悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】61
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悟りを開いた人=ブッダのことで、仏教的人生相談になります。
仏教の議論は宗教板で。ここは、あくまでも人生相談スレです。
◆利用者のみなさんへ
・人生相談板では 相談すること、それに答えること このやりとりが大事です。
独り言や自説の主張・雑談・馴れ合いなどは禁止です。各々の専門板へ。
・何度も書き込む場合は最初に書き込んだ時のレス番号を名前欄に書いておいてください。
・相談はなるべく詳しく明確に書きましょう。(できれば年齢や性別も。)
では、どうぞ。
※前スレ
悟りを開いた人に聞いてみるスレ【人生相談】60
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1513819266/ 和智は大久保佳代子のファンで、好きな食べ物はヌカ漬け
見てて気兼ねする必要のないブスさが◎、全頭マスクを被せてみたいのぢゃ
(-人-) ♪ >>374 おぬしやおぬしの家族友人などが殺されては嫌だからなのじゃ。
お釈迦様もわが身に引き比べて殺してはいかんというのじゃ。
それが共通の原則なのじゃ。
>>391 自他の区別を超えることなのじゃ。
それでこそ愛なのじゃ。
孤独や寂しさもなくなるのじや。
>>411 それは誇張された像なのじゃ。
シュメール人の姿形は今の人間と同じなのじゃ。
安心して瞑想に励むのじゃ。
>>412 ないのじゃ。
平常なのじゃ。
恐れる主体がないのじゃ。
あるじゃろう。
修行に励んで恐れから抜け出すとよいのじゃ。
>>481 感情は刺激への反応なのじゃ。
思考はその反応への反応なのじゃ。
どちらかに執着していれば詳細に観察する事で厭離できるのじゃ。
>>482 悟るための極意なのじゃ。
ただひたすらに続けることなのじゃ。
続けた者が完成するのじゃ。
>>484 ないのじゃ。
おぬしが悟ればなくなるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>486 ただの変化の一部なのじゃ。
そのような神はいないのじゃ。
悟れば囚われなくなるじゃろう。 >>477
分別=理性?
分別には表層心(唯識でいう前六識)で起きるものと、深層心(末那識、阿頼耶識)で起きるものがあり、理性は表層心(第六識「意識」)で起きる分別の一部なんだけど?
あんた、何言ってんの? >>478
>理性と分別が同じだとかいうのは・・・・
理性=分別 であることが理解できない限り、「悟り」はわかりませんよ。
(仏教哲学では常識です。鈴木大拙の本でも読んでごらん。)
>一般的に使われる理性には道理、倫理、真理というニュアンスが含まれていますから理性は普遍的な正しい考え方という意味を持っているんですよ。
それは、「悟り」を知らない人達の間でだけ通用する煩悩世界での常識なのです。
>理性というのは仏教でいうところの智慧に近いものですよ。
それを妄想と言います。仏教哲学の専門書でも読んで勉強しましょう。
哲学を志向する若者は
「悟ってもいない学者達が考えた思想を体系化して頭に入れたい」のか、
「悟りを得て安心(あんじん)を得たい」のか、
先ずそのことを決めてから勉強を始めることが大切です。
前者なら西洋哲学を学び、後者なら仏教哲学を学ぶことです。 プロティノス
ネオプラトニズムの創始者といわれる哲学者。
万物(霊魂、物質)は無限の存在である「一者」から流出した理性の働きによるものである。一者は有限の存在である万物とは別の存在で、一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。
また、人間は「一者」への愛(エロス)によって「一者」に回帰することができる。一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。
ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである。プロティノス自身は生涯に4度ばかり体験したという。 スウェーデンボルグ
スウェーデンの科学者・神秘思想化
とてつもない人物で、生理学上の研究や、現在の原子物理学に匹敵する物理学上の研究、哲学、心理学など、多様な分野で多くの研究成果を残した大天才、貴族であり議員であった。
彼が精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学など多様。
57歳のとき、イエス・キリストの神霊と出会い、「霊界を証明せよ」という啓示を受け、生きながらにして霊界の様子を観る事ができるようになる。
世界的学者の変貌ぶりに、世界中の著名な人からも注目され、大哲学者カントからさえも批判を受けることになった。 >>505
【理性】(りせい)
道理によって物事を判断する心の働き。また、善悪・真偽などを正当に判断し、道徳や義務の意識を自分に与える能力。
理性の由来・語源
英語reasonまたはドイツ語Vernuntの訳語。明治初期、西周(あまね)が哲学用語として用いた。
ちなみに、仏教語では「りしょう」と読み、変わらない存在の本性、普遍の真理などを意味する。 ちえ【知恵・智慧・智恵】
@ 〘仏〙 空など仏教の真理に即して、正しく物事を認識し判断する能力。これによって執着や愛憎などの煩悩ぼんのうを消滅させることができる。六波羅蜜の一つ。般若はんにや。 《智慧》
2 (智慧)仏語。相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧。物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。 カール・グスタフ・ユング
スイスの心理学者。
ジークムント・フロイトの『夢判断』に触れ、親交を開始。
1911年には国際精神分析協会を設立し、その初代会長になる。フロイトでなくユングなのは、ユダヤ人以外を会長に選ぶ目的があったため。
ユングは自分自身の無意識の暗い底へ飛び込み、「宇宙の深淵のふち」に立ち、
夢の中で、牡牛の角が生えカワセミの翼を持つ老人と哲学的な議論を交わし始める。
いろいろな古代神話の象徴体系の底に共通の心理的基盤があることを知る。
個人的な意識の底に無意識が存在し、さらにその奥に「集合的な無意識」があることを突き止める。 >>509
君は何かい、そんな辞典の「智慧」の定義を読めば「智慧」がわかるとでも思っているのかい?
そんなことで「智慧」がわかるのなら、昔から誰も命懸けの修行などしていないでしょう。
そもそも、そんな辞典を編集している学者は悟りを知らない人ばかりだということも知っていた方がよい。
それと、イマヌエル・スウェーデンボルグを日本に初めて翻訳・紹介したのは鈴木大拙博士で、
大拙博士は「ワシは出版社に頼まれたから翻訳しただけで、内容には興味はない」とよく言って
いたのです。悟った人間には「宗教体験」と「神秘体験」の違いがわかるので、大拙博士が
スウェーデンボルグに興味を持たなかったのは当然なのです。
C・G・ユングは仏教の唯識思想を知って、それを分析心理学と関連付けられると思い、
「集合的無意識」などという概念を作ってはみたものの、何の「悟り」も持っていないユングに
何ができるわけもなく、結局、治療には役に立たない妄想理論に終わってしまったのです。
日本の河合隼雄はスイスに留学までしてユング派の分析家の資格を取ったが、やはり患者が治る
ことはほとんどなかったので、最後は文化人として活動しただけの人でしたね。 たとえば、「お前はこの律と法を知らぬ、我はこの律と法を知っている。
お前にはとてもこの律と法を知ることはできまい」とか、
「お前のすることは間違っている。私のすることは正しい」とか、
「私の言い方が正しい。そなたの言い方は正しくない」とか、
「そなたの言論は微塵に打ち砕かれた」とかいうがごとく、
争論のことに夢中になっているものがあるが、そのような争論も慎む。
これもまた、修行者の戒のひとつである。
釈迦 なにもわからぬ無知な者は、もともと智の働きがないので、表面に現れるものもない。
また、はるかに深い所まで到達した智恵は、もはや決して表面に出ることもない。
単なる物知り、理屈屋は、知っていることをひけらかそうとして、表に出すので、
滑稽なことになる。
近頃の仏教徒の様子など、さぞ、みっともないとお思いになるでしょう。 恥ずかしく存じます。
沢庵 さまざまな経典を読みあさり、それをぺらぺらと説き散らして高僧ぶってはいるが、
内心はさながら夜叉。
常に妄念妄想のために心は騒がしくうるさいばかりである。
ちょっとした議論や、日常の吉凶栄辱にも煩悩、邪見が次から次へと競い起こってくる。
これらはすべて、取るに足らぬ小見にうぬぼれて、聞きかじりの学問が少しばかりあるのを誇って、
それを大それた境地と思い上がっている連中の成れの果てである。
白隠 学問があると他人を軽蔑して優劣を争い、主我的な迷いを深め、地獄行きの業を増長する。
善星比丘などは、釈尊の説法を全部理解していたが、生きながらにして地獄に堕ち、この広い大地に身の置場すらなかった。
臨済 >>512 >>513 >>514 >>515
そのような文章の引用をしなければ、相手を批判して自分を正当化できないところに、
君が何もわかっていないことが表れているのです。
相手の言っていることを批判したいのであれば、きちんと自分の言葉で説明しなければ
いけません。
(そのような引用は、議論をしているどちら側も自分の都合の良いように使えるものなので、
何の意味もないのですよ。) 書き込む動機、息切れ、きつけ
に、キューシン、キューシン♪
救心 >>466 は、正しいのぢゃ。凡夫がいう理性など自と他の分別、隔てから生じた
思慮、配慮に過ぎず、普遍にある真理を知る上では妨げとなるものと書いとる
(-人-) 釈迦が用いたのはいわゆるマガダ語。マガダ地方の方言。
原始仏教のパーリ仏典は、部派仏教時代に使われていた俗語の1つであり、西インド系の、より具体的にはウッジャイン周辺で用いられたピシャーチャ語の一種であると推定されるパーリ語で書かれている。
それがラテン語のような高級文章であるサンスクリット語になり、アビダルマ教学、瑜伽行唯識学派によって哲学化していった。
それが中国語化され、中国思想と融合し、そして日本語にされ、理性だの智慧だのと言われるようになった。
それらの概念は釈迦没後数百年後の弟子たちが作った概念にすぎない。 インドの当時は仏教などといっていません。ブッタ・ストラーといっています。
神理への道という意味です。
これがインドで概念化され、中国へ渡ってくるに従って仏教という一つの固定した枠の中に入ってきたのです。 中国及び日本における仏教は、大乗教典を依教としており、その考えが常識となっています。
この大乗仏教というのはいつできたかと申しますと、釈尊が入滅して五百年の後の紀元前後に誕生しているのです。
時の論師、文学者、哲学者など、こういう人々が仏の教えを宗教的に神秘化し、文学的に美化し、哲学的に絶対化理論化してゆく、こうした行き方が、当時の流行の中の思想に応じた教典となってしまったのです。 古代の仏教は、これが非常に解りやすく、素直に説かれています。
その一例を上げますと「ゴーダマ様が風邪をひかれて非常にお困りになっている」とか、ある時は「大へん腰が痛いので横になりたいとおっしゃっている」
「バラモン婆羅門にどなり込まれて、ただ黙ってその罵声を聞いておられる」このようなものも説かれているのです。
托鉢に出られて一日中回られたのに、一粒の供米もなく、とぼとぼ帰路につくゴータマの姿もあります。 しかし、信仰がいろいろの分派にわかれて、また婆羅門教やその他とその優劣を競わなければならない必要上、
我々と同じ人間としてのゴーダマが説いた教えを最高度に美化し、哲学化し、
これを説かれたゴータマを完全無欠、金ピカの釈迦如来に仕立て上げたのです。 汝らがもし、仏を愛し、凡夫を憎むようなら、迷いの苦海に浮きつ沈みつ果てしがないであろう。
(臨済録) 外歩いて食い物もらったりくらい真似出来るんだからやってみたら良いと思うけどな、それをしたことで自分がどんなことを感じて何を思うかが、即わかるし、自分にとってどう言うことなのかがとても簡単にわかると思う >>519 >>520 >>521 >>522 >>523 >>524
君は病気なのかな?
知ったかぶりをしてデタラメを書いてでも自分の空虚なプライドを守ろうと必死に
なっているんだね。
パーリ語はサンスクリットが俗語化されてできた言葉ですよ。
だから、パーリ語を学んでもサンスクリットは読めないが、サンスクリットを
学べばパーリ語は簡単に読めるようになるのです。
大学の印度哲学科や仏教学科ではサンスクリットは徹底的に詳しく勉強させられます。
そうすると、パーリ語は少しの勉強で済むようになるからです。(逆はありません。)
また、ブッダというのはボドとも言い、目覚めた者という意味ですよ。
「仏教」というものは「目覚めた者の教え」という意味です。
ブッタ・ストラー(神理への道)などというのは、オカルト教の高橋信次が言い出した
デタラメであって、仏教学の専門家でそんな馬鹿な解釈をする人は誰もいません。
(高橋信次のGLAは大川隆法の幸福の科学のようなもので、まともな「仏教」と呼べるもの
ではありません。)
大乗仏教に対する理解もまったくデタラメで話になりませんね。
明治時代にヨーロッパから入って来た「大乗非仏説論」にうろたえたのは「悟り」や「救い」
を持っていなかった僧侶や一般の知識人だけで、大乗各宗派の指導者達は大乗仏教によって
「悟り」や「救い」を得ていたので、何も動揺することがなかったことは誰でも知っていること
です。だから、日本仏教の中心は昔も今も大乗仏教であって、何ら動揺やぶれがないまま受け継が
れて来た現実があるのです。
(今でも大乗仏教は釈尊の教えではないと騒いでいる者は、悟りも救いも知らない一部の学者や
門外漢だけなのです。)
君はやたらと「理性」にこだわっていたから西洋哲学を勉強している学生かと思ったら、なんと
GLAというオカルト教の信者だったんだね。それで、君のこれまでのデタラメな書き込みの理由が
すべて納得できました。もう、まともに相手にする必要を感じないのでこれで終わりとします。 >>526
いや、お前も十二分に胡散臭いし、文章に知性も悟性感じないなw
てか、この流れ変だな?
何を必死になってるんだw
ゴミカスどもは所詮ゴミカスなんだから、身の程を弁えてレスしろ。 >>527
お前はいつもの、「ただ他人をけなすだけで内容的なことは何も書かない馬鹿男」だな。
内容的なことを書くと馬鹿であることがバレるから決して書かない。そして、自分の
コンプレックスに触るものがあったら、相手の人格を否定する書き込みをして鬱憤を晴らして
いる陰湿な人間、それがお前だ。
他人についてどうこう言う前に、お前のその低劣な心根をよく反省することが大切だな。
私が彼(ID:4U82Fxf+)を批判しているのは、彼がデタラメを書いているから、間違って
信じてしまう人が出ないようにと思ってのことだ。
(内容について何も書かないで、ただ人をけなすだけのお前と一緒にしてはいけないよ。) さすが!
大卒の肩書き欲しさに三浪して、坊主でも無いのにFランクの仏教学部にしか入れなかった天才は言う事が違うぜ!
しかも四留して金積んでお情けで出たんだろ?
卒業した時は30過ぎか?
そしてそのままニートと化して2ちゃんねるで仏教哲学をご講義とかw
余りにも香ばし過ぎるw 米国の研究で『孤独であることは酒の飲みすぎやたばこを1日15本吸うのと同じぐらい健康に悪い』という調査結果が
出ているそうで、世間では孤独を悪いことのように扱う風潮があります。
やはり孤独は体に悪いんでしょうか? >>531
面白い書き込みだが、はずれだね。
私は理科系の大学を出てから仏教の大学に行ったのだよ。
仏教学科にはそういう人が結構いる。一緒に入学した人の中に四十代の人もいて驚いたものだ。
君も内容のない茶化すような書き込みばかりしていないで、もっと内容のある書き込みが出来る
ように勉強しなさい。
>>532
孤独を楽しんでいる人は全然問題ないでしょう。 >>533
いや、お前w
それw
結局、就職出来なくて、w マウントおじさんは煩悩いっぱいの悟りを得た人らしいけど、煩悩いっぱいの悟りなんてあるのかな?
仏教の研究者というのはわかるし仏教体験をしたというのもあるのかもしれないけど、煩悩いっぱいの悟りとか大乗と症状の悟りを分けている所は、仏教的には正しいのかもしれなくても本来のさとりとしては間違っているのではと思う。 無明が晴れ煩悩が消える。これが悟りです。
煩悩いっぱいの悟りを得たなど言っているのは仏教の「ぶ」の字も知らない愚か者です。 基地外はさっさと故郷の精神病院に帰れ!!!
こじ=運鈷菩薩は明らかに統失じゃな。 >>481,486
調べようx2
>>482
せんでいい
適当で
>>484
そうでもない
そのうち お前らw
妄想大学仏教学部に8年学んだお方に失礼だぞw >>537
> 仏教の研究者というのはわかるし
> 仏教体験をしたというのもあるのかも
この人ねw
60過ぎの痴呆おじさんが妄想を膨らませてるだけだから気にしない方がいいよw >>526
理性について書いていたのは私です。
その人は別人なので勘違いでその人を攻撃するのはやめてくださいね。
私は理性の定義を示しましたがあなたは理性の定義を示さず、かつ私の理性の定義に寄り添いもしないで否定するばかりなので議論になりません。
あなたは道元の書を読んで宗教的体験を得たと言ってましたが、そこには理性があるはずです。
理性がなければ縁起を知ることはできません。
もしあなたがいうように理性=分別であるなら、あなたがいうように理性が煩悩になるでしょうし悟りの弊害なのかもしれません。
しかし理性と分別は違うものであり、理性と思考も違うものです。
分別は主観的であるのに対して理性とは客観的なものです。
理性が客観だとして、人が客観を認識するためには主観が必要であるため、自分の認識から逸脱した理性を得るということは不可能だと考えられます。
完璧な理性、真の理性というものがあるなら人間の認識を越えたものだということです。
人間の認識を越えた真理、これが理性の本性です。
ですから人間の理性には間違いが当然あります。
それは理性が間違えているのではなく、人間が間違えているからです。 この妄想おじさん、山田無文が学長の時、何処かの仏教学部に行ってたとかほざいてるから、(妄想)理系大学も加味すると、1978年に(全てストレート入学として)最低限23歳ってなるな。
てことは現在は最低でも63歳ってなるw >>526
私がどのような意味で理性という言葉を用いているのかについては理解をお願いします。
もしくはあなたがどのような意味で理性という言葉を用いているのかを私に説明してください。それならばこちらから歩み寄れますので。
言葉の定義がバラバラでは議論になりませんし、勘違いで議論することには意義がありませんよね? >>526
私の忘我体験において、そこに言葉はありませんでしたし、そこには思考も理性もありませんでした。
そこには善悪もなく集中することもなく想像することもありませんでした。
生きていることもないので死ぬこともありませんでした。
私は真実を言葉では現せない、言葉は正しいものではないことを知っています。
私は本を読む事でその体験を得ましたが、そこまでの過程には集中や理性や想像がありました。 感情の交流を避け、規律正しく従属的に生きる日本人は、優秀な兵士になる
過酷な労務も自害するまで耐えうる精神は、本来は軍事利用を目的として
日本の精神文化に組み込まれてきた価値観だ。何故ならば人は人を殺したがらず
殺人への抵抗感を麻痺させるには、権威への服従、集団内での客観評価の配慮
個性の欠如、命や感情より命令優先など、おおよそ無機質、無感情な殺戮者へと
容易に変貌させれる精神の用意が文化的に出来上がっているからである
我々の足枷は、GHQが押しつけた憲法に始まる本来の日本人の肌に合わぬ民主制
これにより日本人は、実に形式的で不自然な、民間人どうしの経済交流行われ
本心にそう非ずとも客人をもてなし、過剰なまでに敬語を用い、偽りの己のまま
闇雲に与えられた職務をこなし続けるに至っている。しかしながら本来の活用は
あくまで兵員利用。平時では実にぎこちなく平和が似合わぬ民族は日本人だけだ
(-人-) >>526
私の体験において、そこには仏教も仏法も釈迦もキリストも普遍も真理もありませんでした。
そのようなものは私が現象や思考から分別し、それらに私が名前を付けたことから生じているものだと自覚しました。
私とは世界から私を切り離し私に名前を付けたことから生じていることを自覚しました。
それが生きる苦しみと死の恐怖を生み出していることを自覚しました。
禅では思考や分別を毛嫌いするような風潮があるように思いますが、それが正しいことではないということを私は知っています。
あなたにはそれがわかりますか? >>550
そうかもしれませんね。
私はそれが神秘的なものであるとか、宗教的なものであるとか、崇高なものであるとか、そのようにはとらえていません。
脳の病気かもしれませんしね。
そのようなものに悟りだとか神の愛だとか仏性だとかすがりつくことが私には理解できません。 忘我を体験しても得るものはなにもありません。
世界がどのようなものなのかを違った角度から知ることによって、自分が根拠のない思い込みをしていたことに気づくだけです。
長靴を履いているから泥沼から抜け出すことが出来ないことに気づき、その長靴を脱ぎ捨てる事で自由になったようなものです。 素朴な疑問なんだが、理性(りせい)と理性(りしょう)だけど、体相用に分けると、理性(りせい)は用、理性(りしょう)は相だろ? >>553
自分から理性を持ち出しておいてなんですけど、理性は言葉の意味するところが漠然としすぎていてダメですねw
理性とは何かということですら難しい話になっちゃいますしねw
りせいとりしょうは違いますね。
でもニュアンスとしてのりせいにはりしょうの性質が含まれるんですよね(全てではないですけど)
感情と理性、欲求と理性、理性的、直観と理性、使いどころで意味するところが違いますからね。 華厳の世界で受け云うと、理性(りしょう)は理法界でのあらわれ、理性(りせい)は事法界での作用だろ? 理性(りせい)の対義語は本性だとか。
仏教でいう理性(りしょう)は、その両方が矛盾する事なく共存している(絶対矛盾的同一性、理事無礙法界)って事でしょうね。 類は友を呼ぶ。基地害は基地外を呼ぶ。
お前らの居所は精神病院だ。さっさと帰れ!!! >>537
>本来のさとりとしては間違っているのではと思う。
本来の悟りとは何を意味しているのかな?
「煩悩を滅し尽くして木石のようになる」ことだと思っているの?
そんな悟りを求めている人は、現実には誰もいないのです。
あなた自身も本当は求めていないでしょう。
そのことに気が付くことが「大乗仏教」への目覚めにつながるのです。
>>539
>無明が晴れ煩悩が消える。
そういう表面的な言葉だけの理解なら、言葉を知らない方がマシなのです。
君は死ぬまでずっとそんな妄想を抱きながら、現実には毎日煩悩に振り回されて
四苦八苦して生きて行くことになるのです。 >>544
>あなたは道元の書を読んで宗教的体験を得たと言ってましたが、そこには理性があるはずです。
そこが間違いです。理性が働きを止める時に宗教体験が起こるのです。
>理性がなければ縁起を知ることはできません。
だから、言ったでしょう。宗教体験を他人に伝える時には理性は有用だと。
宗教体験そのものに対しては理性は有害無益なのです。
>分別は主観的であるのに対して理性とは客観的なものです。
もっと国語の勉強をした方がいいですね。
自然科学は分別の極致なのです。徹底的に分別によって分析することによって
現代の自然科学も出来上がって来たのです。
>人間の認識を越えた真理、これが理性の本性です。
それは、仏教用語の理性「りしょう」であって、一般に使われる理性「りせい」とは
違います。
理性「りせい」というのは人間が持っている能力の一側面なのです。
これは西洋哲学でも一般社会での使い方でも同じです。
(ショーペンハウエルもカントもその意味で使っているのです。) 勤労世代の若者の自由と健康と夢を守るために、いま我々ができること (-人-)
1、国民年金を無くそう
もはやこの国の年金制度は破綻してるのぢゃ。いっそのこと無くした方がよい
2、60歳以上の医療費を10割負担にしよう
病院の待合室を不当に占拠する高齢者への、青天井な医療補助は不毛なことぢゃ
3、ベーシックインカムを導入しよう
これが実現すれば社会保障と行政の一括統一が叶い、財政に余裕ができよる
4、安楽死の合法化と無料施設を作ろう
お年寄りの孤独死を応援し、70歳超えの高齢者へ白い目を向ける風潮が肝心ぢゃ
5、政府不干渉の無法区域を設けよう
これさえ隔離設置できれば高齢者の最後のセイフティネット、刑務所も不用ぢゃ
6、海抜の低い土地に高齢者を追いやろう
地震雷火事おおやじ、効果が高いのは津波。逃げ足の遅い高齢者を丸呑みぢゃ
7、戦争を引き起こそう
有事の緊急事態で社会保障は完全停止。戦火を受けて、高齢者の火葬も不用ぢゃ
(-人-) >>560
宗教体験に至る過程に理性があると言ってます。
宗教体験に至る過程に理性があるのに、宗教体験には理性が有害だと言われても意味がわかりません。
宗教体験自体には害も益もありません。そこでは煩悩も理性も欲求もありません。
そこではあらゆる作用がありません。
認識できないところで肉体が何かしらの作用を受けていたとしても、それを認識するものがありませんので無害です。
音もないし心も動かないから静寂なのでしょう。 >>560
> 自然科学は分別の極致なのです。徹底的に分別によって分析することによって
> 現代の自然科学も出来上がって来たのです。
それは分別ではなく分析です。
あなたの言う分別はふんべつですかぶんべつですか? >>549
>私とは世界から私を切り離し私に名前を付けたことから生じていることを自覚しました。
>それが生きる苦しみと死の恐怖を生み出していることを自覚しました。
そうなのですよ。その通りなのです。
それをさらに深く徹底的に解明し詳細に描写することによって、他の人々も同じ洞察を得ること
を教え続けて来たのが仏教です。
例えて言えば、日本の関孝和の<和算>を考えてみればよいでしょう。<和算>の世界では
欧米の「微積分学」などと言う言葉も知らずに、微積分の基礎的な部分を理解していたのです。
<和算>だけを知っていた人は、「微積分学など関係ない。そんなものは知らなくても同じ計算が
は出来る」と言うかも知れません。ところが、現実は「微積分学」の理解と発展は「和算」レベル
では及びもつかないほど発達しているので、<和算>だけ知っていた人も最終的には欧米の「数学」
の世界に入って行くことになるのです。
宗教体験の世界でも同じです。仏教のことなど知らずに似た体験をする人もいるのですが、
仏教はそれを2500年以上も追求し続けて来た世界なので、個人的な体験をした人も仏教を
学べば、自分の体験がさまざまな人によってさまざまな角度から徹底的に研究されている
ことを知って驚くことになるのです。 >>563
「ふんべつ」です。
しかし、「ふんべつ」も「ぶんべつ」も同じなのです。
混沌とした認識を「分けて見る」ことによって精密な認識を得ることが根本なのですが、
それによって失われるものがあるのです。「分別」が有害なものになることもあるのです。
これらは哲学を学ぶ者にとって常識的なことです。 >>562
あなた「宗教体験」を知らずに、頭で「宗教体験」というものを考えているだけですね。
精細なプロセスがわかっていないので、頭だ考えた理屈を述べているだけでしょう。 真の「宗教体験」とは、その体験によって否定されるんだけどなぁw
紛い物君はまだ遍計所執性の世界から踏み出してないんだよ。
だから理性が妨げになるとか意味不明の事を言ってるんだよ。 >>566
体験者がいない体験なのにそれを知っていると言えば正しくないでしょう。
最後にはすべてを捨てる、あるいは忘れることで体や思考の外に意識が広がるといった感覚はあります。
例えば、シャボン玉の中の空気が私であり、膜が破れたら私は消滅するのだと思っていたものが
シャボン玉の膜が割れてみれば私と私以外の境界がなくなることで、中の空気も外の空気も同じであったとの気付きです。
そして、そもそもシャボン玉の膜すら私の妄想だったとの気付きです。
膜がどのようにして破れるのかはわかりませんが、集中や理性や想像が力になると私は思います。 >>566
>あなた「宗教体験」を知らずに、頭で「宗教体験」というものを考えているだけですね。
それ、紛い物君の事な。 そもそも欲求も理性も、それ自体に善悪はありません。
悟りへの道があるとすれば、欲求も理性も悟りへの道しるべになるでしょ?
欲求や理性にレッテルを貼って、それが観念だと気づかないような状態であれば、それは無明です。
欲求や理性とは観念であることに気付きつつ、それらに対して理性的な判断をするのであれば、それは智慧というものではないですか? 感情の交流を避け、規律正しく従属的に生きる日本人は、優秀な兵士になる
過酷な労務も自害するまで耐えうる精神は、本来は軍事利用を目的として
日本の精神文化に組み込まれてきた価値観だ。何故ならば人は人を殺したがらず
殺人への抵抗感を麻痺させるには、権威への服従、集団内での客観評価の配慮
個性の欠如、命や感情より命令優先など、おおよそ無機質、無感情な殺戮者へと
容易に変貌させれる精神の用意が文化的に出来上がっているからである
我々の足枷は、GHQが押しつけた憲法に始まる本来の日本人の肌に合わぬ民主制
これにより日本人は、実に形式的で不自然な、民間人どうしの経済交流行われ
本心にそう非ずとも客人をもてなし、過剰なまでに敬語を用い、偽りの己のまま
闇雲に与えられた職務をこなし続けるに至っている。しかしながら本来の活用は
あくまで兵員利用。平時では実にぎこちなく平和が似合わぬ民族は日本人だけだ
(-人-) >>571
>欲求や理性にレッテルを貼って、それが観念だと気づかないような状態であれば、それは「無明」です。
「無明」の本当の意味も知らずに「無明」という言葉を使っているところにあなたのすべてが表れている
と言ってよいでしょう。仏教はもちろん哲学についてももっといろいろと勉強して下さい。 忘我を体験したあと、精神病やスピリチュアルや悟りなど調べましたが
その中でも無明について特に理解できることに私は気付きました。
無明とは思い込みです。 >>576
何かを知っているということです。
知っていると思っていることを自覚していれば無明ではありません。 >>577
全然違います。
もっと仏教について勉強して下さい。 無明とは知っているという思い込みだというのは違いませんよ。
例えば自分の目の前で母親が子どもを平手で叩いているのを目撃したとします。
それに腹を立てたり憤りを感じたりするのは無明だからです。
目の前の情報だけですべてを知っているかのような思い込みをするから、それに腹を立てたりするんです。
自分はその母親が母親かも知らないし子どもが子どもかも知らないし叩いたのか偶然当たったのかも知らないし、叩いたとしてもどんな理由だったのかも知らない、何も知らないという自覚があれば、腹を立てることはありません。
すべての煩悩はこのような知るはずのないことを知っていると思い込むことから生じるものです。
これをお釈迦様は無明だと言っていたのだと思います。 全て自由自在に操れる者に、もう一つ自分を作らして決闘すると矛盾が生じます。
勝っても負けても引けわけも勝負をしないことも、全てを自由自在に操れるということが成立しません。
神は物を消すことは出来ても消した事実を消すことが出来ません。
なので神様居ません。
絶対は存在出来ません、
が、絶対が存在しないとゆうことは神は居ないとゆうこも絶対に決める事が出来ません。
しかし1+1=2は紛れもなく絶対です
数字には絶対があります、、、
なので言葉とゆうものが絶対を持てないと思います
様々な知恵、絶対ではなく最高が更新されて今に至るのだと思います。
なので宗教などの教えは良いと思うのですが(更新されて行くものであってもいいし、変わらなくても特に良いものはそのままでも別に構わない)、
お経や仏壇仏具神棚等は後付けの文化風習だと思ってしまいます。(変わらなくても特に良いものに入るかも知れませんが)
弔いの儀式のためってのもあるし
なので、無神論者無宗教でいたいのですが、やはり人間は群で生きるもので宗教に入って居ます、、
信じてない思いが更新できず心苦しいですが、仮面を被って生きています。
人は足掻きの果てに願うと思いますが願うところが無いのは苦しいです
最近姉の娘を助けて下さいと何かに願いました、、
そこで気づきました、力が無くても私を絶対にすればいいと
そして願うことをやめ、念を込めることにしました。 1度でも忘我を体験すれば自分が知らないものを知っていると思い込みしていたことに気づくのではないでしょうか。
それは自分がいるという思い込みだけには留まりません。
大小や善悪や美醜など二元論的なものはすべて自分の思い込みだと気づくでしょう。
そのようなものに固執していた自分が無明だったと気づくでしょう。 「平成哀歌」
はい ♪
遊ぶつもりで、上京したがっ
7時出勤、10時過ぎに帰宅
変わらぬ景色を、行ったり来たり
そんでもって手取りで、15万
働きづくめの、毎日だから
生きる望みは、何もない
あ〜あ〜あ、やんなっちゃった ♪
あ〜あああ、驚いたっ
あ〜あ〜あ、やんなっちゃった ♪
あ〜あああ、戦争おきろっ
(-人-) 【教育勅語】
和智おもふに、文明の発達とともに、人の精神は、その暮らしの豊かさに比例し
幼稚化してしまっている。男子は戦で使い物にならず、兵役を嫌がるばかり
しかし兵器のロングレンジ化が進むことで、殺人への抵抗感が薄れたのを幸いに
刀剣類は機銃に取って代わり、長距離を射程に収める弾道、巡航ミサイル
あるいはドローンなど無人飛行攻撃機の登場が、子供らに兵役を務めさせた
これにより、平和の望みを訴え続けるも、実は単なる社会保障ドロボーな
先天性の障害者、不治の万病人、後期高齢者や、それを擁護し、国力衰退を招く
国内の左翼思想家どもを、心置きなく地獄へ叩き落とせる、可能性がある
真の敵は、優秀な敵将に非ず、国内に居座る愚かな社会保障ドロボーである
よって我々は、敵国元首と秘密裏に密約を交わし、自国への攻撃を誘致して
障害者施設、隔離病棟、老人介護ホーム、暇潰しデイケア、早朝の公園などを
ピンポイント爆撃してもらうことを、願うに至っており、ソシャゲスマホ弄りや
立ち飲み屋、ヒトカラ、漫画喫茶などが、若い勤労世代の、慰みなのである
(-人-) >>579 >>581
「無明」と「無明が晴れる(=無我)」は仏教の根本概念です。
頭でこねくり回して納得するようなものではありません。
きちんと仏教を勉強しましょう。 では。 >>532 それが苦になると体にも悪いのじゃ。
実践に励む者にはよいのじゃ。
他人に気兼ねなく自らの本心が知れるからのう。
実践あるのみなのじゃ。 孤独は故郷なのぢゃ。孤独を苦にする者は、依存症の病原菌なのぢゃ。関わるな
(-人-) 数ヶ月間ずっと憂鬱で、ぼーっとして、お菓子もいっぱい食べてしまいます。
家族や友人の些細な言葉にすごくイライラしてしまいます。
タヒにたいと不意に思ってしまいます。
何もかもぐちゃぐちゃにしたい、発作のような気持ちに襲われます。
理由もなく涙がでて、これまで楽しかった勉強や趣味に対してワクワク感がなくなりました。
もうなんなのか分かりません。こんな時ありますか >>587
仏法や学問は相手をやりこめるためのマウンティングの道具ではありません。
外界の条件に惑わされて念を起こす。これを無明とす。 瞑想にふけって神秘体験を得ても、あるいは書物を読み勉強を重ねても、
日常生活に戻ったとたんに欲望にかられたり、ヒステリーを起こしながら議論ばかりをして争っていたとしたら、何の意味もないではないか
日常のさまざまな活動、色声香味触法の六塵である現実の中で、
正念を打失するのはどの時かと、常に自己点検しなくてはならない >>591 >>592
他人をマウンティングだと言う自分自身のマウンティングに気が付かない愚かさだね。
他者の人格ではなく、他者が書いた内容を論理的に批判できないにならレスをする資格は
ないと言うべきだろう。(人格批判は馬鹿でも出来るのだから。) ↑悟ってないのにレスを繰り返し、スレを荒らすのはやめてください >>587
無明と無明が晴れるのは単純なことですよ。
お釈迦さまの教えの本質って単純なんですよ。
それをこねくり回して難しくしているのがあなたなのではないかと思いますけど。 >>587
例えば誰かがあなたに「バカ」と言いました。あなたにはそれが全く聞こえなかった、あるいはあなたはバカという言葉を知らなかった、あるいは自分に言われているのだと思わなかった。
このような時に煩悩は生じないでしょ?
それだけのことなんです。
知らないなら煩悩はないという単純なことなんです。
その理屈は何も知らない状態を体験することで気づきます。
無思考無認識の何も知らない何もわからないを体験すればそこに苦しみがない事に気づきます。
それによって「知っている、わかっている」が苦しみの原因だと気づきます。
あとはそれを実践してみれば、それが正しいものだとわかります。 人が何を求めて話すかは、発してる言葉の意味とは全く関係ないことも多いと思うけどな >>594
そういう書き込みが一番いけないと言っているのです。
内容についてはまったく書かずに、ただ自分の感情で他人を否定しているだけなのです。
>>595 >>596
君は理性が大切だと言っていた人でしょう。
それに対して、私は理性は悟りの障害になると言ったでしょう。
>「知っている、わかっている」が苦しみの原因だと気づきます。
それこそ、理性が悟りの障害になるということなのですよ。
>>597
それは何かについて議論をしている時に持ち出すことではありません。
友達(家族・恋人ら)と会話を楽しむ時だけにして下さいね。 >君は理性が大切だと言っていた人でしょう。
人間には理性があると言っていたのは私ですね。
>それに対して、私は理性は悟りの障害になると言ったでしょう。
はい。
>「知っている、わかっている」が苦しみの原因だと気づきます。
>それこそ、理性が悟りの障害になるということなのですよ。
私とあなたでは理性の定義が違いますからね。
あなたの言う「理性」が私の思う「思考」や「分別」を指すのであれば、そうなのかもしれませんね。 >>599
君が言っている理性は仏教で言う「りしょう」に近いものですね。
私が言っている理性は「りせい」は一般的に使われている内容で、カントなど西洋哲学者たちも
使って来た内容です。
理性を仏教で言う「りしょう」と定義するなら、それは当然最も大切にすべきものになるでしょう。 プーラナ・カッサパは悟っておったのぢゃ。無上正等正覚の覚者なのぢゃ
綺麗事を言わず、己の保身に叶うように言葉を濁さない姿勢は、信ずるに値する
八正道などと言う綺麗事は、それを述べる者らの様相を見てみれば瞬時に分かる
綺麗事のオブラートで包まれ、綺麗事の言葉が蔓延する偽りの状況を望む輩は
障害者、万病人、高齢者、不細工、貧乏人、未熟者など弱く価値の低い者らぢゃ
八正道の屁理屈を愚直な言葉で一刀両断する、斬り捨て御免な姿勢こそが
信ずるに値する、人望をも根底から遠ざけた、無上正等正覚者の潔い在り方ぢゃ
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