http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1578830093/953
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1578830093/955
そして、
>物理的な人助けに展開していかない慈悲の瞑想なんて
というのも、(勿論、大乗の利他・自未得度先度他・菩薩の理想形等までいくと、また偏りが出てくるけれど)
身口意の三業を立てる仏教ならば、
勿論、まずは心に、純粋に他を憐れみ愛しむ想いを生じさせる所から始めるのが定石でしょうけれど、
その後、日日の具体的行為(身体的行為)にまで及ばし得て、本当に身口意揃った円な慈悲だとするなら、
当然出てくる台詞でしょう。
(形から入って、後からその意味に気付いていく、というのもまたアリだと思いますけど。)

その意味で、
>仏陀の説いた慈悲の瞑想だけをする事には意味がないみたいな言い方
「だけ」というのは、聊か不足する所があると言われても一理くらいはあるでしょう?
実際、キ教系からは、仏教全体(―というか日本仏教が、かw―)奉仕が足りない!と批判されたりとかするくらいだし。

>世間ではボランティアは無償で人助けをしていますよ
無償でなければ慈悲でない、という考え方は好きではないですね。
(悔悟の世界も、看護も教職も、そういう暗黙の価値観が、どれだけ現場にストレスをかけるか)

だから、
>彼らのやっているワーク「慈悲の実践」は本当に慈悲なんでしょうか
その彼らの内心のところがどうなのかは、他心智通もない私らには到底わからないことですけれども、
それでも、具体的行為が、そこに事実として存在するなら、それは少なくとも身に於ける慈悲が現れているし、
内心に、ちゃんと思いを寄せて、当該人々に利となるように、という想いがあるなら、
十分、慈悲の行為であり実践と見做してもいいんじゃないですか?