悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】61
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悟りを開いた人=ブッダのことで、仏教的人生相談になります。
仏教の議論は宗教板で。ここは、あくまでも人生相談スレです。
◆利用者のみなさんへ
・人生相談板では 相談すること、それに答えること このやりとりが大事です。
独り言や自説の主張・雑談・馴れ合いなどは禁止です。各々の専門板へ。
・何度も書き込む場合は最初に書き込んだ時のレス番号を名前欄に書いておいてください。
・相談はなるべく詳しく明確に書きましょう。(できれば年齢や性別も。)
では、どうぞ。
※前スレ
悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】60
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1513819266/ >>796
これ、鬼和尚が書いてること本当ぢゃから、お主らも瞑想行で逝って観ろって
言葉でないものを言葉で説明するには、こんな風に書くほかないんぢゃよ
無を認識できてるならそれは認識ぢゃんw、とか、言いたいのは分かるが
例えば会話は、認識の認識が認識の認識に認識の認識を認識させようとする行為
であって、その認識事態には実体性は皆無ぢゃから無と表現されるだけで
無の境地とは、実態性が無いと知覚できる心境。と言うこと (-人-) そもそもぼくは無が認識できるなら悟りはあるのかなーと思ってたのよw
よく無の体験とか無の境地とかいうブログ読んでると2元論では体験できないけど万物一体の境地は「そこにはなにもない、だからこそすべてがある」みたいなwww
そういうもんかなーと思ってたけど、鬼和尚が無を認識できないし無はあらわれないて書いてるのみて、じゃあ悟りはないじゃんって気づいたwww けっきょく無は認識できないなら無だったとかぜんぶ妄想じゃんw
絶対そうだってw
認識できないのに認識があったって、それは妄想かもしれんし思い込みかもしれんし、とにかく思考の産物であって糖質的な病気かもしれんwww >>835
あー、もしかして無の境地って言葉どおりの無じゃないってこと?
なんで無っていうの?www >>833
鬼和尚は悟っておるのぢゃ。紛いもなく悟っておる。自我の紛いも無く、のぅ (-人-)
>>834
言葉を使って表現した時点で、全てのものは思考の産物ではあるのぅ (-人-)
お主らがそこそこオツムが良いのは分かるが、知的情報処理活動そのものを
ほんの一時でもピタリと止めねば、覚者が言うてることは、分からんのぢゃ
理解できぬのぢゃ、、、ほれ。このように「分からん」とか「理解できん」とか
こういう言葉を用いて表現すると、頭で情報処理して分かれ、理解しろ、という
勘違いまで同時に伝わってしまうから、言葉というものは厄介というか
言葉でない悟りをわざわざ言葉で説明することの厄介さがあるので
いくつかの言葉を拾ってザックリこういうもんか、とまで飲み込めたら
あとは瞑想行しかないのぢゃよ。まるで生まれてから死ぬまで一度も休まず
泳ぎ回る海のカツオのごとき人間の知的情報処理活動をぢゃな、ピタリと止めよ
(-人-) >>839
ぼくは頭悪いってよく言われますよwww
思考も認識もないとか自分がいないとかw
それは体験できるけど言葉にできないのじゃといわれれば、こっちとしてはそんなもんかーと思うしかないけどw
思考も認識もないとか自分がいないとかを体験も認識もできないなら、じゃあもはや思考の産物でしかないでしょw
寝て起きたときに「さっき無の境地だったぞー!おれは悟った!」ってのと区別できませんwww 「悟り」と言葉で定義され、表現されとる、その感覚、知覚体験は
おおこれか!とハッキリと揺るぎない確信を伴えつつ、それはあるから
瞑想せよ。智慧ではなく一般的な知恵や知識の意味で、頭のいい覚者もおれば
頭の悪い覚者もおるし、説明の上手い下手もあるし、真の知恵者は
知恵のない者に理解させてこそ知恵者ではあるが?教えを乞うほうが
「頭で言われた言葉を吟味して理解しよう」という姿勢である限り
あれこれそれどれの押し問答は終わらずに、ずっと堂々巡りするばかりぢゃよ
例えば「愛」ってなんですか?という問答に置き換えてみよ
それは、これこれこう言うものだ、と言葉だけで10割説明出来るかいな
言葉だけで「愛」を理解して、何の体験もせずに人が満足するかいな
これと同じことぢゃ (-人-) 愛と悟りは十人十色だって無認識を認識できるか無の体験を体験できるかは大切すぎるでしょw
言葉にはできんが無認識は認識できるのじゃだったらぼくの理解をこえたものだと理解できるw
無認識は認識できないのじゃだったら、無認識は認識との比較でしかなくてそれは記憶で思考の産物ですよw
ようするにどれだけ思い込めるかって話であって糖質と変わらんwww 早い話が、、「瞑想でそこまで到達するのがクッソ難しい」なんぢゃよ
だから頭が知的活動による情報処理に逃げておるのぢゃ
こればかりは、【痛いほどよく分かる】のぢゃ。だってクッソ大変だもの
のっ越えた和智は、余裕綽々で講釈たれとるが?凡夫の頃は死ぬほど辛かった
死ぬほど辛くて仕方がないからこそ、その苦悩の塊が勢い余って弾けて逝けた
悟れぬ者らは、ある意味で幸せと言うか、まだ苦悩の累積が足りぬと言うか
いや、幸せ者ではなく大なり小なり心の痛みの経験は溜まってるぢゃろうが?
生半可ぢゃないのぢゃ。なかなかクリアーさせてくれない高い壁なのぢゃ
生きとる限り時間は幾らでもある。死ねば強制的に悟れる。生きとるうちに悟れ
和智のように、幸せ者になれるぞい (-人-)〜♪ ぶっちゃけ軽く絶望ですわw
悟りってあったらいいなと思ってたのが糖質と変わらんのですよw >>842
カントの「純粋理性批判」を読んでごらん。
その後で、龍樹の「中論」を読んでごらん。
そのような優れた先人の書物も読まないで、自己流であれこれ考えるだけでは
どこに行き着くこともなく、一生空しい日々を送ることになるでしょう。
<和算>で満足して欧米の数学を学ばなかった人が、死ぬ間際に後悔するような
ものです。 カントとか竜樹とかしらないけど、大体むつかしいことは言ってないじゃんw
逆になんでこの理屈わかんないの?www
お子ちゃまだから?www >>829
止観でもクンダリニーでも大成すれば同じぢゃろうが、情緒的な意味で
感覚器官への集中が得意で、頭の悪い者に向いているんではないかの?
クンダリニー専門でなくとも、感情を観察しとるとチャクラに対応しとるのが
感じれるし、そこが感情に伴い「開閉」しとるのも感じれるし
ここの凡と比べたら下手に頭が良くてつまづいてる状態よりは、良いかも知れん
(-人-) ♪ >>847
「認識とは何か」について考察することもなく、「認識がー」「無認識がー」などと言っているような
知性では、「ザルで水をすくおうとする」ようなものだから、どこにも行き着く道理はないのですよ。 >>849
キミは論破済みだからレス不要なんだけど?
キミにまとも知性があるなら反論でどうぞw 認識がどんな定義でも変わらんってのが理解できないのかなお子ちゃまにはw
○があると自覚するなら○はある
○がないと自覚するには○がいる
わかんないの?www
定義の問題じゃないんですけど?www 心を開くのぢゃ。疑念で汚れててバッチイのぢゃ。感覚的な意味で
胸のあたりが暖かく、涼しく爽快な風が吹いておるような心地ぢゃ
頭は軽く、それが重荷になる事はなく、全身がそのような心地で包まれ
辺り一帯の環境がそうであるように、そこに抱かれた心地ぢゃ
発泡酒のCM、海外の絶景の場で撮影されて、俳優が喉ごし爽快さを伝えるCM
撮影者も視聴者も、そこには居ないが、ただ生きとるだけで毎日がそんな感じ
しかし修行中は、青汁〜、青汁〜、青汁イエーイ。ケールが鼻をつん裂く臭い
あひゃひゃひゃひゃw (^人^) 認識がないって自覚するには認識がなけりゃだめなのよwwwww
ないものはないんだからあるものと比較しなきゃ絶対に絶対にありえないんですwww 自分には今日はツノがないなーとか今日はしっぽがないなーとか第3の目がないなーとか普通は思わないでしょーがwww
そんなのをまともに思い込みしてるやつは糖質だわwww もう完全論破だから反論できないやつはレスしないでねー w ようするに無認識が無認識という状態が比較なしに単独で自覚できるものなら無認識だったとか言えるのよ無もおんなじねw
無は認識できないし無は体験できないのじゃならあると比較してるだけなのねw
さらに記憶にも残らないんでしょ?w
記憶にも残らないとか完全にイミフだけどとにかく比較は思考の産物だから思い込み病気かわかんないってことw
お子ちゃまにはむつかしいでちゅか?w >>853
熟睡中は悟りなのぢゃ。しかし目覚めても、自分がその無の境地に居たことの
実感が湧かない。目が醒めてるときに熟睡中と同じ感覚まで解除するのは
難しいのぢゃ。「認識が無いと自覚するには認識がなきゃ駄目なのよ!」
とか言い始める、知的情報処理と知的情報発信などの活動が動き続けるからぢゃ
電源を切っても待機電力で内部で機能が作動しとるように認識が稼働しとる
主電源を落とすには、爆睡するか、自殺するか、瞑想行しかないのぢゃ
むふふ (-人-) >>858
だから無の境地は比較なしにそれ単独で認識できるの?体験できるの?
記憶の欠如があってそれが無の境地だったと思い込みしてるだけでしょwww
記憶の空白があると後からそこに適当な事を穴埋めするような働きを脳はやりますよwww
虚偽記憶かもしれませんよw 「認識が無いと自覚するには認識がなきゃ駄目なのよ」
理屈としては正解なのぢゃ。何も可笑しい指摘をしとる訳ではない
ごもっとも、なのぢゃ。しかし論破合戦ではないのぢゃ (-人-) 20日の22:00、通信規制解除キタ!
>>859
無の境地におる時は、それを「これが無の境地」だとか認識はできないのぢゃ
分別して区分けして理解する認識機能が動いとらんからの
それは感覚的なものとして残るだけぢゃ。そこで何かをした記憶も無いが
そのような状態にあった、という感覚的な記憶だけは残るのぢゃ
そうでなければ、このようにして説明はできんし、説明が下手なのか
伝わり難いものであるのは勘弁なされよ。この説明に磨きをかける姿勢はあるが
無の境地は、思い込みではないのぢゃ。何故このように言うかというと
確信を得られるほどの、強い体感があるからぢゃ。まるで宇宙になった心地ぢゃ
宇宙とか言うてもイミフぢゃろうが、身体と環境の認識による境い目、隔たりが
消えておる、停止しておるから、環境になったような心地で、宇宙と言うのぢゃ
これは虚偽記憶ではないのぢゃ。そこまで意識を剥がせば逝ける感覚なのぢゃ
ほんと (-人-) >>851
>○があると自覚するなら○はある
>○がないと自覚するには○がいる
それは(認識論というよりも)論理学の基礎に過ぎないのです。
その○が何であるかによって、論理はいくらでも変わるのです。
○が「悟り」だとすると、その「悟り」の体験がない者がそれを言っている場合は、
単なる想像上のものなので、言っていること全体が無意味(空虚)なものになります。
体験がある場合は、その内容の普遍性が(議論に参加する全員によって)承認された場合
にのみ、その命題が意味をもつものとして認められるのです。
<認識に関する描写・叙述>というものは、「認識する主体」と「認識される客体」、そして
「それら両者を見ている目(者)」の三つが揃って初めて他者に提示することが可能になります。
同じ客体が認識されても、その内容は「認識主体」によって異なるという理解は、その両者を
見ている目(者)があって初めて可能だからです。それら三つの内容について(議論に参加する)
全員の了承なくしては、いかなる<認識に関する描写・叙述>も意味を持たないのです。 >>855
つまり、君が言っていることは<認識に関する描写・叙述>としての条件を満たしていないので、
ナンセンスだということなのです。 自他の隔たりが消える、とかは初歩なのぢゃ。貴方は私で私は貴方だとか
他者と仲良くする分には、使えるかも知れん心構え的なものぢゃが、その程度
身体と環境の境い目、認識による隔たり、これをブッチするのが無認識ぢゃろう
これが凄く気持ちよかった。前者がただ、ほんわかする〜だとしたら
後者は神になれたが如くの心地なのぢゃ。雲泥の差ぢゃ。とても神秘的ぢゃった
それを説明するには、言葉ぢゃ足りないと言うか、言葉が邪魔すぎる感覚ぢゃ
一言で言うと「全部だった」。和智らは生きてもおらんし、消えることもなく
不増不減。般若心経にも書いてある通りぢゃ。全部の一部がこの時に変化して
ここに在るだけだと、ハッキリと分かれる知覚体験なのぢゃ (-人-) >>864
三昧は、自他の隔たりが消える辺りではないか?ほんわかニッコリ感覚ぢゃろ
てきとー (-人-) エンドルフィンでしょ
それならモルヒネを大量に投与すれば悟れますよ >>862
馬鹿かw
認識の相互依存性の事で、認識内容の違いは論じてねーだろw
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。
此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。
認識も縁起に他ならないんだよ。 >>868
糞凡愚くんの知能では理解することは無理でしょうね。 瞑想をすると自他の分け隔てを意識させる脳内物質の生成が抑制されるらしいからね。
宇宙との一体感もそれでしょ。
それで幸福感が得れるなら悪い事ではないし、分け隔てによる諍いも抑制されるなら、瞑想をすべきだね。 >>862
なんにせよ不完全性定理があるんだから命題を認めるもなにも究極には無意味ですけど?お子ちゃまだからわかんないの?
事実でも真理でもなく、自覚を最終結論にしてるのがお子ちゃまにはわかんないのかなー? >>870
悪いことをしちゃいけないという感覚も消えるがのぅ〜。ムフフ
宇宙がすべてを内包し、すべての現象を起こすが如くのようにのぅ (-人-) 不完全性定理を語るならば、「人間は己の無矛盾性を証明できない」と
分かっておろう?では、議論の無意味さを知るが良いのぢゃ
はい、瞑想どうぞ (-人-) ♪ >>873
まぁね。
しかし、相変わらず過激派だなぁw >>874
無矛盾の証明は不可能でも矛盾の証明はできますwww
はい論破www >>871
>>868 の内容が、「君が何もわかっていない」ことの明確な証明になっているのですよ。
(君にはカントを読むことは勧めません。読んでも君は何も理解できないことがわかるから。)
>>872
「三つが揃って初めて他者に提示することが可能になります。」と書いただろう。
君の言っていることは、他者に提示する命題としての条件を満たしていないのだよ。
「認識」という概念を定義しないで「認識がー」「無認識がー」といっても笑われる
だけなのだよ。
>>877
本当に頭が悪いんだね。そんなことは何の関係もないよ。
では、おやすみじゃ。 >>878
そんなもん揃わなくても提示するのは自由でしょ、ここはディベート会場じゃないってのがお子ちゃまにはわかりませんか?w
自覚ができるかどうかがポイントだなんだからめちゃめちゃ簡単なお話なんだけどなーw
お子ちゃまばいばーいw >>775 何思無
>>776 親などからの条件付けもあるのじゃ。
それを観察して気づくのじゃ。
苦は観念から起こるものじゃ。
観念が無ければ苦も無いのじゃ。
>>785 クオリアとは金儲けのために創られた観念なのじゃ。
それを本にすれば売れると思って創ったのじゃ。
そのような解釈でよいのじゃ。
全ては心が創っているのじゃ。
>>786 そうじゃろう。
唯識も観念なのじゃ。
認識が優勢であるだけなのじや。
>>790 そのように想像すると執着がなくなったりするのじゃ。
苦もなくなるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>792 そうじゃ。
超えることも超えるのじゃ。
観念があればいつかまた自我も起こってしまうのじゃ。
>>796 言葉の上でそう表しているだけなのじゃ。
一切の観念が無ければ無という観念も無いのじゃ。
>>797 俺と寝て起きたと記憶も無いが残っておる。
無なのに何故寝て起きたとわかるのじゃ?
>>828 思い込みではなく観念が有るのじゃ。
観念は全て夢幻なのじゃ。
ただ自動的に起こっているだけなのじゃ。
それを自分とか自分のものと投射するのが苦になるのじゃ。
>>829 おぬしが覚醒させたいと思えばさせるとよいのじゃ。
限らないのじゃ。
サマーディに到達するだけなのじゃ。
クンダリニーの覚醒では悟りには至らないのじゃ。
体が強いものじゃ。 >>881
観念は、主観の意識内容、とのことですが(調べました)
苦が観念から起こるというのは、苦が主観の意識内容から起こる、ということでしょうか
主観の意識内容がなければ、苦もないのでしょうか
主観の意識内容がないというのが、無我無認識でしょうか >>883
> 一切の観念が無ければ無という観念も無いのじゃ。
無いものがあったとする根拠は?
> 無なのに何故寝て起きたとわかるのじゃ?
寝る寸前の意識〜起きる時の意識までの間に記憶が欠如しているから寝てたんだろーなーっていう思考で妄想したことですがw
意識が無かったのを意識があるときに比較して思考した結果の産物ですw
鬼和尚の無の体験と同じだと思うけどw
どうして鬼和尚は全てが無かったのに全てが無かったってわかったのはなんで?w すべてが無かったっていう体験はあったの無かったの?w
言葉ではあらわせないけど何とか言葉であらわそうとするなら、すべてが無かったとしか言えないような体験をしたのか、それとも体験はなくて記憶の欠如だけがあったのか本当はどっち?w 人の縁は偶然になし。
仕組まれし縁もあれば、波動共鳴し縁結ぶものあり。
なれば、今己の周りにある縁、己の波動が引き寄せし縁なり。
悪しき者が多い、言葉悪き者が多い、自分勝手な人間多いと思うなれば、己の中にも同じ波動流れるなり。
己の周りの人々見渡すなれば、己の波動明らかなり。
波動の狂いはこの世を乱しゆく。その広がり食い止めなければ、留まるを知らず。
波動の乱れは死をももたらす。
ゆえに己を高め、心を浄化し良き波動の者引き寄せ、さらに互いに高めあい、乱れし波動の循環止め良き波動へ変えるべし。
言葉も一つの循環なれば、波動となり伝わりゆく。
悪しき言霊発するは巡り巡りて自分に還るものなり。
ゆえに自ら悪しき言霊発するは自らをいためつけることになる。 一点の曇りも無い者おらぬ。皆々浄化されよ。
今まで生きた上でひとつひとつ思い起こせよ。
人を傷つけた事はなきか。悪き言葉を発した事はないか。
ひとつひとつ思い起こせよ。
罪ある者を作るは人なり。
悪しき言葉、悪しき波動を浴びせられし者、罪を犯す。
ひとりの罪は個人の罪と思われるな。
そのような罪人つくりしは全て人ぞ。
今世間にある罪、皆で作りし事気づかれよ。
気づけば言霊正せよ。
よき言霊発せれば、世界が良くなる。日本が良くなる。
良き波動、よき言霊を今取り戻せよ。 色んなものを集めて楽しむ収集家、コレクターの人がいますが
どう言う心理で物を集めるのが楽しいと思ってるんでしょうか?
その他、世の中には様々なマニア、おたくと呼ばれる人が存在しますが
良いマニアと悪いマニアの区別があるものなんでしょうか?
結局はマニアも突き詰めれば現実逃避の一環なんでしょうか? >>887 >>888
本当にそうですね。
時に、言葉は刃物以上に人を傷つけることがありますからね。
あなたは神道系の宗教の方ですか? >>889
収集欲も支配欲の変化ぢゃ。マニアに良いも悪いもないのぢゃ (-人-) ニコラ・テスラは大気中から無限に静電気を集める装置を作ったのぢゃが
スポンサーが送電線の事業主で、商売の妨げになるから虐められたのぢゃ
そのせいで多くの人類は未だに電気料金の支払いに悩まされておるのぢゃ
ニコラ・テスラは、トーマス・エジソンよりもずっと天才で
交流電気を発明して、結局は世界中の電線が交流電気になったのぢゃ
ニコラ・テスラの研究から、タイムマシンやジャンプルームができたのぢゃ
50年前後の過去と未来に行けたり、他の星にテレポートができるのぢゃ
そのテレポート技術で多くの地球人が火星に再入植を始めたのぢゃ
火星にはたくさん人間が住んでおって、爬虫類人も昆虫人も巨大生物もおるが
干渉しなけばお互いに無害だったのに、地球人が泥棒を始めて戦闘が起こった
火星では沢山の地球人が死んだのぢゃ。それでも地球人はもっと盗む気まんまん
もうじき第三次世界大戦が起こって異星人が攻めてくるが、宇宙が敵ではなく
異星人との技術提携を求めて人間同士で戦争が起き、異星人は参加するだけぢゃ
地球人はお互いに助け合わず、利用しあい、色んな物を盗み、殺しあうのぢゃ
酸素呼吸型で老化が早く、身体も弱いため、そのような特徴と歴史が続いとる
地球は人間という糞が住み着いた便所みたいなものなのぢゃ。凡夫ほど糞ぢゃ
これから起きる第三次世界大戦は、その凡夫を大量に殺すためでもあるのぢゃ
悟りを開きたくても開けないのは、臆病者で、だからこそ悪知恵ばかり働かせ
互いに足を引っ張る事ばかりしておるからぢゃ。日本人は特に凡夫の極みぢゃ
異星人との技術提携どころか、同じ民族同士での世俗的な足の引っ張り合いしか
できない糞のなかの糞。奴隷のなかの奴隷なのぢゃ。ざまあない話しよのぅ (-人-) 和智は第三次世界大戦を、子供の頃からずっと待っておるのぢゃ
大勢の凡夫どもが焼け死んだり殺されたりする現場を観察する為にぢゃ
もちろん和智も戦争に参加する。極東戦争の激戦地は日本列島と領海全域ぢゃ
海では海戦、空では空中戦、地で地上戦、深海でも大気圏外でも戦闘は起こる
もうお終いなのぢゃ、オダブツぢゃ。日本人が嫉妬深く島国根性で村社会なのは
稲作文化圏と儒教の悪影響を強く受けたせいなのぢゃ。米は麦と違って
田に水を張って管理せねばならず、少人数では大変なので共同生産になった
までは良いが、しょせんは人間がやる事なので地主と小作人の関係が色濃く残り
村社会気質になったのぢゃ。そのうえ儒教が長幼の序とかアホな教えを広めて
老害どもがいつまでも社会に居座る構図ができよったのぢゃ
日本は地球文明の坩堝 (るつぼ) なのぢゃ。金属を溶かし精製する入れ物ぢゃ
不純物は高熱で焼かれて溶かし出されよる。後に残るは純度の高い金属ぢゃ
和智はその様子を間近で垣間見るように、菩薩の世界から派遣されたのぢゃ
お前が行け!と言われて、また子供に生まれるのは面倒クセェと思ったが
お前が大好きな戦争が起こると言われて、行って来ます!( ̄^ ̄)ゞと言うたのぢゃ 日本人の臆病さを理解するには「敬語」によく表れておるのぢゃ
世界でも、これだけ多くの敬語を使う民族は他におらず、その理由は臆病だから
敬語は本来ならば相手を尊敬するが故に使われるものぢゃが、日本人の場合は
相手を恐れるが故に常用される、距離感を保つためのコミュニケーション方法
そのため、発された敬語は最終的に侮蔑語へと変化する様相を見せるのぢゃ
皇族などに向けられて言われる、御手前は、御前、お前、オメェと変化してゆく
畏怖や畏敬の念が安堵すると、尊敬や敬愛となるが、最終的に軽蔑や侮蔑になる
近年では「先生」という言葉も、元々は先達に向けられる尊敬語であったが
例えば東北地方では、明らかに自分より若年な未熟者が何かに失敗すると
「なぁ〜にやってんだオメェ?、やめてくれよ、先生ぇ〜」と、このように
先生と呼ぶに値しない者へ、わざと先生と呼ぶ、過剰尊大語攻撃が仕向けられる
第三次世界大戦では、日本列島から一切の「安全、安心」が消滅する運命ぢゃ
凡夫どもはピーピーきゃーきゃー騒ぎ、気の休まるのは30年以上も先となるのぢゃ
(-人-) 南無 和智はアメリカ製の武器が好きでのぅ。アメリカ産がええのぢゃ
ところがドッコイ、アメリカの兵器会社の工場のラインの製造機のほぼ全てが
日本製なのぢゃ (笑)。武器自体はアメリカ産でも、加工工程は日本産なのぢゃ
そこへ多額の資金提供しとるのも日本人ぢゃしの。特別会計予算と言うやつぢゃ
早く日本人であるこの和智の手元にも、それらの武器が戻ってこんかのぅ
武器を手にした和智は、まさに水を得た魚の如くニッコリ笑って頑張れるのぢゃ
和智は第三次世界大戦の終わり頃に、戦争の終結を迎える前に死ぬ運命ぢゃ
そのために平成の平時の世で、嫌な思いをたっぷりと経験してきたのぢゃ
敵の攻撃が和智の命を終わらせたとき、和智はボーティーサットバの星に還る
他の仏どもと、またのんびりと深い瞑想状態になって過ごす
ボーティーサットバの星は、仏さんしか住んでおらず、退屈そうに思えて
誰一人として退屈などしとらん。穏やか過ぎるほど穏やかな所ぢゃ
和智は好奇心旺盛な仏さまで、深い瞑想状態にある女の仏の鼻毛を観察するのが
大好きだったのぢゃ。無我夢中で四六時中ずっと鼻毛に釘付けぢゃった
だから派遣されたのぢゃ。悪戯ばかりしておるなら行って来いと言われたのぢゃ
(-人-) 今度こそ本番ぢゃ。米空母6隻体勢で朝鮮半島に向けて集結中ぢゃ!始まるぞ!
今生の和智も、総仕上げぢゃ (-人-) 妄想もここまでくれば立派なもんだ
小説でも書けば? >>889
勢揃い
考えよう
そうでもよい
ま
安心できないからだ
生物の初手はそれだ すべては無かったのじゃという体験があるんだったら、それってすべてはあったのじゃという体験とおなじはずでしょ?
無いだけで表現するのはやっぱりおかしいんじゃない?
まず言葉にできないは理屈でわかるw
無だったというのは意識の空白状態と意識がある状態との比較でそれは思考の産物w
無であるから有だったとか有であるから無だったと収束するなら観念をこえてるなーと理屈でわかるw
無だったってのはどう考えても無だったと思うのじゃでしかないw たとえば時空間なく○だけで満たされた永遠不変の世界があったとして
記憶も観念もない人が○だけの世界を体験したとすると、そこには○しかないから○と比較するものがない
そこでは○が○であると認識ができない、逆に○が○でないと認識もできない
ようするに○だけの世界は人、人の認識にとって無の世界とおなじなわけ理屈では
その世界を体験したとしてもおそらく記憶には残らない(厳密には記憶はあるが記憶を再現できない)
このような場合で大切なのは記憶する機能が停止したときの記憶の空白とは違って、再現できない記憶がちゃんとしっかりそこにはあるって部分
再現できないにしても記憶があるのは事実だから、それは体や心に影響を与える 無は本当になにもないのと違い、○だけの世界を人は無だととらえても実は○がある
これが無の境地の正体だとぼくは思ってた
なぜかというとそれなら記憶のない体験を体験するとか無を体験するという矛盾がなりたつから(理屈では)
しかし記憶も観念もないところで○だけがあるとするなら
それはようするにすべては無かった、とまったくおなじですべてはあったという表現がなければ絶対におかしい
認識できない体験が言語にできないのは当たり前でしょうがない
それを言語にするならたとえば無だったと表現するならそれを打ち消す有だったとなるし、有だったと表現するなら無だったとなるはず(理屈では) ○だけがある
○だけがあるので○はない(比較できない)
○がないから○だけがある(比較できない)
ようするにこういうことねw すべてはあり、すべてはなかった
すべてはないし、すべてはあった
ぼくの頭ではこれ以外に考えられないwww
無は体験できないし、すべては無かったのじゃなら、それは比較による思考の産物で、再現できない記憶もない、何も体験していない単なる記憶する機能が完全に停止しただけなのではないかとw >>861
こういう説明は理解できるw
確信があるし無の境地といいながら宇宙(すべて)だったとか矛盾したことを言ってて観念をこえてるからwww
これはわかるw 宇宙は和智の、丁度いい刺激のある、遊び場ぢゃ (^人^) >>665
鬼和尚はなぜこの質問にこたえられないのか? 鬼和尚
5ちゃんねるやブログで教えを説くのはなぜですか?智慧ですか?
悟りの研究をしてるような科学者のところで苦にたいする脳波とかを調べてもらったほうが世のためでは?
目の前に急に虎があらわれても、指に針をさしても、悟った人の脳は特別な反応をしめないのが脳科学的に認められれば、世の中の人はこぞって悟りをもとめるかもしれませんよ? >>901
煩悩の頭でいくら考えても埒は開きません。大乗仏教を勉強すればよいのです。
そして、お釈迦様の悟りからなぜ膨大な量の大乗経典が生まれたかがわかるようになれば
君の疑問も氷解していくでしょう。
>すべてはあったという表現がなければ絶対におかしい
神秘体験をした人の中にはそのような表現をする人もいますよ。
「宇宙すべてと一体になった」「すべてがある世界だった」などという表現はよくみられます。
ところが、神秘体験と宗教体験は異なります。神秘体験はその体験をした「自分」が残っているので、
一時的な体験であって永続することはありません。それは「真理を垣間見た」だけで「思い出」になる
だけです。「垣間見た」だけでは意識の変容は起こりません。ただ、その後に本当の宗教体験を経験する
端緒にはなります。
宗教は体験であって理屈ではありません。そして、体験すれば人によって(教養、生い立ち、資質などの
違いによって)でさまざまな表現が生まれます。どれか一つの表現だけがが正しいといことはありません。
(もともと真理の世界は言葉では表現できない世界ですから、それは当然のことですね。) どんな体験だったとかの話じゃないのw
1、無は体験できないのじゃ
2、無を体験したのじゃ
3、それは有ではないのじゃ
これがありえないっていってんのw
無を体験したとも言えるしすべてがあるを体験したとも言えるのじゃだったらわかるっつってんのよw
無は体験できない、これは本当に何もない真の無だとするわ
体験した無というのは、そこに「体験」が絶対に絶対にあるのよw
真の無は絶対に体験できないわけだから、無を体験したというなら、それは人が認識できない偽りの無だということw
だけど人にとっては真の無も偽りの無もおなじことなのよw
都合上真偽って書いただけでべつに偽りの無がいいとか悪いとかじゃないからねwww
まあ真の無の体験があり得ないのは鬼和尚も自分で言ってるしあたりまえの理屈なわけw
じゃあ無だったのじゃを体験したならそれは偽りの無を体験したことに違いない(ぼくの理屈では)
偽りの無を体験すると、言葉にはできないのじゃってなるでしょうよw
それはあるでもなく無でもないからw
であるとするなら、無だったのじゃと言い切る表現をするなら完全な間違いになるから、それを否定する表現によって、より正しい表現に近づけるのが当然なのよw
あるでもなくないでもない。
あるでもありないでもある。
このような表現が普通でしょ?
ないのじゃってだけのは絶対におかしいですよwww ようするに真無は体験できないのに無を体験したなら、それは偽無だということが1つw
偽無は○だけの世界だと仮定すれば説明できることが1つw
○だけの世界での体験は一切の言語や観念で説明できないw
言語や観念で説明できないことは矛盾によって表現するしかないw
しかし鬼和尚はその矛盾がないw
「無なのじゃ、有ではないのじゃ」
矛盾がないということはそれは2元的な性質を持つ体験だという証左ww
ようするに比較することで無なのじゃと表現してるということwww
それは比較できる体験であったということwww >>909 >>910
>これがありえないっていってんのw
だ・か・ら、体験のない者が(煩悩の頭で)理屈を言ってみても仕方がないのです。
インドのオショーに対する批判の一つに「彼の説法は矛盾だらけだ」というのがありました。
そのような批判をする人達は宗教というものがわかっていないのです。説法というものは、
「聞いている人の意識に変容を起こさせて、悟りの世界に導き入れる」ことであって、整合性のある
思想を説くことではないのです。説法はすべて方便であり手段に過ぎません。
すべての大乗経典の教えを同時に説いたらどうなるでしょう。
矛盾だらけで頭が混乱するだけでしょう。しかし、一つの教えだけを学び続ければ、その人の意識に
変容が起こり始めるのです。仏教の教えというものは煩悩の頭の中で体系化して理解するような性質
のものではありません。 矛盾だらけなのはあたりまえでしょーがwww
矛盾がないからおかしいっつってんのよwww >>912
鬼和尚の説法は矛盾だらけだよ。
特に核心の話になるほどそうなっている。 〜鬼和尚のブログ〜
世界は全て一つの意識で出来ており、それは唯一なるが故に、一つと数える事さえ無いものであった。
すべては無じゃったのあとに鬼和尚がこんなの書いてるのをついさっき見つけたwww
正直すまんかったwww
こりゃ鬼和尚様が言うことは矛盾していて、矛盾によって成立しとったわwww
ほんとごめんなさいwww
逃げますwwwばいちゃwww 鬼和尚様のブログしっかり見るから勘弁してくださいwww 無我や無心があるなら「無」もあるのでは?
クンダリニーや唯識の論理と同じようにね。 前にも書いたと思うけど、仏教では三証(理・文・現)って言うじゃん。
道理に叶い、経典に論証され、現実に証明されないと駄目だと。
宗教体験とか言って、口先だけで、全く三証がないじゃんw
つまり紛い物なんだよw
仏滅後、こうした紛い者が宗教体験とかを騙り衆生を誑かしたんだろうなw 自分を許すことは全てを許すことですか?
全てを許すことは自分が許されることですか?
なかなか実生活で他人を許せなかった私ですが
いっさいを許して安らぎを得たいなぁと思ってます そもそも「無」は縁起って事で、有無の無じゃねーし。 >>917
こじさんも前に書いてたけど
体験しても言葉で説明するのは難しいってさ
鬼和尚もそうかもね
みんな言葉足らずで根は優しい人なんだよ 無って言葉自体矛盾だから諸悪の根元なんだわwww
○←無の変わりにこれにすればいーのよwww 何の体験にしろなんにせよけっきょくのとこ「で、楽になりましたか?」ってとこが重要なんだけどw
「楽になりましたよ」ってその発言が真実なのかは不明なんだよねw
こっちとしては発言をしたその人の、他の部分を見て信頼に値するかどうかを判別するしかないwww
で、いちおう「まあ納得できるわー」ってなれば「楽になりましたよ」も信憑性が高まるし「いやいやこの人でたらめじゃん」ってなれば「楽になりましたよ」が信用できないよねw
だってカルトに洗脳されてサリンまきたくないしw
「アラーアクバル!」って言いながら自爆するのやだしw >>919
ありゃ。はずかしい。
無を調べなおしたら、ゼロ、存在しないという意味らしいね。
すると無我は私が存在しない、無心は心が存在しない、という意味だろうか。
無=ゼロや存在しない、という概念はあるのかなぁとなんとなく思うけど。 絶対と言った途端、それは相対に対する絶対として相対化されてしまうからね。
「悟ったのぢゃ〜」って言うのも同じw
「無ぢゃ〜」って言うのも同じw
仮に絶対唯一の神がいて「わしは絶対唯一の神ぢゃ〜」と言った途端、そいつは相対偏在の存在になる。
沈黙するか、(四句)否定するかだろうね。
わしは絶対唯一でも、相対偏在でも、その両方でも、
その両方でないものでもない、ってね。 >>923
無我は我が無いでは無く、無の我があると受け止めてる。
般若心経の無眼耳鼻舌身意も眼耳鼻舌身意が無いのでは無く、無の眼耳鼻舌身意があると受け止めている。
その由来は、ある坊さんが足をぶつけて「お経には眼耳鼻舌身意が無いと書いてあるのに、この痛みはなんなんだ?」と言う故事から。
無=縁起と受け止めると、合点がいく。 此があれば彼があり、此がなければ彼がない。
此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。
― 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品) ごめん、
(空性(=縁起するもの)故に、現象はあっても本体なるものは)無い。
と受け止めている。 初めに言葉があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
(聖書)
うーむw >>923
あとの祭りですがsage忘れです
>>889
私は楽しみたいから集めたりします
>>887-888
いい生き方をしなさい、ということかな 人間の認識は直観から知覚・判断・推理という過程で展開するそうな。
純粋な直観においては見るものと見られるものの分析はないと。
推理・判断・知覚から直観へ逆行すれば、ことば(思惟)を離れた実在(=空とか無)に逢う。
これがスタンダードな(大乗仏教の)説じゃないの? >>933
そんなの知ってるよ。
悟り自体が方便概念だろ。
お前うざい。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。