悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】61
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悟りを開いた人=ブッダのことで、仏教的人生相談になります。
仏教の議論は宗教板で。ここは、あくまでも人生相談スレです。
◆利用者のみなさんへ
・人生相談板では 相談すること、それに答えること このやりとりが大事です。
独り言や自説の主張・雑談・馴れ合いなどは禁止です。各々の専門板へ。
・何度も書き込む場合は最初に書き込んだ時のレス番号を名前欄に書いておいてください。
・相談はなるべく詳しく明確に書きましょう。(できれば年齢や性別も。)
では、どうぞ。
※前スレ
悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】60
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1513819266/ 風呂上がりセンズリ後そのまま眠れる寝たまま瞑想はもっと良い
雌雄に分かれ異性を求め、年がら年中発情期の人間にとっては、センズリ重要
男子は射精後、女子は絶頂後、色んなことがどうでも良くなる、それを有効活用
さっきまで心の奥で胸を焦がして思いを寄せていた、あの子もこの子もその人も
今となってはどうでも良い。明日の仕事は、明日考えればいい
目覚まし時計にすべて任せて、私は私を超える域へと到達する・・・
(.-_-.)...zzZ https://i.imgur.com/hvl76J0.gif
こいういう風に困ってる時に助けてもらった時に
助けてくれた人がミスってさらに酷いことになった場合
どうするべきでしょうか? >>666
座禅じゃなく正座してするとか椅子に座ってするとか
それでも問題ないと思うよ 白い紙に黒い染みがひとつあるのを見つけ。
「この紙のここに黒い染みがある。この紙は真っ白ではないので白い紙ではない。白い紙でなければ黒い紙なのだ。」
本当に愚かである。 白い紙に黒い染みがあるのを見つけ。
「この紙のここに黒い染みがある。黒い染みはあるが元は真っ白の紙である。元が真っ白であるから白い紙である。」
本当に愚かである。 白い紙に黒い染みがあるのを見つけ。
「この紙のここに黒い染みがある。」
これが賢者である。 >>666
麻原彰晃マーチは名曲です。
親しみやすさと覚えやすさを徹底的に追及し、音楽によってオウム真理教や麻原彰晃を周知させることが目的であり、それは果たされたと言えます。
麻原のテーマを歌うことはオウム真理教の布教活動であることを理解させたほうがいいかもしれません。
愚か者は自らが何をしているのかさえ知りません。 >>669さん
主婦です。
朝、家族で一番早起きしてやってます。
子供と夫が確実に寝てる時間でないとわたしも集中しづらいです。 自分の思い込みを観察できれば、思い込みは厭離できるものでしょうか? >>669
うちは幸いも家族の理解があるし、家族で接心(泊まり込みの坐禅会)に参加したりしてるから、家事がすいた時とかに坐るね。
70×180センチの長座布団を折ってその上に半座布団置いて坐ってます。 >>680
思い込みはないものをあると信じていることです。
ないものを観察することはできません。
あると思っているものを観察することで、ないと気づけば思い込みはなくなります。
思い込みは発見と消滅が同時なので、それそのものを観察することはできないです。
思い込みというもの、それもまた観念ですので本当はありません。 >>680
その思い込みをするものの正体が分からないと、いつまで経っても思い込みの上塗りの無限ループでは?
厭離しようとするその心が、厭離されようとする心そのものでしょ? 鬼和尚。
自分が他人にしてあげられることの限界はどこまでなんでしょうか?
親切にしてあげたり善事を施すのがいいことなのはわかりますけど、どのレベルまでしてあげるのが良いんでしょうか?
例えば日々、鬱屈して無気力な感情に苦しんでいる友人がいても本当の苦の原因は他人から見ても特定するのは難しかったりします。
気の毒だし助けてあげたいけれど、最終的には本人次第だと思うと歯がゆさと寂しさを感じます。
そこに現世で生きる人間の圧倒的な孤独を感じるんです。
結局は誰もが独りで歩むしかない、と言うのはこう言うことなんでしょうか。
他人に共感しすぎるのも実はよくなかったりするんでしょうか?
所詮は誰とも真に繋がりを持てることがないのかなと思うと、なんだか生きて人と関わることが虚しくなります。
こう言う感情、どう処理するのがいいでしょうか? >>526
ラジニーシの話が出てたついでにちらっとラジニーシと禅についてエピソードを見たが、アヒルや本来の面目の公案の話、ありゃダメだなぁ、理解(りげ)だ。
てか、ラジニーシって一応ヒンズー教徒に分類されてるんだな。 ありがとうございます。
思い込みの根本にある”おもい“は始めからなかったということでしょうか。
根源にある”おもい“がなければ、思い込みもないですね。 これとは別に、思い込みを思い込みとして観察し
対象化させ自己と切り離す案も考えられますが
どうなのでしょうか >>687
鬼和尚さんの言う観察〜厭離と同じことですよ。
思い込みは気づいてないから思い込みであり、それに気づくと思い込みは思い込みでなくなり消滅するんです。
たとえばニュースで日本人が中国人に虐殺されたと報道されました。
それを見て怒りました。
その後、そのニュースは誤報であり、そのような事実はなかったと報道されました。
それを見て怒りはなくなりました。
これと同じようなことです。 >>688
このたとえにはいろんな思い込みがありますけど、わかりやすいのはニュースが真実であるという思い込みがあることです。
「このニュースは本当かな?」
こういう人が怒りにならないのはわかりますよね。
思い込みとは気づくときには簡単に気づくのですが、気づかないときにはまったく気づかないです。
自分がいるという思い込みが消えればすべてが解決するのかもしれませんがそれは簡単じゃないかもしれません。
ですが1つ1つの自分の感情の波に対して「感情が動いているのはどこかに思い込みがあるからだ」と考えるのは簡単だと思います。
それだけでも煩悩が膨らむことはなくなり無駄な苦しみは減っていくと思います。 いろんな煩悩がありますが、自分が1分後に死ぬとしてもその煩悩があるのかどうかを考えてみるのもいいかもしれません。 >>690
自分は死なないと思い込んでいる人がほとんどだと私は思います。
口では「俺は死ぬ」と言ってみても本当には思ってなかったりします。
生や死に関しての思い込みは根本的なもので、私の場合は生の思い込みに気づくことで忘我になりました。
忘我になったことで生の思い込みに気づいたのかもしれませんが、たぶんどちらでも同じことだと思います。
生死に関する思い込みと自分があるという思い込みは同じです。 >>678
全然、名曲などではありません。
あれは幼児が歌うような歌を大勢の大人たちが真面目に、しかも、マヌケ顔をした麻原を崇拝して
歌っていた滑稽さでみんなが面白がっただけなのです。 >>687
それは重要なことです。
禅の世界でも、どちらの捉え方が優れているかでいろいろな議論・論争が行われてきました。
ただ、「切り離した自己」に個人性がある場合は、さらに「それを見る自己」が生まれてしまいます。
臨済録に出て来る「無位の真人」は、「切り離した自己」に個人性がない場合の<絶対主体>とも言う
べきものです。 人生の中で苦を感じたら『思い込みだな』
とサティを入れてもいいのかなとも思いました
様々な回答ありがとうございました。感謝いたします。 >>666
瞑想の際、家族が罵倒することは自分も経験ありますが、
思えばその時から他人です。
環境が変わろうとしているのかもしれません。 >>688
>思い込みは気づいてないから思い込みであり、それに気づくと思い込みは思い込みでなくなり消滅するんです。
消えません。
阿頼耶識に蔵されます。 >>693
>臨済録に出て来る「無位の真人」は、「切り離した自己」に個人性がない場合の<絶対主体>とも言う
全然違う。
そのままにだよ。 >>680
できるのぢゃ。すべての思い込み、先入観、偏見を、厭離できるのぢゃ
厭離。嫌だから離れる、と言うよりは、空っぽになれるのぢゃ (-人-) 思い込みが何処から生ずるか?
本人の(表層)意識に関わらず、深層意識下で末那識が阿頼耶識に対して、勝手な思い込みを24時間365日休む事無く寝る事なく行なっているんです。
表層意識で思い込みだと気付いてもそれは消えません。阿頼耶識に蔵されます。
蔵された思い込みは種子となって、何かをキッカケにヒョイと阿頼耶識か上の意識に向けて出てきます。
なんでもそうです。 >>700(続き)
しかし、阿頼耶識も末那識もさまざまな要素が因縁仮和合して現象してるに過ぎないんです。
根無し草みたいなもんです。
ほっとけばいいんです。
観察する事は新たな業を作るに他ならないんです。
観察していない事を観察すりゃいいんです。 >>700
1度でも思い込みに気付けば思い込みの根っ子の部分がなくなるのはわかるでしょう?
また思い込みが生えてきても根っ子がないからすぐ抜けますよね。
すぐ抜けるようなものは思いであっても思い込みではないと私は思います。 >>700
唯識も一つの説明に過ぎません。
龍樹は唯識など無関係に悟りへの道を説いているでしょう。
また、唯識派にもさまざな派があり、解釈もさまざまです。
くそ凡夫(糞凡愚)さんは自分が覚えたことが唯一の説明だと思ってはいけません。 >>701
>観察する事は新たな業を作るに他ならないんです。
>観察していない事を観察すりゃいいんです。
妄想・妄言・たわ言ですね。観察は大切です。
ただ、観察において大切なことは「観察している自己」を意識することです。
そして、その「観察している自己」を見ているさらに奥にあるものに気付くことです。 >>699
>観察する事は新たな業を作るに他ならないんです。
>観察していない事を観察すりゃいいんです。
らしいですよ。
空っぽにはなれないみたいですが… >>702.3.4.5
だから、当人の意識に関係なく阿頼耶識に種子が蔵されると言ってるでしょ。 >>704
>そして、その「観察している自己」を見ているさらに奥にあるものに気付くことです。
ないよ。
仏教は無我説。 「知らないということも知らない」
「わからないということもわからない」
このような状態がどのような感覚なのかを知ることはできません。これを無だとします。
そこで気づきがありますと。
「知らないということを知った」
「わからないということがわかった」
気づきの後にはこのような状態になります。これは感覚として知れます。
有に気づくことで無だったことに気づくことになります。
しかし「知らない」「わからない」という感覚は、それがあったことを知った後でも想像することができません。無だからです。
有があるから無があります。有がなければ無がありません。
ですが無があるから有があるとは限りません。
知らない、わからないを知ることはできませんので、知る、わかるを積み重ねる事になります。
知る、わかるを積み重ねてみても、知らない、わからないは知ることができませんが、知る、わかるを積み重ねているうちに、知ることのできないはずの無を知ることになるのだと思います。
無を知ることができれば有を知ることができるのですが、無は知ることができませんので、知ったとしても記憶には残らないと思います。
これが思い込みに気づく理屈だと思います。
すごくわかりにくいのは自分でもわかっていますのでごめんなさい。
こんなにわかりにくい話をわかろうとしても意味ないかもしれません。 >>706
> だから、当人の意識に関係なく阿頼耶識に種子が蔵されると言ってるでしょ。
私にはその阿頼耶識がどういうものなのかわかりませんから、なんとも言えません。
私は、私の感情や煩悩がどのようになっているのかを観て、思い込みがなければ煩悩はないと気づきました。
思い込みに気づいてもまた思い込みするようなことは確かにありますが、それは弱々しいもので今度はすぐに気づくことができるようになります。
何度もそれを繰り返すことで、思い込みが滅されるのか、ひたすら繰り返すだけなのかは私にはわかりません。
ただ今のところは煩悩が減り無駄に苦しむことが少なくなっているので、私は間違ってはいないと思います。 >>706
じゃあ観察してるかぎり
こじさんの言う(空っぽ)にはならないよね?
こじさん紛い物〜w こじさんは間違っていませんよ。
気づくというのは大小があると思います。
私が気づいたのは根っ子の部分だけなので根っ子の部分だけなくなりましたが、根っ子や茎や花に気づいた人は、根っ子も茎も花もなくなると思います。
空っぽになるまで思い込みの対象は消滅すると思います。 >>709
私はくそ凡夫ですから、仏教数千年の歴史の中で、様々な覚者や賢者によって明らかにされた智慧に勝る見解は示せませんし、先人方には到底及びません。
しかし、空の思想や唯識は外せないポイントだと思いますよ。
一個人が自己流で見当付けた知識など、仏教数千年の叡智に比較して取るに足らないものです。 >>712
そうかもしれませんね。
実際ネットで仏教を調べていたら蛇縄麻のたとえというのがあって、思い込みがどうのこうのと私が個人で考えた見解など、すでに明らかにされていたことを知りました。
それを知っていたら思い込みがどうのこうのと言わずに蛇縄麻のたとえを使ったと思います。
それに阿頼耶識に蔵されるというのを否定しているわけではないですよ。
それが本当だとしても、それを頭で本当に理解するのは難しく、体験することで知ることが本当なのではないかと思います。 仏教や哲学を勉強しないで自己流であれこれ考えてもむなしいです。
それは、>>564 で<和算>の世界を例に出して説明した通りです。 レス下さった皆さまありがとうございました。様々な環境で瞑想修行されている皆さまのお話を伺えて、ネット越しではありますが共に励む同士というか先輩方といいますか、何となく嬉しく思いました。
体位や時間帯なども工夫してみます。
いつかは家族でも座禅や瞑想に親しめるようになったら良いなと思います。 >>669 部屋にこもっているのじゃ。
そのような愚者とは永遠に縁を切ってよいのじゃ。
お釈迦様も修業の為に国や家族を捨てたのじゃ。
>>673 助けたらよいのじゃ。
ありがとうというとよいのじゃ。
>>680 できるのじゃ。
完全に観察できれば消えるじゃろう。
実践あるのみなのじや。
>>684 おぬしが限界と思った時が限界なのじゃ。
おぬしがよくないと思えばよくないのじゃ。
外国では不治の病に掛かった娘が居た夫婦が素人なのに鬼のように調べて効果の有る薬を作ったという話が有るのじゃ。
本当に愛する者が苦しめば人は限界など無く働くのじゃ。
限界も寂しさも自ら作り出しているだけなのじゃ。
本心を観れば寂しさも無くせるじゃろう。
自らの本心をよく観察し、受け容れて自らの道を決めるのじゃ。 苦や不幸は無知から来るものでしょうか?
楽しさや幸せ、その他よい感情を味わうためには
何を知ればよいでしょう?
不幸が遠ざかり、幸せが近づく、押さえておくべき
ポイント等あれば聞かせてください。 >>708
君の書き込みからすると無は無明のことで有は光明のことだよね?
光明があるから無明がある。
光明がなければ無明がない。
無明があるから光明があるとは限らない。
無明を知れば光明が知れる。
これってめちゃめちゃおかしくないか? >>708
よくわからんけど、理屈がどうだろうが結局のとこどうやって気づくかってだけの話だろ?w
なんのためにもならんことをごちゃごちゃ考えんほうがいいぞw そういえば、毛深さに悩む娘のために、台所にある食品だけで
アレルギー反応を起こさない脱毛薬を母さんが作って、深夜番組の
テレホンショッピングで売ってた事があったのぅ (-人-) 手は2本あるのぢゃ。それは右手と左手の2対なのぢゃ
言葉は、その全てに対義語が有るのぢゃ。右があれば左があるようにのぅ
美味しい食べものを、いくら手で捏ねくり回しても、どんな味付けをしても
口に入れなきゃ味わえないのぢゃ。口は一つしかないのぢゃ
ご飯を食べてるときは、言葉を超えられるのぢゃ。モゴモゴしか言えん
かと言うて、美味しい料理を作れるのは2つの手なのぢゃ
習熟が必要なのは手ぢゃ。習熟そのものが不要なのは口ぢゃ
悟りの境地は習熟そのものが不要な口なのぢゃ。喋ってはダメ
この見事なまでに、稚拙で粗悪な文章を書かせてるのもまた、頭の思念ぢゃ
言葉を用いて反面教師となって見せておる。人万言一知、神無言万知
青椒肉絲、麻婆豆腐、八宝菜、回鍋肉、エビ焼きそば、酢豚、搾菜 (-人-) ピーマン3個入り1袋158円+消費税とか、もう野菜食わないほうがいいの (-人-) 別のスーパーでは4個入り1袋198円。かさ増し用の野菜が肉より高いとか
自販機の小さい缶コーヒーが140円で、500mlの度数高めの缶酒が同じ値段とか
変な時代 (-人-) >>718
現象世界の現在には有のみが存在していて無は過去だけにあり相対的です。一元的な世界では無だけが存在し無が有として現れます。現象世界での矛盾を超えます。
そこで現象世界では知れない無を知り、無を知ることで有の実態を知る、有が観念であり実態は無であると知ります。
これは体験からわかることですが、この体験から推測すると
何かの思い込みに気づくときには現象世界を超える必要があるので気づくとは一元世界を垣間見ていることではないかという私の想像です。 デルモンテの野菜ジュース720mlが158円。これを飲みつつ
100円のハンバーガーとか、でき和えの加工肉を食べた方がずっと安上がり
かつカロリー摂取できる量も多いね。フライドポテトは駄目だ。高い (-人-) >>719
そうですねw
>>725
現象世界と一元的な世界とわけることは正しくないんですが言葉は矛盾を超えられないのでこれは仕方がないところです。
一元的な世界をパズルのようにバラバラにして形や色で分けたものが観念の世界ですので観念世界には一元的な世界が常に潜んでいます。 大人になって妹の方が優秀になると姉はどう思うのでしょうか?
見下していた妹に何一つ勝てなくなると人は狂ってしまいますか?
そうなってから人が変わったかのように感情的になり家族に対して異常な行動になるのはなぜでしょうか? 年寄りをブッ殺すために、玉こんにゃく屋さんでお手伝いしてるが
玉こん30個入り1袋200円くらい。それを煮て串に4つさして1本150円
和智は子供らを相手に、愛のある仕事がしたいのぅ (-人-) ソープランド90分で3万円、ホストクラブでピンクのドンペリ10万円 (-人-) 給料もらってる幼稚園の先生との想い出は少ないが
給料もらってない近所の兄ちゃんとの想い出のほうが濃い (-人-) >>728
息子を愛していれば、親子ゲンカでブン殴られて負けても、むしろ嬉しいのぢゃ
弟や妹も同じなのぢゃ。兄や姉を超えて優秀に育ってくれれば嬉しいのぢゃ
和智は小学生のころ、対象年齢18歳以上のエアガンを何とか手に入れるたび
自分の掌を撃って、血豆を作っておったのぢゃ。痛ければ痛いほど嬉しかった
俺のエアガン最強!って。これは愛なのぢゃ (-人-) 和智は愛の塊だから、和智より年輩の高齢者は皆殺しにするのぢゃ
お餅とこんにゃくで殺す (-人-) >>725
現象世界を超えるのはどうすんの?
くそ凡夫が観察することは新たな業になるってのは確かなんだろ?
思い込みだと知ったってのが思い込みで、堂々巡りじゃねーかwww >>735
思い込みだと知るというと、何かを得たかのような表現なのでそのようにですが、実際には得るものはなく思い込みが消滅するだけです。
ですが消滅、いわゆる無を認識することはできませんから、有ではないことを知るというプロセスになります。
たとえばテーブルの上にりんごがありました。
まばたきをしてもう一度テーブルを見るとりんごがありませんでした。
テーブルの上にりんごがないと認識します。
テーブルの上になにもありませんでした。
まばたきをしてもなにもありませんでした。
テーブルの上にりんごがないなど思いもしないので認識することはありません。
有との比較でしか無は認識できないということです。 >>736
だから無を認識とかありえません。
思い込みが思い込みを作る連鎖があるだけです。
くそ凡夫がいうように無を知ったというのは、それが新たな思い込みになり、堂々巡りになるだけのはずです。 >>673
対象に聞こう
>>680
まあ
が
手間だ
定義はやめよう
>>717
そうではない
決めよう
偏ろう ここの皆に何度も指摘されてるようにあなたの妄想に価値はない。
あなたより高度な体験をし、あなたより賢い先人達が、あなたより優れた教えを既に残している。
自分の体験はすごいとか、自分の考えは新しいとか、それはあなたの妄想なのだよ。
そのような書き込みが自己顕示欲の表れだと自覚しなさい。
そのようなものは自我の強化にしかならんのだよ。 たとえば、「お前はこの律と法を知らぬ、我はこの律と法を知っている。
お前にはとてもこの律と法を知ることはできまい」とか、
「お前のすることは間違っている。私のすることは正しい」とか、
「私の言い方が正しい。そなたの言い方は正しくない」とか、
「そなたの言論は微塵に打ち砕かれた」とかいうがごとく、
争論のことに夢中になっているものがあるが、そのような争論も慎む。
これもまた、修行者の戒のひとつである。
釈迦 なにもわからぬ無知な者は、もともと智の働きがないので、表面に現れるものもない。
また、はるかに深い所まで到達した智恵は、もはや決して表面に出ることもない。
単なる物知り、理屈屋は、知っていることをひけらかそうとして、表に出すので、
滑稽なことになる。
近頃の仏教徒の様子など、さぞ、みっともないとお思いになるでしょう。 恥ずかしく存じます。
沢庵 さまざまな経典を読みあさり、それをぺらぺらと説き散らして高僧ぶってはいるが、
内心はさながら夜叉。
常に妄念妄想のために心は騒がしくうるさいばかりである。
ちょっとした議論や、日常の吉凶栄辱にも煩悩、邪見が次から次へと競い起こってくる。
これらはすべて、取るに足らぬ小見にうぬぼれて、聞きかじりの学問が少しばかりあるのを誇って、
それを大それた境地と思い上がっている連中の成れの果てである。
白隠 学問があると他人を軽蔑して優劣を争い、主我的な迷いを深め、地獄行きの業を増長する。
善星比丘などは、釈尊の説法を全部理解していたが、生きながらにして地獄に堕ち、この広い大地に身の置場すらなかった。
臨済 妄想や自己顕示欲はみとめますが
より良い生き方をみんなで共有できればという思いもありました
皆さんそれぞれに正しさはあると思いますが、この場所の性質でもあるのか
自分の正しさばかりを主張して排他的になるのはどうなのかな
と疑問に観ている所も私はありました 正しさより優しさ、とはどこかで聞いた言葉ですが
優しさもひとつの正しさなのだと思います。 わたしのもう一つの性質「自意識過剰」が故の勘違いでしたらご容赦ください。 私は自分自身にとって自分の考えが最高だと思ってるな、他人の考え使うときは妥協だと思ってる、とっても妥協が多いけどね 自分の考えなどない。
自己の経験による記憶から考えは生ずるもの。
自己の考えだと思っておるそれは、父の考えであり母の考えであり、その他諸々の経験が考えているのである。
経験は縁起によって成される。
道徳や仏法や禅を学んだ者であれば、自己の考えとは釈尊の考えでもあり孔子の考えでもあり道元の考えでもある。
自己の考えが正しいとか、自己の考えは正しくないとか、そのようなものは縁起であると正しく知り、執着から離れなさい。 鬼和尚。
無を認識することはできますか?
無を認識すれば有が厭離されますか?
無を認識しなければ有は厭離されませんか?
観念の世界では有しかないですか?
一元世界では無が有として現れますか?
思い込みに気づくには観念世界を超える必要がありますか?
たくさんの質問ですがよろしくお願いします。 >>749
鬼和尚以外の方による見解も是非お願いします。 >>665
鬼和尚はなぜこの質問にこたえられないのか? >>749
その質問が自作自演、自問自答、自画自賛でないと確約したら参加するけど、
今迄の経緯からして信用できないんだよ?
保証するか?
まずそれぞれの言葉の意味するところを先に話して欲しいな。 鬼和尚。
正しさより優しさですか?
自己の考えなどないですか?
仏法を学べば自己の考えは釈尊の考えでもありますか?
自己の考えは縁起ですか?
よろしくお願いします。 >>754
鬼和尚以外の方による見解も是非お願いします。 馬鹿鬼に異見を云うと危害が及ぶだの恐喝が始まり、また、根拠がないDisりが始まるからな。
まともな議論にならないんだよ?
そもそも馬鹿鬼は見性どころか、「智慧の声が聞こえたのじゃー」とか、精神に異常をきたしてるだろ?
常識で考えれば分かる事だ。
分をわきまえてからそうしたことを言ってくれ。 向精神薬だか何だか知れねーが、そんなもんで体験したことは糞くだらない妄想で、
仏教でいうところの見性や悟りとは一切関係ないから。
柴山老師のお弟子さんだったかがアメリカでそれを試験して一切違うと検証済だから。
仏教舐めんな外道。 何故、これだけ物質的に豊かになっているのに心は満たされないのか?
何故、これだけ物質的に効率化が進歩してるのに労働時間が延びてるのか?
すべては悪玉エイリアン、爬虫類人のせいです!(-人-)
https://youtu.be/vtq0VnAR9vM 悟りの安らぎと、この世の苦しみの関係は、すべて「〜しなさい」から始まる
人に病老死の苦があり、自然界はときに厳しいため、恐怖心がそこに芽生えると
人は必ず誰かに「〜しなさい」と言い始まる。子供や隣人に必ずそう言い始まる
「〜しなさい」と言われた方は、心が荒む。そして必ず悪行によって復讐する
これが人々の生の苦のサイクルぢゃ。人は口々に言う。悪人ほど出世する
マキャベリな悪人ほど人の上に立ち成功を収め、富がその者に集中している、と
これは人間どもの自業自得な因果応報なのぢゃ。そして人々の奴隷化が広まった
目の前に猛獣がいても、毒ヘビがいても、暴漢がいても、不道徳な者がいても
絶対の絶対の絶対の絶対に、その者を改善しようなどと思うてはならん
それを思えば思うほどに、人間社会と人心は、荒みに荒んで奴隷化が加速する
日本人は臆病者が多い。だから「〜しなさい」発言が多い。だから悪人が多い
だから日本は奴隷が多い。だから日本は息苦しい。すべては自業自得なのぢゃ
和智は「働け」と、一言でも言うた年寄りどもを殺す。復讐だ。死んで詫びろ (-人-) 「水の結晶」で画像検索せよ。ここに真理と苦悩のサイクルの証拠が視れる
人間の身体は80%以上が水でできておる。だから「〜しなさい」と言われると
心も身体も荒んでしまう。健康にも悪影響を及ぼす。そして能ある者は復讐する
無政府主義は生命の基本。自然界がそうであるように、法や規律は何一つ不要
たとえ殺人や盗みや強姦が起きても、自然界がそうであるように法や規律は不要
しかし人間は安心を得るため自然を否定する。あらゆる規律規範、倫理道徳を
求めるに至り、それらで他者を抑圧することで安心を得ようとばかりする
こうして無政府主義 (アナキスト) たちは、復讐のために必死に勉強に励む
人間社会の支配層におる者たちは皆、アナキストである。大多数の最底辺もそう
支配者は戦争を仕組み、最底辺は戦場で暴れる。臆病者たちは皆、惨殺される
悟りを開いた聖者たちは、目覚める前後に、この事に気づいてしまう
だから乞食の道を選ぶ。決して誰かに「〜しなさい」と言わぬよう生きてる
(-人-) ヒトラーは「演説上手だった」
ゲッペルスは「宣伝上手だった」
「それは今でも研究されている」
果たしてそうだろうか?現代人は80年ほど前の人間の知恵を
見下し過ぎではないのだろうか?ヒトラーもゲッペルスも、同じ古人だ
当時の民衆をバカにし過ぎではないか?今の民衆は当時と比べて賢くなったか?
俺はこのように思う。「当時の民衆も本当は為政者の意図を知ってて応援した」
つまり、ムッソリーニやヒトラーやヒロヒトを盲目的に崇拝するだけではなく
当時の民衆の大多数が「戦争と、それによる大破壊を望んでいた」のではないか
現に俺が今、戦争を望んでいる。似たような書き込みもあり、実際の発言も聴く
総統はこう述べた。「戦争は、不用な弱者を殺処分する最大のチャンスだ」と
それが起こればナチス式に手を下さずとも見殺しになることは確定事項である
ヒロヒト天皇は言った。「耐え難きに耐え、、」。我々は今、過度の人倫拡大と
それに伴い、弱者を多く背負いこみ過ぎては居ないだろうか?
本当は、俺が事細かく説明するまでもなくすべて承知の上で極右政党に票を入れ
「そうなる事を期待している」のではないだろうか?
例えば「金正恩」。彼を魅力的に感じる者など極少数だろう事は誰でも分かる
しかし実際に、彼は一国の元首であり、彼を支持する者の中には
ただ単に恩恵欲しさだけではなく、彼の出来ない事をやってでも支える者がいる
歴史上にそのような意図を明らかに示した武官や文官は幾らでもいたのも事実だ
「有事を望むからこそ特定の人物を全力で支える技能者と、駒となる兵と民が」
現状に不満があるならば尚更のこと。独裁者は、民衆の不満の中から誕生する 弱者を殺せ!苦しめろ!
老害どもを病院に行かせるな!
無理矢理にでも恐怖と不安のままに生きさせろ!
すべて自由だ!何もかも全解放だ!
「汚物は洗浄教」に入信しろ!ヒャッハー!
(-人-) ♪ 執着から苦が生じていることは分かっても、その執着を取れません。
苦の原因はわかっても、苦のままです。
信心銘に書かれているように好き嫌いも選り好みもしなければというのは理解出来ますが、捨てられません。
好みでいえば、私はチョコレートは好きですがあんこは苦手です。
チョコとあんこがあればチョコを選びます。
どちらか食べなければいけないのであれば、あんこだと少し辛いです。
単純に味覚の好みの問題で例えると、このような苦はどう滅すれば良いのでしょう?
もしチョコもあんこも好きでも嫌いでも無ければ選り好みせず、どちらも食べても食べなくても良いと気が楽でしょう。
しかし味覚の好みは自分でコントロール出来る訳ではありません。 >>763
喰う前からそうしてえり好みしてw
チョコやあんこに喰われてどうすんのよw
あんたがチョコやあんこを喰らうんだけど? 囚われや執着は自分の思い込みから来ているのでしょうか?
チョコが好きなのも自分の思い込みでしょうか?
ただ「自分の思い込みに気づく」だけでよいのでしょうか? >>766
>ただ「自分の思い込みに気づく」だけでよいのでしょうか?
そもそも仏教って一切苦(=思うがままにならない)って説いてるよね?
つまり、「思い込みに気付けば」解決するとか、そんな風に思うがままにはなりませんよ、って。
「観察すれば消滅する」とか、そんな風に思うがままにはならない、ってのが仏教のお示しなわけで。 >>768
実践してみたら、いい感じではありましたが。 >>769
「いい感じ」って業を別に作っただけと心得ればいいんじゃないんですか? >>770
不完全でしたか…無限ループですかね?
思い込みに気づけば思い込みは止んで、なくなったのですが…。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています