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ダボハゼ禅 第七幕
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0003安堂
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2023/02/25(土) 17:17:35.17ID:zgg5UH8x
鹿殿の発狂スレでしょう。
必死すぎでしょう。
みっともない。
0004神も仏も名無しさん
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2023/03/02(木) 12:21:36.48ID:C9+zVXIZ
仏道を修行する者は、先ず須らく仏道を信ずべし。
仏道を信ずとは、須らく自己本と道中に在りて迷惑せず、
妄想せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なきこを信ずべし。
是(かく)の如くの信を生じ、是の如くの道を明らめ、
依て之を行ずる、乃ち学道の本基なり。

                          学道用心集
0005神も仏も名無しさん
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2023/03/02(木) 12:22:15.00ID:C9+zVXIZ
原田雪渓師
https://tardiozine.tumblr.com/post/882850379/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E9%9B%AA%E6%B8%93%E8%80%81%E5%B8%AB-%E6%9B%B9%E6%B4%9E%E5%AE%97%E5%B8%AB%E5%AE%B6-%E6%96%87%E5%8F%A5%E3%81%AA%E3%81%8F%E5%BD%93%E4%BB%A3%E6%9C%80%E9%AB%98%E3%81%AE%E7%A6%85%E5%8C%A0

「今」を看る

法の実証という禅の修行は、自己を忘じて本来の自分になることによって、一切の問題を解決する道です。自分が本来の自分になれば、自分とは何ものか、真実とはどういうことかを一切問う必要もなく、迷いや悟りもまったく不要なものになります。

あえて申し上げれば、仏法という支え、坐禅というステッキが本当に要らなくなつたところが、釈尊のお示しになられた真の仏法であり、正伝の坐禅です。「実相は無相なり」の証明へ向かうことですから、くれぐれも修行の道理を常識の鞄囲で測らないように注意していただかなければなりません。

現在の禅の修行の様子を見聞するとき、誤りに誤りを重ねて行く様子が目につきます。これは禅宗のみならず、主だつた仏教の各宗派も同じですが、原因は、「人」が法を伝えてきたために、真の解脱がなくなつたからです。

そういうなかでは、真の法を説く正師のことばは、あるいは耳に逆らい、あるいは心に逆らつて聞こえます。なぜかというと、常識とか人の分別の支配するなかでは、何が真実であり、何が誤りであるかは、単に統計の問題か、または指導者の風向き次第によって処理されることが多いからです。
0006神も仏も名無しさん
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2023/03/02(木) 12:22:35.25ID:C9+zVXIZ
禅の修行で広く伝えられている誤りに、「坐禅によって今の自分の様子を修正していくことである」あるいは、「坐禅をして自我を忘じ、無我となることである」あるいはまた、「禅を学んで無や空を思想として勉強し、自由なものの見方や新しい考え方を習得することが禅である」という例が多くあります。

しかし、間違えてならないのは、「修正していくのが修行ではなく、修正しようとしている自分を捨てるのが修行である」ということです。

無我になろう、あるいは仏となろうとしている自分を忘じた様子が、真の無我であり、仏というべきです。いい換えれば、ものの見方や考え方を学ぼうとしている自分を捨てたところに、無とか空というものの見方や考え方を離れたものがある。そういうことを実証していくのが、禅の修行です。

禅の修行においては、修行を始める前に、修行の方向、即ち自己に参ずるということの道理をよくよく学ぶべきです。無我になろう、仏になろう、あるいは只管になろうとする、その自己を忘れるのが修行ですから、自分の思いどおり坐禅をしても、なんにもなりません。

「自己に参ずる」という修行の道理が明確にわからずに坐禅をし、公案功夫をいたしましても、先ほど示したように解決の場所を誤るために、修行が真の修行にならないということです。

修行の道理を学ばなければならないもうひとつの理由があります。「法」という認識以前の事実を求める修行は、一般的な分別や判断を離れた世界へ向かうことになりますので、日常の常識は到底及びがつきません。これは難易の問題ではなく、「無一物」の世界へ向かう道理を普通の尺度で測っては誤りやすいということです。
(原田雪渓、『自我の本質』pp.135-137)
0007神も仏も名無しさん
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2023/03/02(木) 12:22:52.41ID:C9+zVXIZ
見性なくして仏法はない

そこで、今度は「悟り」ということについて論及をしていきたいと思います。一般では、悟りということを「見性(自分の性を見る)」というふうに説いておられる方もあります。自分の性-先ほどから申し上げております、このものはいったい何者か。どこに、このものの中心があるのか。どういうものがいったい本来のものであるか。

私達は、喜ぶ、悲しむ、怒る……さまざまな自分の状態というものがあります。どれもこれも、みんな本当なんですね。怒る、喜ぶ、悲しむ、泣く、笑う、みんな本当の事実がそのままに表れております。いつでも、どこでも、何をしておっても、本当のことしかしておられない。どこにいったい嘘のものと本当のものがあるか、ということになつてしまう。

そういう、嘘のものと本当のものとを区別するのが、エゴというものです。だから、それをなくしさえすれば、いつでも「そのもの」が現れてくる。

それを「なるほど、そうか」と自分で自分の正体を見破るということ、これを「見性」といっている。ことばは違いますけれども、悟りということも、解脱ということも、見性ということも、同じでございます。
0008神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:23:17.47ID:C9+zVXIZ
川上雪担師 2ちゃんねるでの対話集

 ローニンを一か月分だけ買って、ログ保存してゆっくり見るといいかもです。

坐禅と見性 第二十一章
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1119799167/

坐禅と見性 第二十ニ章
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1120374115/

坐禅と見性 第二十三章
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1132148373/

坐禅と見性第二十四章 喫茶去
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1653331262/

坐禅と見性 第二十五章 身心脱落
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1122042924/

坐禅と見性 第二十六章
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1122648310/

坐禅と見性 第二十七章 ぽっかり浮く
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1123069922/

坐禅と見性 第二十八章 【坐禅に境地なし】
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1123764952/

坐禅と見性 第ニ九章 うまくいけば忘我だな
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1124204846/

坐禅と見性 第三十章 匙を投げても身心脱落
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1125056903/
0009神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:23:37.10ID:C9+zVXIZ
坐禅と見性 第三十一章
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1126101090/

坐禅と見性 第三十二章 誰聞かずとも風が聞く
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1127825483/

坐禅と見性 第三十三章
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1132145615/

坐禅と見性 第三十三章 石ころ以下 (重複しています)
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1132148373/

坐禅と見性 第三十五章
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1136597185/

坐禅と見性 第36章 有と無と狗子に仏性
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1141283672/

坐禅と見性 第37章
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1144275668/

坐禅と見性 第38章
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1145535037/

坐禅と見性 第39章
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1147359225/

坐禅と見性 第40章
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1148837045/l50

坐禅と見性 第41章(せったん師の登場はありません)
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1150416694/l50

坐禅と見性 第42章
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1152884466/

坐禅と見性 第43章(たぶんこれで最後)
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/psy/1154011384/

まだ、探せば、あるかもしれません。。
鬼スレにも、ちょこっと出没していた時もありました。
興味ある方は、各自で探してみてください。
0010神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:24:26.26ID:C9+zVXIZ
  白隠禅師 坐禅和讃

衆生本来仏なり  水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく  衆生の外に仏なし
衆生近きを不知(しらず)して  遠く求むるはかなさよ
譬(たとへ)ば水の中に居て  渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて  貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は  己が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏そへて  いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は  称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜  念仏懺悔修行等
其品多き諸善行  皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も  積し無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき  浄土即ち遠からず
辱(かたじけな)くも此の法(のり)を  一たび耳にふるゝ時
さんたん随喜する人は  福を得る事限りなし
いはんや自ら回向して  直に自性を証すれば
自性即ち無性にて  すでに戯論(げろん)を離れたり
因果一如の門ひらけ  無二無三の道直し
無相の相を相として  行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として  謡うも舞ふも法の声
三昧無碍の空ひろく  四智円明の月さえん
此時何をか求むべき  寂滅現前するゆゑに
当所(とうじょ)即ち蓮華国  此身即ち仏なり
0011神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:26:35.71ID:C9+zVXIZ
>現在の禅の修行の様子を見聞するとき、誤りに誤りを重ねて行く様子が目につきます。これは禅宗のみならず、主だつた仏教の各宗派も同じですが、原因は、「人」が法を伝えてきたために、真の解脱がなくなつたからです。

そういうなかでは、真の法を説く正師のことばは、あるいは耳に逆らい、あるいは心に逆らつて聞こえます。なぜかというと、常識とか人の分別の支配するなかでは、何が真実であり、何が誤りであるかは、単に統計の問題か、または指導者の風向き次第によって処理されることが多いからです。


・・ここらへんがまあ、日本の禅の現状だよね。。
勘違いしている人がほとんどという。。
0012神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:35:53.91ID:C9+zVXIZ
一応説明しておくけれど、因果はあります、歴然としてある。。

だが、しかし、悪業を積んだら、解脱できないとか、善業を積んでいけば、解脱に繋がる
ということではありません。。

解脱は、無我の実証なので、仏道に帰依して、参学、修行すれば、悪人でも悟れます。。

ただ、悪業の報いは、それでも避けられない、ということですね。。
0013神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/02(木) 12:38:06.80ID:C9+zVXIZ
で、悟ったら、どうなるかというと、自然と悪いことはできなくなるんです。。

そうじゃない人は、悟ってないでしょう。。

ただ、いろいろな選択肢があったら、考えあぐねる、とかはありますね。。
0014神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/02(木) 14:12:45.97ID:C9+zVXIZ
>>12
訂正だな

×悪人でも悟れます

〇過去に悪人であった人でも悟れます。。
0015神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/02(木) 16:39:28.84ID:ptzqkEW/
初期仏教では瞑想によって業をつくらなくなると説きます。
だから業によって輪廻しないと説きます。
善業をつくっても輪廻するだけで、せいぜい天にいけると説くだけ
在家は阿羅漢になれないというのが常識だった

しかし初期大乗では、瞑想ができないほど忙しい在家信者のために
善業によって成仏できると説きます。
ここに大乗の革命があったのです。
釈尊の説いた業による因果を否定したのが大乗なのです。
業による因果を否定した論理が空です。
竜樹が空を哲学的に立証するまで
空とは摩訶不思議な理屈で業による因果を否定するブラックボックスとして
の役割しかありませんでした。
しかし、竜樹も空を立証しきれたわけではありません。
ところどころ理解しがたい部分が残っているのです。
0016神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/02(木) 16:41:54.94ID:ptzqkEW/
大乗が善業によって成仏できると説き
その善業としてあげたのが六波羅蜜で
禅は善業の一つなのです。
0017神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 13:41:00.94ID:f19AEBV6
業の問題って、難しいですね。。

何も無いのであれば、業もないはずですが、因果を無化する理解は間違っているというのが、
大乗仏教の教学ですよね。。

業をつくらなくなって、成仏する、とはいっても、肉体がある限り、業は、行為はなくならないでしょう。。
お釈迦さまも、説かなければ、業をつくらなかったかもしれませんが、法を説いたことによって、
その悟何千年も存続する業をつくったと言えます。。

で、大乗が、なぜ、初期仏教の寂滅主義、無へと閉塞してく在り方を批判したのか、
というところにポイントがありそうな気がします。
0018神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 13:45:01.05ID:f19AEBV6
恐らく大乗は、空とか無我の理解、という智慧を根本として、解脱するという在り方なのではないでしょうか?

それが、輪廻即解脱であり、生死即涅槃でしょう。。
因果のまま、輪廻のまま、生死のままにあれば、それが解脱であると。。

だから、業に関しては、それほど神経質になる必要はない、という捉え方なのではないかと思います。。
0019神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 13:49:37.81ID:f19AEBV6
だから、法を説く、ということ自体が、大きな賭け、だったという気がしますね。。
一世一代の大博打。。w

でも、空という理解があったからできたんでしょう。。
失敗しても、空ですから、そんなに気にする必要はないと。。w

結果その賭けは成功して、今の仏教があります。。
莫大な善業と、その裏面としての、悪業も残しつつ。。
0020鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/03(金) 13:55:31.08ID:g2wAcxn/
>>16
質問させてください。

大乗が空論をたてて従来の業感縁起説を否定したのに、善業による成仏を説いたのいうのでしょうか?

そこでいう「善」とは、仏道の成就に資する無為・無漏の行為をいうのであって、有為・有漏の作業(さごう)とは違うような気がするのですけど?
0021鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/03(金) 14:37:16.23ID:jQHfS3At
行為と煩悩の止滅によって解脱がある。
行為と煩悩は思惟より生じる。
それらはことばの虚構による。
ことばの虚構は空性によって滅せられる。

心の対象が止滅するときにはことばの対象も止息する。
というのは、ものの本性は涅槃のように、生じたものでも、滅したものでもない。

他のものをとおして知られず、静寂で、ことばの虚構をによって論じられる事なく、思惟を離れて、種々性を越える。
これが真実の形である。


(中論 龍樹)
0022鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/03(金) 14:43:50.77ID:jQHfS3At
>ことばの虚構は空性によって滅せられる。

空性とは、ことばを離れた直観の世界の本質でしょうし、それは瞑想によるものに他ならないでしょうから、「瞑想により業をつくらない」というのであれば、龍樹のそれも他ならないと思いますけどね。

まぁ、瞑想よって空性を喝破するという事です。

それを喝破しない限り、ことばによって業を架構する事になるって思うのですが。
0023神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 15:43:23.43ID:f19AEBV6
だから、究極的には、業もない、というのが正しいんだよ、理解としては。。

だけど、この身体があるせいで、この身体を、他は、あるとみなす、あるとしか思えない。。w

だから、業はなくならないでしょう。。
無視していいということはないでしょう。。
0024神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 15:46:56.38ID:f19AEBV6
だけど、逆に、その業の相互作用を利用して、お釈迦さまは、智慧や知識を与えることで、
お布施、供養を受けた、そういう生活をした、ということでしょう。。

そういう相互作用は、世間でも出世間でも、変わらない。。

悪業を積むものは堕ち、善業を行うものは、昇る、という因果の道理は、歴然として違うことはないんです。。
0025鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/03(金) 16:25:46.37ID:0fVXC1N/
……業が無いというか、そうした概念を形成することばの空性を説いてるのだと思いますけどね。

なぜなら、「業が無い」というとき、業が無いという有無という分別になるのですから。
0026神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 16:32:42.26ID:f19AEBV6
無いが真でしょう、あるは仮でしょう。。

で、そのどっちにも引っかからない、固執しないのが、中観でしょう。。

無いが真なのは、間違ってないですよ。。

それを否定したら、仏法ではないです。。

本来無一物が、仏法です。。
0027神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 16:35:40.50ID:f19AEBV6
いったん全部否定、というか、空じたのち、すべてを大らかに肯定するのが、悟りでしょうね。。

だから、世を拗ねたり、ひねたりするところはまったく無い。。

絶対無と大肯定が合致したところに、一円相たる悟りが現ずるのではないでしょうか?
0028鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/03(金) 17:18:03.29ID:cCiPV0VU
>>26

縁起であるものをすべて われわれはすなわち 空であると説く。
その空は相対的な仮説である。
これが実に中道である。
(龍樹 「中論」)

空であると説くべきではない。
空ではないとも同様である。
その両者であるとも、その両者でもないとも説くべきではない。
それは仮の名称のために説かれる。
(龍樹 「中論」)

依存性(縁起)をわれわれは空性であるというのである。
その空性は仮の名づけであり、それは中道と同じことである。
依存しないで生じたものなぞ何もないのであるから、空でないものなぞ何もない。
(龍樹 「中論」)
0029鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/03(金) 17:20:08.31ID:cCiPV0VU
>>26
> 無いが真でしょう、あるは仮でしょう。。

「非有非無の中道」って云いますけど……
0030神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 17:50:00.06ID:f19AEBV6
だから、無ということが、わからなければ、ダメ、ということです。。

その後の、非有非無ですね。。

無がわからなければ、ただの言葉、お題目。。w
0031神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 17:51:32.61ID:f19AEBV6
無を悟れば、度一切苦厄となる。。

それが、真実不虚。。

悟れなければ、一切皆苦かもしれません。。
0032神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 17:52:35.30ID:f19AEBV6
>「非有非無の中道」って云いますけど……

云いますけれど、とかでは、お話になりません。。w
0033神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 17:58:19.23ID:f19AEBV6
無ってのは、中観じゃなくて、唯識的にしか言えないだろうね。。
主観が消えれば、客観世界も消える、それが無です。。

中観の空とは、ちとちがうだろうね。。

ちゃんと坐っとれば、無相定まで行くでしょう。。
無があたりまえ、になるでしょう。。

ある程度、集中的に坐らんとダメでしょうが。。
0034神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 17:59:37.21ID:f19AEBV6
無相定、無相三昧とか、そういう境地みたいなのを言うのは、問題もあるけれど、無いわけじゃないよね。。
0035神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 18:00:42.89ID:f19AEBV6
有相定→有相三昧→無相定→無相三昧だね。。

で、実相無相の法門が、大乗仏教です。。
0036神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 19:12:59.22ID:kwyBuRyu
なんか勘違いさせちゃうような書き方だったですね。

業の因果の否定とは要するに
初期仏教では、善業は輪廻を招くだけで涅槃になるためになんの価値もないことなのに
大乗では、善業を行っていけば成仏できるとしたことだよ
初期仏教では業をつくらないから、業による輪廻がなくなって生まれ変わらなくなると説くのに
大乗では業をつくるけど、業による因果がなくなると説いたんだよ
そして業をつくっても涅槃に至れるとする論理が空で
最初は呪術的な要素の強いものだった。
この呪文を唱えると、ものすごい善業になって早く成仏するとか
写経がすごい善業になるといった思想もこのころできたものです。
大乗では、業の存在は否定しないんですが
業をつくりつづけるかぎり、輪廻から脱け出せないという問題を解決できないんです。
だから最後は空だからと言ってごまかさざるをえないんですよ
0037神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 19:38:34.50ID:kwyBuRyu
初期仏教は三元論なんですよ
悪業、善業、瞑想という三つの区分があって
一般人は善業や悪業をつくって六道を輪廻する
在家は出家者に布施をして善業をつくって来世は天に生まれる
出家者は瞑想をして輪廻をしない涅槃に住する
という三つの生き方をするという思想になっている
涅槃に至るためには業をつくらない瞑想が不可欠で
出家者にしかそれはできないという教えなんですよ
釈尊は悟ったら出家する以外の生き方ができないとも言っている
それほど出家を重視する宗教だったんです。
もちろん出家した人が帰俗することも否定しないですし
子供をもっている人が子供が大人になったから出家するということも認めました。
自由に出家在家を行き来することができます。
釈尊は親の承認を得ないで出家することを嫌いました。
釈尊自身、身内は誘って家族の同意関係なしに出家させていますが
家族が怒って釈尊にそれはやめろと抗議したため家族の同意を必須のものにしました。
なぜなら、出家者の共同体は労働と生殖を否定したため
在家者の協力なしに共同体の維持ができない存在だったためです。
仏教というのは在家者や社会の迷惑になるような行為はできなかったのです。
0038神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 19:52:38.74ID:kwyBuRyu
禅宗は晴耕雨読を認めます。
畑を耕しながら禅の修行をすることを是とします。
しかし、初期仏教では労働を否定しますので
畑を耕すことも禁じられています。
それが律の本来のあり方です。
東南アジアのサンガは今でもこの原則を守っています。
なぜ中国仏教である禅が畑を耕すことを禁じなかったかと
言えば、中国の禅宗に律がそのまま輸入されなかったからです。
もともと道教の出家者集団が禅定を取り入れて仏教集団化したのが
禅宗のはじまりという面があるのです。
0039神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 20:29:42.85ID:f19AEBV6
禅修寺院が、自給自足をするようになったのは、百丈の頃からと言われていますね。。
時の皇帝が、道教にハマって、仏教を弾圧し、生活ができなくなったからとか、読んだことがありますが。。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%B8%88%E6%87%90%E6%B5%B7
インドの大乗仏教と小乗仏教では、出家者が自らの労働を戒律で堅く禁じられていた。そのため出家者は托鉢乞食(こつじき)や信者からの布施だけに頼っていた。仏教が中国に伝播してきた頃はその戒律が守られていたが、出家者が急増し管理不達のため社会秩序への悪影響が深刻となり、さらに唐代中期以後、朝廷による僧侶淘汰命令が発され、貴族からの布施が途絶え寺院経営が成り立たなくなっていた。出家者たちは、やむを得ず生活の手段として耕作労働をするようになり、思想面の混乱が続いた。その時に、百丈は革命的にそれまでのインド仏教の戒律と、当時中国の環境および習俗などを折衷し改革を行った。労働こそは"仏のはからい″であり"仏のすがた″であり、労働は一番重要な修行であることとして解釈を改め、中国特色の戒律改革を唱えた。これにより百丈が中国の国情に根付いた仏教教団の集団規則(清規)を制定し、その新しい戒律集の集大成が『百丈清規』として、仏教の後世への発展に繋がったと言われる。禅宗で初めて清規を定めたのが百丈だと言われる。
0040神も仏も名無しさん
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2023/03/03(金) 20:32:24.82ID:f19AEBV6
それと、業って、普通に考えて、善業と悪業だけではないと思うけどな。。

善でも悪でもない、無記の行い、の方が多いと思うけど。。

例えば、テレビ見る、散歩する、趣味にハマるとか、どっちでもない行為が多いのでは?
0041鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/03/03(金) 20:44:22.18ID:e/Wiv2H2
>>32
> >「非有非無の中道」って云いますけど……
>
> 云いますけれど、とかでは、お話になりません。。w

無いが真というのは変ですよ、って事です。
0042鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
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2023/03/03(金) 20:45:46.27ID:e/Wiv2H2
>>36
これの返答お待ちしてます。

 ↓

20 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe [sage] 2023/03/03(金) 13:55:31.08 ID:g2wAcxn/
>>16
質問させてください。

大乗が空論をたてて従来の業感縁起説を否定したのに、善業による成仏を説いたのいうのでしょうか?

そこでいう「善」とは、仏道の成就に資する無為・無漏の行為をいうのであって、有為・有漏の作業(さごう)とは違うような気がするのですけど?
0043神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 20:54:53.75ID:kwyBuRyu
中国仏教は大乗なので、在家者でも成仏できると説きます。
出家者が多くて立ち行かないというのであれば、在俗すればよかったはずですが
社会の要望を無視してまで出家への熱望が絶えなかった、統制できなかったということは
それなりの理由があると思いますがね
そもそも大乗は社会に積極的にかかわっていくことを是としますから
中国仏教のサンガには社会に対する積極的な意図があって
出家の希望を家族や社会とのすり合わせなしに取り入れたという面があるのではないでしょうか?
0044鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/03(金) 20:56:07.02ID:kxHdXYmY
大乗は、これは龍樹の諸説ですけど、輪廻の業因をことばに求めたと思います。
そして、そのことば自体が空性って喝破したのだと。

呪というのもそうしたことばによる業の仮設から超越する事がその本懐だと思いますけどね。
もっとも、それらは直観智から感得されたものですけど。
0045神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 21:04:08.34ID:kwyBuRyu
般若経典類がつくられたときは空は業によって成仏できると説くための
ブラックボックスとしての役割でした。
しかし、竜樹が後で空とはこういうものだよと証明したため
般若経典類も仏教だと主張されるようになったのです。
大乗の成立です。
しかし、竜樹の空はいわば後付けの解釈であって
ギャーテーギャーテーと言った呪文や写経がなぜ善業になるのか
そういった理由は説明されてません。
0046神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 21:10:14.04ID:kwyBuRyu
>>44
そうですね。私はあくまで大乗の成立の形の面しか読み取ってません。
形から読み取れることの間を補う論理を主張しているだけであって
その形の背後にあった悟りの変容という面にはタッチしてません。
大乗がつくられた背景には出家集団が現実と真理を前にして苦悩し
その果てに達成した果実があると思います。
鹿野園さんがおっしゃるような背景もあったかもしれません。
しかし、その背後にあった確かな事実というものは今のところ特定されていません。
特定されたら学会で話題になるでしょうね
0047神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 22:06:03.10ID:f19AEBV6
悟り自体は変わらないと思いますけどね。。

悟りが現れることを妨げているのが、煩悩であるのか、自我であるのかの違いが、
初期仏教と大乗仏教の違いではないでしょうか?

時代につれて、障礙が変わったので、教えも変わっただけなんじゃないのかな?
0048神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 22:07:54.35ID:f19AEBV6
空、無我、縁起、無常、という根本的な、法は変わっていない。。

涅槃=解脱も、もともと解脱しているのであれば、そこに至る道は、複数あっても構わないと思うし。。
0049神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 22:10:11.77ID:f19AEBV6
冥想とか、禅定が、根本にあることも変わらないのではないかな?

悟り自体が変わる、というのはあり得ない気がする。。

悟ったあとの在り方が、ちがう、というのは、そうなんでしょうけれど。。
0050鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/03(金) 22:12:47.69ID:oGDeN4Sw
>>46
>>36
これの返答お待ちしてます。

 ↓

20 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe [sage] 2023/03/03(金) 13:55:31.08 ID:g2wAcxn/
>>16
質問させてください。

大乗が空論をたてて従来の業感縁起説を否定したのに、善業による成仏を説いたのいうのでしょうか?

そこでいう「善」とは、仏道の成就に資する無為・無漏の行為をいうのであって、有為・有漏の作業(さごう)とは違うような気がするのですけど?
0051神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 22:16:44.30ID:f19AEBV6
ここ2ちゃんの頃から、20年近く僕はいますが、坐禅によって悟った人は、初期仏教により親しみを感じる人が多い気がいする。。
で、迷悟一如とか、輪廻即涅槃みたいなのがわからない人が多い。。

禅宗の場合は、どっちかというと後者なんですが。。
もちろん、後者も坐らないとわからないんですが、後者は、業や煩悩の死滅には至らない。。

だから、慧解脱というのでしょうか?
身解脱じゃないと思いますが、自由度は高いのではないかな?
だから、在家でできないわけはない、と僕は感じますね。。
0052神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 22:27:48.76ID:kwyBuRyu
>>50
すみません、読んでませんでしたw

でももう答えたようなものでしょう
在家者は瞑想をする余裕がないので、善業をするしかない。
それゆえ大乗は善業をすることで成仏すると説くのです。
その善業は六波羅蜜と呼ばれるものです。
大乗経典を読めば悪をやめて善を勧める話がすぐ出てきます。

でも、そういう話になるのも理由があるんですよ
成道前の釈尊を菩薩と言いますが、その釈尊の過去世譚があるんですよ
ジャータカとよばれるものですね。ジャータカには菩薩がひたすら
他人のために身を犠牲にして善を行う話が延々書かれています。
だから私たちも阿羅漢ではなく仏になるためには長い時間をかけて
善を行わなければいけないんじゃないのかという思想が生まれてくるんです。
それと、過去世で仏を前にして自分は仏になると誓いをしなければならないという話もあります。
だから仏になるには仏の前で誓願を建てなければいけないという思想もでてきます。
この思想のせいで大乗経典はいろんな経典をつくって成仏するための理屈をつくっていくのです。
0053神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 22:33:54.52ID:kwyBuRyu
般若経典では、お経を読んで心が震えたなら、あなたは過去世で
仏に会って誓願をしている証拠ですと言って釈尊に直接会えない現実を
なんとかやりくりするわけです。
そして永い時間をかけて善業をつくりながら成仏をめざして努力をするのが
初期大乗の考え方です。
すぐ悟ろうとかいう考えではないのです。
0054神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 22:40:53.27ID:f19AEBV6
仏は、迷悟を見ないだろうな~.。
ただ、縁起によって、法によって、すべてがあるようにある、と見るのでは?

ただ、人に法を説いたり、指導的な立場にあると、迷悟言わないとしょうがない。。
こっちはめんどくさいですね。。w
0055神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 22:47:57.93ID:kwyBuRyu
無漏なら業はつくられないので、善業ではないですね
すくなくとも初期仏教ではそういう解釈です。

人間なんだから悟っても業をつくるでしょというのは
おそらく大乗的な考え方なんでしょうね
0056神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 22:49:26.22ID:f19AEBV6
迷悟なんて見ない方が、忘れた方が、きれいさっぱり清々ですよね。。

禅宗は、最終的には、そっちがデフォルトになるんじゃないかな?

ただ、人に示すときは、迷悟を仮る、修証を言う必要がある、というだけであって。。
0057鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/03(金) 22:59:39.68ID:oGDeN4Sw
>>52
>その善業は六波羅蜜と呼ばれるものです。

善業で成仏とか、それは私は初耳です!

善業で生天なら聞いたことはありますけど、悪業にしろ善業にしろ、それは大乗や南伝に関係なく輪廻の原因というのが定説だと認識しておりますが?

ご存知かも知れませんけど、少なくとも私が仏教の某研究機関に勤務していたときはそんな話は存じませんでした。

「波羅蜜」自体は「完全なる」とかという意味があり、また、彼岸に至る行とも解されてるようですけど。
六波羅蜜は彼岸に至る為の行であって、善業というのは……

根拠となる経論とその箇所はあるのですか?
0058鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/03(金) 23:04:02.56ID:oGDeN4Sw
>>52
その「善業」が無漏の行為というのなら辻褄は合うのでしょうけど、それなら大乗も南伝も同じだと思いますけどね。
0059神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 23:09:38.21ID:f19AEBV6
心清らか、じゃないと、仏法を聴いてもわからない、身に着かないんだよ。。

だから、いい人、まともな人になる必要がある。。

当然、ある程度善業を積んでいる人、じゃないとダメかもしれません。。

悪業積んでも、悔い改めれば別でしょうが。。
0060神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 23:11:14.90ID:f19AEBV6
悪趣に在るものは、悪業積んでいるのに、自分でわからないから、悪業を積み続けるんだよ。。

だから、輪廻し続けるしかないのだけれど。。

まーそれも、法の通りと言えばそうで、自ずから、そうなっちゃってる、ということなんだけど。。
0061神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 23:13:18.59ID:kwyBuRyu
>>57
経典のたぐいは出せませんけど
ネットで検索したところ、こんなのが出てきました。
善根
?名? (古くは「ぜんごん」とも) 仏語。諸善を生み出す根本となるもの。
無貪(むとん)・無瞋(むしん)・無痴(むち)をいい、これを三善根という。
また、善い果報を招くであろう善の業因(ごういん)をいう。

まあ、成り立ちからしてそうですよ。
在家者は善業しかつくる機会がない。
その在家者を成仏させようっていうんだから
善業を成仏のための基礎におくというのは自然な流れだと思いませんか?
0062神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/03(金) 23:15:45.20ID:f19AEBV6
坐禅の功徳に及ぶものはない、と言った師家の方がいましたが、そういう意味では、坐禅も善業です。。

ただ、その功徳を回向するつもりでやらないと、無理ですけどね。。

それが全部自分のものになる、と思っている人には、その功徳は身に着かないでしょうね。。

賽の河原で塔をつくるように、積んだそばから、ぜんぶ壊れていきます。。
0063鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/04(土) 01:13:20.92ID:t+gs91zx
>>61
例えば白隠さんは「坐禅和讃」で

布施や持戒の諸波羅蜜  念仏懺悔修行等
其品多き諸善行

と仰ってます。

「善業」って「善行」の勘違いでは?
0064鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/04(土) 01:19:55.16ID:KnIwltET
「善行」で成仏・解脱なら存じてますけど、さすがに「善業」でそれは聞いた事がないなぁ……
0065神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 03:08:26.93ID:/hvBxg8S
大乗仏教は、一般に功徳を積んで、善業を積んでということを重視します。。
それが解脱の因になるからです。。
チベット仏教などでもそれは顕著ですね。。

もちろん、自分がそうしたことに執着したらいけないんですが。。
0066神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 03:14:58.34ID:/hvBxg8S
覚すれば了じて功を施さず、
一切有為の法は同じからず。
住相の布施は生天の福、
猶お箭(や)を仰いで虚空を射るが如し。
勢力つきぬれば箭還って堕つ、
来生の不如意を招き得たり。
いかでか似かん無為実相の門、
一超直入如来地なるに。
但だ本を得て末を愁ること莫れ、
浄瑠璃に宝月を含むが如し。

これは、布施などの功徳を積むよりも、禅門の方がいかに優れているか言っているだけで、
功徳がないと言っているわけではない。。
0067神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 03:16:16.91ID:/hvBxg8S
夫れ摩訶衍の禅定は  称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜  念仏懺悔修行等
其品多き諸善行  皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も  積し無量の罪ほろぶ

これも、坐禅の功徳だけで成仏できると言っているだけで、
他の布施、持戒、波羅蜜などを否定しているわけではない。。
0068神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 03:19:09.25ID:/hvBxg8S
だから、坐禅だけでいけるのは、その通りなんだけど、他の功徳、善業を否定しているわけじゃないのよ。。

でも、坐禅だけしてれば、悪業積んでもいいかと言ったら、それはあり得ない。。

自然といいことできる人にならんと成仏は無理ですね。。

生活とか普段の行為が基盤でしょう。。
それが無ければ、どんなに坐っても、土台から全部崩れて何も残らないでしょう。。
0070神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 03:25:22.14ID:/hvBxg8S
善業、善行を積むとは、我執を捨てる、我欲を捨てることに他ならないから、
それができないと、坐禅もできんでしょうね。。

坐禅はもちろん、自分を捨てることです。。
ストレートに言えばそうなる。。

それができないと、解脱なんてのは無理でしょうね。。
0071鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/04(土) 05:29:21.71ID:0errKQa+
>>61
うーん、なんだかなぁ。
あなたの見解には、私は肯べないところがありますね。
特に

>業をつくりつづけるかぎり、輪廻から脱け出せないという問題を解決できないんです。
>だから最後は空だからと言ってごまかさざるをえないんですよ

これは暴論だと思えます。
理由は>>44の通りです。
0072鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/04(土) 05:33:36.09ID:LKuIu/yl
経典に「善業で成仏」ってのがないと、いくらなんでもねぇ。
0073◆MUGITANx95Dj
垢版 |
2023/03/04(土) 08:28:10.41ID:sPJzSbIh
∞ノノハ∞
川^〇^ハレググりました
六波羅蜜経があるみたいですが探せませんでした

ネットの仏説無量寿経からですが
菩薩行の善業を経て成仏と読み取れますけど?

>布施と調意と持戒と忍辱と精進、このような禅定と智慧を修めて、この上なくすぐれたものとしよう。

般若経と六波羅蜜経
平川彰

>抜粋
摩尼宝経にはチベット訳もあり、梵本囚 asyapa-parivarta も 存在する。
そして梵本によつて六波羅蜜経の原語は satpramita であり、菩薩蔵経の原語は Bdhisattva-pitaka で (14) あることも確かめられる。
なお六波羅蜜経は遺日摩尼宝経に引用されるだけではな い。
無量寿経の古訳である支謙訳大阿弥陀経、竺法護訳無量
清浄平等覚経にも、道智大経とともに引用されている。

仏説無量寿経より
>願わくは、わたしも仏となり、この世自在王仏のように
迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。
布施と調意と持戒と忍辱と精進、
このような禅定と智慧を修めて、この上なくすぐれたものとしよう。
わたしは誓う、仏となるときは、必ずこの願を果しとげ、
生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。
たとえ多くの仏がたがおいでになり、
その数はガンジス河の砂のように数限りないとしても、
それらすべての仏がたを残らず供養したてまつるより、
固い決意でさとりを求め、ひるまずひたすら励む方が、功徳はさらにまさるであろう。
ガンジス河の砂の数ほどの仏がたの世界があり、
はかり知れないほどの数限りない国々があるとしても、
わたしの光明はそのすべてを照らして、至らないところがないように、
おこたることなく努め励んで、すぐれた光明をそなえたい。
わたしが仏になるときは、国土をもっとも尊いものにしよう。
0074◆MUGITANx95Dj
垢版 |
2023/03/04(土) 08:34:17.51ID:sPJzSbIh
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ法華経の序品にも六波羅蜜があったと思うのですが探せませんでしたwww
0075鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/04(土) 09:11:22.31ID:W6qhR7ra
古層の仏殿には在家でも「知見を得て解脱した」とあり、周梨槃特はことばの繰り返しで煩悩を滅してるし……
0076鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/04(土) 09:33:27.93ID:Exu4pPbd
訂正

古層の仏典には在家でも「知見を得て解脱した」とあり、周梨槃特はことばの繰り返しで煩悩を滅してるし……
0077神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 11:32:58.32ID:/hvBxg8S
独り言になっちゃうけど、昨日の続き。。

坐禅は自分を捨てることで、自分が消えると、世界が消える。。
これが無の体験なんでしょう。。

だから、自分がある、ということと世界がある、は、同じことですね。。

世界は自分の中にある、あるいは、自心に映ったものに過ぎない。。

自分という認識主体がなければ、世界も無いんです。。

で、世界がない時は、こちら、自分もないんです。。
0078神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 11:37:47.60ID:/hvBxg8S
ありのままに見ると言っても、人間にとってのありのままは、認識対象の世界、すなわち、分別の世界です。。

そうした、対象の集合として、現れる世界は、一般にはありのままと言われるが、対象の集合として、
それが現れている限り、自他、主客が分かれた分別の世界ですね。。

だから、そうしたありのままは、存在そのものとか、真如、真実を見ているわけではないのです。。
0079神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 11:46:39.09ID:/hvBxg8S
だから、目で見た世界は、ありのままの真実と思っているかもしれないが、
見たと同時に、言語的な認識が生起して、見たものを対象化する、何ものかとして認識する、
それと同時に主客が分かれる。。

だから、自我による認識能力が自動的に働いている以上、眼耳鼻舌身による知覚は、
存在そのものではない、ありのままとも、実は言えないのです。。

だから、真実、真如を見る、悟るためには、大変な努力が必要で、目の前の現実が真実であるとはとても言えないのです。。

目の前の現実が真実であるなら、誰も苦労しません。。
0080神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 11:48:51.96ID:/hvBxg8S
もちろん、そういう対象化する認識や、自他による分別の世界が、迷いである、というわけでもないのですが、
自分という認識主体があって、それから離れて、対象を認識できる、世界を捉えられるというのは、
実はちがう、というのは知っておく必要があるでしょう。。
0081神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 11:55:47.96ID:/hvBxg8S
だから、私が、この認識主体が、真実、真理を認識できる、得ることができる、というのは、
仏法ではありません。。
それは間違いです。。

眼前聴聞底が、真理を認識できる主体である、ということはあり得ないのです。。

ただ縁に応じて、見たり聞いたりするものを認識して、世界が生起しづるける、という働きが、あるのみ、ということです。。
0082神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 12:00:46.98ID:/hvBxg8S
だから、悟りというのは、真理、真実を得る、ということではないんですね。。

悟りの内容があるわけではないのです。。

ただ、自己を解決したか否か、という問題であるだけなんです。。
0083鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/04(土) 12:03:23.40ID:83F/fCx6
汝は祖仏と別ならざらんと要せば、但だ外に求むること莫れ。

汝が一念心上の清浄光は、是れ汝が屋裏の法身仏なり。
汝が一念心上の無分別光は、是れ汝が屋裏の報身仏なり。
汝が一念心上の無差別光は、是れ汝が屋裏の化身仏なり。

此の三種の身は是れ汝即今目前聴法底の人なり。

(臨済 臨済録より)
0084神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 12:11:16.93ID:/hvBxg8S
だから、ホントに外に求めなければ、それ自体です。。

だけど、おれ自身だ、と思い込むと、そういう主体と、その認識、という風に分かれて、また迷妄の世界ですね。。

だから、外に求めない=忘れる、という風にならないといけない。。
0085神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 12:12:21.27ID:/hvBxg8S
もともあるものではあっても、掴めるものではない、ということです。。

だから、知らぬが仏なんですよ。。
0087鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/04(土) 12:17:53.93ID:9I7VU2Xx
これは体験しないと分からない。

現量っていうのですけどね。

ほんと、眼耳鼻舌身がそのまま色声香味触なんです。
不思議な体験なんです。
0088神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 12:23:28.63ID:/hvBxg8S
だから、悟りという何かしらあったら、悟りじゃないし、仏でもないんですね。。

そういうのがない、まったくただの人、にならないと、また迷妄の世界です。。
0089鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/04(土) 12:32:06.95ID:6a9/CBvJ
即今目前聴法底、まさに現量であり、盤珪さんのいう不生の仏心。
0091◆MUGITANx95Dj
垢版 |
2023/03/04(土) 14:22:53.65ID:sPJzSbIh
>>78
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ横田南嶺禅師ホームページより

>「馬祖道一の言葉」
日常にはたらく心のあり方がそのまま悟りだというのです。
とありますけど?

抜粋
>以前小欄にも書いた、誰しも仏さまの心を持つということを話しました。

様々な譬えも紹介しました。

汚物の中の金のようなものだとか、ボロ布をまとった仏像のようなものだという譬えです。

そのように、私たちの煩悩や妄想という汚れた心に、綺麗な仏さまの心が具わっているのだという教えであります。

そうしますと、私たちの心から、汚れた不純なものを取り除けば、綺麗な仏さまの心が現れると思われます。

汚れたぼろ布を取り除けば、綺麗な仏像が出てくるようなものです。

こういう教えは分かりやすいものです。

そのような煩悩などの汚れを取り除くのが修行だということになります。

しかし、私たちの禅の教えは、そんな考えの否定から始まったのでした。

そのことを講義でも話をしたのでした。
0092◆MUGITANx95Dj
垢版 |
2023/03/04(土) 14:23:54.23ID:sPJzSbIh
>>91
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ続き

>「平常心」ということばがあります。

『広辞苑』をみますと、「普段どおりに平静である心」という説明があり、「平常心を保つ」という用例も示されています。

これは一般にもよく使われます。

どんな状況でも、緊張したり動揺したりせずに平常心を保つということが大事だと説かれるのであります。

スポーツの選手などでも、そうです。

「平常心を保ちました」などと言われます。
いつもと変わらないように普段通りできたということでしょう。

しかし、禅でもともと説いていた平常心というのは、それとは異なる意味であります。

『広辞苑』には「びょうじょうしん」という読みもあって、こちらには「禅で用いる語」という説明があります。

さらに「平常心是道」という禅語を、正しく「びょうじょうしんこれどう」と読んで、「禅語。日常にはたらく心のあり方がそのまま悟りだということ。馬祖道一の言葉」と解説されています。

日常にはたらく心のあり方がそのまま悟りだというのです。
0093◆MUGITANx95Dj
垢版 |
2023/03/04(土) 14:28:41.30ID:sPJzSbIh
>>92
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ続き

>そこで具体的に私自身の話をしました。

何回話をしても普段取り平常心(へいじょうしん)とはいかないのだということです。

今日も鎌倉から授業に来て、教室に入ると、あまりにガラガラなので、教室を間違ったかなと思ったのだということ。

人前で何度話しても緊張するということ。

緊張しないことが平常心だと思われるかもしれませんが、そうはいきません。

人前で話すのは緊張します。

その日も、わざわざ学長さんが講義を聴いてくれていました。

学長さんは、今年度から新たに就任してくださった方でいらっしゃいます。

学長さんが聴いてくださっているとそれだけでも緊張するのです。

更にマスクをして講義をするので、息苦しい、メガネは曇るし、暑いしたいへんだといろんなことを思います。

このありのままの心がそのまま真実だと説くのが、馬祖禅師の説かれた「平常心(びょうじょうしん)」なのです。
0094◆MUGITANx95Dj
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2023/03/04(土) 14:30:03.13ID:sPJzSbIh
>>93
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ続き
これは実に良い教えなのです。
緊張しないように、普段通りにしようなどと思えば思うほど、うまくゆかないのです。

更にマスクをして講義をするので、息苦しい、メガネは曇るし、暑いしたいへんだといろんなことを思います。

このありのままの心がそのまま真実だと説くのが、馬祖禅師の説かれた「平常心(びょうじょうしん)」なのです。

これは実に良い教えなのです。

緊張しないように、普段通りにしようなどと思えば思うほど、うまくゆかないのです。

緊張するのが当たり前だ、それでいいのだと思った方が楽になるのです。

馬祖禅師が説かれた「平常心」というのは、「造作無く、取捨無し」と説かれているものなのです。

わざわざ「平常心(へいじょうしん)を保つ」ようになどという、つくろい事をしないのです。作りごとをしないのです。

乱れた心を捨てて、静かな心を得ようなどとしないのです。

迷いを捨てて悟りを得ようなどとしないのです。

ですから、学長さんが聴いていて緊張するし、マスクは苦しくたいへんだという、そのままでいいのだと思って講義をしているのですとお話したのです。

この「平常心(びょうじょうしん」」の教えは、自己肯定につながり大きな力を生み出します。
しかしながら、「このままでいい」というところに安住してしまって、何の努力も修行もしなくなってしまうと問題になってしまいます。

馬祖禅師の弟子たちから、そのままではいいというのは問題ということが説かれるようになりました。

このままでいいのだという自己肯定と、これではまだいけないという自己否定とがうまく車の両輪のように、相俟って道を進むことができれば一番理想だと思います。

平常心を保つ努力も大事でしょうが、本来の「平常心」の意味も大切にしたいものです。
0095神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 14:33:57.46ID:Mv92VTeu
佛世尊皆共護念修行般若波羅蜜多諸菩薩衆所作善業。令彼惡魔不能留難。

佛言。若有菩薩摩訶薩。久行六波羅蜜。種善根多親近供養諸佛。與善知識相隨。是菩薩能信解深般若波羅蜜。

お経から以上の言葉がヒットしました。
六波羅蜜を善業と言う直接的な言葉はないですが
六波羅蜜を行じて達成するところは善業を植えることだと推察されます。
大智度論にはいろいろそんな言葉がでてきました。
菩薩業だとか、業因縁だとか。
智度とは般若波羅蜜のことですから当然とはいえば当然ですが。

>>71
言葉が輪廻の原因というのはうなずけます。
テーラワーダでも名色が輪廻の原因だと言いますからね
要するに精神的な活動と物質的な活動の連鎖するところに輪廻があると
言っています。その名とは名前という言葉から察する通り
概念などの心的作用のことでしょう。すなわち言葉を操る能力が名と
いうことになるのは自明のことと思われます。

しかし、その名色の螺旋を断ち切るのに呪文が有効であるというのは
釈尊の時代には考えられなかったことです。
釈尊は呪文を否定しましたからね。
0097鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d
垢版 |
2023/03/04(土) 15:14:22.24ID:vZj5gI41
>>95
> しかし、その名色の螺旋を断ち切るのに呪文が有効であるというのは
> 釈尊の時代には考えられなかったことです。
> 釈尊は呪文を否定しましたからね。

これについては、呪文と云うか「マントラ」ってなるのでしょうけど、

 >釈迦仏はこれを知って、彼に一枚の布を与え、「塵を除く、垢を除く」と唱えさせ、精舎(もしくは比丘衆の履物とも)を払浄せしめた。
 >彼はそれにより、落とすべき汚れとは、貪(rāga)、瞋(dveṣa) 、痴(moha)という心の汚れだと悟り、すべての煩悩を滅して、阿羅漢果を得たとされる。

ってありますね。
0098神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 15:20:24.28ID:Mv92VTeu
>>97
シュリハンドクの話はスマナサーラ老がおっしゃっていましたが
非常に難しく一般人がするようなものではないものだそうです。
そもそもこの話は座禅しなくても悟れるというような話ではなく
お経を覚えられなかったシュリハンドクのために釈尊が特別に
教えたもので、呪文のようなものでもないとのことです。
0099鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe
垢版 |
2023/03/04(土) 15:51:41.23ID:vZj5gI41
仏教の基本は聞思修と戒定慧な訳ですが、周梨槃特はそのことばによって禅定に入ったのでしょう。

時を降って浄土教で

「一心にもっぱら彌陀名号を念じ、行・住・坐・臥(一切の生活のあり方を通じ)に時節の久近(時間の長短)を問わず、念々にすてざる者を是を『正定之業』と名づく。かの仏の願に順うがゆえに。もし礼拝読誦等に依るは、すなわち名づけて助業となす」(散善義)

というのを想起させますね。
0100神も仏も名無しさん
垢版 |
2023/03/04(土) 23:46:27.46ID:/hvBxg8S
>>91
だから、平常心是道も、即心是仏その通りなんだけど、
それを自分で確かめなきゃならん、悟らなきゃならんということだよね。。

横田老師のお話聞くより、無門関とかを丁寧に看た方がいいと思うが。。
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