上述の通り、この本覚思想は、衆生の誰もが本来、
如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、
生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れていき、
自分が仏と同じ存在であることがわからなくなる、ということである。
もちろん、これは無明と共に輪廻が始まるとする釈迦の教説とは
全く相反するものである。

しかし、この本覚思想は、時代を経ると後々に他の教理と関連
付けられ、新たな解釈を生むことになる。すなわち、人間は誰もが
悟っているのだから修行する必要もなければ戒律も守る必要がない
、凡夫は凡夫のままでよい、などという急進的な解釈がされるようになった。