無上正等正覚を開くためのスレ
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悟りは全くの個人的体験です。
そして悟りは仏教者の身の上にのみ生じるわけではありません。
早い話、お釈迦さんは一度も仏教徒だったことはなかったのです。
ブッダは仏教がなかった時代に覚りを開き、
以後ブッダが出てなかったとするなら、
歴史上の仏教は、仏に成れる教えではなかったと言えるかもしれません。
末法の世に再び成道してブッダと成るために、どう実践すべきか
正しく思惟し、
即実行に移す人のスレです。
またブッダに立ち還り、大衆部を再興します。
「末法には、ただ名字(みょうじ)の比丘のみあり。
この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。
末法の中に持戒の者有るも、すでにこれ怪異なり。市に虎有るが如し。これ誰か信ずべきや」
『末法燈明記』
五蘊非我と阿吽(菩提心と涅槃)
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010080000/ 仏滅後千五百年以降、現代に至る「末法」の世においては、肩書だけは僧を名乗る者たちが現われる。
そのような僧籍にあるという肩書などを尊いものと見做しても、ろくなことは無い。
また末法の世で厳しく戒律を守る僧がいたとしても、超ー珍しい現象で、街中に虎が出現し、うろついているような感じになるであろう。
誰も、そんな現象があるとは夢にも思わないだろう。
二、
末法の世で厳しく戒律を守る僧がいるという話が聞こえて来ても、
それは実際にはいない虎を、市中にいると(悪意をもって騙す側か、愚かさゆえに騙されたかの)多くの人が宣伝したから信じこまされただけであって、虎などいないと真実を語るまでもなく、誰も信じるものなどいない状態になるであろう。
実際にはいない虎を、市中にいると(悪意をもって騙す側か、愚かさゆえに騙されたかの)多くの人が宣伝したから信じこまされ
ているのだと嘘を容易く見抜くようになり、ほんとうは虎などいないと真実を語るまでもなく、誰も信じるものなどいない世の中になっている。 35歳のシッダールタは、ガヤー地区(英語版)のほとりを流れるナイランジャナー川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜の布施を受け、
体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となった(成道)。
この後、7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟った。
悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって
考えた。
その結果、「法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。
ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。
3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた五人の沙門に説こうと座を立った。 パーリ律蔵の『マハー・ワッガ』(和訳:『南伝大蔵経』第3巻)
梵天の懇請を容れた釈迦は、世間には心の汚れの少ないもの、智慧の発達した者、善行為を喜ぶものもいる
ことを観察した上で、最終的に法を説くことを決意した。(「甘露の門は開かれたり 耳ある者は聞け」に始まる有名な偈はこの時説かれたとされる。)
釈迦がヴァーラーナスィーに向かう途中、アージーヴィカ教徒の修行者ウパカに無師独覚を話したが軽く受け流されている。
これは仏法を説いたことにはなっていない(ウパカは後、釈迦に帰依して出家した)。
…自らが阿羅漢であったことを表明した釈迦は、なお教えを受けることを拒む5人を説得して、最初の説法を為した。
このとき説かれた教えは四諦八正道であったとされるが、後代に編まれた経論、経解ほど中道、三十二相、三転十二行相など様々に脚色される。
5人の修行者は釈迦の説法を歓喜して受けた。
また、この時、5人のうちコンダンニャに「生ずるものはすべて滅するものである。」という法眼が生じた(悟りを得た)。
伝統的に、これは四沙門果の第一、預流果に達したことと説明されている。
釈迦は次に「無我相」の教えを説き、五比丘に五蘊無我の修習を指導した。五人は阿羅漢果(四沙門果の第四)に達したとされる。 十二縁起(じゅうにえんぎ)は、仏教において、現実の人生の苦悩の根源を断つことによって苦悩を滅するための12の条件を系列化したもの
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個の支分において、無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ることを順観という。
また、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を逆観という。
順観と逆観の両方を行って、人間のありように関する因果の道理を明らかにした結果、因果の道理に対する無知が苦悩の原因であったと悟る。
その際には苦悩が消滅し、根源の無明が消滅しているため輪廻もなくなるとされる。
無明(むみょう、巴: avijj?, 梵: avidy?) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。
行(ぎょう、巴: sa?kh?ra, 梵: sa?sk?ra) - 志向作用。物事がそのようになる力=業
識(しき、巴: viññ??a, 梵: vijñ?na) - 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元
名色(みょうしき、n?ma-r?pa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前
六処(ろくしょ、巴: sa??yatana, 梵: ?a??yatana) - 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意
触(そく、巴: phassa, 梵: spar?a) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。
受(じゅ、vedan?) - 感受作用。六処、触による感受。
愛(あい、巴: ta?h?, 梵: t????) - 渇愛。
取(しゅ、up?d?na) - 執着。
有(う、bhava) - 存在。生存。
生(しょう、j?ti) - 生まれること。
老死(ろうし、jar?-mara?a) - 老いと死。 存在感を消すことだけに専念すればいいんです。それだけで、人生はシンプルでラクになるんです。「苦しいのは絶対にイヤだ!」が悟りです。私は心底、「自分さえ助かれば他はどうでもいい」と思っています。これは、生涯変わりません。それが、大人になるということです。
大乗仏教、曹洞宗(そうとうしゅう)。ただ坐る。 八聖道(はっしょうどう、巴: ariya-a??ha?gika-magga, 梵: ?rya-a????gika-m?rga)は、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
【四聖諦】
仏教で説く四つの真理(諦,サティヤsatya)のこと。四聖諦ともいう。仏教の開祖である釈迦は,ブッダガヤーの菩提樹下でこの四諦の真理を,あるいは十二因縁という縁起の法を悟ったといわれる。四つの真理とは苦諦,集諦(じつたい),滅諦,道諦の四つをいう。
苦諦(くたい) - 迷いのこの世は一切が苦であるという真実
集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実
滅諦(めったい) - 苦の原因の滅という真実。無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅した悟りの境地であるということ
道諦(どうたい) - 悟りに導く実践という真実。悟りに至るためには八正道によるべきであるということ
苦滅道諦, くめつどうたい)とは、「苦を滅する方法・実践修行がある」という真理。これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。 >名前:神も仏も名無しさん 2020/07/29(水) 00:27:24.73 ID:dUtWz0oI
私達がこうして、いろいろ言葉であーだこーだ言ってるのって
仏陀がするなって言ってたことじゃないの?
なぜ仏陀の時代にお経や仏像がなかったか、
それを考えると
2000年もの間多くの人たちが誤った教えを正しいと思い広めて来たのではないか?
そんな気も少しします。
それは私が実際に仏陀のような人(悟りを開いたと思われる人)を見たことがないからというのもある。 釈尊はある経典のなかにおいて、出家される以前、インドの一小国の太子であった
ころのことを回想され、田畑に遊ばれて樹下にて瞑想されたおり初禅を得ていたと
述懐されています(『中阿含経』卷廿九「柔軟経」第一)。この経に対応する
パーリ経典では、その時いまだ幼い太子の身であった釈尊は、この禅なる境地において
「これこそ解脱に至る道であろう」と考えられたと伝えられます。
苦行の無意味さに気づいて極端な苦行に依る解脱を放棄した釈尊は、ここで自ら王子
として野に遊んだかつての頃、木陰で瞑想して初禅に達したおりに「これが解脱への道
であろう」と考えたことを思い出し、再び瞑想し、禅という境地において解脱を果たさんとします。
そして、悟りを獲るまでは決してこの座を立つまいとの決死の覚悟をもって、菩提樹と後代言われる
ようになる大木のもと、結跏趺坐します。インド・ビハール州のブッダガヤーと現在言われる土地においてのことでした。
しかしてついに、釈尊はかつて少年の頃に感じたとおり禅という境地において、
(中略)
一切の無常なること、非我なること、
それが故に苦であることを完全に悟り、苦の滅尽に至って正等覚者、仏陀となられたと諸々の経典は伝えています。
http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/dhyana.htm 四禅(しぜん, Rupajhana)とは、初期仏教で説かれる禅定(ジャーナ)の4段階のこと。
三界の内の色界に相当し、この言葉は、禅定の段階に応じてこの色界を4分割した四禅天の略称としても用いられる。
初禅 paṭhama-jhāna (梵 prathamadhyāna)
諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋・伺(すなわち覚・観)を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態。
第二禅dutiya-jhāna (梵 dvitīyadhyāna)
尋・伺(すなわち覚・観)が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。
第三禅 tatiya-jhāna (梵 tṛtīyadhyāna)
喜を捨し、正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。
第四禅 catuttha-jhāna (梵 caturthadhyāna)
楽が止み、一切の受が捨てられた不苦不楽の状態。
パーリ語経典長部『沙門果経』では、王に仏教の比丘(沙門)の果報を問われた釈迦が、
まず戒律の果報を説き、次にこの四禅の果報を説き、最後に六神通を説いたとされる。
パーリ語経典長部『大般涅槃経』では、釈迦の入滅の様子が、「初禅から滅想受まで、
「九次第定」を段々と上がって行き、そこから初禅まで段々と下って行き、そこから再び四禅まで上がったところで入滅した」 まだ物質的な領域にある色界の禅定とは異なり、無色界では色蘊(しきうん)がなく、
この段階に至った修行者は、触覚、視覚、物質的な構成要素において、微細なものからも完全に離れる修行をする。
空無辺処定 欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れた、一切の作為の無い
無辺の空を観じる
識無辺処定 心を転じて識を縁じ、識と相応し心定りて動かず、
三世(過去・現在・未来)の識が悉く、定中に現じて清浄寂静なる果報をいう。外の虚空の相を厭い、内なる識を観じて、識が無辺であると達観
する。
また如来を蔵するアーラヤ識(阿摩羅識→乾栗陀耶識)としての真識が、過去・現在・未来の三世にわたって無限に永続するあり様を観じる。
無所有処定(むしょうしょ)とは、無色界の(下から数えて)第3天。 いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。
空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、
この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。
何ものも真実には存在せず
と観察し達観する三昧境
非想非非想処定
想いが有るのでも無く、無いのでも無い、深い三昧の境地
想いが有ろうが無かろうが、心が主客に分かれない、すべてわかって何も分かれない無色界の有頂天にもとづく
非想非非想処天とは、この天に生じる者は、下地の如き麁想(そそう)なきを以て「非想」、または「非有想」といい、
しかも、なお細想なきに非(あら)ざるを以て
「非非想」、または「非無想」という。
滅尽定だけが釈迦が初めて到達した仏教に特徴的な定だとされる。 末那識は自我執着意識ですが、阿頼耶識はその悪念を経験として蓄積し、汚れる可能性があります。
ならば、悪念のない無垢な阿頼耶識、というものがありうるはず。天台宗や華厳宗では、それを阿摩羅識という第九識とします。
別名「仏性」と呼ばれるもので、
さらに真言宗では、個々人の仏性の奥にある真の根源として、第十識すなわち
乾栗陀耶識を立てます。 無色界の禅定(非想非非想処)の先に、滅尽定(滅想定、滅受想定、想受滅とも呼ばれる)がある。これは、瞑想とも禅定とも呼べるかどうかもわからない状態である。すべての想いが滅した状態である。
これは色界や無色界での禅定ではない状態で、心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。
想受滅では、心の状態が全く止滅し、身体のはたらきもその間ほとんど止まる。
滅尽定(nirodha-sam?patti)では、有頂天にもとづき心と心所法は決められた間において止滅する。
大般涅槃経では、釈迦は入滅にさいして第一禅定と想受滅のあいだを上下し、第四禅定から出定したのち般涅槃に入ったとされている。
滅尽定は煩悩を滅して心を完全に清らかにした阿羅漢でなければできない禅定
十地経の第七では、「(波羅蜜にある)かの菩薩」なる者が、第六の菩薩の地(くらい)において初めて、
「あらゆるまよいの存在が滅尽する定(滅定)」に入定し、第七の菩薩の地において、その定に入定してはまた出定するようになるとする。
入中論』の月称(チャンドラキールティ)の注釈も、十地における滅尽定は第六地から第八地にかけて入定するということである.
最後にニルヴァーナに入る時、
非想非非想処(有想無想定)まで至ったが、またそこから初禅(第一禅)へ戻り、さらに第四禅へと至って、最後にニルヴァーナ(最終的な肉体のない解脱)へと至っている。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定
そして今度は、逆に最後の滅尽定から、無色界の非想非非想処から空無辺処まで戻り、さらに色界の第四禅から初禅まで戻る。
再び、色界の初禅から第四禅へ至り、この第四禅から直接ニルヴァーナへと入り、ブッダは肉体を捨て去ったと記述されている。 >IQにもいろいろあって、テストでわかるIQとテストでは評価できない
裏の、といったほうがよい智慧の水準がある
たとえばオウムをはじめカルトの幹部には高学歴のものが多いけれど
とんでもない邪師につかまったりするのは人を見る智慧の眼が劣っている、
肝腎な裏IQが低いということで、同様に子供の時から勉強ばかりで異性を見る目がじゅうぶん
できてない人が悪い異性にひっかかって痛い目に遭うとか
健康リスクを甘く見て食事や飲酒などの生活習慣リスクに注意ができなかったり
老年までうまく生きれたとしても高齢運転のリスクに気づけず適切なライフスタイルの改善をしないで事故を起こしたり
幾らでもテストIQでは測れない諸問題が人生には山のようにあり、
その意味でも、ブッダの言うよう人生は苦なので
その解決法がまさに道諦の実践ということになる。 初禅にも尋伺があるという。かなりすすんだ修行者にある「尋伺」とは何か。
天台大師の『摩訶止観』では、尋伺について詳細な記述がある。
それによれば、尋は、身体の八種の触感で、伺は、それを評価・判断することである。
十種の判断であり、これは、智慧ある判断である。それ以前は、同様の触があっても、邪の判断をする。
修行がすすんでいくと、初禅の境地に達する。そこには、五つの特徴がある。覚、観、喜、楽、一心である。
「初めの触が身に触れて縁にあるを覚と名づけ、細心に八触および十眷属を分別するを名づけて観となし、
昔はいまだ得ざるをしかもいま得るを慶ぶが故に名づけて喜となし、恬愉なるを名づけて楽となし、寂然なるを一心と名づく。」 仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない、いかなる相も虚妄であり、
諸々の相は相に非ずと見るなら、即ち如来を見ることになる。
仏像を(その物自体を)仏と思ったのでは、実体が無い物であるから錯誤に陥るのである
認識は幻想=いかなる「個としての枠組み」も、思考による妄分別が作り出した幻影、妄想=戯論に過ぎず
認識したものは真の実在ではないと如実に観察するなら
即ち無為法の慧より出世間上上智を生じて涅槃寂滅を知解する(宇宙の一体性をさとる)事ができるのである
像法(ぞうぼう)とは、仏教で、正法に似た仏法のことをいう。「像」とは「似」の意味である。
また、釈迦の入滅後の500年から1,000年の間(又は1000年から2000年の間)の時期のことをいう。前の時代を正法、後の時代を末法という。正・像・末の三時のひとつである。
像法の時代には仏法と修行者は存在するが、それらの結果としての証が滅するため、悟りを開く者は存在しないとされる。
形式化されて仏法が伝えられ利益をもたらす時代
日本では、1051年(永承6年)で像法の時代が終了したとされ、その年限の接近に従って、次第に末法の世の到来への危機意識が高まることとなった。
)【像法】
(「ぞうほう」とも。「像」は映像の意)仏語。釈尊入滅後、正法の時をすぎて、教えや修行が行われるだけで、さとりが得られなくなった時期をいう。
多く正法五百年、像法千年と数えるが、日本では永承六年がその最後の年と信じられていた。像法時。v 「善か悪か」は論点のすり替えです。仏も余計です。
「ただ坐る」とは悟りを求めて坐禅することはしないということです。
心の成熟した大人になる為に坐禅するんです。 |1160 五種の構成要素(五蘊)を、
| [アートマンとは異なった]他のものであると見て、
| アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。
| ――毛の尖端を矢で射るように。
|
|1161 またもろもろの形成されたもの(諸行)を
| [アートマンとは異なった]他のものとして見て、
| アートマンであるとは見ない人々は、精妙なる真理に通達した。」
|
| (「テーラガーター 仏弟子の告白」中村元訳 岩波文庫)
|「もろもろの原因から生じ、壊滅するものである
| もろもろの形成されたもの(諸行)を
| (自分とは異なった)他のもの(わがものではないもの)であると見なして、
| わたくしは、あらゆる煩悩を捨てました。
| わたくしは清涼にしてやすらかなものとなりました。」
|
|(「テーリガーター 尼僧の告白」中村元訳 岩波文庫) >ヤージュニャヴァルキヤの言ってることは間違っていません。
昔、バラモン教の一派が、アートマンを輪廻転生の主体ととらえたようです。
お釈迦さまは、それを否定するために「諸法無我」を唱えたようです。
ヤージュニャヴァルキヤの言うアートマンは、
お釈迦さまの言う「諸法無我」と全く同じものです。
アートマンは人の脳の認識を超えているため、「ある」とも言えません。
そのためお釈迦さまは、それを「諸法無我」と表現したのです。
それから、ブラフマンとアートマンは実際は同じものです。それが梵我一如ということです。
加えて、禅定だけでは悟りに到ることはできません。
まず、この世界は脳が反応しただけのものであることを、分からなければなりません。
脳が認識できる世界は、脳が認識できない世界の無限分の1でしかありません。
(脳は紫外線・赤外線を見ることができません。目の前の花の色が、
本当はどのような色をしているのか、人間にはわからないのです。
光線は無限に広がっています。私たちが見えるのは、その無限分の1にしか過ぎません。このことは五感すべてに言えることです。私たち人間は世界の本当の姿を知ることができないのです)
この脳が認識できない世界こそが、アートマンです。このアートマンこそが「本当の自分」です。それをわかることが悟りです。
その方法として、お釈迦さまはヴィパッサナー瞑想を説いています。他にも方法はあるかもしれませんし、
悟りは難しいものではありません。 ヴィパッサナー瞑想は第3禅の四念処観に含まれます。つまり、本来のブッダの戒め と精神統一=禅定即ち「止」、一点集中の瞑想 と
智慧=「観」 を実践する事によって最高の清浄、無上の覚り、解脱の境地・涅槃寂滅に到れるという事なのです。
色界・無色界の8つの瞑想を超えてブッダが到達した涅槃寂静の境地こそ、仏教の核心
と感じますし、九次第定は経典結集前から生き続けていた正定です。八正道の実践によって正しい覚りに到れるよう努力して、修行を完成して行きま
しょう。 大乗の教えは阿羅漢止まりではない。仏陀になれるんだ。と主張し、パーリ増支部「比丘たちよ、この心は光り輝いている。
ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」つまり、自性清浄だが客塵煩悩によって汚れているとの仏説を
根拠に、如来蔵が説かれるようになった。
阿羅漢にしかなれないと定義したのは部派仏教であって、そこからして仏説ではないのです。
整理すると
まず、七仏通誡偈からも分かるように、お釈迦様は過去仏を認めています。
つまり、お釈迦様以外にも仏陀はいるのです。 南伝系にも禅の方にも断見ぽいことを言う者はいますね。また先祖供養をする坊さんであっても
一般人と変わらぬ断見の考え方を持つ輩は多いと聞きます。
思うに仏性をインスリンに喩えると、分別説部の過激派というのは
先天的にインスリン分泌が過少な1型糖尿病的症例ではあるまいか。
だから左の五蘊にしっかり詰まった苦の起源たる不必要な執着や
過剰なる欲を
ある程度抑制しても、仏の心が輝かず、
イスラムと同じ誤謬に陥って争いごとに精出し仏教ビジネスに邁進するだけになり、本来無関係な情弱者に感染させようと企み、他国の精神文化まで破壊
するという恐ろしいカルマを積む。テーラワーダ過激派等に未来は無い と思われる。
しかし多くの衆生も、仏性はあっても、左側の五蘊に盛られた苦の起源たる執着が多くて抑制がきかず、右の仏性覚知の働きを
妨げる結果となり、それは恰も2型糖尿病のように、そこそこインスリン分泌があっても生活習慣の悪さに起因し発症する。が、
それでも如来蔵を意識する機会が奪われてるのは、少しインスリン分泌が足りない体質なのに似てなくもない。
またヒンドゥの人でも真我の瞑想をしたり優れた実践をする人は、用語は仏教風でなくとも
実質的に仏性が光輝いていて、転識得智している。
左脳(個我意識が巣食う五蘊)からの干渉、妨害、抑制の一切を空にすると、
右に本来具わる菩提心や慈悲の心は限り無く増長して行くのである。 そして実は、このアナートマンは、
仏教だけを学んでも わからないのかも!と気付きました。
それは、【真我】に相対して有るのが【我執】である←この説明、
わかりますか?
おそらく真我否定的な解釈が述べられるのは、
誤訳か、わかってない方が講師の身分になったり、
仏教史のかなり前のほうで、その手のー善意か意図的かは別にしてー誤解、歪曲が
紛れ込んだものと思われます。
>弟子たちよ、生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
構成力から発生したのではないもの、が存在する。
もし、この生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
発生しないものが存在しなかったとすれば、生じたもの、成ったもの、創造されたもの、
構成力から発生したものを認識することができないであろう
>韻文経典では、十二支縁起説は説かれておらず、
無我ではなく非我が説かれ、アートマンが積極的に承認されています。
最古層に属する経典がそうなのであり、実はスリランカ系統こそ飛躍に満ちていて、
後代に分別された説との声もあります。 おそらくブッダ入滅後、仏教を興した弟子たちが
生前の教説を保存し、さとりの内容を維持しようと試みはしたが、
そもそも悟りなるものが正しく理解できてたか、くまなく経典として伝承できてたか
また阿羅漢の認定とかにしても間違いなく法の運用ができてたか、
客観的に評価できないまま五百年が過ぎ
そろそろ何か変だぞ と気付いた有志らが大衆部を興した
のだと思うよ、
だから大衆部が出た時も
脱構築への挑戦ではあったのだろうね
それ半分は成功し、二千年信じられた経典も
生まれた訳だ。 華厳・密教の毘盧遮那佛観は、 山川草木皆仏
とか浄土思想と直結して、この身がこのまま仏菩薩と成り、そこからさらに
現世そのままを浄土とする思想が生まれ、現世に即浄土をあらわす実践行
と成りました。 >真言密教の無我は、六大の構成要素込みの無我=大日如来
と見ている
はい。その通りだと思います。
六大の識→転識得智した法界体性智、
まさに大日如来であって、儀軌の通り。
本来の仏教も
無我を観じることで智慧が生じる
>一つ言えるのは、人は他の動物と違い、環境に支配されきったロボット的客体ではない。
殊に諸行無常を説く仏教なれば、環境も固定したものとは見ず、
空なるを観じて有害な支配を拒み、また実際に人は環境を変え操作
してもいる。
七十年代以前米国の生態心理学者の古い説と仏教を結びつけるのは我見であり、
それに執着するのこそ我執。
まったくとるにたりない
戯論 神も仏も名無しさん:2020/11/08(日) 19:37:52.64 ID:GSppZFhgr
我を【我執】とするか 個人の【実体】的何物かとするのか?それで違ってきますね。
ヨーガのヨーゲシュバラナンダ師著『魂の科学』によれば【真我】に相対して有るのが【我執】であるとしています。
この我執とは生命を持たない微細精妙器官で有って 胸に位置し 頭部の【理智・意思】に入ってくる五感からの情報を【真我】に見せるとともに その情報の取捨選択を瞬時に行い それを【宇宙我執】に受け渡す役目を担っているとあります。
【我執】には3つの位相があります、3グナと言い 1善性 2動性 3暗性 でこの3つがバランスして人の性質が決まるようです、
この【1善性】のみとなった【我執】の状態はまさに【平等性】の状態であります。
しかし あくまで此は【真我】に於いて観照された【我執】の状態であって 生命の当体ではなく 生命無き器官であり其所に実体は無いとされます。
選択無き【我執】は【止念の行】のみの状態にあって その状態を【真我】に見せます、止念の状態にある我執は【観られる】側であるので ここで識の転変が起きます。
我執は一時的に空となるので 対象を失った【観る側の真我】の注意は自身に置かれます、この状態を【真我独存位】カイバリヤーと言い 真我自身のみになった状態と言われています。
真我はこの後 更に【プルシャ】に転変し更に【ブラフマン】宇宙意識に至ります、真我独存位では 当然色界は覚知されず 純白の光もしくはダイヤモンドの耀きのごとき光としてあるとされています。 誰しもが本来的に覚っている。
ブッダであるのを自覚する事が
一つの悟りであるとも
いえよう 「現代科学でもエネルギーと物質の上位階層にある何ものかを想定し始めている」
「ヤコブ・ベッケンシュタインが現代科学のトレンドを要約した記事では
科学者たちが"物理的世界は情報でできており、エネルギーと物質は副次的なものであるととらえる"ようになるとの示唆が含まれていて、
Eとmのより上位に位置づけるべきものとしての「情報」や
大乗仏教的に想像すると、一つには「一心縁起」とか考えられます」
「色蘊も原因と条件から成立し、何かの要素が少しでも欠ければその形にはなれなかった無実体な現象」 他人に迷惑かけない人になりたいだけなら、それはそれでよいとは思います(それすらできない方が近頃多い)
しかし、単なる利己主義では、大乗仏教ではありません。
また天部の勧請を容れて法を説いたブッダの姿勢にも反するものでしょう。
煩悩を滅ぼし、無上の覚りを求めて菩提心を起こしたブッダと同様、正しく成仏道を歩むのが真の求道者であります。
また十波羅蜜にも示される通り、成熟有情智を修め、身に着けるのは自然なあり方で、世間の人に不快感を与える幼稚な自己
主張で仏教への疑問を生じさせる書き込みは只、無視すべきであります。 量子物理学では、それ自体で成立している物質は存在しない 十波羅蜜にしても、
自分じしんが全生類への慈悲の心を完全に具える事
を根底に据え、そういうあり方に本当になりきるのが、何より
実践の動機として設定されるべき ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています