上で、生前の行いは救いに関係ない、と語られてたが、関係ないわけないと思う

プロテの信仰のみは信仰さえあれば行為は悪でも善でも関係ない、という意味ではない

信仰のみ、は信仰があれば行為は善いに「決まってる」から「わざわざ語るものではない」ということ

生前の行為が関係ないなら私審判と公審判の意味がなくなる

もちろん過去に大罪をおかし、深く悔い改め、隣人のために生きた人は赦されるかもしれない

大罪という行為を犯したのだから自動的に地獄行きではない
その意味で行為のみ、でもないのは言うまでもない