妄想科学革命試論 自然過程説の展開
半世紀前に現代物理学は健全ではないとハイゼンベルク、武谷三男氏は語り、三十年前ラーナーは科学革命が必要だと述べ、竹内薫、茂木健一郎氏もまたある僕で新たな考え方が求められているとある本で書いています。
今世紀に入ってジャーナル立花隆氏は量子力学の分野では新たな理論が求められているとテレビ番組で話しています。
インターネットの巨大掲示板では研究者らしき人が最前線は混乱中で光が見えないと投稿しています。 まあた罵倒だけの観音さん登場
具体的にどこがおかしいのか指摘しない、出来ない?
語彙を覚えて披露するだけ w まあた罵倒だけの観音さん登場
具体的にどこがおかしいのか指摘しない、出来ない?
語彙を覚えて披露するだけ w わたしの理解は単純
無が〈有〉ったら無にならない
科学は無は文字通り無は無いと証明したというのがわたしの理解
わたしたちが無と認識するのは認識器官には像を結ばない淡ということ
此処からは存在しないということは此処までもまた
粒子は認識器官に結ぶ波の渦の状態
次元は存在しないことがすでに示されている
四次元で規定するが四次元は存在しない
数は認識器官に結ぶ像の抽象
理系は認識の在り方を学ぶ必要がある
自然科学は自然認識なのだから
地動説は認識の在り方を相対化している
観測問題、不確定性原理もまた相対化ということ
光速度一定の原理は座標原点で運動を規定するが座標原点の実在を否定する
つまり運動が自然の存在形態、つまり静止は実在せず自然は無矛盾ということ
運動をその否定である静止で規定する
というか規定は否定ということ
現代科学は転換点にあると意識している科学者は多い
第二の地動説は認識は相対であることが絶対であるということで為されるというのがわたしの主張
光速度一定の原理が示していることだということ 数学もまた認識の在り方の一つ
不完全性定理は対象が無矛盾でありそれを否定で規定するから決定不能に
数学者もまた認識論を軽視しているから決定不能と決定するからこその〈定理〉だと理解していない
規定するから、規定は否定だからということ
自身が無矛盾ということは規定を否定しないと証明できない
規定するから決定不能にということ
生物非生物と物理状態の差異を否定で規定するから分類困難な対象が、ということ
規定とはという理解が必要なのだと 自然科学者はいつになったら自然科学は自然認識であるのだから認識の在り方を考察する必要があるのだと気づくのだろう
地動説は見たものがそのままの自然ではないという理解の端緒
科学という自然認識は認識の相対化の歴史という側面があるということです ビタミンは日本で発見される機会が、またその兆しがあったが指導的立場にあった学者たちが西洋には無いからと否定的に扱ったとか
従来の見方を固定的に理解したためとか
日本は外圧でしか変わらないという指摘があるが学問もまた
昔ある評論家は外国から波が押し寄せて築きあげた砂の城を押し流されるのが日本の文化だと指摘した
わたしは日本が波を起こすことを願う 学問は科学でさえ基礎が確立していない
現在の学の在り方を固定して理解すると危ういというのがわたしの主張 学問は科学でさえ基礎が確立していない
現在の学の在り方を固定して理解すると危ういというのがわたしの主張 学問は科学でさえ基礎が確立していない
現在の学の在り方を固定して理解すると危ういというのがわたしの主張 学問は科学でさえ基礎が確立していない
現在の学の在り方を固定して理解すると危ういというのがわたしの主張 学問は科学でさえ基礎が確立していない
現在の学の在り方を固定して理解すると危ういというのがわたしの主張 神の方程式とやらはどうなんかな
わたしは懐疑的な科学者に同感する 観測問題、不確定性原理の納得できる理解は未だに成しえていないし オマエの納得は関係ない、基地外が納得する物理学が無いのと同じ 今度は有と無を起点にして展開を試みることにするかな 量子力学の問題は量子力学を習得済みの者のみが語る資格がある
サッカーの問題に似非サッカーがクレームつけても無意味 古代ギリシャはほとんどの学問の原型があるということらしい
正直学者が基礎を抑えているとは思えない
不確定性原理、不完全性定理
観測問題などなど
その理解はとても承服できない
わたしは有と無の関係から合理的に理解出来ると考えている
自然科学は自然認識だから認識の在り方は考察されなければならない
理数系はその基礎を抑えていない
だからいろいろ過つのだと
不確定だと確定しているから原理
不完全だということが完全だから定理
理数系は認識の在り方を考えていないから未だに彷徨っている
対象が無矛盾であることは既に示されている 対象には論理も理論も存在しない
有を無で規定する、否定で規定する
そして規定は否定されて無矛盾と成る 近年時間の実在に疑問を投げかける科学者たちが出現しています
今世紀前後なら一笑に付されました
重力の実在にも疑問を突き付ける科学者も
半世紀前から現代科学の在り方に疑問を呈する大科学者たちがいました
三十年以上前に科学革命が必要だと主張する科学者がいました
以来洋の東西を問わずです
新たな考え方、新たな理論が求められていると
鷗外は彼が生きた科学のあり方を固定して捉え結果陸軍の脚気の死者は戦死者より多いという大惨事をもたらしました
不確定性原理で物質の実在に疑問が出てきたとか観測問題で・・・などという理解にはとても納得できません
わたし自身はやはり新たな自然観と認識の在り方の理解が必要な段階なのではと考えています
地動説は静止は運動の一形態であり、観たものがそのままの自然ではないということを示します
わたしたちの眼前の自然は果たして観たままの自然なのでしょうか
日本の理系の学徒に尋ねたい 基本は自然認識ということ
認識はそのま自然を反映しない
自然認識は自己言及、自己を他として
無矛盾ということが前提
ゼノン、カント、ヘーゲル、スピノザ
観測問題、不確定性原理、不完全性定理
エネルギー保存則、光速度一定の原理
これらは一つの視点から理解しうる
高校生時代から夢見た解決が実現したので満足している
あとはどう展開するかだけ
一生愉しめそう
ある論争から新たな視点を獲得できたりする
前世紀末、三浦つとむ、板倉聖宣、山川偉也諸氏の著作から学んだが、まだまだだった
・・・一区切りはしないといけないが、また違う視点が提供されるスレもあるかも知れない
カントの二律背反とかスピノザとか意外と豊穣なんで驚いている 哲学板でやっていただけないですか?
物理板ですので板違いです 鉄屑が状況を理解して適切な行動を取れるとは思えない >>1 パルメニデスさん!これ見て!
37 名前:ご冗談でしょう?名無しさん 2023/11/19(日) 14:13:05.62 ID:1I2F2Aov
色も、形も、音も、みな非連続的な感覚器で捉えているのに、
人はそれを連続的なものとして感じる。
脳内でスムージングしているからだ。恣意的だ。
38 名前:ご冗談でしょう?名無しさん 2023/11/19(日) 14:33:06.88 ID:???
>>37
>脳内でスムージングしている
健常者の脳は普通にそれが出来るがキチガイ、脳障害者にはそれが出来ない。
VHSビデオ動画をそのままデジタル化した動画を見ると最初は像ボケて酷いが
しばらく見続けると”脳内スムージング”機能が働いで普通に見れるようになる
健常者なら誰でも確かめられる事実だからからやってみれ。
39 名前:ご冗談でしょう?名無しさん 2023/11/20(月) 11:40:55.54 ID:???
脳に行く前に目の方でやってるぞ
40 名前:poem 2023/11/20(月) 16:51:09.21 ID:tx5Y1gcD
>>39 え?まじ?
てことは網膜で見えて、腕の皮膚で景色見れないのは
腕の皮膚にはスムージング機能が無いから?
↑
宇宙の真理はどうやら、否定で規定してないっぽいよ?これ見て思わない?
もし宇宙の真理が否定で規定してるなら
腕の皮膚で景色見れる隠れた機能なんて実在し得ないじゃん?
腕の皮膚で景色見れるなら否定で規定を越えてる
肯定で規定の宇宙の仕組みがなかったら実在し得ないじゃん! てことは網膜で見えて、腕の皮膚で景色見れないのは
腕の皮膚にはスムージング機能が無いから?
これの意味がわからないんだけど
なんで腕の皮膚がでてきた? でもなんか皮膚にスムージング機能意識して皮膚から見ようとするとうっすらかすかに知覚できるような… >>788 怪我の功名な凄い情報うっかり掘り出しちゃった系かもだよ… パルメニデスさんも
新たな人間の超能力可能性発掘しちゃった
人間の認識が→宇宙を作ってるって順番はまちがいだよぉ…あれ?これ思ってないし言ってない?
人間の認識がなくても→宇宙の機能に沿えば能力作れるんだよぉ…だから肯定で規定仕組みもあるじゃん無いまだ思う? 人間は自然の一部です
自然科学は自然認識です
つまり自然科学は自己言及です
自己言及は自己を他で規定するということです
自己ー他という否定関係で規定するのが自然科学の本質です
否定で規定するということはクレタ人の逆説、不完全性定理でわかるように決定不能となります
この場合は対象が無矛盾であるから決定不能となるわけです
運動を静止で規定します
物理状態の遷移を生死、終始という否定関係で規定します
一を多、無で規定します
これは認識器官の在り方に結ぶ像の抽象です
一である自然は濃淡として在りますが淡は像を結びません
無、真空として像を結ぶと言い換えられます
粒子は波の渦の状態です
粒子は認識器官に結ぶ波の一形態です
運動は静止、有は無で規定されますか
運動という有は静止という無で規定されます
有を0で、つまり0に限りなく近いが0ではないという規定になります
自然をそのまま理解出来ませんから近似値は必然ですし、生死は峻別できません
座標原点は実在しません
つまり運動を静止で、有を無、つまり規定は否定です
自己言及、自己を他で規定するからです たとえば観測事実は天動説で理解された時代がある
それが地動説で読み替えられる
学問はそういう側面がある
言語学でも似た展開があったと記憶している
新たな視点が同じ事実を違う理解に読み替えられる
たしかに不確定なのだろう
しかし視点を変えれば不確定ということが確定しているから原理と冠されるのではないのだろうか
不完全性定理も然り
実在しないという理解もまた天動説ではなかろうか
運動は静止で規定されるから0に限りなく近いが0ではないとする
それは有を無で規定するから
この原理は対象と規定が=ではないことを語る
カントの二律背反は終始で規定するが終始は対象に実在しないということ
形で規定するが形は実在しない
此処から此処までが実在しないのだから
認識器官に結ぶ像には存在するが対象には実在しない
不確定性原理も不完全性定理も認識の在り方の自己言及の性格を持つ
対象が無矛盾だからこそ決定不能になる
認識=実在ではないことを科学は地動説を端緒に示してきた
エネルギー保存則、光速度一定の原理、観測問題、不確定性原理・・・
生死、静止、粒子は認識には存在するが自然には存在しない
そして認識は自然をそのまま反映しない
測定値は近似値でしかないし、有は無で規定するからこそ不確定性原理となる
科学の歴史は認識の相対化の歴史でもある 近代科学とは自然と科学的方法で可能なことを天才が全力尽くして研究し、
得た数量関係の成果を何百年間も普遍知識として蓄積応用し続ける学問体系。
出来る事を何もせず、出来ない事ばかり妄想しようとする屑鉄キチガイの類
とは全く違うのだよ。 自然観察、観測、実験に根拠を置く限り、自然科学が妄想に飛んでしまうことはない。
しかし、それでは限界があることも確か。 規定は否定
静止で運動 ←本質
生死、終始 ←展開 本質論なんだよなあ
失念していた
新たな展開が可能になりそうです 本質論なんだよなあ
失念していた
新たな展開が可能になりそうです 本質論なんだよなあ
失念していた
新たな展開が可能になりそうです まずはその辺もあるけど
ライムだけでは何人かいるんだけど
それな