「ヤクルトを辞めてから2年がたった’81年に、阪神、近鉄から監督のオファーがあった。知り合いを通じて阪神の球団社長・小津さんから連絡があり、会ってみると『3年契約でお願いできませんでしょうか』と監督要請の話をされた。でも、俺は5年契約を要求した。というのは3年契約だと選手たちが『どうせ3年経ったら辞めるんだろ』とバカにして言うことを聞かないんだ。だから、やるなら5年契約でやらないと意味がない。こうして阪神の監督就任が破談になった後に、今度は根本さんから西武の監督へと誘いを受けた。最初に長嶋に断られ、上田(利治)にも断られ、そして俺のところへ話が来たんだ」

 こうして、’82年には西武ライオンズの監督に就任。最初に取り組んだのは技術的なことでも戦術的なことでもなく、“食生活の改善”からだった。