坐禅と動中の工夫4
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坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
良い念悪い念にかかわらずあらゆる念を切って行きます。
坐禅中、念を追っかけて気持ちよくなってるのは三昧ではありません。
どちらかと言えば意識はしっかりさせている感じです。
ですから寝てはいけません。
次の念、次の念が出る度に前の念が忘れて行きます、そして坐禅が終わったら何も残ってない感じになる事もあります。
また、念が認識出来ない、時折り念が出なくなる事もあります。
これが正念相続です。
坐禅を続けてますと色んな変化、気づきがありますがそれは結果でありそれに踊らされてはいけません。
あくまでも、「息を離さない様にそれに徹して行く」
これだけを一心不乱にやって行く。
これだけに徹していれば自分が望む所に勝手に運んでくれます。
動中の工夫
動中の工夫は坐禅の延長みたいなもので、坐禅の時と同じ様に今度は動きに成り切ります。
何もしてない時は坐禅と同じで息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
歩いてる時は息ではなくメインの歩いてる事だけに意識を置き歩くに成り切ります。
ご飯を食べる時はご飯を食べるだけ。
他ごとを考えながら歩いたり食べたりしない。
つまり動作によって余念が入る隙を与えないようにします。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
動作を意識している自分があるじゃないか、と思われるかもしれませんが、続けて行くうちにそう言う自分がなくなります。
こうやって余念が入る隙を絶えず与えないようにして行きます。
そうすると四六時中、禅になります。
禅とは単を示す。
これだけをやって行く事が禅です。
菩提心を持ってやって行く、菩提心とは努力、忍耐、求道。
この道は 単を練る他 道は無し
単を練るとは今を離さないように、只、抜かりなくやる。 我(が)を捨てて、ただ坐る。
我(が)を捨てて、ただ坐る。 0105 神も仏も名無しさん 2021/01/04 15:20:45
かむいくんは
和尚の話もうわの空だろう笑。
優先事項はナルシズムだから
笑
>>103
言葉の矛盾よりも言葉のたれ流しが
そもそも問題、鹿野園もある意味同類だが。
修行が進んだら普通、言葉のたれ流しは止む。
カムイは自分の見解の回転レスたれ流しをする。
鹿野園も、トムも。
何か体験しても、細かく語りたくないし、
何回も回転レスでたれ流したくない。
無駄だからだ。
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ある人の場合、23歳である段階に悟ってから46歳になるまで23年間瞑想だとか悟りだとかについて一切誰にも話さなかったって聞いたな、
ま確かに尋ねられもしないのに話す理由もないよな 夜は眠くて坐れないんだよね
朝は二時間とか坐れるけど >>112
おいおいコイツら居なくなったらつまらんぞ、得難い逸材じゃないか 0115 神も仏も名無しさん 2021/01/04 17:12:34
118は鹿野園ぽい
笑
0118 カムイ ◆wxnBcJ8ZogOS 2021/01/04 18:20:24
早めのお風呂
0118 カムイ ◆wxnBcJ8ZogOS 2021/01/04 18:20:24
早めのお風呂
>>115 は未来に生きているようだな┐('〜`;)┌ >>79
参考
龍樹論師「六十頌如理論」
(第十偈)
無明(迷い)を条件として生じたものは、正しい認識をもって見なら、生起であれ消滅であれ、いずれもありえない。
(第十二偈)
このように、非常に微細なものにも生起があると考える智慧のない人には、条件による生起(縁起)の意味は見られない。
(第十七偈)
輪廻の生存(有)は幻や陽炎のようである、と正しい理解によって見るとき、彼らは前際とか後際とがを見て、悩むことはない。
(第十八偈)
生滅変化するもの(有為)における生起や消滅を妄分別(モウブンベツ)している人たちは、縁起の輪の中にこの〔迷い〕世界があることを全く理解していない。
(第十九偈)
あれやこれやに依存して生じているものは、実体をもって生起してはいない。実体をもって生起していないなら、そのものがどうして生起しているといわれるだろうか。
(第二十偈)
因が尽きて寂滅することが滅尽である、といわれるが、実体として尽きることのないとき、そのものにどうして滅尽ということがいわれようか。
(第二十一偈)
そのように何ものも生起することがなく、何ものも消滅することもない。
生起と消滅の道は、目的のために説かれている。
(第二十二偈)
生起を知って消滅を知る、消滅を知って無常を知る。
無常の中にあることを知るから、正しい法をも理解する。
(第二十三偈)
縁起は生起と消滅を離れている、と知る人々は、
誤った考えによって生み出された生死(有[ウ])の海をこえる。
(第二十四偈)
不変の実体を考える人は、愚かにも、あるとか、ないとか、 と錯覚する誤りのために、煩悩に支配され、自らの心によって欺(アザム)かれる。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4629752&page=9&id=55405167
(第十九偈) (第二十偈) に要点が説かれていますね。 >>125
これは何を言いたいの?
このレス者は?
もしも、実体がないから消滅がある、という言葉に対しての反論を出したというなら、
非常に愚かな反論だね
この辺の意味をよく理解していない。 悟りスレで
狂って痴態垂れ流す鹿野園と、
そのレスの横で狂った根拠を出せ、と繰り返す
鹿野園に気持ち悪い依存する栄進、
と面白かった
笑 >>126
>もしも、実体がないから消滅がある、という言葉に対しての反論を出したというなら、
消滅ではなく生滅ですね。
実体がないのに縁として生じたり滅したりするのは、言わば不生の生ということです。 >>128
漢字をいちいち指摘したり、反論のようなものもあいまいで、
非常に浅はかな感じがする おい、カムイ!
でおーが四面楚歌で涙目だぞ?!
助けてやれよ、仲間だろw >>122
座るのは朝が良いよなあ、お釈迦様だって明けの明星みて悟ったんだし >>129
追加。
なお私は論師の説いていることのコピペが主なので、もし反論だと思われたのなら龍樹にケチつけてくださいまし。
「中論」第7章 つくられたもの(有為)の考察
一三 この未だ生ぜられる生がどうしてそれ自体を生ぜせしめるであろうか。もしもすでに生じたものが生ぜせしめるものだとすると、すでに生じたのにどうしてさらに生ぜられるであろうか。
一四 いま現に生じつつあるものも、すでに生じたものも、未だ生じていないものの、決して生じない。いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないものについて、このように説明されている。
一五 この<現在生じつつあるもの>が<生>のうちに現れ出ないときには、どうして他方において<生>に縁って<現在生じつつあるもの>というものがあるといわれるのであろうか。
一六 縁によって起こるものは、なにものでもすべて本性上やすらい(寂静)でいる。それ故に<現に生じつつあるもの>はやすらいでいる。<生>そのものもやすらいでいる。
一七 もしも何らかの<未だ生ぜざるもの>がどこかに存在するのであれば、そのものは生起するであろう。しかしそういうものが存在しないのに、どうしてそのものが生起するであろうか。
一八 もしもこの<生>が<いま現に生じつつあるもの>を生ずるのであるならば、その<生>をさらにいずれの<生>が生ずるであろうか。
一九 もしも他【の<生>】がこ【の<生>】を生ずるのだとするならば、そこで<生>は無限遡及となってしまう。またもしも不生であるのに生じたのだとするならば、一切はみなこのようにして生ずるだろう。
二〇 要するに、有(もの)が生ずるということは、理に合わない。また無が生ずるということも、理に合わない。有にして無なるものの生起することもない。このことは以前すでに論証しておいた。
二一 <いま現在消滅しつつあるもの>の生ずることはありえない。しかるに<いま現在消滅しつつあるものでないもの>はありえない。
二九 一切のものの生起が起こりえないときには、同様にして一切のものの消滅することも起こりえない。
三〇 まず、有であるものの消滅することは起こりえない。何となれば、【あるものが】有であってしかも無であることは、一つのものにおいては起こりえないからである。
三一 無であるものの消滅することも、また起こりえない。あたかも第二の頭を切断することが起こりえないようなものである。
三二 消滅するということは、それ自体によってはありえない。消滅するということは他のものによっても、ありえないようなものである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9507454 中道とか、中論の去りつつあるものは去らないとか、
オレのもっとも得意な部分なんだけどね。
それをあえて挙げてくるとは、大恥晒すことになるよ? >>134
どうぞどうぞ。
どういう展開になるのか私も興味が出てきたのでそのまま続けてください。 >>135
いや、おかしいでしょw
自分は何一つしゃべってない
ただコピペしてるだけ
言わんとしていることでさえ明らかじゃない
あたかも中身が無いのがバレるのを
恐れているようだ
にもかかわらず、どうぞどうぞってw まずコピペを挙げて、何が言いたいのかハッキリさせないと。 だからね、この人は、中身も分からないくせに、
コピペで知ったかする人なんだよ
なんか雰囲気似てるな
カムイと >>137-139
>>128
>実体がないのに縁として生じたり滅したりするのは、言わば不生の生ということです。
で納得がいかなかったようなので
>>125
を更にアップしたということです。
それでも納得されないのなら、不生不滅について般若経や中観ではどう見做しているかの文を更にアップしますか?
あとそれから、あなたが中論を使ってどのように私に大恥かかせてくれるのか興味があるので、そちらを是非進めてください。
私にとっても学ぶことができる機会でもありますし。 あなた、言ってることをはぐらかしてるよね?
何が言いたいのか、キチンと説明しなよ
ここまで来ると、気持ち悪いな たぶん、おそろしく短絡的な発想で反論してると思うけど、
我々凡夫の世界では、生滅があるんだよ
それはなぜかというと、実体がないから。
実体がないから、常住ではない。
変化変滅するわけ。 >>53
もし、不生不滅の常住のものを、実体がないと言ってるのなら、
とんでもない間違いなわけ。
いうなら、不有不無だ。
実体がないというのは、幻に対してだけだ。
元々無いものだから。
だが、これを如来とか、そうあうものに言ったら大変なことになる >>142
だからそれが不生の生ということ。
中論の第一章にも冒頭から書いてありますよ。
もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他者のものからも、【自他の】二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。
とね。 如来が幻で無いと言ってるのも同じ。
片方で不生不滅といって相対分別を越えながら、
もう片方で、実体が無いと囚われてる。
もうほとんどカムイだろ?
発想がまったく同じだわ >>143
「中論」第二二章 如来の考察
一一 「空である」といってはならない。そうでなければ「空ではない」とか「空であって空ではない」両者であるとか、また両者ではない【空でもなく、不空でもない】というであろう。しかしそれらはいずれも、仮説のために説かれるのである。
一二 この静まった境地(寂静)について、どうして常、無常などの四句が成立するであろうか。またこの静まった境地について、どうして、有限・無限などの四句が成立するであろうか。
一三 しかるに如来は存在するというあつい執著にとらわれている人はニルヴァーナに入った如来についても「如来は存在しない」と考えて妄想する。
一四 しかし如来はそれ自体としては空であるから、この如来については「死後に存在する」とか、あるいは「死後に存在しない」とかいう思索は成立しない。
一五 戯論(形而上学的論議)を超絶し、不壊なる仏をいろいろ戯論する人々は、すべて戯論に害されていて、如来を見ない。
一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
※では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530025
あなたが得意としている中論には、如来はそれ自体としては空であり、本質を持たず、それはすなわち我々の経験している世界と異ならない、とありますが、それについての異論などはあります? >>145
不生というのは、一切の法(存在するもの)はそれ自体として(自性として)は生じず、縁によって生じるものだから不生としているのですよ。
(不滅も同じ)
あなたも昨日の午前中のレスではそのように書いていた感じ(実体がないから生滅がある、だったかな)なのでご承知とは思いますが、念のため。 だからお前さん、勘違いしてるんだわ
中論が言いたいのは、幻に実体がないってこと。
実体がないことを証明しようとしてるんだよ。
おまえのは逆だ。
だからおかしな文章になる
中論は結論を先に持ってきてるんだよ。
始めの文は。 実体がないから生滅がある、ということは、反対に言えば、
常住であれば生滅がないってことなんだよ。
わかるかな。 >>144
>もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他者のものからも、【自他の】二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。
これに相応するお経
「友サーリプッタよ、老死は自作(じさ)であろうか、それとも、他作(たさ)であろうか。あるいは、老死は自作にしてかつ他作であろうか。それともまた、自作にもあらず、他作にもあらず、因なくして生ずるものであろうか」
「友コッティアよ、老死は自作ではない。また、老死は他作でもない。あるいは、老死は自作にしてかつ他作なのでもない。あるいはまた、自作にもあらず、他作にもあらず、因なくして生ずるものでもない。
ただ、生あるによって老死があるのである・・・友よ、それは、たとうれば、二つの藁束は相依って立つであろう、ということである。
・・・もしそれらの藁束のうち、そのいずれか一つを取り去ったならば、他の一つは倒れるであろう。・・・(南伝 相応部経典12-67 藁束)
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70603.html
ちなみに、この藁束以外にも相応部12-17で同じような問答がブッダと外教のアチェーラ・カッサパの間で見られます。
因縁相応 11 アチェーラ(阿支羅)
http://pipaltree.blog.shinobi.jp/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87%EF%BC%88%E7%B8%81%E8%B5%B7%EF%BC%89/%E5%9B%A0%E7%B8%81%E7%9B%B8%E5%BF%9C%2011%20%E3%82%A2%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9%EF%BC%88%E9%98%BF%E6%94%AF%E7%BE%85%EF%BC%89 >>148
私がどこで実体があるようなことを書いているのか指摘できます?
>>149
中論24章ですかね。
そこで説いてるのが不生の生ですよ。
それ自体としては不生不滅であることこそ中論の最初の帰敬序にて説かれていますね。 >>148
>中論が言いたいのは、幻に実体がないってこと。
その中論では、如来も幻で実体がないとしている、でよろしいですね? >>150
うん、だから、それは因縁生起のことなんだわ >>152
幻とは、因縁生起したもの
相依性によって成り立つもの。 自性が生まれているように見えるけど、
実際は無自性なんだ、ってことが言いたいわけよ >>153
一切法は※一応因縁生起であるが故に、自性として、他性として、自性と他性の合作としては生じたり滅したりしない、これを不生不滅と般若経典群では呼んでいるわけですね。
そして相応部との対比で察せられるように、ブッダの教えにやはり忠実です。
※一応と書いたのは涅槃は無因の果ですから、因縁生起とは違うとも思えます。
とはいえ、
もしも【五蘊、個人存在を構成する五種の要素を】取って、あるいは【因縁に】縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる。
とも25章で説かれていますけどね。
その涅槃が作られたものではない(無為である)ことも説かれていますけど。
とはいえ、作られたもの(有為法)までもが成立せずに、有為が成立しないから無為も成立しないともありますが。
やはり涅槃を含めた一切(一切法)が空ですね、中観では。 >>155
ええ、ですから最初から私もそう言ってますよ。
>>125
さて、結論が見えてしましたのでそろそろ寝ますね。
明日(正確には目覚めた後か)も因と縁で良い一日中にしていきましょう。 あのね、不生不滅という時は、常住であるものに対して言われるものなんだよ
悟りの世界に対して言われることなの。
悟りの世界が実体の無いものだったら、
それも幻ということになるよ。
実体が有るとも言えず、無いとも言えず、が正解なんだよ
これはつまり、思考分別を越えて常住であることを言っているわけだけど。 今これ携帯から打ってるので思うようにレス出来ないけれど、
規制が取れたらもっとちゃんとしたレス出来るよ
こんなの。 >>160
スマホにしろ〜 今時携帯はやめてスマホにしなさい! もう朝か?じゃあ寝るかあ、カムイくんも早く寝たほうがいいぞ!早く寝ろよ 努力、忍耐、求道
こう言うものがあったら只でないんで只管打坐ではないと言う者がいる。
これが無事禅。
そうではなく努力、忍耐、求道の塊に成り切って落ちた所が只管打坐。
無事禅は菩提心を腐らす。 カムイくん、ナルシズムのままの無事禅だよ、
君は自覚ないかもしれんが
笑 公案の答え、が悟り、である。
よってして、カムイは永久に悟れない。
大爆笑である。 これを端的に言うと一心不乱
さて一心不乱に仕事するか 最終的には力が抜けた所の一心だけど、力抜いたらすぐそれちゃうんでね。 >>159
無分別智ですね。
中論では十八章の次の偈が有名ですね。
「中論」第一八章 アートマンの考察
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529993
諸法の実相は不生不滅であることについては、こちはの浄土真宗の小川一乗さんの論文もご参考にどうぞ。
「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解
(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/052.html >>161
スマホのこと携帯って言ってた
非常にやりにくい >>171
だから、自分で暴露してんじゃん
諸法実相が不生不滅なんだろ?
真理が不生不滅なんだろ?
なんだよ、実体がないから不生不滅って?
やはり予想通りだった。
用語の意味を理解してないし、こっちの言葉を浅はかにとって、
反論しようとしてる。
だからコピペ主体じゃないと出来ない 徹し切ったら何もないになるんだよ。
徹し切らないうちは分離してるから何かあるなんだ。 >>173
諸法実相とは諸法空相のことで、早い話が諸法には実体がないということです(笑)。
そして
「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解
(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/052.html
これも読まずにレスされたようすですね。
さらに、「空」について、仏教が陥った大きな誤解を取り上げますと、「不生不滅の法性」ということが、特に中国仏教などで言われるようになりますが、そこでは「縁起は無自性・空である」という龍樹の思想が誤解されてしまっているようです。
それはどういうことかと言いますと、すべての存在は縁起しているものであり、縁起しているものは常に生滅変化しているが、その縁起的存在の背景には、その本質として生滅変化することのない不生不滅の真実が実在し、それを空性だと勘違いしたということです。
そういう不生不滅の真実在があると考える誤解です。
そのような誤解が、龍樹が厳しく批判し否定してきた阿毘達磨仏教において形成された実体論となんら変わりのないものであることは、いままでの説明で明らかであり、重ねて説明するまでもないと思います。
(以下略)
では、私はあなたが龍樹や上の論文にどのように反論するのか、あるいは反論せずにそれらを認めるのか、様子を拝見致しますね。 アホだなあ
諸法が空相という時は、諸法が空なんだよ
だからこそ、実相が出て来るわけ
この時に、ありのままの諸法がそのまま実相になるんだよ
実相の内が空っぽだから、空相というんだよ
おまえ、浅はかすぎる
オレの言ってることは後で必ず裏づづけが出てくるぞ。
さっきみたいに >>173
えっ、カムイのスレが議論スレになったw
たしか、法華経に仏は不滅。
仮に滅、不滅を説く。
実相から見れば、不滅。
実相は金剛般若経にもでてくるし、
中論にもでてくる。
私か言っている、永遠の今は、
鎌田茂雄氏が、法華経を評して、
永遠の命と言った。
それが即今とかさなって、いつの間にか永遠の今になった。
まあ、勘違い。
今しかないしw
過去不可得未来不可得現在不可得。 173
宛先間違えた。
ごめん(>_<)
一人ごと。 今をつかんだら、今はないしなw
今をつかむものは、今をつかまない。
今をつかまないものも、今をつかまない。 >>180
サムイくんの登場です。
クソの後始末ぐらいしましょう。
猫だって、穴掘ってクソをするんだからw >>177
>この時に、ありのままの諸法がそのまま実相になるんだよ
>
>実相の内が空っぽだから、空相というんだよ
諸法実相とは諸法空相のこととあなた自身上の引用で仰ってるじゃないですか(笑)。
たしかに裏付けしていますね、諸法実相とは諸法空相であることの裏付けを。
中論でも
「中論」 第一三章 形成されたものの考察
七 もしも何か或る不空なるものが存在するならば、空という或るものが存在するであろう。しかるに不空でないものは何も存在しない。どうして空なるものが存在するであろうか。
八 一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。しかるに人がもしも空見をいだくならば、その人々を「何ともしようのない人」と読んだのである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9507743
と説かれているところです。
どうやらあなたとこれ以上レスの応答を続けても無意味なので、もう終わりにしますね。
もしこの板で流行っている論破とかいって勝利宣言としたいのならご自由にどうぞ。 カムイ君だったな、サムイ君って言っていたら、カムイ君を名前を一瞬忘れてしまった。
やば、鶏の頭になってきた。 終わりにしようとしたけど一つだけ
>>177
>諸法が空相という時は、諸法が空なんだよ
>だからこそ、実相が出て来るわけ
この言い回しはおかしいですね。
是諸法空相(般若心経)
もしも何か或る不空なるものが存在するならば、空という或るものが存在するであろう。しかるに不空でないものは何も存在しない。どうして空なるものが存在するであろうか。 (中論)
「諸法が空相という時は、諸法が空なんだよ」はではなくて、「諸法の実相は空である」ということです。論理としては順番が逆です。 実体がないから消滅する
これが色だ
実体がないから消滅しない
これが空だ
色即是空なんだからこれら一方を言い合っても仕方ないんだよ。
簡単な話だ。 悟っていない馬鹿野園が言うバカである。大爆笑である。 >>185
どこまでもバカだなあ
実相が出てくるってのは、中身がどこまでも空っぽになるからだよ
入れ物だけになるってこと。
そんで、その入れ物はどこまで行っても空相なんだよ。
ただコピペばっかりで、他の所を全然やってないで議論しようとしてる
浅い考えでくるから、浅い解釈の揚げ足とりのようなことしかできない 有部では不変不滅の実在するダルマの組み合わせによって変化(生滅)が生じると観ていたのに対して、般若思想では法空、いやいやそもそもそんなものは有りません、無いから不生不滅って主張したんでしょ? >>188
なんであなたは人の解釈をそのまま証拠のように挙げるの?w
今ここで経典の例をあげることも出来るけど、
思考分別を対象にした教えと、それをこえた教えの区別がつかなければ、
全く仏教の本質は理解出来ないよ >>53
>実体がないから生じるものも滅するものもないか
これ、とどのつまりバカムイはなんも解らんで部分抜粋的に放言してるだけなんです。
これはあくまでも、有部に於ける存在の分析としての法有に準拠する生滅変化に対する、般若思想の法空という文脈での不生不滅って紐解かなければならない問題なんですよ。 >>194
以下の文をこの宗教板で紹介したのは私ですけど?
↓
諸仏の説法は、二諦によっておこなわれる。
世俗諦と勝義諦とである。
これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
(龍樹 「中論」) ダルマを不生不滅とみていた。
過去から未来まで、ダルマが常住として各々存在し、交代していくわけだ つまり、不生不滅というのは、あくまでも有部の法有・生滅に対する対治として方便という枠で問題に収めて置いた方がいいと思いますよ。 >>198
>ダルマを不生不滅とみていた。
有にして不変の実在って事でしょうね。
それの組み合わせによって生滅変化が起きるというのが有部の分析ですから。 そう、生滅や不生不滅が真理というよりも、その様にダンマ(法)が顕れているって事です。
そしてそれ(諸法)は空相ですよ、と。 そう、だから中論の文章は、有部のダルマから生じるという説に対する反論であって、
一方で、相依によって生じていると言ってるわけでしょ
常住と幻、どちらに対してなのかを分けないと、おかしくなる 間違ってはいけないのは、植えであげた中論の部分だからね
反論のための。
一般的に不生不滅という時は、真理に対してだよ ちょっとここでゴタゴタやってても揚げ足とりされるだけなんで、
引用もなにもやりにくい状態なんで、あとでまたやろう 210.反省しないバカ丸出し、である。
反省猿を見習う、が良い。
大爆笑である。 コップがいつか割れてなくなる。
これも真理なんだけどね。
まぁいいや >>208.212.真理、なんてものは無い。
バカには理解できない。
大爆笑である。 >>183 自己レス
>七 もしも何か或る不空なるものが存在するならば、空という或るものが存在するであろう。しかるに不空でないものは何も存在しない。どうして空なるものが存在するであろうか。
しかるに不空でないものは何も存在しない。
→ しかるに不空なるものは何も存在しない。
引用元の検証をせずそのままペーストした私のミスでした。
これで一切は空であるので、諸法の実相は空なのです。
それを観察するのが空観という直観になりますが、空観しようとしまいと諸法の実相が空であるのは変わりません。
仏教では人は元々無我であり、瞑想によって無我になるわけではないというのと同じです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています