マインドフルネスPart.26
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。
マインドフルネス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/マインドフルネス
『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。
マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』
マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。
当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、
瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。
単発IDであっても過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。
また、感情的なレスのやり取りは周りにも迷惑ですので控えてください。
前スレ
マインドフルネス Part.25
http://itest.5ch.net/rio2016/test/read.cgi/psy/1578830093 外野からの判断にすぎませんが、スマナサーラ長老の学識が高いためでしょう。
ちなみに私は仏教哲学の知識などは無いに等しいですが、
日本語として読んでも、言葉の使い方そのものがおかしいと感じる点があります。
言いたいことはニュアンスで分かるんだけど、言葉の使い方にデタラメさがあるという感じですかね。
スマナサーラ長老はアビダルマを習得した上、大学で教えていたくらいですから、素人の私より厳密なのは当然かなと思います。
ちなみに苫米地英人博士も般若心経は、めちゃくちゃに間違っていると、youtubeの動画で言及していました。
苫米地英人さんを知らなければ、wikiで調べて下さい。
有学の方ですが、信頼のおける方です。 >>900
だから小乗の立場に立つと大乗が理解できなくなるんですよ
苫米地さんは天台宗の僧籍を持ってるとのことだけど、それじゃあいけませんね 確かにスマナサーラさんは博識です
しかし仏陀の言ってることを正しく瞑想で確かめたなら
色即是空空即是色は間違いだ!なんていいませんよw 色即是空空即是色の内容が間違いだって言ってるんじゃなくて、色即是空空即是色という言葉の使い方、色や空という単語の定義からの説明の仕方が間違いだって言ってるだけでしょ ダンマパダ
18.12 スバッダ遍歴遊行者の事例
254.(254)
まさしく、虚空に、足跡は存在せず、外に、沙門は存在しない。
戯論(空想)に歓楽あるのが、〔世の〕人々である。
戯論なきは、如来たちである。
255.(255)
まさしく、虚空に、足跡は存在せず、外に、沙門は存在しない。
諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)は、常恒のものとして存在しない。
覚者たちに、〔心の〕動揺は存在しない。 苫米地英人さんやスマナサーラ氏は空は色の上位概念としている時点で間違い。
あらゆる概念を否定したものが空であるゆえ。
スマナサーラ氏のは分かりやすく、空を果物に喩えているのが間違いです。
色をバナナや林檎に喩えるのは良いですが。 仏の教えを悟ったものは仏の教えを超えていかなくてはいけない
そしてそれが無意味であることを悟るだろう やっぱりアスペさんは出来もしないことを妄想語りしてるだけなんだな >>904
スマ長老は色即是空は認めているますね、正しいと
空即是色が間違いであるとおっしゃいます
般若心経は部派仏教が間違いとする空即是色まで含めて真理だと主張しているのです
それが空であると
そもそも色不異空空不異色だと言っているんです
色即是空〜の片方だけあってて片方は間違いだなんて事はないということです
観察している自分と涅槃には主客はないということです
何だそれは?仏教なのか?と思われるかもしれないけれど
これは、部派的なな理解では読めないということを突きつけたお経なんです
だから菩薩(悟りに向かう人)が舎利子(阿羅漢・悟った人)に般若・智慧を語るわけです
「仏陀の教え」ではなく「仏陀が指し示したもの」を語っている経なのです
だから、博学なテーラワーダの長老であるスマさんからすれば間違いなんです
スマ長老はきちんと上座部から見ると般若心経は間違ってると断言してくれた
それは正直な誠実な発言なんです それは読んで知ってるけどだから色とは空であると言えても空とは色であるというのはさすがに言い方としておかしいって話でしょ
本質的な話ではないよ
言葉の使い方として空とは色だなんていう「言葉の使い方」がおかしいって話
凡夫も悟ってるとは言えても、悟りは凡夫であるという言い方はさすがにおかしいって話
個々人は涅槃であると言えても涅槃は個々人であると言ったらおかしい
本質的にはそれらもそうだと言えても悟ってないから凡夫で涅槃がわからないから個々人とみなされるわけで言葉の定義に沿った言い方としておかしいって話
般若心経とスマ長老は違う立場から話してるだけでどちらも正しいよ どちらが正しいという評価は言ってません
誠実に部派仏教の立場から見れば般若心経は間違いなんです
定義ではなくスマナサーラ長老の仰っているのはそういうことです > それは読んで知ってるけどだから色とは空であると言えても
> 空とは色であるというのはさすがに言い方としておかしいって話でしょ
それこそが本質的な話です 一晩措いてみたら、ワシも相当こじらせとるなw
どうでもいいことにこだわって。 スマンカッタ>>ALL
けれども、
「八正道は仏説(実際に口にしたかどうか・八支に整理されていたかどうかでなく、内容として)」
「心経も、(仏語ではないにしても)本義に沿っているので仏説」
「上座部という呼称は、歴史的に成立しているので、継続使用がよい、
分別説部と呼び換えるのは、各方面のややこしさから不要。
きちんと歴史が踏まえられていればいい」
「四諦は、流転と還滅の具体的側面とも言え、
また、縁起(これあるときかれあり、これなきときかれなし)は、
四諦(苦の因があり苦があり、苦の滅の法があり苦の滅がある)のベースに他ならない。
そういう意味でも、縁起と四諦は異ならない」
等の考えは変わらない。
ということで、結局平行線なのも変わらない。悪いね。
― ― ―
とりあえずリロードせずに。 コロナの自粛でやる事がなかったりストレスが溜まってるのは分かるんですけどね……
ジョンカバットジンさんのマインドフルネスストレス低減法には時間ストレスについて
『無為をなせば 即ち 収まらざるは無し』と言う老子の言葉が紹介されてます。
私も大乗は仏説ではないと思っています。と言うかあれは解釈の一つですよね?まあそれを言っちゃうと他の宗派も大抵は解釈の違いですけど。
会わせ鏡は無限に見えるけど二枚あれば十分できますからね。
皆さんがコロナに感染せず居られますように
皆さんが幸せでありますように
皆さんが健やかでありますように
私がjs美少女と友達になれますように
https://youtu.be/i042rAl7VsQ >>910
この例え話に説得力あるから納得しそうになったけど
普通にダイレクトに考えるとさ
色即(肉体とか私とかなんやらは)是空(実体を欠いている)
空即(実体を欠いているは)是色(肉体とか私とかなんやら)
おかしい?の??
定義やら言葉の読み方間違ってる?
そもそも定義が宗派事に違うとかそういう話? な?分別小乗脳って頭カッチカチだろ?
空に四諦も縁起もないよw 縁起は主客のところにのみ存る
即ち分別
ギリギリ概念で説明するなら四諦
それが最小限の分別ということだ
般若心経には四諦もないと書いてある
これが間違いだの正しいだの言うことが分別だと気づかんのか
おどれらは 奈良さんは、大乗の端っこも、ちゃ〜んと仏法、という仏教風呂敷論、
片山さんは、ダンマパダの解説に随聞記を対照引用するほど祖師方の言葉も仏陀の言葉として扱ってる、
そういう風にありたいとは思う。 (勿論、できてるとも言わんがw) 般若心経読んだことねーだろカチカチ分別小乗脳のそこのこじらせ馬鹿w
> 無苦・集・滅・道。 >>915
例えば苦も悩みも悟りとは言えても、悟りは苦や悩みは言葉の使い方としておかしいでしょ?
定義されている言葉の使い方としておかしいかどうかですよ
言葉の意図、本意としてどうかではなく >>920
おかしくありません
つまり、あなたのおっしゃってるのは般若心経否定ということです
以上 どっちが頭が固いんだか
世俗と勝義をその場に応じて使い分けられてないだけでしょ 般若心経では
ナーマ・ルーパ=涅槃
なんですけどね
これがわかんないってことは
仏教をアタマに思い描いているだけ >>922
> 世俗と勝義をその場に応じて使い分けられてないだけでしょ
分別が捗りますなあwww >>922
> それは読んで知ってるけどだから色とは空であると言えても
> 空とは色であるというのはさすがに言い方としておかしいって話でしょ
それこそが本質的な話です
あなたもスマ長老も般若心経否定、あるいは無理解の立場です
それが正しいとか間違っているとかいう評価はしていません 誰も空が色ということを否定なんてしてないのに
言い方でしょ
そういう言い方を認めるから悟ってもないのにそれも悟りだなんて言って精進しない凡夫が出て来る 中論24章 四つのすぐれた真理(四聖諦)の考察
「すべてのものが空であるならば、生起とか消滅とかも存在しないではないか。 生起とか消滅とかが無いのだとしたら四つの聖なる真理(四聖諦)だって成立しないことになる。
四聖諦さえ無いなら、完全に知るということも、煩悩を断ずるということも、道を修習するということも、ニルヴァーナをじかに体得するということもありはしない。
すなわち、知・断・修・証が無いのだから四つの聖なる果報(四聖果)も存在しないのだ。果報が無いということは果報としての四つの状態(四位)も無いということだし、そういう目標に向かって進むということ(四向)も無いということだ。
だとしたら八賢聖(四向四果の聖者)など存在せず、サンガさえ存在しない。四聖諦が存在しないということは正しい教えも存在しないということだ。
正しい教えという宝も、修行者の集まりという宝も無いなら、仏陀という宝ももちろん無いだろう。
このようにして、空を説くということは三宝を破壊することに他ならない。」
こうした意見にナーガールジュナは徹底的な反論を加えた。
「あなたは空というもののあり方もその何たるかもその意義もわかっちゃいない。だからあなたはそんなふうに訴えるのだ。
仏陀は2つの真理に立ってその教えを説かれたのである。世俗諦(世俗の真理)と勝義諦(究極の真理)だ。
この2つの真理を区別できない者は、仏陀の説かれた教えのその深遠なところを理解できるはずがない。
世俗の表現に頼らなければ究極の真理を説くことはできない。究極の真理に達しなければ涅槃を得ることができない。
間違ってとらえられた空は知恵の浅い者を害するだろう。ちょうどしっかり捕まえられていない蛇や中途半端な呪術のようなものだ。
それゆえ、その深遠な法が知恵の浅い者どもによって中途半端に間違ってとらえられるであろうことを心配されて、仏陀はそうした者たちにはこの深遠な法は説かれなかった。
また、あなたがどんなに空を論難したところで我々空論者に欠点の立ち現れるようなことはない!空においては欠けている点などありえない。
空であるものにはあらゆるものが成り立つのだ。空でないものにはあらゆるものが成り立たない。
すなわち、あなたは自分が持っているありとあらゆる欠点を我々のものだとして論難しているだけである。
あなたは自分もまた空という馬に乗っているにもかかわらず、その自分の乗っているその馬を忘れているに過ぎない。
(以下略 >>927
だから否定あるいは無理解じゃないですか >>929
あなたの立場に立つなら、あなたの言う否定や無理解も色であり空ですよ そうね、ある条件付けの中では四諦はある
けれど、条件付けが無常である以上、四諦もまた空である
つまり空には四諦はないが、あるとも言える >>930
私の立場?そんなものはありませんね
言葉の上の議論の整理をしているだけです
言葉の上で「空即是色は言い方としおかしい」というならば否定です 立場がないのに否定だという見解を持っていらっしゃる マインドフルネススレってずーっとアスペが踊り続けてるだけな そりゃそうでしょ、そここそが般若心経の本質的な主張なのだから
ちゃんとレス読んでもらってますか?最初に書きましたよね
空と色とは異ならない、何故そんな事を言う必要があるんですか?
それを分けている人たちに向けていっているんですよ 悟ったなどと勝手に思い込む奴は99%わかっちゃいない
そう思い込めるってことは苦しんでないということだから
放っておけばいい
悟ったなどと思いこんでも一つもいいことなんぞ無いのだし
そんなことは無我のなすことであって問題視することがおかしい >>920
ちょっと考えてたけど、ワケわかんなくなってきたw
確かに言葉の使い方として適当かどうかと問われればおかしいね
でもさ、
前では苦も悩みも悟り、という概念的?な解釈の使い方してるのに
後ろでは通常的な言い回しの解釈してるのは
おかしいところではない?
そういうのは考察の仕方として両方とも概念的?な解釈で揃えないとダメな事ない?
それを踏まえたら
苦も悩みも悟り
悟りは苦や悩み、は特におかしく無く見える事ない? >>937
あなたの言うこともわかりますし、そういう言い方もできると思いますよ
ただスマ長老のような言い方もできるという話です
こう言い換えたらどうでしょうか
苦や悩みとは分別ですよね
悟りとは分別がないことですよね
分別もそう見えてるだけで実際は分別はない
これはおかしくないですよね
でも分別がないということは分別である
これはちょっと言葉として引っかかるんじゃないかというような話です
色や空という言葉の指す内容とその関係をどう取るかの立場でそれが妥当とみなされるかどうかは変わるでしょう
実際は言葉はそれだけですでに分別なのですから、言葉で分別でない内容を言い表すことはできませんし、
厳密にその立場に立つなら不立文字か沈黙、あるいは逆に何をどう表現してもオッケーということになるでしょう 大智度論 巻第三十六(下)
http://tubamedou.egoism.jp/Daichidoron/Daichidoron31-40/Daichidoronn36b.htm?20191019-1308
https://i.imgur.com/C3Po3dc.jpg
これをスマナサーラ氏のように果物と林檎に置き換えてしまうと
『仏は重ねて!』、『因縁』を、こう説かれた、――
若し、『林檎が、果物と異なれば!』、『果物』の中に、『林檎が有るはずである!』が、
今、
『果物は林檎と異ならず、林檎は果物と異ならず!』、
『林檎は、即ち果物であり!』、
『果物は、即ち林檎である!』。
スマナサーラ氏は
>『林檎は、即ち果物であり!』、
>『果物は、即ち林檎である!』。
この部分だけを見ておかしいと言っていますが、
>若し、『林檎が、果物と異なれば!』、『果物』の中に、『林檎が有るはずである!』が、
この部分が見えてないようです。
空を果物に喩えるからおかしくなる。スマナサーラ氏もまた空見を抱いているのではないかなと思います。
>若し、『林檎が、空と異なれば!』、『空』の中に、『林檎が有るはずである!』が、
とするなら何もおかしくはないのでは、と思います。
もちろん無分別であり言葉には出来ない『空』の中には林檎(という実体)はありません。
四聖諦も十二支縁起も同じです。世俗諦です。
なのでブッダの教えを無にして破壊しているということはありません。
大智度論のこの巻は般若心経のもととなった大般若経の解説、注釈をしているので、般若心経に疑問がある方は読まれると良いかもしれません。
※その疑問が必ず解けるとは私の口からは当然言えませんがw 上座部「色と空とは異なる」
般若心経「異なりません」
という話なんだったら
「それは言い方の問題でさぁおかしいよ」
と言ったら、般若心経の主張を退けてるよね >>939
つまりスマナサーラさんも包摂半順序構造(だっけ?)の上位概念として空を捉えてるんだよね?
だったらそれは空ではないですね 心経の当該箇所は、
「五蘊(+十二処(→一切諸法))は空なる性質のもの(実体なきもの)である、
また、空なる性質のもの(実体なきもの)とは、実に五蘊(のこと)である」
つまり、『一切諸法は空なる性質をもつものである』という一つのことしか言っていない。
それを逆の角度から双方向に述べているだけ。ロジックとしておかしい所は一つもない。
(岩波青には、大本小本両方の還元梵文(中村編?)載ってるけど。)
問題となるのは寧ろ「無○○」の方では?w スマ長老の果物と林檎という例えは全体性(個別性の元、無分別)と個別性(分別表現)を言いたかったんだと思いますよ
林檎は果物全体を分けた部分ですが、林檎という分けられた部分が果物全体ではないですから 色と空において空における空性で見れば空が色でも色が空でも何でも一切は空性で同じですが、
色と空において色における分別性において見れば色(分別)が空(無分別)ということは言えても空(無分別)が色(分別)というのはおかしいというだけのことかと >>941
「空」を説くことの目的は、 このプラパンチャ(戯論)を静め、それによって煩悩、さらには煩悩を原因とする苦悩からの解放(=解脱)を目ざすことにある。
http://shingyou.cocolog-nifty.com/prapanca.pdf
また
「中論」第一八章 アートマンの考察
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
戯論は具体的には言葉による虚構性、概念化のことを言います。
空というのもまた言葉、概念であるので空を実体視する空見を避けるために「空亦復空(空もまた空なり)」とするのに、スマナサーラ氏とかは空を概念化しているんですよね。
そういう概念化から離れて戯論を静めるための空なので、果物のような「色(目に映る物質)または個々の名がついている林檎やバナナなどの果実を一括りにした概念」と一緒にしてはいけないと思うんですよね。 大概、この話の時って、「色」だけを取り出して、
『物』(個物、物質、空間的に場を占めるもの―村上さんはこの限定的な見方に異を唱えているようですけど―)が、
が、空である、或いは空なることと異ならないなんてのは、おかしい、と言うけれど、
そのあと受想行識もまた同じ、とあるのをどうして無視するのかなと、いつも思う。
「物」だけで考えるから、有る無しやら、実体的存在性やらに呪縛されるんじゃないかね。
一度、自身の「考え、想い、思考、感情」等等で考えてみたらいいと思うんだけどね。 ゴエンカさんの思想について学びたいのですが、良いウェブサイトなどないでしょうか? >>943>>944
分かりやすい、やっと何の話か理解出来た(大雑把だけど)
東大理1の人が単純な算数の問題をややこしくしてしまってる感じだろうか。。。
へー、でもそういう見方もあるんだねぇ
面白かったよ もちろん色即是空空即是色はそんな話ではないので
スマさんが理解してないと言うことが言えただけだね スマさんもスマさんの理解も空だから何も言うことないでしょ >>879
涅槃は言語概念を超えているので、
言語説明上の相違は、おそらく到達する境地の相違を意味していない。
大乗仏教の祖である大迦葉は阿羅漢だし、唯識の祖である無著も世親も阿羅漢。
釈尊のもとで悟って後、世界中に散っていった阿羅漢たちが大乗仏教を広めて
いった経緯を考えても、阿羅漢を卑下するのは間違い。 初期仏教の三宝印における一切行苦が、諸法が苦であることを示していることと、
大乗仏教の四宝印において涅槃寂静と言われることは、コインの表裏であって同じ。
一切は縁起に依っているため無常であり dukkha 。
一切に含まれないのは涅槃だけで、その涅槃は不生不滅にして寂静。
同じことの二つの側面。 ところで、空即是色の場合、三界の無色界はどういう扱いになるの? >>916
>空に四諦も縁起もないよw
空は縁起の言い換え表現。
龍樹もそう言ってる。 >>953
卑下と読めるあなたの読解力を疑う
小乗の考え方では我々在家のマインドフルネス実践者には
手が届かないところに苦の滅があるということです
出家者として阿羅漢となることへの評価など何もしていない
信仰の篤い衆生にとって阿羅漢が居るということは大変価値のあることでしょう アスペはスレ汚しまくって躾がなってない犬みたいな奴だな
このスレの大半はお前のウンコみたいな主張で埋め尽くされてるのだからちゃんと次スレ立てろよ
それが他の人に対するせめてもの礼儀だよ 卑下というか、涅槃に違いがあると思っています、ということですよね。
現法涅槃の大乗は
滅尽定や入滅時のはつ涅槃とは違うんだぞ、という主旨だと思いますが、
阿羅漢や如来が日常生活で現法涅槃に達していたとすれば、大乗の大悟
していた人と同じ境地にいたっていうことになります。
そして、如来がそうでなかったとは全く思えないし、阿羅漢は覚りにおいて
ブッダと同じとも言われています。 龍樹のような高度な論理哲学を駆使しなくても、空性の悟りは体感として分かる
と思いますし、出家するような人々や、出家修行の意義や価値を理解する在家
にとっては、言葉による論証よりも、行による証悟の方がずっと価値があるんですよ。 >>959
全然そんな話ではないですね
マインドフルネスの話をしていますよ?
マインドフルネスを広めたのは大乗の人達です
ティク・ナット・ハンの本なども不断煩悩得涅槃の立場から書かれている
彼のベトナム戦争時のエピソードなどからしても世俗に生きる菩薩としての説得力があります
カバットジンの『マインドフルネスストレス低減法』の原題は
『Full catastrophe living: using the wisdom of your body and mind to face stress, pain, and illness』
ですね
出家して阿羅漢に悟るという極稀な卓越した修行者でなければ得られない苦の滅
それを目指すことがマインドフルネスではないでしょう?違いますよね?
と言っているんですよアンカー先のレスでは 出家でも在家でも、対峙するのは自分の五蘊ですから、
世俗に身を置いているから偉いというわけでもなければ、劣っているわけでもないし、
出家しているから偉いというわけでもなければ、劣っているわけでもないと思いますよ。
方便でしょう。
人それぞれ理解できる方便が違うだけで。 優劣を見ようとしてるのはあなたでしょうね
再三言うようにこちらはそこに優劣は付けてませんから
目的が違うと言ってるのですよ
モノサシがあるとすればそれが違うということです 阿羅漢とか解脱とかそんなことはマインドフルネスには関係ないでしょうw
苦が滅すればいいのだから
不断煩悩得涅槃の大乗とは価値観が合う
テーラワーダは阿羅漢を目指すものです
生まれ変わりたくない、解脱したい人がやるものでしょう
マインドフルネスとは目的が違う
だからそこでは評価などしようもないんですよ
自分はなんべんでも日本人に生まれ変わりたいですねw
論点はそこじゃない
目的の違うものを「俺たちが本物だ」と言って押し付けに来るのがおかしいでしょ
と言っていますよ?
テーラワーダスレに「アナタは神を信じますか?信じなさい、地獄にオチますヨ!」
とか怒鳴り込まれたらどう思いますか?ということです
いつかテーラワーダスレを見に言ったら桃太郎さんという創価の方が暴れていましたね
だから僕は法華経では独覚乗、声聞乗、菩薩乗は等しく悟りに至るものだと書いてある
とレスしました
桃太郎さんは日蓮宗、創価の分別を振り回してテーラワーダを貶していましたが
まあ僕は全く興味ないので、スレ閉じましたが
ここでテーラワーダの価値観を押し付けるのは桃太郎さんと似たようなものだと思いますがね? >>952
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
一一 不完全に見られた空は智慧の鈍いものを害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇あるいは未完成の呪術のごとくである。
スマナサーラ氏のは世俗の表現、そして世俗諦において正しいのかどうかが問われています。
またその空は不完全に見られているのではないか否かというところも。
>>954
テーラワーダでは涅槃は無為法という法分類で一切の内。色、心、心所と並んで自性を有する法であり、勝義諦の一つです。
>>955
受想行識亦復如是
無色界は識無辺や非想非非想の言葉で分かるように亦復如是の受想行識側。
般若心経の元になっている大般若経では亦復如是で略さずに「受想行識不異空。空不異受想行識。受想行識即是空。空即是受想行識。」と説かれています。
>>960
龍樹は高度なアビダルマ哲学への反駁として中論を書いただけで、空自体はそんなにややこしいものではないのですよ。
但し本当に理解するためには知的理解ではなく実践して体感するものであることが中論25章で説かれていますけどね。 やっぱり・・w
>>961 >>964
『仏教とは別の〈「苦の滅」へ向かう道〉』 という種類のマインドフルネス、
ということで、
やっぱり新興宗教。
なぜ、仏教ママでいけないのか?
もともと、行法の一部を通出濾過したものだった筈なのに。
勿論、抽出なので、その背景としてしっかり、仏教的世界観、教義、価値観をベースとしている筈だけれど。
上のにレスを見る限り、
(まさに、大乗ムーブメントが拡がった時のように!)
現在地球上に存在する度の仏教と袂を分かって、悟りを目指そうとする
新たな宗教の誕生と言わざるを得ない。
勿論、日蓮系親鸞系含め、従前のものに満足できず、或いはそれらへの嫌悪・否定から
派生してくることがあっても、それはそれで流れというものかもしれんけど。
で、上の2レス他は、現行上座部への嫌悪から、
現行上座部とマインドフルネスを徹底切り離したいベクトルから出てきている、
と分析してみた。 誰だったか有名人僧侶が解説してたが
日本でいわれてるような一切皆苦は誤訳してるらしいぞ
常時、全てが苦というわけではなく
苦の存在を自覚しようみたいな教えらしいぞ
たとえば生まれたての赤ちゃんが、老いや金銭面や病気の苦しみをつねに感じてるのか 人間版の諸行無常というか、陰陽、始まりと終わり、生と死みたいなことで
苦以外の両方あるが、とくに苦に焦点を当てたやつ 諸行無常と諸法無我はほぼ一緒でどっちか削ってもいいかと
そこに一切皆苦もふくまれると考えると
2つ、諸行無常(諸法無我)・涅槃静寂で十分かと >>967
正確には「一切行苦」だということでしょ。
けれども、それでも意味としては変わらない。
sabbe saGkhArA dukkhA 一切の行は(すべて作られたものは)苦なるものである
というのが原文だから。
この世に、「saGkhAra」(行、有為、作られたもの)以外のものが存在しない以上、一切「皆」苦という意味になる。
(現行パーリでは、この一切以外のものが一つあって、それが涅槃であるとするけれど。)
※(苦(dukkha)の語義に関してはhttp://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1570680353/455-462
という疑義も、近現代仏教学の中では度度指摘されてきてることだけど。
つまり、〔世界は、「苦なるもの」ではなく、「自在にならないもの」である〕、と。) 世界各地どこでもそうだけど、特にインドは
三つにまとめる収まりの良さを好むからw >>969
日本だって三大何々とか、三本の指に入るだとか、相撲で言えば
横綱大関関脇を上位三役と言ったり、色々出てくる。
勿論、「八」や「七」、「五」「十」なども、キリのいい数字として好まれるけど。 >>966
ああそういう認識になるんだww全く考えたこともなかったww
教えに執着している人はその様に考えて居るんだと気づかせていただきました
仏教だってキリスト教だって、どの宗教だって衆生が求めるものは生老病死の苦からの脱却ですよ
そのために用いられる物語が違うだけ
テーラワーダのグナラタナさんの本も他教徒の人たちが祈りを深めるために参考になれば
と書かれていますよ
マインドフルネスということで出されている本は宗教的にはそのスタンスで書かれているのが
普通ですね
つまりマインドフルネスは宗教未満のものですよ
鈴木大拙の言葉を借りるなら「光あれと言う前の神の地平に立つ」のが禅でありマインドフルネスでしょう
テーラワーダだって十分にコッテコテの信仰ですよ
その自覚がないから桃太郎さんと同じだと言っているんです 一切皆苦は諸行無常の補足みたいなもので
盛者必衰に近いかと
盛者必衰
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。 やっぱり「仏教」という伝統の中には仏陀の悟りは伝わっていないということ
少なくともこのスレの仏教的な教理による話の大半にはそれを強く感じますね
そうして過去2000年以上、膨大な数の人たちが誤解を元に「教え」を振り回してきた
経典にははっきり書かれているのに読めてない連中ですよ
もちろん瞑想もできちゃいない連中ということです
禅だって仏教の「教え」からは離れようとしてきたけれど
仏陀の悟りそのものからは全く離れてません
マインドフルネスというのは禅に仏陀のメソッドが入ったものであり
禅の最新バージョンと言えますな
より宗教色は廃され、仏陀の悟りそのものへのダイレクトなアプローチです 無明 - Wikipedia
無明とは、仏教用語で、無知のこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。
無明は苦の根源であり、最初の因縁の輪に結びつき、繰り返す転生の始まりとなる。
十二因縁では、すべての苦は、無明を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。
我というものが存在するという我見が無明である。
無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。
すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。 >>975
マハシは無明だと言うんですか?
確かに刹那滅では仏陀の悟られた真理には到達しませんが…
そこまで言うこと無いじゃないですか、酷い><
冗談はさておき、マハシだって新興宗教でしょうよw 一切皆苦の内容としてはこういったほうが近いのかとおもうが
本人に自覚の無いストレスや体調不良により、
突然死、過労死する人に対して
死ぬ前にストレスに気づいて対処しろよという 釈尊の話直接聞いてみたら
もっとアホみたいにシンプルな話しだったりしそうだよね >>979
君は教義のないマインドフルネスは新興宗教だと揶揄するのに
教義を押し付けて人を殺すマハシは新興宗教だとは言わないんだよな
ダブスタと言うか、かなりの欺瞞だよね >>974が新興宗教だと言うなら
ティク・ナット・ハンもカバットジンも、それどころか禅も新興宗教だということだぜ?
>>979は自分が何言ってるかわかってる?それともわざと釣りやってんの? 仏教は、古代インドの新興仏教。
現代日本仏教の殆どは鎌倉時代の新興仏教。 達磨以降、特に馬祖六祖以降が、
いかに驚愕的な新興仏教だったか・・・w >>982
> 仏教は、古代インドの新興仏教。
意味がわかりません ああ、書き違い(というかコピペミス)
訂 >仏教は、古代インドの新興宗教。 禅は全くもって仏陀の真理そのものを反映したものですがね
「教え」にしがみついている人からすると「驚愕的な新興仏教」ということになるのは
わかりますよw
自分も一時期騙されかけましたから、このスレで そう言う人が多いのも知ってるw >>986
自分もそう思う部分あるし。
禅は、最も異端だけどその分直系足り得てる、と。 (ゝ_ )b >>987
> そう言う人が多いのも知ってるw >>986
その人達が正しい
思う部分があるという程度では仏陀の悟った真理を信じていないということなんだ >>990
パーリ経典を正しく読んでから言って下さいね >>987
マハシは異端だけれどその分直系たり得ていないからね 禅的な修証一等の態度でマインドフルネスをやるというなら
それは結構なことだ
しかしマインドフルネスを得るには魔境を乗り越える必要がある
これには機根が必要だが、乗り越えられないなら修証一等になっていない
修証一等というのは、思いを超えたところで坐るということだ
修証一等でなければ魔境を超えるのにそこに「教え」という信仰が必要になるのも尤もなことであって
テーラワーダスレに行って「やいお前らのは信仰じゃねえか」なんて言ったりしないw
テーラワーダはコッテコテの信仰だが
メソッドは仏陀のものだ(少なくとも外形上は)
何故外形上は、なんていうのか?
慈悲の瞑想とは「修証一等」ということそのものだからだが
テーラワーダからはそんな話は聞いたことがない
しつこく慈悲の瞑想を推すのも実はそこなんだw
修証一等ならば慈悲の瞑想を拒否するはずがないのだから
自分には藤田一照さんが慈悲の瞑想を自分の坐禅に取り入れられないと
していることは実に残念なことだと思う
駒沢大学で博士号を取ったスマナサーラ長老はトボけているのか
それとも本気で気づいていないのか…w > ID:zz/Vehw5
まずお前は>>980 >>981で言われたことをよく考えてからレスしてこいよな
(ゝ_ )b >>993のつづき
しかし、では「慈悲の瞑想やってる俺が慈悲の主体だから慈悲を施してやんよ」
なんていうことが出来るかと言ったら出来ない
慈悲は無為の働きだからだ >>997
わろたw
自分の理解では仏陀は生老病死の苦から逃れようと出家なされた
解脱というのはその過程の一つの説明の仕方でしかない >>998
そこで生病老死から逃れる道を悟って正覚を得てブッダとなり、「甘露(不死の門)は開かれた」と言われたわけですね。 埋めるか
寺和田くんは遠く遠くにいるとされる仏陀を探してうろつき歩いている
あれは東京タワーだ遠いなあ、でも見えたぞあの向こうが虎ノ門だ、よし確かめた!
いいぞいいぞ
あれがスカイツリーか遠いなあ、でも確かめた!
この調子だ!いいぞ!
俺は東京から解脱しなきゃいけない
こんな俗な都会から解脱する男なんだぜ!
きっと、きっと、絶対、あの向こうに仏陀がいるはずだ
だって地図にそう書いてあるんだからな!
お前らもついてこい!仏陀に会わせてやる!
という具合にw
寺和田くん…確かにそっちに牛久大仏あるけどさ…
その地図には「仏陀」って書いてあるかい?┐(´д`)┌
だから「教え」なんていう概念や物語が仏陀の説いたことだと思っているし
仏教理解がそんなもんだから禅が異端に見える
仏陀の悟られた真理が目の前のパーリ経典に書かれていてもその意味が取れない レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。