悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】61
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悟りを開いた人=ブッダのことで、仏教的人生相談になります。
仏教の議論は宗教板で。ここは、あくまでも人生相談スレです。
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独り言や自説の主張・雑談・馴れ合いなどは禁止です。各々の専門板へ。
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※前スレ
悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】60
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1513819266/ >> 622 こじ ◆jDjYTwtZiI 2018/02/17(土) 17:14:00.05 ID:sJ9vJjtb
> >>621
> 世界は鏡なのぢゃ。それは心の投影で形作られる
> 人の世も、動物の世もなく、同じものであって、人間社会とは概念ではあるが
> その概念ですら、心の投影なのぢゃ。
ええ、それはよくわかります。
>つまり、理性や道徳や倫理という綺麗事を
> 重んじつつ、言葉にして発する者らは、それにより自己保存の欲求が叶うよう
> 臆病でネガティブな心からの言葉に過ぎんのぢゃ。だから不自由で息苦しくなる
こじさんの心には理性や道徳や倫理が綺麗事に移るのでしょう。
それはわかります。 >>623
こじさんは自己の保存欲求は悪いものだと思っていますか? こじさんは無明ですよ。
何かしらの体験をされたらしいですが、それで自己を正当化するのはよくないです。
妄想ばかりしていると、自分が色眼鏡をはめていることに気づくこともできなくなるかもしれませんよ。 元気いっぱいのDQNを思え。彼らは「丸裸の心」に、攻撃性という武器を持つ
しかし一度その武器を手放せば、いつでも他者と抱き合える「丸裸」の状態ぢゃ
堅苦しい凡夫を思え。彼らは「私は社会人だ」とか「社会道徳が大切だ」とか
「常識的にはこうあるべきだ」などの、息苦しい言葉の数々で、心に防具を纏う
その防具の重量は相当なものぢゃ。兜に鎧に小手に足具足、実に重苦しい
そしてもはや、それを自分一人では脱げない状態になっており、日々を過ごす
常にカチャカチャと音がなり、夜に寝るときも中が冷たく冷え込む。動き辛い
次第に心は悲鳴をあげる。だからこそ「仏教に教えを乞いにきた」のでは?
いよいよ丸裸の乞食である覚者の教えは、「解脱のススメ」ぢゃ
解いて脱げ、と言われることの方が多いのではないかの。その防具をぢゃ (-人-) >>626
お主が何を言うても、皆同じなのぢゃ。例えば人間社会に生きる女でも
惚れた男に衣服を脱がされ、その身を抱かれてる時に、心地よさを感じる
ホトからヨダレを垂らしてアヒンアヒン喘ぐ、それのどこに社会性があるのか?
そしてその行為から、人々は産まれ出でてきとるのぢゃ
色眼鏡をはめてるのはお主の方ではないかの (-人-) ♪ 心のなかに恐れがあるならば、それを解いて脱げば良いのぢゃ
恐れを刺激されぬように、凡夫どもが如何様に言葉を発し、その規律を設けても
それを和智がこなごなに粉砕してやるぞい。凡夫の家に強盗に行くやもしれん
ふっふ〜ん (-人-) ♪ 出産なんて人から人が出てくるんだからなあ、社会性どころか、オカルトだよなあ 理性や道徳や倫理や常識などと言う言葉で、人心を縛り括るばかりだと
その不満が集積されて一気に放たれる「戦争」が起こるからの
もう結構ヤバいのぢゃ。思う存分に恐れるが良かろう。銃剣や弾丸が身を貫き
炎や爆風で身が焼かれ、満足に食う物もなく冬は寒さに晒され
息子が兵役を迫られ、家族や隣人が無惨に殺される状況を目の当たりにして
もう決まっとるのぢゃ。後悔するのぢゃ。残念でした (-人-) >>631
末法思想や誇大妄想がオウムの麻原そっくりですね。
オウムの麻原は正しいと思いますか? 大乗の悟りというのは、感情の起伏のない「人格者」を絵に描いたような人間になることではありません。
「性愛宗教と揶揄されたオショー」、「晩年は奔放な愛欲の日々を送った一休禅師」、「自らの宗教に
対する強い信念から徹底的に他宗批判を続けた日蓮」・・・、彼らはみな本物の大乗の悟りを得ていた人々
でした。
悟り澄ました木石のような人格を自分にも他人にも求めている人は死ぬまで大乗の悟りを理解することは
出来ないでしょう。
(オショーは大乗の修行をした人ではなかったが、悟りの内容が大乗と同じだった為に道徳を説いていた
周囲の伝統的な宗教家達とは終生論争をしていたものだ。)
こじさんは少し極端な表現が多いが、基本的に真実を言っているね。 欲求に正直な生き方はあると思いますよ。
「理性は善だ!」←無明
「理性は悪だ!」←無明
「理性に善悪はない」←本当 >>632
和智は2ちゃんねるが生んだ第二の麻原彰晃と言われとる
第三次世界大戦は必ず起こるし、大好物はメロンなのぢゃ
麻原は覚者ではない (-人-) こじさんの厭世的な思想はわかります。
それを良くするために現状批判をされるのもわかります。
しかし人間の場合、すべての問題は、思い込みをするところにありますよね。
理性や道徳や倫理というものに対する盲信がなくなったとしても、次は違うなにかを盲信するのが凡夫なのでは?
殺人がだめだという盲信がなくなれば、殺人がだめだというのは間違いだと盲信するような気がします。
根本的な解決は思い込みから離れることしかないですが、それは簡単ではないだろうと私は思います。
だとしたら、少なくとも理性や道徳や倫理が正しいと思い込みをしていたほうがマシだと私は思います。 >>636
時代に根差した方が選ばれ、多くの衆生がそれを支持するぢゃろう
人が歩くとき、左右の脚を前後運動させねば、前に進むことは不可能なのぢゃ
それは世界の歩みも同じである。政治のイデオロギーで言えば、右傾化と左傾化
これまでの日本は左翼台頭の時代であったが、それ以前の大日本帝国は完全な右
こうして歴史が時を刻む流れのなか、どちらかに偏るのも、人の歩みと同じぢゃ
和智は第三次世界大戦と、メロンと、ハザール系ユダヤ陰謀論と、色々好きぢゃ
(-人-)〜♪ 倫理、道徳が大切 → 事勿れ主義の偽りの平和 → 平均寿命が伸び伸び
→ 勤労世代のストレスがたっぷりの高齢化社会 → 息苦しい、何とかして〜
そこで和智が台頭
道徳イラネ。本音で生きろ → 不要な弱者に淘汰圧が強化 → 安楽死でスッキリ
→ 勤労世代が勢いをつけ、政府は軍備増強 → 大東亜共栄圏時代の最大領土奪還
吽鈷大将軍閣下ばんざい!やったぜ (-人-)b ☆彡 こじさんはおもしろいですねw
>>635
麻原はどうして覚者ではないのでしょうか?
オウム真理教の地下鉄サリン事件は、こじさんの支持するところではありませんか?
結果として民間人が犠牲になりましたが、本来の狙いは官僚や警察だったらしいです。
麻原彰晃は、第3次世界大戦を引き起こすために国家転覆を狙っていたらしいですよ。 平和主義者に物申すのぢゃ。心して聞くが良い
お主らの望んだ平和思想は、必ずジレンマが伴うのぢゃ。つまりバランスが悪い
そのジレンマを、平和主義者たちだけで解消するのぢゃ。問題を投げてはいかん
臭い物にフタをし続ければその臭い所から必ず和智のような危険人物が生まれる
年寄りは若者に負ぶさってはならんのぢゃ。重荷になってはいかん
オレオレ詐欺師の皆さん、今日もお勤めご苦労さまです (-人-) ♪
腹に詰まった糞は、出してこそ健康になれるのぢゃ。お年寄りはウンコも同然
米帝との雌雄を決する戦いに敗れた日本。アメリカへ貢ぐ女がごとき日本
極度の便秘に悩み、硬弁が肛門を固く閉ざし、肝臓が破れてすまう
自己負担は流石にキツい、路頭に迷った。ネバネバ、ギブアップ日本
面倒臭いぢゃろ?よろしい、では戦争だ!和智について来いっ!(-人-)b ☆彡 >>639
残念でした。和智は公安や警察や軍隊とは相性バッチリの、国の忠犬なのぢゃ
細かい犯罪やテロ行為で満足するような輩ではない、ファシストなのぢゃ (-人-) >>638
それが妄想でしょ?w
わかっててわざとやってるんですか?w
道徳イラネってなったところで、人間の煩悩は変わらないし、領土奪還しても人間の煩悩は変わらないでしょ?w 本物の覚者が暴れ始めたら、どれほどの威力かを見せてくれようぞ!
麻原の100倍はヤバい! >>642
お前、もう結構かなり、この和智に抱かれたいぢゃろ
頭のいい精液を、たっぷりブチ込まれたいぢゃろ?
それならば和智に絶対服従しろ、日本には教育勅語が必要なのぢゃ
上の方に書いたはずぢゃが、読んでおらんのか?和智が発した教育勅語を (-人-) こいつか?
宗教体験とかほざいてるキチガイは?
私は30年以上前に仕事でプーナに行った時にバグワンの講話を3回聴いた だけだが、聴いていただけで宗教体験が起こった。
訪問者だったのでサニヤシン になることもなく、以後は時々講話テープを聴くだけだが、いまだにテープを 聴くだけで体に律動が走ることが多い。
道元禅師の正法眼蔵を読んでいて起きる律動と同じものだ。 凡夫と覚者の決定的な違いは、その心根のポジティブさである
覚者であれば、四肢や臓物や脳髄が飛び散る激しい戦場の中にあっても
笑顔でニッコリ、首級をあげて旨い酒を呑むぞ!えいえいおーっ
死して靖国の英霊たちに顔向けができるよう、男子たるもの生きねばの (●´ω`●) 人間と動物との違いだけど、「より良くよく生きてゆこう」という
創造的な行為を主導する大脳前頭葉野の有無だとか。 >>646
そういう妄想は、こじさんの場合は妄想だと自覚しながらやってるのかもしれませんけど、妄想ばかりしてると本当におかしくなるかもしれませんよ?w
>>648
へー、おもしろいですね。
動物は生存欲求が優勢ですが、人間は生存欲求より幸福欲求が優勢なのではないかと私は考えていたのですが、あながち間違いではないかもしれませんね。 >>649
いいから黙って社会保障を削減しろよ。福祉縮小の社会にしろ、急げ便秘女 (-人-) 道徳は不要
倫理は足枷
理性は都合
常識は偏見
日本に必要なのはトイレ。それらを飲み込んで流してしまう水洗便器 (-人-) 道徳は、語ってはならん。個人的な心情とだけしておくべきものぢゃ
倫理は、語ってはならん。個人的に自由研究の題材にだけしておくべきものぢゃ
理性は、語ってはならん。他者に対して共有や共感ばかり求めるのは外道の所業
常識は、語ってはならん。それは個々人が20歳までに集めた偏見の累積に過ぎん
三島由紀夫の不道徳教育のススメでも読んでこい。和智は読んでおらんがの (-人-) 人権は、個人的に尊重することに価値があり、主張した時点で腹黒い悪魔の所業
主張された人権思想は、戦火でこなごなに粉砕されるべき!あぼーん (-人-) 和智はスパルタンX (意味不明)
未熟な凡夫どもは悲鳴をあげて泣き叫ぶ、スパルタ教育の軍事訓練教官
右手で銃を掲げ「こっちで楽しみ!」左手で股間を握り「こっちでも楽しむ!」
和智らは、父親がマスターベーションで飛ばした精液が母親の割れ目に入り込み
望まずして生まれて来た地獄の申し子。感情を持たぬ優秀な殺戮マシーン一兵卒
大日本帝国万歳!安倍総統閣下万歳!秋篠宮大元帥陛下万歳!日本会議万歳!(-人-) 動物は生存本能によって死ぬまで生きているものですが、人間はいつでも死ぬことを選択できます。
たとえば砂漠の真ん中で飲食物もなく動く体力も気力もなく、理性的に考えれば自分が助かる可能性がほぼゼロであり、ポケットには安楽死できる飲み薬がある。
そこで生を選ぶ人は、生きることによって幸福になれる可能性に希望を持つでしょう。
たとえば偶然誰かが通りかかって自分を助けてくれる可能性など、ほぼゼロであってもそこにしがみついて生きることを選択するのだと思います。
死を選ぶ人は、死ぬことによって現状よりも幸福になれる可能性に希望を持つでしょう。
生での幸福を得ることには絶望し、むしろ死のほうが幸福であると判断した場合は、死を選択するでしょう。
人は他の動物と比べて、非常に自殺が多い生き物だろうと思いますが、それは生存欲求より幸福欲求が優勢だからなのではないかと私は思います。
すごく厄介なのが、人は幸福を求めているのに幸福とは何かというのは漠然としていて、結局のところわからないものを求め続けているということですよね。 >>656
凡夫は馬鹿だから幸福を「求める」のぢゃ
覚者は智慧があるから「求めぬ」のぢゃ
つまり、馬鹿凡夫どもは「定められた幸福」をチラつかせれば
アホみたいに気色悪い汗水垂らして社畜労務をしよるのぢゃ
おめでとうございます ☆彡 >>590 うつかもしれん。
冬には血行がわるくなるからうつになる者も多いのじゃ。
くびのこりをマッサージでほぐすとよいのじゃ。
便通を良くするのじゃ。
風呂に入るのじゃ。
心の中にある原因を探すのじゃ。
数息観もやるとよいのじゃ。 先生「お前ら、もっと勉強しろ!」
親「ちゃんと進学しなさいよ!」
学生「フガフガ」
教育利権構造「入学おめでとう」(ガッポリ儲かったぜ!)
社会人「お前ら、ちゃんと働け!」
親「ニートは許しませんよ!」
新入社員「フガフガ、フガ」
経済利権構造「就職おめでとう」(この社畜奴隷どもめ笑)
女「結婚してよ!」
親「早く孫の顔を見せてくれ」
男「フガ、フンガー!」
近所の専業主婦たち「結婚おめでとう」(亭主元気で留守がいいわよねぇ)
銀行「ご融資致します」
男「フガフガ、フンガー!」
社会人「マイホーム購入おめでとう」(30年ローンかよw)
社会人「独立開業おめでとう」(金稼ぐために金使うとか本末転倒w)
和智「おーおー、馬鹿凡夫どもは、よう頑張るのぅ。幸福をチラつかされたか」
(-人-) ♪ 人は幸福になろうとして多くの物を手に入れようとするが
実は手に入れたつもりの物らに、逆に「所有されてしまってる」のぢゃ
学歴、経験、資格、スキル、資産、物件、車輌、伴侶、子供、何もかもにぢゃ
お釈迦さまは乞食になられた
吽鈷さまは生活保護課へ行かれた (-人-) こじさんの言い種はひどいですけど、実際のところそういうものなんでしょうね。
しかし求めているものが求めている限り得られないなんて不思議なものですね。
眼鏡の人にあるあるな話ですが、私は出かける時に眼鏡がどこにもないと思って探していたんです。
私の眼鏡どこにあるか知らない?って人に尋ねると、眼鏡かけてるじゃん(笑)って言われました。
本当にバカみたいな話なんですが、眼鏡を探している時には眼鏡が目の前にあることにまったく気づかないのですからねw 少し前の日本では「制限選挙制」であった。ある一定額の納税者のみに
選挙権が与えられ、実際に社会維持活動をしている者らだけに社会決定権がある
つまり、退職した高齢者や、保障を受ける障害者、万病人、ナマポ、外国人には
一切の社会決定参加権が与えられない状態にあって、妥当な社会がそこにあった
しかし、大多数の弱者どもは、福祉優先社会という自分らのご都合を通すため
民主主義を声高らかに叫び、無差別に「一人一票の投票権」がある社会を望み
結果的に「多数決で弱者の言い分が勝つ」ように、せっせと仕組んだのである
そして日本はこう呼ばれた。「一億総平民」。高度成長期、バブル期の勢いが
弱者のご都合の思惑を、表沙汰にする事なく、有耶無耶にされてきたのだ
しかし今は違う。膨大な社会保障費は現役の勤労世代に重苦しくのし掛かってる
世に出回る健康食品や、医療技術の進歩はますます弱者どもの寿命を延ばす
「いっそのこと戦争でも起きればいい」「朝鮮戦争の戦争特需って良いよな」
「ヒトラーは戦争は弱者を処分する最大のチャンスって言ってた」「わかるぅ」
今日もまた、団塊の左翼老害が運転する車が、幼い子供や若者の命を奪い
若い夫婦は離散し、ある者は一家心中し、勇者たちはオレオレ詐欺に勤しんでる
「長幼の序」。儒教の孔子が述べた糞みたいな言葉である。効き目は最悪
政界、財界、教育界、芸能界、商業組合、あらゆる場所に左翼老害が居座ってる
コイツらを追い出すのに、100の手順を踏み、若者を牽引するリーダーがいる
それこそが日本の国家元首、安倍晋三総統閣下。立法府の長、三権の長である
ハイル安倍!ハイル安倍!ジック・ハイル!自称リベラルな左翼老害どもに死を! 君子のふみ行うべき道は、たとえば遠方の土地に行くのも必ず近くから始めるようなものであり、
高い所へ登るのも必ず低い所から始めるようなものである。
まず身近なところから始まるのだ。
詩経には「妻や子たちの温かい和やかさ、まるで琴と大琴の合奏。兄弟もすっかりむつみあい、
やわらぎの中で楽しんでいる。なんじの家庭をうまくととのえ、なんじの妻子を楽しませている」
とうたわれている。
先生は言われた、
「父も母も満足しておられるだろうね」と。
(中庸) 古きよき時代に、輝かしい徳をもった聖人は、まずその国をよく治めた。
その国をよく治めようとした人は、まずその家を和合させた。
その家を和合させようとした人は、それに先だってまずわが身をよく修めた。
わが身をよく修めようとした人は、それに先だってまず自分の心を正した。
自分の心を正そうとした人は、それに先だってまず自分の思いを誠実にした。
自分の思いを誠実にしようとした人は、それに先だってまず自分の知能を十分におし究めた。
知能をおし究めるには、学問によって物事の善悪を確かめることだ。
学問を積んで、物事の善悪が確かめられてこそ、はじめて知能がおし究められる。
知能がおし究められてこそ、はじめて思いが誠実になる。
思いが誠実になってこそ、はじめて心が正しくなる。
心が正しくなってこそ、はじめて一身がよく修まる。
一身がよく修まってこそ、はじめて家が和合する。
家が和合してこそ、はじめて国がよく治まる。
国がよく治まってこそ、はじめて世界中が平安になる。
こうしたわけで、君子はまず何よりも自分の徳の充実に気をつけるのである。
(大学) 鬼和尚は今回のバレンタインデーでいくつチョコをもらいましたか 瞑想姿を見られたら案の定麻原○晃のテーマではやし立てられたりして、嫌な気持ちになりました。
今ではジョブズのような有名人が瞑想実践者だと知られているからまだ瞑想やヨガのイメージはマシになりましたが、日本では特にリアルタイムでニュースを見ていた30代以上にとってはオウムのイメージが強くて、瞑想というだけで怪しまれる節がありますね。
いちいち麻原のテーマを歌われたりして嫌な気分だし、そうゆうことをしてくる相手の性格そのものにも腹が立って来ます。 本日てか昨日は
ケチャップがドバドハ出てましたね (^^ やはり家族がいる休日は寝る前などに布団の中でひっそりやった方が良いのかと考えてしまいます。
家庭のある方はどのように瞑想を実践していますか? >>666
よほど仏教や瞑想に縁のなかった家庭だったのですね。
坐禅が身近だった家庭(曹洞宗や臨済宗の檀家、その他)では、テレビでオウムの若者が瞑想している
のを見て「まともな瞑想」だと思った人はいなかったはずです。ヘッドギアをして瞑想している姿など
は頭がイカれていると感じるのが普通でした。
>>669
家族の人達に禅の道場の写真などを見せながら、
「オウムの瞑想はヨーガの真似ごとをしていただけで、本来の瞑想は全く異なる背景と伝統を持ったもの」
であることを説明してあげればよいでしょう。 瞑想は、風呂に入ってからベットで寝るときにやれば何の気兼ねも無しぢゃ
姿勢は寝たままでよい。部屋に明かりも消してよい。半眼視界もスムーズぢゃ
風呂上がりのため、肌に伝わる感覚も心地よく、寝てれば余計な力も要らぬ
薄暗い部屋に聴こえるのは、エアコンや窓越しに外を走る車の音や風の音だけ
思考を止め、呼吸だけ感じ、徐々に自分と周りの「隔て」を剥がしてゆく
自分の身体とパジャマは同じもの、掛かってる布団も同じもの、ベットも床も
肌に触れる空気も、手を伸ばせば届く部屋の壁も、天井の板も電球も同じもの
窓の外に広がる世界も自分と同じもの。姿形、形状は違えどすべて同じ物の変化
私は個の生物として生を勘違いしており
瞑想によってその勘違いを解くもの
凡ゆる自己の構成要素は剥がれ落ちていき、心は鎮まり、個を超えた全てとなる・・・
(.-_-.)...zzZ 風呂上がりセンズリ後そのまま眠れる寝たまま瞑想はもっと良い
雌雄に分かれ異性を求め、年がら年中発情期の人間にとっては、センズリ重要
男子は射精後、女子は絶頂後、色んなことがどうでも良くなる、それを有効活用
さっきまで心の奥で胸を焦がして思いを寄せていた、あの子もこの子もその人も
今となってはどうでも良い。明日の仕事は、明日考えればいい
目覚まし時計にすべて任せて、私は私を超える域へと到達する・・・
(.-_-.)...zzZ https://i.imgur.com/hvl76J0.gif
こいういう風に困ってる時に助けてもらった時に
助けてくれた人がミスってさらに酷いことになった場合
どうするべきでしょうか? >>666
座禅じゃなく正座してするとか椅子に座ってするとか
それでも問題ないと思うよ 白い紙に黒い染みがひとつあるのを見つけ。
「この紙のここに黒い染みがある。この紙は真っ白ではないので白い紙ではない。白い紙でなければ黒い紙なのだ。」
本当に愚かである。 白い紙に黒い染みがあるのを見つけ。
「この紙のここに黒い染みがある。黒い染みはあるが元は真っ白の紙である。元が真っ白であるから白い紙である。」
本当に愚かである。 白い紙に黒い染みがあるのを見つけ。
「この紙のここに黒い染みがある。」
これが賢者である。 >>666
麻原彰晃マーチは名曲です。
親しみやすさと覚えやすさを徹底的に追及し、音楽によってオウム真理教や麻原彰晃を周知させることが目的であり、それは果たされたと言えます。
麻原のテーマを歌うことはオウム真理教の布教活動であることを理解させたほうがいいかもしれません。
愚か者は自らが何をしているのかさえ知りません。 >>669さん
主婦です。
朝、家族で一番早起きしてやってます。
子供と夫が確実に寝てる時間でないとわたしも集中しづらいです。 自分の思い込みを観察できれば、思い込みは厭離できるものでしょうか? >>669
うちは幸いも家族の理解があるし、家族で接心(泊まり込みの坐禅会)に参加したりしてるから、家事がすいた時とかに坐るね。
70×180センチの長座布団を折ってその上に半座布団置いて坐ってます。 >>680
思い込みはないものをあると信じていることです。
ないものを観察することはできません。
あると思っているものを観察することで、ないと気づけば思い込みはなくなります。
思い込みは発見と消滅が同時なので、それそのものを観察することはできないです。
思い込みというもの、それもまた観念ですので本当はありません。 >>680
その思い込みをするものの正体が分からないと、いつまで経っても思い込みの上塗りの無限ループでは?
厭離しようとするその心が、厭離されようとする心そのものでしょ? 鬼和尚。
自分が他人にしてあげられることの限界はどこまでなんでしょうか?
親切にしてあげたり善事を施すのがいいことなのはわかりますけど、どのレベルまでしてあげるのが良いんでしょうか?
例えば日々、鬱屈して無気力な感情に苦しんでいる友人がいても本当の苦の原因は他人から見ても特定するのは難しかったりします。
気の毒だし助けてあげたいけれど、最終的には本人次第だと思うと歯がゆさと寂しさを感じます。
そこに現世で生きる人間の圧倒的な孤独を感じるんです。
結局は誰もが独りで歩むしかない、と言うのはこう言うことなんでしょうか。
他人に共感しすぎるのも実はよくなかったりするんでしょうか?
所詮は誰とも真に繋がりを持てることがないのかなと思うと、なんだか生きて人と関わることが虚しくなります。
こう言う感情、どう処理するのがいいでしょうか? >>526
ラジニーシの話が出てたついでにちらっとラジニーシと禅についてエピソードを見たが、アヒルや本来の面目の公案の話、ありゃダメだなぁ、理解(りげ)だ。
てか、ラジニーシって一応ヒンズー教徒に分類されてるんだな。 ありがとうございます。
思い込みの根本にある”おもい“は始めからなかったということでしょうか。
根源にある”おもい“がなければ、思い込みもないですね。 これとは別に、思い込みを思い込みとして観察し
対象化させ自己と切り離す案も考えられますが
どうなのでしょうか >>687
鬼和尚さんの言う観察〜厭離と同じことですよ。
思い込みは気づいてないから思い込みであり、それに気づくと思い込みは思い込みでなくなり消滅するんです。
たとえばニュースで日本人が中国人に虐殺されたと報道されました。
それを見て怒りました。
その後、そのニュースは誤報であり、そのような事実はなかったと報道されました。
それを見て怒りはなくなりました。
これと同じようなことです。 >>688
このたとえにはいろんな思い込みがありますけど、わかりやすいのはニュースが真実であるという思い込みがあることです。
「このニュースは本当かな?」
こういう人が怒りにならないのはわかりますよね。
思い込みとは気づくときには簡単に気づくのですが、気づかないときにはまったく気づかないです。
自分がいるという思い込みが消えればすべてが解決するのかもしれませんがそれは簡単じゃないかもしれません。
ですが1つ1つの自分の感情の波に対して「感情が動いているのはどこかに思い込みがあるからだ」と考えるのは簡単だと思います。
それだけでも煩悩が膨らむことはなくなり無駄な苦しみは減っていくと思います。 いろんな煩悩がありますが、自分が1分後に死ぬとしてもその煩悩があるのかどうかを考えてみるのもいいかもしれません。 >>690
自分は死なないと思い込んでいる人がほとんどだと私は思います。
口では「俺は死ぬ」と言ってみても本当には思ってなかったりします。
生や死に関しての思い込みは根本的なもので、私の場合は生の思い込みに気づくことで忘我になりました。
忘我になったことで生の思い込みに気づいたのかもしれませんが、たぶんどちらでも同じことだと思います。
生死に関する思い込みと自分があるという思い込みは同じです。 >>678
全然、名曲などではありません。
あれは幼児が歌うような歌を大勢の大人たちが真面目に、しかも、マヌケ顔をした麻原を崇拝して
歌っていた滑稽さでみんなが面白がっただけなのです。 >>687
それは重要なことです。
禅の世界でも、どちらの捉え方が優れているかでいろいろな議論・論争が行われてきました。
ただ、「切り離した自己」に個人性がある場合は、さらに「それを見る自己」が生まれてしまいます。
臨済録に出て来る「無位の真人」は、「切り離した自己」に個人性がない場合の<絶対主体>とも言う
べきものです。 人生の中で苦を感じたら『思い込みだな』
とサティを入れてもいいのかなとも思いました
様々な回答ありがとうございました。感謝いたします。 >>666
瞑想の際、家族が罵倒することは自分も経験ありますが、
思えばその時から他人です。
環境が変わろうとしているのかもしれません。 >>688
>思い込みは気づいてないから思い込みであり、それに気づくと思い込みは思い込みでなくなり消滅するんです。
消えません。
阿頼耶識に蔵されます。 >>693
>臨済録に出て来る「無位の真人」は、「切り離した自己」に個人性がない場合の<絶対主体>とも言う
全然違う。
そのままにだよ。 >>680
できるのぢゃ。すべての思い込み、先入観、偏見を、厭離できるのぢゃ
厭離。嫌だから離れる、と言うよりは、空っぽになれるのぢゃ (-人-) 思い込みが何処から生ずるか?
本人の(表層)意識に関わらず、深層意識下で末那識が阿頼耶識に対して、勝手な思い込みを24時間365日休む事無く寝る事なく行なっているんです。
表層意識で思い込みだと気付いてもそれは消えません。阿頼耶識に蔵されます。
蔵された思い込みは種子となって、何かをキッカケにヒョイと阿頼耶識か上の意識に向けて出てきます。
なんでもそうです。 >>700(続き)
しかし、阿頼耶識も末那識もさまざまな要素が因縁仮和合して現象してるに過ぎないんです。
根無し草みたいなもんです。
ほっとけばいいんです。
観察する事は新たな業を作るに他ならないんです。
観察していない事を観察すりゃいいんです。 >>700
1度でも思い込みに気付けば思い込みの根っ子の部分がなくなるのはわかるでしょう?
また思い込みが生えてきても根っ子がないからすぐ抜けますよね。
すぐ抜けるようなものは思いであっても思い込みではないと私は思います。 >>700
唯識も一つの説明に過ぎません。
龍樹は唯識など無関係に悟りへの道を説いているでしょう。
また、唯識派にもさまざな派があり、解釈もさまざまです。
くそ凡夫(糞凡愚)さんは自分が覚えたことが唯一の説明だと思ってはいけません。 >>701
>観察する事は新たな業を作るに他ならないんです。
>観察していない事を観察すりゃいいんです。
妄想・妄言・たわ言ですね。観察は大切です。
ただ、観察において大切なことは「観察している自己」を意識することです。
そして、その「観察している自己」を見ているさらに奥にあるものに気付くことです。 >>699
>観察する事は新たな業を作るに他ならないんです。
>観察していない事を観察すりゃいいんです。
らしいですよ。
空っぽにはなれないみたいですが… >>702.3.4.5
だから、当人の意識に関係なく阿頼耶識に種子が蔵されると言ってるでしょ。 >>704
>そして、その「観察している自己」を見ているさらに奥にあるものに気付くことです。
ないよ。
仏教は無我説。 「知らないということも知らない」
「わからないということもわからない」
このような状態がどのような感覚なのかを知ることはできません。これを無だとします。
そこで気づきがありますと。
「知らないということを知った」
「わからないということがわかった」
気づきの後にはこのような状態になります。これは感覚として知れます。
有に気づくことで無だったことに気づくことになります。
しかし「知らない」「わからない」という感覚は、それがあったことを知った後でも想像することができません。無だからです。
有があるから無があります。有がなければ無がありません。
ですが無があるから有があるとは限りません。
知らない、わからないを知ることはできませんので、知る、わかるを積み重ねる事になります。
知る、わかるを積み重ねてみても、知らない、わからないは知ることができませんが、知る、わかるを積み重ねているうちに、知ることのできないはずの無を知ることになるのだと思います。
無を知ることができれば有を知ることができるのですが、無は知ることができませんので、知ったとしても記憶には残らないと思います。
これが思い込みに気づく理屈だと思います。
すごくわかりにくいのは自分でもわかっていますのでごめんなさい。
こんなにわかりにくい話をわかろうとしても意味ないかもしれません。 >>706
> だから、当人の意識に関係なく阿頼耶識に種子が蔵されると言ってるでしょ。
私にはその阿頼耶識がどういうものなのかわかりませんから、なんとも言えません。
私は、私の感情や煩悩がどのようになっているのかを観て、思い込みがなければ煩悩はないと気づきました。
思い込みに気づいてもまた思い込みするようなことは確かにありますが、それは弱々しいもので今度はすぐに気づくことができるようになります。
何度もそれを繰り返すことで、思い込みが滅されるのか、ひたすら繰り返すだけなのかは私にはわかりません。
ただ今のところは煩悩が減り無駄に苦しむことが少なくなっているので、私は間違ってはいないと思います。 >>706
じゃあ観察してるかぎり
こじさんの言う(空っぽ)にはならないよね?
こじさん紛い物〜w こじさんは間違っていませんよ。
気づくというのは大小があると思います。
私が気づいたのは根っ子の部分だけなので根っ子の部分だけなくなりましたが、根っ子や茎や花に気づいた人は、根っ子も茎も花もなくなると思います。
空っぽになるまで思い込みの対象は消滅すると思います。 >>709
私はくそ凡夫ですから、仏教数千年の歴史の中で、様々な覚者や賢者によって明らかにされた智慧に勝る見解は示せませんし、先人方には到底及びません。
しかし、空の思想や唯識は外せないポイントだと思いますよ。
一個人が自己流で見当付けた知識など、仏教数千年の叡智に比較して取るに足らないものです。 >>712
そうかもしれませんね。
実際ネットで仏教を調べていたら蛇縄麻のたとえというのがあって、思い込みがどうのこうのと私が個人で考えた見解など、すでに明らかにされていたことを知りました。
それを知っていたら思い込みがどうのこうのと言わずに蛇縄麻のたとえを使ったと思います。
それに阿頼耶識に蔵されるというのを否定しているわけではないですよ。
それが本当だとしても、それを頭で本当に理解するのは難しく、体験することで知ることが本当なのではないかと思います。 仏教や哲学を勉強しないで自己流であれこれ考えてもむなしいです。
それは、>>564 で<和算>の世界を例に出して説明した通りです。 レス下さった皆さまありがとうございました。様々な環境で瞑想修行されている皆さまのお話を伺えて、ネット越しではありますが共に励む同士というか先輩方といいますか、何となく嬉しく思いました。
体位や時間帯なども工夫してみます。
いつかは家族でも座禅や瞑想に親しめるようになったら良いなと思います。 >>669 部屋にこもっているのじゃ。
そのような愚者とは永遠に縁を切ってよいのじゃ。
お釈迦様も修業の為に国や家族を捨てたのじゃ。
>>673 助けたらよいのじゃ。
ありがとうというとよいのじゃ。
>>680 できるのじゃ。
完全に観察できれば消えるじゃろう。
実践あるのみなのじや。
>>684 おぬしが限界と思った時が限界なのじゃ。
おぬしがよくないと思えばよくないのじゃ。
外国では不治の病に掛かった娘が居た夫婦が素人なのに鬼のように調べて効果の有る薬を作ったという話が有るのじゃ。
本当に愛する者が苦しめば人は限界など無く働くのじゃ。
限界も寂しさも自ら作り出しているだけなのじゃ。
本心を観れば寂しさも無くせるじゃろう。
自らの本心をよく観察し、受け容れて自らの道を決めるのじゃ。 苦や不幸は無知から来るものでしょうか?
楽しさや幸せ、その他よい感情を味わうためには
何を知ればよいでしょう?
不幸が遠ざかり、幸せが近づく、押さえておくべき
ポイント等あれば聞かせてください。 >>708
君の書き込みからすると無は無明のことで有は光明のことだよね?
光明があるから無明がある。
光明がなければ無明がない。
無明があるから光明があるとは限らない。
無明を知れば光明が知れる。
これってめちゃめちゃおかしくないか? >>708
よくわからんけど、理屈がどうだろうが結局のとこどうやって気づくかってだけの話だろ?w
なんのためにもならんことをごちゃごちゃ考えんほうがいいぞw そういえば、毛深さに悩む娘のために、台所にある食品だけで
アレルギー反応を起こさない脱毛薬を母さんが作って、深夜番組の
テレホンショッピングで売ってた事があったのぅ (-人-) 手は2本あるのぢゃ。それは右手と左手の2対なのぢゃ
言葉は、その全てに対義語が有るのぢゃ。右があれば左があるようにのぅ
美味しい食べものを、いくら手で捏ねくり回しても、どんな味付けをしても
口に入れなきゃ味わえないのぢゃ。口は一つしかないのぢゃ
ご飯を食べてるときは、言葉を超えられるのぢゃ。モゴモゴしか言えん
かと言うて、美味しい料理を作れるのは2つの手なのぢゃ
習熟が必要なのは手ぢゃ。習熟そのものが不要なのは口ぢゃ
悟りの境地は習熟そのものが不要な口なのぢゃ。喋ってはダメ
この見事なまでに、稚拙で粗悪な文章を書かせてるのもまた、頭の思念ぢゃ
言葉を用いて反面教師となって見せておる。人万言一知、神無言万知
青椒肉絲、麻婆豆腐、八宝菜、回鍋肉、エビ焼きそば、酢豚、搾菜 (-人-) ピーマン3個入り1袋158円+消費税とか、もう野菜食わないほうがいいの (-人-) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています