのじゃ。
 さけやたばこもいかんのじゃ。

>>130 何も両立しなくてよいのじゃ。
 存在しては居ないのじゃ。

 根本的に死が理解できていないのじゃ。
 死によって全ての社会やその中での活動は無意味なものとなるのじゃ。
 そして、その死はいつ来るかわからないものじゃ。
 更にいつかは確実に来るものじゃ。
 後五分で来るかもしれん。
 そのような可能性を無視して、社会に従うことだけを重視しても破綻している論理に従っているだけなのじゃ。
 おぬしが死を決めるのではなく、死がおぬしという存在の有り様を決めているのじゃ。
 悟りを得なくとも生きる条件を失えば人は死ぬしかないのじゃ。
 酸素が無くなれば人は五分で死ぬのじゃ。
 車にぶつかっても倒れて頭を打っても死ぬのじゃ。
 それに社会は何一つ関与できないのじゃ。
 架空のものでしかないからのう。
 必ず死が訪れることから自らを観なくてはいかんのじゃ。