無上正等正覚を開くためのスレ
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悟りは全くの個人的体験です。
そして悟りは仏教者の身の上にのみ生じるわけではありません。
早い話、お釈迦さんは一度も仏教徒だったことはなかったのです。
ブッダは仏教がなかった時代に覚りを開き、
以後ブッダが出てなかったとするなら、
歴史上の仏教は、仏に成れる教えではなかったと言えるかもしれません。
末法の世に再び成道してブッダと成るために、どう実践すべきか
正しく思惟し、
即実行に移す人のスレです。
またブッダに立ち還り、大衆部を再興します。
「末法には、ただ名字(みょうじ)の比丘のみあり。
この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。
末法の中に持戒の者有るも、すでにこれ怪異なり。市に虎有るが如し。これ誰か信ずべきや」
『末法燈明記』
五蘊非我と阿吽(菩提心と涅槃)
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010080000/ B【真我】に相対するものが【我執】である
Aの核心部分とは、我執を無くすことで、それこそが無我の意味なのです。
アナートマンの禅定の実践によって、五蘊という悪魔を克服したならば、自ずから
真我が顕われて来ます。それを仏性と言っても同じです。
おそらく真我否定的な解釈が述べられるのは、
誤訳か、わかってない方が講師の身分になったり、
仏教史のかなり前のほうで、その手のー善意か意図的かは別にしてー誤解、歪曲が
紛れ込んだものと思われます。
>弟子たちよ、生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
構成力から発生したのではないもの、が存在する。
もし、この生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
発生しないものが存在しなかったとすれば、生じたもの、成ったもの、創造されたもの、
構成力から発生したものを認識することができないであろう F三十七菩提道品・九次第定の実践 止(アナートマンの禅定)と観(智慧)〜解脱知見・神通智
Hまで、あと2つあります。 >初期仏教
>阿含の仏教では、人間の個体の全体を我である(@五薀が我である)としたり、或いは個体の内にあってその中心生命となるものを我である(A我は五種を有す)としたり、或いは宇宙原理を我である(B我中に五薀がある)としたり、或いは存在要素がそれぞれに固有な性質(自性)をもっている(C五蘊中に我がある)とするような有我説を否定する。
>後世これを二十句の有身見という。上の@ABCが五蘊のそれぞれについていわれるからである。またこれは我見〔@に当たる〕と我所見〔ABCに当たる〕とに分けられる。我所とは、我の所有、我の所属、我と離れない事物の意である。 もし、もっと生産的な視点があるとすれば、
ブッダに影響を与えブッダが引き継いだバラモン教との共通項、または
ヒンドゥに残っている真仏説
という観点ですね 真我と五蘊の自我は、全く別物なのである
真我は仏であり、五蘊は悪魔である
五蘊皆空とは、勝義の立場から、悪魔の儚さを如実に見て、その虚妄なる正体を
喝破した言葉である 三世の諸仏は
智慧方便によって
無上正等正覚を得た
のである 元が分別説部ですから、やはり弱いのです。
その上、ブッダゴーサの改竄で除名
さらに一旦途絶えて、散逸したのを数百年後に国外から拾い集めたものがパーリなので
すから、抽象度の高い記述は信頼性が低い ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される
名があらわれて色があらわれる
有名万物之母
精神が物質を作った 外側=物質界に囚われていたのでは心の平安=涅槃は無く、無常なる色に我は無い 肉体は我に非ず 開く も 得る も 悟るも 同じで世俗の言に差別あること無し 況や凡夫の一念三千をや。
シニフィエされた当体こそ大事。
大慈恩寺三蔵法師伝承徳三年点‐七「其れ斯の謂(イヒ)乎(か)」
勝義こそ真理也 照見五蘊皆空 大悟涅槃寂滅
欲色界も
無色界も越えて涅槃寂静境に入る。
まず五蘊の超越から 諸行の無常なること、諸法の非我なるを知り、一切は苦しみである、と如実に見て
順観・逆観を行じ、現象世界の虚妄なるを見抜く。
そして基本、常に八正道を含む三十七道品の実践修行の完成に努め苦滅・解脱知見を得。これにより生死の迷いより脱した大安楽
を得、仏陀と等しき我を覚り、最高の清浄に達する ことは誰にでも可能なのです。
本人が拒まなければね。 機根には上品
中品・下品とあり
今の末法の世は下品の者の時代という者もいる。自らも下品と
考えた宗祖らもいる 最初から何も対立などしていない真実を
ありのまま観察する 仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない、いかなる相も虚妄であり、
諸々の相は相に非ずと見るなら、即ち如来を見ることになる。
仏像を(その物自体を)仏と思ったのでは、実体が無い物であるから錯誤に陥るのである
認識は幻想=いかなる「個としての枠組み」も、思考による妄分別が作り出した幻影、妄想=戯論に過ぎず
認識したものは真の実在ではないと如実に観察するなら
即ち無為法の慧より出世間上上智を生じて涅槃寂滅を知解する(宇宙の一体性をさとる)事ができるのである
像法(ぞうぼう)とは、仏教で、正法に似た仏法のことをいう。「像」とは「似」の意味である。
また、釈迦の入滅後の500年から1,000年の間(又は1000年から2000年の間)の時期のことをいう。前の時代を正法、後の時代を末法という。正・像・末の三時のひとつである。
像法の時代には仏法と修行者は存在するが、それらの結果としての証が滅するため、悟りを開く者は存在しないとされる。
形式化されて仏法が伝えられ利益をもたらす時代
日本では、1051年(永承6年)で像法の時代が終了したとされ、その年限の接近に従って、次第に末法の世の到来への危機意識が高まることとなった。
)【像法】
(「ぞうほう」とも。「像」は映像の意)仏語。釈尊入滅後、正法の時をすぎて、教えや修行が行われるだけで、さとりが得られなくなった時期をいう。
多く正法五百年、像法千年と数えるが、日本では永承六年がその最後の年と信じられていた。像法時。v 仏滅後千五百年以降、現代に至る「末法」の世においては、肩書だけは僧を名乗る者たちが現われる。
そのような僧籍にあるという肩書などを尊いものと見做しても、ろくなことは無い。
また末法の世で厳しく戒律を守る僧がいたとしても、超ー珍しい現象で、街中に虎が出現し、うろついているような感じになるであろう。
誰も、そんな現象があるとは夢にも思わないだろう。
二、
末法の世で厳しく戒律を守る僧がいるという話が聞こえて来ても、
それは実際にはいない虎を、市中にいると(悪意をもって騙す側か、愚かさゆえに騙されたかの)多くの人が宣伝したから信じこまされただけであって、虎などいないと真実を語るまでもなく、誰も信じるものなどいない状態になるであろう。
実際にはいない虎を、市中にいると(悪意をもって騙す側か、愚かさゆえに騙されたかの)多くの人が宣伝したから信じこまされ
ているのだと嘘を容易く見抜くようになり、ほんとうは虎などいないと真実を語るまでもなく、誰も信じるものなどいない世の中になっている。 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァハー >ことばにされた瞬間に本来の意味とはまた別な
低級な何かに堕してしまう
とも言え、それが世俗の真理の限界も
示している 虚空と涅槃は常と知り
生滅滅已、涅槃寂滅を楽と為し
仏陀・如来の我を覚り
滅諦の実性を体悟して、最高の清浄に達する 医者の中には、
解脱者の観察ができていて、実質ある種の正しい認識に達しているものもいるらしい
勿論、煩悩にまみれたままのものも多い
ようだがね 智慧の光は
さりげなく
「騙そうと企むもの」の実態を
暴くのである >世界の真実のありようというものは
人の五蘊が分別して得た見解を越えたところのものである。
それは、実には五蘊で計り知ることはできないものである
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010100000/ 世界の真実のありようとは空であり
また勝義においては
浄真如である。真如にも浄と染がある。如来の智慧により
照見された蓮華蔵世界なり 但し
日本仏教については、
その最良の部分においてさえ、グレーゾーンに位置する
と見ます。 物質界は見掛けだけの空虚なものでしかない
それから誤った印象を受ける五蘊もまた、
変転して定まらない不確かなものであり、実体無く、
空虚である 六道輪廻は迷界
大乗では仏の慈悲により
発心した衆生も直ちに冥界より出離
解脱する
菩薩は
たとえ輪廻すると雖も心迷界にあらず
既に六道に住さずして
菩薩道に入る トップダウン式に
まず全てわかる、見える
ということが最も大事なこと >仏道修行の一つの側面は、煩悩や妄執を相手に闘いを挑む武士道であり、
空とは、鬼退治(煩悩の征伐)に際し、士を助ける優れた利器である。
と言った人がいても不思議ではありません。
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010050000/ >『入法界品』(にゅうほっかいぼん)
とは、大乗仏教経典『華厳経』の末尾に収録されている大部の経典(品)。
サンスクリットの原題は『ガンダヴィユーハ・スートラ』(梵 : Gandavyūha Sūtra)。
善財童子が、文殊菩薩に促されて悟りを求める旅に出発、
53人の善知識(仏道の仲間・師)を訪ねて回り、最後に普賢菩薩の元で悟りを得る様が描かれる。
一説には、東海道五十三次の53の数字の由来は、この『入法界品』にあるとされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%B3%95%E7%95%8C%E5%93%81 WORLDVIEW: 7 LEVELS DEEP Clip - Applying Unified Field Understanding to Politics
https://youtu.be/Rp5CPZFcWM8 よい解答が見えないのは、まだ無明の中におられるということかも。よい判釈なら幾つ出て来てもよいでしょう。
ただ、それらには各人の境涯に応じた深浅、段差も生じ、
その人には自分の境遇、波長に合った答えが都度見える というだけ
なのです もし心清らかにして、禅定と智慧を生む瞑想を続けたならば
神通力は
自ずから生じるものなので
あります 学校では誤った幻想が教えられてたりするもの
その実態は即ち洗脳である 世界は見えている通りにあるのではない
と、まず気付くことである。 ゼロか少しあるかなんてのは全然どうでもいい話であって
煩悩というものが理解できる人に向けては
見えている対象も、それらに執われる人の五蘊も幻に等しく、無常で皮相な現われに過ぎない
と言っている 色とは迷界の幻に過ぎない。
色即是空の反対語は、
一心即是本居
である 良い因縁も良くない縁起も
あるように見えて、実は本来実体は無い
だが、それらを形にするものは
心なのである シャンカラはデカルトより九百年は早い
仏陀は五蘊の奥に、もう一個の我=大宇宙がある
と言いました 大乗も南伝でも五蘊の解釈は了見が狭い。根源は同じ。双方ともに元は新しい ウパシーヴァ(修行者の一人)がたずねた、
「シャカ族の方よ。わたくしは、独りで他のものにたよることなくして
大きな煩悩の激流を渡ることはできません。
わたくしがたよりにして、この激流を渡り得る《よりどころ》をお説きください。
あまねく見る方よ。」
師(ブッダ)は言われた。
「ウパシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、《何も存在しない
=空〜諸行無常・諸法無我》と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。
諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
(南伝仏典『スッタニパータ 経集』第1069、1070) ダライ・ラマは法華経については何も言ってませんね
人生の目的
https://youtu.be/lDMphFbtQ48 ああいうのは解脱者とは呼べない
マハルシは
解脱者がブラフマンの覚りを得るために再生したケース
である 人が見出したと錯覚した見解は
悉く実体なるものが無い 智慧により究極のありようを知る事ができる。
だが、世俗に塗れた五蘊の見解は空虚である。 わたしには殆ど陽が当たらない わたしには杉の木や松の木のように 高くてカッコいい姿にはなれない
その代わり どんな風が吹いても 倒れるということがない わたしには初めから 倒れるだけの……
(相田みつを) 全てのブッダがそうである如く
我もまた世間の虚偽を見抜き破するのである 本来の我が「一」であるならば、誰もが覚れる
自ずから覚知すればよし 煩悩も固定したものではなく
いつかは滅ぶ
全ては是の如し 六道輪廻は迷いの世界
菩薩乗では仏の慈悲により
発心した衆生も直ちに迷界より出離して
解脱する
菩薩は
たとえ輪廻すると雖も、心は迷界にあらず
既に六道に住さずして
菩薩道に入っている 僅かばかりの才能で世間に出るのは難しい
と思ったら・・・ 今ある自分というのは
死んでしまえば消えてしまう
表層的自我にすぎない
のだ 嘗ては一人で暮らしていたのに
のちに性の交わりに耽る人は、車が道から外れたようなものである
世人は、彼を卑しい凡夫と呼ぶ
嘗て彼の持っていた名誉と名声とは全て失われる
このことを見て、性の交わりを断つ事を学べ
独身を守っていた時には、一般に智慧者と認められていた人が
性の交わりに耽ったために、愚か者のように悩まされている
聖者は、この世で前後に
この艱難のあることを知り、固く独身を守り、性の交わりに耽ってはならない
俗事から離れる事を学べ
これは諸々の聖者にとって最上の事柄である
ブッダの言葉・スッタニパータ 第四 八つの詩句の章 七 ティッサメッテーヤ
https://youtu.be/R884Fvj_Cgs?t=1068 今のカルト諸人は、せいぜい餓鬼である
餓鬼が畜生を崇め奉っているようなものなのである 末法の世に正覚を得るにはどうすべきか。
それには正しい教法に基づく他にないだろう。
今隆盛の日本大乗仏教は、フィクション仏教である。フィクション仏教は偽仏教ということ。
本当の仏教は根本仏教=原始仏教=ドキュメント仏教、ということです。 最近だが、寂聴さんが週刊誌での説法で、「小乗仏教は出家者だけが救われる小さな舟に乗っているような小さな教えで、日本は大乗仏教です」などと、時代遅れな、天動説みたいな仏教を説いていた。このように著名な尼僧が、デタラメ仏教を説いているから末法なのです。 原始経典には、最勝正覚は三明である、と説かれている。原始経典には四段階の悟りが説かれており、アノクタラ三藐三菩提の悟りは四段階目の悟り、阿羅漢・仏陀の悟りです。
阿羅漢とは漢訳で応供のこと、応供は仏の十号の一つです。阿羅漢=仏なのです。 原始経典は釈迦のドキュメント仏教です。
大乗経典は後世の人が創作したフィクション仏教・デタラメ仏教です。
原始経典では阿羅漢は仏ですが、後の大乗経典で阿羅漢は低い悟りの者とされたのです。
大乗経典はデタラメ仏教なのです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています