無上正等正覚を開くためのスレ
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悟りは全くの個人的体験です。
そして悟りは仏教者の身の上にのみ生じるわけではありません。
早い話、お釈迦さんは一度も仏教徒だったことはなかったのです。
ブッダは仏教がなかった時代に覚りを開き、
以後ブッダが出てなかったとするなら、
歴史上の仏教は、仏に成れる教えではなかったと言えるかもしれません。
末法の世に再び成道してブッダと成るために、どう実践すべきか
正しく思惟し、
即実行に移す人のスレです。
またブッダに立ち還り、大衆部を再興します。
「末法には、ただ名字(みょうじ)の比丘のみあり。
この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。
末法の中に持戒の者有るも、すでにこれ怪異なり。市に虎有るが如し。これ誰か信ずべきや」
『末法燈明記』
五蘊非我と阿吽(菩提心と涅槃)
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010080000/ またブッダがウパニシャッドの伝統を完全否定したというのは誤りである。
生前、梵我一如に到れぬ者は死後も到れぬと説かれた経もあり、それに矛盾する分別論者の説こそ捏造であろう。
古代インドの否定者がヒンドゥーで神とされることは実際問題として
有り得ないのだ。 感覚は実在しない
肉体(もの)を実体視する意識もカルマ(行)も想念も実在しない
五蘊は皆、仮初のあらわれであり、亦いかなる執着も 真実には
存在しない。
執着など実在しないのに
何ゆえ、そのような思いを為してるのか?
執着する心じたいが、そもそも
幻だというのに >ブッダの境地にも
ブラフマンにさえも達してないものが、あーだこーだ我見垂れ流してもね
>マッジマを引用した意図が俗信否定ではなく、インドの伝統全否定
であるなら、テーラワーダや南伝信奉者はインチキ
>ブッダ以前にもブッダはいたし、無数の解脱者が出た。
シャキャムニが最初ではないし、涅槃の境地に達した者がいなかった訳でもなかろう
マハルシの言ってることはニルヴァーナを知る者の話で、ヒンドゥも影響されてるにせよ
近世の仏教徒にはあのレヴェルは皆無だ 南北の共通解を求めれば悟りがわかるなら、そんな簡単な話は無いが、そんな生易しい話でも
なく、現実には多くの坊主が苦海に呻吟し、邪説垂れ流し、仏教を利用するあくどい
ビジネスに精励する有様だ。また「我」についても、理屈や論で真理を体得できると
いうものではなく、解脱涅槃を知らぬ妄執の輩のアプローチは誤り
>それから当方のブラフマンは有・無・空とかじゃなく、
「中」の道なり。
また妄執の輩など低能浅学者の軽卒なる中理解とも
異なるもの であろう 195神も仏も名無しさん2020/11/24(火) 11:46:14.83ID:XC+2sMwI>>196>>201
あと南伝系、テーラワーダにしろ、日本の大乗系にしろ、インド思想も
きちんと学んでないのに、なんでわかったフリして梵我一如を否定できるのか? 敬意を
払ってるのは、インドにいるダライ・ラマくらいで、ブッダは本来バラモン教で修行した人。
元を辿らねば、実はわからん事がある。
201神も仏も名無しさん2020/11/24(火) 11:55:10.09ID:Yi8bBlCS>>203
>>195
釈尊がアンアートマンと言ったので
お約束として「梵我一如」が否定されているだけで
実は、形を変えて「梵我一如」が肯定されている。
唯識では、「我」が「阿頼耶識」と言い換えられ数々の複雑な過程を経て
転識得智されて「大円鏡智」となるし、
禅でも無分別になって、すべてと一体化すると悟りとなる。
つまりは「梵我一如」や。
念仏でも最終的に「自然法爾」が説かれている あまり一般に知られていないが
>初期仏教が否定した三定型は
・etaM mama, それはわたしのものである
・eso ham asmi,それはわたしである
・ eso me attAそれはわたしのアートマンである
つまり真我じたいを否定したのではなく、それへの執着ですね
それなら、現代の南伝も日本の諸大乗も全て自分らの「見解」に執着してる訳ですから
ブッダの戒めに背いているのは同じで、醜いことです。 誤解したまま突っ走る者が出たとしても、それは致し方ない。
現に仏教は
分別説部以降そうなってしまってる いわば
ガラクタだ 低能疹言が粘着する仏教の領域に真理は無く、
ヒンドゥにだけ残されてるか
仏教から影響したかで、向こうには真理の痕跡あり
ってだけだろ 低能粘着在家真言は何も理解出来ないww
低能疹言が粘着する2個は、双方ともデタラメwwwww
デタラメ同士の共通項は、やはりデタラメwww デタラメから真理を狙う根性が
そも誤り コピペで煽るその手法は高野山スレの粘着荒らしだろ? 47こそ自演工作魔の凄い嘘つきです。
皆さん騙されないよう!!! 低能疹言よ、オマエは只のゴキブリに過ぎぬ。
オマエが他人さまを洗脳制御する因縁など
何処にも存在せぬ
のだぞ。 釈尊も魔を破り成道された。「我」もまた魔を破るのである。
本日の あぼ〜んID:C1alQJJA 超粘着自演魔で、5chで嘘ばかり書き連ねております。
駆除しなくてはなりません。真言僧だの在家信者だの偽装しますが、孤奴は煩悩多き
只の魔に過ぎません。 信徒になってる、もしくは信奉してる宗派はあるん?
それとも仏教以外? そなたが梵天さまであるならば
法を説く事を
検討いたしましょう >>53
あ、それは無記です。
無駄な質問はしないように。しかし、もし覚れる者なら、四諦を説きましょう。
吽 法 本日分その1
何も説かれていないのに 特になし と解釈し、
それを書き記す。それが全ての誤りの根源である。全ての経典は、このようにして
編集された物である。 法 本日分その2
先に「覚れる者なら」と書いたのは、悟るのが可能という意味であったのが、聴聞者に
よっては、「既にさとったもの」と解釈したりする。このように言語には多義性があるため、
常に誤解が生じる危険を孕む。 >>60
それはおかしいのう
文脈からして、「可能」の意味ならば「覚られる」としなければバランスがおかしい
ら抜き言葉がいきなり入ったと普通は読み取らない 法 本日分その3
有るか無きか、それは言い切る意味を欠く場合が多く、強いて述べれば空であり、また
そうした断定に執着し拘ることは人の進歩を阻害する。また有無空を超えた
中の道を如来は説くのである。 法 本日分その4
言葉には日常、形式ばらずに使われるものがあり、二千五百年前においてはマガダ語
であったかも知れん。そのように自身の言語観を他に強制する精神的態度こそ可笑しく、
そのようなものは異郷に行ったら相手にされないであろう。 それも無記です。このあと来客がある予定なので本日ここまで。
もう誰も手をつけぬスレを見つけたので以後そちらで問答は
(時間があれば)行う予定です。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1595466910/l50 人間には二種の自分、脳があるということに気付かないと無我や真我もわからないのだ。
一つは普段、誰もが意識する利己的自我、もう一つが如来を蔵する真の自己であり、
無我とは、まず利己的自我を綺麗に無にする事で、これは禅などでもやられてるようで、
正定であるなら仏心が自然と光輝くのである が、もし光輝かないならば、
それは正しい実践ではないということなのであり、さらに言えば、
常日頃の日常生活において、正念正智・正見などの八聖道を修めねば通達するのは
難しいとも言える。 大乗で教えてることにも理はある。
道を成すための戒めと精神統一と智慧・・・
その修行を完成させる上で、忍辱波羅蜜といわれるものは
大変大事であり、
現代の方は、この忍辱が足りない
すぐ幻想でしかない自我の要求に屈し、忍辱することを放棄する
忍辱とは我慢ではない
離欲し、正しく仏道を成就するために
五禅支の喜を生じつつ
現実の困難や魔の誘いより心を固く守って耐え忍ぶことである >>64
やっぱり語尾Wかよ? 笑
スッタニパータがマガダ語で しかも書かれていたとほざいて証拠を出せなかった基調害だろ? 法 26日分 その4
自分の見解にのみ固執し、その狭い経験の中で知った無関係な者の行動を
別の者に投影する。悟っていないことは表明しながら、何でもわかったような気
になり迷う。それこそ妄想の輩と呼ばれるべき無明の凡夫である >>68
人間には二種の自分、脳があるということに気付かないと無我や真我もわからないのだ。ー
ふむ、なるほど👀 そうなんですね、
ヨガ的に言うと、真我とか言う輝く真の自己が、脳に位置する理智と意思を観ているってことですね。
頭の理智と意思と胸の我執は生命を持っていないとヨガでは言われているので、真の自己の輝ける光明で、サーチライトの様に照してやらないと、と言うことですね、
そしてその光りは、5つの感覚器官を通って器世界を照して、世界を創造し、反射して、再び真の自己に返照して返って観られるってことなんですね。 我は、人が清らかになる道を説いたのであるが、いまの世では、それを忘れている者が多い
偉くなることは穢れることである。偉くなろうとすることは、心を汚すことである
ましてや偉くなるため出家する等、仏道では無いであろう。阿闍梨などという制度は意味が無く、
何も伝わらない 『バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると
考えるな。
それは単に外側に関することであるからである。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、
実はそれによって浄らかさを得ることができない、
と真理に熟達した人々は語る』
(サンユッタ・ニカーヤ) 阿闍梨って、インドのアッチャリアの漢語でしょ、師って意味よね、先生ってこと、 法の器としての甕に穴の空いた阿闍梨もいる。亦この国では、太平洋戦争前から
大した修行もさせず、2〜3年で阿闍梨位を与えるところが出て来た
真言宗でも十巻章も読んでないようなのにね。また器が壊れた外道の者が伝える法には
内容が無い 末法の世だからね、批判してもしょうがないよ、
自分が釈尊のように、仙人や聖師に逢って、教えを乞うて一段ずつ進むしかないよ、形だけの師と本物の師を自ら選別できるかどうか?また仙人、聖師と縁を持てるかは自己の因縁と志しと誓願にかかっているから、
仙人、聖師に直接逢うことが大事だからね、自ら悟れる人は甚だ少ない、殆んど縁によっての導きが無いと難しいでしょ、
本でも経典でもそう、其々に必要な本経典に出会わなければ、先に進めないようになっているから、
密教なら先ず弘法大師に倣って、求聞持法を成就して、一切経典を全て理解出来るように成ってから、
現代に於いて、釈尊から霊示をうけてneo求聞持法として授かった仙人がいて、その方から教えをうけた人が5チャンでやり方開示してたから、探してみると良いよ。 そうした見解じたいが思い込みに縛られた見解の表明であり、
我見なのであり、
他人に対しては洗脳にもなり得る誘導で、さとりから
逸れている 少なくとも、この板に来る真言宗オタクの場合は、
狂信者の非常に悪い一例になりますので要注意です。
そうでないと言い張るならば、リンクを貼って誰もが納得するように
説明してください 涅槃というのは、正定の実践によって当人が観じなければ
知ることができないことかもしれず、理屈で議論すべきことではないです。
ブッダの方法論の一つは「無我」を感じる、五蘊非我、戒めと精神統一(止)、
智慧(観)をコアとした八聖道です。
精神統一(止=一点集中の瞑想、一境性単独状態の禅定)だけでなく、観が大事。
観とは、智慧により思索し抜く瞑想です。 >>77
何を読んだかじゃなくて何を理解したかだろ?
坊さんだって解らん人はとことんズレ照るしな >>77
何を読んだかじゃなくて何を理解したかだろ?
坊さんだって解らん人はとことんズレてるしな >>78
おい 知ったか
密教でも求聞持法は非器の者が挑むと気が触れると言われてて 全ての僧侶が挑むもんじゃ無いぞ
虚空蔵菩薩の真言を一遍読むのに何秒係るか計って それから一日一万遍念誦するのに何時間必要か計算して それを百日続けるのがどういう事か理解してから言えよな
師僧からの伝授と許可無しにやったらおそらく失敗するぞ
前行やらなんやら厳格さと強靭な意志と体力も必要だしな >>81
真我論を唱えた狂信者はお前だろ? 笑
仏教では絶対的な有と無は共に邪見だし 我に対してもそれは同じ
そういう話を聞いただけで独行者だと判るし 密教では独行は罪なんだが それも知らんのだろ?
悪い事は言わないから止めとけ 独行に成功したかの様に言われる空海だって必要な伝授は受けてるぞ
あんまり自惚れて舐め腐ると 死ぬほど後悔するぞ 83−86ハ悟ってないと自白した破戒の輩で、世の人を迷わせています。
無視しましょう
相手にする必要などありません 83−86の工作続ける凡夫は
真言宗の評判を失墜させるものです。意図はないと弁解してたようですが
結果的に、誰もが狂ったものが信じる寺には近づかなくなります。結果的に
人々を遠ざける結果となります。 傍目から見て自己紹介になってる事に気付かない狂人
いと哀れ 89こそ狂人であり、粘着続ける工作員です
誰も真言宗など信じなくなるでしょう
私も、擁護することはありません 頭の病なのです、彼の者は、
Drにまかせるしかない そうだな 狂った奴と欲ボケや不信心は真言宗とご縁が無いか有っても自分で駄目にして行くもんな 笑 それから91は嘘ばかりつき、言い訳のみする輩で粘着癖が強く、
関わると汚されるおそれがあるので無視するように。
2500年前も魔は修行者につきまとったもの
である その奇妙な魔の言う話は全て、その魔自身に属する事柄を恰も相手
のことのようにすり替えて書いてると思うがよい
実に在家の真言などを偽装するものの本質とは
そのようなものである。 >>93
おいおい、釈尊かどこぞの開祖にでもなったつもりですか?って言うかさ、経典とか読みすぎて、その語調に染まり切っておらんかね?もちょっと普通に話せんの。 君って、友人と話しする時も、そう思うが良いとかやるんの?侍じゃないんだから、って言うか君さ、タイムトラベラー?過去からの、 横からじゃが、それはおそらく聖者さまが自性輪を転じてるということではないかな。
また菩薩としての正法輪身をあらわしたり、
下品の邪悪のものには教令輪身をあらわして教化するというのがあるようだな 聖者様にご紹介いたす。
油井真砂禅尼述 「信心と坐禅」にてござりまする。
https://www.cbeta.org/node/5388
御覧下さりませm(_ _)m スリランカもそうだが、大乗発展以前の部派も真我や無我の解釈がおかしい。今の真我否定者の真我理解が錯誤である。
現代言われる真如や一心と同じ意味で捉えて問題ない。五蘊を越えた世界なのである。
所謂、大乗におけるそれらの文言は、行き過ぎた無我観の修正としての意味もある
4ニカーヤと呼ばれるものは、かなり変形されたものである。 >>100
そうですね、存在が有・無で裏表なら、我・無我も裏表でしょうか?
我でもあり無我でもある、
例えば、ラーマナ・マハラシやニサルガダッタ・マハラジは「I AM」私は胸にありそれが真の我だと言っていますね、
禅でも無❗とか無心、無我と言いますが、「本来の面目」とか「一無位の真人」等と言い、何者かを設定しています、
ラーマナ・マハラシは真我とは「貴方の見ている世界全てが真我である」と述べていて、何か個では無いものとしているようです。 無我や非我というのも方法論を示したものであるから誤りではないが、語ると逸れてしまう。
だから語るべきでない。現代ではチベットに生きてるもので4割正とし、
スリランカ方面だけに独自にあるピュアな部分5%、日本の密教にある佳い部分2%
と見て、あとマハルシや古代インドよりの佳き伝統2割程度として7割復元可と
観察できる 真我が有るなら何から解脱するのかね?
物事を解体すればそれは空性にしかならず 有我無我を識別する基準は無い筈だが? >>103
実物は在るよ、良く存在とか言われてるの、仏教的な解釈だけでは本質は掴めないよ、特に唯識はマナ識に対してアラヤ識を立てるけど、
ヨガでは我執(マナ識)を挟んで貯蔵庫で、大我執(アラヤ識)と真我(真の鑑賞者)の3つをたて、真我の上にブラフマン(宇宙的存在意識)をおきます、
そして、臨済が言った面前を出入りする生き物(悟りの当体)と、展開する世界をも含めたものを真我とするのです、般若心経はこのことを言っています、
素領域理論でも同じことを言っていますね、自分の見ている世界はその個人だけの世界空間であって、それを素領域と言い、その素領域は他の素領域と部分的に重なりながら全体の無限個の意識空間の塊を形作っていると、
サーンキャでも無限個のアートマンの総体がブラムマンであると言ってて、同じです。
金剛般若経の否定の否定とか、最後の最後に解るのが、存在そのものを在らしめる「多次元空間=多次元意識」この空間だけでは無いので、光と同じこと、紫外線赤外線は目で見えないが、それ用のカメラでは像として映ります、同じ理屈で色界の上に無色界が説かれていて、それが多次元宇宙です、
そして、釈尊の悟ったものとは、この多次元宇宙を在らしめている、一つの空間意識であって、これを神の命、大生命とも言います。
非常に広大で深く高い無限ではありますが、空にして無でもあり、名状しがたいく、これを如とし、如来と言います。 >>104
原始経典のサイトで報身や法身からも解脱すると説かれた訳を読んでからは考えが変わってね
三身を知った上で更に解脱するというのは因縁の完全解消で存在の解体なんじゃ無いかと
法帰依 自帰依と空帰依は同義なんじゃないかと思えてならない
苦悩の主たる我が消えれば それ以上苦と縁起しないんじゃないかな? >英語圏でもパーリ仏典全体が歴史的なブッダの言葉だと言い張る研究者がまれにいますが、
パーリ仏典が上座部大寺派というスリランカの一派の伝承であって、
それ以外の派には別の仏典伝承があったことは疑う余地がありません。
現存パーリは異端の流れ、
と見る立場もあるようだよ。
釈尊その人の言ってたことから離れてしまっている、と。 パラマハンサ・ヨガナンダ 言葉
https://ameblo.jp/zen-is-right-here/entry-12224089778.html
これを読むとヨガナンダは苦しみは私たちのうちにある神(アートマン)によるものではなく、神自体はもちろん神ですから苦しむことはない。
その神に気付かず無知であるが故に神ではなくエゴを自分自身と思い込んでしまうから苦しむ。
苦しんでいるのは実は自分自身ではない、ということを言われてるようです。
私たちの本体は神であるので実は最初から救われているし穢れてもいない、と。
これはヒンドゥー教の基本的な考え方で、ラーマクリシュナやマハリシやサイババなどの聖者も表現は多少異なるかもしれませんが中身は同じことを言ってたと思います。 >>106
まあでも漢訳の阿含とパーリでは経典そのものにはそれほどの差異はないですね。
増支部と大衆部の増一阿含経は大分違う所があるようですが。
三蔵では経典よりも論蔵の方に違いがより見られるのかもしれませんね。 >表現は多少異なるかもしれませんが中身は同じことを言って
る、とは全くその通りで、古代インドの或る部分も大乗も同じ事を説いていて、
また「空」も、ブッダ以前にとっくに説かれていて、だから「空なりと観ぜよ」で
空の講釈は省かれ、それでわからん部派が出た訳でしょう。 >>107
元々一切は全て救われてる、解決してる
これは、ヒンドゥー教が〜とか仏教では〜とかではなく
そもそもこの身心がそういう風になってる
それをそれぞれの宗教がそれぞれの表現や方法で示してるだけ
そう考えた方が良いね でも、ヒンドゥー教よりキリスト教より
仏教が最も徹底してる
これは恐らく間違いない
(ヒンドゥー教キリスト教を信仰してる人はお怒りになるかもしれないけど) >>109
ひょっとして、ブッダ以前に説かれていた空は、後の大乗にも繋がる空śūnya(欠いている、実体がない、空虚な、など)ではなく、無色界の空無辺処のような虚空ākāsaの方じゃないですか? >>111
仏教でもともと一切が救われているは念仏の中でも浄土真宗や時宗では?
生まれながらに仏は真言宗や禅宗などがありますがこちらは現世での修行を要しますね。 >>105
そこ読んでみたい、出来れば教えてほしいな、頼みます、
7つの身体ってご存じかなあ?「OSHOの秘教の心理学」に有ったんだけど、
第5身体が個としての霊性で、第6身体が宇宙的身体で、第7身体は身体ではなくニルバーナとあります、
三身は宇宙的身体からの展開でそれを超えるのがニルバーナ、という位置づけでしょうかね。 >>112
自分もそう思います、虚空は多次元空間で、大別して色界と無色界ですよね、チベット密教では色界を《外界》、無色界を《内界》と別けています、
外空、内空って自分は思っています。 >>110
そうだね、救われているとも言えるけど、自我の仮構が実在としての自己(真我、仏性)の檻としてある訳で、
真の自己が実在であるとすると、監獄から初めから救われていると言えて、その位置からは、囚われてもいないとも解釈できるのでは? ブッダは革命家ではなかった
自分は教祖ではない、という意味のことも言っている
思うに大乗とは、
ブッダという父とインドの伝統という母から生じた子供たちである
その中には
勝マン夫人のように、父親に説教する生意気な娘もいた
ブッダは革命家ではなかった
ブッダはインドの伝統を捨てた訳ではない
ただ覚りに到るための新たな方便を
全ての人へ向け提示しただけである >>116
この世にフォーカスしている意識=人にとっては、真の自己に目覚めることは、救われたと表現できるのは確か。 >>106
へ〜そうなんですか、パーリーは異端ですか、知らなかった。 「アーナンダよ、修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?
わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。
完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は存在しない。
「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」
とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし向上につとめた人は「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」
とか「修行僧のなかまはわたくしを頼っている」とか思うところがない。
向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。」 >>113
大乗仏教と呼ばれるものは基本的に全て一緒
「大乗」ってのは、「我」(私)も「法」(一切)も同時に成道する(成道済みであると気付く)からそう呼ぶ
それに対してなぜ「小乗」と卑しめるような呼び方されるかっていうと
「我」(という錯覚)を成道させようとするから >>116
大乗仏教以外のヒンドゥー教とかは
この自他が分かれた現象界(色)を迷いとか幻想として語って
その現象界を超越した真我や叡知界みたいなの(空)を悟りとか真の実在みたいに語る
大乗は、色即是空空即是色
この迷いのあり様が即悟りであり真の実在そのもの
真の実在の現れとしてのこの当たり前のあり様だと語られる 「君見ずや絶学無為の閑道人
妄想を除かず真を求めず
無明の実性即仏性
幻化の空身即法身」『証道歌』 >>123
真我から現象世界までツーカーになったら当然そうなると思うよ、良く言われるように、凡夫から見ると聖凡別れて見えるけど、仏から見たら差異は無くて、凡夫も未顕現の仏として見える訳でしょ、ただ煩悩から遠離していないだけで、
仏性という命は全く同じ。 >>124
ツーカーになるというか、元々一つのもの
だから真我も現象世界も認められなくなると
これを生死即涅槃とか事事無礙法界とか言われるんだろう
仏教が真我を否定するのはそういうこと 色界を超えて無色界に自在に出入り可能な境地に行くと、人間の目で見えない世界が見えてきて、それが現界とダブって見えるって言うよね、 精神分析では、人間の精神構造をイド、自我、そして超自我の3つの領域ないし機能に分けて理解するのですが、
こうした自我、イドは当然五蘊に含まれると思います。イドは「色」蘊や利己的欲求に基づく衝動を起こす根源で、
悪いことでもよくても無関係に、兎に角「やりたい」のですが、それに対し、自我はそんなことしたら捕まるとか
みっともない、とか自分のポリシーにあわないとか色々理由をつけて、行動を規制する主体で、或いは規制する
ばかりでもなく、現実原則に則って最終的に判断を下します。それに対して超自我は、
一応意識上に上る場合においては五蘊に属するのですが、そうした最善な命令を下す大元で統御する真の主体者であり、
観照者であり、それこそが頼るべき真我なのだと思います。
この真我は上記の低次元での葛藤など遥かに超えており、自帰依の対象になる真の自己で、敢えて言葉にするなら
「我はブッダなのであるから、そうした低級な欲に指図されることなど本来的に有り得ないのだ」といった感じになります。
しかし五蘊にいる自我に毒矢が刺さっていてイドより弱くなっていたり、自分という真我を信じれていないと
正しい判断ができない場合も有り得るのです。
このように考えると、誰だかのように
もし無我の境地で欲の言いなりになっていたなら大変なのです。 フロイトなど初歩の精神分析と大般涅槃経、五蘊非我などを繋いだ
「五蘊と真我の関係」でした。 5ちゃんねるに凄まじい量のレスをつける或るコテの方がいてー自称43歳で統合失調症
の方でーそうした書き込みをもとに分析したところ、真我が全くわかっていない方の心
の状態についてデータが得られました・
もちろん掲示板の書き込みが全て事実だと見るのは危険ですが、仮にそうだとした場合
の話で、しかし当人が病気だと主張するのが嘘でもなさそうだという見解への裏付けも
得られ、辻褄が合いました。 その方の場合、イドが凄く強い方だとわかりました。
また自我もイドの言いなりになっていることがかなり多いらしいというのもわかりました。
問題は超自我なのですが、心の中にある筈のスーパーエゴの出向者の席ー真我からのメッ
セージを伝達してくれる役割の人の座るべき場所ーが
何ものかに乗っ取られ、占有されている様子なのです。
そのためベストな判断をするための、真っ当なメッセージが全然受け取れなくなっています。
そうした邪魔者が居座り、占拠しているため、真我が統御できず、結果心の統合に
変調をきたしてる状態とも解釈できます。
ただ「ナンミョ〜」とか「釈尊が0を発見した」とか
うわごとみたいなセリフを発する”侵入者”が居座っているだけに見え、
それを毒矢とも呼べるかも知れませんが、脳の病気であるならば仕方ありません。
しかし結構筋の通った話を書くこともあり、動画の投稿もしていて、
聞いた感じでは失調状態との印象は受けません。ニコチン中毒、依存症はありそうですが。 >>129-130
それ、創価カルトや正宗だけじゃなく、
伝統宗教含め、所謂宗教依存症全般に当てはまる症状だぞ B五蘊非我 真我・涅槃
C八頌品
ブッダの言葉・スッタニパータ 第四 八つの詩句の章 1〜16 通読
https://www.youtube.com/watch?v=R884Fvj_Cgs
D見諦道、彼岸に至る道
ブッダの言葉・スッタニパータ 第五 彼岸に至る道の章 1〜18 通読
https://www.youtube.com/watch?v=VyUuiYoS6Fc E縁起(抜業因種心)
ブッダの真理の言葉 第1章〜第26章 通読
https://www.youtube.com/watch?v=cQ0Wp_yT3hQ
中村元 - 原始仏典 ダンマパダ の解説
https://youtu.be/i7TkouxAZI0
ブッダの言葉・スッタニパータ 第一 蛇の章 1〜12 通読 1時間15分
https://www.youtube.com/watch?v=F1d7GMocWOw
相応部経典・有偈篇(サンユッタニカーヤ・サガータヴァッガ)
「サンユッタニカーヤ」(雑阿含経)
https://youtu.be/7zSPvkoWQME?t=41
『テーラガータ』
『テーリーガータ』
ほか原始仏典 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています