[●] 平成、その後、その前の日本 [●]
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時代とともに変わりゆく日本の国家、社会、人びとの姿。
明治、大正、昭和、平成、そして今後の未来。
勝戦、敗戦、事件、経済発展、地震、事故…
日本は今後、どのように変わっていくのか?
日本人は、日本をうまく操縦できるのか?
/// 「東京時代」の終焉 12 //////
こうした空想をまともに受け取って、外国船に砲撃する大名も現われた。ところがたちまち
凄まじいばかりの反撃を受けた。馬開戦争でも薩英戦争でも、日本側は大損害を被った。
いまもパリのアンヴァリッド軍事博物館には、馬関戦争のときに分捕った長州藩の大砲が
飾られている。わずか千人程度の水兵で砲台を占領し、砲身を外してもち帰ったのだから、
いかに彼我の軍事力に大差があったか分かろうというものだ。
その結果、武力で外国を追い払うためには、数多くの軍艦や大砲などの近代兵器が必要で
あることが分かった。そこで諸藩の大名たちは、長崎にいたオランダ商人のところへ大砲を
輸入したい、軍艦を購入したいと走り込んだ。
////// 日本・いま決断のとき ///
/// 「東京時代」の終焉 13 ////////
だが、それらは非常に高価であり、代金は金銀などの正貨で払わなければならない。
つまり、近代的な軍事力を整えるためには、自ら近代兵器を生産するか、外国から購入
するための金銀を稼ぐかしなければならない、ということが分かったのである。
ここから、幕末の志士といわれる人たちは、外国の技術を導入し、これによって近代的
生産力を高めようという「富国強兵」の思想をもつようになった。
このことに気づいたのは、実は幕府の官僚の方が先だった。幕府は急遽浦賀に造船所を
つくり、近代的な兵制を整えようとした。前述の海軍の創設や陸軍の三兵編成などが
それである。
////// 堺屋 太一 ///
/// 「東京時代」の終焉 14 ////////
幕府の大改革が進むようになったのは、元治から慶応(一八六四〜六八年)と呼ばれる
時代である。この頃から十四代将軍の家茂と、その後見役でのちに十五代将軍になる慶喜は、
江戸を離れて京、大坂に常駐する上うになる。老中の大半も京都に移住し、諸藩の大名も
京都に集まった。徳川幕藩体制の首都機能が江戸から京都に移り、江戸は空洞化した。
日本の歴史では、首都機能の移転が改革の決定的な要件となる。「江戸」という都市と
その首都機能とに密接に絡み合っていた徳川幕藩体制は、これによって一挙に崩壊した。
幕府が自ら改革を目指して、その根底にあった「安定」コンセプトを崩したわけである。
////// PHP研究所 ///
/// 「東京時代」の終焉 15 //////
「武士文化」は否定された
幕末維新の歴史の中で不可解なことの一つは、鳥羽・伏見の戦いただ一つの敗北で、
圧倒的優勢な兵力と資力をもっていた幕府が、なぜ簡単に降伏してしまったか、である。
鳥羽伏見の戦いなどは、ごく小さな戦闘であり、主要人物の戦死も大部隊の崩壊もない。
それなのにこの一回の敗戦で、徳川慶喜はなぜ大坂城から逃げ出し、すぐ恭順の意を
表したのだろうか。
それは、このとき既に徳川幕藩体制のコンセプトが崩壊していたからだ。つまり「武士の
文化」が信じられなくなったのである。それはあたかも、エリツィン(現大統領)と小部隊が
決起しただけで、地球を破壊するほどの軍事力を誇っていたソ連共産党体制が倒壊したのに
似ている。社会主義の「文化」が信じられなくなっていたから、共産党体制を支えようと
する軍隊が一個師団もいなかったのだ。
////// 1998年7月発行 ///
/// 「東京時代」の終焉 16 ///////
明治維新は、薩長らの下級武士が中心となって幕府を崩壊させた政治運動として語られる
のが常だが、より重要なのは、鎌倉幕府以来六百七十年にわたる武士の支配する社会的精神的
構造を毀したことだ。明治維新は「武士の文化」に代るものとして「エリートの文化」、
つまり知識と技能をもつ人々をリーダーとする官僚主導の文化を提示した。
改革運動を進めていた薩長土肥の人たちにも、新しい時代をどんなものにするか、はじめ
から明確な考えがあったわけではない。あらゆる革命と同様に、明治維新も最初は幕藩体制の
残滓を除去することに専念した。
////// あるべき明日 ///
/// 「東京時代」の終焉 17 ////////
明治四年七月には廃藩置県を断行して統治機構を変え、同年八月には廃刀断髪を許可して
武士の様式美を否定した。また十月には新貨条例によって、徳川時代との経済的な繋がりをも
断ち切った。しかし、これに先立って東京と改名した江戸では、「散髪」が流行、ザンギリ頭と
書生節が流行していたという。廃藩置県に先立って「武士の文化」はなくなっていたのである。
同じ年、岩倉遣外使節団が派遣され、これからどのような日本をつくるべきか、その参考を
欧米に求めることにした。岩倉遣外使節団ができたこと自体、日本が外国に学ぶ決心をした
ことを意味している。
その使節団に最も有能な人士が加わったことは、この国に「外国に学ぶのはよいことだ」、
という雰囲気が生じていた証である。従って、帰国した使節団の意見は通り易い状況だった、
といえるだろう。
////// 日本・いま決断のとき ///
/// 「東京時代」の終焉 18 ////////
そしてその彼らが帰国して主張したのが、官僚主導の「殖産興業」である。官僚主導とは、
「外国の近代的な技能と知識をよく知る者がリードする」ということだ。この頃海外に行って
新知識、新技能を学べるのは、公的資金で養われる官僚に限られていたからだ。
出身も身分も、人格も作詩能力も問題ではない。ただ新知識を正確に記憶し運用できる
ことが明治の指導者の必要条件だった。
この点では同じエリート主義でも官僚登用試験である科挙に頼った宋代以降の中国とは
まったく違う。儒教的な主知主義は、人治、つまり優れた人格と教養によって統治すべきだ、
という士大夫優先の思想である。これに対して明治以降の日本の官僚主導は、専門的な技能と
知識に秀でたテクノクラートによる主導だった。
後発の国が進んだ技術や知識を学ぶためには、熱心で辛抱強くて記憶力の優れた人材を選んで、
外国の知識や技能を覚えさせ、外国の制度や組織をそっくり真似るのが手っ取り早くて確実だ。
明治の日本は、まさしくそのとおりのことをした。この時代に欧米へ留学した人たちは、
それぞれの分野で近代日本の元祖になり、その下に弟子が育ち、彼らがまた外国に留学して
帰ってきて「次代のエリート」となる、というタテ型のエリート人脈ができたのである。
////// 堺屋 太一 ///
/// 「東京時代」の終焉 19 /////////
二、「これまで」を完全否定した明治維新
「明治」はすべてをつくりかえた
明治の日本が目指したのは「富国強兵」である。「強兵」とは、幕末以来一貫して受け
継がれてきた「外国に蔑まれない国造り」という民族的欲求の表われだ。「維新の志士」、
のちに「明治の元勲」といわれた人たちはそこから出発したので、最初はみな外国人を
追い払って鎖国を継続する「攘夷」の主張者だった。それが維新の結果、政権を取ると、
すべてを外国に学ぶ「文明開化」に一八〇度転換した。
これほど見事な転向者集団は、世界の歴史にも珍しい。それなのに、彼らには転向者の
暗さが感じられない。それは、「外国に蔑まれない国造り」という目的においては何ら
変らない、という信念があったからだろう。
尊皇攘夷にしても文明開化にしても、彼らにとっては「外国に蔑まれない国造り」という
目的を達成するための手段に過ぎなかった。客観的に見ると驚くべき自己弁明だが、彼らの
精神の中では、それが「本音」だった。目的は変えない、方法を変えただけという信念の
行動だったのだ。
////// PHP研究所 ///
/// 「東京時代」の終焉 20 //////
「強兵」のためには「富国」が必要である。「富国」とは「殖産興業」のことだ。「殖産興業」
とは近代工業を生み出すことである。
それには外国の技術を学ばなければならない。そのために明治の日本は、これまでの文化や
制度を全否定した。徳川時代の制度や組織や施設を改良改造したのではない。二百六十年に
わたってこの国を主導してきた安定のコンセプトを放棄し、それを支えた「武士の文化」を
否定し、そこで育った豪商や教育機関の存在を完全に否定した。すべて廃棄してまったくの
白地に新しい外国の技術と知識と制度を導入したのである。
////// 1998年7月発行 ///
/// 「東京時代」の終焉 21 ////////
日本人は大昔から、外国の技術や制度をそっくりそのまま学ぶ能力には優れている。
和銅年間(八世紀初頭)に銅溶着技術を導入すると、それから四十年後には世界最大の
銅溶着像である奈良の大仏を建造した。天文十二年(一五四三年)には種子島に漂着した
ポルトガル人から火縄銃を伝えられると、四十年後の大坂築城頃には世界一の鉄砲製造国に
なっていた。
この日本人の特性は、聖徳太子が仏教の文化と組織を取り入れながら、神道の思想と
風習を捨てない「いいとこ取り」の信仰を考え出した時にまで遡ることができる。この
お陰で日本人は、文化を体系として考えることがなく、技術や制度をそれだけのものとして
学ぶことができた。いわば文化の「いいとこ取り」ができるプラグマティズムを遺伝子の
中に組み込んだのである。
////// あるべき明日 ///
/// 「東京時代」の終焉 22 //////
だからこそ日本は、技術を導入して四十年も経つと、「師の国」を上回るほどの技能を
育てることができた。その代り、技術の背景にある精神や思想、倫理観や美意識といった
ものには立ち入らなかった。このため学んだ技術や制度を基盤として、「次」を生み出す
飛躍的発展は苦手である。
八世紀中頃に、世界最大の銅溶着像である奈良の大仏を造った日本が、それ以降の数百年間、
冶金技術についてはほとんど進歩しなかった。また、火縄銃を造りながら、そこにあるネジ釘を
ほかに応用することもできなかった。江戸時代を通じてネジ釘を船舶や建築に使った形跡は
見当らない。
船舶はネジ釘を使わずに鎹だけで建造したので、揺れによってすぐ船体が緩む。建築や
架橋でもネジ釘の効用は大きい。それなのに鉄砲の筒止めのネジを造船や建築に応用する
発想は、江戸時代を通じてついぞ起らなかった。これがデッドコピーの弱みである。
////// 日本・いま決断のとき ///
/// 「東京時代」の終焉 23 /////////
明治維新のときも同じことをした。維新政府が第一に導入しようとしたものは近代軍事力だ。
海軍はすべてイギリスに学ぶと決めて、イギリス風の編成を学び、英語を中心とした教育を
施した。
ところが、イギリス海軍は七つの海にまたがる植民地支配を第一の任務とした大海軍だから、
巡洋艦が多いのが特徴である。日本海軍は、それをそのまま真似たため、植民地がないにも
かかわらず、巡洋艦の多い艦隊をつくった。ただし、この国の巡洋艦には、イギリスのそれの
ような外交的な社交の施設がない。艦隊決戦用の巡洋艦である。
陸軍は最初フランスに学ぼうとしたが、やがて普仏戦争でフランスが敗れたので、勝った
ドイツに学ぶべきだと考えた。プロイセン陸軍育ての親ともいうべきモルトケ元帥の愛弟子
であるメッケル少佐を、陸軍大学校教官に招聘、その指導のもとに、編成や武器操はもちろん、
馬の乗り方までドイツ式を採用した。
////// 堺屋 太一 ///
/// 「東京時代」の終焉 24 //////
だが、脚の長いドイツ人向けの乗馬方法では、日本人は落馬が多かった。それでも、決して
これを改めようとはしなかった。明治の陸海軍は、江戸時代の武士の知識や組織とは、
まったく関係なく作られたのである。
第二に、産業の分野では鉄道、海運、逓信、繊維、鉱業に重点を置いた。鉄道と逓信事業は、
前島密がイギリスの技術者を招いてはじめたため、イギリスの制度がそのまま導入された。
ここでも江戸時代のものをすべて破壊して、まったく新しくつくりなおした。たとえば
郵便制度をつくるに当っては、かなり充実していた江戸時代の飛脚の制度や組織を部分的にも
継承しようとしなかった。完全に新しいものとして郵便局をつくり、切手制度をつくり、
配達係を募集した。鉄道に江戸時代の荷駄や駕龍かきが、海運に回船業者が参入することも
まったくなかった。
////// PHP研究所 ///
/// 「東京時代」の終焉 25 //////
より徹底していたのは第三の分野、教育である。明治維新の時点(一八六八年)で、
日本は世界で教育が最も普及した「教育大国」だった。男性の四〇%、女性の二五%が
寺子屋などの教育機関に通い、読み書きそろばんを学んだ経験があったという。
また、石門心学などの修養塾も全国にたくさんあった。
ところが、明治政府はこれらを学校にすることはまったく考えずに、全国にドイツ式の
初等・中等教育の学校制度を普及させた。
そのために、まったく新しい方式で教員養成を行い、教育施設をつくった。寺子屋や
心学塾を活用することなく、地域の有力者に校舎を寄付させ、椅子式の教室で国定教科書
だけを教えたのである。
////// 1998年7月発行 ///
/// 「東京時代」の終焉 26 //////
体育についても同様である。江戸時代に発達していた剣道や柔術を全否定、同じ柔術でも、
講道館という新制度だけを奨励した。中国風の股引き衣裳を着用し、囲碁や将棋に真似た
段位制度をつくった。
いま、格闘技でグレイシー柔術というのが活躍しているが、そのはじまりは明治政府に
追放された柔術家が、ブラジルで伝授したものという。剣道も同様で、学校教育として
発案されたものだけを許し、北辰一刀流や柳生流などは全否定してしまった。
なぜ、そんなことができたのか。江戸時代の「安定志向」のコンセプトが否定されたため、
そこに育った「武士の文化」が嫌悪されたからである。
////// あるべき明日 ///
/// 「東京時代」の終焉 27 /////////
世界の近代革命の中でも、明治維新ほど完全に前時代のすべてを否定し消滅させたものは
ほかにない。フランス革命にしても、アメリカ独立戦争でも、ロシア革命においてさえも、
日本ほど見事に前時代の文化を否定してはいない。
これを逆にいうと、日本ほど完全な官僚主導文化をつくりあげた国はなかった、ということ
でもある。官僚主導国家は技能別縦割りの専門家を養成することで、人材を固定化したが、
中でもその固定化が顕著だったのが陸海軍である。
明治のはじめには軍隊もおおらかだった。当時は陸軍も海軍も専門家がいなかったから、
西郷従道などは、陸軍中将から海軍大将になっている。
ところが、近代戦に耐える専門知識を教えるために、陸軍幼年学校・士官学校・陸軍大学校を
つくり、海軍兵学校・海軍大学校をつくるようになると、軍事専門家が固定し、人事の交流は
不可能になった。軍人として教育を受けた人たちは、軍という組織以外では成功する道がない。
軍隊には、早々と共同体化する種が蒔かれたのだ。
////// 日本・いま決断のとき ///
/// 「東京時代」の終焉 28 //////
文治官僚組織は、当初、内務、大蔵、外務の三省に大きく括られていた。それがやがて
産業の発展によって専門化し、農商務省が独立し、それが農林省と商工省に分かれた。
そのほかには国家事業官庁として、文部省、逓信省、鉄道省があり、やがては内務省建設局も
事業官庁となった。技術と産業の分化に従って、官僚機構も各技能別に独立した機関として
拡大していった。つまり供給者別縦割り組織が形成されたのである。
この方式(供給者別縦割り行政組織)は、欧米の技能と知識を熱心に修得し、間違いなく
繰り返す人材を育てるうえでは優れていた。このため日清、日露の戦争を経る頃には、鉄道、
郵便、鉱山、繊維などの産業が定着した。だが、その反面では、自らの創造力を否定する
継承主義に陥った。これはまた、江戸時代からの流派制家元主義にも繋がるものがあった。
明治は「これまで」の組織や技術や知識を否定しながら、日本人の心に滲み付いた習慣を
利用することで、この体制に参加する人々に安心感を与えることにも成功した。
だがこれはいかにも安易な方法だ。その安易さにも明治の殖産興業の限界があったのである。
////// 堺屋 太一 ///
/// 「東京時代」の終焉 29 //////
そのとき世界は――コンペティション・エイジ
欧米から制度や技術や組織運営の知識を最初にもち帰った人たちが、それぞれ各分野の
「家元」になり、その人脈が各技能別に継承された。これによって初期的な近代軍隊と
近代産業が発展し、日清、日露の戦争にも勝利することができた。これが明治の日本人の
成功体験となり、そのそれぞれが限りなく拡大する。
このため、やがて「富国」と「強兵」とのバランスが問題になり出した。ひとことでいえば、
「強兵」は「外国に蔑まれない国造り」で終りなのか、「外国に恐れられ、外国を支配する
帝国」にまでなるべきか、という問題である。
その答えを明治の官僚たちはやっぱり外国に求めた。そしてそこに見出しだのは、「競争時代」
といわれる帝国主義時代の列強である。
////// PHP研究所 ///
/// 「東京時代」の終焉 30 ////////
そもそも近代工業は産業革命を興したイギリスが独占していた。十八世紀のうちは、
領土や権威を競う武力衝突はあっても、近代工業の資源や市場を争奪する競争はなかった。
ところがナポレオン戦争のあとでは、フランスやベネルックス、ドイツ西部、のちには
北イタリア辺りまで近代工業が興り、アメリカ東部も急速に発展する。その結果、近代工業の
ための資源と市場とを求める新しい競争がはじまった。これが十九世紀後半の「競争時代」
である。日本ではこれを「列強時代」と呼んでいた。
競争時代の欧米諸国のコンセプトは、十六世紀のスペインやポルトガルのような重商主義
ではない。それは「近代工業のための帝国主義」である。
////// 1998年7月発行 ///
/// 「東京時代」の終焉 31 ////////
近代工業を興した日本にも、欧米の前例にならって植民地を獲得しなければならない、
という発想が出てきた。特に日露戦争に勝利してからの日本は、軍事力に自信をもったため、
植民地獲得による国家権威の高揚を目指す動きが露骨になった。それは「外国に蔑まれない
日本」を造ろうとした幕末以来のコンセプトのグロテスクな拡大だった。
その結果、日本の陸海軍は防衛的発想から攻撃的発想、あえていえば侵略的発想になった。
特に大きな転換を強いられたのは海軍である。日露戦争までの日本海軍は、日本近海で
戦うことしか考えていなかった。このため海軍には「動員令」というものがなく、いきなり
「出師令」になっている。
日本の海軍は、戦争に当って物資や人員を動員し補給基地に貯えることも、事後の補給を
継続する体制をつくることも考えなかった。
////// あるべき明日 ///
/// 「東京時代」の終焉 32 //////////
日本海軍が想定していたのは、日露戦争の日本海海戦のように佐世保の軍港から軍艦に
食糧と弾薬を積んで出ていって海戦を行えばすべてが終る、という艦隊決戦だけである。
日本海軍のこの発想は、太平洋戦争が終るまで、すなわち日本帝国海軍が終焉するまで
まったく変らない。明治のはじめにイギリスの海軍をそっくりそのまま真似たとき、海軍の
戦術のみを学び、植民地支配の戦略論までは学ばなかったからだ。鉄砲製造を習いながら、
ネジ釘の効用を学ばなかった十六世紀の鍛冶屋に似ている。
それが第一次世界大戦に南洋諸島を領有し、アメリカを仮想敵国とするようになると、
予想戦闘海域がはるか遠方に延びた。このため日本海軍は、戦術しか知らない組織であり
ながら、世界戦略を主張する集団と化した。
日本海軍には世界戦略についての教育訓練もなかったし、そのための研究組織もなかった。
にもかかわらず、マーシャル諸島、ソロモン群島まで行けるような軍備を整えようとした。
これが「八八艦隊の悲劇」である。
////// 日本・いま決断のとき ///
/// 「東京時代」の終焉 33 ////////////
規格大量生産型近代工業社会の形成
日本の陸海軍は、自らの組織の成長と膨張した戦略のために、過剰な要求を繰り返した。
これはまさに官僚主義の悪弊である。
その第一は、陸海軍が自らの嗜好を日本全体の文化に反映させようとして、「軍人文化」を
創り出したことだ。
明治の建軍は伝統的な「武士の文化」とはまったく関係なく行われた。そもそも江戸時代の
武士は、軍人ではない。武士が集団で軍事行動をすることもなかったし、兵営に住んでいた
わけでもない。軍医も従軍僧も工兵隊さえいない。軍隊であることの二大要素、軍事組織と
自己完結性がなかったのである。
////// 堺屋 太一 ///
/// 「東京時代」の終焉 34 ///////////
武士は公務員宿舎から通う警察官か行政官だ。だから幕末の長州に奇兵隊という軍隊組織が
できると、幕府軍は簡単に負けてしまった。軍隊と警官隊とが戦争をすれば、たとえ数は
少なくとも軍隊が勝つのに決っている。
ところが大正、昭和の軍人は「文化」に対する権限を広げようとして、「日本は武士の国
である。武士とは軍人である」といいはじめた。ここでは江戸時代の武士の話はもちだすこと
ができないから、楠木正成にまで遡らざるを得なかった。
南北朝時代の武士は、恐らく軍人だったろう。内戦状態だったから集団的軍事行動をとり
隊列を組んで行軍する組織も、補給や土木の技能もあったに違いない。大正、昭和の陸海軍は、
そこから極端な虚像をつくりあげたのである。
////// PHP研究所 ///
/// 「東京時代」の終焉 35 //////
欧米の知識をもつ官僚の主導と、虚像でつくりあげた軍人文化との奇妙なミックスこそが、
昭和初期(戦前)の日本だった。これが究極的に完成したのが、いわゆる「昭和十六年体制」である。
規格大量生産型の近代工業社会を完成するためには、単に外国の制度や技術を学ぶだけでは
不十分だ。これを全社会的に成立させるためには、第一に、巨大な工場をつくらなければならない。
そのためには資本蓄積が必要であり、大企業の育成が不可欠である。第二には、そこで生産した
ものが売れなければならない。同じ規格のものがたくさん売れるだけの統一大市場の形成が必要
である。そして第三には、そこで働く規格大量生産向きの人材を大量に養成する必要がある。
こうした三つの条件を整えるまでには、それぞれ非常な抵抗があった。大企業の育成には、
貧富の格差の拡大を伴う。これには全国各地で反対運動が起きた。あるときには自由民権運動の
形をとり、あるときには地方自治の要求という形をとり、またあるときは社会主義の形をとった。
中でも重大なのは、日本文化への復古主義の形をとった運動である。
////// 1998年7月発行 ///
/// 「東京時代」の終焉 36 //////
これに対して官僚やその支持者は、はじめのうちは「和魂洋才」というような言葉のアヤで
いい逃れていた。われわれは洋才、つまり外国の知識を持って近代的合理主義のやり方をするが、
日本の心を忘れていない、などといういい方でごまかそうとした。
しかし、次第にそれでは通用しなくなる。そのため、官僚主導の強化によって財閥や成り金の
消費を統制し、「所得が高く財産があっても国家国民のため寄与させるからよいではないか」
という理屈を考え出した。昭和初期(一九二〇年代後半から三〇年代)にはこれを具体化する
ため、産業分野ごとの統制を行い、民族全体主義の形で国民を納得させようとするのである。
////// あるべき明日 ///
/// 「東京時代」の終焉 37 /////////
第二の統一大市場の形成は、メートル法の施行とそれによる規格基準の制定として現われた。
これにも各地の政治家や地域主義者の反対があった。これに対して官僚機構は、鉄道や逓信、
軍需物資などの規格化を進めると同時に、学校教育における情報統制を通じて徐々に浸透させる
方法を採った。それが浸透し出すのも昭和十六年頃である。
第三の人材の育成は、もっぱら全国統一の官制教育を行うことで実現しようとした。それを
完成させたのが昭和十六年(一九四一年)の「国民学校令」である。
この三つによって、いわゆる「昭和十六年体制」が完成した。ところが、この「昭和十六年体制」
が生れた頃には、国際的緊張が非常に高まり、日本はこの体制が実を上げる前に軍事的敗北を
喫してしまった。結果として、この体制の実効は戦後に持ち越されることになったのである。
////// 日本・いま決断のとき ///
/// 「東京時代」の終焉 38 //////
三、 官僚主導脱却の課題
敗戦は何を引き起したか
太平洋戦争における敗戦で、日本に何か起ったか。まず第一は、「軍人文化」の否定
である。
戦後の日本を支配した連合国総司令部(GHQ)のアメリカ人たちは、「日本の最大の
危険は軍人文化である。そしてその軍人文化こそは日本の伝統である」と思い込んだ。
それには「日本の軍人は武士の後継者だ」という戦前の軍人たちが創作した虚構を、
そのまま信じたわけだ。そしてその軍人文化を徹底的に否定したのである。
日本人自身も、敗戦直前から「軍人文化は怪しげだ」と思い出していた。太平洋戦争
末期には、軍人たちの倫理的退廃がはっきりと知らされたためである。
////// 堺屋 太一 ///
/// 「東京時代」の終焉 39 ////////
それを端的に示しだのが、「一億玉砕」の掛け声だ。一九四四年後半から五年の敗戦まで
「一億玉砕」を真剣にいう軍人がかなりいた(軍人以外にもいたが)。
国家に奉職する者として、全国民を死に至らしめる以上の罪悪はない。ところが、悪人でも
阿呆でもない軍人たちが本気でそれを主張して憚らなくなったのだから、これ以上の正義感の
倒錯、つまり倫理的退廃はない。
倫理には腐敗と退廃がある。腐敗とは、悪いと知りながら私利私欲や気の弱さのために
悪事をやってしまうことであり、退廃とは何が正しいか分からなくなることだ。権力を持つ
組織が陥る罪悪としては倫理の退廃の方が腐敗よりもはるかに恐ろしい。戦争末期の軍人たちは
完全に退廃していた。だから急速に信用されなくなったのである。
信用されなくなると、力による統制をますます強めるのが組織支配の特徴である。独裁者の
組織であるうと、官僚の組織であろうと、民主主義的批判と市場の評価に曝されることの
ない組織は、危機になれば結束を固めて共同体化し、自らの組織を防衛することだけが
絶対的正義と錯覚する。
////// PHP研究所 ///
/// 「東京時代」の終焉 40 //////
敗戦当時の日本は、そういう状態に陥っていたから、GHQのアメリカ人が軍人文化を
否定すると、日本人の圧倒的多数は、すぐに「なるほど。そうだ、そうだ」と賛同した。
以来、日本では軍人(武人)は尊敬されなくなった。今日の日本ほど見事に軍人文化を
否定した国は歴史的にも珍しい(恐らく中国の宋王朝以来だろう)。従って、この国に
軍国主義が復活する可能性は、今後百年はないだろう。このことを日本と日本人は、世界に
説明すべきである。
敗戦によって軍人文化か否定された一方で、文治官僚の文化は、明治以来の伝統へと
急速に復活した。
戦後すぐには、「強くて豊かで正しい国」アメリカの優れたところを知っている人が
有用かつ尊敬に値するという考え方が拡がった。それはまずアメリカに留学駐在した外交官、
進駐軍としょっちゅう付き合う官僚たちである。
////// 1998年7月発行 ///
/// 「東京時代」の終焉 41 ////////
官僚のいうことはアメリカのいうことだという推測が、官僚の権威の復活に役立った。
そしてそれが、やがて連合国総司令部の意図に反して、規格大量生産体制を目指す「昭和十六年
体制」を復活させることになったのである。
アメリカは、日本の官僚を利用して自らの目的を達成しようとしたが、サンフランシスコ
講和条約によって占領時代が終ると、アメリカの持ち込んだ「自由経済民主主義」という
理想は急速に失われ、官僚主導という手段だけが生き残った。その結果、「昭和十六年体制」の
発想、つまり規格大量生産社会を目指す官僚主導型業界協調体制が、より強固に再建された
のである。
復興を目指す業界にとっては、競争がなくなり国家資金が投入されるのはありかたい状態だ。
国民にとっても、食糧物資が不足する中では選択よりも存在が大事だった。とにかく物資が
存在する、教育が存在する、住居が存在する、そのためにはその質を選ぶ余裕がなかった。
これが戦後成り金に対する反感と相まって、官僚主導で一目も早く復興したいという声と動きに
なった。時あたかも世界は、規格大量生産への道を急いでいた。世界が近代工業社会の最終
局面に向う時期でもあったのだ。
////// あるべき明日 ///
/// 「東京時代」の終焉 42 /////////
石油をはじめとする資源は世界的に過剰にあり、規格大量生産を拡大する環境条件も備わって
いた。深刻な公害も地球環境もまだ問題になっていなかった。何よりも、日本が手本とする
アメリカが、規格大量生産の頂点にあった。
日本は経済復興を成し遂げ、「所得倍増計画」に成功し、一九七〇年代には最適の規格大量
生産の近代工業社会を完成することができた。七〇年代の十年間に、日本は二度の石油危機と
円高とを見事に乗り切れたのも、この体制が整っていたからである。
やがて八〇年代には、人口一千万人以上の国の中では一人当りの国民所得が世界一となった
ばかりか、世界の常識を破る奇跡の数々をつくった。
経済が高度成長したのに、貧富の差は縮まった。工業化が進み都市に人口が集中したにも
かかわらず、犯罪件数は低下し、離婚は増えなかった。終身雇用によって失業の恐れから、
健康保険で疾病の恐怖からも解放された。それにもかかわらず、勤勉の習慣は崩れなかった。
企業であれ勤労者であれ供給者には「天国」だった。それを主婦も老人も支持した。これこそが
官僚主導の創造した成功体験である。
////// 日本・いま決断のとき ///
/// 「東京時代」の終焉 43 //////////
社会主義の敗北――または多様化のはじまり
しかし、繁栄を謳歌した一九八〇年代に、日本の危機は忍び寄っていた。世界では規格大量
生産型の近代工業社会が頂点を過ぎようとしていたのである。
その原因は何であったか。
第一は、コンピュータ制御などの技術進歩で多様な生産、多様な流通が比較的安価に実現
できるようになったことだ。つまり、従来ほど規格大量生産の効果がなくなったのである。
第二に、人々の欲求が物量の充足から、デザインや雰囲気や映像娯楽のような感覚的な満足に
シフトしていたことだ。感覚的なものは千差万別だから、客観的にこれが優れているとはいえ
ないし、来年はこれが当るともいえない。
つまり、技術の質的な変化と豊かさの量的な拡大という両面から、規格大量生産の意義が
失われたのだ。その結果、八〇年代に入ると、官僚主導による規格大量生産を至善とした
社会主義の崩壊がはじまる。
////// 堺屋 太一 ///
/// 「東京時代」の終焉 44 //////
社会主義とは、善良にして有能な官僚が定める最適規格によって大量生産をすれば、最小の
資源で最大の生産ができるはずだ、という発想から生れた体制である。これが右翼全体主義と
異なる点は、その理想の実現方法として社会主義が生産手段の国公有化という普遍的な国際主義を
主張するのに対して、右翼全体主義は消費の規格統制という民族的な手法に頼る点である。
従ってここでは、服装はすべて国民服にするのがよい、「国民服」という最良のデザインを
官僚が定め、それだけを大量生産すれば非常に安価に生産でき、売れ残りの無駄も流通の
手間も要らない、というわけだ。
自動車はすべて「国民車」がよい、余暇は「国民休暇村」がよい、テレビは官僚の定めた
「国営テレビ」が五チャンネル、学校は「国民学校」、医療は「国民標準医療」ということ
になる。
////// PHP研究所 ///
/// 「東京時代」の終焉 45 ////////
こういったことを本当に実行したのがソ連や東欧の社会主義国であった。だが、その社会主義も
技術の進歩と豊かさの高まりによって、八○年代後半には完全に否定されてしまった。日本の
官僚主導も、この部分に関する限りはほとんど同じ発想に立っていた。「日本は社会主義国」などと
外国人から祁楡される由縁である。
ただ重大な違いは、社会主義諸国が各事業所の国公有化によってミクロの官僚統制で実行したのに
対して、日本の官僚はマクロの指導と業界団体を通じての間接統制で実現したという点である。
八〇年代には日本も行き詰っていた。各企業(ミクロ)の努力で輸出は伸びていたが、全体と
しては投資の対象がなくなり、さまよえる活力の溜り場にバブルが発生した。そしてそれが崩壊
した時、日本にも官僚主導の規格規制の弱点がはっきりと現われていたのである。
日本は官僚主導を、いかに超越すればいいのか。いまはそれこそが問題である。明治維新直前の
五年間、首都機能が江戸から離れていた間に大改革が行われたが、その後は東京と名を改めた江戸の
地に首都機能は定着、規格大量生産を目指す「東京時代」が続いている。いま、それが終焉を
迎えようとしている。
////// 1998年7月発行 ///
/// 「東京時代」の終焉 46 //////
冷戦後――自由経済民主主義だけが残った
九〇年代に入ると、社会主義は完全に崩壊した。同時に、北欧型福祉主義も行き詰った。
日本型の官僚主導も方向を見失った。そしていま、一九九八年にはアジアの開発独裁も限界を
露呈している。いまも繁栄を続けているのは唯一、アングロ・アメリカ型の自由経済民主主義
である。
自由経済は、十八世紀にイギリスで産業革命によってはじまった。当時のイギリスでは
新しいものがいろいろ売り出された。その中でどれがよいかを選ぶのは消費者だ、「売れる
ものはよいものだ」という適者繁栄の思想こそが自由経済の根源である。自由経済で欠かせ
ないのは新規参入の自由と消費者主権の二つである。
////// あるべき明日 ///
/// 「東京時代」の終焉 47 ////////
だが、これをまっとうするためには、消費者という素人が自らの好みに忠実に選択できる
だけの情報がなければならない。だから自由経済は、供給者にすべての情報を公開するように
義務付ける。
同時に、供給者が消費者に対して特定のものを買うように圧力をかけるようでは消費者の
選択が歪められる。従って消費者には秘匿の権利がある。供給者の情報公開と消費者の秘匿、
この両方がなければ自由経済は成り立だない。
これを政治に当てはめた制度が民主主義だ。民主主義はイデオロギーではなく仕組みだが、
その仕組みを支えるのは自由経済の思想である。
////// 日本・いま決断のとき ///
/// 「東京時代」の終焉 48 //////////
ここでは、われと思わん者は誰でも立候補し、自分の政見を発表し議員に立候補する
ことができる。つまり「政治の供給者」となり得る。その中から誰を選ぶかは「政治の
消費者」である有権者の選択である。従って、政治の供給者たろうとする者は、有権者の
判断に必要な情報は公開しなければならない。資産も人柄も風貌も異性交際も、その中に
入るだろう。その反面、政治の消費者は投票を隠す権利がある、ということになる。
結局、二十世紀はいろいろなことを試みたが、残ったのは、最も猥雑で手間のかかる
自由経済民主主義であった。フランシス・フクヤマは、そんな結果を『歴史の終わり』と
呼んでいる。
人類は時代と共に新しいイデオロギーを生み出し、その思想的対立の中で弁証法的に
進歩していくものだ、という近代的発想は崩れてしまった。二十世紀が終ろうとするいま、
世界では消費者主権の猥雑な仕組みだけが生き残っているのだ。
////// 堺屋 太一 ///
/// 「東京時代」の終焉 49 ///////////
ニューエコノミー時代の到来
いまアメリカでは「ニューエコノミー」論が盛んである。これまでの経済理論がすべて
現実と合わなくなってきたことに対する説明として、「経済そのものが新しくなった」と
いうのである。
最も特徴的なのは、アメリカにおける長期好景気をもって、従来の経済学が指摘していた
景気循環論は否定された、とする点である。わずか七年か八年の好景気の持続で、「ニュー
エコノミー」などというのは性急だとの指摘もあるが、今日の情況が従来の理論と異なる
ことも確かである。
これまでの景気循環論では、所得の高い人は消費性向が低くて貯蓄率が高い。所得の低い
人は貯蓄する余裕がないから、消費性向が高い。貧富の格差が拡がると、貧しい人の消費は
減り、豊かな人の貯蓄が増える。マクロ経済として見れば、貯蓄は投資に回らなければ
ISバランス(投資貯蓄バランス)が合わない。つまり貧富の差が拡がれば、貯蓄が増え、
投資が盛んに行われることになる。
////// PHP研究所 ///
/// 「東京時代」の終焉 50 //////
投資はそれが実行されている段階では需要を拡大する。だが、それが完成すると生産力化する。
その間、貧しい者の消費需要は伸びないから、必ず生産過剰、需要不足が生じて不況になる。
マルクスは、この不況から生産力化しない浪費、つまり戦争が生じるだろうといった。ケインズは、
財政支出による公共事業をやらざるを得ない、と指摘した。
現実はどうか。一九八〇年以降の規制撤廃で、アメリカでは貧富の格差が拡がった。一九六〇年
には全米の豊かな半分の人々が全所得の三分の二を、貧しい半分の人々が残りの三分の一を
分けあっていた。つまり豊かな人々と貧しい人々の所得の割合は、だいたい二対一たった。
それが一九九五年には豊かな半分の人々が四分の三を占め、貧しい半分の人々が四分の一を
分けあっている。所得比率は三対一になっている。
////// 1998年7月発行 ///
/// 「東京時代」の終焉 51 //////
それにもかかわらずアメリカの消費性向は九六%、下がるどころか上かっている。詳細な
調査でも豊かな人々の方が貯蓄率が高いという傾向はみられない。年間数百万ドルの所得が
ある連中も、住居に、レジャーに、美術品のコレクションや社会事業への寄付に、そして
離婚慰謝料のために、大金をどんどん使っているのである。
その反面、貧しい人たちもそれなりに生きられる安価なライフスタイルが成立した。
ディスカウントストアで安価な生活用品を買い、格安チケットで飛行機に乗り、安いモーテルに
泊れば、年収二万ドルでも十分に生活できる。
高価なブランド品を買い、豪華なサービスを受け、贅沢な娯楽を楽しむならば年間何百万
ドルでも費える。そしてそこには、そうしたくなるような楽しさが用意されている。今日の
アメリカには、お金の効用が逓減しない社会ができ上がったのだ。これがニューエコノミーの
重要な側面である。
////// あるべき明日 ///
/// 「東京時代」の終焉 52 //////////
これはいったい何を意味するのか。それぞれの人の満足は非常に個性的だということである。
まさに規格大量生産を否定した理論が、そのまま現実化しているのだ。人々の求めるものは
その欲求に合ったものであって、客観的に量れるものではないということである。
これが本当に長期的な構造改革と心理変化を伴うものなのか、それとも一時の流行か。
七年間の経験だけで結論を出すのはまだ早い。ただ、はっきりしていることが一つある。
それは「日本ももはや官僚主導ではやっていけない」ということである。
官僚が、つまり自ら消費者でない人が、最適の規格や最良の生活を決定することが不可能な
時代がはじまっている。
その意味では、明治以来百三十年閲続いた「東京時代」に終焉の時が来た、といえるのでは
ないだろうか。「東京時代」の次は何か、首都機能が新しい場所に移転するのか、それとも
「TOKYO時代」なのか、いずれにしろ明治以来の官僚主導を超越することが、今後の
日本にとっての大きな課題である。
・・・・
////// 日本・いま決断のとき /// 超音波テロの被害にあっています。
卑劣極まりない被害にあっています。
何が起こったかわからないときから、
わかってみれば、
まだ世の中に知られていない超音波テロ。
世の中のどれだけの音の振動源・発信源が
使用されているのかわからないが、
多数の振動源・発信源がシステム化され、
ネットワークを通して、
超音波・音波を集中させて
対象を攻撃するらしい。 人や社会が襲われ、罪もない人が超音波で襲われ、
卑劣な被害にあっています。
聞こえる声、音。超音波テロの加害者の声。
「もらいました」という声とともに、
形のあるもの、ないもの、奪っていき、壊していく
超音波テロの加害者の声。
聞こえる声、音。超音波テロの加害者の声。
超音波による物理的な力で、
ものが飛び、ものが壊れる。
それが人間の体に対してまで。
身体の表面を突き抜け、内臓を攻撃される。
頭蓋骨を突き抜け、意識を失わされる。
聞こえる声、認識できない声で、精神的なダメージ。
人間の体を壊そうとする超音波テロ。 日本国中、どこにいても超音波で襲われる。
車に乗っている人間が襲われる。
歩いている人間が襲われる。
自宅で超音波の攻撃を受ける。
被害を訴えても信じてもらえない。
罪もない人間が超音波で襲われる。
「見続けるのがいやだから、殺して終わる」、
「証拠隠滅だ」という超音波テロの加害者の声とともに
強烈な超音波の攻撃。
叫ばされ、いたぶられ、それを口実にまた攻撃され、
超音波テロの、残酷残虐で、卑劣な攻撃の被害にあっています。
心の底から被害を訴え、祈っています。
天に神に届きますように。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
安倍政権は雇用の改善を強調し、アベノミクス効果を高らかにうたう。
しかし、希望する正規の職がなく、やむなく非正規雇用を選ばざるを得なかった労働者は国内で300万人以上に上る。
政権の後ろ盾となっているデータ通り、果たして就労環境は改善されているのだろうか。非正規社員の職場を歩くと、悲鳴の声が上がっていた。
自民党は格差を作り上げて現状も正規は増えずに非正規雇用を
国策的に増やしている割に、非正規雇用の待遇の改善を
行わない無責任政党
http://jiyugaichiban.blog61.fc2.com/blog-entry-151.html
派遣業は現代の口入れ屋、廃止すべき
人材派遣制度は、格差社会を助長するものと、私は見ている。
現在の口入れ屋に過ぎない。やくざ稼業と言えよう。
人材派遣業はピンハネしていると聞く。
はけん110番で見ると
http://www.asahi-net.or.jp/~RB1S-WKT/indexhkn.htm
非正規雇用は世界的にも類を見ない多さ
消費支出はもはや大恐慌レベル
そして手遅れの少子化
→2015総務省の推計
→15歳未満の子どもの数は、過去最少だった去年よりも16万人少ない、約1617万人(34年連続の減少)
→2015年厚生労働省速報
→婚姻数 47,389件 (前年同月 −13,431件)
http://www.rui.jp/message/31/01/40_903d.html
https://t.co/SbSemFXkoh
売国奴の安倍によって日本は終焉を迎えた現実を直視すべき
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >大阪府三島郡島本町のイジメはいじめられた本人が悪い
>はよ死ねクズ
↑
イジメの加害者を擁護し被害者を「いじめられた本人が悪い」
「早く死ねクズ」と罵倒するなんて 島本町はホントに鬼畜の町だな 格差社会にはなっていくだろうな
アメリカはそれでも国土が広いし自由な気風だが日本は閉鎖的だからヤバそう 島本町民以外の皆さん
大阪府三島郡島本町では
「いじめはいじめられた本人が悪い」ということですよ 中学生でもできる確実稼げるガイダンス
時間がある方はみてもいいかもしれません
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
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